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2009年4月

2009年4月30日 (木)

ロシアの横暴/第15回 チェチェン国際空港がチェチェン人の命を脅かす!?(下)

 そんなとき「ロシアの死亡率、戦時にならぶ」という記事をみつけた。戦時とは第二次大戦のことである。ロシア、当時のソ連は戦勝国とは言いながら廃墟も混乱も敗戦国と変わらなかった。食糧不足による餓死など悲惨な戦争体験をしているが、その戦時に並ぶ死亡率だそうだ。

1.社会福祉関連 
 病気になっても医療体制が不備であるため助かる命も助からない。
 心臓病はソ連時代から国民病と言われてきた。そこに夏になるとコレラが発生する。結核も蔓延している。今頃では抗生物質が効かない結核が出現した。
2.アルコール関連
 アルコールが元で死ぬ。アル中そのものによる死のほか、酔っぱらった上での喧嘩がもとの殺人、1本のウォッカ欲しさ殺人もある。
3.戦争関連
 戦争そのもので死ぬ。戦争中のストレスがもとでで死ぬ。原因不明の突然死が増えているのは戦争のためとも言われている。

 ほかに自殺がある。キリスト教徒が多いロシアでは神様から与えられた命を自ら絶つことは、神に背く行為としてきびしく戒められてきたにもかかわらず増え続けている。もちろん交通事故は死因の大きな位置を占める。 
 いずれの死も政府の失策であることには変わりない。原油高騰で潤ったので戦争は景気よく進められた。しかしチェチェン戦争はどちらが勝っても負けても誰のためにもならない戦争だった。膨大な戦費と、復興費をつぎ込んで死の商人とゼネコン(チェチェンには日本のようなゼネコンはないが)を潤わせ、高笑いをするはずが、やってきたのは世界規模の経済危機である。チェチェン戦争はやめざるを得ないのだ。しかし戦争をやめても戦争の影は消えない。鎮圧された戦争はいつか爆発する。(川上なつ)

 

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2009年4月29日 (水)

SMAP草彅(なぎ)剛君の扱いは正当だったのか

サツ回りを始めて最初の頃に驚いたのが酔っ払いがいかに多いかだった。来る日も来る日もトラ箱に人がいる。そればかりか来る日も来る日も酔っ払いが夜中に署へやってくるのだ。当直とわけのわからない会話をしていつの間にか帰っていく。「この時分になるとやってくる酔っ払いリスト」を作っていた当直長もいた。
酔ったあげく警察へ「保護」されてトラ箱入りする酔っ払いは翌日になって常連を除くと赤ら顔が一転して真っ青となる。その後は警察官にメチャクチャ怒られて帰るか、怒るまでもなく憔悴しきっていて逆にサツ官側が励まして送り出す場合もある。「逮捕しているのですか」と駆け出しの頃に質問して笑われた。冗談じゃない。逮捕となると書類も作らなければならない。数が数だからやってられないよ、と。ただし次の3点はあり得るとも教えてくれた

・器物を破損したり人に危害を加えようとしている場合
・大男が大暴れして収拾がつかなくなった場合
・素っ裸

草彅(なぎ)君は三つ目に該当したわけだ。それでもおとなしくしていればよかったものの暴れてしまったら逮捕という形式を取らざるを得なかったのだろう。

ブラックアウトした経験のない大人は少ないのではないだろうか。私もある。私の場合は記憶を失った後にしょうもないセリフを大騒ぎして(つまり口先男)回りから押さえ込まれ、その際に蹴りなりパンチなりを食らい、元が貧弱だからそれであっさり崩れ落ち、翌日に体中あざだらけの痛みとともに覚醒して「ここはどこ?」となる。なる、といってもすべて20代の「若気の至り」だ。30になって以来はそうならないようしている。威張れたものではない。およそ皆様もそうであろう。だから草彅(なぎ)君の34歳は少々幼い。

酔うととかく脱ぎたがる人がいるのも事実だ。記者クラブで朝から飲み(今ではあり得ない)昼になると上半身裸になる先輩がいると人づてに聞いたことがある。きっとそういう習性は性格によるのであろう。くわしいことは知らない。パンツだけは脱げないように工夫しておきたい。

とここまでは草彅(なぎ)君に非がありそうとの見立てだ。しかし家宅捜索と身柄送検は驚いた。家宅捜索の理由は処々うわさされているけど私は案外と逮捕した以上ガサ入れるかとルーティンな発想で気楽にやったのではないかと推察する。何も出なかったのだから草彅(なぎ)君にとってかえって良かったのではないか。
それに「有名人」「公務員」が不始末で逮捕となれば罪の軽重を問わずマスコミは取りあえず突っ込まなければならない。これは「掟」だ。とすれば警察もきちんと対処していると見せる必要があったのだろう。というわけでここも警察擁護。いわば有名税

ただ身柄送検はどうよ。うがった見方をすれば超有名人を成り行きで逮捕してガサまで突っ込んだ以上は叱りつけて釈放とはいかない。いっそ検察様のご判断でお願いしようと責任を検察庁へ押しつけたのではないか。
としたら検察も参ったであろう。身柄まで送ってくるんじゃないとも言えないし(内ではきっと言っている)。起訴できないに決まっている。やっても略式。それほどですらない。そこで出てきたのが伝家の宝刀?「処分保留で釈放」だ。

「処分保留で釈放」は聞き飽き書き飽きた表現なので最初は気づかなかったけど、この件を機会にじっくり考えてみた。変な言葉とわかる。何の処分を保留するかというと起訴である。文字通りならば「起訴という処分をするかどうかを保留するので拘置するわけにもいかないから釈放する」と場合によっては起訴もありうるような表現だ。しかし私が知りうる限り「やっぱり起訴だわ」となった例を知らない。事実上「無罪」か「罪を問わない」なのだ。それを「処分保留で釈放」といかめしく言うのは無謬性担保の一種なのかも。
この親戚で「起訴猶予」がある。形式上「お上にも情けがあるぞよ」といった扱いで目こぼしなのだが公判を維持する自信がないか維持したいほどでもない事案であるのも事実。起訴猶予5年といった期限もつかないし「処分保留で釈放」と同じく「やっぱり猶予取り消しで起訴」というのも聞いたことがない。別件で上げたい事案が浮かべばわからないけどね。要するにこれまた「無罪」か「罪を問わない」に等しい。

身柄送検だけは気の毒だったというのが私の感想である(編集長)

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2009年4月28日 (火)

鎌田慧の現代を斬る/第131回 フランスで敗北したトヨタ

 さて、今月もトヨタは坂道を転げ落ちるがごとく、業績を悪化させている。連結世界販売台数は6年ぶりに700万台を割り、ゴム・樹脂などを材料とする自動車部品を製作するトヨタの三次下請け「ホーコー」が21億円の負債を抱えて倒産した。従業員100人で売上げが年間15億円、それでいて負債が21億円という。設備投資の負担が大きかったと報じられている。
 これは増産を見込んでの設備投資だったのだろうが、自社だけの判断だったかは微妙だ。これまでもトヨタは下請け企業に設備投資を押しつけたうえで、過剰なコストカットを要求しつつづけてきたからだ。
 トヨタは2002年ごろより金属でつくっていた自動車部品を樹脂に変えている。この会社ではドアモールやサイドプロテクターなどを加工していたが、この樹脂化の流れに乗せられた可能性は高い。
 いずれにしてもトヨタの3次下請けの破産は、ほかのメーカーにも波及しそうだ。気になるのは労働者である。3次下請けは日系ブラジル人の派遣労働者が多い。関東自動車など車体メーカーをはじめとする1次下請けは期間工が多く、2次下請けになると派遣となり、3次になると日系ブラジル人、4次になると中国ベトナム人の研修・実習生という四重構造になる。すでに日系ブラジル人の雇用状況は壊滅的で、職のないまま帰国もままならない状況に置かれ、政府は帰国の旅費30万円を支払うから、もう二度と日本にくるな、と追い払っている。自己チューなやり口だ。
 一方で理事長にトヨタ自動車の名誉会長の豊田章一郎が座る、トヨタのエリート養成校・海陽学園では初の高校生が誕生した。「日本のリーダーを育てる」ことを目的に、中高一貫校として開校してから4年目を迎えた。ことしの新入生の入学式では、中島尚正校長が「勉強は自らの意志で努力するもの。決して受け身にならず、自発的に行動することを忘れないでほしい」(『毎日新聞』09年4月6日)と語ったというが、会社のために役立つ以外の意志は一切排除するトヨタの学校が「自発的な行動」を求めるのは皮肉である。
 フランス・オナンのトヨタ工場では、操業停止の補償巡ってストライキが起こり、経営陣は労働者に完全に屈服した。この労働争議が激化した理由の1つに、野中副社長の侮辱的な発言があると報じられている。
 労働組合の幹部には、ストで名前が売れてよかったと皮肉をいい、「労働なくして給料なし、これはトヨタグループにとっての原則であり、企業にとって当たり前のことのように見える」とも主張した。
 トヨタにとって労働者とは、その程度のものでしかない。売れなければ勝手に賃金を削り、イヤならでて行けばいいと居直る。一方で、豊田家の威光だけは、守りつづける。労働者差別と民族差別と創業家の神格化に支えられた企業が、いま「日本のリーダー」を育成しているのだから怖い。
 自由と自主性を重んじるフランスで、労働者がトヨタに勝利した意味は大きい。徹底した管理で下請けと労働者を押さえつけ、ひたすら会社を大きくするだけの経営はもう限界にきている。そのことを経営陣も悟る時期にきている。(談)

全文は→「kamata.pdf」をダウンロード

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2009年4月27日 (月)

書店の風格/第32回 紀伊国屋書店大手町店

★★★★★★
連載の前に、ちょっとコマーシャル。

『出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代』が、『週刊現代』はじめ数誌の書評コーナーに取り上げられた成果もあってか

東京堂書店様 週刊綜合ランキング第10位!
(4月第3週)

まだまだ売れ筋です。

コマーシャル終わり。

★★★★★★

 たいへん失礼な話なのだが、ここには伺ったことがなかった。大手町駅の構内を長々と歩いて、24時間受付OKの郵便局のとなりに現れる本屋さん。紀伊国屋書店大手町店だ。一等地にありながら、気張ることのない店構え。中心街にありながら、旅行客に過剰に媚びない品揃え。この書店の魂は、侍である。

 実に潔いのだ。ターゲットを完全にビジネスマンに絞っている。比較的、全ジャンルのバランスが良い紀伊国屋書店の中でもオリジナリティー溢れる構成だ。
 ドアから一歩、中に入るとそこにあるのは文芸書なのが大半の書店だ。しかしあるのは右手にビジネス新刊、左手に語学の本。100年に一度の不況を裏付けるかのごとく、金融危機に関する本が溢れるビジネス棚は、社会人1年生向けのわかりやすいものから経営者向けのものまで、奥に行くにつれて難易度が高くなるグラデーションが鮮やかだ。
 語学書の棚も、ビジネス英会話などの実践書が中心で、購買層の目的をすっきり満たすことに集中している。ビルの一角、ワンフロアしか使っていない小規模書店ゆえ、全て取り揃えるというよりもキャッチーな本をその都度並べる方式のようだ。

 ビジネス書と語学書に挟まれたところに、おすすめの本が置かれているコーナーがある。その選書のセンスが素晴らしい。若者やファミリー層を大量にお相手している書店では出せない「オトナの余裕」が伝わってくるのだ。文芸書、エッセイ、自己啓発書、どれをとっても中身・体裁ともに繊細さを感じさせる物ばかりが並んでいる。「たしなみ」や「格」といった文字が浮かんでくる。ここにある本を手にとって、似合う大人になりたいものだ。

レジ横にはランキング棚がある。今週の一位は『スベらない商談力』(かんき出版)。ビジネス書部門というわけではなく、総合ランキングの一位というのだから驚きだ。サブタイトルは「人見知りで口ベタでも他社負けしない!」。人見知りで口ベタであるがゆえに商談がスベってる人ってたくさんいるんだろうか、そうか、皆同じことで悩んでるんだな……と幾許かの希望を持てた。そしてついつい買ってしまった。もしかして、私と同じような理由で買っていく書店営業の方がたくさんいるのかも。(奥山)

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2009年4月26日 (日)

日曜ミニコミ誌!/パンクなスパイスを日常に 『Kathy zine』

 最近、模索舎様にお邪魔したときに「売れてるよ!」とすすめられた『Kathy zine』2号。鮮やかな緑色に外国産のネコの写真をあしらった表紙が印象的で、輸入物のファンジン(好きなアーティストについて綴るミニコミ誌)を彷彿させる雰囲気。ページを開くと、一瞬にして北欧の少女の部屋にトリップしたような気持ちにさせられた。繊細にして強い意志の感じられる文章。この雑誌を作ったのはどんな人達だろう? すぐにコンタクトをとって、メール形式での取材をお願いした。

Kathy_zine 写真は2号(2008年10月発行)。
創刊は2007年3月。
1、2号ともに500部ほどの発行部数。
作っているのは、チームキャシーの3人(ミャーザキさん、ダーティさん、バニーさん)。
このたびは、ダーティさんが応じてくださった。

-まずは、このzineのコンセプトを教えてください。

 北米のパンク・カルチャー(特に90年代初頭のライオット・ガールとクィア・パンク)のファンジン。とにかくファンなので楽しくやっています。 雰囲気としては、口に出すだけで笑みがこぼれてしまうようなバンド名を考える気持ちで。例えば、これは実在するバンドの名前ですが、“ポンポン・メルトダウン”(「ポンポンがシュワーと溶けていく」っていう意味)みたいな。

-このzineを作ろうと思ったきっかけは、なんですか?

 ひとつには自分たちの思うパンク・ジンを作ろうと思ったから。たとえばアーロン・コメットバスという人が作るジン『コメットバス (Cometbus)』はあこがれのジンのひとつです。このジンは80年代初めにカリフォルニアのハードコアパンク・シーンを紹介するファンジンとして始まったのだけど、年が経つに連れて次第にレコード・レビューやインタビューなどが無くなっていき、広くパンク・シーンに住む人たちのライフスタイルについてを日記のような形式で語るようになっていった。つまり何が言いたいかというと、音楽のジャンルとしてだけではない、もっと広い意味でのパンクを考えたかった。ジンはもっともわかりやすい形でそういった日常的な題材が扱えると思っています。日本にもその名も「Expansion of Life」というジンがあって、その内容にもまさにこのような姿勢がはっきりと表れています。なんていいタイトル!

 もうひとつには、自分たちが興味を持っていることを同じように好きな人と知り合いたい、もっと友だちが欲しい、と思ったため。そして、「これを見た人たちが〈何だこれなら私でもできる〉と思ってくれてそして実際に始めるため」(これはザ・パンクスというバンドの言葉)。実際に、Kathy zineは発行部数の少なさの割には(皆さん、まずは見つけてくれて本当にありがとう)、たくさんのリアクションをもらっている幸せなジンです。手紙やメール、手作りの物を送ってくれたり、感想をジンにしてくれたり、「私もジンを作ってみたい」と言ってくれたり、そしてとうとう(私たちのなんかより全然すごい)ジンを本当に作っちゃったり。そんなの信じられる? 

-私の手元には2号があるのですが、海の向こうの人についての特集が半分、私的ネタ半分というスタイルがたいへん面白いと思っています。構成はどのように決めるのですか?

 3人の日常生活のおしゃべりの中から何となく特集が決まる。そのあと、1人がいばって仕切ろうとするが実際には誰も言うことを聞かず、それぞれが好きなことをやる。だから出来上がってみるまで自分以外の2人が何をしているのかほとんど知りません。構成されているように見えるとすれば、それはすごい奇跡、嬉しい!

-とくに2号後半のzine特集は、いままで日本では見たことのない分類と紹介の試みだと感じています。どなたが企画され、どのように資料を集めて、書かれたのでしょうか? 

 2号では、1970年代以降のパンク・カルチャーから生まれたジンの歴史を年表風にたどっています。この号で特集したミシェル・ティーという作家は、いわゆる文学シーンから出てきたのではなく、ジンの歴史から生まれてきたような人。内容にもスタイルにもそれが反映されていて、彼女のバックグランドを知ったほうがより作品を楽しめると思って作りました。ティーは前述したコメットバスのような、生活全般に拡張されたパンクをまさに体現している作家なので。あと、このページはチーム・キャシーのミャーザキ君が単独で作ったページです。

-日本人離れしたレイアウト感覚が素晴らしいと感じます。どなたのレイアウトなのですか?

 私たち3人の中には、特にDTPを勉強したり得意としている者はいません。Kathy zineの2号については、自分の執筆したページのレイアウトを各自が担当しています。他の2人は苦手なコンピューターを使って悪戦苦闘しているようですが、私(ダーティ)はそれはあきらめ、いつもはさみとのりを使って手で作っています。もともとポートランド(ジンン・カルチャーが盛ん)でよく作られているような切り貼りのジンが大好きだということもあるし、私たちのようにコピー機で刷る場合には切り貼りレイアウトのほうが断然いい感じになると思っています。

-最後に、次号のPRなどありましたら、お願いいたします。

 Kathy zineの3号についてはまだおぼろげな形しか見えていません。それぞれが他のジンを作ったり、友人のなみちゃんの作る超絶下品ロマンティック・ジン「Romangetic Island」なども発行していますので、ウェブサイトをチェックしてみてください。(http://www.popdrome.com/)  また、Sweet Dreamsという日本のインディ雑誌にも書かせていただいているのですが、チーム・キャシーのページがいちばん退屈なんじゃないかなーと思ってしまうほどすごく魅力的でユニークな雑誌なので、ぜひ! あと、全然自分たちが関わっているわけではありませんが、『てくてくBoo zine』という日記風ジンは本当にすばらしいです。これを作っている石川彩矢さんは、まさに日本のアーロン・コメットバス! 皆さんぜひ!

(■1号 A5判、88頁、300円。2号 A5判、92頁、500円。Lilmag store、irregular rhythm asylum、模索舎、ガケ書房などで入手可能。「常に置いてもらっているわけではありませんので、在庫についてはお直接問い合わせください」とのこと。連絡先は→info@popdrome.com
(奥山)

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2009年4月25日 (土)

ロシアの横暴/第14回 チェチェン国際空港がチェチェン人の命を脅かす!?(上)

 ロシアの経済危機はついにチェチェン鎮圧作戦終了にまで及ぶことになった。
 3月末に「チェチェンテロ対策作戦は終了、駐留する5万のロシア軍のうち2万は撤退」との噂が流れた。4月1日になると「終了はしたけどロシア軍は撤退しない」と言いだして、「エープリルフールか」と言われた。だが遠からぬ将来に撤退することは確定的なようである。なぜ確定的なのかというとほんとうに駐留維持費がないからだ。具体的にいえば兵士の給料が払えないところまできている。いわゆるスッカラカンだ。ただ表だってはそう言えないのでテロ集団はほぼ壊滅させたので・・・・と、ご丁寧にテロリストの数を細かく並べ立てたりしている。
 しかし下院議会議長がうっかり口をすべらせたのか、正直なのか、金がないからチェチェンでの兵力維持ができない、と公の場で発言してしまったので、もう隠しようがない、と観念したのだろう、経済危機はなにもロシアだけじゃあるまいし、米国だって同じだ、イラクから撤退だ、と開き直っている。
 さて、この撤退するしないのすったもんだの最中3月28日、全員がチェチェン人で編成されるロシア軍治安部隊「ヴォストク」の元司令官スリム・ヤマダエフがドバイで殺害された。ヤマダエフという人物は第二次チェチェン戦争が始まったとき、チェチェン独立派からロシア側に寝返り、ロシア軍のチェチェン入城に大きな働きをした。これを買われてロシア軍の司令官となったが、そのうちに同じようにロシアに飼われた同胞であるはずのカディロフ・チェチェン大統領の親衛隊と対立し、司令官を解任されたという経歴を持っている。当然のことながら下手人はラムザン・カディロフの命をうけた殺しの専門家であることを誰も疑っていない。
 撤退交渉の最中にこんな大物殺人事件が起きるなど、血なまぐささが抜けないチェチェンが国際空港開港に執念を燃やすのはなぜだろうか。
 現在チェチェンに外国人は入れない。もし公式に入れることになったとしてもモスクワ経由となる。
 国際空港が開かれれば、モスクワみたいなうさんくさいところは経ず、直接チェチェンに外貨を呼びこめる。もちろんロシア側にだって戦争屋イメージを払拭し、しかも各共和国に交易の自由を保証しているように見せるプラスポイントがある。
 自由経済区にして大もうけをしたいほかに何かを狙っているような気がする。一時は(撤退話はエイプリルフールを言われたころ)ロシア軍が撤退しなくても国際空港だけは開港させよ、という案も出たほどだ。実際、在日アメリカ軍とちがって、在チェチェンロシア軍の駐留費用はロシア持ちだからチェチェンにとっては撤退などどうでもよい。つまり今回の撤退交渉は国際空港を開くためで、ロシア軍関連は二の次だったのだ。
 チェチェン国際空港開港案で真っ先に名前があがったのが何かとチェチェンに縁の深いトルコである。もともとトルコにはカフカス戦争のころの離散民末裔が多数帰化している。そこに最近はチェチェン戦争難民が大量に流れ込んだ。最近チェチェンの首都に建てられた豪華なモスクはトルコ様式である。トルコに逃れた難民は昔から縁があったことのほか、同じイスラム教文化圏のそれもスーフィズム(神秘主義)で、ロシア語の及ぶ地域でもあるというのでチェチェン人らしさを失っていない。だが彼らは戦闘がほとんどなくなった現在もチェチェンに戻れないでいる。その理由はカディロフ大統領派の反対勢力狩りを恐れているからだ。
 こんな事情を抱えるチェチェン難民だが、最近トルコではチェチェン人同士の殺人が急増している。大半がカディロフが送った暗殺者によるものと言われている。同様の事件はフランスでも多発しているらしい。トルコ警察がフランス警察に「チェチェン人犯罪取り締まりノウハウ」伝授を依頼したと言う話もある。
 こんな時にチェチェン空港を国際化すれば犯罪も一気に国際化するのではなかろうか。カディロフに逆らう者はどこにいたって摘発してやる、と。空港が開かれて民間人の往来が活発になると一般市民による一般市民の監視・密告が可能になる。監視密告はスターリン時代に充分に体験済みのはずなのに。(川上なつ)

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2009年4月24日 (金)

諫早湾の闇――「開門なら殺しにいくぞ!?」――

Photo_3   長崎の諫早に行き、松永秀則さんにお話を聞いた。松永さんはいわば反乱軍の総大将めいている。農水省に押さえつけられ、水質汚染で水揚げがなくなり、泣く泣く干拓事業に協力する小長井漁港の中で一人で立ち上がった人物である。
 有明海の水揚げ量は最盛期の16パーセントしかない。彼は年収2000万円を稼いでいた潜水漁師だったが、いまや年収は当時の6分の1。小長井町は堤防の数キロしか離れていない。松永さんは97年に完成した堤防の影響だとし、昨年、総工費2300億円の国策工事に立ち向かい、小長井町の同志9人を率いて、堤防の即時開門を求め、長崎地裁に提訴した。今回、松永さんら原告の展望を聞かせてもらい、彼ら原告団の勝ち目があることは確信できた。
 農水省の干拓事業の目的が全部嘘だと思えてきたからである。
 全長7キロ。諫早湾を横切る大堤防は、諫早市民を高潮と洪水から守るという大義名分の下に完成した。ところが、97年に堤防完成後に諫早で起きた高潮被害件数は17回。堤防完成以前よりも増えた。堤防の内側に淡水化された調整池が生まれたが、以前、そこは干潟。ムツゴロウの生息地だった。いまや調整池の底に水没し、生態系が崩壊された結果、そこに棲む海の生物はもういない。ヘドロが沈殿して、悪臭を放つ。
 現在、農水省は調整池の浄化を立案しているが、浄化には失敗し、過去30年で5000億円を無駄にした岡山の児島湾と同じ将来が彼らの構想に潜む。
 調整池の浄化には今後200億円から300億円も要る。農水省官僚は、分かっている。諫早でも同じ失敗が起きると読んでも、官僚の面子とゼネコンへの天下り先を狙って、公共予算の追加を考えているのだ。諫早干拓事業の総工費はすでに2300億円。それでもまだ金がいる。工事にかかわったのは、岩手で小沢に政治献金をやらかした西松建設も含めて、諫早干拓事業の事業費群がった大小のゼネコン会社13社。7億円の不正政治献金を長崎県の自民党県連に出して逮捕劇が起きてからそう遠くはないのだが、同じ愚を繰り返すのだろう。
Photo_5   現地で聞いた笑い話を一つ挙げると、巨大な調整池には、諫早市内の河川から流れ込んだ淡水のスッポンがいる。彼らが殺したムツゴロウなど干潟の海洋生物の死は棚にあげて、調整池に生息する淡水の生物として、観光客相手のエコツアーのPRに使っているが、開門すれば、3000万円の淡水生物救出目的の予算も真顔で計上したいとまで九州農政局はいう。それも利権の一部にはなる。この話を聞いて。阿呆らしくなった。段階的に海水を入れると、徐々に塩分が増える。何もしなくても、淡水動物は、上流の淡水の川に戻るに決まっている。
 今、100年に一度の財政危機の時代である。農水省と下部組織の九州農政局に出す公共予算はないと踏んだのか、自民党内部で、干拓事業の見直しと、堤防開門を促す声が古株議員の間から出ている。公共事業費を土建屋に出す不毛さは分かってきたのだろう。それでも、農水省は最高裁まで裁判闘争をするから、「中止して開門にせよ」との大臣の鶴の一声を待つしかない。しかし、原告の弁護団によれば、農水省の官僚になめられる民主党議員が新政権の大臣になるより、胡散臭くても睨みがきく古株の石破農水大臣の方が適役らしいのだが、そこまで、麻生政権は持たない。
 昨年、佐賀地裁で3年以内の開門命令が出た。農水省は、環境アセスメントと題して裁判所が出した開門までの猶予期間を、先送りの口実にして、3年後に、アセスメントの結果を、開門反対派の諫早の農業関係者と協議し、開門できるか否かを検討するというが、諫早の開拓推進派は利権をすでに国家から陰に陽にもらっている。3年後にまた「地元の反対」を口実に開門案は消えることは必至。そこを見越して、3年かけて再調査という。つまり、悪質な遅延行為であることを承知し、形式的な第三者委員会の再発足を提唱した九州農政局にはあきれるが、役人も防戦ばかりではない。役人の狡猾さは超一流だった。事態は複雑怪奇。闇はどこまでも深かった。
 諫早の帰りに、福岡の大牟田のその漁協に立ち寄り、現状を聞くと、同じ有明海周辺でも、諫早の対岸になる地域は、海苔の被害が大きかった。干拓事業が水質を汚染して、赤潮が出た結果だと彼らはいう。 自民党の古賀誠の選挙区でもある大牟田の某漁協は解散になっていた。解散処分の口実は漁協の違法行為である。海苔養殖をするには、一つの漁協に海苔を養殖する資格を持つ20人以上の漁協組合員が要る。全国にはいくつも、20人以下の海苔生産者しかいない漁協があるが、古賀らに狙い撃ちにされるとひとたまりもなかった。くだんの法律は、戦後、海苔養殖がブームになった頃の遺物だが、福岡県庁はこの古文書めいた法律を持ち出して、開門要求をする地元漁協を解散させた手口があざとい。
 長崎のあさり業者らには勢いがある。身代わりに、福岡県は、構成員40人弱の零細漁協の反乱を鎮圧した。農水省の役人か政治家が裏でやったのだろうが、どう買収したのか、20人いた海苔関係者の一人を辞退させた。漁協も地裁に提訴したがあっさりと敗訴。漁協のボスはそのまま引退した。
 もっとも、干拓推進派の保守系勢力にも裏切りの可能性は出ている。数年前に天皇が長崎県の佐世保で開催された海の記念日のイベントに参加し、環境破壊を嘆く歌を詠んだという。同席した金子長崎県知事は蒼くなり、「陛下の歌は諫早とは関係ない」と釈明したが、この点を漁民の開門に大反対する市議に出すと、ぼそりと一言。
「開門を口にすれば天皇でも殺しにいくぞ」
 目は笑っていた。口が滑ったのである。遠来の取材者に対するジョークだったが、発言はICレコーダーに記録している。彼は開門派が勝てばそちらにつくとも公言する。農民も漁民も農水省に分断されて仲たがいされていることを感知するセンスはある人物だったが、不敬発言の方は、いつかコピーして長崎県議会に出すかとも、チープなブラック・ジャーナリストめいた妄想をしてしまう。
 このネタはJR東日本の組合が出した「自然と人間」と「週刊金曜日」に書いている最中。連休明けには記事が出る。お笑いあれ。

 諫早干拓緊急救済本部のサイトはココに。諫早干拓反対に生涯を賭した故・山下弘文氏が残したグループが継承した団体である。(李隆)

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2009年4月23日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第15回 オバマの勘違いとドロ沼化

 2009年4月20日、再度アフガニスタンに入った。
 砂と調味用スパイス、それに糞尿が混ざった匂い。この少しすえた匂いを嗅ぐと、「ああ、また来たんだな」と感じる。
 オバマ政権が誕生して以来、初めてのアフガニスタン取材だ。オバマ大統領はアフガニスタン政策において、ブッシュ政権との違いを打ち出している。「穏健派タリバンとの対話」「復興支援の強化」などだ。前ブッシュ政権の「ともかくテロリストを皆殺しにしろ」という姿勢からは、だいぶ現実的になったように見える。
 では、アフガニスタンでオバマ政権はどのように受け止められているのだろうか。アフガニスタン問題は前ブッシュ政権のころからアフガニスタン人という当事者を抜きにして語られることが多かった。
「テロリストはどこにいるのか」「治安が悪くなっている」「ケシの栽培が増加している」
 どれも、外国人にとってのみ重要なことだ。外国人の言う「テロリスト」は、いうなれば村の中にいる反外国人感情をもつ若者に過ぎない。治安が悪いといっても、それは外国人にとってだ。30年以上もまともな経済体制が無いのだ、強盗や盗賊には慣れっこだ。ケシは唯一の現金を得る手段だ。外国の圧力でケシ畑が焼かれれば焼かれるほど自分たちの生活が悪くなる。
 では、オバマ政権はどうか。
 オバマ大統領の政策は一見、優れているように見えるし、実際私から見てもかなりイイ線をいっている。けれど、「穏健派タリバン」とは一体なんぞや?
 ここにアメリカの大きな間違いがある。現在武装攻撃を行っているタリバンは2001年の政権崩壊時にトップにいたオマル師を頂点とするタリバンとは別物だ。本家のタリバンはアメリカの軍事作戦でパキスタン国境を越え、部族地域に身を潜めている。アメリカ軍も掃討作戦を続け、国境を跨いだ越境攻撃を続けている。
 現在アフガニスタン国内で活動しているタリバンは、空爆の被害者の遺族のことだ。親族を殺された怒りに燃える復讐者たちだ。彼らは4、5人のグループで指示無しに自立的に攻撃を仕掛けている。指揮系統が無いのだから、殲滅しようがない。
 アメリカが仮に部族地域にいるタリバンと交渉し、何か協定を作ったとしても、実際に動いているタリバンには何の影響も無い。
 街中で何人かにインタビューを試みた。
 シャラナオで文房具屋を営むジマッドさん(39歳)は言う。
「タリバンとの交渉は無理さ。うまくいきっこない。外国人がいなくなるまで戦いは続くと思うよ」
 他にも、数人に聞いてみたがタリバンとの交渉に関して希望的観測を持つことは難しいのだろう。カブールの人は基本的にアメリカより、反タリバンが多いのだが、やはり現実的に難しいのだろう。
 カルザイ政権は昨年の9月にサウジアラビアで、タリバンとの交渉の場を持ったことがある。協議の結果は闇の中だが、やはり難しいのだろう。
 最悪、協議の結果アフガニスタンの閣僚にタリバン出身者を向かえた上、攻撃が全く止まない可能性もある。
 オバマ政権にしろ、ブッシュ政権にしろ、やはりアフガニスタンの特殊な状況に対する事実の誤認が目立つ。
 しかし、現場で働く軍部は現実的で、軍による復興支援や地方の部族長の取り込みに力を置いている。部族長を見方につけるため、見返りとしてバイアグラを配っていた、という珍事まであった。
 けれど、昨年従軍をして復興支援の現場を見るとやはり現地の文化や風習に対する理解が甘い。詳しくはバックナンバーを参照してほしいが、支援をしながら反感を招いているという感じだった。
 アメリカの行動を見ていると、やはりこのカウボーイの国が異なる文化や宗教を理解するのは無理なのでは、とすら思えてくる。(白川徹)

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2009年4月22日 (水)

週刊新潮「赤報隊」自称実行犯に「騙された」記事を検証

島村征憲という人物が朝日新聞阪神支局襲撃など一連の「赤報隊」事件の実行犯と「実名告白」した記事が誤報と、記事を載せた週刊新潮が認めた記事が同誌09年4月23日号へ掲載された。まずこの記事の通り編集部が「騙された」を信じたとして考えてみる。

もし「騙された」ならば典型的な「騙された」パターンといえよう。まったくの虚偽、例えば「私の隣人は宇宙人だ」という主張をする人物に話を聞くと内容が『ディーテールに富み、内容にほとんどブレがない』『妙なリアリティを感じ』(注:『』内は週刊新潮09年4月23日号の「騙された」記事より引用。以下同)ということがある。というかしばしばある。思わず「もしかして本当に宇宙人?」というほどに。だから「騙された」がわからないではない。しかし一定の取材経験があれば、そうした特異な人物がいることもまた十分にご存じだったはずで、そこの疑問がぬぐえない。

『島村氏は不思議なほど何も要求しなかった』『金銭を要求したことは一度もない。売名とも考えにくい』のが信憑性を高めた要因というのも理解はできる。ただ前出の「私の隣人は宇宙人だ」タイプもまた概ねそうである。すなわち金銭などの要求があれば直ちに真意が見抜けるというのはわかる半面で、それがないから信じられるというわけでもないのだ。
虚偽であろうが事実であろうが自身にとって不利に決まっている話を記者にしてしまうという例はゴマンとある。ありていにいえば、その不思議な心理こそ「渦中の人」から特ダネを取る決定打の一つである。だからこそ見返りのないデタラメでも話してみたいという心理もまた当然に存在するのだ。

『自立支援のためにある程度のこと』を編集部が島村氏に『すべきであろうと思った』というのも一理ある。確かに『記者の仕事ではない』。だが新潮社の編集部員というのは私の知る限り週刊新潮だけを読んでいては想像もつかないほど親切丁寧で対応も穏やか。文芸を生業とする上品な出版社の社員さんという印象がある。だから便宜供与となじられるのは不本意であろう。それはわかる。
『週刊誌の使命は、真偽がはっきりしない段階にある『事象』や『疑惑』にまで踏み込んで報道することにある』は賛否両論あろうけど私は支持する。ただし『報道機関が誤報から100%免れるのは不可能』は「それを言ってはおしまい」だ。とくに誤報の顛末を紹介する記事においては。

以上が「騙された」を信じた場合。次に実は騙されていなかったのではないか。あるいは途中で騙されたとわかったのに記事化したのではないかという疑問を呈する。

まず『その後押しをしたのが「(証言は)実名の方がいいでしょう(中略)」という島村氏の言葉』『実名での告白を重く見過ぎた』である。そうだろうか。後押しないしは「重く見過ぎた」という程度の問題だろうか。何しろ誤報記事のタイトルが「実名告白手記」である。私は実名でOKと島村氏が承諾した時点で他の疑問を超越して「実名告白手記で行けるぜ!」と勇んだ気がしてならない。真偽不詳の内容を述べる当事者(取材者ではない)へ「本当なら実名でもいいですね」と踏み絵を迫る手法を知らない記者・編集者はあまりいないはずだ。
次に『アメリカ大使館佐山』へのアプローチが甘すぎる点。この人物は『島村氏に犯行を持ちかけたり、銃器類を用意したことは否定』している。他方で手記は「佐山」こそ真の黒幕である。その人物に接触しておきながら詰めなかったのはなぜなのか。そもそも島村氏の手記を信じていたならばどうして「佐山」氏を実名で報じなかったのか。
なるほど時効の問題はあろう。でも新潮はかつて法的に、あるいは慣習上実名報道をしない、できないケースでも行ってきた。ことは普通の事件ではなく116号である。その黒幕を見出しながら仮名というのは不可解だ。確信が持てなかったがゆえの仮名ではなかったのか。

そして以前にも書いた点だが、なぜこれほどの特ダネ(と報道時点では信じていたはず)を連載にしたのかである。心から島村手記を信じていたならば世紀の大特ダネである。と同時に週刊誌は週に1回しか発行できない宿命がある。もし世紀の大特ダネならば発行当日どころか前日には大騒ぎになっていて事件が事件だけに大新聞を中心とする記者が総力で後追いするはずだ。となると連載2回目までに書き立てられてしまって鮮度を失う。そうとわかっていながら4週に刻んだ理由は何だ。ぜひお答え願いたい。

116号は週刊新潮もまた含まれる「報道機関」を暴力で踏みにじった途方もない事件だった。当時支局詰めだった私も社こそ違え赤報隊に脅迫されたこともあり異様な雰囲気をいまだ覚えている。それを軽々に扱ったという点だけは別途に反省の弁を聞きたいものである(編集長)

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2009年4月21日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/川上健一の小説に涙

○月×日
 『四月になれば彼女は』(川上健一著)を読んだ。
 まず、書店でこの新刊を目にした瞬間「これだ」と直感した。なんていかしたタイトルなんだろう。かなり強烈な衝撃でビビッときた(大袈裟にいっているのではないですから)。中身なんてどうでもいい。この背表紙(タイトル)が私の本棚に並んでいるだけでも十分な価値がある。本気でそう思った。
 ふと我れに返ると、このコーフンを自分でも驚きながら、春を待ち焦がれていた私に必要なのはこれだったんだと納得した。そうなればもう何の迷いもなくこのタイトルだけで即行レジに向かったのだった。

 変なやつだと思われるかもしれない。しかしそれは別に春だからではなく、私にはこうした突拍子もない変なところが多分にある。それでも家に帰ると、やっぱり一気に読んだ。
 で、このタイトルは、60~70年代の最強のデュオ・グループ、サイモン&ガーファンクルの佳曲として有名なのだが、知っている人も多いだろう。私も中高生の頃は夢中になって聴いたものだった。中学生の時に観た、ダスティン・ホフマンの映画「卒業」の挿入歌でもあり、「エ~イプリル♪」で始まる2分にも満たない短い曲だが、内容ははかなくも美しい恋の歌だ。
 英語はからきし苦手な私だったが、辞書を片手に悪戦苦闘、訳詞までしたことを今でも鮮明に覚えている。
「4月になれば彼女はやって来る。5月、一緒に暮らす。6月、彼女は心変わりする。7月、突然いなくなる。8月、彼女は死ぬ。9月、彼女との思い出に耽る」と、間違いだらけの訳詞をさらに要約するとこうなる。
 あぁ、4月と聞くと感慨を抱かずにはいられなくなる。どうしてだろうか。

 前置きが長くなってしまったが、私は著者である川上健一氏は青春小説の名手だと思っている。氏の小説をはじめて読んだのは『雨鱒の川』だった。これも山村の川で魚獲りをする裸の少年と、その後ろに佇む少女というノスタルジックな本の表紙に惹かれて何気なく買ったものだった。
 内容は氏の出身地である東北の田舎を舞台にした小学生の純愛小説なのだが、かなりシリアスで、思わずこの2人を応援してしまいたくなり、泣けて泣けてどうしようもない大感動作だった。
 ただ、ちょっと気になったのは言葉の壁。つまり、会話が東北弁のために全国の人に理解できるのかということだった。
 それにしても、この2人が大人になったときにどうなっているのか。もちろん結婚すると単純に思うが、続編を書いてもらいたいと期待したのは私だけではないだろう。
 いや……、このままの方がいいのか。大人になればどうしても直面せざるを得ない世の中や社会の厳しい現実。ややこしい人間関係。不純でドロドロしたものなどこの2人には似合わない。そんなものは読みたくないか。ん!? そんなことより青春小説からはみ出してしまうよな。
 それからは氏の作品を立て続けに読んだ。『ららのいた夏』『宇宙のウィンブルドン』『翼はいつまでも』などなど。どれも痛快で読み出したらもう止まらない。ユーモラスで破天荒なのだが、おやじの胸でもキュンとなるような切なさもまた絶妙だ。思わず涙が溢れ出るというのに、読後感の清清しさといったらこれまた格別な作品ばかりだったのだ。
 さて、本書『四月になれば彼女は』だが、お馴染みの青森が舞台で、何故かいまいち釈然としない日々を過ごしていた主人公の沢木圭太が高校を卒業して地元に就職するという前日24時間の話だ。
 ホンダのカブで町中を走り回り、仲間や小学校時代の初恋の人と出くわしたりと、これでもかというくらいに起きる一日の出来事が実に濃密に描かれている。で、最後は東京への旅立ちを決意するというどんでん返しの展開となる。
 それにしても、まるでハチャメチャ、ドタバタが多すぎる。しかしね、私もこの頃はこれと似たり寄ったりでおバカなことばかりやってたなぁと気恥ずかしくなってしまった次第だ。誰もが程度の差こそあれ、長い人生に於いて、少年から大人へと成長していく大事な通過点であることは間違いない。

 あの頃は確かに純粋であった。

 また、4月は出会いと別れ、そして旅立ちの季節だ。ある意味、決断のときなのかもしれない。
 この本を読んで、またしても少年時代に戻りアツクなれたのはよかったが、タイトル負けではないのかという印象が否めない。

 どれどれ、レコードでも聴こうかな。もちろん今夜は黄金のデュオ、サイモン&ガーファンクル特集だ。いいな、いいいい。透き通る歌声。春にぴったりだ。「エイプリル・カム・シー・ウィル♪」。(斎藤典雄)

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2009年4月20日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・33歳・正社員(教育関係)

(前編)
 埼玉に生まれました。中学まで地元の学校に通って、高校は隣県に1時間半かけて通いました。

 その高校は有名大学の付属校だったので入学したんです。普通科と商業科があったんですが、普通科ではなく、入りやすかった商業科に進みました。そこは基本的に大学への進学を考えず、情報処理や簿記など実学を身につけるための学科なんですが、実学には全く興味が持てなくて、嫌々授業を受けていましたね。文学の方が好きで、趣味は読書。中国系の歴史小説が特に好きで、いろいろな作家の三国志を読み比べたりしていました。
 私のまわりの親戚は大学に進学していない人というのが一人もいなかったんです。だから大学進学は迷わずに決めました。勉強をしているときは、孤独でしたね。みんな他の勉強をしているときに一人だけ赤本を開いていて、こつこつやっていました。商業科の中でもスターはスポーツ推薦組で、自力で勉強して大学へ行くというムードは全くありませんでした。自分は自分と割り切って勉強してたんですが、その年は受からず、一年予備校に通って合格しました。
 大学の学科は、中国文学科です。中国語の厳しいところで、かなり鍛えられました。力を入れたのは中国語のサークルと、塾講師のアルバイトですね。高校時代の現代文の先生にあこがれていたのと、単純に2200円の時給に惹かれたんですが、採用試験がすごく厳しかったんです。一ヶ月の研修の間は最低賃金しか出なくて、鬱憤が溜まってしまう研修内容に「研修が終わったら辞めよう」と耐えていたんですが、本採用者発表の時に、一番成績がよかったのが私だったんです。最初に名前を呼ばれてしまって、うーん、それは話が変わってきたなと。認められたのでやる気になったんですが、1時間の授業に対して3時間の予習が必要だったりして、割に合わないぞというのは、はじめてすぐに気づきました。みんなが私服で学校に行くのに自分はスーツで登校して、授業に出席しつつも中3の国語のテキストを予習したりとか。国語はけっこう準備が必要な教科なんですよ。読解しておかないと教えられないから。
 あわせてその頃は、「これからは中国語の時代だ」と言われていたので、将来は中国語で就職が出来ればいいなと思い、別大学の社会人向け講座に出席したり、短期留学も4~5回行きました。あとはひと月1回のペースで中国旅行をしたりとか。そんなふうに大学の授業から離れた生活をしていたら、単位が足りなくて一年留年してしまったんです。

 就職活動は4年次の夏が終わった辺りからスタートしました。直前まで塾の講師をやっていたので、1年も2年も前からリクルーターに会って挨拶をしたりといった前活動は全くしませんでしたが、みんなはしていたようですね。当初は行きたい業界が2つありました。1つは中国語を使ってする仕事、または中国に赴任できる仕事。もう1つは出版社でした。
 出版社は、筆記試験に英語の問題が出てアウト。英語は全くダメなんですよ。その問題は、設問自体が英語で書かれていて、何を聞かれているのかすら分かりませんでしたね。
 中国語は、短期留学や旅行も行っていたのでそれなりに自信があったんですが、それがさっぱりでした。中国語は道具でしかないから、それを使って何かできないとダメなようでした。日常会話とビジネス会話ではレベルが違うし、学生でも何らかのビジネス経験を積んでいる人を求めているようでしたね。当時、就職氷河期という言葉が出ていて、私が就職しようとした年が2000年だったんですが、一番厳しいときでした。で、春は近づいてくるし、どこも受からないな、と、中国系には見切りをつけたんです。(前編終わり)

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2009年4月19日 (日)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第31回 内装は木造住宅

20a 写真右下、小さな扉を開き、裏側の茶色い錆止塗料をのぞかせている。これは電気・ガス・水道などが収めてあるパイプスペースの点検扉である。この周辺の壁が引きはがされているのは、酔っぱらいが暴れたわけではない。この連載で何度か指摘通り、パイプスペースがきちんと埋め戻され、火が回らないようになっているのか調べていたのだろう。

 ここで意外に感じたのは、ホテルの壁に石膏ボードが使われていたことだ。床の絨毯に散らばっている白いものは、石膏の破片である。ニュージャパンの火事ではベニヤ板やブロックが被害を拡大したとは報じられていたが、防火対策の基本となる石膏ボードが使われていたことは大きく報道されていなかったからだ。
「ホテルニュージャパンが開業したのが昭和35年ですから、そのころは当たり前に石膏ボードが使われていました。つまり内装が開業当時から同じだったとしても、石膏ボードを使うのは防火対策が必要なホテルとしては当然のことだったでしょう。
 ただしニュージャパンは、石膏ボード自体が薄い上、ボードの下に板を敷き、さらにボードを支えるためにコンクリートに木の支柱を打ち付けています。これでは木造住宅と変わりません。通常なら軽量鉄骨などを使うのですが?」 ホテルニュージャパンの火災に詳しいKBさんは、このように解説してくれた。

 火元の9階と7階は防火対策に違いがあったとの話もあるが、いずれにしても防火材料を使っていながら、その下地が可燃物では意味がない。火災の熱と異常な乾燥で自然発火すれば、石膏ボードは崩れ落ちながら延焼してしまう。石膏ボードを使った木造住宅が全焼してしまうのと同じである。もちろん、延焼には木製ドアなどほかの要素もあったが。
 調べてみると昭和35年あたりには軽量鉄骨が出回り始めていた。ニュージャパンは横井英樹社長が昭和54年に買収し、シャンデリアなど豪華な内装にしたという。少なくとも、この時壁や天井のクロスの張り替えたのだから、可燃性のベニヤと木製の支柱を全廃することはできたろう。しかし、見えないところの経費を徹底的にケチった横井英樹社長に、そんな発想はまったくなかった。

 写真奥に見えるのはエレベータホールである。フラッシュを反射して黄色く光る扉は不気味だ。(大畑)

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2009年4月17日 (金)

塩山芳明 トークイベント報告

去る4月12日、「わめぞ」さん主催で行われた

「ワメトークvol.4 『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代~』刊行記念トークショー 嫌われ者の記場外乱闘篇~本当は愛されて死にたい奴らの90分1本勝負~+Pippo の‘古本J君とゆこう Spring Tour 2009」。

 40名定員のところ50名を超えるたくさんのご来場、感涙の極みでございました。お手伝いの立場ではありますが、出版社として改めて御礼申し上げます。ご来場いただきました皆様、「わめぞ」の皆様、本当にありがとうございました。

 新刊著者の塩山芳明とイラストレーター武藤良子さんの激烈辛口なトークバトルをとりまとめてくれたのは、ミニコミ界の大御所、南陀楼綾繁氏。
 トーク初頭では、塩山氏が弊社との出会いを語ってくださいました。A5判だった頃の『記録』を持参、読者だった塩山氏が弊社にお手紙を下さったこと、そこから連載が始まったこと等々、筆者も知らなかったことが盛りだくさんで、勉強させられてしまいました。
 さらに話題は本のタイトルやデザインに移り(御三人様とも大変不満らしい…)、そのあと「古本歌姫」Pippoさんのミニライブとあいなりました。ピンクのウサギ(うさりん)とのコラボがとっても愛らしく、さらに近代詩を朗読するというスタイルの「古本歌姫」に魅せられ、新しい音楽ジャンルの可能性に思わず唸る新鮮さでした。

 ライブをはさんで、さらにトークバトル。後半は主に中身について語られ、特に構成には大変な賛辞を寄せていただきました。読者が、そして著者が、一冊の本に対してどのように感じているかを知ることができる大変貴重な時間でした。
 そして、なんと仙台からお越しいただいた漫画家のいがらしみきお先生がゲストとして登壇! ご本人が描く漫画と同様のユーモア溢れるキャラクターに会場が沸き、大盛況となりました。

 イベントとして大変盛り上がったことももちろんですが、著者のまわりにいらっしゃる方々の強い個性、一緒に盛り上げていこうとする情熱と温かさに触れ、本作りの姿勢を改めて学ばせていただきました。

本当に、ありがとうございました!

塩山氏、次は永山薫さんのトークイベントに登場される模様。
詳細を追ってお知らせいたします。

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2009年4月16日 (木)

ホームレス自らを語る 第28回 昔ツッパリ いま仏様(前編)/新垣智之さん(仮名・63歳)

 昭和20年4月1日に米軍の沖縄上陸が始まり、那覇に住んでいた我が家一家も、山の中に逃げ込んでガマ(岩屋)に身を潜めた。そのころ、オレはまだ2歳だったけど、ガマは日本軍の兵士と沖縄の人たちで、ギュー詰めだったことをうっすらと覚えているね。
 日本軍の兵士は沖縄の人間を見下していたから、とても横柄で横暴だったよね。そこへいくと米軍兵士のほうが、よほど紳士的だった。戦争が終わって、沖縄の人たちが曲りなりにも生き延びられたのは、米軍が食糧の配給をしてくれたおかげだからね。あのカリフォルニア米やタイ米の配給がなかったら生き延びられなかった。
 我が家は両親とオレの3人家族で、オヤジは農業をやっていた。ところが、その農地が米軍の基地に接収されて、ほとんどを持っていかれてしまった。
 それで両親は荒地を開墾して畑につくって、パイナップルとかミカンの栽培を始めた。しかし、痩せた狭い農地だから、農業収入はたいしたことなくて、とても一家3人で食べていくことはできなかったようだ。それで伯父が漁師をやっていたので、オヤジはその船に乗って漁を手伝い、農業と漁業の両方でなんとか生活が守れたんだ。
 子どものころのオレは腕白のガキ大将で、負けず嫌いのケンカっ早いツッパリだった。小学生のとき女の子が鉄棒で大車輪をやっているのを見て、「女にできて男にできねえわけがねえ」と、それまでしたこともないのにいきなり挑戦してね。それで勢いあまって鉄棒から飛び出して、地面に叩きつけられて顎に大ケガをしたことがある。いまでも大きな傷跡が残っているから、髭を生やして隠しているんだ。若いころのオレは、ホントに向こう見ずのツッパリだった。いまは仏様のようにおとなしいけどな(笑)。
 高校は私立の興南高校。私立の高校に行けたということは、このころには家の経済状態もよくなっていたんだろうね。伯父の漁業が軌道に乗っていたんじゃないかな。
 スポーツの盛んな学校で、ハンドボール、野球、ボクシングは全国レベルだった。ハンドボールは全国制覇を遂げているし、野球は夏の甲子園でベスト4くらいまでいっているはずだ。ボクシングのOBにはフリッパー上原がいて、それに何といっても具志堅用高の母校でもある。
 具志堅用高といえば故郷の石垣島から、興南高のボクシング部に入りたくて那覇までやってきた男だ。それがボクシング部は「身体が小さすぎる」というのを理由に入部を認めなかった。そのころのオレはもう卒業していたが、一応ツッパリで有名だったから、人づてにたのまれてボクシング部のキャプテンに話をつけて、具志堅の入部を認めさせたんだ。それ以後の彼の活躍ぶりは、みんなも知っての通りだ。

 高校を卒業したオレは、愛知県の自動車工場に就職した。トヨタ自動車の子会社で車のバネをつくる会社だった。ただ、ここには半年しかいなかった。実は別のところに腕を見込まれて、スカウトされたんだよ。
 オレのオヤジは漁師をしていたろう。いつも夕飯のおかず用に、魚を持って帰ってくるんだ。それを捌くのがオレの仕事で、ちょっとした板前以上の腕前だったからね。
 自動車工場で働いていたとき、休みの日なんかに魚を捌いて寮の仲間にふるまったりするだろう。そうしたら「車のバネなんか製造しているより、その包丁捌きの腕を生かすべきだ」と言って、あるホテルの厨房を紹介してくれた人がいたんだ。
 そのホテルは長良川沿いに建っている格式のあるホテルでね。長良川では4月から6月が鵜飼いの季節で、客たちはホテルの部屋からそれを見物しながら、アユを中心にした会席料理に舌鼓を打つという趣向だった。鵜飼いのシーズン中はいつも満席で、オレたちも忙しかった。
 この厨房には10年間いて花板までになった。板長に次ぐNo.2の地位だ。料理人になる気なんてサラサラなかったのに、人生ってどこでどうなるかわからんもんだよね。
 ホテルを辞めることになったのは、沖縄に帰らなければならなくなったからだ。事情の込み入った話で、これはちょっと話せない。
 沖縄に帰って、しばらくブラブラしてから、友人の紹介で豊見城のレストランで働くようになった。こんどは沖縄料理が中心で、それに和食も洋食も出す店だった。オレは元々器用だから、一度その料理を食べれば、使っている食材から、調味料、油など、だいたいわかってしまうんだ。だから、調理を覚えるので苦労した記憶はあまりないね。
 ちょうどこのころ、沖縄の施政権が返還になって本土に復帰した。1972年のこと? そうだったかな?
 そう、そう。その翌年に結婚するんだ。オレが30歳のときで、知人の紹介で知り合った沖縄の子だった。気立てのやさしい子で、何かといってはオレを立ててくれるんだ。オレにはもったいないくらいの嫁さんだった。子どもは女の子が1人できた。
 それから間もなくして豊見城のレストランが倒産する。倒産というか、レストランのオーナーが博奕に狂っていて、その借金のカタに取られてしまったんだ。従業員は全員が解雇になった。
 それでオレは友人が大工の親方をしていたから、そこに弟子入りをした。調理人から180度の転換だけど、そこは器用なオレのことだからさ。たちまち大工の技術を身につけてしまうんだけどね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年4月15日 (水)

医者には治せない

最近どうも目がかすむので眼科へ行った。医師の見立てによると「白内障」のごく初期だそうな。職業柄ほかはともかく目ばかりは見えていないと困るので「それ何ですか」とかなり食い下がる。医師の話によると「目の白髪」のようなもので綺麗なガラスがすりガラスに変わっていくような変化。高齢者はほとんど白内障で程度がひどくなると見えなくなるかもね……が大要。白髪というけれど大違いと感じた。だって白髪は黒いのが白くなるだけだけど白内障は透明が濁るという話なのだから。
「で、先生。治ますか」と聞くと先生力強く

「治りません!」

紙をさわるのが大きな原因で手荒れがひどい。先生に何とかならないか聞くと

「紙をさわらないのが一番です!」

先生。それでは編集者が務まらないです。

実は右腕にかなり深刻なやけどを負っている。特効薬のような薬を塗ってさっさと治したいと先生に要望すると

「やけどを治す薬はありません!」

医学の発展性は大いにあるようだ。(編集長)

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2009年4月14日 (火)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第30回 目立たなかった深い青の扉

20a_2  張り紙にある通り、9回西側の非常階段の扉である。中に進入するためだろう。消防隊が扉を切った跡が残っている。この写真でホテルニュージャパンの火災に詳しいKBさんが注目したのは、写真左、扉の左に残る青い筋だった。
「直接の炎が避けられたこで、元の色が残ったのだと思います。ただ、このような深い青だと沈んでしまって、停電や煙が充満した状況下では、とても避難するための特殊な扉だと分かりにくかったのではないでしょうか?」
 たしかに当時の報道などを読むと、内部構造の複雑さと煙の蔓延によって非常階段までたどり着けなかった人もいたと書かれている。また、非常階段にたどりついても開け方が分からず、脱出できない人がいたことも大きな問題となった。
 33人の死者を出した小さな原因の1つは、こんなところにもあった。

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2009年4月13日 (月)

書店の風格/第31回 紀伊國屋書店国分寺店

★★★★★★★★

 連載の前にちょっとコマーシャル。
 塩山芳明の新刊『出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代』が、なんと!

東京堂書店 週刊綜合ランキングで第2位!!
(4月第一週)

三省堂書店神保町本店 人文・社会棚で第2位!!
(業界紙『新文化』4/2付)

となりました。
大きな展開をしてくださっている紀伊國屋書店新宿本店様、サブカル本のお取り扱いでは右に出るお店はないであろう中野・タコシェ様でも、たいへん良い売れ行きです。
大胆なタイトルなのに並べてくださった書店様、お買い上げ下さった皆様、本当にありがとうございます。
これからも、精進いたしますので、何卒よろしくお願い申し上げます!

コマーシャルを終わります。

★★★★★★★★

 「客足のとぎれない店」というと、皆さんはどんなものを想像するであろうか。
 行列の出来るラーメン屋さん? 限定スイーツが話題のデパ地下?
 「客足のとぎれない本屋さん」があるのだ。
 それが紀伊國屋書店国分寺店である。

 紀伊國屋書店国分寺店は、国分寺駅の改札を出て目の前にある「国分寺エル」という駅ビル内の書店だ。「エル」は服飾雑貨のテナントが多いビルで、さらにマルイと繋がっているため、国分寺一番のショッピングスポットとして機能している。そのなかにある唯一の書店が、ここなのだ。

 通常、出版社の営業マンが書店にお邪魔して担当者にご挨拶したいと思うとき、アポを取っていなければ店内を探して本人に声をかけることが出来ればラッキーだ。でもどうしても、そうは行かないときがある。お目当ての担当者様がレジに入っているときだ。
 そんなときはレジのお客がすっかり引けるまで待って、声をかける。
 ご本人が見あたらないときは、レジにいる人を避けて、声をかける。
 そのどちらも滅多にかなわないのが、このお店だ。

 なぜかというと、レジの前からお客がいなくなる瞬間がほとんどないからだ。平日の昼間、他のお店ならば比較的すいているような時間帯も、レジ前には行列が出来ていて、店員はみなレジ中に集中している。「ちょっと待とう」が「1時間後にまた来よう」になり、「また今度来よう」になってしまう代表的なお店だ。あまりに声をかけるのがつらくなってしまう。国分寺市民は全員このお店で本を買うよう義務づけられているのではないかと思いたくなるほどの混みようなのだ。

 このお店はどうしてこんなに人気があるのか? たしかに立地条件はよい。大規模な書店さんが国分寺には少ない。でも書店自体はたくさんあり、雑誌やベストセラーならそちらで間に合いそうだ。何故なのか。それは、この書店のバランスの良さにヒントがあると思う。

 まず、お店の入り口には新刊、ランキング本がずらっと顔を見せて並んでいる。ふつうならショーウィンドウにしたい豪華な設置だが、それをしない。お客様が直接手に取れるようにしてある。中にはいると、一般的な書店よりも見晴らしのいいことがすぐに分かると思う。棚の高さが、若干低めなのだ。そして横長の空間の、中間地点に入り口が位置するので、どのフロアに行くにも億劫さを感じない。見渡せば全体がすぐに把握できる程度の規模というのも魅力である。

 そして見たところ、どの棚も収集に偏りがない。文芸書、ビジネス書、人文、学参、文庫、児童書、どこを見ても平均的な品揃えで隙がないのだ。国分寺はホームタウンである。一般のお客さんが何を好むか、どこに何がどの程度置かれるのがよいのか、考えた末の平均値なのであろう。文具にたとえると、使い勝手よく手放せないボールペンのようだ。凝ったつくりの万年筆には最初は心躍っても、リピーターにはならない。

 書店激戦区の中央線西側で、生き残っていく術を見せられたような気がした。(奥山)

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2009年4月12日 (日)

熊谷ホームレス殺人事件の現場を歩く

 2002年11月、1人のホームレスが3人の中学生になぶり殺された。
 レンタルビデオ店に向かっていた2人の少年が、ホームレスの山本裕二(仮名)さんを発見。ひとしきり山本さんにちょっかいをだしてからビデオ屋に足を向けた2人は、自身と山本さんの運命を変える決定を下す。
 もう1人の友人を呼び出し、もう一度山本さんをからかおうとしたのだ。
 山本さんを虐める「遊び」に、彼らは夢中だったのだろう。そうでなければ、1時間とあけずホームレスの寝ぐらを再訪しようと思わないはずだ。事実、埼玉県警の調べに、「無抵抗でおもしろかった」(『読売新聞』02年12月21日)と少年たちは答えている。
 レンタルビデオ店から犯行現場まで、およそ700~800メートル。彼らは畑や空き地の残る地域を自転車に乗って疾走した。時間は午後8時過ぎ。その日の熊谷の最低気温は8.2度だった。吹き付けた風は、身を切る冷たさだったはずだ。
 一方、人通りのない暗い空き地で3人の中学生に囲まれた山本さんは、底知れぬ恐怖を感じたに違いない。つばを吐きかけられるなど、これまでに何度も因縁をふっかけられた相手である。持っていた傘を振り回したのは、彼の精一杯の抵抗だった。
 しかし傘が1人の少年の腕に当たったことで、少年たちの暴力は一気にエスカレートしていく。素手での暴行が始まり、それが現場に落ちていた角材での殴打に発展。その角材が折れると鉄板まで使った。また可燃性の消臭スプレーに火を付け、山本さんに吹きかけたりもしたという。
 1時間にも及ぶ暴行で、山本さんはいびきをかき始める。脳内出血によるものだろう。だが、その様子を見た少年たちは、気絶したと勝手に解釈し帰路についた。
 翌朝、山本さんは近所の住民に発見されたが、帰らぬ人となった。全身はアザだらけ、肋骨は5~6本折れていた。死因は急性硬膜下血腫。あまりにも酷い死にざまであった。

 これが新聞・雑誌などに報じられた凶行の一部始終だ。こうした行為自体、多くの人の理解を超えている。しかしさらに説明のつかない行動を、彼らはとる。
 2日後の新聞報道で山本さんの死を知ったにもかかわらず、3人のうち2人は普段通り学校に登校し続けたのだ。しかも現場に別の友人を連れていき、犯行の様子を詳しく説明したとも伝えられている。結果としてホームレス殺害の噂が校内を巡り、少年と保護者と教員の間で話し合いが行われた。
「その席で、『なんでそんなことをしたの』と問いただす保護者に対し、3人は泣きじゃくり、言葉が出なかったという。校長は、30日の記者会見で『3人は、このときになって事の重大さに気付いた様子だった』と話した」(『読売新聞』02年12月1日)
 山本さんの死亡確認から2日間。なぜ少年はまともに登校できたのだろう? 何とも言えない違和感がある。通常の感覚なら人を殺した翌日から日常生活など営めるものではない。まして犯行現場に友だちを連れて行くなど、もってのほかだ。評論家が断じる「命を軽んじる子ども」だからなのだろうか? 
 しかし、彼らが本当に「命を軽んじる子ども」なら、保護者と教員との話し合いの席で泣きい崩れた理由がわからない。『毎日新聞』(02年12月25日)は、「少年の家族は(犯人の少年を)『動物好き』『普段は手出しはしない子』などと話し、家族では別の一面を見せていたようだ」とも報道している。しかし、本当にそれは「別の一面」だったのだろうか? いや、むしろ「普段は手出しはしない子」という評価は正しいのではないのか。「普段」の生活、「普段」の相手だったら、「手出し」などしなかったのではなかろうか?
 社会学者の宮台真司氏は、『脱社会化と少年犯罪』(創出版)のなかで、次のように主張している。
「人類史上、人を殺してはいけないとルールを持った社会は、ただの1つも存在しないからです。その代わり、人類社会は2つのルールでやってきた。それは『仲間を殺すな』というルールと、『仲間のために人を殺せ』というルールです」
 賛否両論はあろう。しかし宮台氏の論を借りれば、少年の行動に説明はつく。
“ホームレスは敵だったから、仲間のために殺したのだ”と。

 殺された山本さんは、食べ物をもらうために住民の家を訪ねていた。埼玉県警の広報課は、プライバシーに係わるとの理由で詳細を明らかにしないが、月に数件、山本さんに対する苦情が熊谷署に寄せられていたことを否定しない。
 実際、犯行現場の近辺で、山本さんに対する悪評を何度も耳にした。
「だってさ、パンをあげたら『賞味期限が切れているだろ』って怒鳴られたんだろー。あと、100円あげたら、『いまどき100円じゃあ、ジュースも買えないじゃねえか』って言われたとかさ」
 近隣の小学生から聞いた噂である。このほかにも、「おにぎりの塩を抜くように要求した」、「手に持っている荷物を玄関にドサッと置き、ドアが閉まらないようにして食べ物を要求し続けた」などの噂を、複数の住民が語っている。
 と同時に「大人しい人」「穏やかな人」と山本さんを評する声もあった。
「(自宅に来たのは)秋口ですかね。(山本さんが)いっぱい服を着込んでいたのに、暑そうだと思わなかったから。ええ、別に怖くなかったですよ。『今、食べ物は何もないんですよ』って言ったら帰っていきました。家に来たのは、その一度きりでしたね」
「いつもこの道を犬連れて散歩していると、ビニールをいっぱい持って立っていましたよ。疲れないのかなと思ってね。うん。ウチの近所に来たとき、おにぎりもらっていたことがありましてね。両手で一個のおにぎりを包むように持って食べていました。大人しい人だったわよ」
 なぜこうも違う人物像が語られるのか。混乱しながら取材を進めた。
 もっとも考えられるのは、ホームレスが複数いるケースだ。
 ホームレスにとって食料の調達は、文字通り生死にかかわる大問題である。そのため食料に関する噂は、仲間うちであっという間に広まる。こうしたホームレス社会の特性を考えるなら、山本さんと同じ方法で食事にありつこうとする人が現れても不思議はない。しかも多くの住民はホームレスの容姿にさほど注意を払わない。食事をもらいに来たホームレスが、すべて山本さんとして語られても不思議はない。
 実際、近隣住民には、次のように証言する人もいた。
「『おにぎりくれ』って言われたことがあってね。へー、こんな人がまだいるんだなーと思いましたよ。戦後すぐのころには、いっぱいいたけどね。
 でも、もう1人、別のホームレスもいたわね。ジーっと何も話さないで、ただ家を見つめて、ご飯をもらうおうとしていた人が。孫なんかは、話さないホームレスの方を怖がっていましたよ」
 この地域で複数のホームレスが、家々から施しを受けて生活していた可能性は高い。そこで山本さんを完全に特定できた人物を探した。その1人が、毎日のように山本さんに接触していた熊谷市の福祉職員である。
「ほとんどしゃべらない方でした」
 山本さんの印象を、彼はこのように語った。しかし山本さんが、噂されていたような態度で物乞いをしたかについては知らなかった。
「山本さん以外にも家を回っているホームレスがいることは聞いていましたが、山本さんがどんな風に回っていたのかはわかりません。現場を見たわけではありませんので……」
 福祉職員への証言は、賞味期限の切れたパンに怒りを露にする人物に結びつかなかった。しかし犯行現場のごく近所に住んでいる老婆が、この謎を解いてくれた。
「横柄な態度でね。『ごはんくれ、パンくれ』って訪ねてきてね。『ないから』って答えたら、『じゃあ、煎餅を一枚くれ』ってね。まあ、煎餅一枚ぐらいならさ、かわいそうだからあげたの。ついでに飴も付けてあげて。そうしたら飴を玄関に放り投げて帰って行ったよ。
 しかも帰った後で見たら、門を閉めておくための針金を壊して入ってきていたんだから。いや、男の人が対応すると大人しいらしいの。人によって対応を変えるんですよ。
 ウチは1回の訪問で味を占めたのかねー。ピンポンで出ないと、ドアをガンガン手で叩くんだから。怖くて巡回の警官や民生委員にも相談したんだけどね。警察は『何もあげるないで』と言うだけだし、民生委員なんか自分から食事をあげていたぐらいだから」
 穏やかな口調に、ときおり怒りを滲ませながら、彼女は語ってくれた。
 犯行の現場は、01年9月末から山本さんが住み始めた空き地である。スーパーの袋をいくつもさげ、雨の日は傘をさし、住民ともほとんど話すことなく、彼はその空き地で立ち続けていたという。その空き地と目と鼻の先に住んでいる住民が、山本さんの顔を知らぬはずがない。
 さらに昨年の夏まで山本さんが住んでいた場所周辺で、山本さんの顔を知っているであろう近隣住民にも取材してみた。
「ベルが鳴ったのでドアをあけたら、足をガッと入れてきたんです。そうやってドアを閉められないようにして、ドアをグイグイひっぱるから、私も必死にドアを引いて、ピシャっと閉めました」
 取材に応じてくれた20台後半の主婦は、山本さんが来たときの恐怖をこのように語ってくれた。
 これでは警察に苦情がいくのも仕方がないだろう。
 また山本さんが家々を訪ねていた時間が悪い。夕食後の残りを狙ったのかもしれないが、多くは夜9時、家によっては夜10時に訪ねることもあったという。しかも一度食べ物を渡した家には、何度も通っていたという。
 こうした行動の積み重ねが、山本さんを見えないところで追いつめていった。排除の圧力が、地域でジワリと高まっていたのである。

 山本さんが熊谷市に来た時期が正確にわかっていないが、01年の春ごろには市内のあちこちで見かけたという。殺害現場の隣に住む男性は、01年の梅雨の終わりに食事をねだられたことを覚えていた。そして01年8月には、住民が通称「亀の道」と呼ぶ、遊歩道にある藤棚の下で暮らすようになった。
 そこでの事件は、9月末に起きた。
 近所の子どもから「税金払っていないヤツは、生きている価値がねぇ」とからかわれ、山本さんはおよそ800メートル離れた空き地に引っ越したのである。自身が1年2ヶ月後に殺される現場へとである。
 もし山本さんが移動しなければ、と考えてしまう。
 藤棚周辺は住宅密集地である。そこで事件が起こったなら、住民の誰かが暴行に気づいたかもしれない。また例え住民に気づかれなくても、手ごろな角材や鉄板などは落ちていなかったはずだ。それなら命だけは助かったとも思う。

 山本さんが生活していた場は、ホームレスにとって暮らしやすいとは言いがたい。水場やトイレに近いわけでもなく、雨をさえぎる屋根もない。そのうえ通常の方法では、食物を入手しにくい環境であった。
 東京近郊に住み、現金収入のないホームレスのほとんどは、店舗から出される残飯を食料としている。特にコンビニやファーストフードから出される賞味期限切れの食料は、彼らの生命線である。それゆえ店舗数の多い駅周辺が郊外より暮らしやすくなる。
 山本さんの新しい生活拠点は、駅から約3キロの距離にある。自転車を持っていなかった彼が残飯をあさるには、駅までの距離が少し長い。事実、市の福祉職員は「駅には行ったことがない」という山本さんの言葉を聞いている。
 また近隣のコンビニは賞味期限の切れた弁当など、残飯に対する管理を強めていた。
 山本さんの生活拠点(殺害現場)から3キロ四方にあるコンビニに電話を掛け、ごみの収集状況を取材してみると、驚いたことに全21店舗のうち、ホームレスがゴミをあされそうだったのは、わずか1軒であった。アルバイトしか店におらず、ゴミがどう処理されているのかわからない3店を除けば、なんと94%の店がホームレスにゴミを取られないよう措置していた。鍵付きのごみ箱や倉庫に入れる。あるいはゴミ収集業者が来るまで店内でゴミを保管する、などなど。
 そのうえ取材で回った限り、熊谷のホームレスには仕事がほとんどなかった。あまり知られていないが、都会にはホームレスの人々の仕事がわずかながらある。段ボールなどの古紙やアルミ缶の回収、風俗店のチラシ貼り、看板持ち、チケット購入のための順番待ちなどなど。
 東京や川崎でホームレスがテントを構える地域を回れば、換金業者に持ち込む前のアルミ缶を積み上げている光景にたいてい出くわすものだ。しかし熊谷で取材した何人かのホームレスは誰一人としてアルミ缶や古紙を収集していなかった。荒川の河川敷で暮らしていた男性が古い電化製品を集めていた程度である。
 つまり生計の立てにくい土地に、山本さんは住みついたことになる。ただし物乞いには比較的優しい土地だった。
「地縁が強いからでしょうか。埼玉県の北部山村には、おこじきさんを受け入れる土壌があります」と語ったのは、市の福祉職員である。確かに熊谷の高齢者の多くは、ホームレスを蔑視しない。市役所の隣にある中央公園に集う老人は、公園に住むホームレスとも一緒になって談笑していた。
「まあ、田舎なんだよね。みんなで話しているからさ、『お腹すいた』と聞けば持ち寄った食事を(ホームレスにも)あげるから」とは、公園に居た男性の弁である。
 こうした風土こそが、山本さんの生活を支えていた。そもそも物乞いは、世界では当たりの行為である。境イセキ氏が書いた『ニューヨーク底辺物語』(扶桑社)によれば、NYの物乞いは季節によっては1日100~150ドルも稼ぐという。
 日本でも終戦直後までは、物乞いなど珍しくもなかった。1937年に稲村文夫が書いた「農村乞食考」によれば、1年間に伊豆のある農家を訪ねた物乞いの数は、125人。寄付の総額は、406銭にのぼったという。こうした農家が、1ヵ月に5銭の貯金もままならない経済状況だったというのだから、どれほど物乞いに優しかったがわかるだろう。
 礫川全次氏は『浮浪と乞食の民俗学』(批評社)のなかで、「共同体に寄生し、共同体の余剰(富)を費消する乞食は、共同体の共同性、継続性を維持するためになくてはならない存在であり、必ずしも『卑劣下賤』の存在ではない。(中略)乞食に対してマイナスのイメージのみを描いてしまうのは、近代人の偏向といえるのではないか」と語っている。現在のホームレスに対するのとは違った思いが、つい半世紀ほど前の日本に存在していたのである。
 じつは熊谷にたどり着く以前から、その風土を頼りに山本さんが生きてきたのではないかという説がある。山本さんに似た風貌の男性が群馬県太田市などで目撃されており、熊谷市の福祉職員も「群馬県から南下してきた可能性も高いのでは」と指摘している。また山本さんとは特定できないものの熊谷市のすぐ北にある妻沼町の社会福祉課は、山本さんが殺される2年ほど前、食事をもらうため家々を回っていたホームレスがいたと報告している。あまりに証言が少ないものの山本さんが南下してきたと考えれば、時期と動線は符合する。

 山本さんにとって悲劇だったのは、「おこじきさんを受け入れる土壌」が熊谷全域に広がっていたわけではなかったことだ。
 まず注目したいのが、熊谷市の人口である。1971~73年の3年間は、毎年2300人以上も人口が増えている。85~91年にかけても、毎年1500~2500人もの人口が増え続けた。当然、他市に勤務する人々も増える。75年と95年を比べると、他市に勤務する人は、約2倍の1万6000人増。つまり熊谷市は年々ベッドタウン化していったのだ。
 先述したように「乞食」が「共同体の共同性、継続性を維持するためになくてはならない存在」であるとするならば、物乞いを許容するためには共同体つまり強い地縁が必要となる。見知った人だけが歩く地域社会にいるからこそ、警戒感を抱きながらも住民は異邦人に接触しようとする。地域どころか隣に住んでいる人の顔も特定できない都会ともなれば、知らない人にわざわざ話しかけたりはしない。
 この「おこじきさんを受け入れる土壌」の住民とドライな新興住宅住民が混じり合った土地で、山本さんはこれまでと同様に物乞いを始めてしまった。
「たまげたですよ。あの人が死んでしまったんで。『おばあさん、お昼食べたいんだけどお金ないから』って言うから150円あげてから数日後だもの」と淋しそうな表情で語る83歳の老女がいる一方で、「本当に怖くてイヤだった」と顔をしかめる若い主婦がいる土地。それが熊谷だった。山本さんが人によって態度を変えていたという証言とは別次元で、問題は少しずつ深刻化していたのである。
 かつての共同体で「なくてはならない存在」だった物乞いは、ベッドタウンにおいて「あってはならない存在」と変わり果てていた。もし熊谷が東京都下の住宅街だったら、そもそも食べ物を恵む人すらおらず、山本さんも早晩ねぐらを移したはずである。逆に地縁が生きている土地なら命を奪われることはなかった。
 しかし熊谷は食料と憎悪の両方を生み出していった。確かに山本さんの態度が悪いケースはあったかもしれない。とはいえ近隣の小学生から悪い噂しか出ないほどの悪人だったとも思えないのだ。「美しい」ベッドタウンから排除したいという地域住民の意識が、山本さんの評判に大きく影響したことは否めないだろう。
 そうした新興住民の敵意に反応したのが、感受性の強い思春期の少年だったとはいえないだろうか? 「動物好き」で「普段は手出しはしない子」だった少年は地域の「思い」を暴力で体現したともいえる。だからこそ少年は犯行の一部始終を友人に胸を張って説明することができたし、「事の重大さ」に気付くこともなかった。

 どんな企業に勤めていてもリストラされる危険性がある現在、ホームレスになる可能性を多くの人々が抱えている。そして恐ろしいことに、わたしも含めて多くの人はホームレスを排除したいとも思っている。つまり殺された山本さんと殺した中学生の両方が心には同居しているのだ。
 その意味で、この事件は特別な中学生が、自分と違う「人種」を叩き殺したわけではない。被害者も加害者のどちらにもなる可能性を持っているのだ。(大畑)

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2009年4月11日 (土)

Brendaが行く!/人生なんて束の間の幻影

最近特別に悲しい事もつらいこともないので泣くという行為をしばしのあいだ忘れていた私だったが。

昨夜、ひさびさに号泣した。


デビットヘルフゴットの妻が書いた本を読んでいる。


デビットの言葉

「ピアノを弾くのをは危険な仕事でね」

「それでも、その危険をおかさなくてはならないんだ。なぜって人生なんて束の間の幻影だからね」


この言葉を読んだ瞬間に、一体私はなにを心に抱えていたのかわからないけれど、目から涙が吹き出してきた。



そして、さらにデビットは
「だから、すべての音譜を充分に知り尽くして、目隠ししていても弾けるようにならなくてはいけない。あの夜、僕がラフマニノフを弾いた時は完全に暗譜できていたし、魔法のようなできばえだということに気付いていた。ーーーーーーーーー


あの夜は本当に霊感がはたらいていたんだ。
バランスがよかった。
本当に満足だった。
完全だと思った。


僕は自分の途方もない夢もおよばないほどに成功した。」





私は最近もういい加減いいや・・・と思うことも多くなった。
なぜなら、どんどん若くなくなっていくことがわかったし。
頭のいい人は、はやいうちに半分ぐらいリタイヤする世の中にもなってきていると思う。
喜びのためだけに働いていられたらどれだけ人生は豊かになるだろうか。
そして、私はまだ幸いな事にこの「喜び」を持っている。
特に女性はこれまで培った知恵を生かしてお金と知性をもとに子育てをするのもとても良い。
だから、本当は、いろいろがんばるよりも、お金の運用をよく考えて、若いうちから投資をしっかりして、そういったことを人生のなかで築いていく事の方がよほど堅実で知的な生き方だと私は思っているし。

私の20代の目標は「とにかく幅広い経験をつみ海外に出て行く事」であり、キャリアを築く寸前の最高の自己投資の10年と考えてきた。そして、30代の10年は「所有」この言葉のみにつきる。30代という10年で、リタイヤできるようにがんばって所有をしていかなければいけない。

それでも音楽は死ぬまで私が歩き続ける永遠に終わりのない道なのだと思う。

私がどんなに逃げようとしてもピアノが私を追いかけてくる。
どうしてやめられないのか何度も考えても、また自然にピアノに向かって弾いている。
ピアノは悪魔のささやきのようにたまに私の手の中に忘れられない最高のご褒美を残していく。
そして私はその危険とたちむかうために、一人きりで必死にとりつかれたように奉仕しつづけている。

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2009年4月10日 (金)

土建国家の明暗――諫早と角島

 最近、公共事業について濫読をしている。岩波新書で5冊ほどあるが、法政大学で教えている五十嵐敬喜弁護士と朝日の外信部に長かった小川明雄の本は読ませる。
 彼らの関心は、日本の国富がどこに消えたかのか。この点を徹底的に国際比較し、ハコ物と道路作りに費やされた公共事業が多い背景には、議員立法がほとんどなく官僚支配が政治システムを牛耳っていることを淡々と深く実証する。いい書き手だ。
 彼らの本をいくつかあえて紹介させていただくが、
公共事業をどうするか』(岩波書店)
公共事業は止まるか』(岩波書店)
貧困救済に使わねば 五十嵐敬喜・法政大教授」(『東京新聞』08年3月22日)

 五十嵐氏の視点を踏まえて、地方に行くと発見がある。ダム、高速道路、一般道路などに回した公共事業の600兆円の赤字の原因になっていることは自分の足で歩けば即座に分かる。
 と、えらそうな結論を冒頭に持ってきたが、何のことはない。体力不足を意識してきたので、最近サイクリングをやっている。週に数回ほど。昨日は、地元の公共事業の現実を見たくなって下のサイトの角島にかかった橋を見にいった。
 安倍晋三に見切られて、警察に裏で脅されて、市長選挙出馬を取りやめたという噂が地元で出ているが、映画「4日間の奇跡」という甘たるい三文映画を手がけた地元出身の佐々部清監督は江島元下関市長を乗せて、角島をロケに使った。
 角島までは距離にしてほぼ60キロ。ロードレーサーに乗ってちんたら走りながら、裏日本の風情を凝視した。圧倒的に手入れがいい国道にきがついた。小生、北米、欧州、中米、東南アジアを走った経験があるが、日本の道路は世界一綺麗である。五十嵐弁護士らの公共事業批判本を読んでいなければ、路面の美しさの意味を見落としただろう。何度も何度も改修し、過剰に丁寧な道路標示(たとえば、「道が狭くなるので要注意」だの「自転車を押していきましょう」)も歩道につけ、世界一コストが高い道路網が生まれていた。
 自転車大好き少年だった頃が30年以上前にあった。今回走った山陰の道は何度もその頃走った。当時でもやや舗装が荒かったが、すでに立派な舗装だった。後年走ったアメリカの一般道路の質をその時点で越えていた。山陰を走りながら、30年前と比較し、すでに30年前に道路網は高度成長期の産物として完成していたことを痛感し、90年代以降の景気対策とばかりに地方の業者に仕事をばら撒いた土建国家の実像を少し実感した。――道端に土建、建築関係の個人業者を多く見かけた。
 五十嵐敬喜氏はいう。90年代のバブル崩壊後、地方にも補正予算は流れ込んだが、高度成長期とは異なり、地方の土建屋に還流された富は薄くなった。新自由主義は地方の土建屋にも悪影響を残したわけである。
 気障だが、数時間、低速で自転車に乗っているときは暇つぶしに音楽が要る。今回はモーツアルトと井上陽水とスプリングスティーンを主にウォークマンで聞き流しながら走った。メーター表示は常に20キロ前後。大学時代にレースをかじった頃がある。当時ならばたぶん40キロ前後だったと思う。劣化である。夏までにどこまで戻るか。
 遅くなったメリットもあるにはある。情景を観察する暇ができた。レースごっこをしていると路面の一点だけを見据えて黙々とペダルを高回転で回すだけ。風景を解読する余裕はない。
1  近々取材で長崎県の諫早市に行く。そこには、50年代に発案されて、着工されたのが80年代。2000億円以上を使ってまだ完成できていない干拓地がある。諫早のひとにぎりの反対派が自然破壊にノーを突きつけた結果である。現在、佐賀、福岡の地裁ではいずれも国側が敗訴。控訴審が福岡高裁で続いているが、今度、お目にかかる長崎の漁師は長崎地裁に提訴したばかり。余所者である小生は、どうして一番の被害者である長崎・諫早の漁民が黙ってきたのか。この点が見えなかったが、えぐい話の輪郭は掴んでいる。
 映画の舞台になった角島開発は地方に雇用を生んだ。たぶん島の方々も喜んでいる。ゼネコンも安倍も。公共事業で懐が豊かになって。
 ところが、諫早ではそうではない。漁師は廃業に追い込まれた。補償は1年分弱。交渉した建設省(当時)の役人は、今後も漁はできると保証した。信じた結果、生活は破綻。自殺者、家庭崩壊などが増えた。農水省の役人にすれば、何人自殺者が出ても、屁ともないことだけは確実。それこそ、自殺との因果関係を証明してくれとのたまうという。
 諫早に自転車を持ち込んで、夜はテント。昼は干拓地を走り回り、夕方から反対派の漁師の方の船に乗せてもらい、なぜ、最後の最後までもっとも被害を受けた諫早の漁師が沈黙してきたのか。この点について数少ない提訴側の松永秀則氏に教えを乞うつもりである。さて、どこまで土木オンチの小生に理解できるか。
 大胆にいえばである。ゼネコンは数社倒産させてくれ。あまった予算と防衛費を削減して、社会保障費に回してくれ。
 五十嵐氏によれば、医療費も含むアメリカの社会保障費は日本以上だという。新自由主義の本家だから、日本以上に苛烈な状況が社会的弱者に待っているのかと決め付けていたが、考えてみたら、飼い殺しのような経済状況で黙っているアメリカ人は想像できない。どたまにくると福祉課に行って銃を乱射する程度はやりかねない。オバマの地がまた少し好きになった。(李隆)
 

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2009年4月 9日 (木)

靖国神社/第14回 新春・絵馬の絵馬が靖国に集合!

 日曜日の正午すぎに靖国に行くと、参道の両脇に観光バスが並んでいるのが目に入る。そして、参道をかなりの数の人が本殿へと向かう。
 この日は、神門のあたりで軍服を着た50歳前後かと思われる男が観光客たちの注目を集めた。レプリカであろう日本刀を鞘から抜いたままキビキビ行進し、空中のどこかを見つめたまま、
「けぇぇぇーーい!!」
 と甲高い叫び声を上げたのだ。
 観光客たちのある者は驚き、ある者は失笑をもらしている。「靖国ってなんだかすごい所なのね」とおばさん方がいいものを見たとばかりに囁きあうが、たしかにこれが靖国なのである。
 靖国では、さすがに日本刀を抜いて叫び声を上げる軍服にはめったにお目にかかれないが、特になにをするでもなく佇む軍服姿なら外苑休憩所でたまに見かけることがある。
 よく目にするのは、三味線をペチペチかき鳴らしながら軍歌のような歌を歌う男性だ。ひと目でその筋と分かる男が、「勤皇」などと背中に大きく書かれた特攻服姿の若者を何人も従えて、肩で風を切って参道を歩いてゆく姿もたまに見ることができる。
 これまでこの連載で紹介してきた遊就館やモニュメントだけでなくとも、東京のド真ん中でありながら異質なものをたっぷりと含んだ空気を靖国神社という場所にいる人たちから読み取ることは十分にできる。
 そうなれば、その異質なものの典型といえる日本刀の軍服にインタビューしてみるのが靖国取材班の役目だろうということになるのだが、レプリカとはいえ刀で斬りつけられたらと思うとコワいので今回はパス。
 日本刀の軍服は参拝者たちの注目を集めたが、靖国では参拝者たちを楽しませようという姿勢からか常に何かしらのイベントを行なったり、境内を貸して他の団体の催しが行なわれていたりする。昨年の10月号に掲載した「地酒と酒器うつわ祭り」が後者にあたるだろう。
 今回は、1月中に靖国が主催する全国神社奉納絵馬展を見に行った。
 参集殿をぐるりと囲むようにして、絵馬を並べたパネルが立てられていた。博物館の博物館のようで、マニアにはたまらないイベントだろう。
 来る前は「絵馬なんて見たいもんだろうか」などと思っていたが、300点以上の様々な絵馬が堂々と飾られているのはさすがに壮観。足を止めてしばらく見入る人も多い。
 黒塗りの木で作られたもの、モミジの葉形のもの、中にはひょうたん型の絵馬という変わりダネも発見。バスでやって来たどこかの観光客が、地元の神社の絵馬を探す場面も見られた。
 靖国神社の職員にたずねたところ、展示されている絵馬はすべて靖国側から展示をお願いしているとのこと。 参集殿の入り口あたりには、遠くからでも目立つ巨大な絵馬が飾られていた。愛知県名古屋市の伊勢絵馬協賛会という団体から奉納されたもので、ヨコ2.76メートル、タテ2.19メートルもある。
 なぜ巨大絵馬なのだ、という疑問はあっていいところだが、日本刀を抜いて叫ぶ男がいても、警備員が顔色ひとつ変えないような場所である。
 新年気分も過ぎたはずの時期だが、人出は相変わらず多い。今年の初詣では、訪れる人全員に振る舞われる甘酒が全部なくなってしまい、飲めなかった人もいるという。
 私ごとで恐縮だが、最近久々に知り合いにあったとき、友達が「初詣は靖国に行ってみたよ」と言ったのだった。なんで靖国にしたのかと聞くと、小林よしのりを読んで感銘を受けた、みたいなことを言うではないか。とうとう身近にも現れたか。
どんな認識で靖国を見ているのか分からないが、たしかにその勢力はじわじわ広がっているようだ。(宮崎太郎)

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2009年4月 8日 (水)

検事も知らない地検のリーク

「あれはどうなっているのか」と刑事部の検事から聞かれた。私に聞いても仕方ないでしょうと答えると「私達も皆、小沢さんの件は新聞で初めて知る。なかにいても全然わからない」とのこと。最初は「さすが検察一体」とひやかしていたのだが今度はこちらから何人の検事に聞いても似たような反応なのでフーンとなかば信じるようになる。

一般に裁判官から判決内容を事前に聞き出すのは不可能といっていい。逆に警察官は結構いろいろと捜査中の事件を教えてくれる。もっとも「書かないから」と約して聞き出したのに書くと怒られるけど。そもそも取材記者の「書かないから」を信じるのがおかしいのだ。
では検察官は。これまた原則として口が堅い。地検と飲むと時々何かサービスしてくれる場合があるものの小沢氏関連の情報量はこの範囲をはるかに超えている。どこへ行ってもまずいと評判の地検の食堂(何でだろう?)で素面で話し込んでもかわされるのがオチだ。
検事正クラスが「これくらいは情報公開していいだろう」と披露してくれるネタもないではない。しかしそれらは各社がいる場である。小沢氏関連のように各社が独自のネタを、しかも時に正反対の情報が延々と流れるソースとも思えない。

小沢氏関連情報を注意深く読むと意外と今回の秘書による政治資金規正法違反に直接結びつくものが少ない。あるのは時効になっている事案や秘書の被疑事実とは実は関係ない東北地方の談合体質(主役ゼネコンも西松ではない)やすでに地域では当然視されている話が圧倒的に多い。これらは検事が話しても広義には漏洩にならない情報といえる。
また記者がその地を回れば聞き出せる情報も多い。それらを逆に地検に「当て」て検察側が「そうなんだ。面白そうだね」といったフリ?でもしたら「関心を寄せている模様だ」記事は書ける。何しろ小沢氏関連のニュースは旬である。他社が書き飛ばしてくればうちも!となるのが記者のさがだ。そのあたりが一種のあうんの呼吸で「リーク」なる状況を作り上げているのではないか(編集長)

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2009年4月 7日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/3月25日、JR不採用訴訟の控訴審によせて

○月×日
 3月25日、東京高裁から判決が出された。
 「国労差別を認定」「慰謝料550万円(一審より50万円増)」、それなのに「解雇は有効」などなど。
 これらの内容は一審とほぼ同じだ。これといった前進はない。一言でいえば、話にならない。
 この裁判は、国労組合員がJRに採用されなかったのは違法だとして、解雇された1047人のうちの304人が当時の鉄建公団(現鉄道・運輸機構=旧国鉄)を相手取った訴訟の控訴審。一審判決は4年前の05年、9月にあり、JR採用時に不当労働行為があったとして国労差別が初めて認められた画期的なものだったが、慰謝料の額や解雇は有効などの判断があったため双方が上告していたもの。また、これと同種の訴訟で係争中のものが5本あるが、高裁による判決は今回が初めて。
 ところで、この日の判決に先立ち、昨年の7月に「裁判外での話し合いをしたらどうか」という裁判長提案があり、当時の冬芝国土交通大臣が「誠心誠意努力する」との発言をしたことから、原告ら国労側もそれを真摯に受け入れ、裁判と並行しつつも話し合いによる解決、すなわち、政治による解決を何としてでも判決前(年度内)に実現させるという不退職の決意で精力的に挑んできたのだが、結局は機構側との意見が折り合わず、判決となった。
 しかし何よりも、政府が動くことが出来なかったことが原因ではなかったのか。つまり、首相交代などの政治の混乱が最大の壁となったからだと思うのだが。
 それにしても、判決は、不当労働行為により解雇されたというのに何故「解雇は有効」となるのか、単純な私には今一つ理解出来ないのだが、高裁でも不当労働行為が認められたことはもはや揺るぎないものとなり、これだけは大きな成果だ。このことは他の5本の審理にもプラスに影響するはずだし、政治解決にも少しは後押しする結果となったといってよい。
 また、この不当労働行為に関して機構側は「採用は公正だ」と譲らないが、国鉄改革を断行した中曽根元総理自身が「国労を潰すためにやった」と雑誌やNHKのインタビューで繰り返し発言していることなのだ。やった本人が明らかにしているのだから間違いないではないか。それも「国家的」不当労働行為なのである。
 しかしね、よくもまあ何の臆面もなくいえるものだ。権力者の驕りであろうか。れっきとした労働法違反で犯罪行為なのだよ。
 裁判長は判決後に「この判決を機に早期解決を望む」と異例のコメントを付け加えたそうだ。この意味は、司法による救済には限界があり、あとは政治で解決しなさいということであろうか。
 判決後のマスコミ各社は「今こそ政治決断する時」「機構も国交省も逃げずに解決を図る姿勢が求められる」「不採用から丸22年という長きにわたる原告たちの苦悩を思えば、一日も早い解決を願わずにはいられない」と、政治の責任で解決すべきであると一斉に報道していた。
 いずれにしても、今後また何年かかるか分からない最高裁判決までは待てない。「一人も路頭に迷わせない」の大臣答弁も「組合差別があってはならない」の国会決議も全て偽善であった。政府の約束など信じられない。いったい労働委員会以来何度目の判決(命令)になるのか。もはや一喜一憂してなどいられない。22年という歳月はあまりにも長すぎた。闘争団員の平均年齢は56才に達したという。既に52人の仲間が他界した。これでは人生が終わってしまう。おれの人生を返せといっても戻ってはこない。もう限界だ。一日も待てない。苛立ちが募る。怒りと悔しさでいっぱいになる。闘うと決めた以上はそれもこれも覚悟の上なのか。何かがおかしい。変だといつも感じて来た。だが、どうすればいいのか私には分からない。政治が動いて納得した解決が出来るのか。歩み寄りは出来るのか。それも私には分からない。
 それでも闘争団は闘うのだという。だからもう少しの支援を下さいという。
 原告団長と闘争団員の奥さんの涙を見た。
 私は微力で何も出来ないが、最後まで支援をし続けよう。そう思う。(斎藤典雄)

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2009年4月 6日 (月)

●ホームレス自らを語る 第27回 ずっと臨時工でした(後編)/道上尭志(みちがみ・たかし)さん(77歳)

0904  昭和7(1932)年に広島県の呉で生まれました。3人兄弟の末っ子です。父は海軍大尉をしていて、フィリピンで戦病死したことになっていますが、事実はわかりません。
 それで敗戦後の母の苦労は並大抵ではありませんでした。3人の子どもを抱え、しかも上の2人は結核を患っていて、入退院を繰り返していましたからね。母は道路工事など慣れない肉体労働に出て、真っ黒になって働いていました。

 私は敗戦の昭和20(1945)年に高等小学校を卒業し、翌年、広島にあった三菱造船所に就職します。ところが、昭和24年の不景気のときに希望退職者が募られ、退職一時金に釣られて応じてしまいます。私の人生で正社員として雇われたのは、この造船所勤務時代だけで、あとはずっと臨時工や臨時雇いの生活になります。
 造船所を辞めて、しばらく呉の港で沖仲士をしてから、呉の英軍基地で働くようになりました。呉には米軍ではなく、英国軍が進駐していたんです。その基地内にあった製パン工場が職場で、その工場では関西から九州までに駐留している全英国兵分の食パンを焼いていました。毎日1万斤からの英国風食パンを焼くんですから、壮大な光景でしたよ。
 その同じ工場で働いていた女性と親しくなって、おたがいに好き合うようになり結婚することになります。私が22歳のときですね。
 その前の昭和27(1952)年に講和条約が発効して、日本は独立し英国軍の駐留も終わりますから、必然的に基地での仕事は解雇になりました。
 だから、結婚したのは次の尼崎(兵庫県)の製鉄所で働いていたときですね。結婚して、男の子が1人生まれました。ただ、私たち夫婦が家族らしくいっしょに暮らせたのは、この尼崎時代の2年間くらいで、あとはずっと離ればなれになってしまいます。
 原因は嫁さんの実家と揉めたからですが、非常に複雑な事情があって、内容も込み入っていますから、ここでは説明できません。離ればなれになって暮らすことになっても、私と嫁さんが仲違いをしたわけじゃありませんからね。いまだに私たちは離婚しないで、夫婦の関係は続いているんですよ。

 その後も、私はずっと臨時工、臨時雇いの仕事ばかりでしたから、自分の食い扶持を稼ぐのがやっとで、嫁さんには1円の仕送りもしてやれませんでした。だから、嫁さんのほうの生活は、子どもを抱えて大変だったろうと思います。いまでも苦労をかけて申しわけないことをした気持ちでいっぱいです。

 尼崎の製鉄所をやめてからは、小さな町工場の鋳物工場で働き、それから玉野(岡山県)の造船所、それに山口県の山奥の採石場に入って、護岸工事用の捨石の切り出し作業に就いたりもしました。自衛隊に入っていたこともありますね。
 長いところで3、4年、短いところでは1年くらいでやめています。何でそんなに仕事を替わったのかといいますと、臨時工、臨時雇いの労働者というのは、企業にとって景気の好・不調における調整弁ですからね。景気が悪くなると解雇されて、別の臨時工の仕事を探す。それを繰り返していたからですよ。
 それからは建築物の基礎杭の打ち込みを専門にしているチームの一員になって働きました。親方に、先輩、それに私の3人で一組のチームでした。この仕事だけは同じ3人のメンバーで長く続きましたね。
 といっても、これも請負仕事でしたから、安定した仕事とはいえませんでした。初めのうち大阪の会社の仕事を受けてやっていましたが、数年もしないうちにその会社が倒産してしまうしね。それで拠点を関東に移して、川崎の倉庫とか、横浜の国際埠頭の基礎杭工事をやりましたが、それでもまだ生活は不安定でした。
 仕事と生活が安定するのは、最後の10年くらいですね。この時期は電力会社の送電線の鉄塔基礎の工事が中心で、この仕事は景気に左右されないから切れ目なくありました。ただ、栃木とか、茨城の人里離れた山奥での仕事が多くて大変でしたけどね。

 基礎杭打ち込みの仕事は、66歳の年までやってやめます。親会社のほうから、肉体労働をするには高齢すぎるからやめてくれといわれたためです。
 それで新小岩(葛飾区)にアパートを借りて、多少の蓄えと年金とで生活するようになります。でも、そんな蓄えはすぐに底を突いいてしまいますからね。たちまちアパート代が払えないようになって、追い出されてしまいました。
 アパートを出されたからといって、すぐに野宿をする勇気はありませんからね。しばらくは、オールナイト興行をしている浅草(台東区)の映画館で夜をすごしました。

 この公園(東京下町のY公園)で野宿するようになったのは、3年前からです。いま6人のホームレスがここで暮らしていますが、みんなできれいに使って汚さないようにしているので、公園管理の人たちとの関係も、とてもうまくいっています。
 私は建物と建物の渡り廊下に、毎晩寝かせてもらっているんですが、公園管理の人が「そこでは雨降りのときに、吹き込んで濡れるでしょう。自転車置き場の小屋を使って構いませんよ」と親切に言ってくれます。でも、そこまで甘えてはいけないと思って、相変わらず渡り廊下のほうに寝ています。
 あとは死ぬまでこの公園に置いてもらえて、ここで死ねたらいうことありません。それをひたすら待っている毎日ですね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年4月 5日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第32回 骨壺買うなら

 20万円近くする有田焼の骨壺が売れているらしい。

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1個20万円近くする有田焼の骨つぼが売れている。佐賀県有田町にある陶磁器の企画・制作会社「東西古今」の「インテリア寿壺(じゅこ)」。昨年秋に封切られた映画「おくりびと」が米アカデミー賞を受賞したことも追い風となっているようだ。花器やワインクーラー、貴重品入れなどの調度品にもなる。

 直径21センチ、高さ23センチの磁器で、花鳥や松竹梅、萩(はぎ)の文様の色絵、山水の染付(そめつけ)で絵付けをした4種類がある。明治期の名工が作った「明治伊万里」の風雅な文様を採り入れており、価格は16万~18万円。1月中旬に発売して100個売れた。その後、2月下旬のアカデミー賞受賞からこれまでに約100個の予約が来ているという。6割以上が女性からの注文だ。

 ついのすみかとなる骨つぼ。人生の終幕を意識し始める団塊世代の蒲地(かもち)孝典社長(59)には、生前に自分の美意識や美学を持って骨つぼ選びをする人がいるはずだ、との思いがあった。存命中に描いた肖像画を「寿像」ということから、寿壺と名付けた。
(朝日新聞社 asahi.comより抜粋)
記事はこちら→http://www.asahi.com/national/update/0402/SEB200904020006.html
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 ここで共通認識となるのは、骨壺が終の棲家であるということだが、果たしてそうだろうか。私も骨壺くらいは綺麗なものを選びたい、と思っている方は、いったん家のお墓の中を覗いてみることをおすすめする。お骨は、どのような状態で入っているだろうか?
 壺のままで入っているよという方は、まあいいだろう。でも、なんか汚くて湿った木綿の袋が出てきただけだよという方、それでも立派な骨壺を買うか、考えてみよう。お骨は自然に帰すべきという考え方は別として、カロートに壺が入らないタイプのお墓では中身だけを入れ、骨壺自体は持ち帰るか、お寺に預けてしまう。お寺に預けた骨壺がどうなるかというと、一般的には葬儀社に依頼がきて受け取りに出向き、特別廃棄する。
 ということは、20万円の有田焼も埋葬する日(49日、場合によっては当日)までの棲家なのである。そして骨壺はとうぜん焼き物なので、使用後も花器などに使えることは使えるけれど、使いたいかと問われると……なかなか首をタテに振る人はいないと思う。遺族に「もったいない! でもあってもしょうがない!」という葛藤を与える可能性を考えなければならない。

 壺がお墓に入っているよ、だから私も入れてもらうんだもんという方も、注意が必要なことがある。関西と関東では、骨壺の大きさが違うことをご存じだろうか。ざっくりとだが、骨のほとんどを骨壺に入れる関東と、一部を入れる関西ではサイズが違う。だからたんに先客の壺が収まっているからといって、骨壺のサイズなんて全部同じでしょと自由にお買い物ができるかというと、そうではないのだ。カロートの奥行きと深さを測っておかないと、結局入らなかった、なんてことにもなりうる。また、関東のひとが関西の骨壺を買っても、小さくてお骨が全て入らないということになる。

 一般の人が骨壺を買うとき、ここまで考慮することは、あまりないかと思う。「骨壺」という商品が、「商品」という言い方すらそぐわないほどに、購入する対象としては日常からかけ離れすぎているからだ。しかし骨壺を売る業者はそうではない。売ることが日常である。このようなねじれは、説明不足の温床だ。消費者のほうもある程度の知識は付けておかないと、トラブルのもとになる。慎重に選んで欲しい。「小さすぎた」「大きすぎた」のトラブルは、自分で対処できず、遺族に処理を任せることになってしまうのだから。(小松)

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2009年4月 4日 (土)

Brendaが行く!/日本人とポーランド人そしてフランス人の間で

この環境で、私が感謝している事は、友達ができなくて困る事はないし。

孤独を感じる事もない。

日本の外においてのみ、考えれば、これもひとえにポーランド人の友達のおかげ。
そして、ちょっとフランス人の数人の友達のおかげ。
日本人ほとんどおかげなし。(残念ながら)

こういう生活の中であれば、昔の自分ならいろいろな人間に囲まれて、いろいろな感情が湧き出てきて、葛藤があったかもしれない。

しかし、今はそれもない。

どんなに優しくても価値のない人は、価値がないし。
どんなに人間が悪くても、結果を出している人間を見習わなければ自分は勝っていけないだろうし。(歴史から学ぶと言う事)

自分の目標が明確になれば感情に流されていく事がどんどんなくなっていく。

その点で言えば、一般的にポーランド人は弱すぎる。

それでは、勝っていけないのだ。

しかし、学ぶべき本当のことは。
音楽家の中で特に勝ち組のポーランド人は、勝ってさえも、そのしなやかさ、穏やかさを全く失っていない。
ひどい言葉で言えば負け組に甘んじていると見えるポーランド人だが、そのなかの少数派の勝ち組は、世界の中の勝ち組とはひと味違うと言う事だ。
彼らは、勝ちにでることで、大切な人間としての柔らかさしなやかさを失ったりはしない。

音楽は、とくにピアノは自己顕示欲が強くなければ弾けないと常日頃から思う。

自己顕示欲、この気持ちを失わないようにする事もまた精神のメンテナンスの一つ。

しかし、私は、ポーランドで学んだ事をとても大切にしている。

勝ちに出る時さえもしなやかで自然な気持ちのままでいれば、感情の波に流されて自分を見失う事はない。

しかし、この厳しい現代の中でこのような気持ちでいることには一番精神の鍛錬が必要なのかもしれない。

日本とポーランドとフランスの間の

素晴らしい精神性をひたすら自分に取り入れて人間として進化しつづけたいと心から思う今日この頃。

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2009年4月 3日 (金)

出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代/各店で発売開始!

とうとう全国に行き渡りつつあります、塩山芳明新刊『出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代』。
都内大型書店Ts3g0106_2でも、話題の新刊として大きく展開していただいています。

  写真は紀伊国屋書店新宿本店様。

本作を前もってお読みいただいた皆様からも、「塩山氏にしか書けない事実満載」「索引が秀逸」などの声を続々といただいています。

本の内容は、エロ漫画業界のコア&リアル。

かつてささやかな栄華を誇った成人向け漫画雑誌のウラ話は「そうだったのか!」の連続です。

今、まさに活躍している漫画家さんの推定年収(あくまで推定!)や、著名マンガ論者が編集者だった頃の思い出話、成年誌取締の総本山とのやりとり、潰れたエロ系出版社、新参出版社、製版屋、印刷業界、マンガ専門店の興亡などなど…

これを読めば、業界を見てきたかのように語れること間違いなし。

そして残り座席があとわずかとなりました、本書刊行記念イベントのご案内です。

わめぞさん主催

『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代~』刊行記念トークショー

嫌われ者の記 場外乱闘篇
~本当は愛されて死にたい奴らの90分1本勝負~
+Pippo の‘古本J君とゆこう Spring Tour 2009 ミニライブ付き
日時
2009年4月12日(日)/16時~18時(開場15時30分)

会場
上り屋敷会館 2階座敷 (東京都豊島区西池袋2-2-15)
※JR目白駅、池袋駅西口より徒歩10分
※会場までの要所に案内人を配置いたします。
※会場までの地図はコチラ→wamezo’s fotolife - 上り屋敷地図_0902

参加料
1000円

定員
40人

予約
3/12(木)よりメールにて受付中
ご予約のメールはこちらまで。
wame.talklive●gmail.com
(●をアットマークにかえてください。)

 ※問い合わせも同様にメールでお願いします。

(編集部)

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2009年4月 2日 (木)

ホームレス自らを語る 第26回 5回のムショ暮らし/北島健彦さん(63歳)

(北島さんは難聴のため、補聴器を使用している)
 難聴になったのはケンカが原因。ホームレスになりたてのころだから、10年くらい前だったかな。新宿西口の地下通路で寝ていたら、酔っ払ったサラリーマンに「通行の邪魔だ」と蹴飛ばされてね。オレも気が短いほうだから「何をしやがるんだ」と殴りかかっていって、コテンパンにやっつけてやったんだ。そのときオレも頭にパンチを食らって、脳に損傷を受けたようで、それ以来難聴になった。
 オレはその前にも傷害事件で起訴されていて、執行猶予中の身だったから、そのケンカで実刑判決を食らいムショ(刑務所)に収監された。
 ムショは小菅。うん、あそこは本来は拘置所なんだけど、勾留中の未決囚の世話をしたり、所内の清掃、配膳などの作業は懲役囚がやるんだ。だから、小菅にはそのための刑務所施設があって、最初はそこに収監されたんだ。あまり知られていないことだけどね。
 そのあと、府中のムショに2回、横浜に1回入り、最後は甲府のムショだった。昔流にいうと前科5犯ということになるのかな。5回のうち4回はケンカによる傷害罪で、あと1回はキー付きの乗用車が路上駐車してあったから、それに乗って走り回っていたら窃盗罪で捕まったんだ。
 オレのムショ暮らしは、長いときで1年半、短くて8ヵ月くらい。ムショでうまくやるには、受刑者仲間とトラブルを起こさないこと。でないと、いじめに遭うからね。ムショ内のいじめは陰湿だから、受刑者との人間関係には常に注意していないと。それに刑務官には絶対服従。ちょっとでも逆らうと懲罰を食らうからね。これだって懲罰という名のいじめだけどさ。
 幾度かケンカをして傷害罪で刑務所入りをしたけど、ホームレスの仲間とケンカしたことは一度もないからね。そんなことをしたら、仲間付き合いをしてもらえなくなるし、夜、寝首を掻かれないとも限らないだろう。
(北島さんは市ヶ谷と飯田橋をつなぐ外堀公園〈千代田区〉で起居している)
 ここにはボランティアがあまり来ないから、食べるものが少なくてひもじいのが辛いね。だからといって、ゴミ箱を漁ってエサ(食べもの)探しをしたり、モク(タバコ)拾いをするような真似はできないしね。いよいよ追い詰められたら、万引きでもするしかない。それで捕まったら、またムショ送りだ。なんだか、そんなことになる予感がするな。
時代の流れで左官屋は必要なくなった
 住まれは昭和19(1944)年で、信州の山間部。家は農家で養蚕農家だった。オヤジは養蚕指導員もやっていた。桑畑は山の急斜面につくった段々畑で、桑の葉摘みの作業が大変だった。段々畑を登るには、上の畑に鍬を打ち込んで、その柄に掴まって身体を引き上げるんだからね。畑の登り降りだけでも、危険なうえに重労働だった。
 養蚕のほかには米を3反歩(約3000平方メートル)くらいと、畑で大麦と小麦、大豆と小豆なんかもつくっていた。みんな自家消費用でたいした量をつくっていたわけじゃないけどね。
 オレは長男だったし、高校を終えて1年ほどオヤジを手伝って農業をしたんだ。だけど、山間部の畑では機械化もできないし、農業だけで食っていくのは大変でね。それで、東京に出てきた。
 東京では豊洲(江東区)にあったクレーンメーカーに就職した。一部上場の大企業だよ。オレの仕事はクレーンの組立てと調整。給料は1万3000円だったが、毎日2時間の残業がついたから、手取りはもっとよかった。
 カネを持っていたし、オレも若いころは二枚目だったから、女にはよくモテたんだよ。といっても、相手はスナックや飲み屋の女の子たちだけどね。酒は好きだったよ。あのころはよく働いて、よく酒を飲んで、よく遊んだ。俺の人生のなかで一番よかったときじゃないのかな。
 ただ、そのクレーンメーカーは、3年でクビになる。理由はケンカ。街の与太者に絡まれて、カッとなって相手を殴り倒してしまったんだ。警察沙汰にはならなかったけど、会社にバレてしまいクビになった。
 それで信州に帰って、長野市の職業訓練所へ通って、左官の職業訓練を受けて左官になった。オレは住宅建築を主にやる左官で、はじめのうちこそ忙しいくらいに仕事はあったが、徐々に塗り壁を使う住宅が少なくなっていって、プレハブ式の住宅に変わってしまった。あれは工場で製作した部材を、現場に運び込んで組み立てるだけだからね。左官は必要なくなってしまったんだ。
 長野にいても仕事はないし、30代の後半にまた東京に出て来た。仕事はブロック塀の製作が主だった。ブロック積みは左官の仕事なんだ。しかし、その仕事もだんだん減ってきたんで、左官に見切りをつけて、工務店に就職して土木作業員になった。だが、それもバブル経済が崩壊するまでのことだった。あとは路上に野宿するしかなかった。10年くらい前のことだ。
 以前からキレやすい性格ではあったけど、ホームレスをするようになって、性格が荒んだのか、傷害事件だけでも5回も起こしてムショ暮らしをしているんだからね。
 いまはね。早く65歳にならないかと思って待っているんだ。65歳になれば生活保護が無条件で受けられるからね。生活保護の待遇は横浜がいいっていう話だから、65歳になったら横浜に行くつもりでいるよ。あと2年もあるけどな……。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年4月 1日 (水)

妻達の「そうか、もう君はいないのか」

故城山三郎氏の『そうか、もう君はいないのか』がベストセラーとなっている。ただここに描かれる夫婦愛に共鳴しているのはどうやら妻ある夫ばかりのようだ。私と同世代すなわち40代後半から50代の妻を何人か取材した。そのなかには向こう側から私へ電話なりメールで感想を寄せてきたくれた人もいる。そこでわかったのは『そうか、もう君はいないのか』は妻側からはほとんど共感できないとの声ばかり。
おおよそ前置きとして「城山先生の場合はそうだったのでしょうけど」「城山先生はすばらしかったのでしょうけど」がある。「けど」の続きは「私だったらありえない」だ。

そもそも先立つのは大半が夫なのだから妻が先に逝くというケースが稀なのだと取材対象者は異口同音に、問わずとも言う。「だから多くの場合は妻が夫を失った後に『そうか、もう君はいないのか』の世界があるかって話でしょう。ないない。少なくとも私にはあり得ないし、他のほとんどの女性もそうじゃないかしら」と述べる。
城山氏は享年79歳。サラリーマンの場合だと定年後14年から19年後となる。フリーランスである作家の城山氏に定年はないし60歳以後も精力的に作品を発表してきた。だが世の多くの男性は定年後に家へ「粗大ゴミのように」居座っているというイメージが既に40代から女性にはあり、想像するだに恐ろしい光景のようだ。

だいたい今(つまり夫は現役で働いている)ですら休みの日に夫が家にいると「そうか、今日君はいるのか」って感じなんだよ。定年後毎日ゴロゴロされていたら「そうか、もう君は(会社へ)行かないのか」とため息とイライラの空間が生まれるだけだ。たまに出かけてくれたら「そうか、今日君はいないのか」と喜ぶぐらいだよ、と妻から見ると夫は生きていてもそんなものらしい。
では夫がほんとに逝った後ならばどうだろう。「まあ経済的にどうなるかは心配だよね。でもそこが解決すれば忘れてしまう。少なくとも城山先生みたいに死別したという事実自体を受け入れられないなど考えられない。想像力を限界まで働かせても」が最大公約数的意見だった。

いやいや夫の死後「そうか、もう君はいないのか」と思う可能性自体はあると救われる?意見もあった。だがその後のストーリーは城山作品とは正反対である。
定年後もゴミのように家へ居座っていた夫が去った。その光景を何年もいらつきながら現実ゆえ受け入れる日々が続く。それがいなくなった。その事実がなかなか受け入れられない……ならばあり得ると。そしてある日居宅の最もいい部屋を占領していた夫が間違いなく存在せず戻っても来ないと稲妻のごとく悟る。そしてもらす。「そうか、もう君はいないのか」。この言葉に込められるのは解放を意味する心ゆくまでの喜悦であろうと。「さあリフォームでもするかというインセンティヴになりそう」とワクワクするそうな。

仮に現役世代でも妻は秘かに夫へ「そうか、まだ君はいるのか」とため息をつく。定年後は「まだいる君」に慣れようと必死。それがいなくなった数年後に訪れる妻達の「そうか、もう君はいないのか」は城山氏のそれとは全く違う形であり得るようである。(編集長

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