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2008年12月

2008年12月31日 (水)

「いのちの電話」へ助力したいのだが

よいお年を……とは到底いえない。だって09年がそうなると感じている信じている人は皆無だろうから。大恐慌80周年。あの素晴らしい崩壊をもう一度である。嫌だ嫌だ。嫌なのだけれどそうとしか思えないニュースが「リーマン・ショック」から続いた。

12月29日付朝日新聞朝刊「『いのちの電話』窮地 24時間対応、半数以下」には胸がつまった。
「徳島では、自殺者の携帯電話に(いのちの電話)センターへの発信履歴が残っており、電話をかけたが、つながらなかったとみられる」

とも。最後の希望でかけた先はずっとずっとコール音。想像するだけで涙が出そうだ。
自分もいつ「いのちの電話」へダイヤルするかわからない零細企業経営者である。相談員不足の折に何かできないものかとホームぺージで調べた(http://www.inochinodenwa.or.jp/07-boshuu.htm)ところ

相談員になるには所定の手続きを経てパスし、2年間(公開講座を含む)の養成研修と認定を受けなければなりません。これはこの分野の専門教育をすでに受けている方でも例外ではありません。

とあった。なるほど自殺者の心をくみ、思いとどまらせる重要な任務だから「研修と認定」は必要なのだろう。それはわかる。わかるけれども2年間の研修は私には無理だ。仕事の合間をぬってできる期間ではない。
といってそれ以外の「献金をもってご協力くださる方」にもなれそうもない。もちろん多少の献金はできる。するつもりである。でも個人でできる額は知れている。会社からできる額はもう少々積めるかもしれないが元がなにしろ零細である。

この件でくわしい方がいらしたら教えていただければ幸いです。(編集長)

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2008年12月30日 (火)

ロストジェネレーション自らを語る/第7回 女性・26歳・正社員(IT関係)(前編)

 中学の頃のことから話しますね。
 出身は関東です。治安の悪い地域でした。公立の小中学校に行っていたんですけど、本当に荒れてたんですよ。金属バットで先生を殴ったりとか、スケボーで廊下を走ったりとか。で、高校からはぜんぜん違う所に行こうと決めて、幼稚園から大学まで揃っている東京の高校に入学しました。両親から「そこはお金持ちの人ばかりが集まるところだから、辛いかもしれないよ」と言われていたとおり、芸能人の子どもとか政治家の娘とか、そういう人しかいない学校でした。私としては両親から忠告されながらも、都内にいながらにして自然に触れられるという校風にあこがれて行ったんです。でも実際、同じ年の高校生が当たり前のようにブランド物の時計やカバンを持っているという光景は、治安の悪いところから「逃げてきた」という感覚の私にとって衝撃的でした。
 私のお小遣いはひと月五千円で、地元の価値観からいえば差支えない額なんですが、クラスメイトと比べるとすごく少ないんですね。アルバイトをして背伸びをしなくてはならないような感覚でした。有名な政治家の息子さんからお昼御飯をごちそうしてもらったことがあるんですが、その人は10人くらいで遊んでいるのにみんなの分のご飯代を出すわけなんです。高校生がですよ。結局当時の私は庶民感覚が抜けないのでお金を返しちゃったんですが、みんな当たり前のように奢ってもらっていました。そういった感覚についていけないと、恋愛だってまともにできませんよね。普通の友達づきあいですら、悪目立ちしちゃいけないような気がして、どんどん静かになってしまったんです。

 そのうち美術室にこもるようになりました。木彫を黙々とする日々を送っていました。そのうち進路を考える時期に来たんですが、手に職をつけなきゃと思った時に彫刻じゃあ食べていけないんじゃないかな、と思ってて。そんな時、ある人に彫刻と調髪の技術は似てるよ、とアドバイスを受けて、美容学校に行きました。でも、自分が想像してた芸術的な感性を大事にしてるというよりはファッションの感覚で、「かっこいい、かわいい」で話が進んでいくので馴染めなくて、3ヶ月で辞めました。

 そこから先、暗闇の2年間が始まります。短期間で資格を取るというインテリアの専門学校に入って、すぐに辞めてしまいました。さらに美術系の学校の体験時間に行っては「何したらいいのか分からない」って悩んでいましたね。そんな時に見つけたのが、大好きな画家さんが講師をしている美術系の学校でした。そこに一年半通いました。学校自体は楽しかったです。そのうち、出版社に自分の絵を売り込むようになって、実際に描かせて頂いてたりしました。
 ただ、絵を描いていきたいって思っても、才能がないなんて、すぐわかるじゃないですか。使ってもらってはいるけれど、これからいつ売れるか分からない中でやっていく自信もない。自信のないところで続けていくコツコツした努力をする才能もなかったんですよ。
 雑誌の仕事を見ている中で、編集という仕事は面白そうだと思いました。で、編集者の方に「どうしたらなれるんですか」と聞いてみたら「大学出てないと、正規採用は難しいよ」と言われたので、大学を受ける決心をしたんです。試験まであと、4カ月か5か月という時期でした。

 当時は家庭環境も酷い状態でした。父親の海外出張中に、弟の家庭内暴力が始まってしまったんです。私が高校の頃からそんな状態でしたから、学校には行きたくないし家庭は崩壊してるしで居場所がなくて。家を出て行きたかったけれど、そのあと美容学校に入ってもすぐに辞めちゃったということもあって、全然自分に自信が持てないわけですよ。結局、内の方に向かってしまって、拒食症になりました。次は過食症です。ちょうど美術系の学校に行っていた時期と重なるので、一年半は摂食障害でしたね。その頃のことって、なんだか夢見心地というか…あんまり覚えていないんですよ。ただ、この生活からは抜け出せないんじゃないか、もう普通の人生は送れないんじゃないかと思っていました。その状態で大学受験に臨んだわけですが、これは最後のチャンスだと思って必死でやりました。これで落ちたら、諦めようかな、と。未来を作ろうとか、自分に何かできるんじゃないかなんて思うことはもう諦めよう、と思っていました。

 私が高校生の時って、個性の時代とか言われて、自分に出来ることを考えなさいとか、手に職をつけなさいとか言われ始めてたんですよね。たまたま山一證券が倒産したのが高校一年か二年の頃だったと思うんですが、いい大学に行って、いい企業に入ってっていう方程式は崩れてきて。今思えばちゃんと勉強していい大学入って、いい企業に入ればよかったなって。何でそういう風になっちゃったのかなって、すごく不思議に思いますよ。何だったんですかね、あれって。(つづく)(聞き手:奥山)

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2008年12月29日 (月)

日曜ミニコミ誌!/番外編 マスとミニの境界線って?『ロスジェネ』

 以前、本ブログでも紹介した『ロスジェネ』の第2号が発売された。第1号は1万部近くが売れたとのことで、大型の雑誌がバタバタと休刊になっている出版不況下においては大健闘どころか驚愕の数字である。

 「ミニコミ誌」の定義を改めて考えてみたい。基本的には自主制作雑誌の総称である。つまり出版社を通せばマスなメディアの仲間入りが出来るのであり、『ロスジェネ』はかもがわ出版から発売されているのでミニコミ誌とはいえない、ということになる。しかし株式会社を作るのが容易な昨今。出版社を作ってそこから発行・発売をすれば、ミニコミ誌とは言われないのか?
 『ロスジェネ』の奥付をよく見て欲しい。発行「ロスジェネ」、発売「かもがわ出版」とある。例えば「ロスジェネ出版」という出版社を作って、そこから発売したら……うーん、それだけだとやっぱり「ミニコミ誌」である。マスなメディアとしての雑誌に抱くイメージは、少なくとも「書店にいつも並んでる、または全国どこの書店からでも取り寄せが可能である」というものだろう。これを出版社の用語で組み替え直すと「大手取次に口座開設をしている」という言い方になる。
 出版社自体は誰でも作れるが、全国に本をばら撒くとなると話は一気に難しくなる。トーハン、日販といった本の問屋である取次と取引をしなければならず、その条件は大変厳しいものになってくるからだ(詳しくは本誌編集長の「出版社の作り方」を読んでみてほしい)。となると、出版社が作っているだけではマスな雑誌ということにならず、「ミニコミ誌」の定義は「一般の書店で手に入ることは少なく、通常流通していない雑誌」と更新されうる。

 ここで『記録』の登場である。今年9月に休刊となった本誌は全国どこの書店からでも取り寄せ可能であったが、実際はミニコミ誌扱いされていた、正確には「小部数出版物」のコーナーに置かれていた。これは「一般の書店で手に入ることは少なく、通常流通していない雑誌」でなくともミニコミ誌のように思われるということになり、そこには発行部数や体裁や読者対象などのイメージも入ってくるのだ。小部数であり、薄く簡素な体裁であり、読者対象が限られているということもミニコミ誌の要素なのだ。
 かといって部数が大きければミニコミを脱するかというと、そうでもない。『酒とつまみ』『Arne』などは取り扱い書店も発行部数も多いがやはりミニコミ誌のくくりだし、プロ顔負けの体裁を持つミニコミ誌もかなり出ている。『小悪魔ageha』を買う層は(普通に考えれば)キャバ嬢周辺に限られているが、これをミニコミ誌だと言う人はいないだろう。やはり流通云々は非常に大きな要素であろうが、出版業界以外からは見えない側面であるだけに、結局「ミニコミ誌と普通の雑誌はどうちがうの?」という疑問は読者の中で容易に解決することがない。

 どうして雑誌の成功例『ロスジェネ』を使ってこのような話をしているのかというと、2号巻末の「ロスジェネ的オルタナティブ市場構想」という大澤信亮氏のエッセーにつながる話題だからである。

 氏は出版社―取次―書店の流通形態を説明し、『ロスジェネ』自体のギリギリの採算を明らかにした上で、他の流通構造の可能性を問う。

 私も思う。出版社は商品を作り、取次は流通を整え、書店は棚を提供し、それぞれの取り分で食べているわけだが、どうも、どこもかしこも汲々としている。それは不況のせいだけ、なのだろうか? 営業という仕事柄、様々な書店に出向く。一冊の棚挿しスペース、一冊の平台スペースを何百とある出版社で争奪している。はっきり言って、まるで勝てない。冷たくあしらわれ、暗い気持ちで粋な雑貨屋さんにフラリと寄る。店員さんと立ち話をし、本を気に入ってもらう。なんと取引してくださるという。センス良く並べられた服や皿や諸々の雑貨の中に、5冊キチンと表紙を向けて置かれたその本は、かつてないほど誇り高く見えた……そんな幸福な体験を思い出す。そのとき「これが、商品を売るというものだ。これが営業というものだ」と思った。考えてみれば変なものだ、何年も本を売る仕事をしてきたというのに、そのとき初めて自覚したのだ。「本は本屋で売らなくても良いのだ!!」そう思えたことで、暗くよどんでいた私の頭の中に爽やかな風が吹いた。

 今の流通構造に替わる市場構想をしている人を、他にも知っている。しかしなかなか答えが出ないのが現状のようだ。それほど今の形態が優秀なものなのだろう。どうすれば、本をより生き生きと売れるようになるのか――そう考えたとき、私が雑貨屋で体験した感動は一つのヒントになるのではないか。マス的に売れるものを、ミニ的に売っていくという発想が大事になってくるのではないか。漠然とだけれど、そう考える。(奥山)

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2008年12月28日 (日)

鎌田慧の現代を斬る/第127回 労働者を放り出すトヨタと救おうともしない麻生

 製造業で世界最強最高の利益を誇っていたトヨタも減産に入った。そのためトヨタ系自動車の工場での期間工の大量解雇がはじまっている。トヨタ本体では先に2800人の期間労働者を削り、さらに3000人を削減する予定だ。トヨタの子会社でも非正規労働者のクビ切りが相次いでいる。アイシン精機は300人、豊田自動織機は500人のリストラを9月末までにおこなった。また日野自動車、関東自動車でも、1000人規模の解雇が予定されている。
 下請け企業の発注も激減しているため、下請け・孫請け企業では、派遣・期間工ばかりか社員労働者の解雇もではじめている。乾いたぞうきんでも絞るトヨタは、コスト削減を下請けや孫請けに押しつけてきた。最近では海外進出も拡大し、部品生産のための施設拡張を下請けにも強制してきた。それが一転、発注が減ったからと仕事を削る。おかげで設備過剰をつくらされた下請け・孫請けは倒産の恐怖にさらされている。
 似たような話は1970年代にもあった。マンモスタンカーの需要が増大し造船景気にわいた造船業界は、マンモスドッグを乱造した。しかし景気は後退、建造したドッグに閑古鳥が鳴いた。このとき三菱重工の経営者は「まるで酒にでも酔っぱらったかのように設備投資した」と語った。トヨタもおなじような酔っぱらい経営をしたことになる。過大な需要見通しによって設備投資を増やし、その責任をいっさい負わず、ただ下請け・孫請け切り捨てて生き残ろうとするトヨタ自動車にたいして、もっと批判の声があがっていい。それでいて、内部保留は22兆円もある。それを吐き出して、人の命を救え。
 労働者軽視の姿勢はF1撤退問題でもあきらかになった。ホンダは不況によるF1撤退を決断したのに、トヨタは残り、年間500億円ともいわれる維持費を払いつづけるという。その理由としてトヨタ幹部は次のように語っている。「表彰台の真ん中にたたないと参戦した意味がない」(『朝日新聞』08年12月6日)。
 モータースポーツにたいする熱い思いからではなく、ただトップであることを見せつけたいがために、労働者を切ってもF1は守るというのだ。トヨタは大事にすべきものを完全にまちがえている。
 トヨタの労働者切り捨ては、地方自治体にも影響をあたえている。12月5日の中日新聞では、ホームレスになった派遣社員たちが名古屋近隣の地方自治体に相談に押しかけ、名古屋市のホームレス自立支援施設を紹介されているという。
 その理由を同紙は次のように報じた。
「従来、自動車製造業を中心に求人が活発で、ホームレスも少なかった三河地方の各市は、受け入れ施設が未整備のまま。『今晩泊まるところがないという方が相談に来ても、ごめんなさいと言うほかない』(豊田市)というのが実情だ」
 これは自治体の不備ばかりを問うわけにはいかない。というのも豊田市は失職した約100人を臨時雇用する方針まで打ちだし、トヨタの大リストラに対応しているからだ。むしろ問題なのは、自社で集めた労働者をいきなりクビを切ったトヨタだ。近年の法人税の値下げや輸出企業に有利な税制による消費税の大幅な減額など、税金分をしこたま会社に蓄えたのだから労働者の面倒ぐらい自分でみるべきだ。自治体に押しつけるな。
 トヨタが09年3月期連結決算で営業赤字になると業績予想を下方修正した12月24日の前まで、黒字予測にもかかわらず大リストラを実施するトヨタに世界のマスコミが殺到した。その取材者の1人、イタリアテレビ局「SKYTG24」のピオ・デミリア極東特派員は、トヨタの対応に腹を立て、わたしに電話をかけてきた。名古屋にでむいたのに、トヨタがまったく対応しなかったという。
 いうまでもなく企業には社会的責任がある。自社の宣伝のためにメディアを使うだけではなく、都合の悪いことにも誠実に答える義務がある。ところがトヨタは答えたくなければ取材をシャットアウトし、気に入らない論調なら広告をエサに圧力をかける。こうした国際性のかけらもない、会社の閉鎖性は恥ずべき事だ。
 トヨタは世界中の工場で失業者を生みだしているだけでなく、国内でも派遣労働者だった日系ブラジル人やベトナムから来ている研修生などをホームレス状態に追いやっている。つまり自社に国際問題を抱えているわけだ。広報だけ閉鎖的でよいはずはない。
 好況のときには世界中から労働者を集め、いったん販売が減れば情け無用とばかりに解雇するトヨタの体質は人間性の欠陥というべきものがみえる。利用するだけ利用してお払い箱にする人の扱い方が秋葉原事件をうみだしたのに、まったく反省がみられない。
 2006年1月には経団連会長だった奥田碩氏は、「多少の不平等は、社会の流れの中で当然出てくる。餓死者や凍死者が出れば国家として対策も必要だろうが、今はそうなっていない」(『産経新聞』06年1月11日)と、死に直面するまで低賃金労働者は放っておけ、とでもいいたげな発言をしている。このような思想こそトヨタイズムである。
 このままでは困窮した労働者たちがどうなるかしれない。早急に対策を立てるべきだ。トヨタが動かないなら、それを指導するのが政府の責任だ。(談)

全文は→「1.pdf」をダウンロード

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2008年12月27日 (土)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第23回 炎になめつくされたバスルーム

20a_9  これは出火した938号室と同じ9階にある部屋のバスルームだ。
ニュージャパンの火事に詳しいKBさんが、この写真でまず指摘したのはタイル壁に付いた黒いススだった。
「ほぼ床下近くまでススがこびりついていますね。このニュージャパンの火災では、隙間もないほど炎に覆われていたことを示しています。すごい温度だったと思いますよ」
(ほかの火災事例では、床から数十センチは原型が残っていることが多いという)
 さらに焼き物の陶器でできた便器が割れた状況について、2つの可能性を示した。
「これは熱で破壊されたのではなく、急激に冷やされて割れたのだと思います。となると消火活動の放水で一気に冷やされたか、あるいは水道のパッキングが熱で溶けて水が噴き出して急速に冷却された結果でしょう。可能性の高いのは、水道管からの水でしょう。」
 バスタブの各蛇口には漏れ出したと思われる水の跡があり、その状況を物語っていた。
 床に散乱している破片は熱ではがれ落ちた壁上部のタイルと、天井のパネルである。便器の右にある茶色の円筒形の物体は、天井に埋め込まれたダウンライトの本体部分だ。その周りにある針金は被覆を失った電線だと思われる。
 耐火ボードで囲まれ、可燃物が少ないバスルームでさえ、この状況である。燃えている部屋の窓から飛び降りた方がいたのもうなずける。(大畑)

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年12月25日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第8回 「日本は外国じゃない」(2)

Photo_2  アフガニスタンくんだりまで金儲けにくるNGO団体なんてあるのだろうか、と思うがアフガン人からすると勘ぐってしまう。支援にきている外国のNGO職員は「おれたちは文明人だ」と言わんばかりの洋服で、英語を話す上流階級のアフガン人の通訳を連れている。そして、なかなか自分たちの手元には支援が届かない。高級な四輪駆動車を乗り回す彼らがどうしてもアフガン人の目には自分たちを助けに来てくれているとは思えないのだ。
 以前、カブール近郊の難民キャンプである男の子の長期取材を続けていた際、キャンプには週何組かのNGO団体が来ていた。ある団体はトラックで乗りつけ、車上からばらまくように物資を配っていた。ある団体は話を聞くだけ聞いて帰ってしまった。難民たちは怒りも悲しみもしない。「連中はあんなもんさ」とタカをくくっているのだ。
 支援は「与える」という気持ちだけでは、成功しない。ペシャワール会の水路近くでそう感じた。何かを与えられる、という考えは高飛車で、いかにも文明人が貧しくて可哀そうな人たちに与える、という心持ちの傲慢な行いだと思う。支援を受け取る側は、支援をする側の先進国が描いている「可哀そうな」だけの無感情な人間ではない。しっかりと、相手を観察しているのだ。

 ペシャワール会では腰が抜けるほど驚いた。何より人々の雰囲気が違う。外国人である日本人に好意を抱いている。外国に対する憎しみが風船玉のように膨れ上がっているアフガニスタンでは考えられないことだ。
ジア副院長も「驚いたかい」という顔でにこやかにほほ笑んでいる。
 ペシャワール会の基本は現地からの要求があってから、何かを始めるというスタンスだという。日本の事務所で何かを決めても、それが現地で必要がなければ意味がない。「ニーズに合わせる」というと簡単に聞こえるが、それを実行している団体は少ない。幸い私の見てきた日本のNGOは高い水準で支援を行っていた。けれど、欧米のNGOでは依然として物資をばらまくだけの稚拙な支援方法が多い。現地の文化とともに生きる、という気概と実行力がなければ現地で受け入れられるはずがないのだ。
 一通りインタビューを終え、ジア副院長と車に乗り込んだ。これから、中村医師が作業を進める用水路建設の先端に向かう。
 美しい小麦畑と刈り入れに精を出す人々の横顔を見ながら、心が沸き立つのを感じた。(白川徹)

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2008年12月24日 (水)

赤字予測を隠れ蓑に世襲を決行するトヨタの本末転倒

トヨタ自動車が09年3月期の決算予測(通期)を赤字と下方修正して豊田章男副社長を新年度から社長に昇格する旨を明らかにした。そうか。そう来たか。

「帝王学」を授けられた創業家の「御曹司」に「大政奉還」する(おいおい)

……ということらしい。いったいいつの時代の話か。今は21世紀だよ。という批判はかねがねあって古色蒼然たる「大政奉還」なる行事への批判はトヨタ外に多かった。非上場の同族企業ならばともかく「世界のトヨタ」が封建時代さながらの世襲をするとは、と。当然の批判である。それを経営大ピンチの時にやってのけた。世間の目がトヨタ赤字に行くすき間を縫ってやってのけた。こうなると赤字見通しの方が手段で世襲が真の目的だったのではと勘ぐりたくなる。日本中の企業マインドを凍りつかせるトヨタ赤字のニュースをおとりにして世襲というちっぽけな目的を果たすなど許されざる行為だ。
どさくさ紛れに世襲という例では1997年の第一勧銀をめぐる事件で当時の田中賢二社長が逮捕されて岡田卓也会長の長男の岡田元也氏がトップに就任したジャスコ(現イオン)が思い浮かぶ。でも卓也氏は実質的な創業者だからなあ。だからいいというわけではないけどやはり創業者は別格だ。
それに対して豊田家は豊田佐吉・平吉兄弟以来の系図をひもといてどこの誰が系列の何になったかを調べられるほど世襲にこだわる。直系だけで勘定しても佐吉→喜一郎→章一郎→章男と4代だ。

実はトヨタ社員が誇りを持つほど、この世襲に意味はない。まず佐吉から喜一郎への伝承。天才発明家であった佐吉の自動織機事業を喜一郎が手伝った形跡はあっても喜一郎を事実上の創業者とする自動車を佐吉が企図していた痕跡は見あたらない。この「伝説」の裏付けを私はずいぶん前から探していたものの今日まで佐吉が喜一郎へ「次は自動車だ。お前がやれ」と促した痕跡がないのだ。佐藤正明さんもない旨を書いていた。
次に喜一郎は自動車創業者であっても経営者として正しく評価されているか。過大評価ではないかという疑い。「戦争が間にあって不幸でした」「急死しなければ」などと擁護論が聞かれるが戦争はトヨタだけに災いしたわけではないし、急死の直前に彼は労働争議を収めるのにしくじっている。
自動車としてのトヨタを上昇させたのは遠縁の石田退三と豊田英二であろう。英二も豊田家ではないかというも彼は平吉の次男で直系ではない。そんなことにこだわる自体がナンセンスというのは世襲反対論にある側で豊田家をありがたがる封建派は英二が傍流というのが納得いかないに決まっている。ご存命の英二氏にそう言えるトヨタ社員は誰もいないだろうけど。
では直系3代目の章一郎氏は何をしたか。英邁な経営者だったのか。大変疑問である。そもそも章一郎社長が誕生した1982年は念願の工販合併記念年だった。この時にも「大政奉還」の文字が躍った。で章一郎氏は何をした?

「トヨタショック」が手段で世襲が目的ではないかとの疑いは今回の赤字見通しの正体とも密接にからむ。利益1兆円を超える化け物企業になったのは今世紀に入ってから。さあその頃のトヨタ指導者は誰でしょう。大もうけの実態は意図的にたくらんだ円安と借金漬けのアメリカのバブル経済。うち前者を希求した財界人で当時の政界に強い影響を与えたのは誰でしょう。どんどん首を切られている派遣社員を製造業まで認めた労働者派遣法改正は04年。それを大いに叫んだ財界人は誰でしょう。そして一線を退いても最後のご奉公として「大政奉還」のお膳立てをしていたとうわさされる御仁は誰でしょう。答えは○○○さん、ですねえ。みんな。

今回のトヨタショックにしても無理矢理円安とアメリカのバブルというイケナイ要因が単に調整されて平常化しただけではないのか

世襲などばかげているのはもはやいうまでもない。五島家も堤家も松下家もやめた。同じ愛知県でいうならば松坂屋は最近までそうだった。伊藤様こと伊藤次郎左衛門を代々襲名すると聞いて高校生頃の私は「いまだにあるんだ!」と絶句した記憶がある。それも1985年の鈴木正雄会長による「クーデター」で幕を閉じた。高村光太郎の詩を借りていうならば「トヨタよ、もうよせこんなことは」だ。世界の恥である。(編集長)

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2008年12月23日 (火)

レッサーパンダ帽子男殺人事件の現場を歩く

 浅草の松屋を左に見ながら江戸通りを北に歩く。金属のこすりあわさる高い音に振り返ると、頭上の鉄橋を列車がゆっくりと進んでいた。東武伊勢崎線は隅田川を越えた直後、松屋の入った駅ビルへとほぼ直角に進路を変える。その急な方向転換の「悲鳴」だった。
 2001年4月30日午前10時半ごろ19歳の女子短大生がここを歩いていた。天候は雨。ボーイフレンドが出場するブラジリアン柔術の大会を応援するために、浅草駅から800メートル近く離れたリバーサイドスポーツセンターに向かう途中だった。
 彼女の歩いていた歩道は片側2車線の大通りに沿っている。道の両脇にはいくつもの靴屋が並び、年末にはこの一帯の店と問屋によって「花川戸はきだおれ市」が開催されることでも知られる。少なくとも取材した日曜夕方に人通りが途絶えることなどなかった。
 もちろん治安が悪い場所でもない。犯行現場近くに住む商店主は「ここらへんの治安は悪くないよ。ホームレスだって悪いことしないし」と、言葉少なに周辺の状況を説明してくれた。
 事件当日、午前10時20分ごろには駅近くの交番で道を聞いた、と被害者が携帯でボーイフレンドと話をしており、スポーツセンターにいる友人たちは彼女に身の危険が迫っていることなど思いもしなかったはずだ。しかし犯人は浅草駅周辺で、たまたま見かけた彼女に狙いを付け尾行を始めていた。
Photo  この鉄橋から200メートル先で、彼女は道幅2メートルほどの路地に連れ込まれ、背中や右胸、左腹など5ヵ所を刺されて亡くなる。
 新聞報道によれば、女性の悲鳴を聞いて外を見ると男が血を流している女性に馬乗りになっていたという。近隣住民が「何をしているんだ」とどなると、小道の先にある隅田公園の方に逃げ、トイレで手を洗おうとした。
「まだロープも張る前に現場に駆けつけたよ。女の人がお腹を真っ赤に血で染めて倒れていたな。頭を公園に向けてさ。もう全然動かなかった」
 近くに住む商店主は、当時のことをそう語った。
 これだけでも十分に怖い事件ではある。しかし世間を震撼させたのは、手口ではなく犯人の異様な服装だった。なにせ耳のついたレッサーパンダを模した帽子をかぶり、白と黒のしま模様のコートを着ていたのだから。しかも身長は180センチを超える大男。
 犯人は血の付いたコートや帽子、凶器の包丁を捨てたものの、その異様な姿は以前から浅草周辺で目撃されており、犯行後には700件もの情報が寄せられたという。ただちに似顔絵が作成され、彼は偽名で潜り込んだ建設現場からの通報で逮捕された。犯行から10日をへた5月10日のことだった。

 この事件はここから迷走を始める。じつは動機はもちろん、被害差女性にどう襲いかかったのかさえ完全には分かっていない。当時の新聞や雑誌は、「かわいいと思って声をかけようとしたら、振り返ってびっくりした顔をしたのでかっとなって殺した」とか「彼女を自分のものにしたかった」などと書かれている。後ろから近づいて振り向いた被害者を刺し、さらに小道に引きずり込んでメッタ刺しにしたというのだ。
 しかし記事の下になった警察の調書は、裁判で矛盾が指摘されている。
 当日、事件を目撃したタクシー運転手は被害者女性と犯人が一緒の傘でスポーツセンターとは逆方向に歩いていたのを目撃している。おそらく持っていた包丁で脅したのだろう。
 じつは94年にも犯人は34歳の女性にモデルガンを突きつけ、数百メートル離れた公園に連れて行き、強制わいせつなどの容疑で逮捕されている。同様の手口だと考えれば、タクシー運転手の証言の信憑性は増す。しかし、この証言は裁判で無視された。
 さらに分からないのは、殺人の動機だ。犯人は裁判で被害者を「可愛かった」「優しかった」と表現しており、殺人までには「距離」がある。
 こうした問題をより複雑にしているのは、犯人がわずらっていたと思われる自閉症だ。人の目をみて話すこともできず、難しい話になるとついていけない。記憶がないことも多い。実際、彼は知的障害のため高等養護学校に通っていた。そんな彼から原宿署は3時間で上申書や供述調書を作成したという。
 この問題について、ここでは詳しく触れるつもりはない。詳細は裁判に通い続けて綿密に取材した『自閉症裁判』(佐藤幹夫 著 洋泉社)に譲る。むしろ気になるのは、殺人と犯人との「距離」である。

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年12月22日 (月)

書店の風格/第25回 阿佐谷きたなら(2)

 南阿佐ヶ谷駅は丸の内線沿線、警察署も市役所も駅の目の前にあり便利な駅だ。中央線から見た風景とはまた違った趣がある。眼前に敷き詰められたチェーン店のビル群の一角、「東京靴流通センター」の隣に「書原」は佇んでいた。
 コンビニや飲食店の複合ビル内だが、専用の入り口がある書原は「シブい」の一言が似合う本屋さんだ。

 書店玄関前には右側に女性誌、左側に旅行情報誌が並んでいる。そのまま店の前を通り過ぎると靴流通センターに入っていく流れであるから、「本屋に来たわけではない」人びとも幅広く対象客にするとなると、汎用性のある「女性」と「旅」はやはり相応しいテーマである。そう考えながら自動ドアをくぐると、目の前に特大の平台があり新刊が60点ほど平積みにされている。文芸新刊のみならず、人文書、エッセイなどジャンルを問わずひしめき合っており、しかし隣同士の本に微細だがリンクのにおいがする。全体的に統一感のある構成になっているのだ。

 そして店内右奥に進むと、芸術やデザイン関連の棚があったのちに人文社会系の棚が現れる。ここが究極の「文脈棚」だ。大手の書店には良くある「日本社会」「国際社会」「ルポ」「犯罪問題」などの小分類が書かれたプレートを差し挟むことなく、「次に挿される本」は「前に挿された本」により関係の深い順に並んでいる。それでいて一定の落ち着いた雰囲気をかもし出しているのが魅力だ。

 中央には大きな文庫・新書棚が腰をすえている。本棚に工夫があり、下三段がくりぬかれている。そして下から本を積み上げ、面を見せているのだ。普通、文庫棚の下はどうしても人の目に付かず死に線になってしまうため、ストックを入れる引き出しを置いた上に棚を配置したり、単純に潰してしまったりする。一部をくりぬくという発想の豊かさに、書店人の本への愛が感じられる空間だ。

 さらに歩を進めるとコミックコーナー、文芸書コーナー、左奥には実用書、英語の参考書…と一般的な書店のジャンルはそろえてあるが、どのコーナーを見ても独特なこだわりが見られる。私は書店営業を生業としているので、趣味ではないジャンルでも一応棚に目を通すという習性が身についているが、その私が見ても「なかなか見かけない本」「普通は平積みにしない本」が見かけられたり平積みになっていたりするものだから、いちいち「このジャンルが好きな担当者がいるんだろうな」と思わされてしまう。しかし、ほとんど全てのジャンルにそう思わざるを得ないこだわりが散りばめられているということは、どういうことであろうか。これぞ全てのジャンルに通じているスーパー書店員がいる、ということではないだろうか。それはきっと「本が好き」なだけでは追いつかないものである。売る目線に立って、「私以外のお客様」に焦点を合わせなければ出来ることではない。どのコーナーも玄人な棚作りが楽しめる、素晴らしい書店である。(奥山)

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2008年12月21日 (日)

ロシアの横暴/第8回 ゴルバチョフにだまされた西側諸国(2)

 さて、そのノーベル平和賞受賞者がやったもう1つの大仕事が異民族弾圧である。1990年1月、1988年に始まった「ナゴルノ・カラバフ紛争」の追加弾圧としてアゼルバイジャン・バクーにロシア軍を侵攻させたのはゴルバチョフである。もっとも彼は民族紛争を弾圧しようとしたのではなく、解決しようとしたのだが。結果的に武力弾圧になったのはあちこちで民族紛争が火を噴き、もはや統制がとれなくなってヤブレカブレなのに気がついていなかったのである。それにもかかわらずこの年にゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞したのだった。
 ノーベル賞をもらっても凋落は止まらず翌年(1991年)、ついに失脚し、ソ連は崩壊する。ゴルバチョフが失脚しようが、ロシア軍が撤退しようがアゼルバイジャン民衆の腹の虫はおさまらず、いまでも年末恒例のバレエ「くるみわり人形」は「ロシアのおどりカット版」で上演されている。公立学校の玄関ロビーにはかならず1月20日事件の写真や絵が掲げてあり、生徒たちが愛国心いっぱいに描く絵に登場する怪物や悪魔は例外なくゴルバチョフのモチーフである。
 さらにこのノーベル平和賞受賞者は、ある時は独立志向で反抗的なエストニアを空爆しようとした。しかし、これはその時のロシア空軍の将軍だったチェチェン人ドゥダーエフ(後のチェチェン共和国大統領・1996年ロシアに殺害された)がゴルバチョフの空爆命令をはねつけたのでアゼルバイジャンのような惨事には至らなかった。チェチェン戦争に関してエストニアがいつでもチェチェン側にたち、マスハドフ政権を真っ先に承認したのはこのためである。
 経済政策も混迷した。日本をはじめとして諸外国が偉大なゴルバチョフ、と持ち上げるようになって2~3年が過ぎた頃、ソ連の海外債務の焦げ付きが表面化した。新聞は、それまでのソ連は停滞の時代にありながらも、輸入代金の支払い納期を遅らせたことはなかった、と報じている。外貨管理を厳しくし、払うべき債務はきちんと払って弱みを握られないようにしていたのだろう。余談だが、ソ連の最大の輸入相手国は皮肉なことに米国で、しかも米国の銀行から借り入れをして輸入代金をきちんと払っていた。余剰の食糧は買ってくれるわ、お金は借りてくれるわで、米国は「上得意ソ連さま」に足を向けて寝てはならない状態だったそうだ。
 それがゴルバチョフのペレストロイカで、輸入代金が払えなくなってきたのはなぜか。推察するほかないが、米国から借金をしてそれで米国から食糧を買う、という金融システムが理解できなかったのだろう。
 モスクワ大学卒のエリート買いかぶりもこのあたりから化けの皮が剥がれていたのだった。

 ところでペレストロイカのなかである一つのナゾがある。それはゴルバチョフが指名したロシア正教会大司教=ごく最近死んだ=とのつながりである。ロシア正教会の大司教なのにロシア人ではなく、ロシア嫌いのはずのエストニア人だ。旧ソ連構成国のなかでは遅くにソ連に加わった(エストニア側は併合されたと言っている)というので、ゴルバチョフが「われらが若い兄弟たち、バルトよ!」などと呼びかるのに、いちいち腹を立てているバルト3国からロシア正教の大司教が選ばれるなどとうてい考えられない。一説によると、連邦離脱志向の強いバルト地方から大司教を任命することで人々を手なずけ、ソ連からの離脱を防ごうとしたのだそうだ。バルト地方の人々もロシア人と同じ精神構造をしていると思っていたようだ。
 当然のことながら彼の思惑は外れた。エストニアはプロテスタントが圧倒的で、こんなロシア正教優遇型人事が受け入れられるはずもなく、選ばれたエストニア人大司教の方も「ロシアにこびを売るイヌ野郎」と罵られるのが落ちである。バルト3国は真っ先に連邦を離脱した。ただし、大司教の方はイヌであろうがブタであろうが、神の栄光に包まれて職務を全うした。ゴルバチョフの空爆命令を拒否して故国エストニアを救ったドゥダーエフ率いるチェチェンを討ちにゆくロシア軍兵士を祝福し、戦死した兵士を神のもとに召したのだから。
 ところでエストニアにエストニア人のロシア正教徒がいるということは「宗教禁止令」が噂に聞くほどの強制力は持っていなかったことの証明になる。「公的な場に宗教を持ち込んではならない」ことが「禁止令」だったのではないか。日本流にいえば政教分離である。宗教は基本的に政治権力とつながりをもちたがる。そうすれば教会の権威が保てるし、経営がラクになる。政治権力のほうも宗教を政治に利用したい。その方がラクに民衆を支配できるからだ。
 ロシアに限らず、国家というものはどこも横暴なものである。他国の、特に小国に対して横暴なのは今も昔も変わらない。だがゴルバチョフの横暴さは例を見ないように思える。
 エリツィンのような正真正銘の横暴さではなく、無知と思い上がりから来る横暴だ。それなのに虚像がまかり通った原因のひとつに「モスクワ大学法学部出身のエリート」という、ひと味違った経歴を持っていたことがある。ソ連歴代の指導者はインテリやエリートとは縁遠い、いわゆる労働者階級あがりだったから悪かった、こんどはモスクワ大学法学部出身で、外国語(英語)にも長けた人物だからよい、という論理だ。
 ゴルバチョフ自身は今でも、もしペレストロイカがなかったらソ連は路頭に迷っていた、と自画自賛していることを最近のインターネットニュースは伝えている。(川上なつ)
 

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2008年12月20日 (土)

ロシアの横暴/第7回 ゴルバチョフにだまされた西側諸国(1)

 1985年、停滞の時代のさなかにあったソ連発新語に「ペレストロイカ」がある。新語の在任期間は短かったが、世界を駆けめぐり、ソ連やロシアは知らなくてもペレストロイカは知っているほどになった。そのころ(1980年代)は、鉄のカーテンに覆われたソ連を何とかして覗こうと、いろいろな人が憶測を飛ばしては虫食い情報をつなぎ合わせ「ナントカでカントカのソ連」という類の記事をばらまいていたものだ。
「停滞の時代」の張本人といわれているブレジネフ書記長が死ぬと、短期間に2人の後継者が入れ替わり、そのあとにミハイル・ゴルバチョフという人物が華々しく登場した。
 彼は真っ先に「ペレストロイカ=建て直し」と「グラスノスチ=情報公開」という2つの新語を世に送り出した。覗き趣味競走の立て役者である西側諸国はグラスノスチで公開されたソ連の姿が、想像していたとおりの停滞情況であったことに自信を深めてみたり、拍子抜けしてみたりだったが、そのかたわらで不思議なお祭り騒ぎも始めた。
 建て直しを言い出すからには立て直さなければならない現状があり、情報公開を叫ぶからには「隠匿」が幅を利かせていたことの何よりの証明で、「ガタガタソ連の真実を隠さず、堂々と公表した」したから彼は偉大な指導者だ、という騒ぎだ。騒ぎが高じて東西冷戦終結祭りに至った。ゴルバチョフはこの冷戦終結の「偉業」を買われて1990年、ノーベル平和賞を受賞した。彼の偉業とは何だったのか、冷戦終結後の世界はどうなったのか、「ペレストロイカ」とか「冷戦終結」は有名すぎて見えにくくなっている。

 いつの時代にもソ連の政権交代は前任者の否定をすることから始まる。ゴルバチョフの場合は従来とちがってちょっとスマートに目新しいことばを持ってきたことを知らなかったから騒いだのだが、結果は「建て直し」ではなく「崩壊」であった。西側の望みはソ連崩壊だから目標通りといえば目標通りではある。
 1年後、チェルノブィリ原発事故が起きると、グラスノスチにかげりが見え始めた。ゴルバチョフは事故の真相を隠したからだ。そればかりか、飛散した放射能が風に乗ってモスクワに着く前に人工降雨で近隣のゴメリ州(現在はベラルーシ)やブルヤンスク州に落とすという隠蔽工作もやってのけた。「原発事故はあったが、大したことはない、モスクワは無事だ」と。こうしてグラスノスチは間もなく消滅していったが、ペレストロイカは引き続き西側諸国でもてはやされた。
 ゴルバチョフ改革で西側にバカうけしたもののひとつに「宗教改革」がある。それまでのソ連では「宗教はアヘン」として禁止されていたそうだ(これも覗き趣味虫食い情報に起因する噂のひとり歩きの面が否めない)。
 彼はさっそくこの禁止令とやらを解いた。教会に行くのもお祈りもするのも自由というわけだ。でも人々はそれまでも復活祭になれば「主はよみがえりたまえり」と挨拶をかわしながらお墓参りをし、人が死ねば十字架を立てて葬っていた。「禁止令」が強制力をもっていたのか疑わしい。宗教改革をするほどのものではなかったような感じだ。それなのに禁止令を解いたのはなぜか。それは信心深い民衆のご機嫌をとりたかったからだ。「信教の自由」は基本的人権にかかわることだから禁止令を解いたのではなく、前任者のやったことを否定して自分の偉大さをアピールしたいから解いたのである。当のソ連人はこのことをはじめからお見通しだったようだが、ロシア的精神構造を知らない西側諸国はすっかり乗せられてしまった。
 さて、ゴルバチョフ氏は西側のお祭り騒ぎに呼応し、冷戦を終結させるべく外交に力を入れてあちこちを漫遊しては派手なパーフォーマンスを繰りひろげた。ソ連国内の他の民族共和国にはさっぱり顔を出さなかった。
 ソ連の歴代の指導者はまがりなりにも15の異なる民族が協調してソ連を構成している、という自覚があった。しばしば横暴な手段で「協調」させていたには違いないが、多民族が協調しているからソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)であることを、知っていた。ところがゴルバチョフという人物はどこでどうまちがえたのか、このことを全く心得ていなかった。他の民族も自分と同じロシア人の精神構造、ひょっとしたら「ロシア人の精神構造」よりもっとせまく、人間は皆「ミハイル・ゴルバチョフと同じ精神構造をしている」と思いこんでいたのかもしれない。
 彼が国内でやった「ペレストロイカ」の手始めは、ソ連、特にロシアに蔓延していたアル中問題を解決することだった。酒を飲まないゴルバチョフが出した妙案は禁酒令だった。禁酒令を出せばアルコール害はおさまり、農業不振による食糧不足を解決できるから一挙両得と思った。ブドウ畑をキャベツ畑やじゃがいも畑に変換すればアル中の元であるワインは造れなくなり、かわりに野菜が増え、食糧不足が解決する、と(彼は農業大学も出ている)。ちなみに、ロシアのアル中はウォッカが主で、ワイン作りが盛んなグルジアにはアル中問題はほとんどなかった。自らがアルコールをたしなまないのでワインとウォッカの区別もつかなかったことになるが、他人の、他民族の精神構造を全く理解していなかったことがこれでよくわかる。
 こうしてソ連最大、世界的なワインの産地であるグルジア農業を崩壊させてしまった。ブドウ畑をキャベツ畑にせよという命令など無視すればよかったのに、そこはペレストロイカもグラスノスチも全く及ばない独裁の範疇にあり、ブドウ農家は泣く泣く従わざるを得なかった。だから誇りと伝統を否定され潰されたグルジア人のゴルバチョフに対する恨みは並ではない。ゴルバチョフ自身も自分の言うことを聞かなかった大酒のみのグルジア人が嫌いなようで、2008年8月のグルジア戦争では「グルジアなど叩きつぶせ」と、明らかに暴言だが本人は大真面目に、心の底からのコメントを発した。
 折しもノーベル財団が受賞者選定作業をしていたころである。EUがらみのグルジア戦争について、かつての平和賞受賞者が吐くこの台詞を聞いて財団の理事会はさぞかし苦い虫を噛んだことであろう。(川上なつ)

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2008年12月18日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第7回 「日本は外国じゃない」(1)

 美しい金色の麦畑が広がっている。瑠璃色の空から降る陽光に照らされ、豊穣な光を放っている。麦畑の中には日干し煉瓦で造られた塀で囲まれた家が点々としている。大きな家もあれば小さな家もある。外から塀を見るとドアの所だけが緑に塗装された金属製で、そこから子供たちが小さな顔を覗かせている。
 私たちの乗った車が前を通ると、子供たちが笑みを浮かべながら手を振りだした。私にではない。後部座席に座る私の前にいる人物、「ドクターサーブ(現地の言葉で『お医者様』)」ことペシャワール会の現地代表中村哲医師だ。中村医師はゆっくりと上げた手で返事をする。
 わたしはペシャワール会が活動するジャララバード近郊の村に来ていた。
 ペシャワール会は1984年から活動を続ける日本のNGO(非政府団体)だ。設立当初はらい病患者の診察が主であったが、現地の要望に応えらい病以外の診療、井戸建設、水路建設、マドラサ建設と活動範囲を広げてきた。アフガニスタンで活動する日本のNGOでは最大規模で、年間約3億円の民間からの寄付のみで運営されている。
 今年8月、日本人ワーカーの伊藤和也さんが何者かに誘拐、殺害されるという痛ましい事件が起きた。治安悪化のため日本人ワーカーを帰国させようと計画していた最中に起きた悲劇だった。現在、中村医師以外の日本人ワーカーは帰国した。中村医師が日本人では1人だけ残り活動している。
 取材初日、ペシャワール会病院のジア副院長が用水路を案内してもらった。
 現在、アフガニスタンは「100年に一度」と言われる干ばつに直面している。アフガニスタンの農業用水はカレーズと呼ばれる地下用水路を通して畑に運ばれていた。しかし、それが干ばつで枯れてしまったのだ。アフガニスタンは人口の殆どが農民の自給自足を前提とする社会だ。作物が取れないことは死に直結する。ペシャワール会の活動するダラエヌール近郊でも多くの人々が干ばつで生活することが出来なくなり、生まれ故郷を離れた。残った人々は干ばつで苦しみ、子供が泥水をすするような状態になった。
 その干ばつの惨状は中村医師の著作に詳しいが、車上から見える景色はその苛酷な時代がそこにあったことを想起させるのが困難なほど美しいものだった。農地の横には水路のクナール川がある。ジア副院長にどうして川があるのに干ばつなのか、と聞いた。
 「クナール川の水量は豊富です。けれど、居住可能な土地は川よりも高地にあるので水は農業には使えません。カレーズも干上がり、ここ一帯は干上がっていたのです」
 水路には「蛇籠」と呼ばれる日本の古い水路技術が使われている。砕いた岩を針金で囲み、ブロック状にしたものを水路の壁に使うのだ。コンクリートでは壊れると補修が困難だが、蛇籠ならば現地の人の手で補修が可能だ。水路は完成後、地元民に引き渡され、彼らの手によって管理される。「ペシャワール会があたえる」というより、「地元の人と一緒に作る」のだ。
 完成した水路の近くに住む住民は笑顔をポロポロとこぼしながら日本への賛辞を述べた。だんだんと人が集まり、日本への感謝をいかに述べるか、という弁論大会になった。
「ドクターサーブやペシャワール会のおかげで生活できるようになった。心から感謝をしている。彼らはアフガニスタンの真の理解者だ」
「日本は外国じゃない。日本はアフガニスタン人だ」
 日本人の名前が髭面の男たちの口から次々と飛び出し、個々人に感謝の意を表した。その中には殺害された日本人ワーカー伊藤和也さんの名前もあった。
 日本人をあまりに持ち上げるので、わたしは自分のことでもないのに妙にくすぐったい気持になった。
 驚いたのは何よりも彼らが本当にペシャワール会に感謝していることだった。何かをもらったのだから「当たり前」と感じるが、実はそうではない。
 アフガニスタンでは数多くのNGOが活動しているが、アフガン人がNGOについて話す時みな眉をひそめるのだ。口をそろえて誰もが「連中は自分たちがもうけるために来ているのさ」というのだ。(白川徹)

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2008年12月17日 (水)

なぜ麻生太郎は漢字を読めないのか

的を得る(そんなものを得てどうする)、汚名を挽回する(同じく。そんなものを挽回してどうする)、怒り心頭に達する(どこから怒りはスターしたの?)、激を飛ばす(励ます?)、興味深々(深さは関係なくないか?)、ケンケンガクガク(2つの言葉が合体)、価値感(価値みたいな?)、不可決(可決しない?)、笑顔がこぼれる(顔が胴体からこぼれるの?)……

我ら編集者は日本語の誤用を見つけ出すのが大きな仕事である。したがって上記のようなミスがいくらでも起きうるのは知っている。「鳥肌が立つ」のように誤用が一般化してきた例もあり、目くじら立てるのはどうかとも思う……と上から目線で書いている私もこのブログで「泰山鳴動」と誤記するなど失態はいくらでもある。
しかし麻生首相の「漢字読めない」はそれとは別次元に思えてならない。と書くと「思い込んだ漢字の読み違いもいくらでもあるのでは」などの反論が考えられる。確かに。私も「強弁」をある時期まで「ごうべん」と勘違いしていた。でもそれとも違う気がする。それで怪我を「かいが」とは読まないのでは。「踏襲」を「ふしゅう」と間違うのは不自然では。
私の推論は麻生さんは自分で考えた文章を書いた経験がほとんどないから、である。一般に麻生KY問題は本も新聞もきちんと読まないからとか漫画しか読んでいないからなどと揶揄されている。でも読むか読まないかでは「強弁」のような勘違いは撲滅できない半面で「かいが」はない。漫画ばかり読んでいると「かいが」になるというのもゲーム脳の如きニセ科学のにおいがする。
やはり彼は一度も「怪我」と書いたことがないから「かいが」なのだ。いや正確にいえばそんな訳はない。事実上一度も書いたことがないに等しい状態であり続けたからと疑う。
当たり前のことをいう。日本語はひらがなとカタカナと漢字が混じる。なるほど漢字だけ取り出して「漢字検定1級」の人は「かいが」とは絶対読まないけれども「漢字検定1級」はそうはいない。にも関わらず「かいが」と読む人はごく少ない。するとひらがなとカタカナと漢字が混じった文章をひねり出した体験が、すなわち日本語で書いて表現するとの営みが際立って少なかったからと想像するのが一番わかりやすくないか。「書ければ読める」は日本語の鉄則である。魑魅魍魎と書ける人が「ちみもうりょう」と読めないはずがないように。

書いていれば間違いに気づく。気づかざるを得ない。「けがをした」と書こうとして「怪我をした」と書いた人が「怪我」を「かいが」と読み違えるはずがないので。
近年はワープロソフトの辞書が発展しているので読みが違っていたらすぐわかる。先の「強弁」にしても「ごうべん」では変換できない(参考:私の場合はATOKです)。でも麻生さんの年齢だと手書きの時代が長かったのでここで覚えられなかったのを責めるのは酷だ。ワープロソフトの汎用化は私が知る限り1980年代後半である。記者になってまもなく私はワープロ専用機を買って記事を書き始めたがデスクはそれを嫌って手書きのフォーマットにプリントアウトするよう命じた。新聞社でさえそうだったのだ。麻生さんはこの時点で40代後半。つまり当時のデスクと同年配だったわけでワープロソフトを使わないで今日に至っていてもおかしくはない。
もっともこの時点で一つのほぼ確実な推論は得られる。麻生首相は今日に至るまでパソコンで文章を書いていないということ。それはそれで問題だろうね。

話を戻す。となると麻生氏は手書き時代の人でいまだ手書きで通しているとなる。ただし上記の理由によって書いてさえいえば手書きであっても「かいが」とは読まない。だから書いていない。
一国の首相が文章を書かない……ここが問題なのだ。しかしここでも疑問が生じる。いったいに著作集を残すほど文章を残した首相がどれほどいようか。戦後では石橋湛山と中曽根康弘の各氏しか思い浮かばない。うち石橋氏はもともとジャーナリストなので中曽根さんだけとなる。麻生氏だけが責められるいわれはここにはない。
でも麻生首相のKYは群を抜いている。すると著作になる以前の、文字通り文章を書くという営み自身を著しく行っていなかったからと予測される。そのレベルは「『かいが』はねえだろう!」と批判する人未満となろう。これはかなり悲劇的な水準だ。
考えを文章にまとめる行為は論理的一貫性を養うのに適している。それを信じられないほど行っていないというのは論理的一貫性が弱いという結論とほぼ合致する。一貫性がなければ迷走する。そういうことではなかろうか。(編集長)

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2008年12月16日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/08年総括

○月×日
 「今年も終わるんだなあ」と思う。
 乗務中でも、遠くの空を眺めても、街の雑踏の中にいても、落ち葉を踏みしめても、グラスを傾けても、そればかり思う。
 悔いも未練も何もない。これといった満足感すら感じない。
 それというのも、今年こそはという目標を持たなかったからだろうか。確固たる主体性もなく、ただただ、時の流れに身を任せていただけで、世の中とも、それほど真剣に向き合ってこなかったからだろうか。あれこれ深く考えてみたところで、理由はよく分からない。
 この1年を振り返ってみると、公私共に特に変わったことは何も起こらなかったように思う。
 そりゃあ、時には、鼠色の雲が低く垂れ込めてきて、「荒れてくるな」と身構えたこともあった。が、しかし、総じて、時はたんたんと過ぎて行き、まるで何事もなかったかのように結果はオーライ。穏やかな日差しに包まれながら、のほほんと、順調に推移した1年ではなかったか。そうだと思う。
 正直にいうと、「もう何もかも関係ねえんだ、おれには」というと語弊があるが、いつの頃からか(たぶん、ここ1~2年だと思うが)、私は何事に対しても距離を置き、深く関わることはしないできた。
 それは、残り少ない仕事、残り少ない人生が、これ以上波瀾万丈だなんてまっぴらだと思うようになったからだ。私自身もあえて波風を立てるようなことはせず、ただ静かに、無事に終わってくれればそれでいいと思うようになったからだ。
 少し具体的にいうと、たとえば職場だとする。余計なことはいわない。仲間の輪の中には入るが、うんうんと聞き役に徹するというか。これまでの私は、1つ1つにいちいちこだわり、ああだこうだと人一倍一喜一憂していたものだが、最近はどうも疲れるというか、どうせ結果は分かっているのだから何も大騒ぎすることではないのではないかと。ある意味、醒めた目で見るようになったということだろうか。
 乗務中に人身事故や何かのトラブルがあっても、自分の仕事が済んでしまえばそれでいいと。勿論やることはやり、一日が無事に終わればそれでいいと思うようになったのだ。
 また、誰が遅刻しただの、ミスをしただのはまったく眼中になどなくなった。そんなことはもうどうでもいいと思うようになった。今まで張り巡らしていたアンテナは引っ込め開店休業状態にした。つまり、傍観者を決め込んだりといった具合なのだ。
 こんなことをいうと、なんてマイナス思考なんだとヒンシュクをかいそうだが、大事なことにはキチンと向き合い、やることはやっているわけで、ま、どちらかといえばそのようにしていますといった程度のことなので、まずまず、あしからず。
 なんだかしけた話になってしまったかな。
 いずれにしても、今年もまた東京と田舎を行ったり来たりの1年だった。それは昨年と変わりない。
 でもね、帰省の度に、東京よりははっきりしているふるさとの四季の美しさに触れ、十分に満喫できたこと。海や山などの旬のもの、それと地酒などなど。美味しいものばかりたらふく舌鼓を打てたことは何よりの贅沢だったように思う。少しは余裕が出てきたのだ。
 いつまでも元気でいたいよね。
 ではでは、また来年。(斎藤典雄)]

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2008年12月15日 (月)

書店の風格/第24回 阿佐ヶ谷きたなら(1)

 阿佐ヶ谷駅南口を出ると、果てしなく続いていく商店街がある。そこをぶらぶらするよりも手前、細長いビルの一角に「書楽」はある。間口が狭いので、どこにでもある街の本屋と見くびるかもしれない。しかし中に入ってみてほしい、予想外の広さに驚くから。

 入口付近は雑誌のラックが多数あり、「庶民の本屋」の雰囲気がじんわりとした優しさをもって出迎えてくれる。ホッとしながら一間強の自動ドアをくぐりぬけ、目の前に拡がっている新刊・話題書の並んだ平台を見つめたのち、ふと右側の棚に意識を遣ってみると、そこにこだわりの息づかいを感じることが出来るだろう。東京や近郊についての情報本を扱ったその棚は、実用書が溢れているとは思えないほど上品な佇まいをしている。落ち着いたオトナの多く住まう阿佐ヶ谷という街のイメージどおり、レジャー感を過剰に打ち出すことなく、例えば散歩の本であるとか、歴史的人物のゆかりの地を訪ねる本であるとか、文化を感じさせるラインナップなのである。そんなこだわりの棚を見ながら店内奥へ進んでいくと、入口も奥行きも狭いこの本屋が、実はかなりヨコ長であることに気がつくだろう。「駅前の本屋さん」と一口に言うには広すぎるのが、この「書楽」なのである。こんなところに良質な本屋さんが、と、自分一人で穴場を発見したときのあのお得感が心に訪れるのだ。
 じゅうぶんにお得感を味わったら、好みの本棚を探していこう。人文書はいわゆる基本書が当然のごとくそろっているし、学習参考書、語学書、試験・資格の本も豊富だ。どれも偏りなく揃っているのが、書店としての誠実さ・緻密さを思わせて、大変好感が持てる。
 そして何よりも魅力的なのが、店長さんの動きである。ひとめ見ればこの人が店長と、雰囲気で分かってしまう背筋のピンと張った男性は、スリップの束をめくりながら本棚をなめるように動く。後ろ姿から熱心さが否応なしに伝わってくるその様は、迫力があるとすらいえよう。職人の仕事を垣間見るすがすがしさを味わい、同時にある店の店長さんの話を思い出した。

 POSシステムが発達して本の発注も機械におまかせになる書店が増えている。しかしそれでは「機械の作る店」になってしまう。本屋というのは単に印刷物を売る場ではない。「無数の思考の息づかい」を売る場である以上、そこには店主の意向、遊び、ためらい、挑戦などが反映されるべきであり(どんなに押しつけがましいと思われようが)、お客さまにもそのメッセージを受け取ることを、楽しいと思っていただきたいのだ。そのためには、売上の状況を毎日自分の目で見る。どんなに膨大であっても、売れた本のリストを見る。そうすると、機械には見えない売れ筋本の流れ、ジャンルごとのテーマリンク、などが浮かび上がってくる。そこに自分なりのエッセンスを加えたり、「これから売れるであろうもの」を推理したりしながら注文を得る、棚を作る。これが書店人のあり方だと。

 これぞ「本売りの職人」としての書店人のあり方なのであろう、と思った。そしてスリップと棚構成を頼りに、自分の感覚で書店そのものを創り上げていく厳しい方法を選ぶ書店人を、私は支持したい。
 「書楽」の本棚も、書店人の思いがたくさん詰まっているに違いない。集中してスリップをめくっている姿を見て、そう思った。すると、いっそう本棚が、輝いてみえてきた。(奥山)

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2008年12月14日 (日)

忠臣蔵吉良邸討ち入りの現場を歩く

Img_6913  時は元禄15年(1702年)の本日、午前4時。両国に火消しに扮した47人の義士が到着した。満月になろうかという月が前夜に降った雪に反射し、四十七士の足元を照らす。冷害で米価を押し上げたというこの年の冷え込みはきつい。47人の踏みしめた雪がザクザクと硬い音を響かせた。
 現在の両国3丁目6番地、旧本所松坂町にある吉良上野介の屋敷前で隊は2つに割れる。屋敷西側、正門にて陣太鼓を叩くは、ご存じ大石内蔵助。東側裏門の大将は、内蔵助の息子、15歳の大石主税良金であった。
 内蔵助の号令一過、正門横のなまこ壁にはしごがかかり、大高源五と間十次郎が一気に越えていく。後続の義士も躊躇することなく、一気にはしごを駆け上っていく。門を制した一行はかんぬきを一気に引き抜き、大石内蔵助を頭とする表門部員を屋敷に内に招き入れた。
 これこそ四十七士による討ち入りの始まりだった。

 現在、この正門はマンションへと変わった。その持ち主である男性は、次のように語る
「『ここから毎日出かけるのはいいですねー』と忠臣蔵のファンの方に声をかけられたことはありますよ。まだ、マンション前に正門跡と説明した看板が立つまえでしたけどね。
 ただ、まあ、住んでいる場所ですし、いいと言われてもって感じではあるんですがね(笑)」
 正門から毎日出かけられたら、毎日が内蔵助気分だろうと思うのは、どうやら忠臣蔵フリークだけらしい。さもありなん。

 一方、大石主税を対象に据えた裏門隊の討ち入りは、かなり荒っぽいものだった。掛矢と呼ばれる大きな木槌を、台所役人だった三村次郎左衛門がガツンガツンと打ち付ける。門を打ち破った途端に、一同が一気に雪崩をうって屋敷内に飛び込んでいった
 このとき主税、わずかに15歳。義士としては最年少であった。ただ173センチと当時にしては大柄で、肝も太かったと伝えれられている。

 この主税大活躍の裏門は中華料理屋となっている。もちろん千客万来、打ち壊す必要もなく中に入れてくれる。
「ここが裏門で、どうかなんて考えたこともなかったねー。今日みたいなイベントがあると、昔そんなこともあったんんだなーと思うけど。すみませんねー」と頭を下げたのは、この店のおかみさん。
 まったくもってその通り。どうやら一度に飯を10杯以上食べた伝えられる主税を忍んで商売を始めたわけではなさそうだ。

 話戻って正門組。
 ハシゴで塀を乗り越えた小野寺幸右衛門が真っ先に向かったのは、正門すぐ近くにある「槍の間」。走りながら抜刀し、部屋に置かれている弓の弦を一気に切り払った。吉良には弓使いが多いという情報を得た上での行動だったという。さらに長槍14~5本も完全破壊。討ち入りからわずか1時間にして屋敷内を制圧する快挙は、この地で始まったと言っても過言ではない。

 小野寺幸右衛門大活躍の「槍の間」の現場に住む男性は、取材当日に開催されていた元禄祭りの役員が集まる酒席の中にいた。
「おいおい、大丈夫か『ヤリの間』に住んでるなんて」と仲間にからかわれながら取材に答えてくれた男性は、「はははっ。まあ、感想もへったくれもないわな」と大笑い。「家がそんな場所だって聞いたこともなかったもの」と続けた。さすがに事件発生から306年もたって、廷内の様子を現住民に取材するバカは、そうそういなかったと見える。

 廷内に入った義士は「火事だ、火事だ」と騒ぎ立て、大人数で押し入ったように偽装しながら、一気に屋敷内に突入していく。ただ、この屋敷。お屋敷に面している北側を除き、東西南はすべて塀が長屋となり、屋敷を警備する者たちが寝ていた。そこで長屋から飛び出してくる者を制圧するため、何人かが屋外に配されていた。裏門組に属していた間喜兵衛・小野寺十内も、そんな役割を担った2人。喜兵衛68歳、十内60歳という老人タッグが不幸だったのは、裏門入ってすぐ長屋から飛び出した2人の男と出くわしたことであった。
 屋敷を守ろうと長屋から出陣されては、人数の少ない義士は総崩れ必至。走り出でる2人の男を喜兵衛と十内が槍一突きで殺害する。そのとき、いまわのきわにあった男が念仏を唱えるのを、十内の耳がとらえた。
「老人の罪作りとや申すべき」
 愛妻家だった十内は、このときの気持ちを手紙にて妻・丹に書き送っている。討ち入りに参加せず、脱盟してしまった兄に絶縁状まで送ったという忠信・十内。自らの死を覚悟しての討ち入りだったが、かたきである吉良の殿様以外、同じような忠臣を殺したくはなかったのだろう。
 しかし、じつは十内、最大の「罪作り」は彼の自決後に起こる。夫の法要を済ませた丹が、十内の後を追って静かに自害したからだ。

 この泣けるドラマ、老人タッグによる殺害現場に住む男性は、「初めに切りつけた浅野内匠頭が悪い」と47士の殿様を一刀両断した。
 彼は日本全国から人が集まる討ち入りのお祭り・元禄祭の発起人だったという。12月14日にお参りに来る人々に一休みする場所を提供しようと、近所のお茶屋の協力で、自宅でお茶を出したのが事の始まりだった。
 四十七士だけではなく、討ち入りで亡くなった吉良側の忠臣を含めてお祀りしてきた地元住民だけに、命をささげるまで忠臣を追いつめてしまった主君に目がいくのかもしれない。

 さてさて十内については、さらに書き記しておくべき活躍がある。それは隣の屋敷の騒がしさに、何事かと家来とともに庭に出てきた土屋主税に対し、片岡源五右衛門、原惣右衛門とともに仇討ちであることを伝え、火を出さぬよう十分に気をつけているからと壁越しに挨拶したことだ。
 すべてを了解した隣人・土屋主税は提灯を塀の上に掲げて、中を見えやすくすると同時に、「塀を乗り越える者には矢を射よ」と家来に厳命した。

1_2    このちょっと粋な土屋家のあった場所に暮らす男性が、お祭りの実行本部のテントに居た。
「つまり賊の手助けをしたわけだな。そりゃ、共謀共同正犯だな」と笑う。この男性によれば、地元では吉良の殿様を支持する人も、赤穂浪士を指示する人もいるという。
「ただしどちらもお祀りする。それがここ両国ですからね」と微笑んだ。

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年12月13日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第28回 葬祭ディレクター試験の問題点

 『寺門興隆』11・12月号と、「葬祭ディレクター問題」と題した記事が載っている。儀式の主役は宗教者であるはずなのに、仏教の詳細な知識を問う問題が多々見られることや、地域によって違う葬儀作法をあたかも画一的であるかのように扱っていること、実技試験が幕張のみで現場に即した入棺などの作法が入っていないことなどを批判している。

 といっても、一般の方には何のことやらわからないだろうから、順を追って説明する。

 まず、「儀式の主役は宗教者であるはずなのに、仏教の詳細な知識を問う問題が多々見られること」の問題点は何だろう。
  多くの人は「葬儀屋が仕切役で宗教者はゲスト」ととらえるかもしれない。しかし、葬儀をある宗教方式で施行する場合、葬儀屋は段取りを組んで手配するだけの存在であり、あくまで仕切りは宗教者の役目だ。いわば単独ライブ会場のロックミュージシャン。準備は他の人々に任せても、リハーサルでは自分の表現が最大限に伝わるように細かく指示を飛ばすはずだ。宗教者は自分が使う道具がちゃんとそろっているかどうか必ず式場の下見をして、足りなければ指示を出す。司会者はどんなにお馴染みの住職であってもその都度みっちりと打ち合わせをする。「こちらの式場は仏式であればこういう段取りになっていて、こういう道具しかないのですから、お坊さんはそれにあわせて下さい」と言うことなど、言語道断だ。儀式は宗教者の範疇であることを葬儀屋が忘れてしまうと、トラブルが多くなる。宗教についての余計な知識など付けようものなら、100%鼻持ちならない担当者になって宗教者に嫌われる。宗教のことは宗教者に任せておけばいいのである。他にずいぶんとやらなければならないことがあるのだから。
 ……と、宗教者側は言いたいのであろう。

 確かにこれについては、葬儀屋の現役時代に100回くらい言われた。「お客様から宗教的な質問をされても一般的にはこうだと推測してお答えしてはいけない、宗教者にお聞きするようすすめなさい」と。ものすごく気を遣った。ただ、お客様はそれでいいが宗教者に対しては、いつも無知の顔をさせているわけにはいかない。いくら「儀式はおれに任せろ」と言っても、以前の葬儀で出した指示が式場に生かされていなければ寂しいだろう。つまり、「宗教のことは何も知りませんが、●●寺様がいらっしゃる時にどんな道具が必要かは心得ております」という態度が、葬儀屋として正しいあり方といえる。だから事務所には施行をした寺・神社・その他、一つ一つの式場設営マニュアルがズラッと並んでいた。抹香・線香の銘柄から車いすの有無、ライトの当て方まで、注意されたことは全てメモをとり、どんな担当者がやっても以前の指示が生かされているように気を配ったのだ。
 葬儀屋が宗教上の詳しい知識をつけるのは、詳しく聞かずに邪推したり、臨機応変の素早い対応ができなかったりする原因となる。だったら、そんな知識はむしろない方がいいのだ。

 「地域によって違う葬儀作法をあたかも画一的であるかのように扱っていること」も同じような理由で問題視されている。しかしこれもほとんどの葬儀屋で了承しているところであろう。とくに地方では2キロ離れれば作法がガラリと違ってしまうところもある。その地域で以前施行をしたことがなければ、どんなベテラン担当者でも万事確認が必要だ。そして注意深く近所のおじさま達の話を聞いておかなければならない。耳慣れない単語が出てきたら素早く質問する、些細だと思われることも曖昧にしておかない。これを怠ると、葬儀当日になって自分の知らない段取りが突然進行し、うろたえてしまうことがある。

 そして「実技試験が幕張のみで現場に即した入棺などの作法が入っていないこと」。試験を受ける側としては、確かにこれが一番疑問であった(実際に受ける前に仕事を辞めてしまったのだが)。幕張とは、祭壇の後ろや焼香台にヒダのついた幕を画鋲で張ることである。このヒダを均等にとるのが新人には難しい。体全体を定規にして、身体感覚と視覚を頼りにヒダを作っていくのだが、引っ張りすぎて変な皺ができてしまったり逆に緩んでしまったりと、修行が必要なのである。真っ白な幕に汗のシミをポタポタと落としながら、集中してやったものだった。
 が、そんなことをやるのも筆者が施行していたような田舎のみで、最近ははじめからヒダやフリルのついた幕を留めるだけである。「ウチらは日常からやってるからいいけど、都会モンにはなんかイミあんのか?」というのが正直な感想だった。しかも結構な早さで仕上げなければならない。それこそ、そんな練習をするのであれば入棺作法の方がずっと現場に即しているだろう。単独行動の多い業務の中で他の施行担当者の入棺作法を見るチャンスなどほとんどないし、多会社の作法を見ることで勉強にもなる。

 というわけで、当事者も違和感を感じているのが葬祭ディレクター試験の実際である。ただ、実技試験の中でも司会とお客様に対する接遇はかなり学ぶところも多いのではと思う。学科試験の中でもたとえば行政手続きや法律の項などは、受験の有無にかかわらず覚えていた方が何かと役に立つ。しかし、参考書『葬儀概論』は一万円とスバラシイお値段で、恐れ入った。(小松)

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2008年12月11日 (木)

ホームレス自らを語る 第16回 東京大学経済学部卒です(後編)/大内信さん(86歳)

 私が東京帝国大学経済学部に入学したのは、昭和17(1942)年4月でした。そのころの大学生には徴兵猶予の措置がありましたが、翌昭和18年に文科系大学生の猶予が廃止になります。私も学徒出陣で駆り出されて、門司港内にあった船舶工兵隊に配属されました。
 通常、学徒出陣兵は将校に任命されるという不文律がありましたが、私だけは伍長からのスタートでした。どうもこの軍隊入営あたりから、私の人生は悪いほうに転がり出したような気してなりませんね。
 昭和20年8月6日に広島に原爆が投下され、その4日後に私は広島の街を歩いています。これは宇品にあった船舶指令所に公用があって行ったもので、広島―宇品間の鉄道が不通で片道約5キロほどの道程を徒歩で往復したのです。
 門司の隊に戻りつくと、急に身体のダルさを覚え、体温を測ると40度もありました。軍医の診断は「風邪だろう」ということでした。そのときは、広島に投下されたのが、原子爆弾だとはまだ誰も知らなかったのです。
 その後も、私はしばしば身体のダルさと、発熱に悩まされます。でも、それが原爆投下直後の広島の街を、徒歩で何時間も歩いたこととは結びつきませんでね。自分が原爆症に罹っているとは思いもしませんで、ですから被爆者申請をする機会を失って、いまだに被爆者手帳も持っていないんです。

 その年の8月15日が終戦。軍の残務整理に4ヵ月ほどかかって、同じ年の暮れに東京大学経済学部に復学しました。卒業は昭和24年9月でした。戦後のゴタゴタや学制改革などがあって、変則的な9月の卒業になりました。
 それで日本発送電という会社の経理係に就職します。日本発送電というのは、日本の全電力会社を戦時統合した国策会社で巨大な組織でした。普通、こうした組織はGHQによって、解散分割されるのが例でした。しかし、当時の日本の電力事情は最悪で、その建て直しのメドがつくまで例外的に残されていたのです。
 日本発送電は昭和26年まで続いて解散になり、東京電力など9電力会社に分割されます。私も一時東京電力に籍を置きますが、何のことはない翌27年には電源開発が発足して、日本発送電の主要メンバーと、そちらへ横滑りで入り込むことになります。
生活保護施設を渡り歩く
 そこでも私は経理係でした。ただ、係長くらいまでにはなるんですが、そこから先の出世ができません。同じ東大出身の後輩たちに、どんどん抜かれてしまう。どうもおとなしくて自己主張できない性格が災いしたようです。

 結婚は29歳のときにしました。私の叔父に東大教授から法政大学総長になった大内兵衛がいます。その息子で私には従弟にあたり、のちに東大副総長になる大内力というのがおり、その妻の妹を紹介されて結婚しました。
 私が日本発送電にいたころのことですが、当時は電力供給の復旧が急務の国策でして、我々社員は会社近くの旅館に泊まり込みで働く日が続き、いつ家に帰れるか分からない状態でした。それは電源開発に移ってからも同じで、市ヶ谷大塚の家で一人待たされる妻も辛かったんでしょう。結局、7年間か、8年間の結婚生活で離婚になりました。
 そんな結婚生活でも、子どもが2人できました。上の男の子を私が、下の子を妻が引き取りました。子連れではアパート生活もできませんから、私は長兄が早稲田大学の教授をやっていましたので、そこに転がり込んで居候しました。子どもは順調に育って、いま新潟の米穀商の娘と結婚して婿に入っています。
 妻と離婚したのと同じころ、電源開発を辞めてしまいます。私に特別な出世欲があったわけではありませんが、東大を出て経理の係長どまりでは仕方ありませんからね。
 それでベースボールマガジン社に転職しました。そこで米国で出版されているスポーツに関する単行本の翻訳の仕事をやりました。
 そのうちに子どもが結婚して、独立しました。すると、こんな老人がいつまでも兄の家に、居候しているわけにはいかなくなるんです。それで兄の家を出てアパートに入ろうと思って、いくつか探してみました。でも、老人の独り暮らしは、どこの大家も嫌って貸してくれません。
 ある不動産屋さんから「山谷に行けばドヤ(簡易宿泊所)があって、そこなら泊めてくれるよ」と教わり、それからは山谷のドヤで暮らすようになりました。それをきっかけにベースボールマガジン社も辞めました。山谷に住んで出版社勤務でもありませんからね。
 それからは日雇い仕事で、糊口を凌ぎました。といっても、この身体で肉体労働は無理ですから、(東京)都が斡旋してくれる公園清掃とか、建築現場の片付けのような軽作業の日雇い労働です。こういう作業は毎日ありませんし、日当も安いから、とても食べるだけ稼げません。足りない分は長兄に援助してもらいました。

 そのうちに65歳をすぎて、生活保護が受けられるようになり、台東区や足立区の生活保護施設を転々としてきました。こんどは新宿区の世話になろうかと考えて、一昨日からこっちに来てみたんです。
 東大経済を出た同級生たちは、みんなそれなりの社会的地位を築いて、安定した生活を送っていると思います。ホームレスをしているのは、私くらいのものでしょう。私は若いころにマルクス主義にかぶれて、世の中を甘く見るというか、斜に構えて見るとことがあり、それがいけなかったように思いますね。
 いまの私の望みは、死ぬときは楽な死に方をしたい。ただ、それだけですね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年12月10日 (水)

マスコミ総崩れ

わが出版界は大不況である。トーハンの今年度上半期の中間決算は赤字。大手書店グループ文教堂恒例の新年懇親会は来年中止。伝説の吉祥寺店を含む弘栄堂書店がどうやら精算の方向。月刊現代休刊、月刊プレーボーイ休刊……。暗い話を探すときりがない。

というわけで私も「出版外収入」を求めて他メディアでコソコソと仕事をしているものの、そのどれもが不況下にある。とりわけ民放がおそらく史上初の逆風を受けている。キー局の日本テレビとテレビ東京が中間決算で赤字転落。他社も含めて制作費の切りつめにやっきである。
民放地上波は長らく「広告収入=会社の収入」というものすごく単純なビジネスモデルで通してきた。その広告が今年に入って激減したのが大きい。でもだからといって制作費を削れば番組の質も働く者の士気も基本的には下がる。すると「広告出稿=視聴率」のうちの視聴率が悪化し負のスパイラルがやってこよう。別の財布を持っているNHKは今や職員が「ハッキリ言って視聴率は意識しています」と断言する時代だ。
窮余の策で増加中のパチンコ広告。さぞかし景気がいいかと思いきやこの業界も大変らしい。射幸性の高い機器が排除されて客離れが深刻なのだそうだ。でも今華々しく売り出しているパチンコ機もまた射幸性が高いものが多いらしく規制の声が上がっている。大々的なパチンコ広告を眺めている子の姿を親も放ってはおけない。そのうち激減するだろう。
すでに以前の大スポンサー消費者金融は貸金業法成立を受けて大半がビジネスモデルを失って広告どころではなくなっている。今でも時々見かけるのは「無理のない返済プランで……」と説教するたぐいばかり。無理のない返済プランが立たないから消費者金融へ駆け込むわけだからブラックジョークである。「マネーよりマナーを」などとサラ金に説教されたくない。
彼らが貸し手でなくなれば当然パチンコの原資も細るわけで共倒れは必至である。とうの昔にタバコの広告はテレビから消えた。車も売れない。スポンサーがどんどん消えていく。

とはいえ新聞に比べればまだましである。私が入社した時点で既に「再建」が社是?だった毎日新聞はもちろん厳しいだろう。もっとも広告単価が高いとされてきた朝日新聞まで中間決算で赤字となってしまった。今日(12月9日)の朝刊は広告企画で「朝日ネクスト」というのが入っている。シティ、オリックス証券、アクサ、外為どっとコムなどが出稿しており「1500兆円が日本の未来を明るくする」と題して個人金融資産を活用せよと解く。あの竹中平蔵氏のインタビュー記事の下に「外為どっとコムで、FXを始めよう!」との広告が。あ……ありえねえんじゃねえか。この「朝日ネクスト」も購読料に含まれているのか。

ならば当然ながら広告会社も不景気で業界トップの電通も思わしくない。民放が悪いのだから、歴史的に見てその生みの親である電通がそうなるのも仕方あるまい。この会社は文系学生の大人気企業である。それが昔から不思議でしょうがなかった。

以上、「出版外収入」を求めマスコミという名のサバンナを放浪する私がかつてありつけたオアシスはどんどんなくなっている。というか総崩れに等しい。本業へ戻れとの神の仰せか。でも神様。本業が飢饉で食えないから出稼ぎに来ている労働者へ「戻れ」とおっしゃるのは水野忠邦じゃないですか。(編集長)

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2008年12月 8日 (月)

●ホ ー ム レ ス 自 ら を 語 る 第15回  未受給年金がたまっている/松崎倡伸さん(67歳)

0812 (松崎さんはそれがクセなのだろう。言葉を繰り返して語る人である)
 昭和16年、宮城県の生まれです。
 家は農家で稲作をやっていました。田圃は2町歩(約2ヘクタール)くらいつくっていました。田圃は2町歩くらいありましたね。
 子どもの頃の私は無口でおとなしい子でした。おとなしかったです。でもね、ケンカで負けたことは一度もないですよ。柔道を習ってましたからね。
 オヤジが講道館柔道の青帯だったんです。すごく強かったです。そのオヤジに教わっていましたからね。私も強かったんです。ケンカで負けたことは一度もないですよ。
 ただ、中学生の頃、村祭りの夜に5、6人の不良に待ち伏せされて、闇討ちをされたことがあります。そのときは逃げました。いくら私でも5、6人が相手では勝てませんからね。そのときは逃げました。
 オヤジはね、軍隊で近衛連隊にいたんです。皇居に入って天皇を守る兵隊です。皇居に入って天皇を守っていたんですよ。私が生まれた頃には軍隊は除隊になって、宮城で農業をやっていました。田圃は2町歩くらいつくっていました。
 私も小学生になると田圃仕事を手伝わされました。田の草取りとかやらされ、高学年になると田植えや稲刈りもやらされました。田植えや稲刈りもやらされたんです。
 それでも私は農業が嫌いじゃなかった。本当は農業を継いでやりたかったんです。でも、私には兄がいて、その兄が農業を継ぎました。本当は農業を継いでやりたかったんです。
 それで中学を卒業して、東京へ出てきました。親から600円の現金をサイフに入れてもらって、鈍行の夜行列車に乗って出てきたんです。まだSL列車でしたよ。鈍行の夜行列車に乗って出てきたんです。
 私が就職したのは、K電工という会社で、電気や電力設備の工事をする会社でした。町工場のような小っぽけな会社じゃないですよ。電気工事では日本で一番大きな会社ですから。あっ、あんたもK電工を知ってますか。
 私の仕事は新築されたビルなんかの建物内の電気設備工事。主に電気ケーブルの引き込や、室内配線の仕事をやりました。その頃はほとんどが人力作業でね。ドラムに巻かれたケーブルをビルの最上階まで、幾人もの作業員で「エーンヤ、コーラ」と声を合わせて引っ張り上げたもんです。「エーンヤ、コーラ」と声を合わせて引っ張りあげたんですよ。
 その頃の足場といったら、丸太を組んだものでしたからね。よく作業員が滑って墜落しました。大ケガをしたり、運が悪いと死んでしまう人もいました。私の目の前で墜落して死んだ作業員もいますよ。私だって幾度も危ない目に遭っていますから。幾度も危ない目に遭っているんですよ。

 結婚はしなかったです。仲人好きの知り合いが、婿養子の話をもってきて、盛んに勧められましたが断りました。婿養子なんて窮屈でたまらんでしょう。一人が気楽でいいですよ。一人が気楽でいいですからね。
 一番の愉しみは仕事帰りに、仲間と居酒屋に寄って一杯引っ掛けることでした。でも、そこそこに飲むだけで、酒に溺れるようなことはなかったですね。ギャンブルもひと通りはやりましたが、これも仕事仲間の付き合いでやる程度でした。
 だから、金はたまりました。K電工はボーナスがよかったですからね。金はたまりましたよ。
 そのK電工を41歳のときに辞めます。26年間働いてきたK電工を辞めました。それでそれまでためていた金と、退職金を合わせて家を買いました。いや、東京ではなく、宮城の田舎のほうに買ったんです。中古の家を買ったんです。
 会社を辞めて、私は日雇いの土工で働くようになりました。そう、東京でね。だから家は買ったけど、誰も住んでいなかったです。ところが、そんな家にも税金がかかるんですね。それもバカにならない金額でした。固定資産税というのかな。ホントにバカにならない金額でしたよ。
 あまりにもバカらしいから、売り払うことにしました。そうしたら田舎の中古住宅は、買い手がつかないとかで二束三文でした。二束三文でしたね。せっかくためた金を、ドブに捨てるようなもんでした。
 日雇いの土工の仕事は、10年くらい前にやめました。肉体労働が身体にしんどくなったのと、バブル(経済)が弾けて仕事が少なくなったのとですね。それでホームレスになったわけです。それでホームレスになったわけですね。
 いまはスッカラカンで、飯を食う金もないですよ。雑誌拾いや、空き缶拾い? やりましたよ。やりました。やったけど、みんながやっているから、疲れるだけで金にならないですよ。一日やっても1000円にもならないですからね。やっても無駄です。やっても無駄でした。
 じつは私には年金があるんですよ。26年間会社勤めをしていましたから、厚生年金に加入していたんです。私たちの世代は60歳から支給されているんですが、私はまだ1円ももらっていません。だから、3~400万円はたまっているはずですよね。もっと多いかも知れません。それだけの金があれば、宮城へも大きな顔をして帰れますよね。
(いまゴタゴタ続きの社会保険庁のことを考えると、早く受給したほうがいいと思うが)
 それならだいじょうぶです。私が受け取る年金のあることは、区役所で確認してありますから。区役所で確認してありますからね。
(本当にだいじょうぶだろうか?)
(聞き手:神戸幸夫)

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2008年12月 7日 (日)

●サイテイ車掌のJR日記/人間ドック

○月×日

人間ドックを受診した。
 全て異常なしで本当に一安心。今年で4回目で、50を過ぎてからは毎年受けるようにしている。
 実は昨年、ポリープやらでチト大変な思いをしたので、今年もまたかと気が気でなかったのだ。
 体をいたわりたいのは山々だが、どうしても無理をせざるを得ないのが実情だ。癌などの大病はその人の運命だと言ってしまえばそれまでだが、自分で気をつければ治る(若しくはならない)のならそれにこしたことはないのだから、出来る限りのことはしたい。
 それと、もともと丈夫な人はいるし、遺伝もあると思うが、老いていくのは誰しも皆一緒で、若い時とは違い、何事も自重しなければならないのは当然なのだろう。
 それにしても、これまでの私は何事に対してもいきあたりばったりで、どちらかといえば「どうにかなるさ」と好き勝手に生きてきた方だと思う。何の計画性もなく、おもしろおかしくやり過ごしてきたのだ。これから先も長生きはしたい。悪態をつくのもほどほどにしようと思う。
 最近よく感じることの一つは、元気なお年寄りを見ると尊敬の念を抱くようになったことだ。やっぱりそういう人たちはあれこれ気をつけて当たり前の生活をしている人が多いような気がするが、私も仲間に入れるのだろうか。
 さて、ドックの結果を聞いて、私はいつも固く結ばれている?! Oさんに連絡をした。彼女は私の編集担当で、アストラで一番の美人だ(といっても、アストラには女性は一人しかいないけどね)。
「異常なしだったから、もう結ばれていなくても大丈夫かもよ、おれ」とメール。すると返事は「結ばれていないと、そんないい結果は得られなかったのでは……」と。
 ああ、ステキな人だ。しゃれていてセンスが抜群なのだ。私の冗談をいつも受け入れてくれて、さらりとかわしてくれる。ますます好きになってしまったよ。ちくしょう、こうなれば忘年会しこたま飲んで寝ちゃうぞ、おれ。ん?! 酔い潰れて、その場でおれ一人寝てしまうということなんですが……。
 いずれにしても、今後の課題は老いという人生の下り坂を、いかに登っていくかだろう。
 今夜は乾杯!!(斎藤典雄)

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2008年12月 6日 (土)

ロシアの横暴/第6回 人に優しくなれるカフカスのおもてなし(2)

 さて、このロシア人女性との話に登場したカフカス地方のことだが、一口で表現すれば「ぬくもり」である。カフェに入ってそこに居合わせた人々と話し込んでいると、必ず出てくる質問が「どう、ここ(カフカス)は気に入ってくれたかね?」である。「いや、あんまりよくない」とは言わせない自信満々の雰囲気が漂う。実際、ロシアの他の地域、つまりロシア人地域からカフカスに入ると、重苦しい雰囲気から一気に解放される。何か困っていればわがことのようにあれこれと世話を焼いてくれる。ソ連独特のいわゆる美的感覚に欠け、その上ソ連崩壊とやら、ほったらかしで荒れ放題のソ連風建物が並ぶなか、別世界にいるような感覚になってしまう。

 ある日のこと、いつものように行きつけのカフェにすわって食事をしていた。最近ヘンな日本人がきているという噂が立ちこめているらしく、見物がてらに駅の従業員やこれから非番になる警察官などが入れ替わり立ち替わりやってくる。BGMで土地の音楽が流れると仕事はほったらかして踊り出し、おまえも踊れ、と促す。そして「どうだ、ここは気に入ったか」とお決まりの質問を出してくる。
 カフカスといってもロシア領だからイヤなこともたくさんあるがそれを上回るなにかが漂う。即座に「もちろん、温かい雰囲気の土地でとても気に入りました」とこちらも決まり文句で答える。すると、そうとも、ロシアがさんざんカフカスの悪口を書いてくれるんで、みんなそれを信じ込んでここに来てさ、あんまりにも違うってびっくりするんだよ、と付け加えることを忘れない。

 先日病気治療で日本に来たモスクワ在住のロシア人が「モスクワの病院はカフカス人の医者ばっかりで、ヤブでどうしようもない、ロシア人医者がいないから」とぼやいたそうだが、ロシア人医師がいても充分ヤブだよ、と突っ込みたくなる。多くの人がカフカスを見もせず、ロシアの流す「カフカスは読み書きも出来ない野蛮な民族が住むところ」という、帝政時代のままのカフカス観を頭のてっぺんから足のつま先までしみこませているのが現状だ。
 侵略した先の住民が自分たちの言語を解さないから、野蛮で遅れた民族、と決めつけたのを手始めに、それから300年あまり経った現在に至ってもその考え方を変えていないロシアは物心両面に亘って横暴である。
 でも人々の話によるとカフカスに来て人は変わるのだそうだ。最近ではFSB(旧KGB)のエリートでありながらチェチェンに赴任し、そのうちにチェチェン戦争を告発してロンドンで毒殺されたリトビネンコもその一人といえよう。そんなに大物でなくても、この地に来人々と陽気に踊っているうちにカフカスになじんでいくのが一般的な変わり方、と警察官は笑った。

 カフカス流おもてなしの奥義を知る場面にも出会った。
 カフェに集まるおばさんたちのなかのあるひとりがチェチェンについて話を始めた。チェチェンのグデルメス(ダゲスタン共和国に近い東部の都市)に親戚(あるいは親戚の知人)がいて、その近所に70才近い老人と30才代の女性の夫婦がいるという。その老人は2度目の戦争のあとほとんど全壊している家にどうにか住みついていたが、そこに住むところをなくした若い女性が部屋を借りにきた。ひとり暮らしの老人の農作業を手伝ったりしているうちに結婚することになったのだそうだ。
 この老人は戦争で自分以外のすべての家族を亡くしていた。部屋を借りにきた女性も同じように自分以外のすべての家族を失っていたというのである。思わず絶句した。誰かが「心の痛みをなめ合おうってわけかね?」と、悪気はないのだろうが無神経な茶々を入れた。
「そんなんじゃないわよ!」と話し手の女性が制止すると他の者も頷いて、あんたの発言はよくない、と目で合図をした。
「だから私はグデルメスに行ったらその夫婦のところにお客にいくことにしているの。親戚は全滅してほんとにだれもいないから、私みたいな者が行ってもとても喜んでくれるのよ。少しは人助けができているみたい」と続けた。

 少しだけカフカスとチェチェンの説明をしておくと、カスピ海と黒海のあいだにあるカフカス山脈周辺一帯を「カフカス」と呼ぶ。さらに詳しくなると山脈の北側をカフカス、南側をザカフカジエ(カフカスのうしろ地域、日本流にいえば裏カフカス)チェチェンはカフカスにあって近辺に片方にイングーシ共和国、もう片方にダゲスタン共和国がある。だからチェチェン人のやりかたをカフカス流儀と呼んでも差し支えはない。
 客をもてなす余裕などないであろう、すべての家族を亡くしてしまった貧しい戦争被災民の家にお客に行ってあげることもカフカス風なんだ・・・・・おそらくその夫婦は辛すぎる身の上話などしないで、冗談を飛ばすのだろう。お客をもてなすときには自分たちの痛みを語らず、楽しく過ごすのがチェチェンをはじめとするカフカス流だそうだから。客の前で泣いてみせて誰がいい気分になるの?とあるチェチェン人女性が言っていたが、たのしく振る舞うのもおもてなしなのだ。
 どんなに貧しくてもありったけのものをテーブルに並べるのがチェチェン風、と聞いたこともある。おそらくこの老人の家庭もこうして客をもてなしているのだろう。胸が熱く苦しくなった。
 チェチェン人のもてなし流儀については、たとえば「向かいの席に座っている人の顔が見えないぐらいにごちそうを積み上げる」とか、「見ず知らずの人が上がり込んでお茶を飲んでも何の不思議もないのがチェチェン」などがある。自分たちの豊かさを誇示するチェチェン流見栄っ張りという見方もできるが、山のように積み上げるごちそうも一杯しかないお茶もここでは同じく「ありったけ」なのだ。チェチェン人ならご馳走の山がないことを「湯気が立ち昇って相手の顔が見えない」とでも茶化すことだろう。とても厚みのある表現だと私は思っている。

 今度あなたがグデルメスに行くときには、カフェで出会った日本人がいつかお客に行きたいって言っていた、と伝えてくださいと頼んでみた。彼女はぱっと明るい顔になって、はい、伝えます、とっても喜んでくれると思うわ!と答えた。
 横暴なロシアに翻弄されても、自分たちは自分様に生きるカフカス魂が見えた。(川上なつ)

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2008年12月 4日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第6回 ジャーナリストは攻撃対象(2)

 イスマットと連れだって、アフガニスタン最大のバザール「ダ・アフガニスタン」に向かった。カブール川に沿うように幾つもの露店や店が軒先を並べている。商品の大半は中国製。ブルカを着た女性や、髭面の男たちが品定めに目を光らせている。
 バザールの小麦屋を覗くと、値段が昨年の倍近くなっていた。服や日用雑貨はあまり変わっていないが、食料品は小麦も米も果物も、全てが値上がりしていた。小麦屋のおやじに聞くと、あまり売れ行きもよくないそうだ。
 イスマットはアフガン政府の開発・人材省で働いているが、彼も生活が厳しいという。
「何ていったって、干ばつだよ。アフガニスタン全土で皆が飢えている。今年君が来た時も何千人って人たちが飢え死んだ。戦争もひどいけど、飯の方が今は心配だよ」

 アフガニスタンの飢餓は実際にひどい状況にある。今冬には約600万人が飢餓に直面するという報告もある。イギリスの王立統合防衛安全保障研究所はアフガニスタンの復興における最大の脅威は活発化する武装勢力の攻撃ではなく、迫り来る飢饉だと警告した。
 アフガニスタンは元来食料自給率100パーセントを誇った農業国だ。しかし、2000年代からの干ばつで食料自給率は50パーセントまで落ち込んでいる。戦争が続き、輸送手段の確保もままならず、その上に折からの小麦価格高騰で輸入もままならない。世界的な小麦価格の高騰は、小麦が「投機」対象になり、バブルのように値が吊りあがっているのが原因だそうだ。外国の金持ちがマネーゲームの被害がこんな地の果ての国にまで及んでいる。
 世界の「先進国」と名乗る国ではマネーゲームやら、投資だという奇怪なものが流行になっている。けれど、このアフガニスタンでは実質的なモノが意味を持つ。おそらく、このバザールの人にマネーゲームのなんたるかを説明をするのは無理だろう。けれど、人間としてどちらが崇高な生き方だろうか。汗水たらして食べ物を作ることと、パソコンの前で株価の上下に一喜一憂すること。
 世界の「先」と「後」を考えるのなら、わたしにはアフガニスタンが「先」に感じられた。アフガニスタンに来ると五感が冴える。妙に物事をリアルに感じるのだ。マネーゲームなど投機など、そんなことに乱れ狂う我が国が妙にアホらしく感じる。

 私は伊藤和也さんのことをふと考える。彼はアフガニスタン派遣の志望動機をこう書いている。
 「子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になれればと考えています」
 彼の頭の中にあったのはアフガニスタンの人の顔なのだろう。この干上がった大地に食物を植え、子供たちが飯を食えるような環境を作るために来た。伊藤さんとわたしでは立場も世代も違う。けれど、彼がここで何を感じ、どういう思いで生きていたかを知りたくなった。
 ペシャワール会の代表中村哲医師は今もアフガニスタン東部で1人残り活動しているという。わたしは、ペシャワール会の取材をしようと思った。
 イスマットにその旨を告げた。
「行くのはいいさ。だけど、車じゃなくて飛行機でね。国連機が飛んでいるよ」
 わたしはパキスタンでの出来事同様、飛行機を長々と待つはめになった。(白川徹)

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2008年12月 3日 (水)

キャロルキングの「マイ・リビングルーム」コンサート

08年11月21日に行ってきた。キャロルといえば名アルバム「タペストリー」(つづれおり)の大ヒットで女性シンガーシングライターの扉を開いた開拓者として歴史に名を残す。数年前から自宅の居間へお客様を招き入れ、本人がピアノ演奏しながらMy Living Roomコンサートが人気で日本でも同形式にて行われた。

間に20分の休憩をはさんで約2時間。66歳(と本人が言っていた)とは到底思えない全盛期と変わらぬ歌声で圧倒される。客層は私より年上の女性が主流。まあタペストリーが71年で、当時ティーンだったとなるとそれくらいになる。何となく大人しめだ。

セットリストはキャロルが唱った約25曲のうち「タペストリー」から10曲。いかにすぐれたアルバムだったのかわかる。

さてキャロルといえばタペストリー、タペストリーといえばキャロルというぐらい決定的な関係にある一方、ライターとしてのキャロルの歴史はさらに10年前にさかのぼる。ビルボードチャートでシュープリームスが“Will You Love Me Tomorrow”(タペストリーにも収録)でナンバーワンになったのは1961年1月末から2週。シュープリームス自身の初NO.1でもあった。
60年代前半のナンバーワンの面々を見ているとほとんどが男性だ。エルヴィス、レイ・チャールズ、フォー・シーズンズなど。64年からビートルズとストーンズが大参入して来るもやはり男。そのなかで継続してヒットを飛ばしたシュープリームス(およびダイアナ・ロス個人)はすごい。

キャロルが書いた次のトップはボビー・ビーの“Take Good Care of My Baby”(タペストリー未収録)で61年9月中旬から3週にわたってナンバーワン。翌62年8月末に“Loco-Motion”(タペストリー未収録)でキャロルのベビーシッターさんリトル・エヴァがトップ獲得後、グランド・ファンクが74年にカバーで1位を得る。63年1月にスティーブ・ローレンスが2週に渡り“Go Away Little Girl”でトップ。後にこの曲はドニー・オズモンドがカバーして71年にも3週間ナンバーワンに輝く。

というわけでキャロルは「タペストリー」以前の10代後半から20代前半にかけてすでにヒットメーカーだった。今回のコンサートでは以上の曲はすべて歌われた。

他にNO.1でなくても心に残る名作はある。ドリフターズの“Up On The Roof”(タペストリー未収録)やモンキーズの“Pleasant Valley Sunday”(同)アレサ・フランクリンの“Natural Woman”(タペストリー収録)など。これらもすべて歌われた。そういえばSMAPのことを「モンキーズのよう」と話していた。キャロルが例えると含蓄が違う。男性も歌える楽曲を提供していたという点も今さらながらすごいと思う。

キャロル自身の歌声によるNO.1は言わずと知れた“It's Too Late”で71年6月から5週連続の1位を獲得する。なおこの曲は同じタペストリーの“I Feel the Earth Move”のB面だったらしい。もちろん両方とも歌った。とくに“It's Too Late”は昨年の来日では歌わなかったので皆が息を飲んで聞いていた。
“It's Too Late”のトップを譲って一週間後、同じタペストリーから“You've Got a Friend”が1位に。ただし歌ったのはジェイムス・テイラー。これはアンコールの2曲目で皆で泣いた。さすがアメリカ国歌にしてもいいと米国人が思っている曲だけはある。

“It's Too Late”以前のチャートトップを見ていくと間違いなく「女性が1人で自作自演する」シンガー・ソングライターがほとんどいない。67年8月のボビー・ジェントリーぐらいだ。女性ソロボーカル自体も今のロックの系譜に入るのはジャニス・ジョプリンだけではないか。明らかに時代を変えた女性が年月を超えて変わらぬ声量で戻ってきた。奇跡のようなコンサートだった。(編集長)

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2008年12月 2日 (火)

靖国神社/第8回 靖国神社 06年8月15日――この日、九段で起こっていたこと――(下)

 小泉首相はいったん官邸に戻るが、9時半過ぎの会見で靖国の目と鼻の先にある千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かうことを表明する。編集部員も千鳥ヶ淵に向かった。靖国からインド大使館を通り過ぎ、千鳥ヶ淵に続く道は普段では木々が覆う穏やかな雰囲気だがこの日は違った。互いが見えるくらい近い距離に警備員が配置され、通行人を固くさせるような緊張感を放つ。
 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、戦争中に亡くなったが身元不明などで遺族に届けられることのなかった戦死者の遺骨を納める場として1959年に創設された。現在では約35万人の遺骨が納められている。
 首相到着の20分くらい前からすでに50人ほどの一般の人がカメラを持ち、あらかじめ張られたロープの中で首相を待ちかまえていた。もちろん写真を撮る絶好の位置に作られた“プレス席”には大手マスコミ取材陣の姿がある。
 詰めかける人垣はどんどん増える。その群衆に流れるのはどんな空気なのか、想像がつくだろうか? ちょっとした衝撃を受けたのだが、そこで支配的なのは“スターを待ちわびる雰囲気”だったのだ、信じがたいことに。ひとりの青年が「ぼく、群馬からやって来たんですよ」と嬉しそうに話すのが聞こえる。「小泉さん、まだかしら」と言い合う50台くらいの夫婦がいる。

“無名戦士の墓”と呼ばれる千鳥ヶ淵に首相が献花に訪れること自体は何らおかしいことではない。墓苑は靖国神社のように戦争の“装置”として存在したわけではない、宗教的にもかなりニュートラルな位置にある。それでも、その場の雰囲気はなにかがおかしい。あこがれの教祖様にお目にかかりたい! そんな宗教的な臭いがするのだ。
 11時20分 SPの動きが慌ただしくなり、参道への道が一時遮断される。不意に3台の黒塗りの車がやって来る。巨躯の男たちに取り囲まれるようにして現れた首相だが、髪の白さがあって目立つ。ゆっくりと、堂々とした歩き方で納骨壺がある六角堂に向かう途中、前触れなく「小泉、なんで参拝したんだよ!」という声が飛んだ。スターの登場を期待する雰囲気に満ちていたから、この声はとても意外だった。その場に緊張が走るが、すぐさま反撃の声があちこちから飛ぶ。「何いってんだバカヤロウ!」「小泉さん、ありがとう!」そして、わき上がる拍手……。不穏な空気も束の間、千鳥ヶ淵においてもプチ小泉劇場ができあがった瞬間だった。納骨壺が納められている陶棺の前で献花した後、再びゆったりとした歩調、拍手に送られて、彼はその場を後にした。
 靖国に戻る。12時近く、拝殿に続く参道は人人人の洪水となっている。真夏のじっとりとした暑さを辛抱強く耐える行列は、じりじりとしか進まない。今年の8月15日に靖国を訪れたのは、なんと25万人。小泉首相が初めて靖国を参拝した01年の同日には12万5000人、05年には20万人まで膨れあがったが、今年はさらにその上を行った。5年前の実に2倍もの人が訪れたことになる。
 ギチギチにひしめき合っていたはずの人垣が、不意に割れることがある。多いときでは30人にもなるかと思われる特攻服の行列が、国旗や「尊皇」「平成維新」などと書かれた 巨大な旗を、持って拝殿に向かうときだ。特攻服たちの中にはまだ10代半ばの少年や、髪を金色に染めたなかなかキレイなお姉さんもいる。そして、周りにはその集団を興味深そうに眺める人たち。
 収まりようのない熱気に満ちた境内だったが、正午、黙祷のアナウンスが言い渡されると、ほとんどの人が物言わず立ち止まり、目を閉じた。人の動きが完全になくなるわけではないが、急に静寂が訪れた。

 午後、若い人に声をかけ、この日に靖国に来た理由をたずねて歩いた。ある程度以上の年齢の人が参拝に来る理由はなんとなく分かるが、20台あたりの若い人が8月15日に来る理由がイマイチ見えていなかったのだ。特攻服を着るわけでもない、今どきの軽やかな服装の男女はこの日もまったく珍しくはなかった。戦争礼賛神社とも呼ばれるこの場所に似つかわしくないはずのカップルもかなり多かった。
 彼らに聞いてみたところ、多くはなにか心に秘めた深い理由があるわけではないことが分かった。アンケート的な話の聞き方ではなく、ひとりひとり、中にはじっくり20分以上も話をしたケースもある。彼、彼女らの多くは、メディアの大きな影響を受け、靖国という場所に向けられた好奇心をもって来ていること、また、もう少し詳しく日本や靖国について知ってみようと思った、という動機で来ているようだった。小泉首相の参拝については、語るだけの知識がないので何とも言えないという意見、これが圧倒的に多かった。連日の報道が彼らに何かしらの考えを持つきっかけとなるのではなく、逆に靖国についてどう考えていいのか分からなくなった、という人も少なくなかった。

 もちろん、日本を知る、この考えがおかしいはずもない。むしろ若い世代に考えて欲しいことではある。しかし、そのときに靖国という場は“適切”な場だと言えるだろうか? 小泉首相の「信念を貫くための場」として騒がれ、取り上げられ続けたこの神社が、“日本”について考える適切な場であるとは、とうてい思えないのである。(本誌編集部)

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2008年12月 1日 (月)

ホームレス自らを語る 第14回 東京大学経済学部卒です(前編)/大内信さん(86歳)

 大正10(1921)年8月4日生まれですから、いま86歳になります。生まれたのは朝鮮の京城(いまのソウル)でした。父が朝鮮総督府に勤務していた関係で、その官舎で生まれました。5人兄弟の末っ子です。
 大内兵衛をご存知ですか? 彼は父の弟で、私には叔父にあたります。彼は東京帝大で経済を講じておりましたが、昭和13(1938)年の人民戦線事件に連座して検挙されます。戦後は法政大学の総長を務め、日本社会党の左派イデオローグだった人物です。といっても、いまの若い人は知らないでしょうが。
 私が3歳のとき、父が定年退職になって内地に引き揚げ、両親の出身地である淡路島に家を建てて落ち着きます。
 しかし、淡路島では子どもたちに十分な教育を受けさせられないということで、父だけが島に残り、5人の子どもは母に伴われて東京に出ました。それで阿佐ヶ谷に家を建てて、子どもたちはそこから東京の学校へ通うことになります。私が小学3年生のときのことです。わが家の経済は、父の退職金と恩給がありましたから、生活は富裕なほうでしたね。

 私は杉並の小学校から、府立六中(いまの新宿高校)、静岡高校、東京帝大経済学部というコースを辿ります。本来なら静岡高のところは一高なのでしょうが、府立六中5年生のときに、叔父の検挙事件があったりして、東京を離れて静岡に行きました。まあ、私の実力では一高は無理だったかもしれません。
 長兄は早稲田大学に進んで、その後長く早稲田の教授をやっています。
 私が東京帝大に入学したのは昭和17(1942)年4月で、太平洋戦争が始まって半年後のことです。そのころの大学生には徴兵猶予の特典がありましたが、翌昭和18年に政府の「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、文科系大学生は徴兵猶予が停止されることになりました。
 10月21日に神宮外苑で出陣学徒の壮行会が行われましたが、私は出ていません。本籍地が淡路島でしたから、姫路の指令隊に出頭して検査を受け、そこから岡山の連隊に送られました。
 大学で経済を学んでいたということで、一応連隊経理の幹部候補生ということでしたが、部隊の所属は陸軍工兵隊で階級も伍長でした。普通、学徒出陣兵は将校に任命されるという不文律がありましたが、私だけは伍長からのスタートで、しかも工兵隊の所属でした。
 工兵隊といえば陣地の設営、渡河橋梁の架橋、坑道掘削、鉄道敷設などを専門にする陸軍でも一番きついといわれる兵科で、肉体的に頑強とはいえない私には無茶な配属でした。
 それでこの軍隊入営から、私の人生はなぜか悪いほうに、悪いほうに転がり出すんですね。性格がおとなしくて、はっきり自己主張できなかったことも、その原因だと思いますが……。
 さっそく工兵隊の演習が始まり、スコップを使った穴掘りをやらされたんですが、私はいきなり右足の甲にスコップを突き刺してしまいます。幾針も縫う大ケガで、そのまま病院に入院でした。それまでスコップなど持ったこともなかったですからね。
 ケガが直って原隊に復帰しましたが、門司港内にあった船舶工兵隊のほうに回されました。私には通常の工兵隊任務は無理だという判断が出たんでしょう。
 それで船舶工兵隊に移りましたが、すでに制海権も制空権も敵に掌握されていましたから、戦地に兵員や輜重(兵器や食糧などの軍需品)を送ることができない状態でした。
 たまに船舶の手配がついて、夜陰に紛れて出航させても、湾から響灘に出たあたりで「本船は敵と交戦中」の無電が入って、それきり連絡が途絶えてしまうんです。敵軍が待ち構えている中に突っ込んでいって、たちまち撃沈されてしまったんでしょうね。そんな状態でしたね。

 昭和20(1945)年8月6日に、私は上官から命令を受けます。宇品(広島県)にあった船舶指令所に徴用工1名と書類を届けるようにという命令でした。それで徴用工を伴って下関駅に赴いたのですが、山陽線が不通で動いておらず、復旧の見通しも不明ということでした。
 山陽線がようやく復旧したのは8月10日で、私と徴用工は予定通り宇品に向かいました。宇品に行くには広島で乗換えるんですが、宇品への電車はまだ復旧していませんでした。広島から宇品までは4~5キロメートルの距離ですから、2人で相談して歩いていこうということになりました。
 広島駅舎から出て最初に見た町の光景は、全身に鳥肌が立つというか、背筋が寒くなるような光景でした。あの広島の町が消滅していたのです。私も空襲を受けて丸焼けになった町は、いくつか見ていますが、広島の様子はそのどれとも違っていました。

 真夏の午後の日盛りだというのにセミの鳴き声ひとつなく、町は森閑として静寂そのものでした。周りの建物はすべてペチャンコに倒壊し、駅前の広い通りは走る車も路面電車もなく、いや歩いている人影さえありませんでした。実際には車も人も少しは走ったり、歩いていたかもしれません。でも、私の印象としては人っ子一人いない死の町でした。
 宇品の船舶指令所に徴用工と書類を届けると、私は来たときと同じルートで門司の船舶工兵隊に帰りました。隊に戻り着くと、急に身体のダルさを覚え、体温を測ると40度もありました。軍医の診察を受けると「風邪だろう」という診断でした。広島に原爆が投下されたことは、まだ誰も知らなかったのです。(聞き手:神戸幸夫)

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