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2009年2月

2009年2月28日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第31回 棺だけで自力葬、やってみようよ「おくりびと」(後編)

 「おくりびと」が外国語映画賞をとった。 以前感想をお伝えしたが、なかなか見る機会がない納棺夫の仕事、その美しい一挙手一頭足に感動した方も多いのではないだろうか。

 前回の続きだが、棺だけを注文して葬儀をするのであれば、当然遺体のケアは遺族達でやらなければならない。自らが「おくりびと」になるということだ。あんなキレイな動きはできないと思うけれど、いいじゃない、気持ちがこもっていれば。このたびは、遺体のケアと納棺方法についてお伝えしたい。

 遺体の搬送は遺族でやるぶんにはどんな車でも構わない(*料金をとるときのみ、いわゆる霊柩車や寝台車で運ばなければならない)。死亡診断書さえ同乗させればOKだ。肝臓など内臓疾患で亡くなったとき以外は、毛布にくるんでそっと運転すれば、近距離なら体液漏れの心配はない。不安ならペット用の吸水シートやオムツなどを敷いておくとよい。

 おうちに着いたら布団に寝かせる。硬直が始まる前に衣服をあらためるのが理想だが、自分で着せてみましょうとここで何回言ったところで、実行に移せる人はいないだろうし、心の余裕もないだろう。浴衣姿ならそのまま着物をかぶせてあげたり、少しでも着ている感じを出したければ背側を切って前から回してあげるとよい。そして手を組ませる。

 さて、遺体になってから容赦なく発生してくる「腐る」という問題。ドライアイスの販売を行っているところは各地にあるので、10キロずつ2回に分けて入手すれば2日は保つだろう。到着したら切り分けて(やけど注意、軍手でさわろう)脱脂綿などに包み、次のように配置する。

■首の付け根左右2カ所

■脇腹左右2カ所

■おなかの上1カ所

 血の巡りが盛んだったところ、内臓のあるところから腐敗が進むからだ。 このとき、肌に直接のせるとやはり火傷して黒ずんでしまうことがあるので、下着や浴衣など、一枚挟むとよい。なお、ドライアイスが来るまでは…う~ん、保冷剤などで一時はしのげるが、生ものを扱うお店などでドライアイスを分けていただければすごく助かる。

 心が少し落ち着いて故人の前にじっくり座れるようになったら、お顔を見てほしい。看護師さん達がエンゼルケアをしてくださっていると思うが、鼻の穴から脱脂綿が見えていたり、口が開いていたりしないだろうか。鼻の脱脂綿はピンセットを使って押し込めてみると、意外と奥の方まで隠せるはず。目が開いている場合はまぶたをあわせて何秒かじっとしていればある程度は閉じる。口が開いている場合はあごを持ち上げて、やはりそのまま何秒か支えているといいだろう。 ひげそり、お化粧などは生前やっていたとおりに行うのが自然だ。訪問客が生前の面影を見いだせるよう、本人らしいところは残してあげた方がいい。長い入院生活で頬がこけてしまっていたら、ピンセットで脱脂綿をふくませてあげると多少ふっくら感が出る。

 さて、棺以外はお世話にならない自由なお葬式だから、納棺を何時に誰とどんな宗派で行うかは人それぞれだろう。作法はさておき、遺体の扱い方で気をつけたいのは棺に移ってもらうとき。シーツごとの移動がスムーズだ。そして棺の下に台を置いておくのを忘れると、あとで持ち上げるのが困難になるので注意しよう。葬儀まで日が空くようだったら、納棺だけ早めに済ませてしまうのがいい。ドライアイスを入れれば天然の冷蔵室になるからだ。

 そして出棺時。経路を確保してからことにあたろう。柩は傾けず、常に平衡を保って移動させる。もちろん自分たちの車で構わない。中型のバンで十分だ。これで初級「おくりびと」。難しい亡くなり方をしていなければ、こんなケアで十分だ。(小松)

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2009年2月27日 (金)

ロシアの横暴/第12回「宗教の自由」があったソ連、宗教と癒着するロシア(下)

 ソ連国民の宗教に対する感覚とはどういうものか、私が見た限りの例を挙げてみる。広いソ連のある日のあるところを見ただけだからこれがすべてとはもちろん言わない。

 ロシア正教最大の宗教行事は復活祭である(ロシアに限らずキリスト教の最大行事は復活祭)。13日の金曜日に磔にされたキリストが翌々日に復活したというので、復活祭はかならず日曜、ロシアでは4月の第3日曜日が復活祭と決まっている。
 この日はどこの家も復活祭のケーキや卵(ゆで卵に聖句や聖像を描く)を作り、家族揃ってお墓参りに行く。酒やたばこを覚え、ワルの仲間入りをし始めた青年もこの日ばかりは家に戻って来る。人々の会話も電話も「主はよみがえりたまえり」という挨拶ことばから始まる。そんな人々がいくら無神論が原則といったってイコンを燃やしはしないだろう。
 20年以上も前のことだが、「神々のいない国」という題のNHKスペシャルでモスクワ近郊のスズタリザゴールスクにあるロシア正教総本山の様子が映されたことがある。スズタリザゴールスクは古都で観光名所として日本の旅行会社も「古都巡りコース」に指定して紹介している。このスペシャル番組は宗教についてのシリーズもので、「神々のいない国ソ連」で総本山に詣でる「おびただしい数の老若男女」が十字を切りながら祈りつづける姿を映していた。
 この番組の趣旨はともかく、「神々のいる国」の信仰の様子と「神々のいない国」の様子とを対比させていたように記憶している。「神々のいる国」の神はほとんど政治と商業にもてあそばれているのに対して、「神々のいない国」の神は神として敬われているという不思議な現象をレポートしていた。宗教の自由がなければ総本山詣りはできないはずである。
 ソ連の有名な心理学者に「条件反射」のパブロフ博士がいる。パブロフ博士が敬虔な正教徒であったことは日本では知られていない。というより、自然科学者が宗教を持つなど考えられないようで、誰も話題にすらしない。ほかにもいろいろな分野のいろいろな人物が宗教を持っており、しかもソ連政府はそのことに介入していない。つまり宗教の自由があったことになる。学術文化の著名人だから特別扱いした、彼らに宗教弾圧を加えたら西側に攻撃材料になるから容認していた、という見方もできる。でもそれならばキリル総主教がレニングラード神学校に学んだことの説明はできなくなる。
 実はスターリンも帝政時代の神学校に入っている。のちに「革命思想」で退校になった。政治と宗教が一体になることの弊害が身にしみたことだろう。

 ここで「宗教はアヘン」を解釈してみよう。日本ではアヘン、すなわち麻薬であるが、ものの本によるとマルクスのいうアヘンは医薬品としての「痛み緩和剤」だそうだ。信仰があれば苦しみを緩和できるというわけで、現在も信仰を持つ人はそのように使っている。それがいつの間にか麻薬としてのアヘンが一人歩きしてしまったようだ。西欧とはちがう宗教観を持つ日本で特にその傾向が強い。
 レーニン主義が無神論を原則とし政治と宗教を分離したのは、政治と宗教が癒着すれば痛み緩和剤であるはずの宗教がほんとうに麻薬として使われることを警戒したから、と私は思っている。このことは西欧烈国(特にイギリス)がアジアを支配するのにアヘンを使っていたことをみれば容易に理解できる。スターリンは自らの体験から宗教と国家が結びついたら自由が制限される、と考えたのだろう。
 政教分離はすなわち無神論ではない。学校教育や公共の場では宗教について教えない、語らないだけであって、信仰を持つのは本人の勝手だ。日本でも寺のお世話になるのは盆と彼岸、葬式のときぐらいになっているのと同様、革命を経て衣食住もある程度整えば痛み緩和剤としての宗教もさほど必要でなくなる。
 見解の相違はあるとしても近代国家とか民主主義とかを標榜するのであれば政教分離は絶対条件といえよう。ソ連は革命後かなり強引に政教を分離させたが、近代国家の仲間入りをするのに必要な政策だったからだ。
 ただし、ロシア正教に対しては政教分離の原則に従って肩入れもせず、弾圧もせず黙認状態だったのが、ペレストロイカ以後は他宗教、特にイスラム教に対して弾圧をするようになった。これは宗教弾圧ではなく異民族を力で支配しようとしたからで、ロシア政教と政治権力が再癒着したことを物語っている。
 政教分離のソ連が崩壊すると、レーニンやスターリンが懸念したとおり、宗教を政治に利用したい輩が政治に宗教を取り込むようになった。故アレクシー主教はチェチェン戦争に駆り出された兵士を「痛み緩和剤」で祝福し、お陰で兵士の方は本物の麻薬中毒になって人生を狂わせていった。
 政治は宗教を利用したがり、宗教は政治と癒着したがる。ゴルバチョフが「宗教改革」をしたのは宗教は個人の心の問題だからではなく、自分の政策をうまく進め、人気を上げるのに宗教を利用したかったのであり、プーチンやメドベージェフがキリル新総主教の就任式に列席し祝辞を贈るのは、信仰心ではなく国民をヤク中にして効率よくに支配したいからである。神々のいる国の神はそんなものである。(川上なつ)

 

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2009年2月26日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第11回 NHKで振り回された現場の声なき主義主張(1)

 少し私自身のことについて書こうと思う。 
 ジャーナリストとしては自分のことについて書きたがらないのが普通だ。私も例外では無い。何故かというと、自分のことを書く紙幅があるのならば現場のことを書かなければ、という思い込みがあるからだ。
 別に格好をつけるつもりはないが、職業上のけじめとだ。会社員が時間通りに職場に着くことと同じだ。
 ただし、フリーランスらしく(私だけが例外かもしれないが)、この時間通りというのが昔から至極苦手なたちで、編集者の大畑氏をはじめ、編集部の皆さんには頭を床にこすり付けてでも謝らねばらないことをしてきた。原稿を贈る際のメールの冒頭には必ず「遅れてすみません」の文言が入る。アストラ編集部の諸兄らは菩薩の如き寛容さで許してくれていたが、ここで再度わびをを入れさせていただきたい。本当にすみません。 

 今年の正月3日、NHK・BSのディベート番組に出演した。お題は「どうする日本の国際貢献」。インド洋給油問題などをたたき台に日本がどう国際貢献にかかわるべきかを若者が語る番組だ。正月からこんな硬い番組を見てくだすった読者はいらっしゃるだろうか。見てくださった方には、わたしが1人でハッスルしていたことが印象に残っているだろう。
 実はわたしはこの番組の出演を当初断ろうと思っていた。優秀な小説家で友人の荻世いをらの助言を考慮したからだ。
 「よしたほうがいいぜ。白川君。君がどうであれ、白川君の言っていることは左っぽいと取られると思うよ。変な色がつくから、よしたほうがいい」
 ちなみに、わたしは右でも左でもない。右の人にも左の人にも悪いが、私は保守もラディカルも結構なことだと考えている。それだけ社会に対して深く考えることができるのは、なかなかできることではない。往々にして左右ともに恋人を持てない(持たない?)人が多いのがかわいそうではあるが、実に結構だ。ただし、身なりはきちんと整えたほうがいい。どちらも白の無地のシャツのすそを擦り切れたジーパンに入れていることが多い。
 ただ、正月からアフガニスタンについて意見を言えることは悪くない。現場のことを少しでも多くの人に伝えることは取材者としての責務だ。泣く泣く恥を忍んで私は渋谷のNHKに向かった。
 当初、私は要点だけを述べて後は黙っているつもりだった。出演者は20人程度。普通の大学生から、右翼系シンクタンクの若手研究員までいろんな人がいた。カブール郊外の地雷原で、地雷処理にあたっていたNGOの人と再会したことには驚いた。
 ディベートが始まると、議論の流れはすぐに自衛隊派遣の話になった。お題は「国際貢献」。そのためには自衛隊を送って国際社会からもっと評価を得るべきだとの意見が大半を占めた。
 アフガニスタンには世界中の国が軍隊を送っていて、評価を得ている。だから日本も給油なんてまどろっこしいことをしていないで、自衛隊を送るべきだ。要約するとそんなところだ。
 けれど、誰の意見にもアフガニスタン人がそれをどう思うか。アフガニスタンの状況を武力で解決することが可能なのか。何がアフガニスタンで問題になっているか。という視点が無い。誰もが日本と国際社会(私にはこの言葉の意味がいまひとつ理解しかねる)の関係性のみで話しており、現場からの視点が欠落しているのだ。(白川徹)

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2009年2月25日 (水)

週刊新潮の朝日新聞襲撃実行犯告白記事

「私は朝日新聞『阪神支局』を襲撃した!」の連載が終わった。おおかたはガセネタとの見方である。私も同様だ

長い間編集者をやっていれば過去の大事件に関するこうした「告白」を受けることは一度ぐらい経験するものだ。私でさえ三億円事件やグリコ・森永事件の「真犯人」をたくさん?知ってるぜ(麻生太郎風)。しかし記事にもしなければ警察へも届けない。だって明らかにガセなのだから

例1:私は三億円の犯人だ。しかし実は五億円だった。公安はその事実をひた隠しにしている。なぜならば云々
例2:私はグリコ・森永事件の真犯人だ。しかし公安は知っていて動けない。なぜならばCIAが云々
例3:私は帝銀事件の犯人を知っている。平沢さんは無実だ。真犯人は○○だ。だが彼は鉄砲玉に過ぎない。背景にはGHQの云々

「云々」部分は取るに足らない妄想が続く。他に背後にいる代表格はモサドとか旧ソ連の諜報機関とか。そんな巨大な力が働いて「公安」(なぜか多くが公安)がどうこうというストーリーである。と言いつつ「オレは公安に狙われている」などと脈絡のない話がくるのもセオリー?
確かに警備・公安・外事といった警察の部局は謎めいている。警察回りは始めた記者の多くが最も近寄りがたい雰囲気を感じるところでもある。入り口の3分の2がロッカーのようなもので塞がれていたりなど。だからといって何もかも「公安」が仕切っているわけでも法律から遊離した闇の権力でもないと段々とわかってくる。

こうした話が編集部へ電話で来ると(たいていそう)まずは概略を聞く。ここで99%はボツ。なぜならば私が公安の回し者……ではないのだよ。取るに足らないからだ。某極左から突然「公安の回し者」呼ばわりされてあきれたことがある。そんなのになれるならなりたいぜ(麻生太郎風)。多額のお金が入ってくるらしいじゃないか。しかしそんな話はないのである。

残り1%ぐらいが「よくできた作り話」である。その時は「場合によっては掲載してもいいけど、せめて『実名告発』にして下さい。でないと信憑性がなさすぎます」という。するとたいていは尻込みする。私の経験では100%だった。公安に消されるとかアメリカに狙われるとか既にスパイに盗聴されているとか(ならばかけるなよ)。
週刊新潮の記事は、この「せめて『実名告発』」をクリアした。島村征憲という人物である。よって私も最初は勢い込んで読んだ。結果「ガゼだろう」との感想をもった。

まず第一に事実ならば大スクープなのに「以下次号」の連載になっていたから。新聞は印刷から輸送まで一貫行程で降版から4時間後程度でニュースを届ける仕組みがある。だからスクープが打てる。それでも大スクープの時は極度に情報漏れを警戒する。
対して雑誌は校了後から外部の印刷所へ情報が移り、さらに無論別会社の取次会社経由で書店へ流れる。したがって最短スピードを走る週刊誌でさえおおむね1日前ぐらいには大スクープの概要は漏れてしまう。仮に漏れなくても新聞が追いつくのは可能である。いうまでもなく週刊誌は刊行日の朝一番から書店に並んでいなければならない。24時間営業のコンビニでも刊行日前日の午後11時半ごろには店へ運ばれる。それを手に取れば14版の降版時間までに一報ぐらいは突っ込めるのだ。

だから本物のスクープならば連載などにせず20ページでも30ページでも割いて一挙に量で圧倒しないと日刊紙が簡単に追いついてしまう。言い換えれば週刊で連載したら絶対に追い抜かれる。ということは連載とした時点で追われるネタではないと編集部が判断した……というのが邪推とは思えない。

細かい事実関係の齟齬については朝日新聞始め行われているので他のことを書く。島村氏の「告白」で出てくる主要な人物で実名なのは野村秋介氏のみ。だが野村氏はすでに故人で確認のしようがない。島村氏に犯行を依頼した在日本アメリカ大使館職員の日本人は仮名。島村告白が事実とすれば職員は時効とはいえ共謀共同正犯に位置する。だから彼も実名ならば多少は信じられるけど仮名。
仮名か実名かは重要な分かれ目である。もし職員を実名で暴露し、当該職員が濡れ衣だとしたら名誉棄損で刑事・民事双方で訴えてこよう。しかし仮名ならば少なくとも刑事は行けそうにないし民事では「訴えの利益」が存在しないから抗議ぐらいに止まる。「新潮で仮名とされたのは私だ」と実名で名乗り出る自体が損害だから。

島村告白に出てくる重要人物2人がこのようでは信じようもない。ガセネタと考えるゆえんである(編集長)

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2009年2月23日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/第9回 女性・28歳・パート(農業従事)(前編)

今回は、インタビューではなく寄稿である。ご本人の生の言葉で、半生を語っていただいた。

 大学を卒業して5年目の今年、やっとフルタイムのパートに就けた。今後正社員として採用してもらえるかは未定で保障のない身分だが、実家を出て一人暮らしもでき、とりあえずは社会復帰の第一歩を踏み出せたことが嬉しい。

 大学卒業から4年間は全く先の見えない不安定な日々だった。福祉や医療関係の仕事を目指していたのだが、それを決めたのが卒業間近だったために資格試験などの勉強をする時間がなかった。高校、大学と奨学金を借りていたので、それを早く返してから希望する仕事を目指そうと考えていた。その間の仕事は給料のためだけで長く勤める気はなかったので、それほどのこだわりもなく、努力して大企業や安定している会社を目指そうとは思わなかった。卒論もあり、早く取りかかりたかったので、内定をもらった大学4年の5月位に就職活動を終えた。
 最初に就職した会社は1ヶ月で辞めた。入社前の話とは全く違う不規則なシフト制の勤務に、社員の定着しない環境。身体をこわして辞める人も多く、先輩や上司を見ていても、社長の話を聞いていても、奨学金完済までの数年間働ける職場ではないと感じた。希望通りの職種ではなかったこともあって、見切りをつけたらすぐに退職した。
 その後1ヶ月もしない間に次の仕事に就いた。今度は簡単に辞めることはできない。転職を繰り返せば就職に不利になる。少なくとも3年は続け、貯蓄をしようと思っていた。ところが、そこは前職以上に社員の出入りの激しい会社だった。休日は週に半日しかなく、経営方針にも疑問を抱くことが多かった。自分なりに可能な限り努力したのだが何の成果も出せず、社内環境にも仕事内容にも人間関係にも適応しきれなかった。また私生活でも何かと問題が起こり、鬱病になった。入院を経て1年で会社を辞めた。長期休暇は認められないので、退職するしかなかった。経済的にも一人暮らしができる状態ではなく、実家に戻った。

■退職から4年のブランク■

 それから4年間は何をしてもうまくいかず、完全に悪循環に陥った。病気の為に常に情緒不安定で、家族、友人、全ての人間関係が破綻した。早く社会復帰しようと就職活動をしてもすぐに力尽きて起き上がれなくなるほどの不調が続いて、引きこもり状態にもなった。その繰り返しで自信をなくし、無気力になっていった。入院も計3回した。
 しかし入院まで行けば、逆に少し気が楽になった。周りは病人だらけで、どれほど体調不良でもだれも驚かないし、責められもしない。一般社会から遠ざかった病人同士で話があうこともある。辛いのはむしろ退院後だった。無職の鬱病人にとって、多方面に気を使わなければならない社会生活はあまりに難しく、退院してもすぐに悪化した。
 また、退院後に通院するのも非常に苦痛だった。精神病院に通って精神病の薬を服用する。近所の人は私が精神病だと知って噂になっていると思って家の外に出られず、自分はついにそこまで堕ちたのかと絶望した。
 それには理由がある。私の今の父は義父で、離婚した実父は去年死んだと聞いた。だらしなく、一生関わりたくない人間だった。以前何度か躁病で入院したが、手に負えず退院させられたそうだ。病気のせいか性格のせいかはわからないが、散々迷惑をかけられた。その度に「こんなにだらしなくて甘えた頭のおかしい人間には絶対なりたくない」と思って生きてきた。子供の頃から結婚はしないと決めていて、大人になったら仕事を生きがいとして自立した人間になりたかった。
 自立したいと思っても、ブランク数年の履歴書を持って就職活動する気力も失っていった。団塊世代退職のために新卒の求人は増えていたが、中途採用には大した変化もなく、相変わらず冷遇されていた。その格差が固定化されつつある格差社会ともいわれていた。そのような中で、とても自分が採用されるとは考えられなかった。「そんなことを言っている場合ではない。百社面接すればどこかは受かるだろう」という覚悟など少しも持てなかった。ニート、ワーキングプア、ネットカフェ難民等の言葉を聞くだけで責められている気がして辛かった。
 仕事だけでなく、何に対しても努力できず、無気力で、全てから逃亡したかった。記憶喪失にでもならない限り、正気では生きていけないと本気で思っていた。
 このブランクの間に結婚を考えることもあった。当時は相手もいたので、しようと思えば出来ただろう。結局せずにいたのは、その結婚が逃げ場を求めているだけだったからだ。しなくて良かったと心から思う。例えしていても早々に離婚したのではないか。結婚生活を維持する努力はできなかっただろう。

 治療で薬は数種類試してみたが、どれも大した効果はなかった。何種類目かは忘れたが、現在服用している薬になってようやく少しずつ効いてきて、徐々に外出したり、人に会ったりできるようになっていった。社会復帰の訓練と思って、図書館の本棚整理のボランティアや資格試験の勉強なども始めてみた。(前編終わり)

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2009年2月22日 (日)

日曜ミニコミ誌!/情熱と実験の果てに『つみほろぼし』

 「自由と進歩」の建学精神をもとに、「自立型人材」の育成を教育理念に掲げている法政大学。同学のサークル「嗚呼!! 情熱実験つみつくり」には、まさに自由・自立の精神が溢れている。白衣に身を包んで興味あるテーマの実験を行い、検証をしてレポートにまとめ、冊子『つみほろぼし』にして学内に配布するのが、彼らの活動だ。このたび『つみほろぼし』を読む機会を得、内容をより詳しく知りたいと感じ、サークルから会長・前代会長・会員3名・OB1名に参加していただき、お話を伺った。

奥山(以下O):「嗚呼!! 情熱実験つみつくり」というのは、全体がサークル名なんですか?

前代会長(以下Z):そうです。サークルの創設者が、辞書を引いて好き勝手に決めたサークル名です。ただ、「嗚呼」はあらかじめ決まっていました。「ああ」だと、50音順サークル一覧で一番はじめに配置されるでしょう。創設メンバーは3人、結成から10年。OBと現役メンバーをあわせると25名ほどの所帯になっています。

O:企画と実験理念を立て、そのための実験方法を作って皆で実験するというのが活動ですよね。例えばHPに「人は見た目が9割実験」がありますが…

OB:『人は見た目が9割』(新潮社新書、竹内一郎)という本が売れた頃の企画です。大学の規制が厳しくなり「不審者に気をつけよう」と言われることが多くなったので、大学が言う不審者とは? どういうことをすれば、不審者として認定されるのか? という企画のもとでの実験でした。各自ヘンな格好をして大学界隈を歩きました。スキンヘッドでサングラスとスーツで素振りしてるとか。

Z:これは「危ないから」と通報され注意を受けたので、今度はバントでそっと素振りをしてみました。そうしたら怒られなかったので、バントは「安全だからセーフ」という検証が出来たと。

会長(以下K):大学当局の放送って他にも面白くて、「歩き方に気をつけよう」とか。

会員M(以下M):横に並んでじゃまにならないように」とか「食器をきちんと片付けましょう」とか、「ボランティアをしましょう」とか。

Z:本来なら自発的にやるはずのボランティア行動を強制されているような気がしてならない。そんな疑問から「ボランティアをやる気のないものがすると、どのような結果を生み出すか」という企画を実験したこともあります(「アンパンマン的、あまりにアンパンマン的実験」:『2008年自主法政祭号』)。「実験主義」「権威打破」「情熱をカタチに」という三大理念があって、笑える企画を行う上でその3つを満たさなければならないんですが、抽象的な常識や権威を皮肉ろうというのが権威打破。これが3つの中で一番大きいんですね。プラスもう一つの要素が入って、「結局ショボい」というのも大事です。最新科学に基づいたアプローチではなく、自分たちで出来る範囲でやると。毎年やっている「年末恒例ママチャリレース」も、車ではなくママチャリを使うことで拝金主義的な世の中に問いかける。徹底的に現地集合・現地解散というのもポイントです。旅行サークルなどでは現地に行くまでの行程も含めて楽しむのが目的といえますが、我々は実験を目的とするサークルなので、あくまで現地で集まる。

O:夕張や宮崎など、かなり幅広い範囲で実験をされていますね。

Z:実験は出来る場所を限定したくないんです。火星でも実験できるのが、本来は理想的です。

M:情熱主義の一環です。情熱があればどこでだってやれるんだぞ、と。夕張集合の時は集合まで3日くらいかかっちゃいました。その間一人で野宿して。お金がないから特急とか乗れないし。

O:特に印象的な実験は?

K:太平洋戦争中にとられたジンギスカン作戦を現代風にアレンジした実験がありました(「2007年自主法政祭号」)。実際の作戦のルートであるミャンマー~インドに掛けて、富士から出発して家畜を連れて歩き、腹が減ったら捌いて食べながらインド大使館を目指すというものです。生きた羊が手に入らないので、鶏を2羽ペットショップで買いまして。それを捌いて食べて、その時のトリ鍋以外は、ゴハンなしと。でも、雌鳥って食用じゃないんですね。全然旨くなくて。ダシも鶏冠も美味しかったけど…。結局はリタイア者を出しながらも無事たどり着きましたが。

M:最近では大晦日のママチャリレースですね。25日に法政大学を出発して、他の参加者のタイヤの空気を抜いたりガムテープ巻いたりして妨害しながら、今年のゴールである広島まで走りました。この人(会員H)はちっちゃい自転車に薄着でベスト着て、原宿にでも行くような格好して参加したんですよ。

O:その格好は企画のために?

H:いや、普通にナメてて…。寒かったですね。

会員T:私はいつの間にかバイパスに乗り上げてしまって、トラックとトンネルの壁とに挟まれながら自転車をこぐという怖い経験をしました。どこまで行っても下道が見つからないので結局警察を呼んで助けてもらったんですが、保護のためUターンされてしまって。「せっかく走ったのに…急いでるのに!!」と、悔しい気持ちで一杯でした。あとは野宿してる間に財布を盗まれたり、携帯電話が使えなくなってしまったり。1日2回連絡をしなきゃいけないんですけど、できなくて「Tは死んだ」という噂が流れたりして…。

M:私は二人乗りで行こうと思って、美容学校生がよく持っているような首だけのマネキンを白衣を付けた銀マットの上に載せて、それを荷台にのっけて走りました。

O:年末年始に誰も里帰りしないでそれをやると…。

 体力的にかなりキツそうな実験ばかりだが、今回参加してくれたMさん、Tさんは華奢な女性。とても広島までチャリで走っていくようには見えないが、実験に対する情熱の強さが彼女らを駆り立てるのだろうか。会長は春休みも意欲的に実験を行っていくと宣言してくれた。内容は次号のお楽しみだ。

■権威をうっかりちょっぴり本当に打破してしまって冊子に掲載できなくなった実験もあるとのこと。実験レポート集『つみほろぼし』は、学内無料配布の形態をとる。最新号は「2008年自主法政祭号」、1000部が出ている。バックナンバーの一部を新宿模索舎にて販売、一部200円。交流のある京都大学吉田寮にも少々配布している。お問い合わせはつみつくりホームページにて。(奥山)

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2009年2月21日 (土)

ロシアの横暴/第11回「宗教の自由」があったソ連、宗教と癒着するロシア(上)

 「宗教はアヘンである」というマルクス主義の教理はマルクス主義を知らない人にも広く浸透している。ソ連では宗教が禁止されているらしい、なぜならばマルクスが「宗教はアヘン」としているからだとほとんどの人が思っているようだ。三段論法で、ソ連はマルクス主義を敷いている、マルクス主義は「宗教はアヘン」として禁止している、ゆえにソ連は宗教禁止令を敷いている、というわけだ。
 それがゴルバチョフのペレストロイカでソ連にも宗教の自由が認められるようになった。やがてソ連は崩壊し、何でも自由になった。自由は近代国家のポイントのようで、ロシアは近代国家の仲間入りをしたつもりになり、近代国家の「先輩」たちはロシアが近代国家になったと浮かれたりした。
 2008年の末にロシア正教会アレクシー総主教が死んで後任を決めることになった。故アレクシー総主教はゴルバチョフ大統領の任命でその地位を得たが、今回は選挙で選ぶことになった。サミットにも参加するほどの近代国家ロシアがまさか大統領指名で宗教指導者を決めるわけにもいくまい。というわけで教会内選挙で3人の候補者の中からキリル総主教が選ばれたそうだ。選挙で選んだ、といえば聞こえがよいが、本心は近代国家の装いをしなければならないから、選挙をしたのであって、政教分離の原則に基づいているわけではない。袈裟の下の鎧が丸見えだったのでとうとう新聞のレポートのネタになってしまった(それもロシア紙の!)。ロシア正教が政治権力とベッタリになっていることを今では誰も疑っていない。このことを読売新聞がロシアのコメルサント紙を引用しながら次のように報じている。
 「2人の府主教の陣営は、神学上の見解に対する批判に始まり、集票活動の不正告発、正教会が持つ経済的な利権への関与の暴露など、世俗の政治家さながらの『選挙戦』を展開。新総主教の選出を通じ『教会内に「政党」が存在し政治闘争が行われている』(コメルサント紙)ことが示された」(2009年1月27日)
 また産経新聞はキリル新総主教のコメントを引用している。
「キリル府主教は新総主教に選出された直後、アレクシー2世の時代に『国内外の教会が再生したことは疑いない』と称賛した。アレクシー2世は無神論を原則とした旧ソ連時代の体制から自由になった人々に信仰を広め、約20年にわたる在位期間に修道院の数は35倍以上に増え、800を超えた」(2009年1月29日)

  キリル総主教はレニングラード(現サンクトペテルブルク)の出身で、俗な言い方をすればプーチン・メドベージェフと同じ「レニングラード閥」である。その辺まではよくある話で驚くことではないが、驚くのは「レニングラード神学校卒」という彼の経歴である。それなのに「ソ連は無神論を原則としていた」と言い出した。
 キリル総主教は1946年の生まれだから、彼が義務教育を終えて神学校に入ったのは1963年ごろと思われる。宗教を含め各種弾圧で有名なスターリンはすでになかった。前任者のやったことには何でも逆らう、というソ連方式に則ったいわゆるスターリン批判の一環で神学校に入るのも自由になったのかと思いきや、神学校はスターリン時代からちゃんとあった。当時17才ぐらいのキリル青年(本名は?)が何を思って神学校に入ったかは本人のみが知るところだが、少なくとも無神論をやっつけようと思っていなかったことは確かである。ほかの若者が将来の生活安定を目指して進学先を選ぶように、安定した収入が見込まれる「サラリーマン神父」になろうとしたのだろう。そしてこれもほかの若者と同じようにゆくゆくは課長や部長になれるといいな、ぐらいは思っていただろう。ちなみにソ連時代、すべての上級学校が国立だったなか、神学校は「ロシア正教会立」で唯一の私立学校だった。
 無神論が原則なら神学校など認可されるはずもないのに「無神論が原則のソ連」などと言い出したのはなぜだろう。
 先号で少し触れたが「ソ連時代の学校教育はこうだった」と語る旧ソ連人を登場させて現政権を持ち上げる方法はここでも同じで、「ソ連時代、宗教の自由はなかった」と、キリル総主教に語らせるに至ったわけだ。
 ソ連の宗教弾圧の証拠としてイコン(ロシア正教の聖像画)を破ったり燃やしたり、教会の建物を破壊している写真や映像を何回か見たことがある。
 ここで一息入れて「聖像破壊の写真・映像」の真実は何だったのか考えてみる。ひょっとしたら贋作イコンを処分していたのかも知れない。古い教会の改築中だったのではなかろうか?マルクスの教えに従って真面目に「アヘン」を片づけていた可能性もあればいわゆる「やらせ」だってあり得る。イコン泥棒、「アヘン取り締まり」からイコンを守ろうとして安全なところに避難させていたのかも知れない。ただ西側報道機関は「ソ連では宗教は禁止されている」と報道してきた手前、新しい教会を建設しているとか、贋作イコン廃棄中とは口が裂けても言えなかっただろう。写真があれば見てきたようなウソはいくらでもつけるものだ。(川上なつ)

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2009年2月19日 (木)

靖国神社/第12回 靖国神社 遊就館レポート!(下)

 2006年度中の遊就館で最も注目されるべきイベントとなれば、やはり『人間魚雷回天』(新東宝・監督:松林宗恵)の上映だろう。

 日に2回上映しており、遊就館の拝観料(大人800円)を払えば観ることができる。
「回天」は実在した兵器で、終戦近い1944年から実際に使用された。魚雷を改造したもので、細長い筒のような外見だ。中に乗組員が1人入り、潜望鏡を使って相手の位置を確かめながら体当たりし、そのまま相手もろとも爆破して吹き飛ぶ。1人の命が消えることになっても敵艦を鎮めることができればいい、という発想から作られたゾッとする兵器なのだ。回天で“殉職”した英霊は全部で106柱。
 彼らはどんな心境で海の中を進み、敵艦に向かっていったのか。1955年、つまり戦後10年に封切られた『人間魚雷回天』に、その様子が描かれていた。
 上映時間前に拝観料を払う券売機の当たりには、この映画目当てでやって来た人たちも何人か。
 30代半ばの男性は言う。
「やっぱね、回天でしょ。いや、そんなに詳しくは知らなかったけど、海軍の特攻兵器ってことで興味はあったんですよ。靖国神社で映画をやるって知人から聞いたんで、早速来てみたんです」。
 特攻に美意識を感じるということだろうか?
「うーん、たしかに人の命が失われるのは喜べないことだけど、国のためにっていう精神かな、そういうものにグっと来るっていうかね」。
 そういうものなのか。お国のために、という意識が希薄な私には理解できかねるが、どうやら観に来ている人たちにはそんな意識で来ている人たちが多そうだ、と話し声から推察できた。
 100席ほどあり、満員にはほど遠いが、意外と女性も多い。やはり高齢の方が、年齢層では最も多い。
 映像はもちろんモノクロ。陰鬱なメロディが流れるオープニングに始まり、終わりまで100分と少し。
 人間魚雷になることを喜んで受け入れて体当たりしていく、という内容を想像していたが、ちょっと違った。回天の訓練を受ける乗組員は出撃することが不安で、「イヤだ! こんな兵器に乗るのはイヤだ!」と取り乱すシーンも。しかし、乗組員同士でなんとかお互いを励まし合い、最後には回天を搭載した潜水艦の艦長に「お世話になりました」と言い残して彼らは体当たりを成功させていく。
 見終わった後に残るメッセージとししては、彼らの犠牲の上に今の日本がある、というものだろうか。
 映画を観ていた40代の女性は言う。
「はっきり言って、最後まで観ようとは思ってなかったんですけど、なんとなく最後までいましたね。内容はあまり覚えてないですよ。だって、ソファみたいな座り心地で気持ちよかったから、つい寝ちゃいました。映画の内容も、思ってたより恐くなかったし……」。
 20代の大学生の男性。
「国際政治学を専攻してるんで、靖国批判のレポートを書こうと思って来たんですよ。それでこの映画も観たんですけど、これじゃ批判できない。もっとファッショな内容だったら書けたのに……」。
 うーむ、人それぞれと言えば当たり前だが、遊就館に来る人もまったくもって一様ではない。
「実際に訪れてみて、遊就館についてどう思ったか」みたいなアンケートを1000人規模で取れば、靖国に対する世間の認識も少しは分かるのだろうが、今の所そういう調査はされていない。ただ、順路の終わりにある部屋では机にノートが並べられており、訪れた人が自由に感想を書き込めるようになっている。
 遊就館について、訪れた人がどう思っているのかを知りたいのであれば、このノートを閲覧することをオススメする。椅子があってじっくり書いたり読んだりできるので、割としっかりした感想が書いてあるのだ。
 中でも多いのが、「国を守っていただき本当にありがとうございました」という感想だ。英霊が国を守ってくれたことを再確認し感激した、と激情と共に綴られているものさえある。しかし、もし「靖国的日本史」のアオリ効果(さっき述べたような高揚作戦)が成功して感激したのなら、例えば逆に「日本軍はこれだけひどいことをやって来た」という展示物ばかりにすれば、そういう方向に「再確認した」という人が多く出てくるのだろうか。最後に、大きな展示場で回天を見た。真っ黒で巨大な鉄の筒が不気味に鎮座していた。(宮崎太郎)

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2009年2月18日 (水)

オーバードース中川昭一さん

泉山三六「トラ大臣」は酒で失敗して座を追われた。でも風邪薬の過剰摂取=オーバードースで辞任した大臣の記憶がない。あなたはジミヘンか。歴史に残る大臣である。
一応オーバードースで押し通しているけれど「トラ大臣」ではなかったのか本当かという疑惑?も消えていない。中川さん宅では風邪薬を2倍飲んだら2倍早く治ると教えられたのか。まさかねえ。でも風邪薬と言っているのだからそれはきっと飲んだのだろう。お水ではなく酒で飲んだのではないか? それともトリップしたかったのかねえ。「そこにグラスがあったから」。ジミヘンにプラスしてジョージ・マロリー。大変な人物なのかもしれない。
それにしても安倍晋三さんにしても中川さんにしても勇ましい右の人は何でまあこのように体調不良になりやすいのか。左翼の大物は偉く長寿なのに。もっとも長寿だから権力を握り続けられたというのが本当かもしれないけど。右ならばマッチョでないと格好付かない。斗酒なお辞せずでないとはまらない。愛国心だの何だのと高らかに唱える人が国辱ものの映像を流されたのでは行き場がないでしょうに(編集長)

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2009年2月17日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/人身事故発生、しかし車内は…

○月×日
 立春が過ぎた。
 といっても暦の上でのことでまだ冬だ。2月にふぶくことの多い田舎ではまだまだ油断ならない。
 でも、これまではいくら暖かい日でも春の「は」の字も出てこなかったのに、この日を境に、少しでも陽気がいいと「春だなあ」と感じてしまうのだから不思議なものだ。それは、暑さが和らいでいく立秋にもいえることだ。
 こんなことを感じるのも年を取った証拠なのだと思うとちょっとさみしくなってしまうが、そういえば、私は元々、季節や気象に対する思い入れが強いのであった。ああ、腰が痛いこと。それと、右肩から腕にかけてもジワジワ痛くて、服の袖を通すのも歯を磨くことすら大変なのだ。

 閑話休題。1月の中央線の人身事故は10件を超えた。3日に一度の割合だが、首都圏で人身事故のない日はないといってよい。出勤すれば、やれ山手だ、東海道線でだと、必ずどこかしらで起きている。昨日14日もまた中央線であったから、今こうして書いているのだが。
 私達車掌は人身事故の情報が無線から流れると直ちにその旨のアナウンスをしてお客さまにお知らせするわけだ。
「ただ今、○×駅で人身事故が発生いたしました。この先、途中駅で運転を見合わせます。あらかじめご了承下さい。詳しい情報が入いり次第お知らせいたします。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」。
 お客さまの中には時間に余裕がなく移動している人、この事故で今後の予定を変更せざるを得なくなってしまった人など様々だろうが、まったくもって困った事態であることは誰もが認めることだろう。
 その上で、最近の車内事情はというと、全体的に反応が小さいということを感じるのだ。皆すっかり慣れてしまったのだろうか。「ああ、またか」といった雰囲気で、まるで他人事のようにクールで醒めている。全体的におとなしいと思うのは私だけではないはずだ。
 以前なら、もっとどよめいたものだった。驚きと動揺と困惑で車体が一瞬ぐわんぐわんと揺れたほどだった(ホントかよ)。本当です。しかし、今、それがない。
 中には、「ナヌッ~!!」とあからさまに声を上げてキョロキョロと落ち着きを失う人もいるが、ほとんどの人は無言だ。ただ静かなため息と共に隣にいる見ず知らずの人の顔をそっと盗み見てはホッと安堵しているような様子なのは、この事故による思いを共有しているということをカクニンできたからなのか。とにかくじっとしているといった具合なのだ。
 また、「どうなっているのか」「いつ動くのか」と以前は車掌にひっきりなしに聞きに来たものだが、これもチラホラでしかない。
 ま、この点は私達も気休めになっていいのだが、そんな悠長なことをいっている場合ではない。定時で帰れなくなる。食事時間がなくなる。夜勤なら寝る時間がなくなる等々。私達はこれが仕事だからと言ってしまえばそれまでだが、お客さまはもっと深刻であるということは重々承知しているのであり、何よりもお客さま第一で誠心誠意の対応を心がけておりますので、その辺のところはあしからず。
 いずれにしても、人身事故をなくさない限りは話にならない。でもなくならない。柵などの防止策では効果はなく、ホームなどの構造面からいっても現時点では無理だろう。だが、山手線の何駅だったか、試験的にホームと線路の間に仕切を設けて二重扉にする(一部の地下鉄にある)との話は聞いているが、それを首都圏に広めるとなれば大変だ。設置にあたるホーム強度などの耐久性も問題であろうし、何よりも莫大な設備投資だ。
 それとも、主要駅に限定するのだろうか。
 ん? まてよ。なんぞや、いったい。不慮の転落防止策なのであり飛び込みだけではないにしても、自殺の主要駅ってあるのかい。
 とにかく、実現には何年、何十年先かわからない話なのだ。
 命を断ちたい人の事情もあろうが、大迷惑この上ないのだよ。う~む。いい考えは思い浮かばぬが、そんな人は鉄道以外にしてほしい。他の所を選んでよ。た、頼むから……。(斎藤典雄)

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2009年2月16日 (月)

アストラ新刊情報:塩山芳明氏の新刊、3月末に発売!

 坪内祐三ら文化人が各週刊誌で大絶賛した『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)から2年半。福田和也をして「日本のセリーヌ」と言わしめたエロ漫画編集者・塩山芳明の新刊がアストラから3月末に発売されます。

 『記録』本誌では休刊まで「奇書発掘」を連載していた塩山氏、本著のテーマは「エロ漫画の黄金時代」。業界バブル期に思いを馳せ、今の苦境を赤裸々に語りつつ繰り出される毒舌。著名人・編集者・漫画家たちをバッサバッサと切る爽快さは期待を裏切りません。さらに警視庁保安課など当局とのお付き合い、製版屋・印刷所との攻防戦などについても詳細に書かれ、漫画マニアはもちろんのこと表現規制問題に興味のある方、出版界全体に関わるウラ話を求める方などにも満足していただける構成です。

 このたびの出版を記念して、ご予約をいただいた方に限り、著者直筆の色紙と生原稿の一部をプレゼントいたします。ぜひご応募下さい。詳しくはこちら
 尚、三省堂書店神保町本店・東京堂書店にて、3月下旬に先行発売を実施します。追ってこのページでご連絡を差し上げますので、お見逃しのないようお願いいたします。(編集部)

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2009年2月15日 (日)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第27回 奇跡的に残ったコップ

20a_5  前回と同じ場所で、カメラを縦に構えて写した写真である。不思議な存在感を放っているのはガラスのコップだ。
 ホテルニュージャパンの火災に詳しいKBさんは、このコップは奇跡的に残ったものだと説明してくれた。
「ガラスは通常1000度程度で溶けてしまいますが、ニュージャパンの火災では室内温度は1000度を超えていたとみられています。コップの後ろにあった鏡は熱で割れていまし……。そのうえ天井から、さまざまなものが落っこちてきていたはずです。1つでも当たれば床に落ちて割れていたでしょう。残った可能性として、水が満たされていたかもしれませんね。コップに蒸発した筋が見られますし…」
 木造住宅の火災でさえ800~1000度を超える高温になるといわれる。ホテルニュージャパンでは天井の内装材が熱分解してガス状になるなどの状況も報告されており、さらに高い温度だった可能性が高い。つまり通常なら溶けてしまう品なのだ。
 また、コップが置いてある陶器の棚の左端が天井からの落下物によって欠けている。
 歯でも磨いたのであろうか。残ったコップは部屋に泊っていた人のわずかな痕跡を感じさせた。熱で焼き尽くされた9階では、こうした人の息づかいの聞こえる品に出会うことさえ難しい。
 奇跡的に残ったコップは、あらためてニュージャパンの火災の恐ろしさ感じさせた。(大畑)

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2009年2月12日 (木)

ホームレス自らを語る 第22回 波乱の人生だった(前編)/千葉の健さん(62歳)

 オレの人生は結構波乱に富んでるから、話すと長くなるよ。それでもいいかい?
 生れは昭和19年で、九州は福岡博多の産。博多といえばヤクザの本場で、オレのオヤジもご多分に漏れずヤクザだった。
 オレが物心ついたころに、兄貴と2人で東京・港区にあったのオフクロの実家に預けられる。ヤクザの家というのは、四六時中、若い衆が出入りして子どもの教育によくないと、オフクロが考えたんじゃないかな。考え方のしっかりした立派なオフクロだったからね。
 そのオフクロも何年かして東京へ出て来て、オレたちといっしょに住むようになった。ヤクザのオヤジとは別れてきたんじゃないかな。その辺の事情は子どもだったから、よくわかないけどね。
 オレは地元の小・中学校を出てから蔵前工業高校に進んだが、すぐに中退した。貧乏で学費が続かなかったんだ。オフクロの実家にいつまでも、世話になっていられないだろう。いま東京タワーが建っているあたりは、その頃は戦後のバラック造りの長屋が並んでいて、そこに引っ越して暮らしていたんだ。戦後の食糧難のうえに、母子家庭で貧乏だったからひもじい生活だったね。
 高校を中退して芝(港区)にあった自動車のクラッチをつくる町工場に就職した。毎日毎日油まみれになって、部品をつくる単調な仕事でね。オレの性分には合わない仕事だったけど5年間続いたよ。
 そのうちにオフクロが解体業を営む社長の愛人になって、そのツテでオレも解体業に鞍替えして働くようになる。古いビルを解体する仕事が多かったね。10年くらいやったのかな。
 この間に女ができて、はじめ同棲し、それから結婚した。彼女は洋服のデザインから縫製、売り子まで一人でやってた子で、いい女だったよ。新居は円山町(渋谷区)のアパートで、子どもは女の子が一人できた。
 ただ、オレとカミさんの干支が申と酉で、性格から考え方までことごとく正反対なんだ。性格の不一致というやつだね。それで別れることになった。慰謝料はなし。その代わりに、子どもはオレが引き取った。うん。ちゃんと育てて嫁にやったよ。いまは幸せに暮らしているはずだ。
 オレみたいなコブつきはダメというわけさ
 離婚して、解体屋のほうもやめた。じつはその頃心臓弁膜症を患って、肉体労働はできないようになっていてね。それで新しい仕事を探しながらブラブラしていたとき、毎日のように通っていた喫茶店があったんだ。
 その店は昼時には混雑するのにランチを出していなくて、オレがランチを出せば儲かることを教えてやったんだ。すると、女主人が「ランチは出したいのだけど、うちには男手がなくて」と言うから「じゃあ、オレが手伝ってやろう」ということになった。
 オレがつくるランチは評判がよくて、一日平均で60食も出た。ただ、昼の一時にそれだけのランチをつくるのは、病みあがりのオレにはこたえたね。その分、儲かったけどね。それに喫茶店だけじゃもったいないと、夜はスナックにして稼いだ。
 その店の女性オーナーというのは、まだ20代の独身で大久保(新宿区)のアパートに住んでいたから、娘といっしょに転がり込んで同棲することになった。
 ところが、数年してその喫茶店がテナントで入っていた貸ビルが倒産してね。店を畳むことになる。そのころのオレには不動産貸借に関する法律的知識がなかったから、相手の言いなりで雀の涙のような解決金で手を打ってしまった。営業権を盾に粘れば、いくらでもむしり取れたんだけどね。
 それで女とは別れた。女の母親がきて、彼女ら親子も母子家庭で、娘はちゃんとしたかたちで嫁に出したいから、別れてくれと泣きつかれてね。つまり、オレみたいなコブつきの男はダメだというわけさ。それで別れた。
 ときにオレは28歳。そこからオレの波乱に満ちた人生が始まる。
 まず、最初に就職したのが貸金業。いわゆる町金融(マチキン)だ。募集広告には「根性のあるヤツ」とあって、面接で聞かれたのは「ケンカは強いか?」だけ、「強いです」と答えたら即採用になった。仕事は社長の運転手兼カバン持ちからやらされた。
 社長の車はサンダーバードで、アメ車の左ハンドル。そんなのを運転するのははじめてだろう。最初は怖かったよ。ただ、当時、大型のアメ車に乗っているのはヤクザと決まっていたし、ちょっとでも擦ったりすると修理代がバカ高かったからね。少々乱暴な運転をしても、周りの車のほうが避けてくれたから事故は起きなかったよ。
 社長の運転手兼カバン持ちで常にいっしょにいるわけだから、貸金業のノーハウを覚えた。カネを貸付けた債務者との駆け引き、他の同業者や登記所、金融機関とのつき合い方とかだよね。それに暇なときは法律書を読んで、金銭貸与や不動産など担保物件の扱いについての勉強を懸命にした。
 そのうちに支店をまかされて、支店長に抜擢された。支店長になったからといって、デスクにふんぞり返ってはいられないからね。町金融はヤクザの組織と同じで、支店ごとに本社に納める金額のノルマが決められている。上納金だよね。そのノルマが達成できないと、土下座して謝らなくちゃならない。それが幾日も続くと支店長を降格させられる。だから、町金融の取りたては厳しくなるわけさ。
 その後、オレは33歳で独立して、町金融の会社を興した。やるんなら社長になって、天下を取らなくちゃ意味がないからね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年2月11日 (水)

裁判員制度よりも法廷の映像配信解禁が先だ

裁判員制度の問題は裁判員に「場数」が足りない点にあると前回述べた。残虐なシーンの写真や再現は一般市民には耐え難い。したがって普段法廷でどのようなことが行われているかを広く知らせれば多少は解決するはずである。
このことを裁判所は長年怠ってきた。確かに法廷は公開だが刑事法廷へ当事者でもないのに足を運んだ市民はどれほどいるだろうか。かく申す私でさえ記者になって初めて訪れた。裁判のイメージはほとんどテレビドラマであろう。しかし実際の裁判はそれとはほど遠い。
そこで「場数」を重ねるのに有効なのが法廷の映像を配信することである。何も地上波でとはいわない。ネットのサイトやCSなどの専門チャンネルでもいい。そこで本物に触れていけば一定の「場数」になりはしないか。

歴史を振り返ると裁判所はこの提案を退け続けてきた。三権のうち国会はテレビ中継される。行政は各種公開の道が開け、閣議こそ非公開でも閣僚の記者会見や懇談がひんぱんにある。ひるがえって裁判所はどうであったか。

何しろつい先ほどまで傍聴人のメモさえ法廷警察権の拡大解釈によって認められてこなかった国である。私が記者に成り立ての頃はまだ不許可で1列目の記者席に座る記者のみが許されていた。法廷が混乱するとか静けさが保てないとか証人が動揺するなどの理屈をつけて排除してきた。1989年の最高裁大法廷判決で原則自由となるまでまかり通ってきたのである。

映像撮影に至っては事実上いまだ閉ざされているといって過言ではない。まったく認めない姿勢から転換したのは1987年だった。しかしその基準は
ⅰ)裁判官全員が着席してから開廷を宣するまでの2分以内
ⅱ)刑事被告人は在廷しない状態
ⅲ)法廷後方から裁判官席正面を映すのが原則
ⅳ)照明や録音機材は認めない
など味も素っ気もない絵しか映し得ない設定である。90年の改訂運用基準もミリ単位での変更に止まった。

すべての裁判に当てはめるのではなく裁判員がそれこそ関わって苦悩しそうな重大犯罪に限っては刑事被告人は在廷状況も含めて映像(カメラ)取材に応じるべきと日本新聞協会が東京地裁で行われるてはずだったオウム真理教の麻原彰晃被告の公判で申し入れた。しかし地裁は例の運用基準を持ち出して退けた。司法の側が市民に身近な裁判のあり方を遠ざけておいて、それを裁判員制度でいきなり招き入れるというのは横暴というしかない。
だいたい法廷内のカメラ取材は新憲法が公布された1947年からしばらくの間は認められていたのだ。GHQ占領下の51年頃まで程度の差はあれ可能だった。なるほど当時のマスコミがいくぶん過熱報道をしたとか、法廷自体が荒れたという問題もあったろう。しかし何ら立法措置を施すでもなく禁止した。50年代前半から始まったテレビ放送も当然放映できない。法廷は隠され、それは今でも続いている。まずこちらを解禁し、少なくとも裁判員が加わるような事案は映像配信を認め、国民の広い理解が一定程度みられたところで制度を導入するのが筋である(編集長)

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2009年2月10日 (火)

靖国神社/第11回 靖国神社 遊就館レポート!(上)

 靖国神社の数ある施設の中でも何かと槍玉に上げられる遊就館。
 戦争を賛美する内容の展示物が多いのは確かだが、この施設ほど堂々と兵器を飾り立て、パネルのそこここに「自衛のための戦争であった!」と断言するのを目にしていると、実際にそういう時代もあったのだという見方が出来るならば、これはこれで希少価値ある施設として日本に1つくらいあってもいいのではないかとも思えてくる。
 遊就館のコンセプト全てに諸手を挙げて賛成しているわけではない。ただ、日本が行ってきた戦争の記録は残されるべきだし、不幸にも犠牲になった人々(「英霊」は靖国語なので使わない)のことは忘れられるべきではない、というあたりのこの施設のメッセージは間違ったものではないと思う。
 とはいえ、やはり戦争賛美だ、と批判されても不思議ではない雰囲気というかテンションというか、そんなものが遊就館に満ちていることも事実だ。
 館内のある部屋では、第二次大戦中における日本軍の中国大陸侵攻の経緯を追ってゆくビデオが上映されているが、バックミュージックにはワーグナーの『マイスタージンガー序曲』が使われている。
 1868年にドイツで初演された歌劇『マイスタージンガー』自体は戦争とは縁のない話だ。それでも、曲調は聴く者をどんどん高揚させてゆくようなものなので、ビデオに「とうとう○○を陥落!」と熱っぽいナレーションが入ると、曲調とナレーションの相乗効果で観ている者の「やったぜ!!」という気持ちをあおるような内容になっている。
 このような戦争礼賛気味のビデオがいくつも流されており、高齢の人たちが熱心に映像を眺めている様子はいつものように見られる。
 さて、そんな「靖国的日本史」の記述の一部に対し、アメリカ側からNOの声が突きつけられた。靖国神社はこれに応え、年中に記述の内容の修正をすることをほぼ決定している。
 アメリカが批判したのは「ルーズベルトの大戦略」と題された展示の、以下の部分。時代は不況下のアメリカである。

「……ルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要することだった。(日本の)参戦によって、米経済は完全に復興した」

 修正では、タイトルを「ルーズベルトとアメリカの大戦参加」とし、記述から「開戦を強要」と「米経済は完全に復興」が削除される見込みだという。たしかにこの文言はすごい。これでは、米経済が日本の戦争参加によってのみ復興したように取れてしまう。
 今年7月に米駐日大使、後にアーミテージ元国務副長官が相次いで記述のような歴史観を批判、9月には米国内の下院国際関係委員会でも、委員長のハイド氏という人物が批判。
 さらに驚くのは読売新聞(06年10月7日付)によれば、神社関係者からも「客観的な内容としてふさわしくない」との声が上がっていたという。
 一方で、中国・韓国から散々批判されている「旧日本軍の行為正当化」「間違ったアジア史観の記述」といった声に対しては今のところまったく動きナシ。
 これってどうなんだろう。あからさますぎやしないか、とこっちまでヒヤヒヤしてしまう。実際に遊就館に行ってみたところ、11月21日時点では展示に変更はされていなかった。特に注目して見ている人もとりあえずはいなかった。意外と今回のような小さな部分から火が広がりそうな予感がするのだがどうか。この後の動向をチェックすることにしよう。(宮崎太郎)

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2009年2月 9日 (月)

書店の風格/第28回 ブックファースト新宿店

 昨年秋に完成したばかりの「モード学園コクーンタワー」は、ハードな鉄骨が生み出す滑らかな曲線が美しい、独特の雰囲気を持つ建物だ。クリエイティブな人物を世に送り出す専門学校の地下に、書店がある。ブックファースト新宿店は、1090坪・90万冊という広大な売場を持つ、新宿屈指の書店として生まれた。

 B1、B2、2つの階からなる。B1は雑誌をはじめとして、文芸・ノンフィクション・文庫・新書・実用書などのフロア。新宿駅西口直通の入り口から入ると、広大な雑誌フロアが眼前に広がる。入り口は女性向けのファッション誌やライフスタイル提案誌など。奥にメンズの雑誌、デザイン誌、洋雑誌が並んでいる。特筆すべきはリトルプレス(いわゆるミニコミ誌)とバックナンバーのコーナーで、リトルプレスはじつに100タイトル程度を揃えている。特に旅をテーマとした雑誌は豊富で、ほぼ手作りで作る本の運命(早めの風化)をすこしでも遅らせるために、見本誌以外は袋をかけているのも素晴らしい。それはバックナンバーコーナーにも言えることで、かなり過去のものまで揃えており、ただならぬこだわりを感じさせる品揃えだ。

 更に奥に進むと「実用提案棚」というものがある。何を意味するのかと見てみると、衣服の作り方・オシャレで本格的な料理のレシピ本・簡単な雑貨の手作りを薦める本などなど、生活に関するものを自分で作ってゆくライフスタイルを提案する本の棚である。柔らかで気品あるデザインに薄く贅沢な装丁と、女性の好みをつかんでいる本たちの集合体。実用書のなかで、とうとうこのジャンルが一歩抜け出したのかと、一種の感慨すら覚える。
 そして文庫棚は、POPの嵐だ。面で置かれている文庫棚に飾られたPOPは32枚。ラミネート加工のうえでのハサミ処理で、一枚ずつの手作りであることがわかる。32枚ってそんなにインパクトのある数字ではないから、読者の皆様にはピンと来ないかもしれない。しかし読み込まなければ書けない文章が掲載されての32枚。二週間後、いやもしかしたら一週間後にはその文庫がその位置にはもうないかもしれない、それが大手書店の事情だ。その事情を踏まえた上での32枚。担当者の意気が伝わってくる。

 同階には既存の分類にとらわれることのないテーマで区切られている棚が多く、その意味でも大いに楽しめる。「映画・ドラマ原作棚」、「サブカル研究者棚」などは、普通の書店ではまず見ない。見たとしてもフェア棚の一環としてである。常設の棚であるのが面白い。
 フェア棚もプラスチックプレートで「フェア」と名づけられているものは他の書店ではめったに見かけないだろう。今のフェア棚で注目したいのは、宝塚関係の本を集めたコーナー。「手作りの家」に特化した本を集めたコーナー。どちらも、企画者ののびのびとした感性を感じることができる。

B2はビジネス書と社会・人文書のフロアだ。ぐっと落ち着いた雰囲気になる。労働問題、倒産法、新しい生き方……今の世相をダイレクトに反応した本がこれでもかと並んでいる。いつか、明るい前向きな本ばかりが並ぶ日が来るだろうか。これから春になるけれど、棚の暗い印象は変わる気配がない。ガンバレ、資格・試験棚!!(奥山)

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2009年2月 8日 (日)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第26回 浴室に残る高級ホテルの名残り

20a_6  浴室の写真だ。まず目にはいるのは割れた洗面ボウルだろう。よく見ると残っているボウルにも大きな亀裂がはしっている。
 この破壊の原因を推測させるのが、写真の右端に写っているバスタブ用の蛇口だ。壁に黒く残っている筋は水の跡。蛇口の中に入っているパッキングが熱で溶け、屋上の貯水タンクが空になるまで水が漏れ続けたのだろう。
 同じことが洗面台でも起こった。熱せられた洗面ボウルに水が噴き出し、いきなり冷やされた陶器が爆発的に割れたと推測される。よく見ると洗面ボウルを支えていた鋳鉄製のアングルも根元に近い部分でポッキリと折れている。その破壊の衝撃のすごさが、こんなところにも表れている。
 意外なのは浴槽が原形をとどめていることだ。プラスチック製のポリバスなら溶けてしまっているはずで、金属の表面にガラス製のうわ薬をつけて焼き上げたホーローの浴槽だったのだろう。オープン当初は高級ホテルとして内装にもこだわっていたことが、こうした備品からもわかる。
 そうした高級ホテルの「名残り」をホテルニュージャパンの建築に詳しいKBさんが教えてくれた。
「洗面の左上に丸い出っ張りがあるのがわかりますか。これはウォータークーラーの跡です。ニュージャパンのウォータークーラーは、現在主流となっている自立式ではありませんでした。中央に冷却装置を設置し、殺菌・冷却した飲料水をポンプで循環させ全館に供給していたのです。洗面台の蛇口とは別に、専用の配管から冷水が専用蛇口からグラスに注ぐシステムでした。冷水栓と呼ばれていたんですよ。焼け跡の写真では、その専用蛇口を撤去し、穴を塞ぐための化粧プラグがはめ込まれています」
 各部屋にウォータークーラーが付いていたのだから豪勢な話だ。おそらく経費削減の中で消えていったのだろう。そうした経費削減が、結局33人の命を奪ったのである。(大畑)

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『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2009年2月 6日 (金)

ロシアの横暴/第10回 大学科目の80%以上がマルクス関連!?(下)

 ところで、ソ連には異色の大学があった。ルムンバ大学とマルクス・レーニン大学である。ルムンバ大学は主にソ連友好国のエリートたちがモスクワでロシア語と社会主義を学び、故国の発展を担う人材を育てることになっていた。日本からも旧社会党関連で留学していた人がいるようだ。マルクス・レーニン大学はその名の通り、マルクス・レーニン主義を学ぶ大学である。こちらは共産党幹部の子弟で、どちらかといえば「あんまり学問は得意でない」者が入学する。共産党幹部のご子息がまさか11年の基礎教育だけで終わるわけにもいかず、さりとて大学には入れそうにない、入りたくない「ぼくちゃん」たちの受け皿大学であった。学問はあんまり好きでもないのにとりあえず大卒エリートとして扱われる。といっても人材としては使い道がないので、高給「マドギワ」となる。ちなみにペレストロイカにはじまるソ連ロシアの改革劇のなかで、良きにつけ悪しきにつけ活躍した人物の中にマルクス・レーニン大学卒業者はいない。
 テレビでまことしやかに「80%は・・」としゃべっていた女性はおそらくここの大学出身だろう。もっとも悪意はなく、ほんとうに自国ソ連の大学教育カリキュラムすら知らない、おめでたい人である。
 ロシアは共産主義を打倒したから当然のことながらこの大学は現存しない。
 かわりに国立大学のほとんどが、ソ連同様崩壊し、マルクス・レーニン大学化している。共産党幹部の子息ならだれでも入れたように、金さえ払えばだれでも大学に入れる。出来の悪い学生は有料の特別授業をふっかけて金をせびる教員たちの上得意となる。もちろん単位取得も金次第だ。少し前までは試験成績が優秀ならば授業料無料枠にに入れたが(他の国にはあんまり例がない変わった制度である)、最近ではどんなに優秀でも賄賂を払わなければ大学には入れないようになってきている。
 こうして大学を終えた者が社会に出たとき自分の学力の低さをだれのせいにするだろう。世界的な経済恐慌になりそうな今、ロシアを見限って投資を引き上げた西側諸国のせいにしそうな気がする。「ロシアが混沌としていた時に見捨てた西側」と。ソ連を解体したエリツィンやプーチンがやり玉にあがる可能性もなきにしもあらずだが、勉強を怠けた自分自身に矛先を向ける日は来そうにない。
 なにか問題について「客観的にものごとをみて総合的に判断する」マルクス・レーニンの教えは正しいと思うが、どこかで配線をまちがえたようだ。結果、なんでも他人のせいにする、原因をほかに求めるソ連式ものの見方考え方は、ソ連が崩壊しても途切れることなく今も続いている。(川上なつ)

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2009年2月 5日 (木)

ホームレス自らを語る 第21回 ここは子どもの頃の遊び場だった/Cさん(72歳)

 オレが生れたのは、この先の豊島区だったから、いまいるこの辺りは(北区・音無親水公園)子どもの頃の遊び場だったんだ。都電の通りを挟んで向こうに飛鳥山公園があって、こっちには石神井川(いまの親水公園辺り)が流れ、王子稲荷もあって、遊び場には事欠かなかったからね。
 いまそこでホームレスをしているわけさ。もう10年にもなるよ。
 生れは昭和9年。豊島区立豊川国民学校に入学して、小学3年のときに学童集団疎開で前橋市(群馬県)に疎開した。お寺に寝泊りしながら、地元の小学校に通ったんだ。
 ホームシックになんかなっている暇はなかったね。食糧不足がひどくて、飯はスイトンか中身のない雑炊ばかりでさ。年がら年中腹を空かせていて、ひもじくてホームシックどころじゃなかったよ。
 あんまり腹が空くんで、夜仲間と畑に野菜泥棒に行ったこともある。サツマイモが一番美味かったね。あれは生で食べても甘いし、腹にたまるからね。
 それから軍隊の乾パンを盗みに入ったこともある。疎開先で通っていた小学校の空き教室に、陸軍の部隊が駐屯していて、仲間とその食科庫に忍び込んで、乾パンを盗み出そうとしたのさ。そしたら不寝番の兵隊に見つかって、こっぴどく脂を搾られたよ。
 ただ、その不寝番の兵隊は、事件を表沙汰にしないでくれた。小学3年生のチビッ子たちが、軍隊の食料庫に忍び込むなんて、よほどひもじかったということだからね。同情してくれたんだろう。そういうやさしい兵隊さんもいたんだ。
 学童疎開に行って、1年ちょっとで終戦になって、東京に帰ってきた。その東京の大部分が焼け野原になっていたんでびっくりしたよ。東京大空襲のことは知らされていなかったからね。オレの家も焼けていた。ただ、両親はじめ家族は全員無事だった。オヤジが大手の化学メーカーで働いていたから、その関係か住居は周りより早く再建できた気がする。
 オレは中学を出て、塗装業の親方のもとに弟子入りした。まあ、ペンキ屋だね。ところが、朝鮮戦争の始まる前の年で、大不況の真っ只中で仕事がなくてね。弟子入りして、1年もしないうち倒産というか、解散になって放っぽり出されちまった。
 それからはいろいろやったよ。靴屋の店員からはじまって、木工所とか、印刷工場とか、30くらいの仕事に就いたんじゃないかな。そのうちに電気工事の会社で配電工になった。新築のビルに電線ケーブルを敷設するのが仕事で、この仕事だけは何年か長くつづいたよ。
 結婚はしなかった。面倒臭かったということもあるけど、配電工は各地の工事現場を渡り歩いて飯場暮らしをする稼業だろう。女の人と知り合うチャンスがなかったからね。
 稼いだカネは酒とギャンブルに消えちまったね。毎日仕事が終わると、仲間と誘い合って飯場の近くのスナックに繰り出して、浴びるように飲んだからね。スナックで飲むと割高なんだが、みんなが行くのにオレ一人だけ安い居酒屋で飲むってわけにはいかないからね。
 キャンブルは競艇が多かった。たまに当たって取ることもあったが、トータルすると大損してるよね。これも仲間に誘われて行くことが多かったけど、オレ自身が酒もギャンブルも嫌いじゃなかったからね。
 配電工の仕事ではあちこちの現場に行ったよ。どこの町だったが忘れたが、北のほうの原子力発電所のケーブル敷設をしたこともあるし、上野の博物館の工事をしたこともある。ところが、その電気会社の社長が病気で亡くなってしまってね。あとを継ぐのがいなくて倒産だ。
 それで路頭に迷うことになって、この親水公園に来て暮らすようになった。この辺は子どもの頃の遊び場で、周りの様子をよく知っているからね。ただ、ここにいるホームレスはオレも含めて4人だけだから、ボランティアなどの援助がないから、食べるものを確保するのが大変だね。
 仲間たちと協力して分けあったり、上野の炊き出しに行ったりして、何とか食べている。
 じつは、オレの姉が千葉に嫁に行っていて、もうダンナも亡くなり、甥も、姪も独立して、一人で暮らしているからいっしょに住まないかと誘われているんだ。だけど、この歳になっておめおめと世話になるために寄せてもらうのも、辛いものがあるからな。なかなか踏ん切りがつかないんだ。姉に迷惑をかけたくないからね。そんなくらいならいまのままのほうが、面倒臭くなくていいやと思っちゃうんだね。
 現金収入は以前はダフ屋の依頼で、巨人戦なんかの前売りチケット購入の列に並ぶ「並び」というバイトがあったが、警察がやかましくなったのと、肝心の巨人戦の人気がなくなってチケットが売れなくなったからね。このバイトもいまはなくなっちまったね。
 いまはこの先の商店街のオヤジさんたちの幾人かにたのまれて、競馬の馬券を水道橋の場外馬券売り場まで買いに行ってやっている。バイトじゃあないよ。その日全員が赤字だと、オレもただ働きになる。誰かが穴でも取って黒字になると、そのうちから謝礼がもらえるという仕組みだ。だから、あまりいい収入にはなってないね(笑)。
 この歳だから、生活保護を受けられるんだ。以前、実際に受けたこともある。だけど、狭いアパートに幾人も押し込められて、早々に逃げ出してきた。こうやって勝手知ったところで、気ままにやっているほうがいいよ。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年2月 4日 (水)

東京・江東区OL殺人事件と裁判員制度

06年4月、当時23歳の女性を殺害し、さらに遺体も切断したとして殺人などの罪に問われた星島貴徳被告(34)の論告求刑公判が26日に開かれ検察が被告に死刑を求刑した。それに先立つ集中審理における被告人質問(検察側)で遺体切断場面を再現した画像が廷内で映されて傍聴席にいた遺族がショックから泣いて退廷したという(http://www.asahi.com/national/update/0114/TKY200901140314.html
この事件は残虐な遺体写真などを裁判員が証拠として直視しなければならない裁判員制度の問題の一端を浮かび上がらせた。
事件事故で損傷した遺体を見るのは一般市民には実につらい。自身の体験でそれを痛感している。

今はどうか知らないが私が記者になった頃はほぼ例外なくサツ回り(新人)記者が警察から受ける「洗礼」があった。事件性の薄い変死体のある現場をわざと見せるのである。「ついてくるか」と誘われて断るような憶病者ではいけないから行く。するとそこには死後1ヶ月はたったと思われる黒こげのような死体(後に病死と判明)があった。すでに扉を開けた瞬間にハエの大群が雲のようにウワンと襲いかかってきていて怖じ気づいたのを必死に隠して遺体を見る。その様子の詳細はとても文章に書けない。またにおいもすごい。「酸鼻」というのはこのことかと思い知らされる。いつまでたっても消えない残像とにおい。堪りかねて検死官の経験のあった回り先の副署長へ相談した次第である。
列車への飛び込み自殺現場の取材も閉口した。私の知り合いの記者はこれに出会った後に頭がクラクラして自動車の運転もおぼつかなくなったという。
そうした状況から「成長」するのはひとえにプロ意識と場数であろう。場数を踏めば慣れはしなくても衝撃で飛んでしまうようではなくなる。そこに「お前は記者だ。冷静に現場を取材しなければならない」というプロ意識があって初めて一人前の事件記者になるらしい。「らしい」と書いたは私自身が一人前でないからだ。
新聞社を辞めた後も取材活動はずっと続けてきた。なかでも遺体解剖実習の取材は勇気がいった。前述の「お前は記者だ。冷静に現場を取材しなければならない」を言い聞かせ、そのモードに入ってからエイと飛び込んだものである。

遺体そのものではなく写真ならば大丈夫かというととんでもない。よく警察本部の交通部の警察官から事故現場の写真を見せられた。それはそれは悲惨なもので最初はやはりつらかった。裁判の証拠写真も同様の経験がある。私だけがナイーブというわけでもなく先輩も同期も同じような感想を述べていた。

その感情は警察官や検察官、裁判官にはないのかというとあるようだ。いつか地検と飲んだ際に「これが仕事だという構えがないと耐えられないものだよ」と捜査検事がこぼしたことがある。やはり経験とプロ意識が耐えさせているのだろう。遺体を見て平気だったり好ましく感じるのは異常である。職業柄それに触れざるを得ない者はその「モード」になれるから耐えられる。モードへ入るには前述のように場数を踏まねばならない。
ところで裁判員には「市民の感覚を法廷で反映する」のが求められている。ということは一般市民の感覚でなければならない。言い換えれば「プロ意識」であってはならない。だとしたら途方もなくつらい審理になるのは間違いない。対処としては「裁判員というプロ意識を学び、持ちつつも市民(アマチュア)の感覚を大切にする」手立てを講じるしかない。不可能とまでは言わないものの相当ていねいな準備やケアが必要な難しい手立てである。それがほとんど整えられないまま制度を開始するのはあまりに乱暴である。
この手立てが仮にできたとしても再三にわたり書いたように「場数」の方が足りないという問題もある。この点で裁判所は過去むしろ裁判の存在を市民から遠ざける措置を取ってきたとの「前科」がある。それについては次週に述べたい(編集長)

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2009年2月 3日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/車掌の休日、とある昼下がり

○月×日
 ラブソングでも聴いて暖まろうか。
 寒い日は着膨れで雪ダルマのよう。外に出るのも億劫になる。だから家の中にいる時間が長くなる。1人でいるとすることがなくなる。活字はもういい。テレビもつまらない。家事も済んだ。昼間からサケなど飲んでいられない。ツ~カレた。
 こんな時は何気なく音楽を聴く。今日はラブソングだ。
 別に恋をしているわけではないが、すっかりしょぼくれたオヤジになってしまった今でも、心に染みてたまらなくなる歌。胸がえぐられてやるせなくなる歌。甘くて切ない、そんな狂おしい気持ちを代弁してくれる歌。あの頃を思い出して、思わず目頭が熱くなるような歌。
 ふと思った。おれにとってこれだというラブソングは何んなんだろうかと。名曲を挙げれば切りがない。こうして構えるとなかなか浮かんでこない。そこで普段家で掛ける歌。ふいに口ずさんでしまっているような歌をまず。

 「サルビアの花」早川義夫。(♪僕の愛の方がステキなのに)。この人の素直さがドラマチックなのだ。
 「スローバラード」RCサクセション。(♪カーラジオからスローバラード)。清志郎のかっこ悪さがスゴクかっこいい。
 「君が好き」ミスターチルドレン。(♪これ以上の意味はなくたっていい)。桜井は屈指のメロディメーカーだと思う。
 「I LOVE YOU」尾崎豊。(♪何もかも許された恋じゃないから)。尾崎は男が惚れてもおかしくない男、かも。
 「百」乙三(オッサン)。(♪働いて働いて会えない週末は辛い)。グッときた最近のバンド。パワーは絶大。

 と、とりあえず今思いついた邦楽だけを並べてみたが、どんなものか。

 ま、季節が変われば他の歌だったりするわけだが、サウンドやリズムやらの音楽性は時代と共に変化するものの、人の心情は今も昔も普遍なのだとつくづく思った。
 それにしても、人を好きになると(ならなくても)どうしても様々な音楽と自分とが重なってしまうのだ。でも、万人に共通した思いがあるからこそ受け入れられたりヒットしたりするのだろう。
 それは、あらゆる文化や芸術にもいえることだが、何も強制されるべきものではない。人それぞれの人生があっていいのだから、音楽に関していえば耳障りでない好きなものを聴いていればいいのだ。
 心に響くラブソング。胸が打たれるラブソング。いい、いい。暖かく、弛緩した、もどかしく、やわらかい、冷たく、乱れた、打ちのめされる、そんなラブソング。
 要は、いいものにはそれなりに惹きつけられるものがある。素晴らしいものは、熱狂の中でも静まり返って黙る一瞬があるのではないか。コンサートでも息を呑むとか曲が終わって拍手が沸き起こる瞬間がそれだろう。
 寛容な心を持ち、いつも穏やかに過ごし接していこうと思ってやってきた。しかし、どれをとっても私は失格だったような気がする。
 今でも前述のような歌を聴いているなんて、小僧なのかな。ちっとも大人になれない。でも、オヤジにはなっている。どうしようもないオヤジだけどね。(斎藤典雄)

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2009年2月 2日 (月)

●ホームレス自らを語る 第20回 母子家庭で育った/T.Gさん(62歳)

0902  私が生まれたのは昭和22(1947)年1月で、静岡県の沼津市でした。今年62歳です。私が生まれて間もなく、父親が胃ガンで亡くなり、私は母一人、子一人の母子家庭で育ちました。ですから、父親の顔は知りません。
 まだ終戦後の混乱が収まらない時期に、女手一つで私を育てあげた母親の苦労は、並大抵ではなかったようです。朝は暗いうちから出かけて行って、漁港の水揚げや魚市場の仕事を手伝い、それから水産加工工場で働き、そのあと家に帰って畑仕事をするという具合で、夜暗くなるまで働いていました。
 母親がそれだけ働いても、生活は貧しかったですね。ただね。どんなにカネがなくて苦しいときでも、生活保護を受けたことはないし、私が小中学校に通う費用の補助を受けたこともありません。それに私に新聞配達や牛乳配達をやって、家計を助けてくれと言ってきたこともありません。母親のプライドというか、意地だったんでしょうね。その代わり、贅沢なことは何一つできませんでした。
 私は中学を卒業して、沼津市内の工場に就職しました。東京へ出たいとも思いましたが、母親を一人で残して、私だけ沼津を離れるわけにもいきませんでしたからね。私が就職したのは音響メーカーT社の下請工場で、T社ブランドのテレコ用カセットテープを専門につくっていました。
 こんなふうに言うと、小奇麗でスマートな工場を想像されるかもしれませんが、小汚い町工場で、従業員も社長の家族3人を含めて全部で11人でした。給料も休業した日数分の日当を引かれる日給月給という制度で、社会、健康、失業(雇用)、労災などの保険は一切なしです。工場というより、家内工業というか、個人商店のようなものでしたね。
 私の仕事はカセットのカバーケースの組立てで、金型で成形されたプラスチックの箱と蓋を組立てるというものでした。それを40年近くずっとやってきたんです。

 私が働くようになって、家の暮し向きも多少は余裕ができたとは思いますが、貧乏暮らしは相変わらずでした。とにかく、私がもらってくる給科は、とんでもなく安かったですからね。経済的に余裕のない毎日で、母親を温泉旅行に連れていくとか、親孝行らしいことは何一つやってやれませんでした。
 結婚もしなかったです。私には女房と子どもを養っていく甲斐性がありませんでした。それに生まれてくる子どもに、私と同じみじめな思いはさせたくないという気持ちもありました。同じ工場で働いていた男の従業員には、結婚していない人が多かったですよ。あの安い給料で家庭をもつのは無理でしたね。
 1990年代後半になって、カセットテープの需要が落ち込むようになります。別の録音素材で、しかも高音質なものが続々と発売されるようになったからです。その需要の落ち込みを理由にして、T社からの発注がスットプされてしまいました。おそらく、国内下請けより人件費の安い、中国や東南アジアのほうに発注先を代えたんでしょうね。
 で、うちの工場はT社1社だけの受注でやっていましたから、その発注がストップになるとお手上げです。倒産というか、解散というか、奇妙なかたちで工場の操業は中止になってしまいました。私ら従業員も補償らしいものもなく解雇されました。ちょうど10年前、私が52歳のときのことですね。
 工場の閉鎖と時を同じくするようにして、母親が亡くなりました。脳内出血を起こし、身体を痙攣させながら崩れるように倒れて、あっけなく息を引き取ってしまったんです。脳卒中でした。76か、77歳だったと思います。
 人生何一ついいことがなくて、ただ苦労するために生きてきたような母親でした。親孝行らしいことを何もしてないうちに逝かれちゃって……といっても、母親が長生きをしても、私が親孝行らしいことを何かしてあげられたのかは疑問ですけどね。
 それからは母親のいなくなった家に一人で住みながら、日雇いの仕事で働きました。その頃の私は、もう50歳を超えていましたから、沼津のような田舎でも、仕事はなかなか回してもらえなくて生活はカツカツでした。食べるものが何もないなんて日もありました。
 60歳をすぎたら、なおさら仕事は少なくなって、とても食べていかれなくなりました。それで、東京に出れば、少しは仕事もあるだろうと思って、去年の夏にノコノコと出てきたんです。でも、事情は東京も同じでした。60をすぎた者が仕事にありつこうなんて無理な話でした。東京に出てきて6ヵ月になりますが、まだ一日も働いていません。
 暮から正月にかけて、日比谷公園(千代田区)に「派遣村」ができたでしょう。我々ホームレスも、彼ら派遣社員の雇い止めも、同じ仕事あぶれ組なのに、派遣村のほうはマスコミの報道がすごいし、市民からのカンパも多いらしいですよね。NPOや国の保護も手厚くて、夜は暖かい部屋でフカフカの布団に寝られるんですからね。
 私ら寒い冬空の下で、うっかり眠ったら凍え死んでしまうから、一晩中歩き回っているんですよ。今年の冬は特に寒くて、夜の冷え込み方は半端じゃありません。そのなかを宛てもなく、ただひたすら歩き回っているんですからね。私たちだって仕事がほしいし、働きたいですよ。
 派遣の人たちのことを、妬んで言ってるんじゃありませんよ。彼らが手厚く保護されるのは、それはそれで大変結構なことですからね。ただ、我々ホームレスも厳しい状態で暮らしていることを、忘れないでほしいと思いましてね。(聞き手:神戸幸夫)

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朝青龍のガッツポーズは品格を欠くのか

最初にお断りしておく。柔道や剣道、もちろん相撲も含めて日本で武道といわれている競技に「礼に終わる」が重要で、そうした競技を通してそうした学びを得て日々の活動へ生かしている方々にとって朝青龍の行いを憤るのは当然だ。気高い信念と尊敬する。したがって以下の記事はそうした方々を貶める目的はない。と前置きしても怒られたとしたら筆者の拙さによるものである。あらかじめお詫びをした上で始めたい。

私が疑っているのは上記のような確たる信念に基づかず、外国人でありながら「国技」を席巻する朝青龍に対して島国根性をぶつける手段として「礼に終わる」作法を持ち出している人が少なからずいるのではないかという点だ。
そもそもガッツポーズなる英語は英米には存在しない。和製英語というより日本で生み出されたスタイルへカタカナをあてはめただけではないか。あのように両手をUまたはVの字に突き上げる勝利のスタイルを私が知る範囲での欧米で見たことがない。さまざまな説があるものの「ガッツポーズ」は日本人の発明であるのは疑いないのではないか。もし違ったら私の寡聞である。ご指摘いただきたい。
以前に日本の球団に在籍した元メジャーリーガーに取材した話である。彼によると「ガッツポーズ」ができるのは日本だけ。アメリカで殊勲の本塁打を打ったとしてもあのような姿をするなどあり得ない。やったらブーイングではすまない。次の打席で投手から報復されても仕方ない失礼な行為であると。もしこれが普遍的ならば朝青龍のガッツポーズは日本で発明された日本風の歓びの発露である、となる。
それはそれとして武道の世界だけは許されないという反論もあろう。しかしおそらく同じ武道のカテゴリーに入る柔道ではしばしばみられるという点はどう考えればいいのか。北京オリンピックでの石井慧選手の振る舞いも品格に欠けたのであろうか。なるほど石井選手は毀誉褒貶がある。では1984年のロス五輪における山下泰裕選手はどうだ。一本勝ちで優勝した直後に彼が見せたのは明らかに「ガッツポーズ」だった。しかし、これまた私が知る限り、この山下のポーズは「あの山下にしてよほどうれしかったのだなあ」とおおむね好意的だった。

要するに日本人が日の丸を背負って臨む国際大会ならば武道でも優勝の瞬間に「ガッツポーズ」をしても許される。しかし外国人が日本の武道でするのは許せない……となると明らかな二重基準である。

朝青龍は外国人だ。同じモンゴル出身の横綱白鵬は相撲界とゆかりが深い有力者(日本人)の娘をめとっている。大相撲では引退後の指導者を日本国籍取得者に限っており白鵬の所属する宮城野部屋は一悶着あって現在の宮城野親方に求心力が感じられず部屋付きの熊ヶ谷親方が彼の事実上の師匠だ。その熊ヶ谷親方も50代だから白鵬が日本国籍を得て部屋を継承する可能性は高いと見られている。同じモンゴルの旭天鵬が日本国籍を得て師匠大島親方の養子となったように。日本人はおおむねこうした傾向を好ましいと感じる。

しかし朝青龍は違う。モンゴル人女性と結婚し、ひんぱんにモンゴルへ帰る。自分の国に帰って何が悪いといった旨の発言もしている。このままでは親方株の取得はおろか、現役名のまま5年間年寄として協会に残れる制度さえ利用できない。さらに優勝回数すでに23回の彼は一代年寄を贈られても実績としてはおかしくない。それもモンゴル国籍のままでは無理である。少なくとも朝青龍のこれまでの言動から引退後も指導者として(つまり日本人として)わが国に残る気はなさそうだ。文字通りの「出稼ぎ」である。外国人の「出稼ぎ」が日本の「国技」で勝ちまくる図が不愉快で、それがガッツポーズに代表される「品格」問題として生じているとするならば、それはゆがんだ形の島国根性の表出ではあるまいか。

「自分の国に帰って何が悪い」もしばしば問題になる。手続き上の不備を責められるのは仕方ない。しかし本質的にモンゴル人がオフシーズン(もちろん巡業は除く)に母国へ帰るのは別段変ではない。例えば大リーグのイチロー選手はオフの調整を日本で行う。これをおかしいという日本人はほとんどいない。

逆境という意味で09年初場所の朝青龍は、けがを抱えて試合に臨み、決勝でそのけがの部分を攻めなかった相手の姿勢にも助けられて優勝した上記山下選手と優るとも劣らなかったであろう。しかし山下選手のガッツポーズを非難する声はほとんどなく、決勝相手の姿勢(けが部分を攻めない)を責める人もほぼなく、逆に称賛さえなされた。彼我の違いに違和感を抱くのは間違っているのだろうか(編集長)

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2009年2月 1日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第30回 棺だけで自力葬(前編)

 人の入っていない状態を「棺」といい、人が入ると「柩」という。音は同じで字だけが違う。ただのデカい木箱という乱暴な言い方もできてしまうわけだけど、あなたも私もいつかはお世話になる代物だ。儀式をするかどうかは個人の自由。運ぶのも自分の車でよい。となれば火葬をする日本においては、棺こそが葬送において唯一必要最小限のものとも言える。どんなに節約葬儀をしても、棺だけは用意しなければならないのだ。今回は、棺のみを買う場合、どの程度の値段になるのかを紹介したいと思う。

 ただ、訂正点がひとつある。「葬送において、棺だけは必要不可欠である」との物言いをしたが、これが間違っている。火葬において、棺を使用しなければならないという決まりはない(各斎場において規制がある場合は別)。極端な話、布団にごろり横になった遺体を炉に入れることも可能なのだ。しかし、それを知ったからといって棺を使わない人がいるとは到底思えない。そんな勇気、私にもない。「火葬の際には棺に入れること」と定めている火葬場が大半だし。

 さて、本題だ。以前触れたように、中国産のものだと棺の原価は約8000円から9000円である(仕入れ個数などにもよる。私が以前いた職場だと、120個ずつ仕入れて9000円だった)。これが5倍から20倍の値に跳ね上がるのだが、白木で飾りのない一番シンプルな型なら60000円台~90000円台が相場。中には40000円台という代物もある。9000円で売ってくれるところもあると小耳に挟み、関係者に話を聞いたところ、「去年まではやってたんですけどね~、今はもうやってないんですよ」という対応だった。ある自治体の斎場だ。状況に応じて値段を変えるのではないかな、と、ふと思った。あくまで推測だが。40000円台だと完全に棺のみというところが多い。でもそれだけでは困るじゃないか。普通、布団をしいた棺に眠ってもらうじゃないか。その上にはまた布団をかけるじゃないか、そしてそうなるからには、枕も欲しいじゃないか。

 棺に敷く布団は薄い。枕はダンボール製である。稀に「ダンボールの枕なんかに寝せやがって」と逆上する遺族がいるが、あくまで燃えやすいように作ってある。これを棺とセットにすると、料金が1万円から2万円アップする。…これだけならいいのだが、なんとなく腑に落ちないのは、セットに例外なく白装束もついてくる点だ。仏衣、杖、手甲に脚絆など、要するに「あの世への旅路」に必要な身支度をするためのセットなのだが、もちろん仏式または神式でしか使わない。わざわざ棺のみを取り寄せる人が、古式にのっとった仏式葬儀をするとは思えず、蛇足のような気がしないでもない。オプションにしてしまえばいいのに。

 インターネットでも棺の販売はあり、シンプルな桐の八分棺から布張り、天然檜の5面彫刻まで百花繚乱。エコに反応してダンボール棺もある(木のものに比べて少し割高に感じる)。価格は本当にピンきりで、300万から400万、という代物もあるのだが、「入ったらすぐに燃やしてしまう」がキホンの日本ではなかなか売れない。飾り物のない桐の棺が主流である。儀式めいたものをしないぶん、棺だけは豪華にしてあげようという家族もいる。それは人それぞれだ。

 本当に「自分たちだけで葬儀をしたい」、そう思うのであれば、棺だけ取り寄せるのが最もよいといえる。しかしそこには落とし穴が。遺体は腐る、ということだ。遺体の取り扱いがわからずに、とりあえず葬儀屋に任せてしまうという弱気に陥らないためにも、遺体はどう扱ったら腐りにくいかということを知っておくのは損にあたらないと思う。ドライアイスや手続きのための副読本を不次と一緒に届けてくれるサービスもあるし、これからは新生児同様ご遺体も自分で扱う時代にしたい。次回は、遺体の衛生保全について基礎的な知識をちょっとご紹介したい。(小松)

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