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2009年1月

2009年1月31日 (土)

ロシアの横暴/第9回 大学科目の80%以上がマルクス関連!?(上)

 15年以上も前のある日のこと、ロシア関連のテレビ番組を観ていた。
「ソ連時代、大学や専門学校など高等教育プログラムは80%がマルクス・レーニン主義に関する科目でした。ほんとうに無駄なことに時間をつぶしてきたものです。だからロシアは経済改革をうまく進められないでいるのです。経済やビジネスに関する科目をもっとやるべきでした。愚かな政治に国民はふりまわされました。ロシアが混乱しているのは国民が悪いのではありません。政治が悪かったのです」と、いくらか訛はあるが流ちょうな日本語で若いロシア人女性がしゃべっていた。そうとう昔のことなのでセリフは正確に覚えていないが大意はこんなところである。
 そのころはソ連がマルクス・レーニン主義と決別したというので世界中が浮かれていた。日本のマスコミも御多分に漏れず、「ソ連時代はいかにひどかったか」といったテーマで番組を作るのがはやっていた時期である。特にテレビは現地人(つまりロシア人)を出演させ、「ソ連の真実の姿」がかつて自分たちの覗き見から推察し、流してきたとおりだったことを強調したかったようだ。アフガニスタンの女性がスカーフを脱いだ写真を大きく掲げて、いかにタリバンがひどかったか、いかに女性たちが自由になったか、とバカ騒ぎしたのと同じである。
 大学の科目の80%以上がマルクスレーニン関連だ、とロシア人が語ったら、みんな本気にするじゃないか!
 日本人はソ連やロシアについてほとんど知らないからこの番組を観た人は「ソ連はなんて愚かなんだ!」と思ったことだろう。放送局とて視聴者をだまそうと思って企画したのではなく、いかにソ連がひどい状態にあって国民が苦しんできたかを心優しい日本の視聴者に伝えようとしたのだとは思うが、呆れた番組であった。
 あるロシア人医師(この人は日本の医科大学を卒業して開業している)のところにはロシア政府高官などが治療に来るが、看護士がわりに医師が同行してくることがある。ロシアでは医学の基礎理論はしっかりしているのに同行してくる医師たちはおしなべて力量が低い。そして「僕らの青春時代は共産主義下でろくな教育がなされなかった」と自分の力量のなさを嘆くそうだ。自分が勉強しなかったからだとは思いつかないらしい。

 ソ連の教育プログラムについては知らない人が多いと思う。優秀な科学者を多数輩出しているからきっと高度なんだろうというところか。
 では実際にはどうか。ソ連が崩壊して久しいから、教育課程も変貌している可能性があるが、大筋は変わっていないはずだ。
 ソ連時代の教育は、レーニンの教え「学べ、学べ、そして学べ」に従って強力に押し進められた。だからアッという間に広大なロシアの文盲を一掃してしまったのだ。
 義務教育は11年制で、就学前の1年間は「就学前準備教育」として読み書きを教えるので実質12年制ともいえる。11年のうちの9年が義務教育で最後の2年は制度上は選択となっている。しかし日本の高等学校同様、ほとんどが11年生まで進む。
 11年を修了すると上級学校に進むか就職するかだが、この上級学校が冒頭に登場した「80%はマルクス・レーニン主義関連科目の」大学・専門学校である。上級学校もすべて国立で、特に大学ははじめの2年間は一般教養、その後に専門科目になる。学業成績がふるわないと、奨学金停止や退学などしかるべき措置が情け容赦なくとられる。一部共産党幹部や工場長子息には甘いという噂もあるが、それも限度問題である。
 大学を卒業すると、はじめの2年間は国家が決める赴任地(といっても強制ではなく、いくつかの選択肢が提案される)で就労しなければならない。なぜかというと大学の授業料・奨学金はすべて国家が払っているからである。
 さて、話をもとに戻して、ソ連の大学の履修科目の80%がマルクス・レーニン関係科目だったかといえばそれは全くのデタラメである。専門科目がどんなに優秀でも、マルクス・レーニン主義関連科目を落とすと卒業できない、いわゆる必修科目に指定されているだけのことだ。日本の大学でも「体力づくり」と称して体育が必須になっている。ただし全履修科目の80%ではなく5%程度である。その点も日本の体育必修制度と似ている。
 こうしたソ連のきっちりとした高等教育システムに従ってプーチン首相もメドベージェフ大統領も国立レニングラード大学の法学部に学んだ。プーチンはKGBに入り、得意のドイツ語を活かして東ドイツに赴任した。メドベージェフは弁護士になって国家に貢献した。どちらにしても履修科目の80%はマルクス・レーニン関連科目では到底及ばない職業である。<つづく>(川上なつ)

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2009年1月30日 (金)

靖国神社/第10回 靖国神社 靖国の商売人たち(下)

 神門の下で、両脇に対をなすようにして写真屋が店を出している。各1人づつ、男性と女性が閲覧用の写真パネルと三脚を立てて客を待っている。彼らも商売人といえば商売人。
「夏の間とか、ずっとここに座ってて暑いんじゃないかと思うでしょ? でもね、ここ(神門の下)にいると涼しいんだよ。門の下は日が当たらないし、高いところに風が入ると、そこにあった冷たい空気がすっと降りてくるの。夏はここ、最高なんだよぅ」
「惣島写真館」のおばさんは言う。なんと、30年間靖国の神門の下で写真を撮り続けている。そして、反対側に位置撮る「ツカモト」の男性はなんと50年間。つまり、お互いは30年来のつきあいと言うことになる。おばさんに言わせれば、「ツカモト」の方が団体客をつかまえるのがうまく、商売上手とのこと。
 ずっと以前にはこの2人の写真家も、客寄せはするな、ここから先には出るな、など神社側から制約を受けることがあった。しかし今となっては職員よりもずっと長い間この場所にいる2人が、今さらアレコレ言われることもなくなったという。おばさん曰く、「毎日適当な時間にやって来て、適当な時間に帰る」。雨が激しい日は来ない日もある。最も忙しい時期は桜が咲くころ、そして「みたま」と8月15日。
 50代くらいの夫婦がやって来た。ポラロイドサイズの写真を頼まれる。900円也。靖国に来た当初から使い続けている“マミヤプレス”のファインダーを覗きながら、寄り合う夫婦に「もうちょっと右足出して」などと巧みに指示しながらシャッターを切る。
 以前と比べると、一般人がカメラを持つのが当たり前になった。わざわざ写真屋に頼まなくても、「それぞれがカメラを持ってきて、そのへんでパシャパシャ撮ってゆく」という。それでも、団体客が入ったりするので悪くはない商売らしい。
「小泉さんが首相になってからだね。こんなに人が来るようになったのは。今日みたいな平日なんか、前は人もあまり来なかったのに、ここ何年かはいつでも人がいるようになった。中国とか韓国の人なんかも来るようになったね」。
 それでも、最近は神門の下でずっと客を待ち続けるのも疲れてきたのだという。何せ30年も通い詰めているのだから無理はない。
 ニヤリと笑みを浮かべておばさんが言う。
「あんた、ウチに養子に来ない? あたしはいろいろ喋ってばっかでウルサイけど、写真は教えるよ」。
 同写真館では現在、写真家見習いを受け付け中である。
 さて、景気がいいだけが商売ではない。客待ち状態も商売のうちなのかもしれないが、あまりにも客が来ないと呆然としているうちに1日が過ぎて行くらしい。
 9月の終わりに靖国の参道で開かれた「地酒と酒器うつわ祭り」には、見ていて可哀想になるほど客がいなかった。地酒と酒器の以外にも陶器やちょっとした工芸品を扱う店がテントで連なっているが、人影はまばら。ノボリの「祭り」の文字が悲しい。
 茶碗や箸などを売る店のバイト君(男性・20歳)は、呆然としていた。たくさんの茶碗に囲まれているが元気がない。午後4時の段階でその日の客は4人……。バイト代を貰うとき、店主から「売り上げよりバイト代のほうが高い」と舌打ちされたそうだ。
 おまけに地酒のテントでは、バックパッカーと思しきひとりの外国人がベロベロに酔っぱらっていて、誰にも相手にされずなんだか悲惨な雰囲気すら漂っている。靖国での商いがどれも成功するわけではないことをこの目で知ったが、実は、靖国は神社の経営自体が近年危ぶまれてきている。
 戦争に参加した世代がいなくなりつつあり、昔のように奉賛会に多額の寄付が集まるようなことはなくなってきているのだ。ここ数年で企業献金もめっきり減ってきているのが実情だ。
 新たな商売のスタート。神社存続のためにはこれだろう。たとえば明治時代の靖国のように、サーカスを呼ぶ。脱・小泉時代の靖国モデルとして悪くない案だと思うが、どうだろう?(宮崎太郎)

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2009年1月29日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第10回 十分な水がケシ栽培をなくしていく(2)

 闇夜の中で発電機がうなり声をあげている。ジャララバードでペシャワール会の宿舎だけが闇の中でポツンと明かりを放っている気がする。電気が供給されるのは月に一度あるか無いかだ。
 電気式の飯盒からは、日本米の瑞々しい蒸気が上がっている。日本から持ち込んだのではない。試験的に栽培したところ、豊作になったそうだ。住民も日本米をおいしいと、大喜びだったそうだ。テーブルにはご飯と生野菜とアフガン風の煮付けが並んだ。
 中村医師は農業がアフガニスタンの基盤と言う。国民の約90%が農民のアフガニスタンでは不作が生活に直結し、治安の悪化を招く。食えないから武装勢力に参加することもある。タリバンをなど武装勢力の増大につながっているのだ。やせた土地では麻薬の原料になるケシの栽培が盛んになる。ケシは武装勢力の資金源となり、戦闘がさらに悪化していく。ペシャワール会が水路を建設した周辺にケシ畑は一つとして無い。十分な水があれば小麦や米の栽培が可能であり、わざわざケシ栽培という「やばい橋」を渡る必要がないのだ。
 食後、中村医師は煙草を燻らせながら、話した。現地でも売っている日本製のたばこだ。
 中村医師は現在のタリバンを「日本の攘夷運動のようなもの」と言う。アフガニスタンでは外国軍と戦うことを肯定的に見る動きが強い。30年近く外国の干渉により戦禍に巻き込まれてきたアフガニスタンでは外国人に対する憎しみは強い。
 そんな中、日本への支持は極めて高かった。「以前は日の丸さえ付けていれば安全だった」という。日本がアメリカの作戦に協力しているということは殆ど知られていなかった。しかし、近年給油法案の騒ぎが現地でも報道されたため、感情にかげりが見えてきたという。
 昨年12月給油法案延長が再可決された。中村医師は同法案に対して「ナンセンスの一語に尽きる」と言う。
「空爆をする油が日本からのものだと分かればいい気分ではないでしょう。アフガン人の思いはもう支援も軍隊もいらないから、人を殺すのをやめてくれ、というのが正直なところでしょう」
 中村医師は「何をしてはいけないかを考えるべきだ」と言う。自衛隊を出せないから給油をする、という問題にすり替えては本質を見失う。現地で何が求められているかを知ることが重要だという。
 現地の状況は軍隊を送れば解決するというレベルではなく、もう国レベルでは成す術がないほど混乱している。しかし、ペシャワール会などNGOは、活動範囲は狭くてもゆっくりと現地に安定をもたらしている。武装勢力は減り、人々は安定した生活を取り戻しつつある。
 昨年の8月武装勢力に殺害された伊藤和也さんもここにいた。彼もここで中村医師と語り明かしたのだろうか。伊藤さんはアフガニスタン派遣の志望動機でこう書いている。
「子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になれればと考えています」
 伊藤さんの目指したものやペシャワール会の活動にこそ、アフガニスタンの平和と本当の意味での「テロとの戦い」の勝利があるのではないだろうか。(白川徹)

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2009年1月28日 (水)

鎌田慧の現代を斬る/第128回 オバマのチェンジとトヨタの大政奉還

 豊田グループの創始者である豊田佐吉氏の4代目の子孫が、トヨタ自動車の次期社長になることが発表された。52歳の豊田章男氏である。いまやGMの不調によって世界最大の生産台数を誇る国際企業の社長が4代目の世襲というのは異常だ。批判されつづけている麻生でさえ3代目であることを思えば分かりやすい。その古い体質に愕然とするしかない。
 彼は慶応大学でグランドホッケーに熱中していた御曹司で、84年に入社。本社の経理財務畑を歩み、44歳で取締役に就任した。その社長就任によって、生産台数が激減している会社の求心力を強めようという狙いがある。
 その裏で豊田章一郎名誉会長と奥田碩取締役が退任する。これでようやく悪名高い奥田が、トヨタから姿を消すことにはなる。奥田氏は財界や政界と距離を置く「トヨタモンロー主義」を勘ぐり捨てて、欲望のままに権力に近づきムリな拡大路線を強行した。その結果、トヨタの影響力は増し、トヨタ生産方式は日本だけではなく世界のさまざまな職場に入り込んだ。必要なときに必要な部品を必要な量だけもって来い、という横暴な「トヨタ方式」を人にまで応用し、経済財政諮問会議の委員として派遣法の改悪に尽力した。同時期に総合規制改革会議で派遣法改悪を進めたオリックスの宮内義彦氏、経団連会長でありながら違法の請負に手を染めたキヤノンの御手洗冨士夫氏の悪行とともに記憶されるべきだ。
 豊田家の社長は章一郎の実弟・達郎が奥田に交代して12年ぶりのことである。しかし「外様」の経営など、トヨタにとってしょせん傍流の出来事にしかすぎない。
 ここでトヨタ自工とトヨタ自動車の「本流」の流れを書きだしてみよう。
 1937~41年 豊田利三郎、41~50年 豊田喜一郎、67~82年 豊田英二、82~92年 豊田章一郎、92~95年 豊田達郎、09~豊田章男。

 ここに豊田自動織機やアイシン精機などの幹部を加えたら、どれだけ豊田家の人間がトヨタグループを支配してきたかが分かる。
 そもそも創業者一族が社長になれば、会社の業績が回復すると考えるアナクロニズムがひどい。企業業績の悪化が「お家の大事」となる認識は、ほとんど武家社会だ。実際、09年1月21日の『朝日新聞』によれば、「昨夏以降、業績が急速に落ち込み始めると、幹部の間では『重荷を押しつけていいのか』と大政奉還の先送りがささやかれ、渡辺社長の続投案や、ベテラン副社長の中継ぎ案が浮上」したという。若殿にご苦労をかけるのは忍びないと侍従が動いたわけだ。
 結局、「雇われ社長では原点回帰を目指した改革などおぼつかない」(『朝日新聞』09年1月21日)などの判断から章男氏の社長就任が実現した。
 米国では「チェンジ」を掲げ、米国史上初のアフリカ系アメリカ人が大統領になり、日本では「改革」を掲げて大政奉還したのは象徴的な出来事である。
 もともと豊田章男新社長は「カイゼン」方式の指導担当を歴任している。つまり彼の語る「現場に一番近い社長でありたい」も、「従業員、販売店、サプライヤーを含め勇気をもって改革に挑む」も、トヨタイズムからの「現場」であり「改革」である。従業員にとっても、関連会社にとっても地獄の原点回帰となることだろう。
 トヨタ自動車では幹部になれば、仕事がラクになるわけではない。「カイゼン」と利益増進にむけて、走りつづけることになる。では、その先に待っているのはなにか。労働者や下請けに利益還元されるわけではない。労働者の過剰な労働が減るわけでもない。ただただトヨタが大きくなるだけである。武士がお家断絶にならぬよう切腹するように、トヨタの社員たちは豊田家の永続を願って過労死をささげていく。このような封建的な会社が世界トップクラスの企業として業績を上げ、国内のさまざまな企業・団体に社員をハケンしてきた。
 なにがあっても豊田家の存続は確保する。その大原則が、この経済危機の中でも明確に貫かれた。
 すでにトヨタは北米と英国の正社員を1000人規模でリストラしようとしている。トヨタの北米11工場に約3万人、英国工場には約5000人の正社員を抱えている。海外とはいえ1950年代の労働争議以降、正社員の大量クビ切りをおこなうのは例がない。日本でも05年上半期に1万1000人いた期間従業員をゼロにすると発表している。このままでは、北米や英国だけではなく、他国や自国の正社員の削減にも手を付けることになろう。
 いまのところ正社員は解雇しない、といっているが、これまでの2兆円以上の利益をみれば当然のことである。そうでなければ、血塗られた「大政奉還」となる。株主の利益だけを優先した企業経営は、発明王・豊田佐吉が草場の陰で泣くことになる。
 豊田章男が就任して、どのような経営方針を発表するのかはわからない。しかし「雇われ社長」から「本流の社長」に実権が戻ったというのなら、社会的責任を考え労働者のクビ切りは防ぐべきだ。豊田家本流なら株主に気兼ねして短期的な利益を気にする必要などないはずだから。ところが現在にいたるまで、新社長が雇用を守るために動くとは報じられていない。
 昨年末、09年3月のトヨタの営業赤字が1500億円になると発表した。1938年3月期以来71年ぶりのことだと大々的に報じられている。しかしトヨタの内部留保は03年度の9兆5000億円から07度年の13兆9000億円へと激増した。本来なら労働者と下請に還元すべきカネを、どんどんため込んだわけだ。
 では、そのカネをどうしたのかといえば、設備投資などにどんどんつぎ込んだのである。営業赤字を受けて、今期1兆4000億円だった設備投資を1兆円以下に絞るという案がさっそくだされている。結局、世界トップの自動車生産台数を目指す企業の野心が、過剰な新工場を生み、大量の従業員を雇い入れてきたのだ。つまり奥田碩氏を筆頭とする経営者の失敗である。それをリストラや下請けの「カイゼン」で乗り切ろうというのだから恐れ入る。
 そもそもトヨタは単なる民間企業ではない。九州工場の建設などであきらかなように、自治体から減税などの好条件で迎えられ、雇用促進や地域経済の活性化を約束してきたのである。そういう社会的責任を果たすためにも、下請け潰しや労働者のクビ切りを防ぐべきだ。(談)

全文は→「2.pdf」をダウンロード 

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2009年1月27日 (火)

宮崎勤事件の現場を歩く

Img_6958  武蔵五日市駅前を通る檜原街道から500メートルほど入ったあたりだろうか。突然、駐車場が現れる。青い看板に赤い「P」の文字。ただし無人。料金は入り口のポストに入れる仕組みだ。
 向かいには広大な畑が広がり、とても需要があるとは思えない。ゆうに15台は置けようかという駐車場に、その日は2台の車が止められていた。
「近所の人が管理しているみたいですよ。まだ土地を売っているみたいだけど、買い手がつかないみたいですよ」
 駐車場の近隣に住む女性は、そう言って口をつぐんだ。

 1989年8月、この駐車場の土地一帯が時ならぬ喧噪に包まれた。空にはヘリコプターが飛び、マスコミは土地に面した道路で場所を奪い合い、警察はロープを張り巡らせてメディアを規制した。この土地に住んでいた宮崎勤の逮捕が原因だった。

 88年8月から89年6月の間に、宮崎勤は4~7歳の女児4人をいたずら目的で誘拐、殺害した。女児へのわいせつ行為をビデオに撮影したり、白骨化した遺体を自宅に持ち帰って庭で焼却して被害者宅に届けるなど、その猟奇的かつ残忍な犯行は世間の注目を集めた。
「逮捕のニュースを見たのは昼食のときでしたね。犯人が逮捕がされたと聞いて、『あーよかったなー』と思ったら、住所が五日市町の小和田でしょ。それで犯人の名前が隣の家の息子さんだったからね……。
 逮捕前に事件が報道されていたときは、こんな犯人絶対許せないと思いましたよ。でも逮捕されたら、犯人も知ってる、そのお父さんも知ってる。お母さんもおばあちゃんもおじいさんもでしょう。わたし、昼のニュースを聞いて、すぐにお隣に飛んで行きましたよ。お母さんが心配で。でも、もうマスコミが殺到していました……」
 宮崎勤の裏手に住む女性は、当時をそう述懐した。
 日常生活でけっして出会うことのないと思われた犯人が、いきなり目前に現れた衝撃。それは近隣の住民ばかりではなく、宮崎勤の家族も感じたものだったのかもしれない。
「小さい頃の勤君はおとなしくて普通のお子さんでしたよ。スーパーマンですか。首に風呂敷まいて走り回っていて。ただ、うちにも2歳下ともう少し上の子どもがいるのに、一緒に遊ぶことがなかったんです。一度遊んだとき、本を読んでずっと黙っていたと息子から聞きましたから」

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2009年1月26日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/第8回 女性・26歳・正社員(IT関係)(後編)

 これが最後のチャンスと必死で頑張った大学受験は、合格といううれしい結果になりました。
 私が合格したのは夜間の二部でしたが、本当に色々な人たちが集まってきていました。三人のおじさま方と仲良くなって、昼間はバイト、夕方から学校、夜中はおじさま方とお酒を飲むという寝不足の日々が続きましたが、楽しかったです。三年時から一部に転入して、ゼミも面白くて。編集プロダクションやカメラ屋さんなど、興味のあるところでアルバイトをして、勉強もして、就職活動は、大手のところは受かる自信がないから小さい出版社を受けたんですが(いつもそうなんです、自信がなくて最初から諦めてしまうところがあって)、最終面接で落とされてしまいました。ただ、のちほど、その出版社から紹介された別の会社に就職が決まりました。

 そこは営業ノルマが大変厳しくて。二年勤めましたが、会社の経営状態も悪くなってきてしまっていたので最後の二ヶ月は本当に鬱でした。大学の四年間を経て、また暗闇の時代に戻ってしまったか、というような。ただ、その出版社に勤めていた時はたくさん応援してくれる人がいて、それはそれですごく楽しかったし、反対に辞めたら密なつながりはなくなってしまって寂しかったですね。抜け出すと、失うものも大きいんだな、と思いました。
 今はIT関連の会社に勤めています。最近女性誌を読んだら、20代は100万、30代は300万貯めてなきゃいけないって書いてあるんですよ。それって、違う世界の話なんですかね? でも私、その世界に行きたいんです。そのほうがいいと思うんです。その雑誌に載ってる人たちは仕事も頑張りながらお弁当も作ったりして、堅実に生きてる気がするし、女性として生きていく上でも、いいと思ったんですよ。貯金をしようっていう気持ちと、食生活をちゃんとしようっていう気持ちで、最近はいます。

 結婚願望ですか? 今はないです。だって…、お金貯めないと!! 女性誌に汚染されすぎか… あれに出てくる人たちは、志が高いですよね、ホントに! ああいう女性って、どこにいるんでしょう? 周りに全然いないけど、雑誌には紹介されてるから、どこかにいるんでしょうね。(聞き手:奥山)

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2009年1月25日 (日)

日曜ミニコミ誌!/言葉巧みなアノ人達の秘密『ファッション販売』

10000976_05_0902  『月刊総務』は書店でアルバイトをしていたときによく見た。専門分野が漠然としがちな「総務」の雑誌。こんな切り口があるのかと、そして全国に流通するほどのニーズがあるのだなあと、印象強かったのを覚えている。
 しかし今回紹介する雑誌はもっと狭い。『ファッション販売』は、「いらっしゃいませ」を高らかに連呼するあのお姉さんたちのための雑誌だ。アパレル店売における接客のイロハ、今期のトレンド、買いあわせおすすめのヒントなどが満載。もちろん一般書店に置いてあるので広義のミニコミ誌のくくりには当てはまらないが、購買層の限定という面ではかなりミニコミ誌に近いので、とりあげてみた。

 特に今号(09年2月号)は「店長力検定」と「トレンドアイテム売り込みポイント&トーク重点講座」に注目したい。

 「店長力検定」は設問160項目で「店長としての強みと弱みを知る」とあり、設問はさらに20項目ずつにグループ分けされている。「売り場のコンディションづくり力検定20」「リーダーシップ力検定20」「売場の算数力検定20」などの合計で店長力を判断するというものだ。それぞれのグループごとの点数をグラフ化すると、自分がどんなタイプの店長かが分析され、タイプごとにアドバイスがある。キャラキャラと姦しい売場よろしく、アドバイスにもオトメな事が書いてあると思いきや
「今やコミュニケーション力はテクノロジー!(生産性を上げる手段です)」
「無謀な意欲論の排除!」

など、ぱっと見は意味がつかみづらい文句ではあるが、なかなかに激しい。「ノミュニケーションをとる」など、まるで管理職(店長だから管理職なのだが…)のおじさん向け並にシブい。結構シビアな業界がかいま見られるようだ。10代向けのポップなお店であれば、30代の店長に任せるわけにも行かないから店長以下みんな10代から20代前半だろう。「お疲れ様でした、店長!」「お疲れ様。…ちょっと一杯、どう? たまには」「いいっすねえ、店長と飲めるなんて嬉しいです!」などの会話が繰り広げられているのだろうか、なんだか健気なような…ん、普通か? バイトの馴れ合いの延長か?

 「トレンドアイテム売り込みポイント&トーク重点講座」においては、この春の売れ筋商品について、どんなトークで購買力をかき立てるかが紹介されている。コレを読めば、あのお姉さんたちの奇々怪々なすすめ文句も理解できるかも?! 以下、「売り込みトーク例」本誌より。

 「今期はシフォンやオーガンジーなどの透け感のある素材が人気です。毎シーズン登場するスポーティな印象のパーカのプルオーバーも透け感のある素材だと新鮮ですし、優しい印象になりますね」

 なるほど、よくわからないカナ文字が一つ二つあるけれど、言われただけでちょっと心浮き立つ言葉ではある(本当か? と疑う人は、一度声に出して言ってみてほしい)。

ちなみに、私自身が良く聞くフレーズは次の3つ。

●これ、すごく売れてるんですよ/最後の一点なんですよ
売れているから何なのか、と突っ込んだ友人もいたが、これは「お客様、さすがトレンドに通じてらっしゃる。自然と人気のものを手に取るなんて、お目が高い!」の略。他人と違うものが欲しい人には逆効果かと思うが、不思議と言われて悪い気はしない。

●これ、今日入ってきたばかりなんですよ
「さすがお客様、新しいものに敏感ですね」の言い換え。「まだ着ている人はいませんよ、差をつけられますよ」との意も。そうか、と思いつつも、考えてみると全く同じものを着ている人に会ったことは未だかつてない。他人に興味がないから見えてないだけか。

●私も持ってるんですよ
「すっごい着やすいですよ」「肌触りがいいですよ」「何年着ても飽きません」が続く。自分の体験談を使って商品がよいことをPRすること自体は好感が持てる。でも、もしかして買わされたのでは…? と思ってしまうと、一気に悲しくなる。結果、買ってあげてしまうかも知れない。

 以上は耳ダコで聞かされたのだが、もしかして何年か前の本誌に載ってたのだろうか。2001年の創刊のようだが、いや、もっと前からこの言い回しは使われていたはず。出所を知りたい。調査を進めることにする。

 なお、私が一気にぐらっと来てしまったセールストークがある。それは5年前に地元で友人の披露宴に着ていく服を選んでいたときのこと。その店員さんは紫の服全体に宝石のプリントがちりばめられたワンピースを指してこう言った。
「コレを着れば、アクセサリーを付ける必要はないですよ」

 即購入。セールストークには、オリジナリティが必要不可欠だと思います。(奥山)

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2009年1月24日 (土)

志布志事件の被害者を陰で支えた焼酎王・中村鉄哉さん 

 中村鉄哉さんは無教会派の長き求道者である。2003年には焼酎類全体の出荷量は日本酒の出荷量を上回った焼酎ブームが去り、焼酎業界は前年比で7割から8割程度の売り上げを残すために汲々しているが、中村さんのルネサンス・プロジェクト社の収益は過去最高である。志布志事件で冤罪に泣いた蔵元を世界に売り出した商魂の陰には、聖書と算盤の調和を追求する経営道があった。

 Photo
 中村鉄哉さん(49)は、山口県防府市から北海道大学に入学後、新渡戸稲造の影響を受けた無教会派の松沢弘陽教授と出会った。内村鑑三が生んだ無教会派は聖書のみをよりどころにする日本型のキリスト教集団である。
「丸山真男先生の弟子の大政治学者と知り合い、松沢先生と聖書を読むようになりました。札幌の隣に江別市大麻という町がありますが、毎週日曜日に通っておりました」
 聖書研究会に参加して、禅宗の家に育った中村さんは、「女々しい、善人、正直」程度しかなかったキリスト教徒に対する偏見が打破され、強い宗教だと知ったと述べた。一例として、「右の頬を打たれたら左を出しなさい」という聖句を指摘した。
 内村鑑三ら札幌バンドの世界に憧れ、文部省の交換留学生として米国マサチューセッツ州立大学に留学するほどの意気込みを持った時代もあった。しかし、アメリカ人牧師の英語の説教を聞き取れかけた頃には留学が終わったと苦笑する。卒業後、三井物産で商社マンの道を歩み始めて、忙しくて、信仰生活から離れた。
 課題はいかに信仰生活に復帰できるか。キリストについていくべきところを松沢先生のカリスマについていった形になったと反省し、昨年春、息子さんが進んだ先は父親と同じく北海道大学経済学部だったと微笑む。「勧めたわけではないのですが、私と同じように、YMCAに住み、北大で無教会派の先生と聖書を学んでいることは嬉しいと思います。父親の私は復活の教えを理解できませんでした。まだ洗礼は受けていませんが、超越者を意識することが多くなってきております」
 本音を吐露し、信仰不足を告白する中村さんだが、キリスト教的価値観を体現することもある。九州の地方に行くと、焼酎の製造元と酢の製造元の間に身分格差が今もある。両者は同じテーブルに座らない。中村さんは不合理な因習を排した。「部落差別の原型がまだありました。キリスト教の影響で社会正義を信じていまして、ビジネスの世界で私なりの義侠心を見せることもあります」
 ブランド名は八起。先年、メディアの注目を集めた冤罪事件・志布志事件の被害者が作っていた焼酎である。その蔵元とは冤罪事件以前から知り合いだった。励ますためにも悲劇を逆手にとって、人生、七転八起の一節から取り、有田焼きの容器につめて売り出し、2007年グッド・デザイン賞も受賞した。
 同社のベストセラー商品は柚子小町。全国的に知名度が高く、若者の間で圧倒的人気がある長崎県の壱岐産のリキュールである。
「まだ3年目です。最近になってやっと安定してきました。今年が勝負です。ご声援ください」(李隆)

※ルネサンス・プロジェクト社のサイトはこちら

  問合せ先は 092-736-5111

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2009年1月23日 (金)

アフガン終わりなき戦場/第9回 十分な水がケシ栽培をなくしていく(1)

 昨年8月、アフガニスタン東部ナンガハール州で活動するペシャワール会の伊藤和也さんが武装グループに殺害された。事件後、多くの日本人スタッフは帰国を余儀なくされた。
 首都カブールから国連機で30分。ペシャワール会はナンガルハル州の州都ジャララバードに拠点を置いている。盆地のカブールと比べ、気候は温暖で暖かい。同会の宿舎は市内にひっそりと建っていた。
 以前十数人の日本人が生活していたスタッフハウスはしんと静まり返り、急な帰国だったためか、ホワイトボードには今はいないスタッフへの引き継ぎの連絡が書かれたままだ。代表の中村哲医師は日本人でたった1人残り、活動を続けている。
 ペシャワール会は元々医療系のNGO(非政府組織)だ。1984年から活動を始めた。現在では「干ばつこそがアフガニスタン最大の危機だ」と、水路建設を03年から行っている。
 事業に変更は無い、と中村医師は言い切る。ペシャワール会の活動は現地の生命線であり、事業撤退は即ち現地の人の生活に深刻な影響を及ぼす。中村医師は疲労の色が浮かんでいたものの、アフガン復興に燃やす信念はいささかも揺らいでいない様に見えた。
 水路建設の先端では、重機が土ぼこりを巻き上げ、忙しく動き回っていた。道すがらの田園と違い、完全な砂漠地帯だ。まだ水が来ていないのだ。
中村医師がパシュトゥーン語で指示を出すと、現地作業員がきびきびと働く。中村医師は飛ぶように現場を走り回る。20代の筆者がついていくのがやっとなくらいだ。
 アフガニスタンの干ばつは危機的状況にある。住民の90パーセントが農民の農業立国でありながら、2000年代の干ばつ以降食料自給率は50パーセントを割らんとしている。国民の半分が食えない、危機的状況なのだ。今年、アフガニスタンでは500万人が飢餓に直面するとの報告があるが、中村医師は「最低500万」と言う。
 ペシャワール会の奮闘ぶりは高く評価されている。村人に話を聞くと、「日本はアフガンの本当の友人だ」と口々に言った。しかし、アフガニスタンを蝕む暴力は同会にまで届いている。中村医師はセキュリティ管理について「現地の人々が護衛です」と言う。しかし、治安の急激な悪化により伊藤さんの事件に関わらず日本人スタッフを今年10月までに帰国させる予定だった。中村医師も近いうちに「現場に出れなくなる可能性がある」と言う。
 アフガニスタンの治安は転がり落ちるように悪化している。

 切り立った崖の横で、重機を使った工事が進められている。削岩機がけたたましい音を立てて岩を砕き、ゆっくりとした歩みで水路ができていく。削岩機の運転席にいるのはペシャワール会の代表、中村哲医師だ。
 何事も自分でやってみせないと人がついてこないから、と水路建設の現場で彼は機敏に動きまわる。中村医師がパシュトゥー語で指示を出すと、ひげ面の作業員たちが機敏に仕事をこなす。現場の全てが中村医師を中心に動いている。夜は水路の図面を引いている。作業をしながら眠ってしまうので、ここしばらく布団で寝たことが無いと言う。
 日本人ワーカーの伊藤和也さん殺害事件以降、日本人スタッフが中村医師を残して帰国を余儀なくされたため中村医師は1人で作業の全工程をこなしている。「忙しいけれど、会議が無くなったから効率はあがった」と、疲れた顔で静かに笑った。
 ペシャワール会は現在マドラサ(イスラム神学校)を建設中だ。イスラム国のNGOを除き、外国の援助団体がマドラサを作ることは無い。タリバンがマドラサを中心にして誕生したこともあり、外国人からは「武装勢力の温床」と思われるからだ。米英軍はマドラサを明確な攻撃対象とさえしている。
 中村医師は「マドラサはイスラム社会の要」だと言う。マドラサはストリートチルドレンの保護施設や、図書館、争いごとの調停所の役割を持ち、イスラム社会の中核を担っている。建設現場では現地ワーカーが元気よく働いていた。「マドラサは私たちの文化そのものです」と10代の作業員がにこやかに言う。マドラサは完成すれば地域最大規模になるという。宗教指導者が裁定を適宜下せるため、治安の安定も望める。
 中村医師は現地に必要なものを最大限用意することに専念する。水路然り。マドラサ然りだ。元来医者であるが、現地に必要ならば、と門外漢の仕事もこなす。
 伊藤和也さんの事件について中村医師に聞いた。聞くと、顔を曇らせ「話したくない」と言う。
「ペシャワール会は今までに5人の殉職者を出している。語弊はあるが、人間の命の尊さは同じだ。伊藤君を特別扱いはしたくない」
 中村医師は伊藤さんの死を心から悲しんでいる。しかし、それまでに亡くなった5人のアフガン人ワーカーと比べて、別段騒ぐようなことはしない。騒いでいたのは私たち日本社会の側だ。事件以降、中村医師の責任を問う声や、伊藤さんの死を「NGOではセキュリティに不安があるから」と自衛隊派遣につなげようとする政治家がいた。中村医師はそのような事にほとほと疲れている様子だった。
 中村医師は今後、活動をさらに強化していく予定だ。干ばつは待ってはくれない。中村医師の眼は真っ直ぐアフガニスタンを向いている。(白川徹)

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2009年1月22日 (木)

靖国神社/第9回 靖国神社 靖国の商売人たち(上)

 8月中は新聞やニュースでずっと靖国靖国靖国と過剰報道の感さえあったが、さすがに9月になってその波も引いた。
 予想通り選ばれた安倍・新首相が「靖国に参拝する」と公約で宣言でもしていれば別だが、さすがに小泉時代の熱狂はもうこの神社に訪れることはないのではないかと思っている。
 それでも、まだまだこれから!と言わんばかりに、首相交代というビッグイベントの波を巧みに乗りこなそうとする者がいる。土産物屋さんである。
 本連載の02年1月号「まんじゅう狂乱の夏」では、「ガンバレ純ちゃん好景気まんじゅう」がバカ売れした様子を伝えている。靖国参拝を公約として挙げていた1年目の夏に、発売したメーカーも驚くような大ヒットとなった。売れた要因には、小泉前首相のカリスマ性と親しみやすさが同居するあのキャラクターもあったのではないかと個人的には思う。それに比べると新しい首相となった安倍氏は前者に比べるとどうも地味である。
 しかし。
 売店のおばさんに訪ねたところ、すでに安倍首相のまんじゅうを製造中であるというから驚いてしまった。
 現在(9月22日)、店先に並んでいるのは「ポスト純ちゃんまんじゅう」。パッケージには総裁のイスに座った小泉氏の右側に、麻生、福田、谷垣、安倍の順でイラストが並んでいる。このまんじゅうは今年売り出されたが、参拝問題で揺れた8月にはなんと1日1500個以上が売れた日もあるという。その続編として安倍首相のまんじゅうが新しく売り出される。
 製造が終わりしだいすぐにでも店先に並べることもできるが、正式に首相に任命されて新体制がスタートする26日から売り出すというのが「江戸うさぎ」(メーカー)の方針であるらしい。たしかにメーカーからすれば小泉前首相はヒット商品となった“金ヅル”である。退任にあたって最後の気遣いを見せたということだろう。 
 初代「純ちゃんまんじゅう」と「ポスト純ちゃん」の違う点といえば実は「ポスト」のほうに栗がトッピングされただけで実はほとんど同じものだったのだが、「晋ちゃんまんじゅう」はきなこが使われるなど、装いも新たになるという。全国40ヵ所以上で「純ちゃんまんじゅう」は売られたが、メディアに取り上げられたこともあって一番売れたのがここ靖国。果たして「再チャレンジ」は成功するのだろうか。

 靖国神社には物を売る場所がいくつかある。一般の神社ならば、お守りや絵馬を置く神札所があるくらいだが、靖国にはそれ以外にも休憩所、土産物屋、遊就館の中にも土産物屋と本を置く小さいスペース、軽食レストランがある。
 下世話な話でアレだが、各売店で何がいちばん売れているのかをざっと聞いて回ることにした。
 まず、神門の奥にある小さな建物でお守りやおみくじ、お札、靖国の桜入りの文鎮などを売る巫女さんに直撃する。
「この売店では何がよく売れますか」とたずねると、「ここは売店ではありません…!」と冷たくピシャリと言われてしまった。(神札所と呼ぶのですね)
 最も売れているのはお守り。王道である。やはりただの神社ではないと思わせるのが、他の品物と一緒に並んだCD『NIPPONのうた』(1500円)の存在だ。「一般からオリジナルを募集した」ということだが、靖国神社のホームページで各曲の歌詞を見ると、やっぱりどれもこれも“靖国調”。このCDは靖国神社と崇敬奉賛会が企画し、音楽的には靖国御用ミュージシャン・つのだ☆ひろがプロデュースしたものだ。奉賛会企画、靖国調、つのだ☆ひろという黄金パターンだが、売れ行きはイマイチであるらしい。
 遊就館1Fにある本屋には、靖国礼賛本や戦争関係の読み物(もちろん日本人の“勇姿”について書かれたもの)、「日本人とは」を説く精神論本が並んでいる。店員によれば、最も売れているのは『遊就館図録』(1900円)。遊就館の展示物についての写真入りの説明、明治維新以後の戦争について書かれた一冊。
 また、『遊就館図録』と共に目立つ場所にずらりと並べられたのが、小林よしのりの『靖国論』と『いわゆるA級戦犯』。まるで靖国と小林が協賛してるかのような持ち上げられぶり。若い人がどんどん買ってゆくのだという。「右」的なものに耐性がない人にはなんだかコワイ感じのする本屋かもしれないが、人が絶えずやって来て、いろんな本を手に取ってゆく。盛況なのである。(宮崎太郎)

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2009年1月21日 (水)

麻生太郎さん頼むから辞めてくれまいか

麻生太郎首相が不安である。
確かに私のスタンスが反自民なので自民党出身の首相が出るたびに「不満」「辞めろ」であり続けた。でも麻生さんの場合はちょっと違う。不満ではなく不安であり「辞めろ」ではなく「頼むから辞めてくれまいか」なのだ。竹下登元首相はかつて麻生氏を「竹馬に乗った人」と評したという。その人物が日本のトップにいる。つまり日本全体が竹馬に乗っていて足元おぼつかず私もまたその1人だから不安なのだ。
「辞めてくれまいか」と懇請する理由は、まさか自分のなかにそんな感情があったとは信じられない「愛国心」とか「憂国の情」みたいなところから発しているのを自身で驚く。「このままでは皇国大日本帝国が沈没してしまう」といった感覚に近い。
55年体制崩壊以降の自民出身の首相を考える。橋本龍太郎さんは結局貧乏神のようになったが懸命だった。小渕恵三さんはアホ呼ばわりされたが人柄が篤実そうだった。森喜朗さんは愚の骨頂だったが少なくとも党内の人心を得ていた。小泉純一郎さんは日本をメチャクチャにしたが間違いなくカリスマだった。安倍晋三さんはおかしいほど空回りしたが信念はあった。福田康夫さんはやる気がなかったが冷静だった(と本人も言ったし)。この「たが」より前の悪口を麻生さんの場合はいくらでも考えられる。でもそれは私が自民嫌いだからだろう。問題は「たが」の後がまったく思いつかない点である。
誰か教えて下さい。

麻生太郎さんは○○(ここは悪口)たが△△だ

の△△に当たる言葉を。それが納得いけばいくらか自分の不安も和らぎそうである(編集長)

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2009年1月20日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/染みついてしまった4時間睡眠

○月×日

 私は毎朝4時から5時には起床する。それは休みの日でもだ。従って、寝るのも早い。普段は9時頃には床の中だ。深夜の1時2時まで起きているのは夜勤の時だけで、例えば、1時頃の終点の高尾で「東京行きの上りある?」と、眠りこけて乗り過ごした酔っぱらいから呂律の回らぬサケ臭い息を吹きかけられると、自分も以前はそうだったくせに、「いったい今何時だと思っているんだ、バーロー」と蹴りを入れてやりたくなってしまうが、今回はそういう話ではない。そう、私は早寝早起きなのだ。
 このパターンになって、もうかれこれ10年以上になると思う。ま、早寝の方は夕方頃から飲み出せば8時か9時頃にはダウンしてしまうわけだが、そうではなくて、早寝早起きに切り替えたのは一念発起してのことであった。
 というのは、日勤の中でも早朝出勤の勤務の時だが、いつも目覚しで叩き起こされ、すっきりしない頭で出勤し、寝不足で仕事にならないことには閉口していた。というと、いかにも仕事を第一に考えているみたいだが、全くそうではない。まるで夜勤明けのようなぼんやりした状態で乗務をしているのが嫌だという以上に、勤務が早い分、終わりの時間も当然早いわけで、オフの自分の時間を有意義に使いたいという気持ちの方が大きかったからだといってよい。夜遅くまで起きて好きなことをしていたいのは山々だったが、それなら思い切って早寝早起きにしようという、理由はいたって単純なのだ。

 で、このパターンが定着していつも思うのは、早朝はいい、ベリベリグゥだということだ。

 今の時期は6時が過ぎてもまだ真っ暗だが、静寂に包まれ、清々しくて凛とするのは、1日のうちで空気がもっとも澄んでいる時間帯だからだろう。
 同じ事をするにしても朝と夜では全然違う。朝の方が断然捗どる。それは、朝は十分な睡眠をとったからで、夜は一日の蓄積疲労の影響だというのはいうまでもないが、「人の身体はそういうふうに出来ているもんだ」と、私がまだ子供だった頃に田舎のジイさまがよくいっていたものだ。私は何よりも早朝は雑音がないのがいいと思っている。何をするにもとにかく集中できるのだ。
 また、私は飲兵衛だから夜は飲んでホゲーッとしている以外は何もしたくない。何でも受け身になってしまい、頭を使うことはダメ、向いていないということもある。

 ところで、今に始ったことではないが、最近また困っているのは夜中に目が覚めてしまうということだ。別にトイレに行きたいわけではない。
 「ん!? またかな。た、頼むから5時頃であってほしい。せめて4時で」と思いながら手探りで枕元の時計を見ると、なんとまだ1時だったり2時だったりするのだ。また眠ればいいのだが、1度目が覚めた私はどういうわけかそれが出来ない。寝返りを打ったり、寝よう寝ようと試みるのだがどうしてもダメ。
「ああ、また今日も寝不足の1日か。でも4時間(もしくは5時間)は寝たのだし、こんちくしょう」と弱々しく呟きながら、ガックリとうなだれて、もぞもぞと起き出すのだ。
 これっていったいどうしてなんだろうと思う。それはどうも仕事のせいだとしか思えない。夜勤の仮眠ではだいたいが4時間位で起きなければならない。それが身体に染みついているからではないのか。きっとそうだ。そうに違いない。

 だが、しかし。そのまた逆もあるのである。6時か7時頃まで寝ていられる夜勤もあるのだが、そのような時は決まって5時頃には目が覚めてしまう。これっていつも早起きをしているせいなのか。
 どちらもすごく損をした気分になってしまう。本当にうまくいかない。イライラしてしまう。頭にくるったらない。今日こそちゃんと眠りたい。
 ん!? ただそれだけのことなんだけどね。(斎藤典雄)

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2009年1月19日 (月)

書店の風格/第27回 東京堂書店

 神保町のマドンナが三省堂書店であるとすれば、東京堂書店はすずらん通りの博識おじさん、と言うことが出来るかと思う。しかもその博識ぶりは全く嫌みがなく、スタイリッシュで、粋だ。
 ひととおり古書店や新刊書店を満喫してから東京堂に入れば、その品揃えに引っかかりを覚えるのは読書家だけではないと思う。豊富、確かに豊富だ。しかし何かが違う。他の新刊書店ではせいぜい棚に挿すだけであろう専門的な本が、平積みで並んでいるのだ。凝った美しい作りの専門書は、それだけで一風変わったディスプレイとして成立しうる。他では見られない様々な本の「顔」が、東京堂書店の独特な雰囲気を保っているのであろう。

 一階は新刊、文庫、新書等が並んでいる。間口が広く奥行きのない空間のせいか、どこかおっとりとした佇まいだ。入り口を踏んですぐ、店内を一望できるような錯覚に陥るのは、すぐ正面に位置した本棚だけが2段低く作られているからであろう。空気の抜き方が非常に上手と言える。
 「話題の新刊」の棚は、貪欲に様々な本を読み込もうとする読書人にふさわしく、平積みだけでなく棚挿し(すべて2~3冊ずつ並んでいる)で楽しめるような構成をしており、文芸書あり、エッセイあり、ノンフィクションあり、思想書あり…一種バイキングのような様相を呈している。独立した島になっているので、お客が夢中になりながら棚の周りをグルグルまわる様子が何となく面白い。私もその一員だが。

 2階がたいへんユニークだ。階段を上がるとすぐにマニア垂涎の稀覯本棚、お買い得棚が並ぶ。さらに紀田順一郎、坪内祐三、鹿島茂と、文化人がセレクトした本がひしめく棚が面白い。ほかにも全集もの、著者にこだわったコーナー…一階よりももっと色濃い「東京堂」色を出している。
 この階には東京堂出版のコーナーもある。辞書や歴史物、民俗学など学問的で堅実な本の宝庫だ。なぜかマジックものが多いのも興味深い。

 3階は地方小出版、リトルプレスコーナーだ。2007年11月に閉店してしまったが、長年、地方・小出版流通センターのアンテナショップだった「書肆アクセス」を引き継いだ、丁寧な作りの棚が魅力だ。さらに「立花隆棚」がある。立花氏本人の書籍は勿論、読書人として名高いご本人が選ぶ本はジャンルが多岐にわたっており、読み応えの感じられるものばかり。

 この書店のお眼鏡にかなう本を作るのは、出版社全ての目標であろう。弊社でも3月に読書人向けの本を出す(予定)。「話題の新刊」としてウィンドウにのぼる日の来るよう、頑張らなければ。(奥山)

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2009年1月18日 (日)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第25回 ブロックに空いたいくつもの穴

20a_7  今も特番などで「ブロックを積んで合板を張った。ブロックの穴が炎の通り道になった」と報じられるホテルニュージャパンの悪名高き客室間の壁。この写真は第22回の壁の拡大写真である。クロスとベニヤをはがして出てくるのは、ブロックが積まれた塀のような壁。ブロック自体は燃えず、正しく施工されていれば防火壁にもなるのだが、この写真で注目してほしいのは、ブロックに開けられた穴だ。22回で書いたが、この穴に「木レンガ」と呼ばれる木片が埋め込まれ、胴縁と呼ばれる角材を支えていた。当時はコンクリート釘やアンカープラグといった材料が確立されていなかったようだ。
 木レンガの跡を覗くと下の方に隙間らしきものが見える。ブロックに開けられている空洞に沿って木レンガを押し込んだ証拠だろう。その空洞を通って一気に火が広まり、角材のみならず木レンガまで燃やし尽くしてしまっている。
 ブロックでは白いチョークで「中」と書かれているが、ニュージャパンの建築に詳しいKBさんは「中空」を意味したのではないかと分析してくれた。(大畑)

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2009年1月15日 (木)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第24回 バスルームに2つめの便器!?

20a_8  この写真は前回の便器の隣にあったものだ。写真左角近くの茶色の円筒形の部品は、前回の写真でも紹介した天井から落下したダウンライトの本体部分である。
 写真中央は一見すると便器に見えるが、じつはビデと呼ばれる洗浄専用の器具だ。ホテルニュージャパンが開業したのは1960年。4年後に控えた東京オリンピックをにらみ、外国人客(特にヨーロッパ)を見込んでの設計だった。
 日本で「ビデ」という語が広く知られるようになったのは、1980年代の温水洗浄便座(ウォシュレット)販売以降といわれている。つまり建設当時、多くの日本人には使用法も分からない器具が部屋に設置されていたことになる。(現在の温水洗浄便座の「ビデ機能」と器具としての「ビデ」は主目的や機能が異なる)
 このビデについて、ニュージャパンの建築や内装に詳しいKBさんは次のように教えてくれた。
「このビデは東陶B5型で、当時は田園調布などの大邸宅か、ごく限られたシティホテルにしかなかったそうです。高級なシティホテルでも、米国流に作られたところにはビデはありませんでした。当時でも、レアだった器具がニュージャパンには備わっていたことになりますね」
 内装デザインは剣持勇氏が担当。当時の日本を代表する工業デザイナーの手による内装は評価が高く、現在も人気がある。このビデなども、かなりの高級品が使われた可能性が高い。(バスタブの水栓や便器の洗浄ハンドルも、現在見られる金属ではなく、陶器をコーティングしたものであった)
 すでに黒いタイルようにしか見えないが、もちろんこれはスス。床を埋め尽くしているのは落下した天井パネルである。(大畑)

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『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2009年1月14日 (水)

初笑い洋楽おバカなプロモーションビデオ

なおここでは定番のTwisted Sisters のWere not gonna take it'とAl" Yankovicの一連の作品は除外する。前者はDee Sniderのキャラクターが物凄いだけ?で内容は実に真面目だから。後者はパロディー作品として評価すべきで、言い換えれば「おバカ」自体を精密に狙った作品なので。ちなみにヤンコビックは出世作Eat Itが単純に笑えるので初心者向け。私が最高傑作だと思うのはニルバナのパロディ Smells Like Nirvana(http://jp.youtube.com/watch?v=UnuHJZMdako)。本当にグランジ(汚い)。カート・コバーンがこれを見て自殺したくなったのではないかと思えるほどに

●自己陶酔型
Steve Perry のOh Sherrie(http://jp.youtube.com/watch?v=__eI4u_tQD8
ジャーニーのボーカルがソロで放った。いきなり歌い出すところから終始ハイテンションが空回りする。この「ハイテンションが空回り」の代表作がJourney自体のSeparate Ways(http://jp.youtube.com/watch?v=sxxOyGK1pMk)であろう。メンバー全員が必死になってバカらしいドラマ仕立てを演じている。埠頭で女性を取り囲むあたりからもう目が離せない。この2本を見ただけで一日中スティーブでお腹いっぱいだ
同じく自己陶酔型の極致といえるのがLionel Richie の Hello(http://jp.youtube.com/watch?v=PDZcqBgCS74)である。このPVは全編で一つのドラマとして完結している。それが悲しいほどおかしい。廊下で歩いて歌うなライオネル。電話口で突然「ハロー」というなリッチーと突っ込みどころ満載のまま当初よりモチーフとなっている女学生の作品が実は何であったかが最後のオチになる。感動を狙ったのだろう。だが……。笑えるというより腰が抜ける。
スティーブ・ペリーと同じくフレディもソロを出すとなると力が入りすぎてしまうというのがよくわかるのがFreddy Mercury の I was born to love you(http://jp.youtube.com/watch?v=4vdJqIGyMtM)。楽曲自体は日本で特に有名だけど実は当初はクィーンでなかった。したがって発売時のフレディ名義のPVを見ないとすごさがわからない。元々自己陶酔が許されている人に歯止めがなくなったらこうなるとの見本。いきなりフレディの顔が15も出てくる。その後もソロだから当然ながらフレディフレディフレディフレディ。ブライアン・メイがなぜ必要なのか。フレディがどうしてソロでは弾けなかったのかがよくわかる。

●お金がなかったのね
今や大御所のボノやスティングにもこんな時代があったというPV。
U2のNew Years Day(http://jp.youtube.com/watch?v=zHzLWLFTPPI)はひたすら寒そう。本気で本当の雪原で撮った様子である。日が暮れた後に火を炊いてまで雪原で頑張る。馬で移動するというこの設定だとドラムのラリーがただただお気の毒。
日本を舞台にするとどうしても変なPVになってしまう。Kanye Westの Stronger(http://jp.youtube.com/watch?v=3jzSh_MLNcY)はもうお金持ちになった後だけど「カタカナがクール」という感覚が日本人にはよくわからん。「ガソバレ」はねえだろう。確か「北の家族」が映り込んでいたような。私の憧れの女性であるGwen Stefaniは「カワイイ」路線で確信犯とはいえ例えばHollaback Girl(http://jp.youtube.com/watch?v=2AU-kAnB24I)で出てくる「原宿」は何?もっともPV自体がトンデモ系で「すごい姉さんがやりたい放題」だ。ところでHollabackってどんな意味かしら。かけ声のような。
お金がなかった話に戻る。The Police のSo Lonely(http://jp.youtube.com/watch?v=inFm_DRNsQ0)は地下鉄浅草線だ!しかも「終電後にエキストラを入れて撮った」という雰囲気がまるで感じられない。つまり本気?で動いているフツーの浅草線にポリスが乗り込んで撮った風なのだ。違ったらごめんなさい。もしそうだとしたら後年の人気を考えるとありえない。スチュワート・コープランドの悪のりが笑える。

●訳知りの人は
Oasisの Don't Look Back In Anger(http://jp.youtube.com/watch?v=Wz_3ljfBass)はまぎれもない大傑作である。しかしボーカルをノエルが取っているためリアムがひたすらヒマである。プール上でドラムを叩く設定も謎。そうそうこの歌詞で出てくる「サリー」とは何を指すのか知っている人がいたら教えて下さい。
Jeff Beck&Rod Stewart のPeople Get Ready(http://jp.youtube.com/watch?v=WRq7A_5sdfY)は私情をそのままPVへ持ち込んだ作品といえよう。ギタリストとしてのベックとヴォーカリストとしてのロッドは互いに天才と認め合い、マーケットもそう認めている。ゆえになのかくっついたり離れたり。この曲は「くっつこうか」へベクトルが向いた際にできたと見られる。来いよと呼びかけるロッドはなぜか山小屋にいる。そこをベックが訪ねていくシチュエーションなのだが、何といっても滅多に見られないベックの「演技」に注目。列車(貨物車?)のなかで弾きまくるベック、農民に囲まれて弾きまくるベック、子どもにギターを教えるベック。アンプは当然ない。そしてロッドとの感動再会。抱き合ったぞ。でもロッドは最後は結局女の子と踊ってしまう。この辺が暗い結末を暗示させる

●パロディーを超えている
サタデー・ナイト・ライブのティナ・フェイがサラ・ペイリンの物まねで絶賛され、ついにペイリンご自身まで登場して全米が爆笑の渦と化したのは記憶に新しい。出るペイリンさんもすごい。このような設定がBette Midlerの Beast Of Burden(http://jp.youtube.com/watch?v=D4R9FiKE0Tk)で見られる。何しろパロられるミック・ジャガー自身が全編出演。最初の会話では恋人らしきベット演じる女性に浮気を疑われている。つまりミック自身がミックのパロディーでもあるのだ。ティナ・フェイもベットも本業は女優でいずれも高い評価を受けている。そしてストーンズの名曲をベットが歌うのだけど、その演技はソックリを超えて「いくらミックでもそこまで……」である。それを冒頭の会話で「1曲だけは聴いていくよ」と約束したミックが見ていたためにという展開だ(編集長)

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2009年1月13日 (火)

葛飾柴又女子大生殺人放火事件の現場を歩く

Img_6956_2  上智大学の女子学生・小林順子さんが葛飾区柴又で殺されてから12年を越えた。公訴時効まで3年を切ったことになる。昨年9月被害者の父親は、死刑に相当する凶悪事件の時効の撤廃と、殺人の時効が04年発生までが15年で05年以降が25年に分かれている状況を改善し統一してほしいと訴えた。
 すでに700件以上の情報が寄せられ、延べ4万人も捜査員を投入したにもかかわらず、いっこうに事件が解決しないことへの苛立ちが遺族にはある。

 京成線の柴又駅改札を出ると、寅さんの銅像に迎えられた。渥美清主演『男はつらいよ』の実家があることで知られる場所だからだ。取材に訪れた日、寅さんの実家がある設定になっている駅から帝釈天に続く参道は、新年の参拝客でごった返していた。
 その喧噪を避けるようにして踏切を渡り、歩くこと数分で現場となった元自宅に到着した。毎年、事件の起こった9月9日に両親や警察などが花を手向ける空き地は、人の侵入拒むように鉄パイプで囲まれていた。自宅があったことを示す唯一の痕跡は、土地の一部に残るコンクリートにタイルのみ。玄関だったのだろうか、道に面した道路際から土地の奥へと白いラインとなっていた。事件から約1年は「事件のあかし」として、遺族は娘が殺害後に放火され自宅の焼け跡を黒こげのまま残していたという。しかし解決をみることなく、取り壊さざるを得なくなってしまった。
「(事件が起こってから)もう10年にもなるかしら?」
 近所に住む女性は、私の取材にそう答えた。12年を越えたことを伝えると、「もうそんなに……」と言葉を継ぎ、「私は姪がたまたま9月9日が誕生日だから事件のあった日付まで覚えているけれど、10年を越えるとなかなか思い出せないですよね」と話した。
 事件の風化が少しずつ進んでいることは事実だろう。

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『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2009年1月12日 (月)

書店の風格/第26回 ふたば書店 平井店

 出版社の営業部員であれば、絶対に営業をかけたくない書店が、一つや二つあるものと思う。
 それは今どき頑固爺がハタキを持って待機しているようなヘンクツ書店でもなければ、大手版元の名を出さなければ担当者が出てきてくれないような(何故かその担当者はいつもお休みを頂戴している)「天岩戸」書店でもない。小さい頃から、もしくは街に居ついたときから通っている地元書店である。気軽に何でも買える本屋さんとして愛しているため、ヘタに親しくなれないのだ。日ごろ大真面目なフリしてお世話になっている書店員さんのレジでダイエット雑誌やマンガを買うのは、なんとなく気恥ずかしい。

 今日は、奥山の地元書店「ふたば書店 平井店」について、勇気を持ってご紹介したい。

 どこにでもあるような「町の本屋さん」であるが、「町の本屋さん」自体が次々とつぶれていく中で生き残っている、もはや貴重な書店と言える。江戸川区平井という町は、特に南口側に限った話ではあるが、矢鱈めっぽう本屋がない。慎ましやかに見える店内には「とにかく庶民の期待に応える」ための本がガッチリと並んでいる。

 平井はどちらかというとホームタウン的な様相をしている。雰囲気を知るためには駅前の「ガスト」に立ち寄るのが一番だ。無味乾燥なはずのファミレスチェーン店が、地元の雰囲気に侵食されている。客も店員もみな知り合い同士で、接客がユルいのだ。一見オシャレに見える喫茶店も、一歩中に入ればご近所のおばちゃん、おじちゃんたちの駄弁り場で、店の雰囲気は客が作っていくものなのだなとひしひし感じる瞬間が味わえる。昔ながらの下町だ。更に特徴的なのは、少子化の時代とは思えぬほど子どもを見かける。土曜日のマクドナルドは小中学生が半数以上を占めており、休日は閑散を極める都心ビジネス街の店舗とは大違い。若々しさがぎゅうぎゅうづめなのだ。

 そんなかれらが平井の本屋の客層だ。雑誌半分、書籍半分という思い切ったつくりは、地元民が長く決まった雑誌を買うことを知り尽くしているからできること。雑誌はビジネス誌10%、ファッション誌20%、コミック誌20%、実用誌30%、趣味・その他20%という構成(パーセンテージは奥山の目安)。仕事バリバリのお父さん方よりも、お子さんと主婦に目を向けた品揃えである。さらに書籍もコミックと文庫で60%程度を占め、あとは小説(ケータイ小説が豊富)、新書と、やはり肩の力を程よく抜いていて、地元民に寄り添う姿勢にたいへん高感が持てる。

 そんな中で手書きのPOPを時折目にすることがある。シンプルでさらりとした文章が目に焼きつき、このPOPを書いているのは誰?? と気にはなっているのだが、急に「すみません、POPを書いているのはどの書店員さんですか?」と聞くわけにもいかない。一般人がいきなりこのようなことを言ったら、ただ変人扱いされて終わりだろう。そして紹介されてもどうするというのだ。「いや、気になったもんで…」ますます変だ。しかし版元の者だと言えば、どんな怪しい本も気兼ねなく買えるオアシスをなくしてしまうことになるし…うーん、ジレンマ。(奥山)

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2009年1月11日 (日)

ホームレス自らを語る 第19回 車いすに乗ったホームレス/林さん(仮名・61歳)

(林さんは脳梗塞の後遺症で半身不随になり、車いすで路上生活をしている)
 オレが48歳のときの、冬の寒い晩のことだった。銭湯から外に出て冷気にあたったとき、ちょっと立ち眩みのようになって、気分もムカムカしたんだ。いま思えば、あれが前兆だったんだが、すぐに直ってしまったから、そのままにしてしまってね。
 その翌日、当時働いていた赤羽(東京・北区)の製本工場で、仕事中に倒れた。すぐに救急車が呼ばれて病院に運ばれ、集中治療室で治療を受けた。病名は脳梗塞。一命は取りとめたが、左半身に麻痺が残った。
 その病院に3ヵ月入院して、それからリハビリ専門の病院に移り、懸命のリハビリをして、杖を使えば何とか自力歩行ができるまでに回復した。
 それで退院したんだが、杖を使ってやっと歩ける状態では、仕事に復帰するわけにもいかないしね。で、田舎の実家をたよって帰ることにしたんだ。オレの田舎は群馬の高崎で、実家は雑貨商と水道工事店を営んでいた。実はオレはオヤジから勘当されていた身でね。
 6年ぶりに帰ったオレを見て、「そんな身体になって、なんでおめおめと帰ってくるんだ」そうオヤジはなじって、オレの背中をドーンと突き飛ばした。オレは道路に倒れ込んで、したたかに左半身を打ち据えた。それでオレの左半身はまったく動かなくなってしまった。本当に血も涙もないオヤジなんだよ。
 また、東京に戻って、前から借りていたアパートの部屋に入って、それから1年間籠りきりになって部屋から1歩も出なかった。こんな身体になった人生や、そんなオレを助けようとしない親兄弟に絶望したんだね。
 生活費はアパートのあった練馬区の福祉から生活保護を受け、食事や洗濯など身の回りのことは、製本工場で働いていたころの同僚が隣の部屋に住んでいて、その彼が面倒みてくれた。いまでも彼には感謝の気持ちでいっぱいだよ。
 1年して練馬区内のバリアフリーのアパートに空きができて、そちらに移った。こんどは手助けをしてくれる人はないから、車いすに乗って全部一人でやらなければならないから大変だった。食事も自炊でね。といっても、出来合いの惣菜を買ってくることが多かったけどね。そのアパートでは5年間暮らしたのかな。

 オレが生まれたのは昭和21年で、群馬県の高崎市。5人兄弟の長男。家はそのころから雑貨商と水道工事店を営んでいた。
 オレは中学校を卒業して、自動車エンジンを製造する地元の工場で働きながら、定時制の工業高校に通った。だけど、元々工業系は好きじゃなかったから、仕事も学校も面白くなくてね。1年で両方ともやめてしまった。そのあたりからオヤジとの関係が、ギクシャクするようになったんだな。
 それで東京に出てスナックで働くようになる。ただ、オレは長男だったから、オヤジはオレに店を継がせる気だったんだろうな。高崎に呼び戻されて、家業を手伝わされた。
 ところが、オヤジとオレはまったく反りが合わなくてね。ことごとくに反発し合うんだ。オヤジは頑固一徹で厳しいだけだし、オレのほうはチャランポランで店の仕事をサボってはギャンブルに行ったり、夜毎酒を飲み歩いたりでね。
 そのうちに馴染みのスナックのホステスのアパートに転がり込んで同棲を始めて、籍まで入れてしまったりね。そんなことが2度あったんだな。それでオヤジもいくら長男でも、こんな息子に店は譲れないと思ったんだろう。オレは勘当を言い渡されたんだ。42歳のときだった。

 勘当されたのに高崎に住んでいるのは具合が悪いからさ、それで東京に出てきた。はじめのうちしばらくは土木の日雇い作業員をして、そのうちに赤羽の製本工場に雇われて、そこで働くようになった。といっても、日払いの仕事だから日雇いとあまり変らなかったけどね。
 その製本工場で働いていたとき、脳梗塞で倒れ半身不随になって、車いすの生活を余儀なくされたわけだ。
 例の練馬区の福祉から斡旋されたバリアフリーのアパートで暮らしていたとき、猫を飼ったんだ。オレは動物が好きだし、一人暮らしの退屈を慰めるためと思ってね。ところが、そのアパートはペットの飼育が禁止で、猫のことが大家にバレて有無をいわさずに追い出されてしまった。
 それで困って練馬区の福祉に相談に行ったら、茨城県の施設を紹介してくれて、そこに入った。でも、そこは認知症(痴呆症)老人の介護施設だった。オレ以外の入所者は、全員が認知症老人ばかりなんだからね。気持ちが悪いといったらなかったよ。
 多分、オレが契約違反の猫を飼ったりしたから、福祉の担当者が腹をたてて、わざとそんな施設に送り込んだのだろう。嫌がらせさ。 
 とにかくそんな施設では暮らせないから、早々に逃げ出してこの(新宿中央)公園で暮らすようになったんだ。3年前のことだよ。
 車いすでの公園暮らしは大変だけど、仲間のみんなが食事や寝るところの面倒をみてくれるんで助かっている。酒も飲ませてもらえるしね。
 この公園に移ってから、新宿区の福祉に施設への入所を希望していたんだ。それがようやく山谷にあるバリアフリーのアパートに、空きができそうだという情報でね。公園での野宿も、あと少しで終わりになるかもしれないんだ。
(聞き手:神戸幸夫)

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2009年1月10日 (土)

●サイテイ車掌のJR日記/年頭に寄せて

○月×日
 年が明けた。
 風もなく穏やかな日々が続いている。日陰は寒いが、日向にいれば太陽のぬくもりが感じられて暖かく、体が随分と楽だ。どこまでも澄み切った青空を見ていると、暴風雪に凍えながら泣いたり笑ったりしたふるさとを思い出す。分けてやりたいよ、この天気を。

 今年は、というと、これといった夢や希望、目標、期待などは何もない。ただ、何事も平穏無事であってほしいと願うだけだ。
 もうバカはしない。むちゃはしない。自分一人の力では何にも出来ないことはよく分かっている。
 若い人たちにもついていけない。波長がどうも合わないのだ。すっかりオヤジと化してしまったようだ。
 冬は温泉に限る。昨日は箱根で、今日は草津だ。そんな気分になれるのだから、いいね、やっぱり。入浴剤は。
 これからは、他人に迷惑だけはかけないように、隅っこで慎ましく生きていこうと思っている。
 そんな中でもいくつかの感動に出会うはずだ。それは小説だったり音楽だったり。のんびりゆったりと過ごし、時の経つのも忘れさせてくれるような夢中なひとときがほんの少しでもあればいい。本当にそれだけでいい。
 そりゃあ辛いこともあるだろう。でも大騒ぎはしない。だいたいがちょっと辛抱すれば何事もなかったかのように済んでしまうことだ。平常心で対処していけば万事オーライだと思う。

 JRは年中無休で営業している。365日フル回転だ。従って、私達にも正月休みはない。でも、そんなことはもう慣れっこで、愚痴をいうのもアホらしい。私も相変わらず東京と高尾を行ったり来たりだが、中央線は元日に八王子で、2日にも新宿で人身事故があった。元日に人身だなんてこれまでに記憶がないが、中央線だものな、こんな事もありだろう。
 乗務は乗り出したら2時間以上もトイレに行けないことはざらなので、体調だけはしっかりと整えなければならない。そして、早朝だったり夜だったりの毎日違う出勤時刻までにキビシク出勤をする。
 1秒進んでいるだの遅れているだのの時計の整正などの厳正なる点呼を終えると乗務開始となる。
 発車番線を間違えないようにホームに出場する。信号を確認して時間で電車を発車させる。次駅に着けば停止位置を確認してドアを開ける。お客さまの乗降に注意する。時間が来れば再び信号を確認して発車させるの繰り返し。
 たまには時間を間違えたりでハッとすることもあるが、そんなこんなで30年。たいしたことではないよ、何もかも。

 嫌な仕事でも我慢出来るのは、それ以上の黄昏に身を置こうが解放をも許してくれる今夜のウィスキーが待っているから。枕を並べて安らかに眠ることが出来るからだ。いくら打ちのめされても何もかも忘れさせてくれるのはこの2つだろう。
 愛があれば仕事は出来るよ。愛さえあれば何があってもへっちゃらだという時期があったでしょうよ、おぬしにも。

 しかしね、あんまりの荒模様にだけはなってほしくない。勘弁してよと心底思う。こうした平凡な毎日にこそ感謝をしつつ、本年も引き続きよろしくお願い申し上げます。
(斎藤典雄)

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2009年1月 8日 (木)

ホームレス自らを語る 第18回 私は神である/岡田信彦さん(53歳)

 生まれは広島県の呉市。昭和29年生まれだから、今年53歳になる。呉は昔から軍港として栄えた町で、海軍工廠もあった。戦艦「大和」もここで建造されたんだ。
 オレは5人兄弟の末っ子。オヤジは漁船員をしていた。漁に出た日は毎日魚を土産に持って帰ってきてね。瀬戸内海の魚は、どれも活きがよくてうまかった。タイ、タコ、イカ、ハモ、フグとかね。ホントにうまい魚ばかりだった。
 小学2年生のとき、一人で花火遊びをしてたら、その火が近所の民家に燃え移って火事になってね。その家は丸焼けになってしまい、オヤジからドえらい剣幕で叱られて、そのまま施設に預けられた。
 うーん、何の施設かよくわからんが、小学1年生から中学3年生までの子が全寮制で生活していて、たしか「広島学園」とかいったと思う。オレも学園には中学3年までいて、それから福岡の牧場に雇われて働いた。
 その牧場は乳牛を150頭も飼育していて、作業が重労働で大変なんだ。朝は3時起床で、150頭からの牛に餌をやって、それから搾乳だ。まだ搾乳器なんてない時代だから、1頭1頭手搾りだからね。それがすむと牛糞の片付け、餌の草刈り、冬の餌用の干草づくりと休む暇なしさ。とてもやってられないと思って、そこは7ヵ月くらいで逃げ出していた。
 それから呉に戻って、左官の親方のところに弟子入りして見習いになった。左官の仕事にも肉体労働はあるけど、牧場の仕事に比べれば天国のようだった。ただ、どういうわけか、いつまでたっても見習いのままでね。3年も辛抱したけど見習いのままで、ちっとも上にあがれないんだ。それで左官の仕事に見切りをつけて、東京に出てきた。
 東京に出てきて、いきなり自衛隊のスカウトマンに声をかけられてね。オレも仕事を探していたときだから、渡りに船でそのまま自衛隊に入隊した。
 横須賀の基地で3ヵ月間の新人訓練を受けてから、北部方面隊(北海道)の名寄の駐屯地に配属になった。機関銃部隊に入って、機関銃の射撃訓練に明け暮れる毎日だった。冬になると機関銃を担いで、スキーで移動する訓練もあった。だから、スキーは上手なもんだよ。
 自衛隊には3年間の満期除隊になるまでいて辞めた。除隊のとき階級は陸士長だったから、旧陸軍でいえば上等兵になるのかな。
 自衛隊を除隊して東京に出てきた。あとはお決まりの建設工事の日雇い作業員になった。飯場から飯場を渡り歩く生活だ。
 その日雇い作業員をしていた5年前のことだ。道路を横断しているときに、車にハネられて大ケガを負った。右足を骨折して15針縫うケガで、病院に1ヵ月間入院した(岡田さんはいまもケロイド状に残る、ケガの跡を見せてくれた)。
 1ヵ月後に退院して病院を出されたんだが、右脚を引きずるようになっては、もう現場の肉体労働は無理だからね。それでここ(大田区六郷橋下)に来て暮らすようになった。ホームレスになったわけだ。
 生活は見ての通り、アルミ缶拾いをやっている(取材中、岡田さんはアルミ缶とスチール缶の選り分けに余念がなかった)。アルミ缶はいま1㎏180円くらいで引き取ってもらえるから、1日の稼ぎとしては1500~1600円くらいになるのかな。贅沢はできないけど、食べるのには困らないね。
 それにしても、アルミ缶は拾っても拾っても尽きることがないからね。ありがたいというか、不思議なもんだ。
(このあたりから、岡田さんの言動が少しおかしくなっていく)
 毛利元就を知っているかい? そう、戦国時代の武将で、オレの生まれた呉をはじめ中国地方10ヵ国に、伊予から豊前までを治めた逸材だ。3人の息子を前にして、1本の弓矢では脆くて折れてしまうが、3本で結束すれば折れないという教訓を残したことは、よく知られているだろう。
 実はオレはその毛利元就の末裔なんだ。ウソじゃないよ。いまはこんな生活をしているから、それを証明するものは持ってないんだがホントのことだ。
 それとね。平成天皇である明仁陛下は、オレの兄なんだ。つまり、オレは今上天皇と血を分けた兄弟である。だから、皇太子の浩宮親王は甥にあたる。
 毛利元就の末裔であって、今上天皇と兄弟であるオレは神である。
 こんなところでホームレスをしているのも、ある使命を帯びているからだ。その使命とは北海道から、九州、沖縄までの47都道府県に1ヵ所ずつ、ホームレスの保護センターを建設することなのだ。
 まだ1ヵ所もできていないが、1年半以内に47のセンターを建設しなければならないから、いま非常にいそがしい。
 1年半でできるのかって? できるさ。何しろオレは神だからね。このアルミ缶拾いも保護センター建設資金の一部にするためなんだ。いまの日本政府には建設資金を調達する能力がないから、それに代ってやれるのはオレしかない。
 それがすんだらどうするのか? 地球上には解決しなければならない問題が山積しているからね。神には休んでいる暇はないよ。
(途中まで、ごく普通に淡々と進められてきた取材だったが、突然「オレは神だ」と言い出したあたりから妙な展開になった。どうやら、岡田さんは心を少し病んでいるようである。)
(聞き手:神戸幸夫)

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2009年1月 7日 (水)

新聞がネットへ移行できないわけ

新聞社の相次ぐ赤字決算の報を受けて「いよいよ来たか」の感が否めない。多分今のままのビジネスモデルで回復することはないだろう。部数低迷などの低落は昨日今日の話ではなくずっと昔から続いてきた。それを「見やすい文字」や段組・レイアウトの変更、カラー化など出来る限りの手法を駆使してしのいできた経緯がある。もはや紙で出す今の形式自体に限界があると言わざるを得ない。

ではどうするかというとネットへの移行が一番手っ取り早い。この手法はニュースを届けるという一点では割合簡単に移行できる。新聞社は巨大な情報収集機関であり、それを発信する先が自社発行の紙であれネットであれ大した違いがないからだ。問題は広告である。
例えば政界裏事情や血みどろ事件の続報といった記事をネットへアップすればページビューは稼げる。しかしそれに関連した広告が付くとは思えない。しかも新聞記事は宅配を依頼していないと午後すぎに朝刊を買おうと思ってもまず手に入らない。これほど素早く腐ってしまう商品も珍しい。内容も当然のことながら毎日毎日変わる。記事1つ1つに広告を付けるメリットも方法論もほとんどないのである。
よって新聞紙はあれやこれやを詰め込んだパッケージとして完結させ、その固まり自体の信頼性を武器に広告を入れる。スペースを確保するために建て数(ページ数)を決める。目を覆いたくなる殺人事件の記事を社会面で展開していてもその下にコンサートやら旅の広告を入れられるのは「記事との関連性がない」がゆえだ。しかしネット広告は記事との関連性が不可欠である。この問題を解かない限り今の売上をネット移行で叩き出すのは不可能といって過言ではない。そしてそのアイデアは誰にもない。

では各新聞社のサイトへ広告を導くという手法はどうだろうか。多くの読者はそのURLをブックマークして順に読むということはしていない。検索でいわば水平方向でやってくる。だからサイトがどの社であるかという点と広告効果の関連性はほとんど見出せまい。せいぜいソースが確かかどうかというぐらいであろう。

誰かこの難問を解いて下さいませんか? (編集長)

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2009年1月 6日 (火)

Brendaが行く!/日本人の女の顔はルネッサンスだ

私が日本の美についてヨーロッパの女に説明すると。

見解の相違が・・・




美白

まゆを整える(まゆそりカミソリを見せる)


上記2点ともヨーロッパにはないもの。


まゆそりのカミソリはなく、T字のカミソリしかない


まゆとかあまり整えない。
毛抜きで抜いたりはするが、日本人みたいに、化粧をとったら眉なし顔とかは、頭の悪い階層以外あまりいない。



それで言われたコメントにビックリ


「結局それって現代版の芸者じゃん」って



確かに


白さを目指すのも



眉をそったり書いたりするのも



結局過去にさかのぼった美意識の再生なのかもしれない。




芸者と言われると腹だたたしいが


指摘されて気がつく自分のルーツ

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2009年1月 5日 (月)

●ホームレス自らを語る 第17回 宗教研究で日々をすごした/松下定雄さん(仮名・58歳)

0901  昭和25(1950)年、岐阜県の農家の生まれです。ただ、兄弟が7人もいて、その5番目でしたから、中学校卒業と同時に名古屋の理容店に見習いで入りました。そこは名古屋駅前の大きな店でしたから、客の途切れることがなくて忙しいばかりで、とても理容の修業にならないので、四日市(三重県)の理容店に移ります。
 そこから理容学校に1年間通って、理容師の免許を取得して、その店で理容師として働くようになりました。それでいつかは私も独立して、自分の店を持つ夢をもっていたんです。ところが、理容店を始めるには相当な資金が必要で、私がもらっていた給料では、いつまでたっても店は持てないことがわかりました。それでその夢を諦めて、理容店はやめてしまいます。22歳のときのことです。
 それで東京に出てきました。東京ではホテルの清掃を専門にしている会社に就職しました。この会社には4年間いて、前半の2年間がホテルオークラの夜間清掃、後半の2年間はホテルニューオオタニの客室清掃を担当しました。
 それからビルの窓拭き作業員になりました。ゴンドラに乗って、ビルの窓や壁を清掃するアレです。危険を伴う作業ですから、ホテルの清掃作業より賃金がよくて移ったんだと思います。この仕事も2年間やりました。
 私ははじめ理容師になり、そのときは特に感じなかったんですが、ホテルの清掃やビルの窓拭きの仕事に就いて、人を相手にしない仕事がいかに楽であるかを知りました。客の話しに相槌を打ったり、お世辞を言わなくていいんですからね。客を相手にしない仕事こそ、私向きの仕事だと悟ったわけです。

 28歳のとき、さらに私向きの会社に巡り合います。S梱包という、いわゆる口入れ業をしている会社です。いまでいう日雇い派遣のような仕事の斡旋をしていて、日当は当日清算、つまり日払いしてくれる会社でした。当時、こんな会社はここしかなかったと思いますよ。
 ここで仕事の斡旋を受けたい人は、早朝からこの会社の前に行って並べばいい。並んでいる順番に仕事を割り振ってくれるんです。よほど遅れて並ばない限り、仕事にありつけました。仕事の内容は、ほとんどが一般家庭や企業の事務所の引っ越し作業でした。
 私の場合は毎月20日頃から月末まで連日通って働き、翌月の生活費とアパートの部屋代を稼ぎ出しました。
 で、月はじめから20日頃までは、何をしていたかというと、アパートの部屋に籠って読書三昧の日々をすごしていたんです。昔から読書が好きでしてね。ですから、月の3分の1だけ働いて、残りの3分の2を読書に充てるというサイクルは、私には極楽のようでした。そんな生活を15年間も続けたんです。
 読書のジャンルは人文科学系のものが多かったですね。お気に入りの著者は、渡部昇一、竹村健一、日下公人、梅原猛といった面々でした。
 実は、そうした著者の著作以上に貪り読んだのが宗教関係の著作で、特に日本の新興宗教に関する著作は片っ端から読み漁りました。S教団の全48巻からなる教義の全集はじめ、大半の教団の教義は読みました。ですから、各教団のパンフを見ただけで、その教団が欲得尽くの儲け主義でやっているのか、真摯な信仰を求めてやっているのか、すぐに見分けがつきます。
 そのなかで本物の宗教団体として、私が惹かれたのはO氏が主宰するK教団ですね。ここの教義や宗教活動は本物だと思います。信者に高学歴の人が多いのも、それを証明しています。私も入信しました。O氏は存命中で、いまから聖人として持ち上げるのは生臭いですが、亡くなれば偉大な宗教者として、人々の尊崇を集めるんじゃないかと思いますね。
 読書三昧に費やした本は、すべて自腹を切って購入しました。自分で買った本でないと、知識が身に付かないというのが持論です。図書館から借りた本には書き込みができないし、本というのは常に座右に置いて、必要なときにすぐに開いて見られるようになっていませんとね。
 結婚はしませんでした。結婚によって、せっかくの至福のサイクルが崩れるのが嫌だったんです。
 しかし、その至福のサイクルが崩れる日がやってきます。バブル経済の崩壊から2年ほどした93年のある日のことです。いつものようにS梱包の前に早朝から並んだのですが、半分以上の人が仕事にあぶれました。私もあぶれ組でした。いつの間にか平成不況に入っていたんですね。
 それからの状況は悪くなるばかりで、読書三昧、宗教研究どころではなくなっていき、アパートの部屋代も払えなくなっていました。アパートを追い出されても、すぐに路上で野宿する勇気はありませんからね。はじめのうちは深夜喫茶で夜を明かし、その金が尽きてくるとハンバーガーショップで明かし、いよいよ無一文になって路上に寝るようになりました。
 最初は新宿のビルとビルのあいだに、段ボールで箱を組立てて寝ていましたが、酔っ払いに箱を蹴られたり、上から潰されたりで、怖くておちおち寝ていられませんでしたね。それでこっち(代々木公園)に移ったんです。この公園には一般の人が夜間入ってくることがありませんから安心です。
 いまは読書をしたくても、買うカネを持っていませんからね。それに食べるものを確保するのが大変で、そんな時間もありません。

(聞き手:神戸幸夫)

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2009年1月 4日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/番外編 書評『わたしの葬儀』

4794976267  「旅立ち」をめぐる21のヒント、というサブタイトルがついた晶文社出版刊のこの本は、エッセイスト・山本ふみ子氏の優しい語り口が魅力である。遺言書、尊厳死、生前葬、遺影、散骨など「興味はあるがいざ調べようと思うとなかなか踏ん切りがつかないこと」諸々について、実際の経験や周囲の人びとの話を交えながら少しずつ掘り下げていく。

 どの章も女性らしいやわらかさに満ちている美しいエッセイだが、個人的にもっとも気になったのは「喪服」の話題である。社会人になりたての頃の著者は喪服を買いに行くが、先輩に「喪服としてできているんじゃない黒い服を買いましょうよ」とすすめられ、森英恵のスーツを求める。そして「今年で22年めになるが、かたちも崩れずデザインも好きなまま、ずいぶんお世話になった」と言う。
 喪服として仕立てられた服と、普通の黒い服を見分ける基準は「黒さ」である。黒いスーツと言えども、リクルートスーツや通販で買ったものと百貨店のブラックフォーマルコーナーで買ったものとでは、黒の深さが違う。太陽光に照らされれば一層その違いは明らかになり、世間の女性は安物とばれるのが嫌で、ブラックフォーマルコーナーへと走るものと思っていた。私自身も喪の席で深い黒のシルクを身につけている女性を見ると、格調高い気がしてあこがれたものだ。

 とは言っても、私自身が葬儀に参列する際に着るのは普通の黒スーツである。夏の法事に至っては半袖のカットソーが黒いだけである。「黒い服を着ている」というよりは「服が黒い」という程度のものだ。そしてストッキングの要らないパンツスーツにしてしまう。ただパンツスタイルは正座のときに締め付けられてどうしても足がしびれるので、正座の予定があるときはスカートを履くが。
 どうしてそうしているかというと、単純に仕立ての良い喪服を揃える資金が不足しているからだ。そしてたいていの場合、わたしの姿を見咎めても悪く言うような親族は一切いない。以前葬儀社に勤めていたことを知っているからだ。「ちゃんとすればちゃんとできるのだろう、しかしあえてそうしないのだ」と皆思ってくれている。なんという楽チンさ。そう、ただの黒スーツを着ていて咎められるのは、本人がモノを知らないと周囲に思われたときのみなのだ。すっかり了解したうえならば自分の流儀でやってしまってかまわない。ということは、最初から何も知らずに知った顔して自由なことをすればいいんじゃないのか?! もしくは、咎められても聞こえない強靭な精神があればいいだけじゃないか?!

 無知とKYが葬儀の場を救うかもしれない、という話はさておき、私ならば予算があったらやっぱり漆黒のフォーマルドレスを買ってしまうなあ、と思う。安物にありがちな中途半端に流行を追ったデザイン、型崩れしがちな肩パッド、陽に焼けてしまうステッチ…が一掃された美しいフォーマルドレスは、永遠の憧れだ。きっと葬儀社に勤めることがなければ生まれなかった撞着であろう。ある意味、不幸なのかもしれない。

 およそ本の内容とは関係のない自分の話になってしまったが、山本さんのエッセイには「そういえば、私はね…」と自分のことを語り始める気にさせる力がある。著者の語りを皮切りにして、体験談が華やぎだす不思議。きっとこの本を読む誰もが「母のときはこうだった」「知人のときはこうだった」と、過去の葬儀経験に思いをめぐらすだろう。およそ弔いというものは儀式的なものではなく、民俗的なものであるということを再発見させる一冊。(小松)

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2009年1月 3日 (土)

レンゾ日本26聖人記念館館長、列福式を語る

Photo長崎駅から徒歩10分。急坂を上がると、26体のブロンズ像が出現する。裏手にはザビエル自筆の書簡も展示する日本26聖人記念館が控えている。ここを若き日の遠藤周作が『沈黙』を完成させるために何度となく立ち寄った。館内には今もイエズス会士がいる。名はデ・ルカ・レンゾ神父。福者の調査に携わってきたアルゼンチン出身の聖職者が舞台裏を語った。

Photo_2  本文 17世紀中ごろ、バチカンは徳川家光時代の日本人の殉教者を列福する動きを見せたが、決まらず、鎖国状況下で散った最後の宣教師・ペトロ岐部らの名は人々の記憶から消えた。爾来、450年、さる11月24日、ついに、日本各地で殉教した144人が長崎市で列福された。
 列福の条件は、生前の徳と聖性を確認できること。その人物の足跡を地元で徹底的に調査し、その後、ローマ教皇庁の列聖省が調査・審議した上で、最高位の聖人に次ぐ呼称を得る。近年ではマザー・テレサが列福された。
Photo_3 「アルゼンチンにいたころ、日本の時代劇を見たことがあった程度です。そんな素朴なイメージしかなかった。目上が『日本に行きなさい』というので来ました」
 と語るデ・ルカ・レンゾ日本26聖人記念館館長の日課のひとつは、連日100人近い入場者に展示物の解説をすること。そして、17世紀のローマへ出されたイエズス会の報告書を翻訳すること。
 日本ではフロイスらイエズス会士の報告書が有名である。しかし、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施したヴァリニャーノ・イエズス会巡察師がローマに送った報告書も完訳されずにローマのイエズス会本部やバチカンのアーカイブに遺されている。現代日本語と古文ほどは差がないが、中世のスペイン語とポルトガル語は現代のそれとは異なる上に、報告書が手書きなので判別が難しい。
 レンゾ神父が聖職者の道を歩むために、ザビエルゆかりのイエズス会に入会したのは17歳。ブエノスアイレス北方のエントレリオスで農業と牧畜を営む家で5人兄弟の1人である。妹さんもシスターになった。「親類に良い神父になった方がいて、子供のころから憧れていました」
 アルゼンチンを出たのは21歳。1985年、東京に着くと、2年間、日本語を学習して、大船で司牧経験を経て、上智大学で神学を研究。長い修練の果てに晴れて司祭となったのは日本だった。叙階後、大内義隆の宗教政策をテーマにして、九州大学大学院国史学科を修了。長崎に来て、前館長の右腕になった。
 列福された188人の遺骨の一部は日本26聖人記念館に安置されている。
「中浦ジュリアンのように磔にされて役人に遺骨を海に捨てられたケースもあります。遺骨をマカオなどに持ち出した信徒と海の向こうで保管していた信徒の献身的活躍がなければ、1995年にマカオから遺骨が里帰りすることはありませんでした」
 長崎か東京か。バチカンのナンバー2の教皇代理を迎える前、日本の司教団の中でも意見が分かれた。日本で福者が出るのはこれが最初で最後になる。
「カトリックのPRをする計画ならば、東京でしたが、最後に長崎が残りました」
 司教団内部での連日の議論の果てに、列福式が長崎に決まると、海外からも入館者が急増した。一番多いのは隣国の韓国から。ほかにもフィリピン、インドなどから。
 長崎は、16世紀に大村藩から寄進を受けて、イエズス会がゼロから開拓した街である。幕末にフランス人神父がフランス人船員のために教会を作るまで、
 七代すれば神父様がまた来てくださる。
 そう本気で信じて、祈りを継承させ、300年以上鎖国下で迫害を耐えて、法王の使者を待ち続け、19世紀末、西洋世界を驚嘆させた隠れキリシタンの地が長崎だった。
 欧米の宣教集団が赤化した中国を離れ、戦後の日本に流れ込んだ時代がある。イエズス会だけでも年に15人から16人の宣教師が来日していた。戦後60年以上、教育・医療などの分野で日本社会に貢献してきたが、その当時の体制で、学校、教会、研究機関の維持は難しい。
 イエズス会の門を叩く日本人は年に1人か2人はいる。信徒数は50万人程度。一方、アルゼンチンの信徒数は3000万人。それでも毎年5人か6人しかイエズス会入会者が出ない。それを考えると、高齢化と世俗化が進む日本の教会の現状にも突破口はあると見るレンゾ神父の座右の聖句は「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28) 。26聖人に続いて、188人の福者が聖人になる日は遠くない。その日を見据えて、レンゾ神父のさらなる研究は続く。(李隆)

【参考資料】
AFP通信が報じた列福式

◆12月26日(日曜日)にNHK・ETV特集が放映した列福式特別番組

長崎26聖人記念館について

イエズス会について

◆ビエルはアジアを担当したが、そのころ同時に、アフリカにも南米にも宣教師がいた。南米・パラグアイのインディオを宣教した当時のイエズス会の史実を潤色して名画になったロバート・デ・ニーロの代表作「ミッション」

◆カトリック中央協議会の列福式の記録動画

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2009年1月 1日 (木)

新聞崩壊の影響を考える

 明けましておめでとうございます。
   今年もよろしくお願いいたします。

 さて、年始のご挨拶ということで、ご祝儀で景気のよい話でもしたいのだが、残念ながらどこを探してそんな話がみつからない。どうせ暗い話しかないのなら、昨年の10大ニュースでも取り上げてメディア絡みの暗~い話をめいっぱい書いておきたい。

 昨年、衝撃を受けたのは新聞の不振だった。別に新聞社が好きなわけでもないが、「まあ勝ち組だろう」と思っていた朝日新聞が半期ベースの連結決算で100億円以上の赤字を記録したのには驚いた。単体でみても売上高が142億円も減少。広告の落ち込みが特に激しいという。
 となれば他の新聞社も想像の通り。
 毎日新聞中間期の連結決算は、営業利益で前年同期5億4100万円の黒字が25億8000万円の赤字となった。産経新聞の中間期・連結決算では、9億2900万円の黒字だった営業損益が、4億3400万円の赤字になったというから深刻だ。
 米国ではシカゴ・トリビューン紙やロサンゼルス・タイムズ紙を発行するトリビューン社が経営破綻となった。すでに米国の新聞記者1万5422人が解雇や買収による悪影響で苦しんでいるとの報道もある。米国新聞雑誌部数公査機構によれば、08年上半期の米新聞の発行部数は4.64%も減少した。時期を考えれば、金融不安が大きな影響およぼしたとも思えない。

 つまり新聞を取り巻く環境が、米国でも日本でも急激に厳しくなっているのだ。
 広告主はネット媒体へと軸足を移しつつあり、無料のインターネットニュースが販売部数を奪っていく。この状況のなか、100年に1度といわれる経済不況に突入したのだから、日米ともどの新聞社が潰れてもおかしくはない。

 さて、新聞が読まれなくなると何かが変わるのだろうか?
 意見の分かれるところかもしれないが、わたしは変化があると考えている。その一端を感じさせるのが、2008年の重大ニュースだ。

 まず、新聞之新聞社(小社の近くなんです!←それがどうした……)が主催した「社会部長が選ぶ今年の10大ニュース」を見てもらいたい。新聞・通信8社の社会部長が選んだという。

1位 「米国発の世界金融危機。日本でも経営・雇用の悪化が深刻に」
2位 秋葉原7人殺害など無差別殺傷事件相次ぐ
3位 福田首相突然の退陣と麻生政権の迷走
4位 中国産冷凍ギョーザ中毒事件など食の安全揺らぐ
5位 ノーベル物理学・化学賞を日本人4人が受賞
6位 イージス艦衝突事故や田母神論文問題など防衛省の不祥事続発
7位 宮崎勤死刑囚ら15人に刑執行
8位 妊婦死亡など医療崩壊が顕在化
9位 大分県教委で採用や昇進をめぐる汚職事件
10位 角界や大学で大麻汚染広がる
10位 岩手・宮城内陸地震

 どれも納得のニュースだが、興味深いのは「岩手・宮城内陸地震」を除く6~10位の項目が、読者投票で選んだ読売と毎日の2008年10大ニュースに入っていないことである。特に6位の防衛省不祥事や7位死刑執行増加がランクインしなかったところに、記者と読者の温度差を感じた。

 2004年に内閣府が発表した「基本的法制度に関する世論調査」によれば、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」6.0%に対し、「場合によっては死刑もやむを得ない」が81.4%となっている。死刑廃止を選びにくい選択肢になっていることは否めないが、それでも94年には同じ質問で「廃止」が13.6%、「やむを得ない」が73.8%だった。10年で廃止派が半分以下になった計算だ。
 こうした世論を背景にして、死刑執行が増加し厳罰化傾向が続くことに、新聞記者が不安を感じるのはもっともだろう。加害者の人権という問題を別にしても、起訴されたら99%が有罪になる日本の暗黒司法体制下で、厳罰化と死刑執行増加が続くなど、ろくでもないからだ。
 5年前には立川の自衛官官舎に反戦ビラを配った人物が75日間勾留された。左翼が騒ぐからだと言いたい人もいるだろう。しかし大物政治家のシンクタンクで働いていた女性を浮気調査で尾行していた人物が、シンクタンクからの通報で数ヶ月も勾留されたという話を個人的に知っている。加害者への厳罰化は分かりやすい論理だが、そんなに警察や司法を信じて大丈夫なの、とわたしは感じてしまう。

 新聞には、世論に訴える目的で取り上げられるニュースがある。それは客観報道から踏み出したことになるかもしれないが、新聞の大きな意義でもある。一方、ランキングなどで人気記事が頻繁に読まれるネットでは、ランキングをにぎわせない、つまり民意に添わない記事は膨大な情報の波に沈んでしまいがちだ。

 近年、硬派なノンフィクションを出版することが、どんどん厳しくなっている。かつては採算分岐点をどうにか超えていた本が、まったく売れなくなってしまったからだ。ものすごく売れる本がある一方で、大量の良質な書籍が書店の膨大な在庫に沈んでしまう。そうなると、出版社としても良質だからという理由だけでは出版できなくなる。
 同じようなことがネット上のニュース記事でも繰り返されるのではないか?

 おそらく不況が深化する今年、メディアも大きく変化していくだろう。そのなかで弱小出版社が何をできるのかは分からない。(なんもできそうにないかも……)

 とはいえ頑張りますので、今年1年また応援をお願いいたします。(大畑)
 

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