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2009年6月

2009年6月30日 (火)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第32回 フューネラルビジネスフェア2009に行ってきた

 今年もフューネラルビジネスフェアの季節になった。といっても、一般の方々には何が何だかわからないに違いない。まず「フューネラル」という言葉がわからないに違いない。「ブライダル」は婚礼、「フューネラル」は典礼。そう、「フューネラルビジネスフェア」は、葬儀ビジネスの情報発信をする場だ。葬儀社との取引をこいねがって、祭壇屋・演出屋・衛生管理商品屋・遺影屋・骨壺屋などなどがPRする。今年は100を超える企業が一挙にパシフィコ横浜に集まった。

 6月25日の9:30、入り口に続々と向かっていくのは地味なスーツに身を包んだ男性たち。こんな時間に堂々と抜けてこれるのだから、きっと偉くて暇な人なんだろう。実務をやってるぺーぺーは26日、友引の日を選ぶだろうから。

 展示場に入って右側、一番最初に目に付く場所を陣取っていたのは意外にもアットアロマ。アロマ空間デザインに力を入れている会社だ。葬儀式場のデザインまでするということか。たしかに、安らいだ香りに包まれた式場はいいだろう。しかし線香の香りとの相性はどうなんだ? その辺を詳しくお聞きしたかったが、常にブースは満員でプレスの札を下げている私を相手にしている暇などなさげだった。きっとみんな同じギモンをぶつけているのであろう。

 その他、伝統的な祭壇や仏具、柩などの展示が続いたが、特に珍しかったのは棺に敷く畳。「故人を棺に納める際、薄い布団を敷くとはいえ板の上にお休みになっていただくのは少々気が引けますよね。これは本物のい草でできていますから、実際の畳の触感です」と、社員の方。
 たしかに気になってはいたのだ。故人を棺におろす際の、ゴツッとした感触。あれはなんとかならないだろうかと。なるほど畳を敷けば、少しは暖かみが出そうだ。でも、重くないんだろうか?

「細長い畳を二枚使っていただきますが、両方合わせて3キロほどです。炉に入れても残留物を出すことはなく、新潟の火葬場で実際に焼き、使用可の証明を頂きました」

 3キロというと重いと感じるかもしれないが、それに平均して60キロの人間が乗っかるのだ。持ち上げるときに極端に重さが変わるわけではない。

「棺の中に敷くだけではなく、和室式場の演出などでも使っていただいてます。畳の部屋でちょっとした段差を出したいときなどに便利です」

 畳の部屋での難点というと、私の方でも思い出したことがある。自宅葬の際だ。香炉の下の畳は、訪問客がうっかり線香を落としてしまうことがあるのでどうしても焦げ付く。初七日が終わると、座布団で始終隠していなければ格好が付かないほどになることもある。一段高い演出も出来て、本物の畳のカバーにもなるなら一石二鳥だ。これから重宝がられる商品になるだろうと思えた。

 他にも「おくりびと」から生まれた遺体専用化粧道具や(これが本当にオシャレで欲しくなってしまった)、静岡県警からも支持を受けたという遺体保全剤、トヨタ「レクサス」改造型の霊柩車など、葬儀業界は活発だ。出版はどうだ、と思うと暗い気持ちになってしまった。7月に行われる「東京国際ブックフェア」に期待したい。といっても、どうせ元気なのは携帯コミックとかデジタルパブリッシングなんだよな……(小松)

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2009年6月29日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・26歳・無職 前編

(前編)
 生まれは東京ですが、ぜんそく持ちだったので環境を整えるために4歳で岡山に移りました。閉鎖的な田舎町で、いったん栄えてまた廃れてしまったという雰囲気が色濃くある場所でした。そんなもんなんで、人も少ない。小・中・高校と、全て同じ町で通いました。

 中学校の頃は、情報飢餓状態に悩まされていましたね。実家が東京なので年に二回は上京するんですよ。そうすると、田舎町がすごく窮屈に感じてしまいます。狭い町なので、人間関係もある程度固まってしまっているんです。小学校とかで人間関係のカーストが出来るじゃないですか。その中で下の方に行っちゃうと、抜け出せなくなる。それもあって「早く出て行きたい」という気持ちをずっと持ったまま、高校に進学しました。

 地元の高校は治安が悪かったですね。すぐに暴力を振るったりするような環境があって、偏差値に幅があったというかーー全てが偏差値で決まるわけではないんですけどーー早い話が、民度っていうんですか、民度がたいへん低かった。学ランの裏に刺繍入れてたりとか、典型的な田舎ヤンキーの集まりでした。その頃がピークで、「もう無理、もう無理」と思いながらストレスで自分の髪の毛を夜中に切り出してしまったり。両親も嫌気がさして、絶対にいつか東京に帰ると言っていましたね。
 例えばその頃、音楽に興味を持ちだしたんですが、より詳しくなりたいと思っても、本屋さんが三軒くらいしかないし、一般的な本しか置いてない。ミュージックショップに行ってレコードを探そうとしても、レーザーディスクしか置いてない。もうやだこの町、と思って。

 田舎嫌いって僕はいっちゃうんですけど、田舎っぽい人達っていうのは都会の中にも住んでますよね。自分の狭い物差しで語って、価値観を押しつけようとする人です。こうじゃなきゃいけないと。そしてそれからはずれる人に対して、妙に陰湿な攻撃をしてくる。そういう閉鎖的な人を見ると、田舎っぽいなあと思ってしまいますよ。

 高校を卒業して、東京に出てきました。現役で国立大に受かったんですが、東京じゃなかったので不満に思って一浪しました。葛西の寮からお茶の水の予備校に通う生活が始まりました、やっと出てこれた東京を思いっきり満喫してしまって、机の上で勉強した記憶がないですね。とにかく音楽をたくさん聴いて、はじめて手にした自分専用のパソコンでネット三昧。その頃、ちょうど個人サイトブームが来てて、普通の人が書く日記や創作が面白いという感覚が始まったので、自分もちょっとずつ文章を書くようになってきて。そうやって音楽と文章漬けになって、結局一浪して合格したところに入学したんですが、両親はもうちょっといい学校に入ってくれるもんだと思っていたみたいです。子どもの正体は、実はキリギリスだったと。…いまは冬で死にかけてる状態なんですが……
(前編終わり)

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2009年6月28日 (日)

血税でつくられたトヨタ空港

 中部国際空港会社は三代つづけてトヨタ系列の社員が、社長に座っている。その中部国際空港が09年3月の赤字を受け、トヨタグループの空港貨物を8割まで高める計画を発表した。
 黒字化に邁進する社長のトップセールスが実った形のようにもみえるが、よく考えてみればおかしい。8割もの貨物を扱うなど、すでにトヨタの物流センターである。もともと需要があるかもあやしい新空港を国費と県費を使ってつくりあげ、それをトヨタが支配。中部国際空港をトヨタの海外出張と海外輸出の拠点とするなど、税金で「トヨタ空港」をつくったようなものだ。一企業のために血税が大量に投入されるなど許されない。
 富士山静岡空港も開通したが赤字が見込まれている。赤字転落するほど需要のない空港がどうして日本中につくられるのかといえば、巨大な土木工事の利権が絡んでいることはまちがいない。しかし、もう1つの大きな理由は戦争に使いやすいからだ。物資運搬や緊急着陸にも便利で、米国の圧力もかなり強かった。旅行客の需要はそんなに増えていないなのに、空港だけがめったにやたらに作られているのは、きな臭い。そんなきな臭さも自社の業績のために利用するところがトヨタ的だ。
 その一方で、トヨタの余裕はますます奪われてきている。ハイブリットカーの代表格であるプリウスについて、トヨタは新型発売にともない旧型となるプリウスを40万円以上も値下げし、189万円で販売することを決定した。ホンダのハイブリットカー「インサイト」と同価格にするためだ。
 またメディア向けの新型プリウス発表会では、ホンダの「インサイト」のエンジンシステムを揶揄する寸劇まで披露。さらにプリウスのカタログにも露骨な比較広告を入れたと『週刊ダイヤモンド』が報じている。
 トヨタにとってプリウスは利益回復の切り札といえる。だからこそ安値で挑戦してきたホンダにたいして、トヨタは並々ならぬ敵意を燃やしたのだろう。これまで同業他社にこそ牙をむかなかったが、もともとトヨタは自社の労働者や系列、下請けにはことのほか「好戦的な」企業である。気に入らなければ、完膚無きまでに追いつめるのはお家芸ともいえる。
 豊田家への大政奉還も済み、是が非でも売上げを確保したいトヨタは、今後もさまざまな牙をむきつづけるはずだ。それこそがトヨタの本質だが、この企業の犠牲者がこれ以上ふえないよう監視する必要はある。(鎌田慧 談)

全文は→「7.pdf」をダウンロード

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2009年6月27日 (土)

靖国神社/第18回 崇敬奉賛会とは何なのか(下)

 晴れて会員になったので、まず遊就館の1Fにある喫茶「結」で1割引のコーヒーをたしなむことにした。入り口に「国難に殉じた246万柱と残された者との心の結びの場」というなにやらものすごいキャッチコピーが書かれてある店である。店内は光が差し込んで明るく至ってシンプルなものなのだが、ディスプレイしてある原寸大の零戦の翼がすぐ傍までせり出して来ている。
 ブレンドコーヒーもメニューでは「海軍珈琲」である。アイスコーヒーはというと「冷し海軍珈琲」。
 カウンターで領収書を店員さんに見せると、「あぁ、奉賛会の」というリアクション。330円のコーヒーが297円になった。
 奉賛会の方はよく利用されるのですかときくと、「ええ、いるはずですが、会員証を提示されない方が多いという話ですね」ということらしい。
 店員さんも奉賛会に入っているのかと聞くと、少し緊張した面持ちになって「私は奉賛会には入っていないんです、すいません……」という返事が。けしからん!と怒っているわけでもないのに謝られてしまった。やはり奉賛会会員ということで「英霊の克己・献身の事蹟とその精神を知らしめる」タダシイ靖国人としてと見なされている気がした。

「結」の横にある売店でも1割引きの買い物ができる。靖国のガイドブックである『ようこそ靖国へ』の改訂版を買って割引してもらおうとしたが、「書籍とCDは割引きされないんです」と断られてしまった。なるほど、書籍とCDに関しては流通のルール通り価格を勝手に変えることはできないということだ。遊就館もタダで入ることができた。日本軍の進軍の様子を伝えるスクリーンの前にはこの日も人だかりが。老若男女、じっとスクリーンに見入っている。特に熱心に見入っていた一人の50歳くらいの男性に「奉賛会に入ると毎日タダで遊就館に入れるんですよ」と言ってみると、「ああ、そうですか」とそっけない返事。熱心に見てたのだから毎日タダでも見たい!ということではないらしい。

「靖国神社崇敬奉賛会」は平成10年に設立された。ただ、それ以前にも「崇敬奉賛会」という団体はあった。平成10年にリニューアルされたのは、靖国神社創建130年にあたり「同じ思いを懐く有志が相集い、この使命の遂行を国民的運動として展開することに」(ウェブサイト)ということが書かれてあるが真意はよく分からない。
 社務所で「奉賛会に入っているものですが、月刊『靖國』をください」と言うと最新号をもらうことができた。発行人は宮司の南部利昭氏である。B5で全10ページ、見た目は『記録』に似ていなくもない。表紙のページには「御祭神の儀」というイベントの様子が映されている写真が掲載されており、その右側に明治天皇が明治37年に詠んだ「年へなば 國のちからと なりぬべき 人をおほくも 失ひにけり」という句が載せられている。

『靖國』の内容をざっとチェックしてみた。なにやら朝日新聞の『天声人語』を彷彿とさせる、エッセイ風で綴られた「靖濤」をはじめ、宮中で行われた“宮中歌会始”の様子を伝える記事、靖国で行われるイベントのお知らせ、拓殖教授・遠藤浩一氏による『安全保障の要としての靖国神社』というコラムなど。また、高額の奉納金を納めた人への感謝の意とともに50万円以上を納めた人物が紹介されていた。ただ、企業からの奉納金が減っているように、高額奉納者も減っていることは何となく想像できる。8万人の会員の奉賛会が支える靖国だが、高齢の方の多くが亡くなるであろう10年後、20年後には靖国の存続は可能なのだろうか?     (宮崎太郎)

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2009年6月26日 (金)

ホームレス自らを語る 第30回 新宿が好きで離れられない/石浜智憲さん(46歳)

 オレが生まれたのは、長崎県の崎戸町というところしい。だけど、もの心がつく前に一家で引っ越してしまったから、その町の思い出はなにもない。
 引っ越した先は東京の小岩(江戸川区)。オヤジはタクシーの運転手をしていた。ごく普通の暮らしぶりで、平凡な家庭だったと思う。小岩に移ってから妹が生まれた。きょうだいはふたりだ。
 オレが小学6年生のときに、オフクロが胃腸炎で亡くなった。オフクロは下腹部の痛みが続いていたのを、ずっとガマンしていたらしいんだ。医者に見せたときは手遅れの状態で、そのまま死んじまった。

 5年後にオヤジが再婚して、新しい母親がきた。だけど、もうオレも妹も高校生で微妙な年頃だったから、オヤジの再婚には猛反対だった。オヤジは「男が独り身でいると、いつまでも出世できないんだ」とか言って、オレと妹を説得した。そのオヤジがオレだけに「男の独り身は寂しいもんだ」と洩らしたことがあった。多分それが本音だろう。この歳になって、オレにもあのときのオヤジの気持ちがわかるようになった。あんなに反対して、可哀想なことをしたかなって……。
 オレは高校を卒業して、都内の印刷工場に就職した。大手印刷会社の下請け工場で、週刊誌の印刷が仕事だった。1日3交替制の猛烈に忙しい職場だった。発売日の前々日とか、ひどいときには前日にスクープが飛び込んできて、急遽記事が差し替えになって、2日間ぶっ続けで働かされたりした。そんなことがしょっちゅうだったな。
 印刷工場に就職して、実家を出て工場の寮に入った。オヤジが再婚してからは、とにかく家を早く出たかったからね。ところが、寮で同室になった仲間とうまくいかなくて、毎日ケンカばかりして、面白くなくなってきて工場は辞めちまった。22歳のときだ。

 それで新宿に移った。それからはずっと新宿。25年間、新宿を離れたことがない。
 最初に働いたのが、歌舞伎町のディスコだった。ちょうど最初のディスコブームのころで、開店前から店の前に客が長蛇の列をつくって並んでいたからね。そんな状態だったから客の可愛いコに便宜を図ってやったりすると、すぐに友だちになれて、オレもけっこうモテたんだよ。

 そのうちにディスコのブームも下火になって、喫茶店に移った。24時間営業の店で、ウエーターをやったり、カウンターに入って働いた。じつは、この店のオーナーが暴力団でね。給料が約束通り払われなかったり、すごく遅配されたりいいかげんな店だった。
 それに暴力団の組員がやってきて、カネをせびるんだ。口では「貸してくれ」って言うんだけど、返してくれたためしがない。そんなのもたび重なると結構な金額になるだろう。それでその喫茶店は辞めた。
 その次はキャバレーのボーイの仕事に代わった。いわゆる“ヌキキャバ”といういかがわしい店。オレも若かったし、そんな店で働いているとムラムラしてきて我慢できなくなる。それで店のホステスといい仲になって、彼女の部屋に転がり込んで同棲を始めた。
 ああいう店では従業員同士の恋愛はご法度なんだ。はじめのうちはバレなかったけど、彼女が妊娠してバレてしまい、2人ともクビになった。オレは別のヌキキャバに代わって、彼女は仕事をやめて子どもを産んだ。
 そうしたらオレは新しく代わった店のホステスと、またいい仲になってしまった。それが同棲中の彼女にバレて、いろいろもめてケンカが絶えなくなった。それでオレはその女のアパートを出て、新しい彼女のアパートに転がり込んで同棲するようになった。前の彼女は、そのあとアメリカ人と子連れで結婚して、アメリカに渡ったという噂だ。
 新しい店では15年間働いた。ホステスとの同棲もバレないで、よく15年も続いたよ。やめることになったのは対人関係。15年も同じ職場で働いていると、人間関係にもいろいろあって、ウマの合わないヤツも出てくる。仕事もだんだんに面白くなくなってくるし、オレのほうからやめてやった。同棲していた彼女とも、それをきっかにして別れた。

 それからは日雇い。新宿には手配師がいっぱいいて、仕事はいくらでもあるからね。オレも飯場に入って土工で働くことになった。
 ところが、すぐに身体を壊してしまった。それまで軟派な仕事をしていたのが、いきなり肉体労働のきびしい仕事に代わって、身体がついていけなかったんだ。もう、40歳だったしね。それにああいう肉体労働をしている連中はよく酒を飲む。オレも調子づいて付き合って飲んで、それも身体を壊す原因だった。汚い話だけど、幾日も下血が続いてね。
 それでもう肉体労働では働けないから、仕方なくホームレスになるしかなかった。新宿駅東口を出たところに、映画の看板がずらっと並んでいるところがあるだろう。いまはあの看板の下に、夜だけ段ボールを組み立てて寝ている。

 あそこに寝るようになって1年以上になるけど、誰も文句を言ってこないよ。あそこは多分JRの土地なんだろうけど、何にも使われていない空き地だし、オレもきれいに使うようにしているからね。
 これからのこと?  これからのことは、あまり考えたことがないな。とにかく、22歳のときに歌舞伎町のディスコで働きはじめて、25年間新宿を離れたことがないからね。これからもずっと新宿で暮らしていくんだろうな。新宿以外で暮らすことは考えられないよ。新宿が好きなんだ。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月25日 (木)

ロシアの横暴/第19回 ロシアで吹き荒れる「さらし首」(下)

 かつて、強権時代のエリツィン・プーチン路線は前政権のやったことは何でも否定するロシア方式に、何が何でも共産主義からの決別を上乗せして、とりあえずぶち壊すことから始めた。
 その中の最たるものに民営化路線がある。国有財産を二束三文で払い下げ、そこからあがる収益を個人の懐に入れるという、おなじみのやり方だ。払い下げは多岐にわたっているので、特定はできないが、少なからぬ商人が暴利をむさぼったのは事実である。というより、少なからぬ商人に暴利をむさぼらせるために払い下げ民営化をおこなったのだった。しかし、「善良な」ソ連国民はそのことに気がつかなかった。今になってだまされたと騒いだりしているが、当時は国のすみずみまで、貧しい「社会主義ぐらし」から抜けられると思いこんでいたからだ。民営化路線は熱狂的な支持を得た。自分たちが貧しいのは社会主義だからだ、と。

 それから数年がたって、いっこうによくならない暮らしに何かおかしい、と人々が感じ始めたころ、一部の商人(民営化払い下げで巨万の富を築いたニューリッチのうちの何人か)に対して、「国家財産を食い物にした」と難癖をつけ、国外に追放してみたり、逮捕して監獄に入れたりし始めた。すると、何かおかしい、と思い始めていた人々もたちまち「社会主義がなくなっても自分たちの暮らしがよくならないのはあいつらのせいだったんだ」とまたニューリッチ追放劇を歓迎したのだった。

 そうしたロシア国民の「ものの見方・考え方」を如実に物語る事件がある。
 ――ロシアの混乱期に巨万の富を得たある金属会社が最近の経済危機で経営が傾き(おおむね、乱脈経営が真の原因と思われる)、給料不払い、あげくの果ては大量解雇に踏み切ったので、労働者のデモが起こった。そこに事態を打開するために乗り込んできたプーチン首相が公衆の面前で(メディアも引き連れていたから)社長を一喝、解雇撤回、事態打開をする約束書に署名をさせられた・・・・――
 まるでヘビに睨まれたカエルみたいな社長と、「首相が悪徳社長をやっつけてくれた」と涙を流す労働者の姿も報じている。この画面だけをみれば経済危機で仕事をなくした労働者を守るために首相が強権を発動したようにみえる。少なくとも「派遣切り」で苦しむ日本の労働者に「当座のねぐら」程度しか保証せず、「使い捨て」をもっぱらとする悪徳資本家はおとがめなしの状況に不満を募らせる日本国民からみれば、胸のすくような一太刀である。

 しかし、ロシアの現象はロシアの物差しで解釈しなければほんとうの姿は見えてこない。プーチンは大量首切りに苦しむ人々を救おうとはみじんも思っていない。なぜならばどうしたらクビを切らずに経営が立て直せるか、何も提案していない。乱脈経営であれ、経済危機であれ、独占基幹産業が傾いているとき、首相の一喝で立て直せることなどあり得ないのに。ロシアの労働者は悪徳社長が「ヘビに睨まれたカエル状態」になったからといって経営が再建できないことに気がつかないのだ。彼らもまた経済危機を「乗り越える」のに一役を買ったことになる。

 極東シベリア地域はソ連崩壊後、立地条件を活かして日本や韓国、中国との交易で富を蓄積してきた者が多い。その資本となったのは90年代の民営化政策で、「なにをやっても自由」の時代、うまく立ち回って積み上げたものだ。といっても先述のお歴々が巻き上げた国家資産とはやり方も桁もちがうが。大した利権も資金もないなかで努力して小さなビジネスを立ち上げ、働き、そこそこの収入を得るまでに至った者も多い。
 したがって極東の人々にとっては改革万歳だったはずが、ここにきて問題が噴き出した。国産車保護政策で輸入関税が大幅に引き上げられたのだ。日本からの中古車輸入で潤っていた極東地域は大打撃をうけた。保護政策反対のデモを組織すると「無能な」首長の責任となった、首切りが始まったわけである。

 少し話題が横道にそれるが、ロシアの地方首長は大統領に罷免権がある。少し前までは選挙で選ばれた首長を大統領が解任できる、という妙なシステムだったが、いくらなんでもこれは矛盾していることに気がついたようで、少し変更された。大統領は解任はできるが任命権はないとした。任命はしないが、候補者を送り住民に信任投票をさせる、という不可解な制度になった。

 信任以外に選択肢はない。それでも知事になれば前任者の否定から始まる。まず汚職腐敗撲滅と称して、解任された知事をはじめとする自治体、会社工場に検察官を送り込む。なんでもいいからナンクセをつけ、出頭逮捕をほのめかす。でもいままでに不当に蓄財した金額を払えば見逃してやろう、というなかなか「的を射た」やり方である。捜査の結果没収という道もあるが、それだと国庫収入となって検察官の懐には入らない。それより脅かして全財産相当分を現金で取り上げてしまえば「前任者成敗作業」は完了するし、「賄賂」がどっさり入る。風が吹けば桶屋が儲かるように、大統領が前任者を解任すれば地方の検察官が賄賂で荒稼ぎをするという図式が復活する。当然、検察官が巻き上げた賄賂は慣習に従って新しく着任した首長と山分けとなる。

 首切り後に末端役人がこうしてぼろもうけしているのを大統領は知ってか知らいでか、国民の声を聞くブログを開設した。でもそこでどんな情報集めをしているのだろうか。冒頭に述べた言論弾圧のプロローグのような気がしてならない。だれがチェチェン戦争を批判しているのか、どこで反体制グループが動いているのか、ブログに寄せられた「不用意な」発言を監視し、取るに足らない「不満分子」を摘発して大々的に罰するのは見せしめであり、権力誇示である。さらし首に震え上がった国民はこれから先どうするのか。黙って行方の定まらないロシア丸に乗り続けるだけである。(川上なつ)

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2009年6月23日 (火)

アフガン終わりなき戦場/第19回 先進国の匂いがする街で(上)

 夜の帳が通りに下りる。街灯がある。車が走っている。男たちがランニングをし、若者がipodを片手に片手でリズムを刻みながら歩いている。
 無機質な先進国の匂いがする。そう、あの少し漂白されて、直線が多い、チリが落ちていると掃除するのが当たり前な、そういう類の匂いだ。食用油と食べ残し、飲み残し、糞小便が道の真ん中に掘られた溝をテラテラ光ながら流れていく、そういう場所からはしてこない匂いだ。どうせみんな蓋をされて地下を流れているに決まっている。

 宿舎のホテル・カリフォルニアからバス停まで徒歩1分。バスに飛び乗った。
 隣に座ったヒスパニック系だろうか、バスのくすんだ蛍光灯で、油が顔で薄光りしている男が話しかけてきた。
「どこから来た? 日本人だろう」
 そうだと答えた。
「はは!やっぱりね。俺の奥さんも日本人だから分かるんだよ。ほら、写真を見なって」
 財布から出てきた写真には東洋系の美人と男が写っている。写真の下部には申し訳ない程度に子供が2人写っている。4人とも幸せそうに微笑んでいる。
「奥さん美人ですね」
 そう言うと、男は照れくさそうに笑った。銃口を地面につけたM16も男の大柄な体につられて、カタカタと床を突っついた。
 バスを降りると、左手にバーガーキングがあった。6ドル20セント。チーズバーガー・ミールを注文する。くしゃくしゃの1ドル札6枚と、紙のイーグル・コインで支払った。褐色の肌の店員が変わったアクセントの英語で言った。
「レタスとトマトを切らしてイルんだけど、構いまセンカ?」
 構わないと言った。
 ペプシがセットについてきた。ダイエット・ペプシはないのかと聞いた。
キンキンに冷えたダイエット・ペプシが業務用の冷蔵庫から出てきて、カウンターの上にぶっきらぼうに置かれた。
 バーガーはアメリカン・サイズ。日本のバーガーキングより3割くらい大きく見えた。
 ベンチに腰掛けてバーガーをかじった。ハンバーガーは「ここ」に来る前も随分食べた。ただ、「ここ」に来る前の場所ではチップスが入っていたり、ケチャップが一たらししか入っていなかったりした。レタスとトマトが入っていないけど、まあうまい。

 土産物屋を覗くと、黒人の男が象の置物を買っていた。オリエンタルな作りだが、「ここ」で作られたものではないのは明らかだった。インドかタイの空港にありそうな、安っぽいつくりのやつだ。
 わたしは何人もの人とすれ違いながら、妙な感覚に囚われていた。昨日までしていた匂いが無くなってしまったのだ。
 バーガー・キングからホテル・カリフォルニアまでは歩いて戻った。ホテル・カリフォルニアは客室が3つ。今は相部屋を使っている。バンガローみたいな建物だ。
 けれど、アメリカ人って言うのは妙なユーモアのセンスがある。ただの軍用の宿舎にこういう名前をつけるんだもの。
 ホテル・カリフォルニアも「ここ」の匂いじゃない。クーラーから出てくる、機械的な冷気の匂いが立ち込めている。

 もしかしたら、「ここ」からアメリカに来てしまったのかもしれない。
 頭では自分がどこにいるか知っているが、身体がまるでついてきてない。もしかしたら、脳みそだけがここにあって、体はまだ「ここ」に置きっぱなしなのかもしれない。
 僕はアフガニスタン最大の軍事基地、バグラム空軍基地にいた。(白川徹)

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2009年6月22日 (月)

書店の風格/第35回 書泉グランデ

 たくさんのファンが付いている書泉グループ。
 豊富な品揃えはもちろんだが、ファンが付くのはそれだけが理由ではない。デザインが2~3ヶ月に一度は更新されるビニールバッグや、動物柄、花柄などバラエティ豊かな栞も本読みの心をしっかり捉えて離さないのだ。

 そんな書泉グループの一店舗、書泉グランデは神保町にある細長い印象のビル。古書店や専門書店などが立ち並ぶ中でも異彩を放っているのは、大型の新刊書店にもかかわらず得意ジャンルがガッツリ確立されているからに他ならない。恵まれた立地と規模を惜しみなくさらけ出すのは、「鉄道」と「ミリタリー」に対してである。そんな心意気に、男性ファンは大いに応えるのだ。

 最上階の6階に降り立つと、昔ながらの書店の雰囲気に心和むと同時に不思議な感覚に襲われる。乗り物とミリタリーでワンフロアが構成されている光景なんてなかなか見ることができない。弊社から出ている斎藤典雄氏の『車掌の本音』シリーズも常時置いて下さり、日本で一番売っていただいている。ここは鉄道ファンにとって、情報の聖地なのだ。ネット社会になった今でも変わらない、アラカルトな魅力がある。

 さらにコミックやエンタメ系もかなり洗練された品揃えがされている。地下1階の売場は独特で、階段を下りれば脇のスペースはサインの山、エレベーターを降りるとタレント本や写真集、メディア論などのコーナーになる。現在は「Bejean + Beppin School バックナンバーフェア」を開催していて、なかなかない試みなので日頃興味のないジャンルだとしても観ていて本当に楽しい。この書店のフェアには常に注目しておいて損はない。
 奥の小部屋めいたところに進んでいくとコミックの棚が四方を占め、薄暗い迷宮に迷い込んだような錯覚に陥る。ジャンルを問わず様々なコミックが目に飛び込んできて、しかし安らいでじっくり選ぶ心境になれるのは落ち着いた照明のおかげだろう。どうしても「溢れる」印象のあるコミック棚は様々な色がチラチラと目に入ってくるが、それが抑えられている。

 大規模書店にして、専門店。そんな贅沢をかなえ、さらにお客様の支持を得ている書泉グランデ。今日も売り手と買い手の静かなコミュニティゾーンとして機能している。(奥山)

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2009年6月21日 (日)

日曜ミニコミ誌!/小金井は宇都宮線だもん 9回目

 『小金井駅は宇都宮線だもん』。呟くような主張だが、これがミニコミ誌の名前だ。東小金井、武蔵小金井など「小金井市」のイメージが強い小金井だが、ズバリ「小金井駅」があるのは宇都宮線。たしかにそう。

 B級グルメやサッカーについてなど日常的な記事が多いのに、そこはかとなくハードボイルドな香りが漂う本誌。どんな思いをこめて作っているのだろう。編集人の河田ソム夫さんにお話を伺った。

ーーこの雑誌を作ろうと思ったのは、何がきっかけなんですか?

河田さん(以下K):ミニコミ自体は6年前からやってて、転職をきっかけに辞めてしまったんです。でもまた余裕が出てきたら、書きたい欲求が高まってきて。普通に仕事をしてるのつまらない、お給料も低い。何かライフワーク的なこともしたかった、と。
あとは普段、労働組合で活動をやっていて、機関誌の編集として硬い文章ばかり書かされているので、その鬱屈をミニコミにぶつけているという面もあるかと。エアポケットが欲しかったんですね。

ーーテーマが毎号変わりますよね?

K:テーマを入れるようになったのは7回目(7号)からです。発行元を「サムりゃい製作所」としていますが、「俺達は現代のサムリャイ(=侍)なんだ」という主張から始まってるんです。現代版侍というのは、ようは収入も人に誇れる何かもなく屈折しているマイノリティのこと。正式にいえば浪人とかでしょうけど……いや、浪人ですらないですね、腐っても武士なんだから。するとただの町人ですね、仕事もしないで昼間っから飲んだくれてるような。
 そのコンセプトを作ったのが7号で。刀持ってない、給料安いくせに酒ばっかり飲む、もてない、もててもネガティブだからすぐふられてしまう、成長期をとっくに過ぎてるのに大飯喰らい。しかも酒も飲むから燃費悪い。それが「サムりゃい」。

それから8号の「旅」を経て、新しく出た9回目(9号)のテーマは「子ども時代」です。僕の他に3人の方が自分の子ども時代について語ってくれました。一人だとどんどん視界が狭くなってくるから、他の人に書いてもらうのは楽しいですね。この雑誌は趣味もあってサッカーに関しての記事が多いですが、今回は「フットボールファン柴犬戦線」という連載に「格差社会の直中で」というテーマを入れてみました。スポーツ選手の年俸が何十億、という事実をどう思いますか。市民生活から全くかけ離れてるでしょう。スポンサーをみれば大手の会社が出資してるわけで、でも不況だといってその会社がバンバン雇用をきったりしている。リストラされた人がテレビ見て応援しているスポーツ選手をバカ高い年棒で支えてるのが、その人がもといた会社だったりするわけです。これだけセーフティネットの整備されてない日本で、我々がどう位置づけられているかが、特にこういった状況を見てるとはっきり思い知らされるわけですよね。
 あとは、「水曜どうでしょうごっこIN坂戸の街」という記事があるんですが、これは徹夜で飲み明かしたあとに埼玉県の坂戸駅に行って立ち食いそばを食べよう、という企画です。埼玉って地方のグローバルに流されてしまっている土地で、個人の店舗がチェーン店にどんどん押されてます。そんな激戦区に小さい立ち食いそば屋がある。個人経営の店舗を見てみたい、あとは何もなくて寂れた街だけどね、というのを書きたかったんです。

ーー60ページのボリュームで300円というのがかなりの衝撃なのですが。

K:原価割れしています。おおざっぱに考えると原価は400円位なので、定価を500円にすれば元は取れるんですが、敢えて300円にするところに自信のなさが現れています。趣味でやっているので、売上重視ではありませんしね。読んでくれてる昔からの知り合いも、お金のない人が多くってあんまり高くはできないという事情もあります。先号が200円だったんですが、それすらも出せないと。いたたまれなくて、結局差しあげちゃうことも多いです。

 ハードボイルドの匂いがしたのは、身近なところに社会的な問題を見つけて切り込んでいく河田さんの、ブレない姿勢があったからだと確信。こうなると、次回も楽しみだ。次回のテーマは「酒」とのこと。今秋に発行予定。

(■「小金井は宇都宮線だもん 9回目」60P 300円/A5判/模索舎・タコシェ・浦野商店・イレギュラー リズム アサイラムにて発売中)

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2009年6月20日 (土)

ロシアの横暴/第18回 ロシアで吹き荒れる「さらし首」(上)

 近ごろ都ではやるもの、三条河原にさらしくび・・ある浄瑠璃の有名なくだりだが、今回の場所は三条河原ではなく、最近のロシアである。
 ロシアのある町のある人が、といってもごく普通の市民が手作りミニコミ紙をつくった。そこにチェチェン関連サイトから抜き出した記事を転載した。影響力など何もないミクロミニコミ紙である。しかしこのことが摘発され、その人は6年間のブタ箱入りとなった。インターネットサイトから記事を抜き出して転載しては「著作権」にふれることは確かだが、著作権などあってないようなロシアでなぜ急に?と思って続きを読んだら「テロリスト支援をした」からだという。

 またある報道によればメドベージェフ大統領は広く国民の声を聞くとかでブログを開設したそうだ。最近の大統領は地方自治体首長のクビ切り、すげ替えに忙しそうだが、一方ではソフトな雰囲気を漂わせている。大統領のこうした動きを「プーチン首相との権力争いの一環」とみるむきもある。おそらくそれは当たっている。しかし、それだけに目を奪われていると(ロシアに限らず日本にも言える。権力争いは国民の暮らしとは別のところにある)別の危険を見落とすことになる。

 地方自治体首長首切りの発端になったのは、言わずと知れた世界的規模の経済危機で、傾いた地方自治体や企業のうち、大統領に「無能」と判定された首長や社長を対象にしている。今回は国産自動車保護政策で大打撃を受けた極東地域に首切りの嵐が吹き荒れている。
 昨年からの世界規模経済危機でどこの国も大混乱に陥っていることは周知のとおりだが、ロシアの経済危機は今に始まったことではない。ずっと続く経済危機をロシアは強権体質で「乗り越えて」きただけのことである。
 ソ連崩壊後の経済危機のときには「自由市場」や「共産主義撲滅」というニンジンをぶらさげ、すり寄る西側諸国に対外債務を棒引きさせることで切り抜けた。停滞の時代(ソ連末期)に崩壊してしまった各産業、特に農業についてはいつまでたっても改善されず、かなりの部分を輸入に頼ることになってしまったのだが、その食料輸入代金を払えず(払わず)「戦闘用ヘリコプター」で支払いに代えたのはつい2、3年前のこと、プーチンのロシアが栄華を誇っているころだった。
 経済危機を乗り切るのにはこのほかにソ連式ハッタリ法がある。つい最近サンクトペテルブルクに新しい自動車工場がオープンした。派手なパフォーマンスを繰り広げ「ロシアにはいかなる経済危機も通用しない」と強調する、ソ連を知る人にはおなじみの手法である。強権だけではもはや乗り越えられないほどの経済危機に陥っているのだ。(川上なつ)

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2009年6月19日 (金)

人間国宝・沈壽官の手紙公開!――『白磁の人』映画化決定記念――

 さる3月14日、山梨県の甲府にいた。
 小説『白磁の人』(江宮隆之著)の映画制作発表の為である。あれは何年前の事だったろう。長野県松本市で韓国料理店「やんちゃ坊」を営む李春浩さんの訪問を受けた。彼は初対面の僕に熱く真剣に「白磁の人」の主人公である浅川巧について語り始めた。

 浅川巧、明治24年(1891)山梨県北巨摩郡(現・北杜市高根町)に兄・伯教(のりたか)の弟として生を受けた。浅川巧は山梨県立農林学校を卒業後、キリスト教の洗礼を受け、大正3年(1914)兄を慕って、当時、日本の植民地であった朝鮮に渡ったのである。兄・伯教はその前年に朝鮮に渡り、教員として働きながら、その後精力的に朝鮮の古窯跡を調査し、後に「朝鮮白磁の神様」といわれる存在になる。父の顔を知らない弟・巧は兄の影響を強く受けて育ち、朝鮮の芸術に深く傾倒していくのである。

 巧は朝鮮総督府山林課に勤務した。当時の朝鮮の山々は、日本が持ち込んだ地籍法により、多くの土地が持ち主不在と認定され、没収の後日本政府に好意的な朝鮮人や日本からの移民に次々と下げ渡されてしまっていた。新しく地主となった人々は土地に執着がなく、すぐさま木を伐採し、売り払ってしまう。
 朝鮮半島は固い岩盤の地であり、そこに薄い表土が覆っているだけである。禿山となった朝鮮の山々はたちまち保水力を失い洪水を起こしてしまうのであった。これに心を痛めた巧は「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を考案し、朝鮮の山々の4割を復元したと言われている。その方法とは、山野に落ちている木の実を、林業試験場の畑に埋め、1年程経ってから、再度、元の山に埋め戻す方法である。これによって山の種が発芽することを突き止めたのである。
 この方法により、徐々に朝鮮の山々に緑を取り戻した。また彼は、兄の影響で始めた朝鮮芸術の世界においても、昭和4年には、「朝鮮の膳」昭和6年には「朝鮮陶磁器名考」を出版している。現在でも高く評価されている名著である。

 当時、日本は武断政治を敷いていたが、巧は日常、朝鮮人の民族衣装であるパジチョゴリを身につけ、流暢な朝鮮語を話した。そして朝鮮の言葉で彼等と交わり、貧しき者には金を与え、常に彼等と共にあった。彼は柳宗悦に宛てた手紙の中で「私ははじめ朝鮮に来た頃朝鮮に住むことに気が引けて、朝鮮人にすまない気がして何度か国に帰ることを計画しました」と述べている。感受性豊な巧は被支配民としての苦渋を味わっている朝鮮民衆に対し、前に出る事が耐えられなかったのであろう。
 巧は急性肺炎により昭和6年4月2日、若干40歳でその短すぎる生涯を閉じた。彼の死は近隣の地区に知られる事となり、応じ切れない程の数の朝鮮の人々が集った。「哀号」と泣き崩れる数多くの朝鮮の人々の中から村長によって選ばれた10名が棺を担いだ。植民地下の朝鮮に於いて、日本を憎悪する者はいても、公然と日本人の亡骸を担ぐ事など考えられない事である。

 今も巧の墓はソウルの東、忘憂里の丘にある。戦後、日本人の墓は取り除かれたが、巧の墓だけは例外的に残されたという。
 私もこの墓を訪れた事がある。そこにはハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人ここ韓国の土となる」を刻まれてあった。そして、現在でも韓国林業関係者並びに陶芸に携わる者達によって墓は守られている。

 日本があの国を支配した36年、この事実が現在の日韓関係に深い溝を作ってしまった事は間違いない。そして、その36年の間には、実に様々な事が星の数のようにあっただろう。勿論、筆舌に尽くせない程の屈辱や哀しさもあったに違いない。否、ほとんどがそうであっただろう。しかし、同時に浅川巧やその他の僅かな人々の様に暗闇の中であっても清流の様な日本人もいた事は両国の記憶に留めて置くべきだ。
 この度、この浅川巧を主人公とする映画が出来る。監督は神山征二氏、シネカノンの製作になる。難しいテーマであろう。我々はあまりにも近く、そしてあまりにも多くの事がありすぎた。しかしながら、浅川の死を受けて、当時の京城(ソウル)帝大教授、後の文武大臣の阿部能成氏はこう残している。
「官位にも学歴にも権勢にも、富貴にもよる事なくその人間の力だけで堂々と生き抜いた」と。
 以前、司馬遼太郎先生から頂いた手紙の中にも、同様の件があった。司馬先生は「自らを一個の人類に仕立て上げよ」と述べられておられた。浅川巧に学ぶ点はまさに、その事である。
 今日の日本人に最も必要な事を伝えてくれる映画になってくれる事を私も、そして李春浩さんも祈っている。(十五代 沈 壽官)

※『白磁の人』の映画製作の詳細はコチラ

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2009年6月18日 (木)

三沢光晴とガチンコ勝負

 6月13日、プロレスラー三沢光晴が試合中でバックドロップを受け、そのまま意識不明となり死亡した。頸椎(けいつい)損傷だったという。
 そんな危ない技を歳を取った三沢にかけるなといった対戦相手への批判がネット上で起きたことに、正直驚いた。プロレスがショーであることが、そこまで当たり前だと思っていなかったからだ。

 プロレスがガチンコ勝負だと思われていた時代は短くない。ただのショーだと思っていたのなら、力道山に日本中が熱狂することもなかっただろう。また、40歳である自分も少なくとも中学生ぐらいまでガチンコ勝負を信じていた。
 もちろん今から考えれば不自然なことは山ほどある。真剣勝負で何十分もの試合を毎日していたら身体が保つわけないし、総合格闘技を見慣れた現在では関節技を何分も耐えることなどできないと知っている。でも、当時はそんな疑問など脳裏をかすめることもなかった。

 一体いつからプロレスがショーだと認識するようになったのだろう?

 新日本プロレスのレスラーだったミスター高橋が、『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』を書いたのが2001年。流血試合のためにカミソリを使うなど具体的な記述は、反論の余地すらないものだった。ただ、ショーだという認識はもっと前から広まっていた気がする。
 その大きな転機となったのは87年、前田日明による長州力への顔面キックだろう。この一発で前田には無期限出場停止処分が下り、翌年3月には解雇処分となる。なぜ解雇しなければならなかったのか。その疑問は「本気で蹴ったから」という答えを導かざるを得ない。
 結局、その年の5月に前田はUWFを旗揚げ。まったくのガチンコ勝負ではないもののショー的ではない技の応酬という意味で、総合格闘技の礎を築いていく。

 一方、三沢は84年から二代目タイガーマスクとして人気を獲得していく。空中戦を中心とする技の数々は、きわめてプロレス的といえる。しかし当人がプロレス的で志向であったかどうかは微妙だ。彼の熱狂的なファンだったわけではないが、彼の試合はギリギリまで踏み込んでいたと感じるからだ。
 例えば91年の田上線で初披露した「タイガードライバー'91」 は、腕をロックしたまま落とすため受身が取れない、かなりヒヤリとさせられる技だ。危険だからと彼が一時期封印したのもうなずける。また彼は試合でベイダーの腕を試合で折っている。
 とても「お約束事」の範囲とは思えない。

 プロレスの範囲を保ちつつ、ギリギリまで真剣勝負を追求する。その姿勢がファンを魅了したのも事実だが、ときに早めに試合を止める総合格闘技以上に彼は危険な領域に入り込んでいったように想えてならない。それを可能にしたのは「天才」といわれた一流の受け身だった。

 初代タイガーマスクの佐山聡は人気絶頂のさなかに新日本プロレスを辞め、結局、総合格闘技へと路線を変えた。際だった格闘センスが「ショー」の権化ともいえるタイガーマスクを許せなかったかもしれない。一方、二代目タイガーマスクだった三沢光晴は、同様の格闘センスをプロレスで生かす選択をした。ブクブクに太った佐山と46歳にしてリングに上がり続けた三沢。どちらが格闘家らしいかと考えると不思議な気持ちになる。

 最期に仕掛けられた技が、試合で比較的よく使われる「バックドロップ」だったことも、格闘技と「ショー」の境目がギリギリだと教えてくれた。ほんの少し間違いがあれば死に直結する。そんな世界で46歳まで第一線で闘い続けた三沢選手の冥福をお祈りしたい。(大畑)

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2009年6月16日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/何もかもガッカリRainy Day

 ○月×日
 雨の日が続くとガッカリする。
 朝から薄暗いと気分まで滅入る。何をするにもやる気が半減してしまう。コーヒーを啜りながらぼんやりしていることが多い。思い浮かぶことも何故か前向きではない。

 ふと、子どもの頃のことを思い出した。近所の神社に紙芝居が来ていた。確か5円か10円だったと思う。私は毎日見に行った。女優の菅井きんさんを男にしたような顔のおじさんだった。雨の日もカッパ姿で来てくれた。いつもは10人近い子どもがいたが、その日は台風のような大荒れだった。外には人っ子一人いない。今日は来ないかもしれないと思いながらも私は出掛けた。案の定、私一人だった。少し待つとおじさんはやっぱり来てくれた。そしてちゃんと見せてくれた。ところが、私はだんだんと怖くなり話の途中で全速力で走って逃げた。死に物狂いで家に辿り着いたのだ。紙芝居の内容が怖かったのではない。そのおじさんにどこか知らない遠い所へ連れていかれるのではないかという思いがしたのだった。
 また、その神社では近所の子ども達とよくかくれんぼをして遊んだ。私は家に帰れば絶対に見つからないと思ったのかどうかは忘れたが、とにかく家に帰っていた。こたつに入ってお菓子などをポリポリ食べているうちに眠ってしまったらしい。気が付くと日が暮れ外は真っ暗になっていた。う~む、子どもの頃からヘンなヤツだったんだなぁ、やっぱり。などと納得して、喜んではいられないのだけど……。

 さて、先日の乗務中に、床に寝ている人がいるから何とかしてくれとお客様から申告があった。しかも、なんと上半身裸だというのである。行って見ると、靴も靴下までも脱いであった。20代男性で酔っていたようだったが、家の中と勘違いでもしているのだろうか。やれやれと思いながら「おい、こらっ、起きろ。服を着ろ。『草なぎ』ってんじゃないよ、逮捕されるぞ」などというはずはないが、重いの何のって、やっとの思いで起こして座席に座らせたが、また寝ていた。直ちに指令に無線連絡し、途中駅で駅員を手配してもらって下車させた。いろいろなことがあるが、まったく、やっていられないよな。

 このところ人身事故がまた続いている。思うに、「発車です」「新宿です」「右側です」「乗り換えです」「終点です」の、この「です」が多いのがイケナイのではないのかと、ふと思った。です=デス。つまり、「Death」。死の宣告である。今度から「です」をつけないアナウンスをしようかと思った。

 くだらない話でガッカリだね。すまなかった。

 いやはや雨の日はしょうがない。梅雨入りもしたことだし、ジトジトジメジメ憂鬱な雨は当分続きそうである。(斎藤典雄)

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2009年6月15日 (月)

●ホームレス自らを語る 第29回 景子さんの性犯罪(後編)/景子さん(通称・44歳・男性である)

0906 (景子さんの話は前後の脈絡がなく縦横無尽に飛んだりして、要領を得ないところが多かった。以下の話は聞き手が多少の類推を加えて再構成したものである)
 オレの趣味は女装をして街を歩くことなんだ。それで人の視線を浴びると、何ともいえずスカッとする。だからって、ゲイじゃないんだよ。名前は通称の景子で通っている。ほかにもいくつかの女名前があって、それを使い分けているんだ。
 中学校を卒業してすぐに、ちょっとした悪さをしてね。下着ドロ。近所の家の庭に干してあった女性の下着を盗もうとして捕まり、警察に突き出されたことがある。
 女装をするようになったのは、そのあとからだね。ある土曜日の深夜に、女装をして街を歩き回ってから公園(東京・町田市)のベンチで休んでいたんだ。そうしたら、そんな時間に公園に入ってくる女の人があってね。オレはその人に襲いかかってレイプしていた。その女性に警察に突き出されて、現行犯逮捕になった。
 それで小菅(葛飾区)の東京拘置所に勾留された。ところが、勾留されて数日して、係官がやって来て「不起訴処分になったから出ていい」と行って拘置所を出された。いきなりの釈放だよ。キツネにつままれたようだった。ラッキーっていうかね。
(なぜそういうことになったのか、景子さんに尋ねてもはっきりしない。想像だが、強姦罪は親告罪のため、被害者が告訴を取り下げると容疑者は不起訴処分になる。それが適用されたのではないか)
 それで一旦生まれ故郷の会津(福島県)に帰ったんだが、田舎だから仕事口もないしね。田舎では昼間からブラブラしていると目立つだろう、千葉の町工場で少し働いてから、茨城の土木会社に就職した。そこは住宅の基礎工事を専門にする会社だった。かつて、大洋村が別荘ブームで沸いたことがあったのは、あんたも知っているだろう。その別荘の基礎工事の仕事が多かった。基礎地面を掘削して、砕石を入れ、それを転圧する。そんな仕事を10年くらいやっていたのかな。

 その会社でも寮に入っていたんだが、ある晩、喉が渇いて飲み物を買いに近くのコンビニまで行ったんだ。田舎のコンビニの夜遅い時間だったから、店内にはカウンター内にバイトの店員が一人と、売り場のほうに若い女の客が一人いるだけだった。
 その彼女はとくに買いたい物があるわけではないようで、時間つぶしに商品棚のあいだをブラブラと歩き回っているだけのようだった。で、すごく短いミニスカートを穿いていてね。そこから伸びている2本の生脚の艶かしさといったらなかったな。
 オレが商品ケースから冷たい飲み物を取り出していると、彼女がすぐ横をゆっくり通りすぎていったんだ。咄嗟に、オレはその子の背後に回ると、ミニスカートを捲り上げて、臀から太腿のあたりを撫でまわしていた。あまりにも咄嗟のことで、オレ自身が自分で自分のしていることがわからないくらいだった。
 びっくりした女の子が大声をあげ、店員がすっ飛んできて、オレはたちまち取り押さえられていた。店に警官が呼ばれて、その場で簡単な事情聴取が行われたんだが、「今夜は遅いから、明朝9時までに警察署のほうに出頭するように」と言って、警官は帰っちまった。またまたラッキーってなもんだよね。
 オレはそのまま駅に向かって、翌朝の一番電車で東京に逃げてきた。そのまま新宿中央公園にやってきて、それからずっとここで暮らしている。あのときが30歳くらいだったから、もう15年近くこの公園にいることになるんだな。
 以前の下着ドロやレイプ事件を起したときも、この痴漢事件も、みんな突発的に起こったことで計画性はないからね。出来心というか、魔が差したというか、自分でもよくわからないうちに行動してしまうんだ。なぜなんだろうね。ただ、この公園で暮らすようになってからは、そういう悪さは一度もしてないよ。
 女装のほうはいまでもしている。今日も着ているしね。これは誰かほかの人に迷惑がかかるわけじゃないだろう。当分、やめるつもりはないな。
 夜はこの先にある(東京)都庁前の歩道に寝ている。上が道路でガードになっているから、雨露がしのげるからいいよ。といっても、下は固い歩道だし、時間も夜11時から朝の5時までに制限されているから熟睡はできない。まあ、一般家庭の畳と布団の上に寝るようなわけにはいかないよ。
 困っていること? やっぱり、食べるものがが少なくてひもじいことだね。炊き出しだって毎日あるわけじゃないからさ。新宿の炊き出しはもちろん、代々木、池袋までは行ってるけど、上野とか、浅草じゃ遠すぎて歩いては行けないよ。時々は区役所に行って乾パンをもらっているけど、あれはあまりうまくないからね。
 どうしてもひもじいときは、回転寿司店のゴミ箱を漁って、食べられそうなのを拾って食べている。少しみじめったらしいとは思うけど、生きてくいためには仕方がないよね。はじめのうちは恥しくて深夜寝静まってから、コッソリ行ってたけど、いまじゃ慣れて昼間でも行ってるし、シケモクを拾うのだって平気になったからね。
 食べるものが少なくてひもじいことを除いたら、あと困っていることはないな。といっても、快適とはいえないけどね。
(この項了)(神戸幸夫)

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2009年6月14日 (日)

ホームレス自らを語る 第34回 女房の浮気が……/佐藤豊さん(60歳)

ホームレス自らを語る 第34回 女房の浮気が……/佐藤豊さん(60歳)

 たった1回のことだけど、女房が浮気をしてね。結婚して25年も連れ添って、2人の娘がいて、上の娘はもう結婚していたんだ。そんな50歳を越えていい歳をした女が、スーパーで買い物中に見知らぬ男に声をかけられて、そのままホテルまでついていって朝帰りしたんだよ。そんなこと信じられるかい?
 オレは怒り狂って、女房を兵庫の実家に帰したけど当然のことだろう。ところが、下の娘が母親思いの子でね。「たった1度だけの失敗じゃない。おかあさんを許してやって」と言って、泣きながら毎日のように、オレに許しを請うんだ。オレと女房は元々相思相愛で、ホントに好き合って結婚した夫婦だった。女房の浮気事件はあったけど、まだオレも愛していたから許すことにしたんだ。
 それで女房は帰ってきて、またいっしょに暮らすようになった。ところが、女房はオレとは一切口をきかなくなってね。娘とは話をするんだけど、オレとはひと言も話をしない。そんなのが1年以上続いてね。
 そのころ、オレは私鉄やデパート経営をししているT急行の関連会社で、事業部の課長補佐をしていた。ところが、オレの上役によその関連会社から移動してきたのがいて、この上役と反りが合わなくてね。オレとはことごとくのことに、反目対立するようになったんだ。
 それで会社に出ても面白くない。家に帰っても女房は押し黙ったまま……何もかも面白くなくなってね。6年前、誰にも言わずにコッソリと家を出て、ホームレスの仲間入りをしたわけだ。
 ホームレスのメッカといえば新宿だけど、オレの家は中野にあったから、新宿ではいかにも目と鼻の先で、そんなところで野宿をしていたら、家族や知り合いに見つかりそうだろう。だから、東京駅まで歩いて、そこをしばらく根城した。今はここ(千代田区小川町)の近くの商店の軒先を借りて寝ている。ホームレスになって、もう6年になるんだから早いもんだよね。

 生まれたのは東京・中野で、いま女房が住んでいる家が生家だ。途中で一度建て替えているけどね。
 父親は新宿のデパートで、経理係をして働くサラリーマンだった。オレが長男で弟との2人兄弟。戦後の東京のサラーマン一家の典型のような家庭だったね。
 オレは中学を卒業して、福生にあった自転車工場に就職した。いや、大手ではなく中堅のメーカーで、いまはもう倒産してないよ。オレの仕事は検査係、自転車の完成品を検査するのが仕事だった。
 その自転車工場で働きながら、夜は夜学の定時制高校に通った。4年間休みなく通って、ちゃんと卒業したんだよ。偉いもんだろう?
 ホントのことをいうとね。同じ自転車工場から同じ定時制高校に通う女の子の同級生がいたんだ。なかなか可愛い子でね、その子と毎日いっしょに通えるから、それが愉しくて通っただけかもしれないけどね。当時の日活映画に吉永小百合と浜田光夫の純愛コンビの作品があったけど、みんなそんなストーリーだったよね。
 で、そのいっしょに定時制高校に通った女の子というのが、いまのオレの女房なんだ。結婚したのは27か、28歳のときだった。
 そのころのオレは自転車工場を辞めて、T急行の関連会社に入っていたから、新居は中野の実家で両親といっしょに住んだ。当時は長男夫婦が実家に入って、跡を継ぐのがあたりまえだったからね。
 子どもは女の子が2人できた。それこそ平凡を絵に描いたような家庭だったね。オレはギャンブルには一切手を染めなかったし、酒も家で晩酌を少しやるくらいだった。
 ただ、野球が好きでね。草野球。自転車工場の時代から50歳くらいまで、必ずどこかのチームに入って、シーズン中の日曜日はたいてい試合だった。平日の朝早くに会社に行く前に試合をすることもあった。そんなに上手じゃなかったけど、野球が好きだったんだね。
 野球は好きだったけど、それで家庭問題が起こるほど好きだったわけじゃないからね。それなりの家庭サービスはしたし、子どもたちも可愛がって育てたしね。
 ごくごく普通の平凡な家庭だったんだ。女房が不倫をするまではね。よくわからないのは、買い物の途中に見も知らずの男から声をかけられて、フラフラと不倫をしてしまう女心だよね。そういうのを“魔が差した”とでもいうのかね。
 それでもオレは許したんだよ。いまでもオレは女房を、誰よりも愛していると言える。だが、その肝心の女房がオレに心を開かないんだからさ。最後のころは家にいると息が詰まりそうだったからね。会社でも上司とうまくいかなっかったりして、なにもかもイヤになって家を飛び出したってわけさ。
 これからのことかい?  いつかは女房との縒りを戻して、家に帰りたいね。家を出てから女房とは連絡を取ってないけど、弟とは2度ほど電話で話した。まさか、ホームレスをしているとはいえないから、友人の仕事を住み込みで手伝っていると言ってある。
 弟の話では下の娘も結婚して、子どもも生まれたらしい。ということは、いま家には女房が1人で暮らしているわけだ。そうなれば、よけいに戻ってやりたいね。
 ただ、オレも自由気ままなホームレスの生活が長いからさ。なまけることが身体に染み付いてしまって、普通のきちんとした生活に戻れるのか心配なんだよ。いまの悩みは、そのことだね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月13日 (土)

Brendaが行く!/え?まじで?日本の異常な働き方への驚愕的疑問

友達が結婚する。

とっても大切な友達。

女の集団の大切なメンバーの一人。

結婚式ではあたしがスピーチすることになって嬉しい。

スピーチはアドリブ。

ピアノはアドリブとはいかないが結婚式のスピーチぐらいならアドリブで1時間ぐらいは話せるだろう。

女の集団の結束だって意外と固い。

私がポーランドに帰る時とかも成田までみんなで送ってくれたし。
成田のホテルで前日は泊まりで騒いで。
出発ロビーのセキュリティーの前では一人一人を抱きしめて涙が出て。。。
密かに私の乗る飛行機をデッキから見送ってくれていたそんな大切な仲間なんだ。

私は見送ってからはさっさと帰ったと思ったので、ポーランドの家に帰ってすぐメールチェックして私の乗る飛行機の飛び立つ写真が入っていたのを見て、目から滝のような涙が吹き出してきた。

日本出る時も泣いて、家に帰ってきても泣いた。
彼女達のおかげで。

そんなわけでこの友情はかなり固い。

集団内の人間関係も良好。

困った人は誰かが助ける。

あたしの帰国時は行事を行っている。

そんな中、メンバーの一人で世話好きのとってもいい子がもしかしたら結婚式の日(日曜日)に休みを取れない様子?

アタクシまじで驚愕。

日本ってそこまで酷かったっけ?と。

別に離婚する予定な訳ではないのだから結婚式って一生に一度しかできないでしょ。
しかも、その新婦は旦那だけじゃなくベビーもゲットすることにすでになっているので。
こりゃ一生に一度の結婚になるはずだ!!!

仕事ってそこまで重いか?
アタクシの身に置き換えるとよほどの大きなコンサートでもうキャンセルも代役もきかなければ行けないかもしれないが・・・。
結婚式って前から計画するしそういうことは起こらないと思う。
レッスンとか小さな仕事なら何でもキャンセルして行ける。

しかし、日本のその状況を考えると仕事がそこまで重いのではなく、プレッシャーがそこまでひどいのだと思う。

もちろん、その参加できない友達を責める気などまったくゼロだ。

いつも一緒に遊んでたのに。かわいそうとしか言いようがない。
こんな大切な時に彼女だけ来れないってあり?

日本の社会の在り方がやばすぎね=か?

私の今の感覚では、超大切な結婚式に何らかの理由でいけないとか考えられない。
アタクシは呼ばれているものはちゃんと日本に帰って参加させていただいている。今後いつもこうとは限らないかもしれないが一応ベストは尽くしている。
(それでも海外住まい、出産直後、家族の介護とかはけっこう難しい時もあると思うが・・・)

別に普通に毎日行ける仕事で、有給取れないし行けない?ってまじ?日本ってそこまで深刻な状況なのかと思って結構ショック受けた。
ちゅーか、そう言う話聞くと微妙に鬱だよね。

え?まじ?そこまで酷いの?って

日本に住んでいる人からすれば、アタクシのショックが「お前がずれてるよ!」って話かもしれないけど。

ヨーロッパの基準ではこんなヤバい国ないんじゃない?

日本ってまじヤバイんだね。これが本当だとしたら。

ごめん、驚きすぎて、もう文もめちゃくちゃだけど。
正直、本当に驚いてる。

やっぱ、日本って年々ヤバくなっていってるとしか思えない。。。

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2009年6月12日 (金)

池田大作より他に神はなし/第1回 『潮』における輝かしい師の秀でたカリスマ性

 独裁者と呼ばれる人物の眼は、笑ってる場合でもどこか凄んでる共通項が。“ドーカツ視線”の彼方に見える景色は、おのおの異なる。スターリンなら、シベリアのラーゲリで凍てついてる死体(自分の)。ヒトラーの場合は、武装親衛隊にルガーで頭を射ち抜かれた死体(同)。毛沢東だと群集にリンチされ、ボロクズ状態の死体(同)。天皇裕仁だと…(怖いので以下全面カット。執筆者)。感情を一切表面化させずに、事務的。国家権力を完全掌握した彼等の、もう一つの共通項かと。

 或る組織内でだけでの独裁者も。抑圧規模の違いで、キャラにも差が出るのか?ドーカツ視線も感情が露骨で、却って凄みに欠ける。笹川良一や児玉誉士夫のソレは、モロに東映仁侠映画の悪役だったし、宮本顕治もアジテーションはさすがだが(お茶の水駅前で70年代末に見物)、この種の押し付けがましさは、80年代以降は通用しないと直感させた。麻原彰晃だと、なぜ声優にならなかったのかと思ったのみ。島国のミニ独裁者の視線には、見上げる者の死体がころがっていない(本当はそうじゃないが…)。

 “愛”がゴロリ。池田大作SGI会長はやはりそこが傑出した、数少ない日本人だ。『潮』7月号の「世界が見た真実 池田大作の軌跡」は、一言一句が身に染みる、全国民の必読連載(第11回)だが、次の下りには会長の両眼にゴロリ横たわる愛が、決して抽象的な御題目でない事を証明(恩師とは戸田城聖)。“…信用組合の用件(ようけん)で、役人の私邸(してい)まで恩師と陳情(ちんじょう)に行った。/いくら言葉を尽(つ)くしても理解してもらえない。あろうことか、心づくしに持参(じさん)した最中(もなか)の菓子折(かしおり)まで「こんなもの、けっこうです!」と突き返(かえ)された。/師が頭を下げる悔(くや)しさ。/絶対に忘れまい。/いつの日か-いつの日か必ず、どんな大企業とも堂々(どうどう)と渡(わた)り合う学会にしてみせる。/二人は、やっとの思いで戸田家の玄関(げんかん)までたどりついた。/「大(だい)、この最中を持っていけ」/「いいえ、先生、どうぞ奥様にさし上げてください」/「そうか、そうか……」/嬉しそうに愛弟子(まなでし)を見つめた”(194P。カッコ内はルビ表記)

 恨み。会長の愛は恨みに裏打ちされたというか、一対のモノ。口先の愛は誰にも吹聴出来る(民主党の鳩山由紀夫代表のように)。しかしそんなモノは、時の流れや風雨の前には無力。更に会長の愛はビジュアルで具体的だ。最中の菓子折に、師への愛と世間への恨み、将来への広大な野望、いや夢が凝縮されている。たとえば日本共産党の『しんぶん赤旗』に、見開きでビッシリ掲載される、志位委員長の中央委員会総会の結語など、幹部出世をもくろむ数名の東大卒の連中以外は、誰も読まない(並の労働者なら、20~30行読んだだけで頭痛が)。

 池田会長はそういう赤のエリート共と違い、庶民の心情をカンペキに理解。ヨコシマな心に満ちた、反学会分子の中には、こう曲解する者もいよう。「見て来たようなホラを吹くな! 2人だけ、しかも日時や相手の組織名を明らかにせずに、誰が信用するかい!? 一番許せないのは自己美化の余り、戸田聖城先生を、最中を喰いたがってる俗物と見なし、弟子の身分で見下げてる点だっ!!!」あるいは、「その清廉潔白な役人は、今の裏金警官を筆頭とする、日本の総泥棒役人に比べて何て立派なんだ!!」

 屁理屈は一陣の風にも付け得るとの見本だ。数十年後であろうと、会長の愛ある姿勢は、相手のサンピン役人のプライバシーも尊重する。同連載の後半では、取材に来た記者との無駄話を引き伸ばし、締め切りに間に合わせないとの小技も駆使。さすがだ。『聖教新聞』への広告出稿を、鼻先で笑われた恨みの数々も迫力タップリ。けれど、取り引きを決断してくれた資生堂やサントリー、三菱他への感謝振りは率直で感動的。愛と恨みを両輪に、偉大な平和組織・創価学会は世界的に伸びて来たのだと、部外者も無理なく納得させられる(経済力はその結果だ。目的化されてない点が、一般企業との大いなる違い)。

 『潮』にはもう1本、連載対談(12回)「新しき地球社会の創造へ」も。7月号での相手は、前国連事務次長、アンワルル・K・チョウドリ。全く未知の人だ。会長の全行動に、ケチをつけるような真似は一切する気はないが、この種の外人有名人(?)との対談類は、もうやめる時期かと。そもそも人物としての器が違う。対談で世間的、経済的利益を得るのは彼等のみ。ナポレオン級の歴史的人物で、世界的詩人でもある池田会長が、毛唐のサンピン相手に、貴重な時間費やすのは実に悲しい。

 以上のような話を先日友人に話したら、反論された。「お前の眼は節穴か? 池田大作の両眼にひそむ愛は、愛は愛でも単なる自己愛だ!! それを傷付けられると恨みに一変させる。それだけだ!!!」さもしい性根の人間と泥棒は、この世から尽きないものだ。池田会長、無論僕はコイツと即刻絶交しました(つづく)。(塩山芳明)

■塩山芳明…ウェブでは初登場。雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

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2009年6月11日 (木)

使い捨て社会の構造を理解したい方に

Photo  以前、鎌田慧さんに「取材で九州の暴力飯場で働いていたんですよね?」と質問したとき、「取材じゃないよ」とボソっと話してくれた。ルポライターとして現場を書こうとは思っていたが、生活のためでもあったという意味だろう。
 当時の様子は『ぼくが世の中に学んだこと』(岩波書店)に詳しい。穴倉のような製鉄所の粉塵舞い上がる劣悪な環境、なんの希望も見いだせないまま繰り返される労働は、人間の大事な部分を少しずつ浸食していく仕事の恐ろしさを感じさせた。

 このように自らの生活を抱えて「最下層」の労働に飛び込んだ経験が、鎌田さんのルポに他にはない奥行きを与えている。例えば秋葉原の通り魔事件の容疑者について、『いま、逆攻のとき』(大月書店)で「もしも派遣の現場で働いていなかったならば、すくなくともあの悲惨な事件は起こらなかった、と断言できる」と言いきれるのは、絶望的な環境で働く労働者の気持ちがわかる鎌田さんだからだ。大手新聞社や出版社出身だったり、書き手としてすぐに雑誌ジャーナリズムの繁栄の恩恵に預かってきた多くのライターとの違いといえる。
 だからこそ生活保護者をやり玉にあげるような記事を書き連ねる記者に対して、「カサにかかって暴露するのには、記者が裕福な暮らしをしていて、生活感覚がない、ということがある」と、鎌田さんは指摘する。

 私自身、弱小出版社の底辺の労働者だと自覚していたつもりだった。だからこそホームレスから本音を聞けたなどとうぬぼれていた。しかし、この出版不況になってみて初めて、自分の認識の甘さを悟った。自分にとって貧困など、結局人ごとだったのだ。その立場に立ってみないと書けないことが確かにある。

 『いま、逆攻のとき』は、労働現場を中心とする日本の悲惨な現状を、歴史的な考察を込めて描き出している。外国人研修生の問題は新聞などにも報じられた。しかし、彼らが劣悪な環境の改善を求めて雇用主に逆らえば、たちまち国が「強制送還」し、支度金や渡航費などの借金で母国での生活が破綻する、といった事情まで言及した記事は読んだことがなかった。研修制度という表の顔を支えていたのは、借金で労働者を縛り付けた海外の派遣会社であり、絞りとらなければ損とばかりにギリギリの給料でこき使っている日本の雇用主であるという現実は重い。日本政府と海外と日本のヤクザ企業が手を組み、労働者から構造的に搾取している構図は、日本の派遣労働者が置かれている構図を根本的には同じだ。
 この本では、こうした構図をつくろうとしてきた人たちにも鋭い批判を浴びせている。例えば派遣労働を推し進めた八代尚宏・国際基督教大学教授に対しては、「複数の派遣会社に登録することで、それだけ多くの雇用機会を得るというメリットがある」という彼の一文を引き、「そんなに『多様化』が好きなら、高額の所得を得ている大学教授の地位をなげうって、「不安定就業」にほかならない非常勤生活の生活を送ってみろ」と書いている。
 自分の高給を省みず、企業や政府のために搾取される層を作りだす。そんな人々に対する強い怒りが、この本を貫いている。また、そんな人々に対抗する時代がきたことも、この本は教えてくれた。
 年越し派遣村の村長として大きく報道された湯浅誠さんとの対談のページでは、「経営者だって善人ばかりではいが悪人ばかりでもないわけで、経営者は経営者らしくきちんと弁(わきま)えさせるのは労働運動の役割です」と鎌田さんは語っている。これもまた名言である。
 日本の現状をきちんと理解したい人に、ぜひおすすめしたい。(大畑)

※『いま、逆攻のとき  使い捨て社会を越える』(鎌田慧 著 大月書店)
定価 本体1500円+税

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2009年6月 9日 (火)

ホームレス自らを語る 第33回 戦災孤児でした/秋元亮介さん(仮名・66歳)

 生まれは昭和14年、東京荒川区でした。荒川でも典型的な下町の千住の生まれです。
 父親は馬車曳きをしていたようですが、大変な酒飲みで、私が3歳くらいのときに肝硬変で亡くなっています。あとは母親と2人だけの母子家庭で、その母親には心臓に持病があって病弱でしたから、生活は苦しかったはずです。
 昭和20年3月9日夜9時すぎに、空襲警報のサイレンが鳴りはじめました。そのときのサイレンの鳴り方はまるで狂ったようで、子ども心にも何か途方もないことが起こる予感みたいなものを感じましたね。
 そのうちにB29の編隊の低い爆音が響いてきて、焼夷弾が投下されるときの独特の音が聞こえてきました。ヒルュー、ヒルューと音を曳きながら落ちてきて、バラバラと民家の屋根に礫を撒くような音ですね。
 私は母に手を引かれて、夜の町に逃げ出しました。外はあちこちから火の手が上がり、上空からはこれでもか、これでもかと焼夷弾が雨霰のように降ってきました。一度火が点くと木造家屋の密集した町は、たちまち火の海と化していました。
 それを避けながら母と私は夜の町を逃げ惑いました。最終的に2人が逃げ込んだのは、天王公園でした。千住大橋の近くにある公園で、そこに逃げて込んで命だけは助かりました。ただ、このとき空襲のなかを必死で逃げ回った母は、心臓に相当こたえたようでした。天王公園はいまでもあると思いますよ。
 翌日、火事が治まって家に戻ってみると丸焼けでした。庭に防空壕が掘ってあったので、焼け棒杭やトタンをかぶせて屋根にして、母と2人で入りました。でも、母はもう起き上がることができなくなり、それからは寝たきりになりました。6歳の私は母の枕元で、衰弱していく母親を見ているだけでした。
 それから幾日かして母が動かなくなり、子どもの私にも死んだことがわかりました。それで防空壕から外の道路に出ていると、見知らぬおばさんが通りかかったんで、そのことを話しました。すると、おばさんは親切にも母親の様子を見てくれ、死んでいることを確認すると、近所の人にたのんで遺体を焼く手配をしてくれました。

 東京大空襲の直後だったから、母親の遺体は学校のグラウンドのようなところで、ほかの遺体といっしょに焼かれたと思います。葬式の真似ごともしてやれませんでしたが、一応焼いてあげられましたからね。それにしても、あのおばさんの親切は忘れられませんね。
 それから先は天涯孤独の戦災孤児になって、今日までずっと1人で生きてきました。学校は小、中学校とも1日も行ってません。毎日の食いものを確保して、生きていくのに精一杯でしたからね。学校なんか行ってられなかったんです。
 終戦前後の食糧不足、物不足はひどいもので、しかも周りは焼け野原、そんなところで6歳の子が食い扶持を確保していくのは容易なこではなかったです。隣近所の子守りや買い物、留守番、農家や大工の手伝い……金になることなら何でもしました。

 それでも食べることがやっとで、戦後3年間はそのまま防空壕に住んでいました。その後も家が建ったわけじゃなくて、自分でつくったバラック小屋に住んだだけですけどね。世の中が落ち着いてくると、新聞配達やペンキ屋の手伝いもするようになりました。
 私は学校に行ってないから字が読めないんですけど、ひらがなだけは覚えました。だから、ルビが振ってあれば何とか読めます。それに算数の計算もできません。ただ、カネの計算だけはできるんです。それを覚えないと生きていけないから、必死で覚えましたね。

 15歳のころからは、夏は山に入って下草刈り、冬は飯場に入って土工の仕事をするようになりました。そのころはまだ林業が盛んでしたから、下草刈りでは千葉、埼玉、群馬など関東一円の山に入りました。土工の仕事は手元といって、作業員の仕事の補助をしたり、作業現場の片付けなどの一番下っ端の仕事をしました。私は学校へ行ってないから、何の資格も取れませんでしたからね。
 下草刈りや土工の仕事は飯場に入って集団生活をします。私の場合は集団生活の経験がありませんから、うまく馴染めずに大変でした。ちょっとからかわれたり、小バカにされたりすると、すぐに手が出て殴りかかっていってしまうんです。
 それで仲間と気まずくなったり、仕事をクビになったり、ずいぶん損をしました。やっぱり学校へ行ってないという僻み根性があるんでしょうね。

 変わったところでは、30代の半ばに松竹映画の大部屋俳優をやったことがあります。この仕事だけは2~3年続きましたね。撮影所は大船(神奈川県)にあって、毎日毎日役を取っ替え、引っ替えで出てました。だから、何という作品に、どんな役で出たのかは覚えちゃいません。ほとんどがセリフのない通行人の役でしたからね。
 あとはまた、林業の下草刈りや木材の伐採の手伝い、土工の手元の仕事に戻りました。いまは林業のほうの仕事はなくなって、土工の仕事ばかりです。古くから知っている手配師がいて、こんな歳ですが時々仕事を回してくれるんです。
 そうやって稼いだ金で映画を見に行きます。浅草には古い時代劇やヤクザ映画ばかりをやっている小屋(映画館)がありますから、そこで見るんです。若いころ映画の大部屋に入ったこともありますから、私はやっぱり映画が好きなんでしょうね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月 8日 (月)

書店の風格/第34回 昭島 井上書店

 ゆるやかな書店。そんなふうに形容すればよいだろうか。
 井上書店は、昭島市にあるいわゆる「まちの本屋さん」だ。昭島駅から歩いて四分、本館とコミック館に分かれている。本館に入ると、絵本の読み聞かせ会のご案内や手作りのポスターが賑やかだ。正面には文庫棚、新書棚、右側の壁際に文芸や専門書の棚があり、左側は児童書が展開されている。どの棚も整然としていて美しい。
 一見普通の本屋さんだが、一般書店とは空気の抜け方が違う。なぜか。本の並べ方にその鍵があった。

 一般には背を向けて一冊ずつ挿してしまう新書や文庫の棚だが、贅沢にもほとんどの本を、面を見せて陳列させているのだ。挿してあるのはほんの一部、本と本の間に挟まっているくらいのものである。
 さらに文芸書・専門書の棚では、平積みにされてある本がほぼ2冊や3冊ずつ積まれてある。書店で平積みになっているというと、頭の中ではドカンと10冊、いや20冊、積み上がっている様を思い浮かべるが、ここでは3冊。この冊数でいいのであれば、ひとつひとつの商品を余ることなくアプローチできる。

 そして特筆すべきはPOPの存在だ。エンド台では余すところなくPOPが立ち並び、あるところでは棚に貼られ、あるところではプラスチックケースに入れて飾られている。しかも筆跡が様々だ。店員さん、アルバイトの皆さんが分担して、全員で書いているとのこと。本好きじゃなくても、字が下手でもとりあえずやってもらう。そのうち、どんどん上手くなってくるのだという。

 「本を並べる」というと、積んだり棚に順番に並べたり、という印象があるが、このお店は一点一点の書籍を「商品」として扱い、ディスプレイしている。当たり前のようだが、なかなか生まれない現場感覚だ。ブティックをつくることで生まれる空気の抜け感が、本を選ぶことに意識を集中させてくれる。昭島は書店の激戦区だが、一押しの本屋さんだ。(奥山)

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2009年6月 7日 (日)

涼宮ハルヒとTBSが示すメディアの興亡

 2009年はマスメディアとネットの勝敗が、完全に決した年になりそうだ。

 すでにご存じの方も多いと思うが、4月9日、TBSは“歴史的”な視聴率を記録した。どの時間帯でも1ケタの数字だったのはもちろんこと、その日の最高視聴率が「みのもんたの朝ズバ・2部」と再放送の「水戸黄門」の7.2%だったのだ。ゴールデンタイムの裏番組が強かったとはいえ、キー局で夕方の再放送番組にゴールデンタイムが負けるのは尋常ではない。

 一方、5月24日には神戸サンテレビジョン、テレビ埼玉、新潟テレビ21など、独立UHF局を中心としたローカル局の放映のためホテルを予約した人が続出した。TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』をチェックするためだった。じつは、このアニメ番組も大枠では再放送だ。ただ、この日に限って新作が挿入されたのである。

 もともと『涼宮ハルヒの憂鬱』は06年4~6月の深夜に独立UHF局を中心に放送されたアニメだった。原作はライトノベルの話題作だったが、この作品がここまで人気を得たのは、冒険的なアニメ制作の姿勢とメディア戦略の成功によるところが大きい。
 ポイントは限定的な情報の流布だった。そもそもUHF局放送では見られない地域が出てくる。それを全国的な人気に押し上げたのが、インターネットの動画サイト「YouTube」の「違法映像」だった。従来の著作権の観点からいえば問題だろうが、テレビで見ることができず飢餓感を煽られた層には、テレビ放映以上のインパクトを持って迎えられた。
 さらにアニメ自体も、初回に劇中の主人公が文化祭用に作ったとされる素人的な映像を放映したり、時系列を無視した順序で放送したりと、原作を読んでいない人には意味不明な代物だった。しかも、その謎を解き明かそうと公式サイトにアクセスしても詳しい解説がない。結局、原作を読んだ人がネットで解説し、その解説を読んで原作を買い求める人が増えるという循環を生み出した。こうした好循環の中で06年6月にDVDも発売され、記録的なヒットとなったのである。

 その後、07年7月には朝日新聞で「ハルヒ二期決定」と銘打たれた一面広告が掲載された。しかし一向に新作が放送されることなく、今年の4月から「再放送」が始まる。ただし「再放送」にもかかわらず、以前と放送順序が変わっているうえ、2ちゃんねるで一期の再放送と二期の新作が混ぜられるとの情報が流れた。さらに5月18日には、テレビ和歌山が番組表にサブタイトルを「誤って」表示。それが新作のタイトルであることが確認され、いち早く放送を見るために地方のホテルに宿泊する人が出た次第である。

 この『涼宮ハルヒの憂鬱』のメディア戦略には、2つの大きな特徴的がある。1つはテレビ放映がメディア戦略のサブに置かれたこと。そしてもう1つは、ネット情報を管理しようとせず、誘導しようとしたこと。
 アニメの制作費をDVDの収益によってまかなおうとする手法は、95年放送の「新世紀エヴァンゲリオン」に始まったとされる。物語の謎を解き明かそうする視聴者の欲求がヒットを生みだした構図も2作品は似ている。しかし95年当時、テレビ放映の影響力は絶対だった。動画を配信するネット環境は整っておらず、DVD発売でヒットを飛ばすにもテレビ放映が必要だった。
 そうした構造は『涼宮ハルヒの憂鬱』によって過去のものとなった。どうせ人気を得るためだけの放送なら、飢餓感を煽れるローカル局の方が適しているという考え方はある。実際、ローカル局だったからこそ今回の「ホテル宿泊」もニュースになったのだし、放送後すぐにYouTubeにアップされ、ネット上で大きな話題となったのだから。

 もう1つの特徴、情報の管理はマスメディアの根幹とかかわってくる。
 立花隆氏が田中角栄元首相の金脈疑惑が報じたとき、政治部の新聞記者は「そんなこと、みんな知っている」とつぶやいたとされる。これが情報統制とは言い切れない。裏付けが取れない、ネタにならないと切り捨てたという考え方もある。いずれにしても、マスコミの情報は一定の管理下にある。
 一方、ネットの言論にはタブーも検証もない。根も葉もない噂が一人歩きしていることも少なくない。そうした魑魅魍魎の世界に、『涼宮ハルヒの憂鬱』は「限定された情報」という形で一石を投じた。波紋は好きなように立ってくれという姿勢である。いしたにまさき氏が喝破している通り、「ネットの善意を信用」したのだろう。(詳しくは、いしたに氏のブログで!)

 これが記事広告の形で雑誌などに情報を提供したなら、カネはかかるが情報を管理できる。しかしネットで広がっていった情報は、どんな結果を生み出すか正確には予想できない。それでも既存のマスメディアより影響力の点でも使い勝手の上でも、ネットが上だという可能性を「ハルヒ」の成功は示した。

 電通の調査によれば、08年の広告費は前年比でテレビが4.4%減、新聞で12.5%減だという。制作費の削減に血眼になっているテレビ局は、広告主の機嫌を損ねるようなことは絶対にできない。そうしたメディアの状況を乗じたのかどうかはわからないが、4月末には大手企業社員がテレビ番組を評価する「優良放送番組推進会議」が発足した。今後も息を詰めて広告主を伺うテレビ番組から、若者を中心とした視聴者がどんどん離れていくに違いない。それでもマスコミはネットの善意を信じることは、なかなかできないだろう。

 大きな時代の流れを改めて感じた2つの事件だった。(大畑)

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2009年6月 6日 (土)

Brendaがゆく!/バランスの悪い子供と勘の利かないアタクシ

あると~ってもかわいらしい子供(8歳)が

と~っても子供らしく

フランスとイギリスの郵便番号の仕組みの違いを説明してくれた。

そこで、よく子供にありがちな昔住んでいた家の住所を暗記しているのを披露する、あれ(文末の後日談参照)を始めた。

「私のイギリスの住所は、~~~、~~~の~~番地だったんだよ」

「私の郵便番号は、~~~~で、パパの郵便番号は~~==だったんだよ~」

そこでアタクシは腑に落ちなかった、8歳の子供の自分の郵便番号とパパの郵便番号???
イギリスでは一人一人郵便番号持ってるのか???と思って。

子供ほど素直な勢いでアタクシが素朴な質問をした。

「え、でもどうしてパパと@@ちゃんは違う郵便番号なの?」

そ、そして、、、、

8歳の@@ちゃんはいくらかしらけたムードで、ちょい照れながら・・・

「だって、ほら離婚したからさ」って。

ア~ア~~~ア~~、あんたのママとパパのことね、あ~イギリスに住んでいる時にすでに離婚してたわけね。

あまりにその子供の反応が面白いので、その台詞を聞いて私は「あ~そ~だったのか~」と言って、笑ってしまった。そしてとっさに「いや、これ面白くないよね!」と言い、

動揺している自分にさらに、たじたじになってしまった。。。汗

今のこの二人の会話誰も聞いてないよなと確かめつつ。

いっぽんとられた・・・
というかなんというか最近の子供は私の子供時代以上にもう環境によって、まー汚染されてるというのかな。知りすぎていると言うかね。。。

少なくとも私が8歳の時に離婚とか言う言葉さえも知らなかったし。。。
父のメルヘンのカゴ(加護)の中にいたのでテレビとかも見てないのであまり俗世のことを知らなかったしね。。。

もし将来自分の子供がこんな子と友達だったらちょっとしんぱ~いなんて、いらぬ未来の心配まで湧いてきますが。

ここから後日談。

私がインターナショナルスクールに勤めた最初の日に子供達に聞いてみた。
「みんなどこからきたの?」

だって、インターナショナルスクールだからさ。
子供達が自分がどこの国から来たのかわかっているのかを確かめてみようと思った。

そうしたところ、想像を絶する状況が

子供A 「501」

アタクシ「・・・???」

子供B「オレは403」

子供C「あたしは201」

最初は何を言ってんだかまったく検討がつかんかった。。。

これを、元気にはつらつとやられると余計にめんくらってどう反応していいのかわからなかった。

そ~か、子供の世界とはこれほどまでに狭いものなのだ。

確かに私も子供の時には家と公園とおばあちゃんちの往復ぐらいしかしてなかった。
そうだ住所を覚えた最初の頃は(うちは一戸建てだったので)番地からだった。

そして迷子になった時のためにとかいって、8歳ぐらいのあたしが3歳の弟に必死で家の住所を暗記させていたっけ。

最近の時代もこれは変わっていないらしく、よく子供達が自分の住所を必死で言って「すごいでしょ!」と得意になるのをみるとかわいい。

やっぱり、子供なんだからこれくらいにとどめておいて欲しいと私は思うのだが・・・

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2009年6月 5日 (金)

塩山芳明、仙台に闖入。いがらしみきお氏とトークイベント

アストラより『出版奈落の断末魔』を4月に上梓した塩山芳明氏が、今度は仙台に飛びます。仙台は、帯に強烈なイラストを描いてくださったいがらしみきおさんの住み処。そう、いがらしさんとのトークショーです!

(詳細・お申し込みはこちら→http://bookbooksendai.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=17)

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いがらしみきお×塩山芳明トークイベント
「漫画家VS編集者 出版業界最底辺を語る」
《日 時》  6月26日(金) 19:00〜20:30 
《会 場》  市民活動シアター(「仙台市市民活動サポートセンター」地下) 
《内 容》  いがらしみきお(漫画家)と塩山芳明(漫画編集者)によるトークショー。
司会は南陀楼綾繁(編集者/ライター)。
出版業界の最底辺を支えてきた編集者・塩山芳明の新刊『出版奈落の断末魔』(アストラ)の刊行を記念して、塩山編集の漫画誌から華麗に転身した漫画家・いがらしみきお(仙台在住)が、当時を振り返る。
毒舌で知られる塩山さんはいがらしさんと旧知の間柄、よそでは聞けない貴重な話題、爆弾発言が連発!?するかも。

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主催は仙台のブックカフェ、火星の庭さん。
塩山さんが群馬から北上するなんて、めったにないことです。
東北にお住まいの方はぜひ!
杜の都、仙台にぜひ!
実はすごく広い仙台市にぜひ!
山形市からならバスで1時間。
福島市からならやまびこで一駅。
いわきからなら郡山を越えて2時間半。
秋田市からも青森市からも2時間半。
北上からなら1時間。

もちろん都内にお住まいの方もぜひ。

BOOK!BOOK!Sendaiという、本好きにはたまらないイベントの一環として行われるんです。

仙台のブック事情をさぐるには、この上ない機会です。

ぜひともぜひとも、お越し下さい。
(東北出身 奥山)

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2009年6月 4日 (木)

靖国神社/第17回 崇敬奉賛会とは何なのか(上)

靖国神社には「靖国神社崇敬奉賛会」という団体がある。会員数は現在約8万人もいる。
 靖国のウェブサイトには設立の趣意についてこう書かれてある。
――「戦後五十年を経た今日、世情は変容し、これまで神社を支えてきた御遺族、戦友の方々の高齢化により、今後参拝者の減少が予想され、悠久の神社護持の前途に懸念の兆しが窺えます。更に、戦後世代の戦歿者英霊に対する崇敬の意識は希薄であり、散華された英霊の御心を思えば憂慮を禁じ得ません。(中略)英霊の御遺徳を子々孫々にまで変わることなく顕彰し伝えていくことこそが、太平の世に生きる国民の負うべき使命であることを痛感致します。また、今日の荒廃した精神状況に対しても、英霊の克己・献身の事蹟とその精神を知らしめることが、生命の尊厳への認識と、父祖の世代への感謝の心を醸成し、我が国の伝統的道義・道徳心を取り戻す教育的役割を果すものであると確信致します」――
 つまり靖国の意志を存続させるための団体であるようだ。
 靖国の職員さんによると奉賛会は財政を支えている面もあるという。会員には「維持会員」「正会員」「遊就館友の会会員」の3種類があり、年会費はそれぞれ5万円、3000円、1000円となっている。友の会会員は入会条件として年齢が25歳以下に設定されているため、一般には維持会員か正会員かを選ぶことになる。
 ウェブサイトによると去年3月の時点で維持会員は235人、正会員は48061人いる。235人といえども維持会員は年会費が5万円なので毎年1175万円の収入があることになる。正会員は48061人×3000円=1億4418万3000円(!)。これは確かに正真正銘の収入源である。

 靖国神社のウェブサイトを見てみると、なんと奉賛会の会員になることによって、
①年末に新しい「神札」と「靖國暦」をもらえる ②社報「靖國」(月刊)がもらえる ③春秋例大祭をはじめ靖國神社諸行事の案内をもらえる ④遊就館が無料で拝観できる ⑤図書館「靖國偕行文庫」で図書を借りることができる ⑥ご遺族の会員には「祭神之記」をお送りいたします ⑦遊就館の茶房(カフェ)で1割引の飲食ができる ⑧遊就館の売店(ミュージアムショップ)で1割引の買い物ができる ⑨靖國神社近郊ホテルが、会員特別割引料金で宿泊できる、と9点も特典がつくことを発見してしまった。
 特に社報『靖国』の存在が気になるではないか。これまで靖国が発行する定期刊行物に気付かなかったのが不覚である。どんな記事が書かれているのか気になる。8万部も発行されているのだから、日本人における靖国感にちょっとした影響を及ぼしているのかもしれない。
 これは入会するしかないだろう。そしていろんな特典を利用してみようではないか。

 靖国神社の社務所で「奉賛会に入りたいんですが」と言うと、係の女性が出てきて入会の手続きを取ってくれることになった。
 奉賛会の会員数の増減については、「最近は、減ってきているようですね」とのことである。
 高齢の会員が亡くなっていることが主な原因で全体としては減っているようだが、毎年8月15日の「国民の集い」や例大祭などのイベントで訪れた若い世代がぼちぼち入会していくそうだ。06年の8月15日には25万人もの人が靖国を訪れている。遊就館の前あたりに奉賛会会員受付のテントがそういえば設置されていた。何人かの若者が手続きをしているのを見た記憶がある。
 特典のひとつである「祭神之記」は入会時にはもらえないのかを聞いてみた。すると職員さん曰く「祭神之記」は遺族に英霊がいることが条件であるという。そもそも「祭神之記」とはなんだろう?
「『祭神之記』は英霊となられた方のお名前が記してあるものです。なので、ご遺族の方に英霊となられた方がいないと……」
 なるほど、意味がないということになるか。
 奉賛会に入ると会員証が2週間程度で郵送される。それを提示すればさまざまな特典を利用できるが、会員証が届かないうちでも、会員時に払った入会金の領収書を提示すれば特典を利用できるとのこと。ちなみに職員さんも会員だそうである。(宮崎太郎)

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2009年6月 2日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/福知山線の事故から4年

○月×日
 JR福知山線の脱線事故から4月25日で早4年が過ぎた。
 やはり他人事でしかないのか。
 あれだけの大惨事であったにも関わらず、普段の意識からはすっかり遠のいてしまっている。
 それは乗務をしていてもだ。ほんとに些細な事象による連日のダイヤ乱れなどで1日が終われば「つ~かれた」と一目散に帰宅する毎日。目先のことを1つ1つこなしていくだけで精一杯というのが実情なのである。
 でもこうして思い出すのは、あれからまた1年が…という節目を迎えた時であり、関連したニュースなどを見聞きした時にと限られてしまっているが、あの時の衝撃は今でも鮮明に蘇るのだから忘れたわけでは決してない。
 今また改めて、犠牲となった多くの方々のご冥福をお祈りすると共に、大けがをされた方々の1日も早い快方を願うばかりである。

 さて、5月ももう終わりだが大きなニュースが飛び込んで来た。「JR西、異例の再捜索、脱線事故捜査大詰め」というもの。
 詳細は、神戸地検は27と28日の2日間にわたって、業務上過失致死傷容疑でJR西日本本社や山崎正夫社長(66)の自宅などを家宅捜索したということである。
 補足すると、地検は昨年10月にも同本社の捜索を行っており、兵庫県警の方は現場カーブにATS(自動列車停止装置)があれば事故は防げたと判断して、昨年9月に同容疑(ATSを設置するなどの安全対策を怠った疑い)で山崎社長ら幹部と元幹部、死亡した高見隆二郎運転士(23)の計10人を書類送検している。また今年3月には、遺族が井手正敬氏(74)、南谷昌二郎顧問(67)、垣内剛顧問(65)の歴代経営トップ3人を告訴した。
 報道にもある通り、業務上過失致死傷罪で起訴をするには「事故の予見可能性」、すなわち、当事者が事故が起きる可能性を認識していたとする証言が必要ということで、山崎社長らはこれまでの地検の事情聴取に対しこのことは頑なに否定しているとみられる。従って、地検が起訴の可否を最終判断するには昨年10月の家宅捜索で押収した資料だけでは不十分であるとして、詰めの証拠固めのため異例の再捜索に踏み切ったものと思われる。
 以上だが、それにしても4年である。JR西の企業体質は相変わらず内向きなようだ。例えば、遺族が公開質問状などで事故の真相解明を再三求めても、事故調査や捜査をいい訳に真摯に向き合おうとはしていないのだという。さらに、被害者対策にしても補償交渉を終えたのは未だに全体の3割未満というペース。乗客に責任など何一つない。企業のトップが事故の責任を負うのは当然だろう。なぜ被害者の思いをくみ取ってやらないのか。これではただいたずらに時が過ぎて行くだけである。
 また、(記憶が曖昧で恐縮だが)事故当時、ATSかスピードの問題で「そんなにスピードを出すとは想定していなかった」という旨の発言をある幹部がしていたと思う。この運転士があれだけのスピードを出さなければならない状況を作った原因は少なからずあなた方にある。指導、教育とは名ばかりで、懲罰やみせしめ以外の何物でもなかった、歪んだ、いわゆる「日勤教育」を忘れてはならない。
 さらに付け加えれば、分割民営化の過程で200人近い国鉄職員を絶望から死に追いやったのも手段を選ばぬあなた方のやり方、国労脱退強要などの不当労働行為が端を発していた。まるで悪夢としかいいようがないが、なぜこれほどまでに犠牲を強いなければならなかったのか。
 企業の体質がどうであろうと、安全安定輸送のために日々精一杯電車を動かしているのは私達現場の運転士や車掌である。人命を預かる以上、厳しさが伴うのは当然だが、心にゆとりがなければ意味がない。仕事は楽しくなければならないというのが私は基本だと思っている。
 福知山線のような悲惨な事故は二度と起こさせないという願いが遺族の共通した思いだろう。鉄道の安全に終わりはないが、犠牲となった人達には嫌なことは一刻も早く終わらせ、深い悲しみや怒りから一歩でも前へ進めるようにしてやるべきではないのか。
 今後、誰がどう裁かれても亡くなった人は戻ってはこない。けがも一生引きずって生きていかなければならない人もいる。本当に何とも複雑でやり切れない気持ちでいることだろう。
 もう二度とごめんだ、こんなことは。まっぴらだよ。(斎藤典雄)

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2009年6月 1日 (月)

ホームレス自らを語る 第32回 割りの合わない人生だった/山本さん(仮名・62歳)

 いま思い返してみると、オレも割りの合わない人生を送ってしまった気がするよ。もう、取り返しはつかないけどね。
 生まれは群馬県の伊勢崎市で、8人兄弟の下から3番目だった。
 オヤジは自称画家で、裸婦や風景画を描いていた。けど、1枚も売れたためしはないね。そもそもオヤジは大地主の息子で、若いときに財産の生前分与を受けて、パリに絵の勉強に行ったということだ。当時の金で400万円も持っていって、全額遣ってスッテンテンになって帰ってきたらしい。
 日本に帰ってきても無一文のくせに働くでなし、洋行帰りの画家を気取って、売れない絵を描いているだけだったからね。

 苦労したのはオフクロさ。近くの農家の手伝いや賃仕事、土方なんかをして日銭を稼いでは、なんとか生計をたてていたんだ。ただ、8人もの子どもを産んだだろう。いつも腹ボテの状態で、そんな身体で農家の田起こしや、田植え、稲刈り、土方の仕事にまで出ていたんだ。ホントにオフクロの苦労は並大抵じゃなかったと思うよ。
 オレたち子どもも小学校に上がると、農家の手伝いに行かされた。学校から帰ってくると、農家の人が家の前で待っていて、そのまま田圃や畑に連れていかれて手伝わされたんだ。農家が忙しいときは学校を休んで、朝から手伝わされたしね。だから、小学校、中学校とも、3分の1は休んだんじゃないかな。
 農家を手伝っても、謝礼は現金じゃないんだ。米とか、サツマイモとか、収穫した野菜の現物で持ってくるからね。だから、働いたオレたちは1円にもならなかった。それでも家のためになっていると思うと嬉しかったね。

 忘れられないのは正月のお年玉のことだ。友だちは「500円もらった」「1000円もらった」と自慢し合っているのに、うちは10円だったからね。アメ玉1つ買ったらおしまいだよ。つくづくうちは貧乏なんだと思ったな。
 中学を卒業して、伊勢崎市内の鉄工所に就職した。コンプレッサーの金属部品を旋盤やフライスで加工する小さな町工場だった。自慢じゃないけど、オレは仕事を覚えるのが早かったし、腕もよかったから、どこでも重宝されたんだよ……じつをいうと、オレは伊勢崎市内から近隣の鉄工所では、ほとんどのところで働いたんだ。
 なぜかって? オフクロの仕業さ。オレの腕がいいことを理由に、勝手に新しい鉄工所に売り込みに行っては前借りをしてしまうんだ。オレはそのたびに働いている鉄工所を辞めて、オフクロが前借りした鉄工所に移らなければならなかった。前借り分を返し終わるころになると、オフクロはまた別の新しい鉄工所に行って、前借りをするっていう具合でさ。そうやって全部で20ヵ所くらいの鉄工所を替わったんじゃないのかな。
 いったいオレは何のために働いているのかとも思ったけど、オフクロの事情もわからないわけじゃないからね。あまり強くは言えなかったな。

 結婚をしたのは28歳のときだった。そのとき働いていた鉄工所の社長の妹といい仲になってね。いまでいう“できちゃった結婚”ってやつだ。結婚してアパートを借りて、そこで女の子が生まれた。逆玉の輿? そんなんじゃないよ。社長以下9人しかいない町工場で、社長の奥さんも妹も社員で働いているような会社で、ひどい赤字経営の工場だったからね。
 それに社長の奥さんとオレの女房が犬猿の仲でさ。ことあるごとにぶつかって大ゲンカになるんだ。そのたびに社長とオレが間に入って収めるんだけど、あまりにたびたびだからね。オレは女房とふたりで、その鉄工所を辞めることにした。社長はシュンとなっていたよ。その鉄工所でも、オレの腕前は群を抜いていたからね。
 そのころは高度経済成長の時代だったから、新しい鉄工所の働き口はすぐに見つかった。オレが結婚してからは、さすがにオフクロも鉄工所からの前借りはしなくなっていた。だから、その新しい鉄工所では、10年以上、57の歳まで働いたよ。

 その途中でオフクロが認知症(痴呆症)を患ってね。兄弟の誰も引き取ろういうのがいなくて、オレのところで引き取ることになった。この看病が大変でね。夜になると壁を叩くわ、大声で喚くわ、それを朝まで続けるんだ。オレたちが住んでいたのはアパートだから、静かにさせるのが大変だった。この看病は13年間続いたけど、正直にいって死んでくれたときにはホッとしたね。
 このオフクロの看病をしていたときに、バブル経済の崩壊があって、働いていた鉄工所が倒産した。それで新しい仕事を探して回ったけど、もうオレも歳が歳だったから、雇ってくれるところはなかった。

 オフクロが死んですぐに、こんどは女房が倒れてね。何でも小脳が冒されたとかで、半身不随で病院に入ったきりになってしまった。オレは3年間も下の世話までして看病したけどね。やはり、女の世話は男では無理だということで、女房の妹に替わってもらった。
 しだいに、女房の病院代やアパートの部屋代が払えなくなってきて、東京に行けば仕事があるかと思って出てきたんだけど、不況は東京でも同じだからね。仕方なく隅田川縁り(台東区)に、ほかのホームレスの人を真似て、ビニールシートの小屋をつくって住むようになったわけだ。
 それにしても、割りの合わないことばかりが続く人生で、オレの人生はいったい何だったんだろうと思うよ。(聞き手:神戸幸夫)            

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