熊谷ホームレス殺人事件の現場を歩く
2002年11月、1人のホームレスが3人の中学生になぶり殺された。
レンタルビデオ店に向かっていた2人の少年が、ホームレスの山本裕二(仮名)さんを発見。ひとしきり山本さんにちょっかいをだしてからビデオ屋に足を向けた2人は、自身と山本さんの運命を変える決定を下す。
もう1人の友人を呼び出し、もう一度山本さんをからかおうとしたのだ。
山本さんを虐める「遊び」に、彼らは夢中だったのだろう。そうでなければ、1時間とあけずホームレスの寝ぐらを再訪しようと思わないはずだ。事実、埼玉県警の調べに、「無抵抗でおもしろかった」(『読売新聞』02年12月21日)と少年たちは答えている。
レンタルビデオ店から犯行現場まで、およそ700~800メートル。彼らは畑や空き地の残る地域を自転車に乗って疾走した。時間は午後8時過ぎ。その日の熊谷の最低気温は8.2度だった。吹き付けた風は、身を切る冷たさだったはずだ。
一方、人通りのない暗い空き地で3人の中学生に囲まれた山本さんは、底知れぬ恐怖を感じたに違いない。つばを吐きかけられるなど、これまでに何度も因縁をふっかけられた相手である。持っていた傘を振り回したのは、彼の精一杯の抵抗だった。
しかし傘が1人の少年の腕に当たったことで、少年たちの暴力は一気にエスカレートしていく。素手での暴行が始まり、それが現場に落ちていた角材での殴打に発展。その角材が折れると鉄板まで使った。また可燃性の消臭スプレーに火を付け、山本さんに吹きかけたりもしたという。
1時間にも及ぶ暴行で、山本さんはいびきをかき始める。脳内出血によるものだろう。だが、その様子を見た少年たちは、気絶したと勝手に解釈し帰路についた。
翌朝、山本さんは近所の住民に発見されたが、帰らぬ人となった。全身はアザだらけ、肋骨は5~6本折れていた。死因は急性硬膜下血腫。あまりにも酷い死にざまであった。
これが新聞・雑誌などに報じられた凶行の一部始終だ。こうした行為自体、多くの人の理解を超えている。しかしさらに説明のつかない行動を、彼らはとる。
2日後の新聞報道で山本さんの死を知ったにもかかわらず、3人のうち2人は普段通り学校に登校し続けたのだ。しかも現場に別の友人を連れていき、犯行の様子を詳しく説明したとも伝えられている。結果としてホームレス殺害の噂が校内を巡り、少年と保護者と教員の間で話し合いが行われた。
「その席で、『なんでそんなことをしたの』と問いただす保護者に対し、3人は泣きじゃくり、言葉が出なかったという。校長は、30日の記者会見で『3人は、このときになって事の重大さに気付いた様子だった』と話した」(『読売新聞』02年12月1日)
山本さんの死亡確認から2日間。なぜ少年はまともに登校できたのだろう? 何とも言えない違和感がある。通常の感覚なら人を殺した翌日から日常生活など営めるものではない。まして犯行現場に友だちを連れて行くなど、もってのほかだ。評論家が断じる「命を軽んじる子ども」だからなのだろうか?
しかし、彼らが本当に「命を軽んじる子ども」なら、保護者と教員との話し合いの席で泣きい崩れた理由がわからない。『毎日新聞』(02年12月25日)は、「少年の家族は(犯人の少年を)『動物好き』『普段は手出しはしない子』などと話し、家族では別の一面を見せていたようだ」とも報道している。しかし、本当にそれは「別の一面」だったのだろうか? いや、むしろ「普段は手出しはしない子」という評価は正しいのではないのか。「普段」の生活、「普段」の相手だったら、「手出し」などしなかったのではなかろうか?
社会学者の宮台真司氏は、『脱社会化と少年犯罪』(創出版)のなかで、次のように主張している。
「人類史上、人を殺してはいけないとルールを持った社会は、ただの1つも存在しないからです。その代わり、人類社会は2つのルールでやってきた。それは『仲間を殺すな』というルールと、『仲間のために人を殺せ』というルールです」
賛否両論はあろう。しかし宮台氏の論を借りれば、少年の行動に説明はつく。
“ホームレスは敵だったから、仲間のために殺したのだ”と。
殺された山本さんは、食べ物をもらうために住民の家を訪ねていた。埼玉県警の広報課は、プライバシーに係わるとの理由で詳細を明らかにしないが、月に数件、山本さんに対する苦情が熊谷署に寄せられていたことを否定しない。
実際、犯行現場の近辺で、山本さんに対する悪評を何度も耳にした。
「だってさ、パンをあげたら『賞味期限が切れているだろ』って怒鳴られたんだろー。あと、100円あげたら、『いまどき100円じゃあ、ジュースも買えないじゃねえか』って言われたとかさ」
近隣の小学生から聞いた噂である。このほかにも、「おにぎりの塩を抜くように要求した」、「手に持っている荷物を玄関にドサッと置き、ドアが閉まらないようにして食べ物を要求し続けた」などの噂を、複数の住民が語っている。
と同時に「大人しい人」「穏やかな人」と山本さんを評する声もあった。
「(自宅に来たのは)秋口ですかね。(山本さんが)いっぱい服を着込んでいたのに、暑そうだと思わなかったから。ええ、別に怖くなかったですよ。『今、食べ物は何もないんですよ』って言ったら帰っていきました。家に来たのは、その一度きりでしたね」
「いつもこの道を犬連れて散歩していると、ビニールをいっぱい持って立っていましたよ。疲れないのかなと思ってね。うん。ウチの近所に来たとき、おにぎりもらっていたことがありましてね。両手で一個のおにぎりを包むように持って食べていました。大人しい人だったわよ」
なぜこうも違う人物像が語られるのか。混乱しながら取材を進めた。
もっとも考えられるのは、ホームレスが複数いるケースだ。
ホームレスにとって食料の調達は、文字通り生死にかかわる大問題である。そのため食料に関する噂は、仲間うちであっという間に広まる。こうしたホームレス社会の特性を考えるなら、山本さんと同じ方法で食事にありつこうとする人が現れても不思議はない。しかも多くの住民はホームレスの容姿にさほど注意を払わない。食事をもらいに来たホームレスが、すべて山本さんとして語られても不思議はない。
実際、近隣住民には、次のように証言する人もいた。
「『おにぎりくれ』って言われたことがあってね。へー、こんな人がまだいるんだなーと思いましたよ。戦後すぐのころには、いっぱいいたけどね。
でも、もう1人、別のホームレスもいたわね。ジーっと何も話さないで、ただ家を見つめて、ご飯をもらうおうとしていた人が。孫なんかは、話さないホームレスの方を怖がっていましたよ」
この地域で複数のホームレスが、家々から施しを受けて生活していた可能性は高い。そこで山本さんを完全に特定できた人物を探した。その1人が、毎日のように山本さんに接触していた熊谷市の福祉職員である。
「ほとんどしゃべらない方でした」
山本さんの印象を、彼はこのように語った。しかし山本さんが、噂されていたような態度で物乞いをしたかについては知らなかった。
「山本さん以外にも家を回っているホームレスがいることは聞いていましたが、山本さんがどんな風に回っていたのかはわかりません。現場を見たわけではありませんので……」
福祉職員への証言は、賞味期限の切れたパンに怒りを露にする人物に結びつかなかった。しかし犯行現場のごく近所に住んでいる老婆が、この謎を解いてくれた。
「横柄な態度でね。『ごはんくれ、パンくれ』って訪ねてきてね。『ないから』って答えたら、『じゃあ、煎餅を一枚くれ』ってね。まあ、煎餅一枚ぐらいならさ、かわいそうだからあげたの。ついでに飴も付けてあげて。そうしたら飴を玄関に放り投げて帰って行ったよ。
しかも帰った後で見たら、門を閉めておくための針金を壊して入ってきていたんだから。いや、男の人が対応すると大人しいらしいの。人によって対応を変えるんですよ。
ウチは1回の訪問で味を占めたのかねー。ピンポンで出ないと、ドアをガンガン手で叩くんだから。怖くて巡回の警官や民生委員にも相談したんだけどね。警察は『何もあげるないで』と言うだけだし、民生委員なんか自分から食事をあげていたぐらいだから」
穏やかな口調に、ときおり怒りを滲ませながら、彼女は語ってくれた。
犯行の現場は、01年9月末から山本さんが住み始めた空き地である。スーパーの袋をいくつもさげ、雨の日は傘をさし、住民ともほとんど話すことなく、彼はその空き地で立ち続けていたという。その空き地と目と鼻の先に住んでいる住民が、山本さんの顔を知らぬはずがない。
さらに昨年の夏まで山本さんが住んでいた場所周辺で、山本さんの顔を知っているであろう近隣住民にも取材してみた。
「ベルが鳴ったのでドアをあけたら、足をガッと入れてきたんです。そうやってドアを閉められないようにして、ドアをグイグイひっぱるから、私も必死にドアを引いて、ピシャっと閉めました」
取材に応じてくれた20台後半の主婦は、山本さんが来たときの恐怖をこのように語ってくれた。
これでは警察に苦情がいくのも仕方がないだろう。
また山本さんが家々を訪ねていた時間が悪い。夕食後の残りを狙ったのかもしれないが、多くは夜9時、家によっては夜10時に訪ねることもあったという。しかも一度食べ物を渡した家には、何度も通っていたという。
こうした行動の積み重ねが、山本さんを見えないところで追いつめていった。排除の圧力が、地域でジワリと高まっていたのである。
山本さんが熊谷市に来た時期が正確にわかっていないが、01年の春ごろには市内のあちこちで見かけたという。殺害現場の隣に住む男性は、01年の梅雨の終わりに食事をねだられたことを覚えていた。そして01年8月には、住民が通称「亀の道」と呼ぶ、遊歩道にある藤棚の下で暮らすようになった。
そこでの事件は、9月末に起きた。
近所の子どもから「税金払っていないヤツは、生きている価値がねぇ」とからかわれ、山本さんはおよそ800メートル離れた空き地に引っ越したのである。自身が1年2ヶ月後に殺される現場へとである。
もし山本さんが移動しなければ、と考えてしまう。
藤棚周辺は住宅密集地である。そこで事件が起こったなら、住民の誰かが暴行に気づいたかもしれない。また例え住民に気づかれなくても、手ごろな角材や鉄板などは落ちていなかったはずだ。それなら命だけは助かったとも思う。
山本さんが生活していた場は、ホームレスにとって暮らしやすいとは言いがたい。水場やトイレに近いわけでもなく、雨をさえぎる屋根もない。そのうえ通常の方法では、食物を入手しにくい環境であった。
東京近郊に住み、現金収入のないホームレスのほとんどは、店舗から出される残飯を食料としている。特にコンビニやファーストフードから出される賞味期限切れの食料は、彼らの生命線である。それゆえ店舗数の多い駅周辺が郊外より暮らしやすくなる。
山本さんの新しい生活拠点は、駅から約3キロの距離にある。自転車を持っていなかった彼が残飯をあさるには、駅までの距離が少し長い。事実、市の福祉職員は「駅には行ったことがない」という山本さんの言葉を聞いている。
また近隣のコンビニは賞味期限の切れた弁当など、残飯に対する管理を強めていた。
山本さんの生活拠点(殺害現場)から3キロ四方にあるコンビニに電話を掛け、ごみの収集状況を取材してみると、驚いたことに全21店舗のうち、ホームレスがゴミをあされそうだったのは、わずか1軒であった。アルバイトしか店におらず、ゴミがどう処理されているのかわからない3店を除けば、なんと94%の店がホームレスにゴミを取られないよう措置していた。鍵付きのごみ箱や倉庫に入れる。あるいはゴミ収集業者が来るまで店内でゴミを保管する、などなど。
そのうえ取材で回った限り、熊谷のホームレスには仕事がほとんどなかった。あまり知られていないが、都会にはホームレスの人々の仕事がわずかながらある。段ボールなどの古紙やアルミ缶の回収、風俗店のチラシ貼り、看板持ち、チケット購入のための順番待ちなどなど。
東京や川崎でホームレスがテントを構える地域を回れば、換金業者に持ち込む前のアルミ缶を積み上げている光景にたいてい出くわすものだ。しかし熊谷で取材した何人かのホームレスは誰一人としてアルミ缶や古紙を収集していなかった。荒川の河川敷で暮らしていた男性が古い電化製品を集めていた程度である。
つまり生計の立てにくい土地に、山本さんは住みついたことになる。ただし物乞いには比較的優しい土地だった。
「地縁が強いからでしょうか。埼玉県の北部山村には、おこじきさんを受け入れる土壌があります」と語ったのは、市の福祉職員である。確かに熊谷の高齢者の多くは、ホームレスを蔑視しない。市役所の隣にある中央公園に集う老人は、公園に住むホームレスとも一緒になって談笑していた。
「まあ、田舎なんだよね。みんなで話しているからさ、『お腹すいた』と聞けば持ち寄った食事を(ホームレスにも)あげるから」とは、公園に居た男性の弁である。
こうした風土こそが、山本さんの生活を支えていた。そもそも物乞いは、世界では当たりの行為である。境イセキ氏が書いた『ニューヨーク底辺物語』(扶桑社)によれば、NYの物乞いは季節によっては1日100~150ドルも稼ぐという。
日本でも終戦直後までは、物乞いなど珍しくもなかった。1937年に稲村文夫が書いた「農村乞食考」によれば、1年間に伊豆のある農家を訪ねた物乞いの数は、125人。寄付の総額は、406銭にのぼったという。こうした農家が、1ヵ月に5銭の貯金もままならない経済状況だったというのだから、どれほど物乞いに優しかったがわかるだろう。
礫川全次氏は『浮浪と乞食の民俗学』(批評社)のなかで、「共同体に寄生し、共同体の余剰(富)を費消する乞食は、共同体の共同性、継続性を維持するためになくてはならない存在であり、必ずしも『卑劣下賤』の存在ではない。(中略)乞食に対してマイナスのイメージのみを描いてしまうのは、近代人の偏向といえるのではないか」と語っている。現在のホームレスに対するのとは違った思いが、つい半世紀ほど前の日本に存在していたのである。
じつは熊谷にたどり着く以前から、その風土を頼りに山本さんが生きてきたのではないかという説がある。山本さんに似た風貌の男性が群馬県太田市などで目撃されており、熊谷市の福祉職員も「群馬県から南下してきた可能性も高いのでは」と指摘している。また山本さんとは特定できないものの熊谷市のすぐ北にある妻沼町の社会福祉課は、山本さんが殺される2年ほど前、食事をもらうため家々を回っていたホームレスがいたと報告している。あまりに証言が少ないものの山本さんが南下してきたと考えれば、時期と動線は符合する。
山本さんにとって悲劇だったのは、「おこじきさんを受け入れる土壌」が熊谷全域に広がっていたわけではなかったことだ。
まず注目したいのが、熊谷市の人口である。1971~73年の3年間は、毎年2300人以上も人口が増えている。85~91年にかけても、毎年1500~2500人もの人口が増え続けた。当然、他市に勤務する人々も増える。75年と95年を比べると、他市に勤務する人は、約2倍の1万6000人増。つまり熊谷市は年々ベッドタウン化していったのだ。
先述したように「乞食」が「共同体の共同性、継続性を維持するためになくてはならない存在」であるとするならば、物乞いを許容するためには共同体つまり強い地縁が必要となる。見知った人だけが歩く地域社会にいるからこそ、警戒感を抱きながらも住民は異邦人に接触しようとする。地域どころか隣に住んでいる人の顔も特定できない都会ともなれば、知らない人にわざわざ話しかけたりはしない。
この「おこじきさんを受け入れる土壌」の住民とドライな新興住宅住民が混じり合った土地で、山本さんはこれまでと同様に物乞いを始めてしまった。
「たまげたですよ。あの人が死んでしまったんで。『おばあさん、お昼食べたいんだけどお金ないから』って言うから150円あげてから数日後だもの」と淋しそうな表情で語る83歳の老女がいる一方で、「本当に怖くてイヤだった」と顔をしかめる若い主婦がいる土地。それが熊谷だった。山本さんが人によって態度を変えていたという証言とは別次元で、問題は少しずつ深刻化していたのである。
かつての共同体で「なくてはならない存在」だった物乞いは、ベッドタウンにおいて「あってはならない存在」と変わり果てていた。もし熊谷が東京都下の住宅街だったら、そもそも食べ物を恵む人すらおらず、山本さんも早晩ねぐらを移したはずである。逆に地縁が生きている土地なら命を奪われることはなかった。
しかし熊谷は食料と憎悪の両方を生み出していった。確かに山本さんの態度が悪いケースはあったかもしれない。とはいえ近隣の小学生から悪い噂しか出ないほどの悪人だったとも思えないのだ。「美しい」ベッドタウンから排除したいという地域住民の意識が、山本さんの評判に大きく影響したことは否めないだろう。
そうした新興住民の敵意に反応したのが、感受性の強い思春期の少年だったとはいえないだろうか? 「動物好き」で「普段は手出しはしない子」だった少年は地域の「思い」を暴力で体現したともいえる。だからこそ少年は犯行の一部始終を友人に胸を張って説明することができたし、「事の重大さ」に気付くこともなかった。
どんな企業に勤めていてもリストラされる危険性がある現在、ホームレスになる可能性を多くの人々が抱えている。そして恐ろしいことに、わたしも含めて多くの人はホームレスを排除したいとも思っている。つまり殺された山本さんと殺した中学生の両方が心には同居しているのだ。
その意味で、この事件は特別な中学生が、自分と違う「人種」を叩き殺したわけではない。被害者も加害者のどちらにもなる可能性を持っているのだ。(大畑)
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コメント
東村山在住なので「東村山」をキーワードに検索してこちらの記事を読みました。表題が「東村山ホームレス殺人事件」ですが、内容はこれ、熊谷市でのホームレス殺人事件ですね。東村山での事件は同じ年の1月に起きたと記憶しています。
投稿: ぐーたり | 2009年4月12日 (日) 10時30分
とても興味深く読んだ。
真実に届いている。
次も期待する。
投稿: 田中洌 | 2009年4月14日 (火) 05時41分
くーたり 様
疲れていたのでしょうか。
間違えてしましました。
ご指摘ありがとうございました。
まさしく熊谷市でした。
投稿: 大畑 | 2009年4月17日 (金) 02時56分
大畑様
『1937年に稲村文夫が書いた「農村乞食考」』はどこで入手または閲覧できるでしょうか?この稲村文夫は多分1948年に結核で亡くなった私の伯父です。夫人も翌年やはり結核で亡くなり子どももいなかったので弟である私の父(9年前に亡くなりました)が後を継ぎましたが何も残されていません。
お教えいただけると幸いです。
投稿: 中島賢一郎 | 2009年9月 3日 (木) 18時43分
中島様、お返事遅くなってすみません。
稲村氏の記事は『浮浪と乞食の民俗学 歴史民俗学資料叢書3』(批評社)に収録されています。もとは1937年の論文ですが、とても素晴らしい内容でした。たぶん今後も資料として生き続けるものと思います。
まさかご親族の方からコメントをいただけるとは、書いていたかいもありました! コメントありがとうございました。
投稿: 大畑 | 2009年9月 9日 (水) 10時06分