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2009年6月 1日 (月)

ホームレス自らを語る 第32回 割りの合わない人生だった/山本さん(仮名・62歳)

 いま思い返してみると、オレも割りの合わない人生を送ってしまった気がするよ。もう、取り返しはつかないけどね。
 生まれは群馬県の伊勢崎市で、8人兄弟の下から3番目だった。
 オヤジは自称画家で、裸婦や風景画を描いていた。けど、1枚も売れたためしはないね。そもそもオヤジは大地主の息子で、若いときに財産の生前分与を受けて、パリに絵の勉強に行ったということだ。当時の金で400万円も持っていって、全額遣ってスッテンテンになって帰ってきたらしい。
 日本に帰ってきても無一文のくせに働くでなし、洋行帰りの画家を気取って、売れない絵を描いているだけだったからね。

 苦労したのはオフクロさ。近くの農家の手伝いや賃仕事、土方なんかをして日銭を稼いでは、なんとか生計をたてていたんだ。ただ、8人もの子どもを産んだだろう。いつも腹ボテの状態で、そんな身体で農家の田起こしや、田植え、稲刈り、土方の仕事にまで出ていたんだ。ホントにオフクロの苦労は並大抵じゃなかったと思うよ。
 オレたち子どもも小学校に上がると、農家の手伝いに行かされた。学校から帰ってくると、農家の人が家の前で待っていて、そのまま田圃や畑に連れていかれて手伝わされたんだ。農家が忙しいときは学校を休んで、朝から手伝わされたしね。だから、小学校、中学校とも、3分の1は休んだんじゃないかな。
 農家を手伝っても、謝礼は現金じゃないんだ。米とか、サツマイモとか、収穫した野菜の現物で持ってくるからね。だから、働いたオレたちは1円にもならなかった。それでも家のためになっていると思うと嬉しかったね。

 忘れられないのは正月のお年玉のことだ。友だちは「500円もらった」「1000円もらった」と自慢し合っているのに、うちは10円だったからね。アメ玉1つ買ったらおしまいだよ。つくづくうちは貧乏なんだと思ったな。
 中学を卒業して、伊勢崎市内の鉄工所に就職した。コンプレッサーの金属部品を旋盤やフライスで加工する小さな町工場だった。自慢じゃないけど、オレは仕事を覚えるのが早かったし、腕もよかったから、どこでも重宝されたんだよ……じつをいうと、オレは伊勢崎市内から近隣の鉄工所では、ほとんどのところで働いたんだ。
 なぜかって? オフクロの仕業さ。オレの腕がいいことを理由に、勝手に新しい鉄工所に売り込みに行っては前借りをしてしまうんだ。オレはそのたびに働いている鉄工所を辞めて、オフクロが前借りした鉄工所に移らなければならなかった。前借り分を返し終わるころになると、オフクロはまた別の新しい鉄工所に行って、前借りをするっていう具合でさ。そうやって全部で20ヵ所くらいの鉄工所を替わったんじゃないのかな。
 いったいオレは何のために働いているのかとも思ったけど、オフクロの事情もわからないわけじゃないからね。あまり強くは言えなかったな。

 結婚をしたのは28歳のときだった。そのとき働いていた鉄工所の社長の妹といい仲になってね。いまでいう“できちゃった結婚”ってやつだ。結婚してアパートを借りて、そこで女の子が生まれた。逆玉の輿? そんなんじゃないよ。社長以下9人しかいない町工場で、社長の奥さんも妹も社員で働いているような会社で、ひどい赤字経営の工場だったからね。
 それに社長の奥さんとオレの女房が犬猿の仲でさ。ことあるごとにぶつかって大ゲンカになるんだ。そのたびに社長とオレが間に入って収めるんだけど、あまりにたびたびだからね。オレは女房とふたりで、その鉄工所を辞めることにした。社長はシュンとなっていたよ。その鉄工所でも、オレの腕前は群を抜いていたからね。
 そのころは高度経済成長の時代だったから、新しい鉄工所の働き口はすぐに見つかった。オレが結婚してからは、さすがにオフクロも鉄工所からの前借りはしなくなっていた。だから、その新しい鉄工所では、10年以上、57の歳まで働いたよ。

 その途中でオフクロが認知症(痴呆症)を患ってね。兄弟の誰も引き取ろういうのがいなくて、オレのところで引き取ることになった。この看病が大変でね。夜になると壁を叩くわ、大声で喚くわ、それを朝まで続けるんだ。オレたちが住んでいたのはアパートだから、静かにさせるのが大変だった。この看病は13年間続いたけど、正直にいって死んでくれたときにはホッとしたね。
 このオフクロの看病をしていたときに、バブル経済の崩壊があって、働いていた鉄工所が倒産した。それで新しい仕事を探して回ったけど、もうオレも歳が歳だったから、雇ってくれるところはなかった。

 オフクロが死んですぐに、こんどは女房が倒れてね。何でも小脳が冒されたとかで、半身不随で病院に入ったきりになってしまった。オレは3年間も下の世話までして看病したけどね。やはり、女の世話は男では無理だということで、女房の妹に替わってもらった。
 しだいに、女房の病院代やアパートの部屋代が払えなくなってきて、東京に行けば仕事があるかと思って出てきたんだけど、不況は東京でも同じだからね。仕方なく隅田川縁り(台東区)に、ほかのホームレスの人を真似て、ビニールシートの小屋をつくって住むようになったわけだ。
 それにしても、割りの合わないことばかりが続く人生で、オレの人生はいったい何だったんだろうと思うよ。(聞き手:神戸幸夫)            

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コメント

『俺はなんの為に働いているんだろう』という言葉は、過去に私の夫も何回もつぶやいた言葉です。夫は、17歳の時に父を癌で亡くし、その後父の借金が発覚。せめて高校は卒業しなければならなかったので、学校が終わったら、夜10時位まで寿司屋でアルバイトして、学費、生活費、運転免許取得資金、借金返済に当てました。高校卒業後は、稼げる新聞輸送の仕事へ。一段落したら、妹ができちゃった結婚。相手は収入の波がある建設業の若造。そのくせ5人も子供をもうけたから『金がかかる、助けてくれ』。母親は娘贔屓で、『お前は所帯を持ってないんだから』と金出せ攻撃。これじゃあ、そうも言いたくなるでしょう。そのせいか、人を信用できなくなってしまいました。それでも、私だけには愛情を持ってくれました。できれば、奥さんを最後まで面倒みてほしかったです。私の為に頑張ってくれたと感謝していたに違いないのに。

投稿: さくらん | 2009年6月 1日 (月) 10時58分

さくらん様
ごていねになコメントをありがとうございます。
それにしても、ご主人はよく似た境涯を送られたのですね。
彼、山本さんは「東京へは仕事を探しにきた」と語っておりますが、いくら東京でも60歳を超えた男に仕事の道のないことは、彼も承知していたはずです。
収入の途絶した生活のなかで、アパート代、妻の入院費が嵩んでいくばかりの状態。彼はニッチもサッチもいかなくなって、すべてを放り出して東京に逃げてきたのです。
その心境は理解できますし、彼を責めることもできない気がします。
                  

投稿: 神戸幸夫 | 2009年6月 2日 (火) 11時45分

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