ホームレス自らを語る 第14回 東京大学経済学部卒です(前編)/大内信さん(86歳)
大正10(1921)年8月4日生まれですから、いま86歳になります。生まれたのは朝鮮の京城(いまのソウル)でした。父が朝鮮総督府に勤務していた関係で、その官舎で生まれました。5人兄弟の末っ子です。
大内兵衛をご存知ですか? 彼は父の弟で、私には叔父にあたります。彼は東京帝大で経済を講じておりましたが、昭和13(1938)年の人民戦線事件に連座して検挙されます。戦後は法政大学の総長を務め、日本社会党の左派イデオローグだった人物です。といっても、いまの若い人は知らないでしょうが。
私が3歳のとき、父が定年退職になって内地に引き揚げ、両親の出身地である淡路島に家を建てて落ち着きます。
しかし、淡路島では子どもたちに十分な教育を受けさせられないということで、父だけが島に残り、5人の子どもは母に伴われて東京に出ました。それで阿佐ヶ谷に家を建てて、子どもたちはそこから東京の学校へ通うことになります。私が小学3年生のときのことです。わが家の経済は、父の退職金と恩給がありましたから、生活は富裕なほうでしたね。
私は杉並の小学校から、府立六中(いまの新宿高校)、静岡高校、東京帝大経済学部というコースを辿ります。本来なら静岡高のところは一高なのでしょうが、府立六中5年生のときに、叔父の検挙事件があったりして、東京を離れて静岡に行きました。まあ、私の実力では一高は無理だったかもしれません。
長兄は早稲田大学に進んで、その後長く早稲田の教授をやっています。
私が東京帝大に入学したのは昭和17(1942)年4月で、太平洋戦争が始まって半年後のことです。そのころの大学生には徴兵猶予の特典がありましたが、翌昭和18年に政府の「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、文科系大学生は徴兵猶予が停止されることになりました。
10月21日に神宮外苑で出陣学徒の壮行会が行われましたが、私は出ていません。本籍地が淡路島でしたから、姫路の指令隊に出頭して検査を受け、そこから岡山の連隊に送られました。
大学で経済を学んでいたということで、一応連隊経理の幹部候補生ということでしたが、部隊の所属は陸軍工兵隊で階級も伍長でした。普通、学徒出陣兵は将校に任命されるという不文律がありましたが、私だけは伍長からのスタートで、しかも工兵隊の所属でした。
工兵隊といえば陣地の設営、渡河橋梁の架橋、坑道掘削、鉄道敷設などを専門にする陸軍でも一番きついといわれる兵科で、肉体的に頑強とはいえない私には無茶な配属でした。
それでこの軍隊入営から、私の人生はなぜか悪いほうに、悪いほうに転がり出すんですね。性格がおとなしくて、はっきり自己主張できなかったことも、その原因だと思いますが……。
さっそく工兵隊の演習が始まり、スコップを使った穴掘りをやらされたんですが、私はいきなり右足の甲にスコップを突き刺してしまいます。幾針も縫う大ケガで、そのまま病院に入院でした。それまでスコップなど持ったこともなかったですからね。
ケガが直って原隊に復帰しましたが、門司港内にあった船舶工兵隊のほうに回されました。私には通常の工兵隊任務は無理だという判断が出たんでしょう。
それで船舶工兵隊に移りましたが、すでに制海権も制空権も敵に掌握されていましたから、戦地に兵員や輜重(兵器や食糧などの軍需品)を送ることができない状態でした。
たまに船舶の手配がついて、夜陰に紛れて出航させても、湾から響灘に出たあたりで「本船は敵と交戦中」の無電が入って、それきり連絡が途絶えてしまうんです。敵軍が待ち構えている中に突っ込んでいって、たちまち撃沈されてしまったんでしょうね。そんな状態でしたね。
昭和20(1945)年8月6日に、私は上官から命令を受けます。宇品(広島県)にあった船舶指令所に徴用工1名と書類を届けるようにという命令でした。それで徴用工を伴って下関駅に赴いたのですが、山陽線が不通で動いておらず、復旧の見通しも不明ということでした。
山陽線がようやく復旧したのは8月10日で、私と徴用工は予定通り宇品に向かいました。宇品に行くには広島で乗換えるんですが、宇品への電車はまだ復旧していませんでした。広島から宇品までは4~5キロメートルの距離ですから、2人で相談して歩いていこうということになりました。
広島駅舎から出て最初に見た町の光景は、全身に鳥肌が立つというか、背筋が寒くなるような光景でした。あの広島の町が消滅していたのです。私も空襲を受けて丸焼けになった町は、いくつか見ていますが、広島の様子はそのどれとも違っていました。
真夏の午後の日盛りだというのにセミの鳴き声ひとつなく、町は森閑として静寂そのものでした。周りの建物はすべてペチャンコに倒壊し、駅前の広い通りは走る車も路面電車もなく、いや歩いている人影さえありませんでした。実際には車も人も少しは走ったり、歩いていたかもしれません。でも、私の印象としては人っ子一人いない死の町でした。
宇品の船舶指令所に徴用工と書類を届けると、私は来たときと同じルートで門司の船舶工兵隊に帰りました。隊に戻り着くと、急に身体のダルさを覚え、体温を測ると40度もありました。軍医の診察を受けると「風邪だろう」という診断でした。広島に原爆が投下されたことは、まだ誰も知らなかったのです。(聞き手:神戸幸夫)
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コメント
59歳?
?
??
投稿: 田中洌 | 2008年12月 1日 (月) 10時34分
この記事を読んで、切り抜いておいた加藤周一の記事のことをまっ先に思いだした。しかし、どのノートのどこに貼りつけたか、わからなくなっていたので、あきらめていたら、ふと、その、切り抜きに、偶然出くわした。
そして、その抜粋を紹介したい誘惑から、どうしても、逃れられることができない。
★★★★
■そこでは、道路の網の目と区画、黒い瓦礫の平面がどこまでもひろがっていた。コンクリートの建物の廃墟の壁も、ところどころに見えた。
しかし、何よりも平面、すべてが焼き尽くされ、一匹の蟻も這っていない。一匹の蝿も飛んでいない。生命の痕跡も残さない平面のひろがり……かつては、そこに広島市があったのだ。
金持ちや貧乏人。徴兵された兵隊や郵便配達の少年、学校の教師、子供たち、その母親たち、犬や猫がそこで生きていたが、彼らは一瞬のうちに消えてしまったのだ。一瞬のうちに、何万もの人生が、何の理由もなく、まったく突然に。
私は、爆発のときに広島にいたのではない。
爆発のあとの焼け跡を、かつて市民たちが生きていた空間を見たのだ。
その焼け跡には、ケロイドが羽織ったぼろの間から見える男女が、ゆっくり、音もなく、滑るようにさまよっていた。その光景の全体には、音がなかった。
その沈黙の空間は、永遠に沈黙しているかのように感じられた。
■私は死にどういう意味も見いださない。なぜ彼が、彼女が、死ななければならなかったか、理由はない。理由があるとすれば、生きている理由だけだ。私は、多くの価値を相対化する。
広島の焼け跡を見ながら、どうしてそうしないことができようか。
しかし、生きていることそれ自体は例外である。何か意味があるとすれば、今ここに生きていることのほかにあるはずがない、と私は考える。
そして戦争に反対する。
★★★★
夕陽妄語「核兵器三題」2006年
投稿: 田中洌 | 2008年12月 2日 (火) 14時33分
田中様
いつも本記事をご愛読及びコメントいただきましてありがとうございます。
拙い記事ですが、今後とも忌憚のないご意見をお寄せくださいますよう。
投稿: 神戸幸夫 | 2008年12月 4日 (木) 13時22分