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2009年3月26日 (木)

マブチモーター社長宅殺人放火事件の現場を歩く

「まれにみる凶悪犯罪。良心のかけらも反省の態度も全く認められず、矯正の可能性は皆無」として検察は小田島鐵男に死刑を求刑した。それから3ヶ月後、千葉地裁の根元裁判長は「改善更正の余地を見いだすのは困難」として求刑通りの死刑判決を言い渡した(2007年11月死刑確定)。
 死刑問題の是非はともかくとして、こうした判断に司法が傾いたのも事件の概要を知ればうなずける。

Photo_2  2002年8月5日、午後3時半ごろ小田島鐵男は守田克美とともに、小型モーターで圧倒的なシェアを誇るマブチモーターの社長宅に押し入る。2人は犯行時に外から人が入らないように内側からカギをかけたという。1階居間で社長婦人を守田被告が監視し、貴金属のある2階寝室を小田島が長女に案会させて物色。その後、持ってきたヒモで妻を絞殺。長女も目と口を粘着テープでぐるりと巻いた上で、寝室にあった社長のネクタイで絞め殺した。そのうえで持ってきたガソリンで火を付けたのである。
 守田は「家に人がいれば、初めから殺して火を付けるつもりだった」と供述しているし、小田島も「人質を生かしておいたから捕まった」と、過去に刑務所で話していたと報じられている。奪った現金は数十万円、時価総額で約970万円となる10点の貴金属だった。
 しかし、2人の犯罪はこれだけで終わったわけではない。翌月の24日には電話帳で選んだ目黒区の歯科医師を絞殺し現金40万円を奪い逃走。その事件から2ヵ月後、11月21日には金券ショップに警察と偽って押し入り、指輪など時価70万円などを奪っている。
 わずか3ヶ月の間に4人を絞殺。そのうえ下見をするなど犯行も計画的。
 救いがない。誰もがそう思うだろう。

 小田島は1943年、北海道北見市で生まれた。父親は彼が誕生する2週間前に死亡。母方の祖父母に育てられたという。4歳のときには母親の無理心中未遂に巻き込まれ、母と妹と新しい恋人が一緒に祖母宅を出て行くときには雪降る駅の改札で独り置き去りにされた。
「自分は泣いてて、ばあさんが迎えに来てくれた。雪の降ってる日だったもんで、角巻き(マフラー)にくるまれて」(『毎日新聞』07年3月23日)
 裁判では自身の幼少の記憶についてこのように語り、耳を真っ赤に染めて泣いたという。法廷で感情を乱した唯一の場面だった。
 16歳のときには、空腹から食べ物を盗み少年院に収監。17歳では指輪を盗み、20歳まで函館の少年院に服役した。その後も結婚や就職など、人並みの生活を送る時期もあったが、結局、窃盗などの罪で逮捕され塀の中と外を行ったり来たりする生活を送った。
 このままなら小田島はケチな窃盗犯として一生を終えたに違いない。しかし、彼は47歳で決定的な一歩を踏み出す。「練馬3億円強盗事件」だ。工務店の社長宅に押し入り、家族など7人を2日間にわたって監禁、拳銃とナイフで脅して3億円を奪った事件である。共犯として逮捕され、懲役12年。これまで収監されても数年でシャバに戻ってきた小田島だったが、この凶悪事件で11年間を刑務所で過ごすことになった。
 この刑務所で知り合ったのが、マブチモーター社長宅放火殺人事件の共犯者・守田である。小田島は夜になると、守田と犯罪の相談を重ねていたという。「おれももう年。今度捕まって懲役刑になったら生きて塀の外に出られない」「次やる時は火をつけて、全員皆殺しにする。東京近郊の企業を狙おう」などと語っていたとされる。目標金額は10億円。強奪したカネは折半などの取り決めもできた。
 しかし、この計画が本気だったのかは少し疑問が残る。というのも小田島はマブチモーター事件の裁判で、「守田は人生で初めての友人」と話し、「強盗計画を練ったのは『そういう話でしか仲良くなれなかった。出所しても会いたかったから』」(『毎日新聞』07年3月23日)と報じられているからだ。
 実際、小田島が守田を友人と思っていたのは間違いようだ。逮捕後に小田島と手紙をやりとりし、その様子をブログに公開しているノンフィクション作家の斎藤充功氏は、最初に接見したときの言葉として、次のような言葉を書き記している。
「はじめに、死刑判決ありきの裁判ですから、共に処刑される共犯者とは、法廷で悪様に言い合うことは避てたいと思いまして、共犯者の調書を基にした起訴事実を、総て認めたんです」(死刑囚獄中ブログ
 出所後、守田は会社に勤めたが、交通事故でクビに。60近い小田島にも仕事はなかった。そんな2人はアパートに同居し、マブチモーターに押し入ったのだ。小田島の仮出所から、わずか1ヶ月半後のことだった。

 共犯者・守田の最初の罪は、89年4月に起こした殺人だった。新宿区上落合のマンションに住むタイ人を電話コードで絞め殺した。原因は女。歌舞伎町のバーで売春を強要されていた女性から、120万円で自由になれるからどうにかしてほしいと相談され、彼女の「使用権」をタイのシンジケートから買った男性に会いに行ったのだ。彼女がどう思っていたかはともかく、守田にとって恋人だった女性の身請け交渉に行ったのである。しかし半額の60万円に値切ろうとして殺人に発展してしまう。
 彼もまた幸福な子ども時代を過ごしたわけではなかった。5歳で両親が離婚し、高校を中退したものの働きながら夜間高校を卒業。それでも20代には結婚して子どもをもうけている。子煩悩だったらしい。しかしギャンブルと女性問題で離婚。ここで何かの歯車が狂い、そのひずみは殺人で最高潮に達する。
「おれはあの時に死んだ」(『毎日新聞』06年12月6日)。最初の殺人について守田が語った言葉である。
 彼が一線を越えた現場が見たくて、マンションまで行ってみた。すでに事件から20年がたち、事件現場となった部屋には日本人が住んでいた。住民の何人かに声をかけたが、当時から住んでいた人は見つからなかった。ただ売春を管理していたタイ人が、それなりの懐具合だっただけは分かった。
Photo  白いタイル張りの5階建て、入り口はオートロック、ワンルームでも6万7000円、1LDKなら12万5000円するマンションである。立地を考えれば高いわけではない。ただ継続的な収入のない人が住めるマンションでもない。そこに守田が怒りを感じたとしても不思議はなかろう。
 ただ守田は、最初から女衒のタイ人を殺すつもりではなかった。それなら値切る必要などないからだ。どうにか交際していた女性を自由にしたいという思いが、生み出した殺人だった。少なくとも電話帳で殺す相手を適当に選ぶような無軌道さは、この犯行には見られない。

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