« 医者には治せない | トップページ | 塩山芳明 トークイベント報告 »

2009年4月16日 (木)

ホームレス自らを語る 第28回 昔ツッパリ いま仏様(前編)/新垣智之さん(仮名・63歳)

 昭和20年4月1日に米軍の沖縄上陸が始まり、那覇に住んでいた我が家一家も、山の中に逃げ込んでガマ(岩屋)に身を潜めた。そのころ、オレはまだ2歳だったけど、ガマは日本軍の兵士と沖縄の人たちで、ギュー詰めだったことをうっすらと覚えているね。
 日本軍の兵士は沖縄の人間を見下していたから、とても横柄で横暴だったよね。そこへいくと米軍兵士のほうが、よほど紳士的だった。戦争が終わって、沖縄の人たちが曲りなりにも生き延びられたのは、米軍が食糧の配給をしてくれたおかげだからね。あのカリフォルニア米やタイ米の配給がなかったら生き延びられなかった。
 我が家は両親とオレの3人家族で、オヤジは農業をやっていた。ところが、その農地が米軍の基地に接収されて、ほとんどを持っていかれてしまった。
 それで両親は荒地を開墾して畑につくって、パイナップルとかミカンの栽培を始めた。しかし、痩せた狭い農地だから、農業収入はたいしたことなくて、とても一家3人で食べていくことはできなかったようだ。それで伯父が漁師をやっていたので、オヤジはその船に乗って漁を手伝い、農業と漁業の両方でなんとか生活が守れたんだ。
 子どものころのオレは腕白のガキ大将で、負けず嫌いのケンカっ早いツッパリだった。小学生のとき女の子が鉄棒で大車輪をやっているのを見て、「女にできて男にできねえわけがねえ」と、それまでしたこともないのにいきなり挑戦してね。それで勢いあまって鉄棒から飛び出して、地面に叩きつけられて顎に大ケガをしたことがある。いまでも大きな傷跡が残っているから、髭を生やして隠しているんだ。若いころのオレは、ホントに向こう見ずのツッパリだった。いまは仏様のようにおとなしいけどな(笑)。
 高校は私立の興南高校。私立の高校に行けたということは、このころには家の経済状態もよくなっていたんだろうね。伯父の漁業が軌道に乗っていたんじゃないかな。
 スポーツの盛んな学校で、ハンドボール、野球、ボクシングは全国レベルだった。ハンドボールは全国制覇を遂げているし、野球は夏の甲子園でベスト4くらいまでいっているはずだ。ボクシングのOBにはフリッパー上原がいて、それに何といっても具志堅用高の母校でもある。
 具志堅用高といえば故郷の石垣島から、興南高のボクシング部に入りたくて那覇までやってきた男だ。それがボクシング部は「身体が小さすぎる」というのを理由に入部を認めなかった。そのころのオレはもう卒業していたが、一応ツッパリで有名だったから、人づてにたのまれてボクシング部のキャプテンに話をつけて、具志堅の入部を認めさせたんだ。それ以後の彼の活躍ぶりは、みんなも知っての通りだ。

 高校を卒業したオレは、愛知県の自動車工場に就職した。トヨタ自動車の子会社で車のバネをつくる会社だった。ただ、ここには半年しかいなかった。実は別のところに腕を見込まれて、スカウトされたんだよ。
 オレのオヤジは漁師をしていたろう。いつも夕飯のおかず用に、魚を持って帰ってくるんだ。それを捌くのがオレの仕事で、ちょっとした板前以上の腕前だったからね。
 自動車工場で働いていたとき、休みの日なんかに魚を捌いて寮の仲間にふるまったりするだろう。そうしたら「車のバネなんか製造しているより、その包丁捌きの腕を生かすべきだ」と言って、あるホテルの厨房を紹介してくれた人がいたんだ。
 そのホテルは長良川沿いに建っている格式のあるホテルでね。長良川では4月から6月が鵜飼いの季節で、客たちはホテルの部屋からそれを見物しながら、アユを中心にした会席料理に舌鼓を打つという趣向だった。鵜飼いのシーズン中はいつも満席で、オレたちも忙しかった。
 この厨房には10年間いて花板までになった。板長に次ぐNo.2の地位だ。料理人になる気なんてサラサラなかったのに、人生ってどこでどうなるかわからんもんだよね。
 ホテルを辞めることになったのは、沖縄に帰らなければならなくなったからだ。事情の込み入った話で、これはちょっと話せない。
 沖縄に帰って、しばらくブラブラしてから、友人の紹介で豊見城のレストランで働くようになった。こんどは沖縄料理が中心で、それに和食も洋食も出す店だった。オレは元々器用だから、一度その料理を食べれば、使っている食材から、調味料、油など、だいたいわかってしまうんだ。だから、調理を覚えるので苦労した記憶はあまりないね。
 ちょうどこのころ、沖縄の施政権が返還になって本土に復帰した。1972年のこと? そうだったかな?
 そう、そう。その翌年に結婚するんだ。オレが30歳のときで、知人の紹介で知り合った沖縄の子だった。気立てのやさしい子で、何かといってはオレを立ててくれるんだ。オレにはもったいないくらいの嫁さんだった。子どもは女の子が1人できた。
 それから間もなくして豊見城のレストランが倒産する。倒産というか、レストランのオーナーが博奕に狂っていて、その借金のカタに取られてしまったんだ。従業員は全員が解雇になった。
 それでオレは友人が大工の親方をしていたから、そこに弟子入りをした。調理人から180度の転換だけど、そこは器用なオレのことだからさ。たちまち大工の技術を身につけてしまうんだけどね。(聞き手:神戸幸夫)

|

« 医者には治せない | トップページ | 塩山芳明 トークイベント報告 »

ホームレス自らを語る」カテゴリの記事

コメント

サイト運営し始めた者なんですが、相互リンクしていただきたくて、コメントさせていただきました。
http://hikaku-lin.com/link/register.html
こちらより、相互リンクしていただけると嬉しいです。
まだまだ、未熟なサイトですが、少しずつコンテンツを充実させていきたいと思ってます。
突然、失礼しました。
AWLmJEEl

投稿: hikaku | 2009年5月 3日 (日) 16時14分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ホームレス自らを語る 第28回 昔ツッパリ いま仏様(前編)/新垣智之さん(仮名・63歳):

« 医者には治せない | トップページ | 塩山芳明 トークイベント報告 »