ホームレス自らを語る 第16回 東京大学経済学部卒です(後編)/大内信さん(86歳)
私が東京帝国大学経済学部に入学したのは、昭和17(1942)年4月でした。そのころの大学生には徴兵猶予の措置がありましたが、翌昭和18年に文科系大学生の猶予が廃止になります。私も学徒出陣で駆り出されて、門司港内にあった船舶工兵隊に配属されました。
通常、学徒出陣兵は将校に任命されるという不文律がありましたが、私だけは伍長からのスタートでした。どうもこの軍隊入営あたりから、私の人生は悪いほうに転がり出したような気してなりませんね。
昭和20年8月6日に広島に原爆が投下され、その4日後に私は広島の街を歩いています。これは宇品にあった船舶指令所に公用があって行ったもので、広島―宇品間の鉄道が不通で片道約5キロほどの道程を徒歩で往復したのです。
門司の隊に戻りつくと、急に身体のダルさを覚え、体温を測ると40度もありました。軍医の診断は「風邪だろう」ということでした。そのときは、広島に投下されたのが、原子爆弾だとはまだ誰も知らなかったのです。
その後も、私はしばしば身体のダルさと、発熱に悩まされます。でも、それが原爆投下直後の広島の街を、徒歩で何時間も歩いたこととは結びつきませんでね。自分が原爆症に罹っているとは思いもしませんで、ですから被爆者申請をする機会を失って、いまだに被爆者手帳も持っていないんです。
その年の8月15日が終戦。軍の残務整理に4ヵ月ほどかかって、同じ年の暮れに東京大学経済学部に復学しました。卒業は昭和24年9月でした。戦後のゴタゴタや学制改革などがあって、変則的な9月の卒業になりました。
それで日本発送電という会社の経理係に就職します。日本発送電というのは、日本の全電力会社を戦時統合した国策会社で巨大な組織でした。普通、こうした組織はGHQによって、解散分割されるのが例でした。しかし、当時の日本の電力事情は最悪で、その建て直しのメドがつくまで例外的に残されていたのです。
日本発送電は昭和26年まで続いて解散になり、東京電力など9電力会社に分割されます。私も一時東京電力に籍を置きますが、何のことはない翌27年には電源開発が発足して、日本発送電の主要メンバーと、そちらへ横滑りで入り込むことになります。
生活保護施設を渡り歩く
そこでも私は経理係でした。ただ、係長くらいまでにはなるんですが、そこから先の出世ができません。同じ東大出身の後輩たちに、どんどん抜かれてしまう。どうもおとなしくて自己主張できない性格が災いしたようです。
結婚は29歳のときにしました。私の叔父に東大教授から法政大学総長になった大内兵衛がいます。その息子で私には従弟にあたり、のちに東大副総長になる大内力というのがおり、その妻の妹を紹介されて結婚しました。
私が日本発送電にいたころのことですが、当時は電力供給の復旧が急務の国策でして、我々社員は会社近くの旅館に泊まり込みで働く日が続き、いつ家に帰れるか分からない状態でした。それは電源開発に移ってからも同じで、市ヶ谷大塚の家で一人待たされる妻も辛かったんでしょう。結局、7年間か、8年間の結婚生活で離婚になりました。
そんな結婚生活でも、子どもが2人できました。上の男の子を私が、下の子を妻が引き取りました。子連れではアパート生活もできませんから、私は長兄が早稲田大学の教授をやっていましたので、そこに転がり込んで居候しました。子どもは順調に育って、いま新潟の米穀商の娘と結婚して婿に入っています。
妻と離婚したのと同じころ、電源開発を辞めてしまいます。私に特別な出世欲があったわけではありませんが、東大を出て経理の係長どまりでは仕方ありませんからね。
それでベースボールマガジン社に転職しました。そこで米国で出版されているスポーツに関する単行本の翻訳の仕事をやりました。
そのうちに子どもが結婚して、独立しました。すると、こんな老人がいつまでも兄の家に、居候しているわけにはいかなくなるんです。それで兄の家を出てアパートに入ろうと思って、いくつか探してみました。でも、老人の独り暮らしは、どこの大家も嫌って貸してくれません。
ある不動産屋さんから「山谷に行けばドヤ(簡易宿泊所)があって、そこなら泊めてくれるよ」と教わり、それからは山谷のドヤで暮らすようになりました。それをきっかけにベースボールマガジン社も辞めました。山谷に住んで出版社勤務でもありませんからね。
それからは日雇い仕事で、糊口を凌ぎました。といっても、この身体で肉体労働は無理ですから、(東京)都が斡旋してくれる公園清掃とか、建築現場の片付けのような軽作業の日雇い労働です。こういう作業は毎日ありませんし、日当も安いから、とても食べるだけ稼げません。足りない分は長兄に援助してもらいました。
そのうちに65歳をすぎて、生活保護が受けられるようになり、台東区や足立区の生活保護施設を転々としてきました。こんどは新宿区の世話になろうかと考えて、一昨日からこっちに来てみたんです。
東大経済を出た同級生たちは、みんなそれなりの社会的地位を築いて、安定した生活を送っていると思います。ホームレスをしているのは、私くらいのものでしょう。私は若いころにマルクス主義にかぶれて、世の中を甘く見るというか、斜に構えて見るとことがあり、それがいけなかったように思いますね。
いまの私の望みは、死ぬときは楽な死に方をしたい。ただ、それだけですね。(聞き手:神戸幸夫)
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コメント
人それぞれの人生がある
投稿: tonton | 2009年1月10日 (土) 16時17分