忠臣蔵吉良邸討ち入りの現場を歩く
時は元禄15年(1702年)の本日、午前4時。両国に火消しに扮した47人の義士が到着した。満月になろうかという月が前夜に降った雪に反射し、四十七士の足元を照らす。冷害で米価を押し上げたというこの年の冷え込みはきつい。47人の踏みしめた雪がザクザクと硬い音を響かせた。
現在の両国3丁目6番地、旧本所松坂町にある吉良上野介の屋敷前で隊は2つに割れる。屋敷西側、正門にて陣太鼓を叩くは、ご存じ大石内蔵助。東側裏門の大将は、内蔵助の息子、15歳の大石主税良金であった。
内蔵助の号令一過、正門横のなまこ壁にはしごがかかり、大高源五と間十次郎が一気に越えていく。後続の義士も躊躇することなく、一気にはしごを駆け上っていく。門を制した一行はかんぬきを一気に引き抜き、大石内蔵助を頭とする表門部員を屋敷に内に招き入れた。
これこそ四十七士による討ち入りの始まりだった。
現在、この正門はマンションへと変わった。その持ち主である男性は、次のように語る
「『ここから毎日出かけるのはいいですねー』と忠臣蔵のファンの方に声をかけられたことはありますよ。まだ、マンション前に正門跡と説明した看板が立つまえでしたけどね。
ただ、まあ、住んでいる場所ですし、いいと言われてもって感じではあるんですがね(笑)」
正門から毎日出かけられたら、毎日が内蔵助気分だろうと思うのは、どうやら忠臣蔵フリークだけらしい。さもありなん。
一方、大石主税を対象に据えた裏門隊の討ち入りは、かなり荒っぽいものだった。掛矢と呼ばれる大きな木槌を、台所役人だった三村次郎左衛門がガツンガツンと打ち付ける。門を打ち破った途端に、一同が一気に雪崩をうって屋敷内に飛び込んでいった
このとき主税、わずかに15歳。義士としては最年少であった。ただ173センチと当時にしては大柄で、肝も太かったと伝えれられている。
この主税大活躍の裏門は中華料理屋となっている。もちろん千客万来、打ち壊す必要もなく中に入れてくれる。
「ここが裏門で、どうかなんて考えたこともなかったねー。今日みたいなイベントがあると、昔そんなこともあったんんだなーと思うけど。すみませんねー」と頭を下げたのは、この店のおかみさん。
まったくもってその通り。どうやら一度に飯を10杯以上食べた伝えられる主税を忍んで商売を始めたわけではなさそうだ。
話戻って正門組。
ハシゴで塀を乗り越えた小野寺幸右衛門が真っ先に向かったのは、正門すぐ近くにある「槍の間」。走りながら抜刀し、部屋に置かれている弓の弦を一気に切り払った。吉良には弓使いが多いという情報を得た上での行動だったという。さらに長槍14~5本も完全破壊。討ち入りからわずか1時間にして屋敷内を制圧する快挙は、この地で始まったと言っても過言ではない。
小野寺幸右衛門大活躍の「槍の間」の現場に住む男性は、取材当日に開催されていた元禄祭りの役員が集まる酒席の中にいた。
「おいおい、大丈夫か『ヤリの間』に住んでるなんて」と仲間にからかわれながら取材に答えてくれた男性は、「はははっ。まあ、感想もへったくれもないわな」と大笑い。「家がそんな場所だって聞いたこともなかったもの」と続けた。さすがに事件発生から306年もたって、廷内の様子を現住民に取材するバカは、そうそういなかったと見える。
廷内に入った義士は「火事だ、火事だ」と騒ぎ立て、大人数で押し入ったように偽装しながら、一気に屋敷内に突入していく。ただ、この屋敷。お屋敷に面している北側を除き、東西南はすべて塀が長屋となり、屋敷を警備する者たちが寝ていた。そこで長屋から飛び出してくる者を制圧するため、何人かが屋外に配されていた。裏門組に属していた間喜兵衛・小野寺十内も、そんな役割を担った2人。喜兵衛68歳、十内60歳という老人タッグが不幸だったのは、裏門入ってすぐ長屋から飛び出した2人の男と出くわしたことであった。
屋敷を守ろうと長屋から出陣されては、人数の少ない義士は総崩れ必至。走り出でる2人の男を喜兵衛と十内が槍一突きで殺害する。そのとき、いまわのきわにあった男が念仏を唱えるのを、十内の耳がとらえた。
「老人の罪作りとや申すべき」
愛妻家だった十内は、このときの気持ちを手紙にて妻・丹に書き送っている。討ち入りに参加せず、脱盟してしまった兄に絶縁状まで送ったという忠信・十内。自らの死を覚悟しての討ち入りだったが、かたきである吉良の殿様以外、同じような忠臣を殺したくはなかったのだろう。
しかし、じつは十内、最大の「罪作り」は彼の自決後に起こる。夫の法要を済ませた丹が、十内の後を追って静かに自害したからだ。
この泣けるドラマ、老人タッグによる殺害現場に住む男性は、「初めに切りつけた浅野内匠頭が悪い」と47士の殿様を一刀両断した。
彼は日本全国から人が集まる討ち入りのお祭り・元禄祭の発起人だったという。12月14日にお参りに来る人々に一休みする場所を提供しようと、近所のお茶屋の協力で、自宅でお茶を出したのが事の始まりだった。
四十七士だけではなく、討ち入りで亡くなった吉良側の忠臣を含めてお祀りしてきた地元住民だけに、命をささげるまで忠臣を追いつめてしまった主君に目がいくのかもしれない。
さてさて十内については、さらに書き記しておくべき活躍がある。それは隣の屋敷の騒がしさに、何事かと家来とともに庭に出てきた土屋主税に対し、片岡源五右衛門、原惣右衛門とともに仇討ちであることを伝え、火を出さぬよう十分に気をつけているからと壁越しに挨拶したことだ。
すべてを了解した隣人・土屋主税は提灯を塀の上に掲げて、中を見えやすくすると同時に、「塀を乗り越える者には矢を射よ」と家来に厳命した。
このちょっと粋な土屋家のあった場所に暮らす男性が、お祭りの実行本部のテントに居た。
「つまり賊の手助けをしたわけだな。そりゃ、共謀共同正犯だな」と笑う。この男性によれば、地元では吉良の殿様を支持する人も、赤穂浪士を指示する人もいるという。
「ただしどちらもお祀りする。それがここ両国ですからね」と微笑んだ。
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