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2009年5月

2009年5月31日 (日)

『中学英語で話せるようになる6種類の口ぐせ』絶賛発売中!

Photo    弊社の新刊『中学英語で話せるようになる6種類の口ぐせ』が発売となりました! 元上智大学英語学科教授・井上久美先生の書き下ろしです。

 思い起こせば、私が井上先生に取材にしたのは、もう15年も前のことになります。当時、井上先生は学生から大人気でした。学生の面倒見が良いだけではなく、半年で同時通訳ができるようになる指導方法も話題だったからです。
 いくら上智大学に英語の得意な学生が集まるとはいえ、半年では難しいだろうと思ったら、これが本当でした。それどころか話すのが苦手の学生も、どんどん話せるようになっていたのです。
 その当時、弊社の出版環境も整わず、まだ本にまとめることなど考えられる状況ではなかったのですが、15年の時をへて、その指導法の秘密をまとめることができました。

 本書は、11のChapterを3部に分け、さらに番外編を1つ置く構成になっています。
 第1部は現在の英語力でコミュニケーションする方法を具体的に紹介しています。アジア諸国を旅行したとき、メチャクチャな英語で意思疎通をはかっている現地の人を見かけたことがあります。英語だけなら自分の方がまだマシ。でも、意思疎通は彼らの方がはるかにスムーズ。どうしてだ?と思っていたら、けっこうメンタルな問題だったことを、この本で知りました。
 また、国際人からバカにされる可能性さえある「ネイティブ英語」を目指さないことが重要であるのも、この本から教わったのです。

 第2部は英語力とコミュニケーション力を短時間でアップする方法が書かれています。上智大学生を虜にした「ビジュアル音読」法は、ここに詳しく書いてあります。
 またコミュニケーション力をアップさせる136個英語のフレーズも収めました。このフレーズには、難しい単語はいっさい使われていません。つまり初心者にも易しいフレーズですが、その価値は英語上級者になるほど理解できる代物です。それは単語は易しいのに、スマートで魅力的な表現だからです。原稿段階でTOEIC900点以上の知人が絶賛したフレーズ集を、ぜひ自分のものにしてください。音声はHPに公開しました。

 第3部は、英語で幸せになるためのメソッドです。もともと英語は「人間のOS」ともいえる言語なので、英語を話すことで英語的な発想や行動が生まれてきます。実際、英語を話しているときだけ積極的に主張できる日本人も少なくありません。そうした英語の特性を活かし、英語で自分を励ます「feel good English セラピー」法を公開しました。また、そのために有用な75個のフレーズも収録しました。

 そして番外編として、英語の詩の活用法について解説してあります。

 定価1680円にて絶賛発売中ですので、どうぞよろしくお願いいたします。(大畑)
 

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2009年5月30日 (土)

私財を投じてネパールに寺を建てた身障者

 昨日終日疲労が残っていた。土曜日の午前中に、週刊金曜日に諌早干拓事業に消えた60億円分の海砂について初稿を書き終え、8時間ほど自転車走行したせいである。
 距離にしてたったの90キロ少々だが、嬉しかった。これで数年ぶりの100キロ越えは近くなってきた。
 四万十川を旅する準備だから、まだまだこれではいけない。年内にスペインの巡礼地を走る。いずれは南米縦断とシベリア横断、地中海一周、南ア縦断。中国とチベット。こんな誇大妄想的なことも考えている。
 劣化した肉体はその程度のビジョンがないと点火してくれない。が、かりにすべて完走してもなんと言うこともない。スポーツは我欲を満たす行為に過ぎない。個人的にはスポーツごっこが好きなのだが、スポーツだけの趣味人を最近はどうも尊敬できないときもある。海外の貧者に学校を作る程度の他愛的趣味は尊敬する。ノーベル賞欲しさに世界中に競艇の寺銭をばら撒き、ハンセン病撲滅に訴えた笹川氏の狂おしい動機の不純さを知っているので大いなる慈善事業をしていても、動機を知るとそれほど心が動かない。しかし確かに、子どものときに自分が苦労した人がやれば確実に良い学校になる。

 世間では知られていないが、無私の精神でネパールにウン千万を出して寺を作った人を個人的に知っている。
 名は向坊弘道さん。向坊さんは若い頃の交通事故が原因となって車椅子に乗っていた。
 頚椎髄損が原因だった。2年前に癌で逝った。聞くところでは、最期のとき、癌は向坊さんの肉体をむさぼったが、交通事故で首の神経が切断されていたので、全く痛みを感じなかった。最期の日も睡眠導入剤などを飲んで、荒い呼吸をしながら、ベットに横たわった。ヘルパーさんの太田美代子さんが、深夜部屋を覗くと眠るように安らかに逝っていた。死後、ネパールの首都カトマンズにお寺を残した。

 彼はグリーンライフ研究所というNPOを作っていた。同サイトには以下の情報が残る。

【カトマンズ本願寺の経緯】
 カトマンズ本願寺は、向坊弘道氏によって発願され、さまざまな方々の協力を経て、建築が始まりました。ネパールの首都カトマンズにある浄土真宗のお寺です。
 2005年度には、浄土真宗本願寺派から、「カトマンズ本願寺」の寺号を許され、新たな活動をスタートさせております。

【カトマンズ本願寺の活動】
 現在、カトマンズ本願寺では、次のような活動をしております。
 メンバーによる定例法座
 日本語教室の開催
 今後再開したい活動
 古着などの配布
 無料医療検診の実施
 車いすの現地生産と無料配布 など

 向坊さんは1人で始めて、浄土真宗の仲間の力を借りて、ここまできた。フィリピンにも身障者の施設を持っていたが、そちらは向坊さんの没後、現地の裏切り者に取られたと太田さんが残念そうに語っていた。フィリピンでは外国人は土地を持てない。それはいいことである。外国からの収奪資本主義が土地を食い尽くすからである。ところが抜け道はある。向坊さんも信頼したフィリピン人の名義で土地と建物を投機した。そして、最期に裏切られた。
 もっとも聡明な向坊氏のことである。その程度のありそうなリスクはちゃんと読んでいただろうが、寒い冬を逃れて、数ヶ月だけフィリピンの田舎でのんびりと療養目的で日本から来た身障者と介護者に、長年親しくしてきた現地の管理人がいきなり銃を突きつけて、「もう2度と来るな」と凄んだ時の情景が目に浮かぶ。たしかにそれは修羅である。幸い、向坊さんと宗教的紐帯があるネパールの施設では問題はおきていない。現地の責任者の僧侶は、向坊さんから資金を受けて、来日し、龍谷大学で学び、その後、西本願寺で僧籍を得た。彼が現地でこれからも恩師の大業を残す。

 

ココを読めばおおよそは知ることができる。
 筆者が向坊弘道さんご本人から教えてもらった話もある。そのサイトに書いていない。 
彼の貸しビル業が成功した一つの理由は正直な不動産業者に会ったことだった。在日韓国人だった。北九州には高利貸し、パチンコ屋、不動産屋の世界には戦前玄界灘を越えてきた者の末裔が多い。向坊さんの周囲は大反対した。「連中と組むと全部取れるぞ」と。それもまた現実的な評価である。そんな時代だった。
 身障者になった向坊さんは、幸いにも実家が北九州の地主だった。交通事故に遭った当時、東大法学部にいただけあり、努力家だった。時代を見るセンスもあった。彼は土地の将来性に着眼して、70年代の高度成長期にビルを建て家賃収入で自立した。
 わざわざヤバイ相手を笑んだ訳を、生前、聞くと、「あー、彼ねえ。彼とは高校のときに同級生だったからね」。そんなもんだったかと腑に落ちた。最後は10代の友愛に賭けたといった。
 その在日のパートナーに会おうかとも思い、その後の消息をヘルパーさんに尋ねて、愕然となった。返事はぽつんと一言、「自殺したようです」。身体的ハンディよりも社会的ハンディがしんどいこともあるのか。よりによって、善人が自殺する環境とは何か。一瞬考えたが、答えはなかった。

 向防さんの著作はある。題名は『隠れ念仏伝承の旅』(本願寺出版社刊)。宗教弾圧といえば日本ではカトリックが有名である。教科書に出てくる隠れキリシタンの殉教者は5万7000人。ところが、浄土真宗の隠れ念仏者の殉教者は14万人以上という。それだけの殉教者が、南九州、とくに薩摩の地で出たという。室町末期から明治9年まで地下に潜伏した念仏者の足跡を尋ね、テントを張りながら、自動車で介護者と回って記録を残した1冊である。隠れ念仏者は、キリシタン同様、九州の辺境の島に逃げ、洞窟生活したらしい。長崎・平戸のキリシタンは五島列島だったが、薩摩の念仏者は鹿児島の甑島列島などに隠れた。この本には現地踏査で得た写真が多く、知識が満載されている。彼はこんな本を相当数自費出版も含めて世に残した。少数者が宗教を背負うと本物になる。
 どなたでもネパールに小旅行を予定する方がいれば、いつでもグリーンライフ研究所に連絡して欲しい。日本からの方はお寺で宿泊いただける。僧侶は日本で修行したインド人僧。何も心配はない。グリーンライフ研究所の現在の代表は太田美代子さん。向坊さんの最期を看取ったヘルパーさんである。彼女はグリーンライフ研究所の近くに住むご婦人である。長年、向坊さんをお世話して世界中を歩んだ。

同研究所の所在地は
〒803-0123 福岡県北九州市若松区有毛3106 
FAX 093-647-0336

 脱線が過ぎた。小生も数ヶ月前に小さな交通事故に遭った。リハビリを兼ねて、自転車旅行を再開することにした。計画だけは壮大で守っていないが月曜日と火曜日が35キロ。水曜日が65キロ。木曜日と金曜日がまた35キロ。土曜日が100キロから130キロ。日曜日は休み。7月末まではこのスケジュールでいくつもり。
 だれかの役に立つわけではない。なぜ、体力をつけるか。答えがない。あまりに虚弱だと原稿が書けないという理由があるにはあるが、エクササイズに熱中すると、書く情熱が消える。疲労が蓄積して頭がうごかない状態になるのだ。
 プラスもある。新しい光景に遭遇すると脳が動く。昨日は無駄な公共事業を見ようとして海上に作られた北九州空港を見にいった。海上空港までの道は精緻だった。用地買収にいくら対策費が動いたかなどと考えずにひたすら走ったが、海上の道路の全長は2100メートル。自転車と歩行所専用レーンもあった。欧米基準の造りを見て高コストを実感できた。トヨタ・日産などの自動車産業の従業員を北九州工場に誘致したので、前市長は彼らの便のためにも作ったというが、いまや世界的不況を受けて大減産。空港の定期便はスターフライヤー社1社だけ。これも赤字空港になるだろうと思いながら、ちんたら走っていると、安手のマウンテンバイクに乗った若者に抜かれた。
 ややむっと来たが、今の段階ではこちらが遅い。すべては1年後。そう思いながら、休日の午後を楽しむ若い自転車乗りの背中を見送った。

 とえらそうに述べたが、大畑センセーがシカトし、原稿の掲載が遅れた。
 『週刊金曜日』も小生の原稿の法律的杜撰さに蒼くなり、編集者本人が確認作業に入るという。没ではない。
 60億円が諌早に消えた。犯人は誰か。国かゼネコンか。
 証言者を小生は探したが、取材費を十分寄越さないので、それなりの手法で小生が取材したもので、いざ裁判になると負ける可能性が濃厚という。それで走り回る。若手の編集者が。裏の裏を確認するために。かくて掲載は6月中旬になるらしい。編集者も人を利用することに長けているが、彼ら同様、小生も人でなし。週刊金曜日にはややどたまに来たので、今回、取材して残った情報をさらに銭をくれそうな月刊誌に提示してたかる最中である。
 自転車乗りを信用するな。

 こんなことはいい。その後、隠れ念仏についてさらに読んだ。五木寛之も書いている。日本のこころという本で。
 五木は50歳になって竜谷大に学んで、浄土真宗を彼なりに学んだ。その過程で、一向一揆をやった北陸の教えが九州に入り、生まれたことを知る。その産物とが隠れ念仏である。このことを総本山の竜谷大にいる向坊さんの恩師に五木も習い、九州を走り回っている。作品としては、プロの五木の作品の方が格段がいいが、車椅子に乗り、節約するためにカップラーメンを食しながら野宿して、南九州を往った向坊さんの先駆的体験があればこそ、五木が今いる。(李隆)

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2009年5月29日 (金)

ロシアの横暴/第17回 ロシアの文豪にされたゴーゴリ(下)

 ソ連はタラスの最後の名ぜりふに陶酔した。学校教育の国語の時間にはこの名ぜりふを生徒に暗唱させた。上質の美しいロシア語ということよりも、ロシア賛美が買われたのである。この国語の教程は現在もおそらく変わっていないであろうことは「ゴーゴリはロシアの作家だ」と、主張するロシアの言い分から容易に想像できる。

 このせりふが教科書に取り入れられたのは、勝者とはいえ第二次大戦で甚大な被害をうけたソ連が疲れ切った国民に向かって「わがロシア民族は偉大で、どんな困難にも打ち勝つ!」とハッパをかけなければならなかった背景がある。
  40数年後、結局ソ連は崩壊した。ソ連指導部は他の民族の痛みに無頓着だった。多民族で多宗教国家であることに気がつかなかったのだ。気がついていても大した問題とは思わなかったのだろう。どちらかといえば「ロシアには恨みをもつ」カフカス地方やバルト地方の学校教育で「偉大なロシア人」を暗唱させても「ソ連魂高揚」にはならないことが理解できなかった。

 ウクライナ人がロシアを嫌うことのひとつに「マラ・ルーシア(=小ロシア)」という呼称がある。ソ連になってからはウクライナという呼称が復活し、近年ではほとんど使われなくなっているが、文学芸術の分野では今も残っている。同じスラブ民族で言語も似ているので、何の躊躇もなく「小ロシア」と命名されてしまったようだ。ロシア帝国の広大さからみればウクライナなど小さいものだから、と軽い気持ちで命名したのかも知れないが、ウクライナ側は穏やかでない。ウクライナという立派な名称があるのに、なぜロシアの付属品みたいな名前をつけられるんだ、と。坊主憎けりゃ袈裟まで憎くなるから、ゴーゴリ対立のなかに、この穏やかでない感情が当然絡んで来ている。

 ゴーゴリをロシアの文豪にしたいロシアにも疑問が残る。
 ソ連時代はどこの都市にも「マルクス」「レーニン通り」が町の中心になっている。そこから革命文学者「マクシム・ゴーリキー大通り」が続く。そのあと偉大な芸術家や革命指導者に混じって、郊外の小さな通りには帝政ロシアを震撼させた農民一揆の首領「ステンカ・ラージン(ロシア語ではステパン・ラージン)通り」「プガチョフ通り」まである。初等学校の詩暗唱のテキストに使われ、現在は「ウクライナではなくロシアの文豪」と言われている偉大なゴーゴリの名を冠した通りはなぜか町はずれにひっそりとしている。
 ロシア語の名作・名ぜりふを残したところでやっぱりゴーゴリはウクライナ人、タラスはロシアの軍事力を拝借しただけ、ゴーゴリも皇帝に弾圧を受けないよう、偉大なウクライナ人と書きたいところをロシア人と書いただけであることを当時のソ連の指導部は知っていたのかも知れない。(川上なつ)

※訂正
ソ連・ロシアの宗教について述べた第12回
古都「スズタリ」は古都「ザゴールスク」の間違いでした。

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2009年5月28日 (木)

鎌田慧の現代を斬る/第132回 名誉欲に踊ってカネをばらまいたトヨタ

 5月初旬、トヨタ自動車が2009年3月期連結決算を発表した。営業利益が4610億円の赤字で71年ぶりの営業赤字となった。前期が2兆2703億円の黒字だったから、その急落ぶりが際立つ。また来期の営業利益についても8500億円の赤字と予想し、創業以来初めての2年連続営業赤字となる可能性が強まっている。

 この赤字の要因の1つは世界的な不況にある。ただトヨタの売上高は、前期比で21.9%の減少にとどまっており、大幅な赤字になったのは設備投資が過剰だったからだ。需要状況をつかめなかったからではない。

 では、どうしてそんなに無理にをしたかといえば、ゼネラルモーターを追い抜くのが、至上命題になっていたからである。とにかく1000万台を突破して世界一の自動車会社になりたいというドン欲な名誉欲が、会社を蝕んだ。

 世界トップの幻想に踊らされた様子は、ナショナルフラッグを掲げていた日本航空の衰退を思い起こさせる。儲かると名誉欲が生まれ、それが習慣になってカネをつかう。そうしたワナにトヨタもはまった。
 トヨタグループは豊田佐吉以来、石橋を叩いても渡らない経営方針だった。この方針を大幅に方向転回したのが奥田碩元社長だった。政治に近づかない「モンロー主義」を廃し、政治力を使って富を築く、フィリピンのマルコス政権下で使った手法を日本にもちこんだのである。
 つまり今回の赤字の原因は経営陣にある。ところが「カイゼン」の対象は上層部ではなく、現場や下請けにむかっている。

 トヨタ自動車の池渕浩介相談役・技監は、朝日新聞(09年5月3日)の取材に答え、立て直しのポイントを次のように解説した。
「受注から生産までにかかる時間、リードタイムの短縮が鍵になる。これは短いほどいい。(中略)競馬もレース前に馬券を買うからなかなか当たらないわけで、第3コーナーまでレースを見てから買えるならかなり当たる」
 つまり現場の労働強化を目指すわけだ。第3コーナーまで見て馬券を買いに走るようなやり方は、競馬では認められない。その禁じ手を生産にもちこもうとしているのだからあきれさせる。
 さらに彼は「トヨタ生産方式を洗い直し、今の不具合を正常化しよう」とも語り、「生産の輸送の中継点ごとに」多少許容していた在庫の撤廃を示唆している。もともと在庫をもたない、というのが「トヨタ生産方式」の真髄だったが、世界中に工場を展開しているいまでは、会社の押しつける緊張感だけでは規律が守れない。品切れの欠損が怖いからと在庫をもつようになるのは、現場の必然だ。

 トヨタは生産停止期間をつくって在庫調整した。つまり労働者に負担を押しつけて(日系ブラジル人などハケン労働者が苦しんだ)、緊急措置を施したのである。そこからさらにトヨタの「ぞうきん方式」を強め、現場を絞りあげるつもりだ。
 この在庫をもたないという思想は、車の部品ばかりか労働者の在庫ももたないという形で、期間工や派遣労働者を増やしてきた。トヨタの圧力強化によって、関連会社を含めた非正規労働者の苦悩はますますつづくことになる。

 名誉欲に振り回されているのは、トヨタのF1参戦もおなじだ。世界的な不況の中、黒字を確保したホンダは撤退を決めた。一方のトヨタは継続を表明している。しかもその理由はモータースポーツの発展を願ったものではない。
「表彰台の真ん中にたたない参戦した意味がない」(『朝日新聞』08年12月6日)というトヨタ自動車幹部の言葉が物語るように、ほしいのは名誉である。その“道楽”に、労働者が血みどろになって奪われた利益から、年間500億円ともいわれるカネが投じられている。
 この不景気を前に国際自動車連盟(FIA)は1チーム当たりの年間予算を4000ポンド(約60億円)に制限する案を提示した。合意したチームには技術規制を緩め、膨大になりすぎた予算を絞っていく方針だ。
 しかしトヨタは規制に反対し、制度導入ならF1不参戦もありうるとした。トヨタ側は「選手権の二層化につながるもので、F1の正しい方向ではない」(『時事通信』09年5月10日)と発言しているが、資金不足の弱小チームはポイントをあげることができず、事実上の二層化となっている。今回の規制は、予算に恵まれたチームと弱小チームの差を埋めるものともいえるが、開発費に糸目をつけないチームには受け入れ難いようだ。コスト管理に徹底的にこだわるトヨタも、「名誉」のためには惜しげもなくカネを投じるのだから、どこかの大宗教団体の名誉会長のようなものだ。

 次期社長の豊田章男副社長はドイツの24時間耐久レースでに出場した。次期社長自ら走る宣伝塔となり、巨額を使ってトヨタフラッグを掲げようとしていることを、1円単位で泣かされている現場や下請けの労働者はどのように感じるだろうか。
 七光り経営者と現場労働者の意識の差を大いに感じてしまう。(談)

全文は→「6.pdf」をダウンロード

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2009年5月26日 (火)

八王子スーパー強盗殺人事件の現場を歩く

 なぜ?
 そう思わずにはいられない。どれほど考えても3人を殺す理由が、まったく想像できないからだ。

Photo  事件が起きたのは1995年7月30日午後9時15分ごろ。現場は北八王子駅から歩いて10分のほどのスーパー「ナンペイ大和田店」だった。閉店直後の店では、2人の高校2年生とパートをしていた47才の女性が2階の事務所で帰宅の準備を進めていた。
 パートの女性が迎えに来てほしいと友人に電話を入れたのが午後9時15分ごろ。それからわずか5分の間に、3人は銃で撃たれて命を奪われた。2人の高校生は互いの右手と左手をガムテープで縛られ、口もふさがれた状態で、後頭部から1発ずつ撃ち込まれていた。友人が後ろから撃たれ、慌てて逃げだそうとしたもう1人も後ろから撃ったという。

 一方、パートの女性は手を縛られてはいなかった。ただ顔に銃把で殴った跡が残っており、金庫の鍵を彼女に出させたうえで、金庫のダイヤルの番号を聞き出そうとして犯人が殴ったとみられている。しかし彼女は番号を知らなかった。開けられないと分かった犯人は、額の左側などに前方から彼女の頭に向けて2発の弾を撃ち込んだ。ヤケドの跡が残っていることから、額に銃を押しつけるように撃ったことも判明した。
 犯人は3人の無抵抗な女性を殺すのに4発。そして開かない金庫に向けて、もう1発発砲。結局、金庫の中の500万を拝むこともなく、わずか5分で現場を去った。
 無抵抗な3人を殺害したのは、犯行を目撃したからだろうと推測されている。

「もともと、ここらへんは何の事件もなかったんだから。事件のあったスーパーだって小さくて、誰が見たってもうかっているような店じゃないよ。強盗に入るような店じゃないよね」
 近くで農家を営む男性は、ビニールハウスのトマトを収穫しながら言った。実際、ナンペイ大和田店の普段の売上げは200~300万円といったところだった。ただ事件の数日前から特売セールがあったため、その晩の金庫には500万円入っていた。それにしても500万でしかない。3人を殺せば死刑確定。目撃情報通り複数犯なら、通常の感覚なら割に合わないと感じるはずだ。当初、警察が強盗と物取りに見せかけた怨恨の両面で捜査していたのも理解できる。
 また、先述の近所の男性は、「訪ねてきた刑事が『こんなことするのは外人だ』って言ってたよ」と教えてくれた。当時の新聞報道でも外国人の可能性が示唆されており、顔を見ただけで無抵抗の女性を銃で撃つ残忍さは、日本人の犯罪と思えない空気が95年にはあったのだろう。しかし事件から14年近くがたった今、「日本人だから無茶はしない」という根拠のない信頼は崩れ去った。
 そのような残忍さな殺人の原因の1つになっているのが、この事件当時から急速に広がった銃の存在だ。
「捜査一課の敏腕刑事だったある警部補は、銃による殺人は『冷たい殺し』だという。刺殺や絞殺は、犯人の手に被害者の体のぬくもりが残る『熱い殺し』。どんなに冷酷な犯人でも、『死』を自分の体で感じる。しかし、けん銃殺人には、その『実感』がない。発砲事件の容疑者を取り調べる時、被害者への『思い』がまるでないことに驚くという」(『毎日新聞』95年8月2日)
 実感なき殺人が凶器によって作りだされたというわけだ。そしてもっと恐ろしいことに、銃とは関係なく訳の分からない殺人を犯す日本人が増えてきている現実だ。殴り殺す「熱い殺し」ですら、そこに「実感」のない犯人たち。
 以前、精神科医に取材したときに、実感を感じられない「離人症」的な症状を訴える人が増えたと聞いた。時代を背景に人が心を病むように、時代を背景に罪を犯す人がいるのなら「実感なき殺人」が増えているのもうなづける。
 八王子スーパー強盗殺人事件は、そうした事件のはしりともいえる。周辺の治安に関係なく、特段の理由もなく、国内に出回り始めた銃で殺害した事件。これは怨恨など犯行動機から洗っていく日本の警察得意の捜査手法を楽々と飛び越えていく。
 結果として捜査は迷走を続けてきた。

 事件当夜、夜9時過ぎまでスーパーナンペイから30メートルほど離れた「北の原公園」では盆踊り大会が開かれていた。太鼓の音で悲鳴などは聞きとりにくい状況だったが、店の近所の主婦は花火のような破裂音を連続で聞いている。
 また事件直前の9時5分ごろ店の駐車場のすぐ近くで白いシャツを着た男が目撃された。さらに事件当日と数日前に、スーパーの店内をうかがっていた不審な2人組がいたことがわかっている。しかし店には防犯用ビデオカメラもなく、目撃証言は犯人逮捕に結びつかなかった。
 03年には名古屋・大阪で現金輸送車を襲撃した犯人の関係先から押収した銃の線条痕が、八王子の事件と似ていると騒がれた。無言でためらうことなく発砲するやり口も、犯人像に当てはまるといわれた。しかし、これもハズレ。
 07年には被害者のパートの女性と交際していた男性が、フィリピン人の知人に殺人を持ちかけたとして警視庁はフィリピンに捜査員を派遣している。しかし、これも犯人にはつながらなかった。
 そして現在、中国で覚せい剤所持の疑いで逮捕され死刑が確定している日本人への疑惑が深まっている。この男は過去に日本人と中国人の混じった強盗団を率いており、八王子強盗事件の当日、ナンペイで金が取れなかった腹いせに、近くで別の強盗を働いた、と仲間に話していた。その事件が実際に起こっていたことが明らかになり、捜査員はいろめきたった。今後、中国との捜査協力しだいでは、犯人があきらかになる可能性ありそうだ。

 しかし地域住民の「なぜ」の思いは、いまだに消えていない。
 ナンペイの前に住む男性は、事件当夜の暑さを思い出しながら語った。
「暑い夜でさ。でも、事件のことは何も知らないんだ。ビール飲んで寝ていたからね。それが、どんどんパトカーが集まってきて、そのうちどこで調べたのか知らないけれど、ジャンジャン自宅の電話が鳴り始めて。どこどこ新聞だの、なんとか通信だの。次の日は朝からヘリコプターが飛んで大騒ぎだった。
 驚いたよ。そんな事件が近くで起こるなんて思ってもみなかったから」
 ナンペイで買い物をしたことがあるという主婦は、事件の翌朝に飛び回っていたヘリコプターの音を覚えていた。
「驚きました。あの事件の後にも先にも、ここら辺で殺人事件が起きた記憶なんてありませんから」
 
 東京近郊の閑静な住宅街で起こったこの殺人強盗事件は、もう日本のどこも安全じゃないと、全国に向けて宣言したようなものだった。その宣言へのとまどいは、事件が14年近くたった今も続いている。(大畑)

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2009年5月18日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・33歳・正社員(教育関係)後編

 そして切り札を切りました。学生塾なら5年の経験があるし、これだったらいけるだろうと。面接に行くと、面接官の顔が全然違うんですよね。冷たい感じががらっと変わって、具体的な話が出来ました。受けたところは全て内定を受けました。もっと違う業界を経験したかったんですが、そんなことも言っていられないなと思い、その内の1つに入社しました。そこで半年後に生徒アンケートがありまして、50数校、数百人の教師の内でトップに選ばれたんです。ただ、そこで賞金がもらえるわけでもなく、もっと広い世界に出たい、やっぱり中国に行きたい、という思いがますますつよくなっていきました。

 そんな折、別の学習塾で海外勤務の塾講師募集があることを知りました。「塾講師の経験ある人、英語か中国語が使えて留学経験があればなおよし、パソコンスキルがあれば優遇します」と。条件はどれも満たしていました。これだ!と思い入社試験を受けて、合格しました。そしてシンガポールに赴任します。最初の塾に勤めてから丸二年経った頃でした。
 シンガポール校を経験して少し経った後、香港校の校舎長にならないかといわれ、香港に移ります。校舎長は広報も経理も自分でやらなければならないんですが、そのとき思いがけず高校時代の実学が役立ちました。あれをやってなかったら、経理なんかやれなかったでしょうね。

 香港赴任も2年経って慣れた頃、日本はITバブルで盛り上がっていて、私も投資に興味を持つようになりました。「中国株が来るぞ」といわれて、最初はこわごわ投資をしたんです。するとみるみる上がっていって、2年したら保有株が20倍以上の株価になりました。また、株でお金を集めて、他社を買収したりしてどんどん事業を大きくするやり方は格好いいなと思いました。講師生活の地味さに比べ、ダイナミックなところに魅力を感じたんです。

 そんなある日、いつも見ている中国株の会社のホームページで社長室の人員募集を行っていることを知りました。経営に携わっているので何か出来ることがあるのではと思い、思い切って転職しました。最初は何もやれることがなかったんですが、プレゼンの資料などを美しくレイアウトしたら評判が上々で、それからは私が資料づくりを任されるようになりました。そして「営業できそうだな」といわれ、広告営業も担当しはじめました。未経験の分野でしたが、ごちゃごちゃしたサービス内容を整理して伝えるというのは今までやってきた授業に通ずるものがあって、意外とはまりました。ただ、その頃から国際的に経済不況になり、お客様は金融関係が多かったのでだんだん雲行きがアヤしくなってきました。

 そして忘れた頃に転職サイトから他の学習塾からのスカウトメールが来ていたのでそこに転職しました。本部採用になったので、お昼から夕方まで本部で仕事をして、夕方から教室に行って授業というスタイルで勤務しています。また、「ウェブや広告に強い人がいないのです」といわれ、広告の仕事も任せられるようになりました。ここでも、前職の経験が役に立っている。何がどこで生かされるか、分からないものですね。
(後編終わり)

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2009年5月17日 (日)

こんなところまで自己責任が……

 先日、吉祥寺にあるフランス製のシャツなどを扱う店で気になった光景を目撃した。どうも先日買った服を返品しにきたらしい客に、店員が何度も「お客様の責任ですから」とにこやかに繰り返していたのだ。見にくい値札を確認しなかったのも、サイズを確認しなかったのも、試着をしなかったのも「お客様の責任」らしい。たとえ袖を通してなくても返品には応じられない、と一歩も引かぬ構えだった。
 この論争が最終的にどうなったのかは分からない。しかし、ある程度の値段を取る衣料品店でも、店が客に自己責任を迫るのかと驚いた。もちろん法律的には店側が正しい。欠陥商品を売りつけたわけでもないのに、引き取る義務などない。ただ、20年前に同じようなセリフを店員が話し、納得できる人が何人いたのかと考えたとき時代のすう勢を感じた。

 朝日・読売・毎日の3大紙を「自己責任」で検索してみたところ、90年までは3紙で1年間に20~30件引っかかる程度だった。ところが91年、いきなり271件に跳ね上がる。朝日が89件、読売が92件、毎日が90件だから新聞によって違いがあったわけではない。調べてみると、「証券スキャンダル」が原因だった。証券会社が大企業や大きな団体に対して、株の損失を負担していた事件である。新聞は優遇された大企業などに対して、投資は「自己責任」原則であり、補填は企業のモラルハザードだと批判した。
 こうした記事で「自己責任」という単語が使われたのである。
 しかし「自己責任」という単語は、証券スキャンダルが収まったあとも紙面に登場し続けることになった。92年には164回、93年175回と少し落ち着いたものの、94年には253回と200代に戻り、95年には一気に429回、96年には656回、97年には673回、98年には804回、99年には848回と年々増加となった。
 この流れをつくったのは規制緩和であることは間違いない。93年に経済改革研究会がまとめた「規制緩和について」でも「自己責任原則を重視」と書かれている。このときすでに消費者保護のための規制を「必要最小限」だとうたっていることから、政府は個人への自己責任を強めようとしていたのだろう。しかしメディアの論調は必ずしもそうではなかった。
 初めて600代を記録した96年、「日本版ビックバン」といわれた金融制度改革などの規制緩和が大きな話題となっていたが、自由化で責任を取るのは銀行や証券、保険などの企業だと論じていた。大学設置基準の自由化なども話題の1つだったが、これも自由化で責任を取るのは大学という組織だった。これは「証券スキャンダル」で「自己責任」を迫られたのが企業だった91年の状況と同じだ。
 では、自己責任が個人にかぶせられてきたのは、いつぐらいからなのだろうか?
 今度は「自己責任」と「個人」という単語が両方使われている記事を3紙で検索してみた。すると95年が68件、96年が128件、97年が177件、98年が207件となり、99年に252件と過去最高を記録する。ここから徐々に件数は下がっていくので、99年に大きな山を迎えたといえる。
 その原因となったのはペイオフだった。ペイオフとは金融機関が破綻した場合に、預金を払い戻す処理方法のことを指す。一番問題になったのは、ペイオフが解禁されると1000万円以上の預金が破綻時に戻ってこないということだった。ここで自己責任は個人にも降りかかってくることだと、多くの日本人が認識することになった。そして5年後、日本人3人がイラクで人質となった際には「自己責任」論が燃え上がることとなる。
 じつは99年以降、個人の自己責任論はかなり浸透していた。2000年に自己責任に言及した記事には、豊作で米価低落に危機感を感じた農民やネットオークションでだまされた個人にも自己責任があると書かれていた。
 しかし、コレって暮らしにくくないだろうか?
 自己責任がすべて個人にかかってくるなら、間違いなくカネと権力と知識のある者が得をする。これは派遣社員を巡る悲惨な状況などを見れば、おのずと分かる。

 江口泰広・学習院女子大学教授は日経BPが掲載するインタビュー記事「リアルタイム・リテール」で、「セルフサービスとは、自分たちで顧客に商品やサービスを提供するのが本来の姿だが、コストを下げて安くしたいからできない。ならば店と顧客がコンセンサスを得た上で、手厚いサービスを提供できない代わりに、低価格で商品を提供しましょう──こういうことなんです。
 ここで重要なのは『顧客は素人だ』ということです。素人がセルフで商品を選んでいるのですから、『たまには間違いもあるでしょう。だから、その場合はいつでもお返し下さい』。こう言うのが、プロのプロたるゆとりだと私は思います」と述べている。
 
 これは商店だけの問題ではない。あらゆる「素人」にセーフティーネットを張れる余裕がほしい。弱小出版でそっと生活している私は、そう思わずにいられない。(大畑)

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2009年5月16日 (土)

Brendaがゆく!/日本の学生は幸せではない

大学生活について日本は恵まれていない国だと思う。アメリカもきっとそうかもしれない。

日本の学生はバイトばかりしている。
ひどい場合は、勉強もせずにバイトばかりしている。
もっとひどい場合は、バイトしないと生活がなりたたない人もいる。

しかし、私の経験から言って、家庭教師を覗き休み期間以外はバイトをしないようにしていたので勉強に集中できたし、それだからこそ大学の授業をとりまくっていたので普通の人の2倍は単位をとって卒業する事ができた。

だから、いい会社に就職できたし(単位のおかげじゃなくて勉強したからその知識が反映された)
だから大学の間にフランス語もけっこう勉強する事ができたし。
だから英語にもさらに磨きをかけることができたし。
もちろん生活のすべてがピアノの練習だった。
だから留学ができた。
だから今がある。

そのうえ、プライベートも充実して恋もして、遊んで、旅行にも行って。
盛りだくさんな青春だった。

ポーランドなんかを見ると日本の学生とは比べ物にならないほどお金がなくて質素だけれど、学ぶと言う事に関しては恵まれた環境で勉強のみに集中できるシステムになっている。というか試験が厳しいのでまじめにやるよりほかない(正規のコースに入学した場合。ポーランドには週末大学生というあまりに簡素な信じられない形態もあるので)

日本はアメリカのまねをしたので大学の学費が高過ぎ。

フランスもポーランドもただ。(ただしポーランドの週末大学生制度は金で学位を買うような物なのでただではなく授業料がある)

しかも、日本では日本人の学費はそこまで高いって言うのに、留学生の学費の補助しすぎ。
普通は、他国から来た人は税金払ってないのだから外国人用のもっと高い学費になるよね。

こういうことに疑問をもっている日本人っていないような気がするけど。
不景気だとか騒ぎながら、なにか不幸のヒロインじゃないけどそういう気分に浸ってるだけなんじゃないの?

本当にヤバいと思うならお金をもっと節約しろ!と言いたいが。

別に国際化とかもうしなくてもいいから日本国内をどうにかしてくれ。

豚インフルエンザがどうのこうのと騒いでいるが。
きっと一年で3万人は死なないだろう。
でも日本では一年で3万人以上のひとが自殺で死んでいる。

騒ぐのはいいかげんにしてもうどうにかしてくれ!と

みんな思わないのかしら?

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2009年5月15日 (金)

新刊案内/井上久美『中学英語で話せるようになる6種類の口ぐせ』

6shurui  新刊案内です。
 元上智大学英語学科教授の井上久美先生が、やさしい英会話の本を書いてくださいました。
 UNESCO 、 OECD 、 BIS などの国際機関での同時通訳を数々手がけるAクラス会議通訳者がすすめるのは、「自分を励ましたい!」ときに役立つフィール・グッド・イングリッシュ。日本人に多く見られる、英語への恐怖心を取り除き、一番大切なのは伝える心、コミュニケーションしようとする心だという立場から徐々に英語をときほぐしていきます。

 読み終わったら、心がハレヤカになること間違いなし!

●●●口●ぐ●せ●の●一●例●●●

I am on a cloud.
うれしい、雲の上に乗った気分!
日本語では「天にも昇る気持ち」といいますね。

Enough is enough!
もうたくさん!
「十分」という単語を二つつなげて、「もうこれ以上は許さない」という意味。いい気になってる相手をノックアウト!

Life must go on...
人生は前進するのみ
シンプルですが、力強い表現です。さあ、前に進みましょう!

You made my day!
あなたのおかげで今日はハッピー!
特別なことがなくても、さりげなくこんな言葉をかけることが出来たら素敵ですね。

おきまりの挨拶もいいけれど、思っていることを伝えるために、自分の気持ちを表現するフレーズを覚えておけば、相手とより親密になれる!
そんな可能性を秘めた本です!

5月末発売。ご予約は各書店様にて。
本の情報をもっと知りたいときは→http://www5b.biglobe.ne.jp/~astra/booklist/inoue.html

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2009年5月14日 (木)

ホームレス自らを語る 第31回 長距離トラックを転がしていた/岩下勇さん(仮名・57歳)

 小さいころからトラックの運転手に憧れていましてね。そう、長距離トラックの運転手。カーブで内ハンドルを切ったり、バックするときはドアを開けて、半身を乗り出すようにしたりしてね。とにかくカッコよくて、大きくなったら長距離トラックの運転手になると決めていました。
 運転手になりましたよ。大型の運転免許を取るのに手間取って、20代後半からでしたが、長距離の運転手になって大型トラックを20年ほど転がしました。
 生まれは新潟県の中越地方の町です。父親は無線部品をつくる工場で働く工員でした。子どものころのオレはおとなしくて、あまり目立たない子でしたね。海辺の町だったから泳ぎが得意で、小学生のころから2キロメートルくらいの遠泳は平気でした。
 学校は高校中退です。3年生に進級したところで辞めました。クラスメイトとの人間関係がうまくいかなかったからです。いや、いじめとか、そういうことはありませんでした。
 それで父親の知り合いが東京で工務店を経営していたので、そこに就職しました。そこで働きながら、運転免許証を取って運転手になるというのが、オレの計画でした。
 工務店での仕事は型枠大工でした。この工務店時代には霞が関ビルの建設に参加しました。日本で最初の超高層ビルで、JV方式の工事というのもあれが最初だったんじゃないのかな。そんな工事に参加できたのは、オレの誇りのひとつですね。
 それに結婚したのもこのころでした。仕事帰りによく飲みにいった店に、やはり客として飲みに来る女性がいて、親しくなって結婚しました。子どもは女の子がひとりです。
 そのころは工務店の仕事が忙しくて、車の免許を取りに行く暇がなくて、そのうえ結婚までして、さらに運転免許証どころではなくなっていました。
 そんなある日曜日に新宿の街を歩いているときでした。自衛隊のスカウトに捕まって、しきりに自衛隊入りを誘われたんです。スカウトの彼は車の大型免許を取るなら、自衛隊に入れば一発で取れると言うんです。
 一般には最初に普通自動車用の運転免許を取得して、大型の運転免許を取るまでには2年間の経験が必要なんです。だから、オレには大きな魅力でした。それでその場で自衛隊入りを決めていました。駐屯地は旭川(北海道)で、カミさんは「相談もなしに決めるなんて」と怒っていましたけど、旭川までついて来ましたね。
 部隊では志願して輸送隊に入りました。輸送隊に入ればいや応なく大型の運転免許が取れますからね。自衛隊の訓練は思ったほど厳しくはなかったです。それより冬の旭川の寒さのほうがこたえましたね。

 自衛隊には3年間いて、満期除隊で除隊しました。それでようやく念願の長距離大型トラックの運転手になれました。私が入ったのは長野の運送会社で、何で長野の会社だったのか覚えていませんが、スポーツ新聞の募集広告でも見て受けにいったんだと思います。
 仕事は忙しかったですね。物流が国鉄(いまのJR)貨物輸送から、トラックに代わりつつあるころでした。だから、一度長野を出ると10日から、2週間は帰れないというのがあたりまえのようになっていました。
 カミさんのほうは知らない町のアパートに放っておかれる生活で、それに不満をもち始めていましてね。そんなときにオレが浮気騒動を起こして、カミさんは完全にブチ切れてしまい離婚になりました。オレが本当に愛していたのはカミさんで、浮気は軽い遊びの気持ちだったのですが、それをいくら説明してもカミさんには通じませんでした。
 それからも私は長距離の運転手をつづけました。日本の物流はますますトラックが主になっていき、仕事は忙しくなるばかりでした。長野から九州へ荷を運んで、そこで積み替えた荷を北海道まで運ぶなんてこともさせられました。だから、借りていたアパートの部屋に泊まるのは、月に1、2度というのがめずらしくありませんでしたからね。その分、稼ぎもよかったです。
 そのころには高速道路網が全国的に整備されましたけど、私はよほどのことがない限り一般道を使って高速代は浮かすようにしました。これが結構な余禄になりましたね。
 トラック輸送に翳り見えるようになったのは、バブル経済が崩壊してからです。運送会社が少ない荷を奪い合って、ダンピング競争が始まり潰れた会社も多いです。オレも49歳でリストラされて、トラックを降りました。
 それから大阪に出て町工場で働きましたけど、3年で工場が倒産。それで東京に出てきたんですが、こっちも不況の真っ最中で、オレも50歳をすぎていたから、もうどこも雇ってはくれません。しばらくは昔の蓄えでしのいでいましたが、そんなのはすぐに底を突いてきますからね。
 この公園(新宿中央公園)で野宿をするようになったのは、4年前からです。野宿をするようになって、ある手配師と知り合いになり、オレが運転免許を持っていることから、車に作業員を乗せて現場や駅に送り届けるバイトをさせてもらっています。それが唯一の現金収入です。
 考えてみると、オレの人生は何だったろうと思いますね。トラックによる物流全盛のころは、死ぬほど働かされたのに、いまは一文なしで路上に野宿をする生活ですよ。ギャンブルに狂ったわけじゃないし、女に入れ揚げたわけでもない。なのに、どうしてこういうことになってしまったのかね……。」(聞き手:神戸幸夫)

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2009年5月12日 (火)

草なぎ剛・公然わいせつ容疑逮捕の現場を歩く

 4月23日、SMAPの草なぎ剛さん逮捕のニュースで大騒ぎとなった。
 午前3時ごろ、六本木の東京ミッドタウンに隣接する檜町公園で、素っ裸で奇声をあげいたところを近隣住民から通報された。
Photo  現場に3人の警察官が到着したとき、彼は1人あぐらをかいて芝生に座っていたという。しかし「裸だったら何が悪い」と暴れ、公然わいせつ容疑で逮捕となった。裸なのは事実だし、保護シートにくるまれて搬送されたというから、かなり暴れたのだろう。しかし逮捕するほどの「事件」なのだろうか。まして家宅捜査にいたっては、薬物を疑ったとはいえ、そこまでするかという気がする。
 逮捕を受けて、レギュラーのテレビ番組は彼の出演シーンをカット。テレビCMも次々と放送を自粛した。いきなり穢れた存在となってしまった。

 しかし飲んで騒ぐなら、せめて1年半前までにしておけばよかったのにと思わざるを得ない。07年12月までは、通称「トラ箱」、正式名称・泥酔者保護所があったからだ。
 60年に鳥居坂保護所(港区)と日本堤(台東区)に開設。70年に三鷹(三鷹市)、52年に早稲田(新宿区)が設置された。76年の収容者は、なんと年間3万5109人だというからすごい。ところが、この年をピークにどんどん収容人数は減少。保護所も順次閉鎖され、最期に残った鳥居坂保護所の収容者が1日平均1.4人となり、先に書いた通り07年12月に閉鎖となった。
 この最後のトラ箱閉鎖を伝えた07年12月17日の『産経新聞』には、「花見や忘年会のシーズンは満員となることもあった。大暴れしていても、酔いがさめれば頭を下げて感謝して帰っていくのが日常の風景だった」という警視庁地域部関係者のコメントが載っている。
 つまり、そんなものだったのだ。

 もちろん保護室が全廃されたわけではない。地域の各警察署に保護室がもうけられているからだ。60年に局長通達で各警察署に保護室を設置するよう指示を出しており、警察庁広報部も「すべてとは言えないが、ほとんどの警察署には(保護室)が設置してある」と回答する。
 ただし、それほど活用されているわけではないらしい。09年5月2日の『毎日新聞』社説では、「留置場の容疑者らに迷惑がられるいせいか、“トラ箱”ほどには活用されていない」と書いてある。事の真偽を確かめるべく警察庁の広報に電話をすると、「そこまでは把握していない」と言いながら少なくとも否定はしなかった。
 泥酔者が嫌われるのは、一般車社会だけではないようだ。

Photo_2  草なぎさんが逮捕された檜町公園に足を運んでみた。元毛利家の下屋敷だった伝統を重んじたのだろうか、池を配した素晴らしい日本庭園と子どもも遊べる芝生が広がっていた。カップルや家族連れ、おしゃれなOLさんや外国人の親子が公園を散策している。彼が逮補された芝生の丘の上には、見上げるばかりのミッドタウンタワーが建つ。
 清潔で、高級で、安全で、誰からも非難されようもない、隙がないほどステキな空間。草なぎさん自身、このミッドタウンに住んでおり、トップアイドルだったわけだから、この住民としてふさわしい人間だったといえる。

 でも、それって幸福なのだろうか?

 自身、下戸でもあるし、酔っぱらいが好きなわけでもない。ただ息苦しさを感じてしまう。
 そもそも六本木自体、それほど美しい町ではない。2・26事件に関係した歩兵一連隊と三連隊の駐屯地が、敗戦とともに米軍に接収、兵舎が建てられた。その米軍相手の店が立ち並び始める。56年あたりから、やっと日本人相手の店ができ始めた。そこで遊び始めた若者たちが「六本木族」と呼ばれ、マスコミを賑わしたというから派手で危ない街だったのは間違いない。
 ミッドタウン自体、防衛庁の跡地である。少し繁華街から外れていることもあり、90年代には脇の道にはかなりの車が止まっていた。塀に囲まれた暗い敷地があったことにしか記憶がない。

Photo_3  逮捕現場から鳥居坂保護所にも行ってみた。ブラブラ歩いて25分。夜中に車で移動するなら、わずか数分だろう。アマンドのある六本木の交差点を越え、東京タワーに向かって歩く。ロアビルやドンキホーテを越え、首都高にぶつかったら右折。マンションにしか見えない建物だったが、看板は当時のままだった。最盛期の朝には酔いの覚めた人たちが続々と吐き出されたのだろう。

 現場を回っていて、法政大学で「法政の貧乏くささを守る会」を作った松本哉さんを思い出した。この会の説明で次のような文章がある。
「元々極めて貧乏くさかった法政大学でも、こぎれい化(=上智・青学化)が進行しており、このまま放置しておいたら極めて居心地が悪くなりそうだ! という事で、『法政の上智・青山化阻止!」をスローガンに決起し、法大当局の上智・青学化路線と全面対決しているのが、我々、法政の貧乏くささを守る会である」
 誰も反対できない美しさの中で、居心地が悪くなっていく。それって幸福なのかと、改めて感じた。(大畑)

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2009年5月11日 (月)

書店の風格/第32回 啓文堂書店渋谷店

★★★★★★★★

連載の前のコマーシャルです。
先月、新刊『出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代』を弊社から出版した塩山芳明が、来たる5月19日阿佐ヶ谷ロフト

「『マンガ論争勃発2』発売記念!! 昼間たかし東大入学お祝いイベント
永山薫vs昼間たかし これが現実だ!と、言われても・・・」

に出演します。

詳しくは↓
http://ameblo.jp/mangaronsoh/

お申し込みは
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/reservation/reservation.php?show_number=106

出演者は
永山薫(批評家)
昼間たかし(ジャーナリスト/東京大学大学院情報学環教育部研究生)
塩山芳明(エロ漫画編集者・文筆家)
市川孝一(コミックマーケット準備会共同代表)
金田淳子(社会学者)
武田“コックローチ”圭史(赤ブーブー通信社)
中田雅喜(漫画家)
三崎尚人(同人誌研究家)
増田俊樹(映画監督)
大塚麻恵(女優)

と、たいへん豪華。一見の価値有りです。こぞってご参加下さい!

★★★★★★★★

 さてさて、渋谷といえば若者の街。ハチ公側はそんな感じだけれど、でもやっぱりビジネスの街でもある。特にそれを感じ取れるのは、ランドマークタワー側。ホルモン屋や焼き鳥屋の並ぶ通りはスーツ姿で賑わう。そんなところに、啓文堂書店渋谷店はある。

 ランドマークタワーの裏側からはいると、入り口をくぐったと思ったら下り階段がある。まるで要塞に潜り込むかのようだ。踊り場の棚が文化の発信地であり、チラシや試写会ハガキが豊富に並んでいる。なめるようにしながら売場へ下ると、まずは話題書が大きな平台にどかんとデコレイトされてある。面白いと思うのは、この構成だ。棚の1つ1つはもちろんのことなのだが、平台の1つ1つも、そのまま一個のジャンルを獲得しているのだ。店の中央通路に転々と平台が置かれてあり、新書台、文庫の台、フェア台とにぎやかだ。いまのフェアは「飲食店経営フェアー」。まわりの建物を思い浮かべると、何ともキャッチーだ。きっと休憩中にぷらり立ち寄る店主のためのお役立ち企画。この不況を、みんなでぜひとも乗り越えたいものだ。

 地下は、入って向かって右側が新書や文庫や軽めの本、左側が専門書としっかり別れているので、目的に従ってブラウジングしやすいつくりになっている。そして一階は、ドーンと全てコミックフロアである。だからといって落ち着かない印象は受けない。やはりオトナ向けのもの、コアなもの、マニアックなものが厳選されており、渋谷という土地を思わせる品揃えだ。

 ビジネスマン向けの書籍が多いかと思いきや、結構カワイイものや実用書もある。むしろ入り口まわりはそんなものが多く配置され、華やぎを持たせている。朝九時から夜11時までというロングな営業時間も、働く女性の味方。楚々とした店構えも魅力だ。ハチ公前、TSUTAYAやブックファーストがどうしても目立つけれど、ほっこりゆっくり本を選びたいなら断然おすすめである。(奥山)

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2009年5月10日 (日)

ホームレス自らを語る 第30回 昔ツッパリ いま仏様(後編)/新垣智之さん(仮名・63歳)

 新宿西口地下通路に、段ボールハウスを最初につくって住むようになったのはオレだよ。あそこに段ボールハウスをつくった第1号だと名乗るやつは多いけど、正真正銘の第1号はオレだからね。ウソじゃないよ。
 いつのことだったのか……ずっと昔のことだからさ。もう覚えていないな。オレがハウスをつくると、すぐに7個のハウスができて、それからぼつぼつできるようになった。ハウスが急速に増えて、左右の通路に隙間なく並ぶようになったのは、バブル経済が崩れてからで、ハウスの数は200個までになっていたからな。
 オレが生まれたのは沖縄の那覇。沖縄の高校を出て、本土の長良川(岐阜県)のホテルで料理人になった。10年ほどして、沖縄に帰りレストランに雇われて働くようになる。その間に結婚して、子どもは女の子が一人できた。
 ところが、数年してレストランが倒産。何の蓄えもないから路頭に迷うことになって、女房、子どもとは別れた。女房はどんなときでもオレを立ててくれる、心のやさしいいい女だったけど、食わしていけないんだから別れるより仕方なかった。
 当時はベトナム戦争の真っ最中で、沖縄も血腥くて険悪だった。戦場から帰休している米兵たちは、気がすさんでいるからケンカが絶えなくてさ。バーなんかでケンカがあると、オレは英語ができたからよく仲裁役をたのまれた。背が2メートル近くあって、丸太ん棒のような腕の米兵同士のあいだに割って入るんだかね。ちょっとした命がけだったぜ。
 そんなことばかりしていても仕方ないから、オレは大工をしている友人の下に見習いでついて、大工の仕事をひと通り覚えた。それでふたたび本土に渡って、東京に出た。一旦は練馬の工務店に就職するが、すぐにやめて日雇いになった。
 新宿西口の地下通路に段ボールハウスをつくったのは、そのころのことだ。そこから毎日日雇いの仕事に通うようになったわけだ。
 そのうちに段ボールハウスが、どんどんできて通路に隙間なく並ぶようになった。そうしたら山谷の争議団というのが、新宿に乗り込んできたんだ。いつのことだったか、覚えてないが……平成6(1994)年? そうだったかな。
 それで新宿のホームレス問題は、争議団のほうで仕切ると言い出したんだ。「冗談じゃねえ。ここを最初から仕切っているのはオレたちだ。途中からノコノコ出てきて、ヤクザの縄張り荒らしのような真似をするんじゃねえ」というのがオレたち言い分だった。
 それからしばらく両者は反目し合って、睨み合いの状態がつづくことになった。うん、かなり関係は険悪だったな。しばらくして、争議団の代表という3人が、オレのところに話し合いにやってきた。そこでホームレスが2派に分裂して対立しているのは、行政側に段ボール村を潰す根拠を与えることになるだけだということになって、たがいに協力することで話がまとまった。それでできたのが新宿連絡会(新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)というわけだ。

 平成8(1996)年1月に東京都が警察官とガードマンを動員して、地下通路の段ボールハウスの強制撤去を強行した。このときホームレス側の先頭に立って、警官隊と向かい合って抵抗したのは、オレとその仲間たちだぜ。火をガンガン燃やして気勢をあげてな。テレビのニュースでも映っていたよ。
 それから段ボール村で火事があったろう。平成10(1998)年か……この火事をきっかけにして新宿連絡会の説得で、全員地下広場から自主退去することになった。だけど、オレは反対で最後まで抵抗したんだけど、力ずくで片付けられちまった。
 思えば地下通路に最初に段ボールハウスをつくったのはオレだったし、地下広場に最後まで残ったのもオレだったわけだ。
 そんなことをしているから、オレのことをヤクザだと思っているのがいるが、オレはヤクザじゃないからね。ただの酔っ払いだからさ。
 酒は好きだった。毎日浴びるように飲んだ。若いころにビール3ケースに日本酒5本、それにウイスキー3本を一度に飲んだことがある。どうなったかって? 1週間眠りつづけたよ。途中、幾度かトイレに起きて、そのたびに水をんでは、また眠る。1週間その繰り返しだた。
 40歳のときだっかな、急にぶっ倒れて昏睡状態になったことがある。酒の飲みすぎによる肝硬変だった。そのころは毎日1升(1.8・)からの焼酎を飲んでいたからね。救急車で大久保の病院に搬送されて、半年も入院させられたんだ。
 半年して退院したけど、薬で酒を受付けない身体にされてしまって、飲みたいけど飲めないイライラがつづいてノイローゼになってしまった。こんどは三鷹の病院に3度も入院した。長いのでは1年間も入っていたよ。
 退院するにあたって、飲酒は禁じられたけどやっぱりやめられないよね。いまもこっそり飲んでいる。このあいだ新宿福祉の係員に見つかっちゃってね。身体を調べられて、脚が腫れ、腹も膨らんでいるから至急入院しろと言うんだ。だけど、病院なんかに入ったら、何もできなくなるからね。身体の動く間は、ここでがんばりたい。
 まあ、先のことを考えると真っ暗だね。若いころは好き放題やって、酒を浴びるように飲んでね。いまじゃ何もできなくなっちまった。「昔ツッパリ。いま仏様だ」(聞き手:神戸幸夫)

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2009年5月 9日 (土)

Brendaがゆく/ふと思い出した喜ばしい別れ

先日ポーランドに里帰りしていた時の事。

私の音楽の友、アーシャとその夫マレクが駅まで送ってくれた。

大きな連休の前であったので駅の切符売り場は混んでいた。

電車にもう間に合わないというとき、マレクが走り出して

「電車を止めておくから!」と一言さけんで走って行った。

私は、久々に温かな気持ちになった。。。

その理由は、、、日本でもフランスでもそんなことができないことを私は知っている。

そしてその言葉のとおり、私がアーシャと共にプラットホームを駆け上がる間、電車は、二人の車掌さんと共に私を待っていてくれた。

車掌さんたちは

「早く、早く、お嬢さん!」と言いながら笑顔で私を迎えてくれた。

いつも別れる時は、強く抱きしめ合って、別れの言葉を交わすけれど
今回は、私はとにかく電車に飛び乗った。

抱きしめ合えない事に一抹の寂しさを感じたけれど、見送る二人の姿を見て心で抱きしめ合うと言うか、そんな気持ちになった。

走り出す電車の窓から二人の姿を見るのはとても切ない。

次はいつ帰れるのだろうか。
そういうことを考えると気持ちの整理のつけようがない。

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2009年5月 8日 (金)

チームLSD 忌野清志郎・最期の転身

 ロック歌手の忌野清志郎が他界した。咽喉癌から転移したリンパ系の癌である。
 3年前に咽喉癌を発病。まだ初期だった。喉にメスを入れれば、生存の可能性が高かった。が、歌手としての生命線を守って、放射線治療を選択した。
 高校のときだった。RCサクセッションというバンド時代に聞いた。印象に残ったが、日本の音楽シーンに関心をなくしたので彼らがどこに消えたかも知らなかった。ところが、15年以上して、世はバブル。テレビを見ると、際物臭いメーキャップを効かせ、忌野清志郎がソロ歌手に化けていた。バンド時代の路地裏からの哀歌と弾けた音調の混合と較べ、別人かと思ったが、声の力感と艶はたしかに忌野だった。三菱のランサーのCMで歌っていた。テレビの中の忌野清志郎を横目で見つめただけだった。
 ところが、6年か7年前だったと思う。突然戻ってきた。ノーメークのおやじ姿をさらして。自転車専門雑誌のグラビアの主人公だった。ついに音楽雑誌で出る場所を失い、業界雑誌かよと思いかけたが、そうではなかった。忌野は自転車乗りに変貌していた。
Photo  ウン十年前になるが、小生、三文現役選手だった頃に、町田にある「ケルビム」という個人工房で作り、カスタムフレームにイタリア部品をつけて愛用した。忌野の方は50になって目覚めて、日本で数社残ったカスタムフレーム製作所のケルビムを乗りまくりだした。 
 奇遇である。そのときは注目した。親しみをおぼえた。彼の音楽ではなく、パフォーマンスに。
 忌野はさすがに業界人。自転車専門の雑誌メディアを味方にひきつけ、東京から鹿児島。あるときは東京から東北。サルサを聞くためだったが、キューバも走っていた。芸能人の遊びの領域を超えていた。トレーニングをして体を作り、走りのコツを専門人からどんどん吸収していた。その様子はなれた乗車フォームを少し見れば想像できた。忌野は、チームLSD(Long and Slow Distance〈長くのんびり走ること〉の略)も結成し、連日、130キロ程度、ときには160キロ超えのツーリングをした。平均時速で22キロ前後。断じて速くはないが、禁煙までしてがんばる姿を見て、内心応援していた。芸人は何でもやらんといかんなあと内心、怠惰な己を叱りながらも。
 忌野の享年はまだ58歳。腰などに癌は転移した。歌を放棄せずに寿命を短くした結果だろう。人の数倍の密度で生きたロッカーにとって、早世は、あの世に進む挑戦だったのか。陳腐だが、そう思うしかない。ダニみたい小悪人が長寿するのが人生の実相。その差はウン十年。人類史から見れば、たいした差はない。忌野の名は多くの人の心に刻まれた。
 日常についていえば圧倒的に読む量が多い。連日連夜3冊から5冊のペースである。斜め読み、あるいは、最初の10ページでポイもあるが、地元の図書館では、小生も奇人扱いされている。あるときは統合失調症について。またあるときは公共事業について。キリスト教神学で固め撃ちにしたこともある。新潮社と約束したままの書き下ろしの資料として製鉄関係はほぼすべて。戦前の芥川賞受賞作品全集のときもあった。岩波、中央公論、時には文春、新潮関係の新書はほとんど。正統派のノンフィクションもほとんど。今は来月に予定している四国から紀伊までの自車旅行に備えて、『街道の日本史』を紐解いている。連日、ペダルを踏んでももう飽きる。事前に雑学である。
 今回は四万十川を走る。日本でただ一つダムがない川だという。諌早干拓がらみで、日本の自然がいかに破壊されてきたかを少し知った。どこもコンクリートだからである。海も山も。最後の秘境を見ておきたい。
 四万十川から高知に行く。高知の後は紀伊半島経由で、日本の山岳仏教を見る。うっかりしていた。まだ伊勢参りはしたことがない。ゴールは伊勢神宮。連日テント。予算は一日2000円。今年の夏にフランスからスペインのサンティアゴ聖地巡礼1200キロを自転車で計画しているので、その予行演習である。できれば帰路イスラエルを歩き、インド南部ゴアにある聖ザビエルの墓を見る。
 四国行きの今月末にスタートしようと練習しているが、なんとかなるのも、40キロが限界。それ超えると飽きる。風景が変わらないと駄目。人は脳内の刺激を追って走っている。新しい風景は脳内のセロトニンを刺激する。
 使う自転車で悩んでもいる。忌野清志郎が最初に乗ったケルビム製のフレームが小生のガレージにもぶら下っている。彼とは違い25年以上前に手に入れたものである。アメリカ時代には中西部に持っていた。かの地でもそれなりに走った。もうお釈迦近い状態の骨董品だが、累計で5万キロは乗った気がする。人も機材と同じように、風雨にさらされ、等しく消えていく。You Tubeにはサイクリングを唄ったありし日の忌野清志郎が悲しくも残る。You Tubeで「サイクリング・ブルース」を検索してほしい。忌野清志郎の走りが映る。
 合掌。(李隆)

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2009年5月 7日 (木)

靖国神社/第16回 祈年祭と建国記念祭(下)

 さらに驚いたのは2月11日に建国記念祭が行われていたことだ。2月11日といえば建国記念の日。つまり元は紀元節。紀元前660年に神武天皇が橿原の宮で即位した日である。
 そもそも紀元節の日程を定め紀元節祭を行うようになったのは1872年。当初、定めた1月29日が民衆から旧正月の祝いだと間違われたことからも分かる通り、当時、明治政府が国家神道を進める道具として定めた祝日だった。
 しかも橿原の宮に橿原神宮が創建されたのは1890年である。同年に教育勅語が発布されていたことを考えると、この建設の意味は分かりやすい。
 さて、問題は靖国神社がこのような経緯の祭祀を祝っていいのかということである。
 もともと靖国神社は東京招魂社として創建され、当初は神官が居なかった。軍人が祭主を務め招魂祭が行われていた。別格官幣社となり靖国神社と改称される前年までは神官不在の招魂祭が開かれていたという。
 つまり東京招魂社から10年をへて神社らしく装いを整えた靖国神社が国家神道推進のための祭祀を続けたいのだろうか。いや、続けたいのかもしれんが……。
 しかも英霊の集まる場所で神武天応の即位を祝っても……。歴史学的には実在が怪しいと思われている神様の即位である。自分たちは本当に死んだのに、と英霊は思わんか? いや、思うかは怪しいが……。
 いずれにしも大江志乃夫が『靖国神社』で記している通り、「靖国神社の教義は、もともと民間信仰に属する御霊信仰に発している」。つまり怒れる怨霊を鎮めて平穏と繁栄を得ようとする気持ちが、靖国神社の源に流れているといえる。
 そうした信仰心を表すかのように、歴史的にはサーカスやプロレスの興業などが行われ、イデオロギー抜きのイベントが頻繁に開かれてきたのである。
 素朴な信仰をイデオロギー的に利用した歴史が靖国神社の通った1つの道筋であるなら、古来からある祭祀、あるいは純粋に英霊に喜ばれる祭祀こそ重要とはいえないだろうか。
 実際、靖国ではどのようにして建国記念祭を祭るのか聞いてみたが、なぜか先ほどあげた祈年祭と同じく、祝詞をあげるという極めてスタンダードなものだという。
 取材の帰りに外苑休憩所に立ち寄ってみた。
 なんと、土産物屋の店頭には「アッキークッキー」が並んでいた。説明は不用かもしれないが安倍首相婦人である。さらに横には麻生太郎氏のキャラをたてたカステラが。いつの間にここは政治家の顔が並ぶ場所になったのだろう。
 やはりこの神社には平然とミスマッチが居座っているような気がしてならない。英霊と祈年祭。土産のお菓子と政治家。(編集部)

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2009年5月 5日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/若葉の頃

○月×日
 「若葉の頃」だよね。

 新緑がまぶしい。初夏の日差しを浴びながらキラキラと輝いている。穏やかな風を受けながらゆらゆらと揺れている。
 木々の緑が日に日に成長していくのが手に取るように分かる。もこもこ、ゆさゆさ、ぐんぐんと、それは無限のエネルギーに満ち溢れ、新しい何かが始まる予感さえする。
 一年で一番清々しく、私の最も好きなこの季節。身近な自然で、この時期の緑のコントラストほど心を和ませてくれるものは、他にないと思っている。

 あれは私がまだ中学に上がったばかりの、ちょうどこの頃だったと記憶する。近所の友達のお兄さんがポータブルステレオを買ったという。今でいうCDラジカセみたいなもので、当時でおそらく1万円近くはしたと思う。誰もが持っているものではないから、もうそれだけでスゴイと大騒ぎだった。だが、シングル盤なら収まるが、LP盤をターンテーブルに乗せるとその機器からはみ出してしまうという代物なのである。それでも音はちゃんと出るから問題はなく、何よりそれが所定の正しい使用方なのだから。また、そんな機器を持っているのはそれこそ贅沢という、そんな田舎の町で、そんな時代でもあったわけだ。
 そのお兄さんは、「ビートルズだけが洋楽じゃないからね」みたいなことをいいながら、その頃「マサチューセッツ」などのヒットで有名なビージーズというグループの歌を聴かせてくれたのだった。

 それからは私も、このポップで美しいサウンドとハーモニーに魅了され、ずっと追い続けてきたのだが、70年代後半に大ヒットした映画「サタディ・ナイト・フィーバー」の主題歌あたりからの作品は聴いていない。
 理由は、いくら時代の流行とはいえ、これまでのポップス路線をあまりにも大胆に転換したということに嫌悪閉口してしまったからに他ならない。つまり、ディスコサウンドには興味が持てなかったということだ。それでもビージーズにとっては売れに売れ、世界的に大成功を収めたわけだが。

 それはさて置き、この時期になると必ず思い出すのがこのビージーズなのである。中でもどうしても聴いてしまうのが初期のこの作品。
 歌詞はクリスマスツリーやリンゴが木から落ちるといった冬の記述が多いのに、タイトルは「First Of May」、邦題は「若葉の頃」。要は、子どもだった頃の恋を回想する歌なのだが、お馴染の映画「小さな恋のメロディ」の挿入歌としても有名な曲だ。
 何ともキレイな曲で、聴いているだけで新緑に包まれているかのような気分にさせてくれる。それが気だるい午後であれば、心地よい安らぎで一杯になり、いつの間にかまどろんでしまいそうに癒される。ふと、暫しのうたた寝からハッと気が付くと、不覚にもよだれを垂らしたりしている自分がいる。でも、いいんだよな、これがまた。わっかるかなぁ……。(斎藤典雄)

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2009年5月 4日 (月)

●ホームレス自らを語る 第29回 景子さんの性犯罪(前編)/景子さん(通称・44歳・男性である)

0905 (景子さんの話は前後の脈絡がなく縦横無尽に飛んだりして、要領を得ないところが多かった。以下の話は聞き手が多少の類推を加えて再構成したものである)
 オレの趣味は、女装して街を歩くことなんだ。女装して、髭を剃り、化粧して、女性用の鬘をかぶって街を歩く。それで人の視線を浴びると、何ともいえずスカッとする。最高のストレス解消になるからね。
 だからといって、ゲイじゃないんだよ。その辺の違いは、自分でもうまく説明できないけどね。
 名前? 通称は景子。一応は景子で通っているけど、ほかにもいくつかの女名前を使い分けている。本名はかんべんしてよな。
 今日も女装しているんだ。ピンクのブラジャーに、ニットをネット編みにしたセーター、紺のタイツにスカートを穿いているよ。だけど、髭を剃ってないからさ。そんな髭面で女装もおかしいから、ジャージの上着とズボンを着けて隠しているんだ。
(景子さんは着用している下着やスカートを見せてくれる)。
 女装の趣味に目覚めたというか、女装するようになったのは、中学校を卒業して働くようになってからだね。
 生まれは昭和39(1964)年、福島県の会津地方の田舎町。兄弟は4人で、オレが長男だった。
 オヤジは元炭坑夫で坑道深くに入って、石炭をトロッコに積むのを仕事にしていたようだ。オレが生まれた頃は、炭坑夫はやめて建築作業員をやっていた。そのオヤジが作業中に鉄骨の柱に脚を挟むという事故に遭って、大ケガをして歩行も困難な身体になってしまう。それで働けなくなって、家でゴロゴロしているようになる。朝から酒浸りの毎日だったね。オレが中学3年生のときのことだ。
 代わってオフクロが働きに出たけど、妹や弟たち3人はまだ小さかったから大変だったと思うな。

 その中学3年生のとき、オレに好きな女の子ができた。だから、それまではごく普通の男の子だったんだ。で、思い切ってその子に告白したら、あっさりフラれてしまってね。オレが変わったのは、それからのことだ。
 女の人というか、女の人の身体に憧れるようになってね。自慢げにあらわにした形のいい胸、ミニスカートに包まれた丸々とした尻、それに何といっても脚だよね。女性の魅力は、脚の形がいいことに尽きる。男の脚の脛毛をいくらきれいに処理しても、あの脚線美には近づけないからさ。
 それで男が女の身体になれないなら、せめて女装をしてその気分を味わってみようとしたわけだね。実際に女装するようになるのは、もっとあとになってからのことだけど……。
 中学校を卒業して、就職するまでに1週間あった春休みのことだ。家の近所を歩いていたら、ある家の庭先に洗濯物が干してあって、そのなかに女性用の下着が交じっていたんだ。急にそれがほしくなって、その庭に忍び込むと干してあった下着に手をかけていた。だが、その家の人が物音で気付いて、オレは捕まえられ、警察に突き出されてしまった。
 それでオレの精神に問題がありということで、神奈川にあった医療少年院に送られて治療を受けることになった。ただ、オレ自身では精神に問題があるとは思ってなかったし、実際に下着ドロも未遂で、しかも初犯だから、自宅に帰されて保護観察処分という措置もあったんだ。
 担当の係官から、どちらを選ぶかと聞かれ、自宅に戻っても下着ドロという破廉恥な罪を犯しては、羞ずかしくて街も歩けないからね。それで神奈川なら家から離れているし、知っている人もいないからいいかなと思って、自分からそちらを希望したんだ。
 その医療少年院には1年3ヵ月間入っていた。退院のときは身元引受人として、普通は親が来るらしいんだが、うちの場合はオヤジが歩行困難な身体だし、オフクロもわざわざ神奈川まで来られるような状態じゃなかったからね。それで町田市(東京都)の保護司の人が、身元引受人になって引き取ってくれた。
 その保護司の人は就職先も探してくれて、電気のプラグをつくる町工場に就職した。従業員10人くらいの小さな工場だったけど、寮があってそこに入れた。
 女装をするようになるのは、その頃からだよ。週末の夜などに、女装して街を歩くようになったんだ。
 そのときも土曜日の夜で、女装して街を歩き回ってから、まだ寮の部屋に戻る気分にならなくて、寮の近くにあった公園のベンチで休んでいたんだ。時間は深夜の1時を回っていたと思う。そんな時間に外灯も少ない薄暗い公園に入ってくる女の人があってね。
 オレは前後の見境なく、その女の人に襲いかかると、公園の植え込みの陰に引きずり込んでレイプしていた。相手の女性は、40代前半の主婦だった。行為のあと、その人に交番まで連れていかれて現行犯逮捕された。
 だけど、あんなに夜遅い時間に、女の人が一人で公園を歩くなんて非常識だろう。警察に逮捕されたりして、オレのほうこそいい迷惑だよね。こっちのほうが、被害者だといいたいくらいだよ。
 前の下着ドロも、このときのレイプ事件も、突発的に起こったことで計画性はないからね。出来心というか、魔が差したというか、自分でもよくわからないうちに行動してしまうんだ。だから、そういう性的な犯罪と、女装の趣味は別のことで繋がってはいないからね。自分ではそう思っている。(この項つづく)(聞き手:神戸幸夫)

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2009年5月 3日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/番外編 天国でもおくりびと―『ワンダフルライフ』

 世の中はゴールデンウィークというものに突入したようだ。

 だからこちらも息抜きに番外編として、たまには映画でも見てみたいと思う。

 『ワンダフルライフ』(1999年日本、テレビマンユニオン)は、是枝裕和監督の2作目の映画だ。
 舞台は一見、さびれた病院のような施設。しかしそこは、あの世とこの世の境目であり、死者がまず訪れることになる建物だ。死者はそこで「生きている間、もっとも印象に残ったこと」を一つ選ぶことになる。その体験談を元にスタッフが一生懸命映像を作る。死者は映像を見ながら、思い出が頭に鮮明に思い浮かんだ瞬間、天に召されるのだ。
 スタッフはいわば天国の番人なのだが、特にファンタスティックな衣装を着ているわけではなく、謎の道具も使わない。普段着のお役人たちが集まっているような「職場」であるのが面白い。さらに死者たちも、格式ばって思い出を披露するといったふうでもない。一般人が入り混じっているからだ。おばあちゃんの茶飲み友達が話す遠い記憶を聞いているようなリアルさが、そこにはある。

 「生きている間、最も印象に残ったことは何ですか?」

 この問いに即答できる人はいるだろうか。
 個人的には地下鉄サリン事件や阪神大震災など多感な頃にニュースで見たようなことばかりが思い浮かぶのだが、なんと天国では、その思い出の一瞬を胸に抱きながらずっと過ごすのだという。強烈だったからといって不幸な思い出を選べば、天国でずっと不幸なままということになるのだ。

だからこそ、映画では

「あなたの大切な思い出を一つだけ選んでください」

という言い方になっている。

 鮮明に覚えていることが、そのまま大切な思い出であるという人は、なかなかいないのではないか。だからこそスタッフが誘導しながら死者一人ひとりの思い出を探っていくのだが、なかなか選べない人がやはり出てくる。そういった人々に思いを重ねながら、はて私ならどんな思い出を胸に旅立ちたいだろう? とゆっくり自問ができる優しい映画である。

 思い出を選んで3日間、それを元に映像をこしらえてもらう3日間、映像を見ながら永遠に旅立つ最後の一日。人生の最後に、こんな贅沢な一週間が用意されているとするならば、死ぬのもなかなか悪くない。

 私ならば、「母親にも名前があると気づいた瞬間」を選ぶかもしれない。あの驚きは、爽快だった。

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2009年5月 2日 (土)

アフガン終わりなき戦場/第17回 アメリカナイズとの闘い(下)

「ふーん。俺はムトワキルの言っていることは、今のアフガンの状況そのものだと思う。間違っちゃいないよ」
 酔いの回ってきたワリッドは、私のライターをいじりながら言った。
「でも、何か引っかかる?」
「俺はタリバンの支配する社会なんてごめんだってことさ。タリバンじゃなくても、アフガニスタン自体ノー・サンキューだよ。だから、さっさとアメリカにおさらばするさ」
「ふむ」
 ワリッドはアフガン人としては宗教色が皆無の人間と言ってもいい。宗教にも戦争にも興味は薄い。他のアフガン・エリートと同様に少しでもいい生活を求めて、チャンスがあればアフガニスタンを離れようとする。
 私が雇ってきた通訳も彼を除外して3人がすでに外国暮らしだ。悪いことだとは言わない。より良い生活を求めることは当然だ。けれど、彼らのようにアフガニスタンを出ることができるのは限られた一握りのエリートだけだ。99.9%のアフガニスタン人は、素朴にイスラム教を信じ、ひたすら乾いた大地に作物の種を植えるような人たちだ。

 私は少し話し疲れて、パソコンのiTunesでビートルズの「ガール」をかけた。メランコリックで、内省的な曲だ。プレイリストではその後に「ミッシェル」「ノルウェーの森」「エリナ・リグビー」が続くことになっている。
「辛気臭い曲だな。もっと明るい曲はないのか?」
「ビートルズは聞かないのか?」
「ビートルズなんて男、名前も聞いたこともねえよ」
 わたしは日本で友人のくれたアメリカン・ポップの曲をかけた。再生回数は「0」だ。
「これだよ。これ」
 私にはワリッドがアメリカ人よりもアメリカ人的に見えた。
 Pretending like an American
 今時のアフガン・エリートにはよくあることだ。
 私はムトワキル氏と普通のアフガン人について考える。ああ、きっとあの人たちはこういうのが嫌いなんだ。観念的にそう思う。
 ムトワキル氏はタリバン攻撃の目的を「独立」と「自由」のため、と強調した。世界は多かれ少なかれ、アメリカナイズされていく傾向にある。大量消費と、メディアの流行操作。そして、それを操る大資本。酒に酔ったときのように、頭痛はあるが、それでも快楽は得られる。
 タリバンとは、そういう世界のアメリカナイズに対する抵抗運動ではないだろうか。精錬で、直情的。そしてシンプル。そう、アフガン人の好きな黒茶や緑茶みたいに。
 どちらにしても、アメリカ軍兵士やタリバン戦士の間に流れるのは血だ。ビートルズの「ガール」ではありえない。
 酔って濁った眼を外に向けると、山間に無数の蝋燭の火のように光る、家々の光が見えた。今日は電気が来る日なのだ。はっとするほど美しい。
 ムスタファ・ホテルの屋上に出ると、電気が来て街に光がともった分、星を見ることができなかった。(白川徹)
 
 

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2009年5月 1日 (金)

アフガン終わりなき戦場/第16回 アメリカナイズとの闘い(上)

 昨年通訳をしてくれたワリッドが私の宿泊しているムスタファ・ホテルを訪ねてきた。かさこそ大分減っていたが、彼の鞄からはウォッカが出てきた。
「久しぶり。調子はどうだ?せっかくだから飲もう」
 陰気なムスタファ・ホテルが、旧知の訪問者のため、少し明るく見えた。
 ムスタファ・ホテルはカブールに来たことがある外国人なら誰でも知っているカブールの名所だ。5階建てで、自爆攻撃目標筆頭の内務省から徒歩1分。外国人が宿泊できるホテルの中では最も安い1泊30ドル。貧乏なジャーナリストと死を恐れない若いバックパッカーがいつもたむろしている。
 窓という窓、扉という扉に鉄格子がはまり、夜には誰もが自分がムショの檻の中にいるのではないか、という妄想に襲われる。今年は、治安悪化のため自己取材ができず、従軍の許可を待つフリーのジャーナリストが多い。バックパッカーも相変わらずいる。扉は鋼鉄製で分厚いが、隙間は大きい。あちらこちらからロック・ミュージックや大麻の煙が廊下に染み出してきている。
 私たちは比較的静かな5階の談話室でウォッカをコーラで割り、話した。ちなみにコーラはアフガニスタンで製造されたものだ。
「まあ、まずは再会を祝して乾杯。イッシャーラー。ところで、今日はアメリカ大使館に行ってきた。後2ヶ月でビザが下りると思うんだ」
「マジか?」
「Fucking  serious!(マジさ)」
 乾杯をして、グラスを開けた。ワリッドの持ってきたウォッカはそれで終わり。私は部屋から成田空港で買ったワイルド・ターキーを持ってきた。
「だから日本人って好きさ。愛してるぜ、ジャポン!」
 ワリッドは08年2、3月の取材で通訳を務めてくれた。ほぼ完璧に近いアメリカ英語を話し、アフガニスタンで受けうる最高の教育を受けてきた良家の長男だ。私と同い年で24歳。父親はどこぞの省庁の高官。アメリカのポップミュージックを愛し、イスラムの教えを古臭いと吹聴し、ハイネケンを最高と言う、今時のアフガン・エリートだ。
 一見軟派だが、仕事となると驚くべき能力を発揮した。彼といるだけで、普通ならありえない人からのインタビューを得ることができ、難民キャンプだろうが、外務省の面倒くさがりや役人の前だろうが、場を和まして物事を円滑に運ぶことができた。人身掌握術に異様に長けているのだ。
 その能力を駆使したかどうかは知らないが、アフガニスタン系アメリカ人の美人と婚約し、今はアメリカ行きのビザの発給待ちだ。どこで取ってきたのか、今はUSAID(アメリカのODA)で仕事をしている。毎月2000ドルの給料に、ボーナスまでもらっている。
「今回の取材はどうだい? うまくいってるか?」
「まあまあだな。昨日ミスター・ムトワキルに会ってきた」
「マジかよ? タリバンのスポークスマンじゃないか」
 彼は本当に驚いたようだった。ワイルド・ターキーが少しグラスからこぼれた。
 私はオバマ政権の新しい政策について各方面にインタビューをしていると話した。
 ムッラー・アフマッド・ムトワキル氏はタリバン政権時代、外務省のトップにいた。アメリカ侵攻時、逃げ遅れたか、計画的か分からないが、カブールに残り、タリバンからの脱退を宣言したことでグンアタナモ送りを免れた。今でもテレビや新聞などでタリバン寄りの意見を発言することで知られ、カブール市民の誰もが彼をタリバンのスポークスマンだと疑わない。事実、タリバンと外国メディアのパイプ役に近い役割を果たしている。
 私はムトワキル氏のインタビュー前日に、カルザイ大統領のアドバイザー、ワヒッドラ・サバウーン氏にインタビューをしていが、正直ムトワキル氏のほうに魅力を感じた。
 サバウーン氏はアメリカ侵攻以前イスラム原理主義組織ヒズブ・イスラミのナンバー2を勤めた男だが、肌はアフガン人にしては異様に白く、握手した際の手は驚くほど軟らかかった。銃や鍬を扱っていた人間の手ではない。比べてムトワキル氏の手はごつごつとして硬く、日焼けした肌はまさに「アフガン人」を感じさせた。
 ムトワキル氏はアメリカ侵攻に会わせて「下野」したといってもいい。たずねた彼の家はこじんまりとしており、政権の中枢にいた人物の邸宅とは到底思えなかった。
 オバマ政権の政策に関し、私は3つに分けて質問した。オバマ政権のアフガン政策大綱の大筋は3つ。
「穏健派タリバンとの対話」「軍による復興支援(PRT)の強化」「テロリスト掃討のための増派」
 1つ目の「穏健派タリバンとの対話」についてムトワキル氏は、まるでできの悪い生徒に言い聞かせるように答えた。
「穏健派タリバンとはそもそも何か。タリバンは元々『学生』という意味だが、今は独立と自由のために戦う戦士のことをタリバンと言う。定義が変わったのだ。タリバンという言葉はアフガン人にとっても今は政治的な言葉だ。戦わない者はタリバンと呼べない。仮に戦わないタリバンと和平を結んだとしても、それで戦いが終わることは無い」
 なるほど。言いえて妙だ。黒々とした髭に隠れた口からは、2つ目の質問に関しても明確な答えが飛び出した。
「PRTの必要性についても疑問だ。なぜ支援をするのに軍服が必要なのかね。一般的なアフガン人からすればPRTも戦闘部隊も見分けがつかない。誰だって軍服を着て銃を持っていれば怖がるだろう。タリバンの攻撃対象が増えるだけだ」
 なるほど。では、増派に関しては?
 ムトワキル氏は慎重に言葉を選んだ。
「私はタリバンでは無いので、推測でしかないが、無意味だろう。アメリカはタリバンを根こそぎアフガニスタンから追い出そうとしているが、それは不可能だ。なぜなら、タリバンはアフガニスタンの一部だからだ。タリバン1人殺せば、その家族全員がまたタリバンになる。タリバンは自由と独立を得るまで戦う」
 ムトワキル氏は他にも、タリバンの精神。イスラムの教え、アフガニスタンの現状について話したが、非常に面白い。彼の目指すものに完全に同意するつもりは無いが、彼の現状分析は非常に現実的で、私の見てきたものを説明できた。少なくとも、前日に会ったカルザイ大統領のアドバイザーよりは正確な情報だと思えた。(白川徹)

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