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2008年12月16日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/08年総括

○月×日
 「今年も終わるんだなあ」と思う。
 乗務中でも、遠くの空を眺めても、街の雑踏の中にいても、落ち葉を踏みしめても、グラスを傾けても、そればかり思う。
 悔いも未練も何もない。これといった満足感すら感じない。
 それというのも、今年こそはという目標を持たなかったからだろうか。確固たる主体性もなく、ただただ、時の流れに身を任せていただけで、世の中とも、それほど真剣に向き合ってこなかったからだろうか。あれこれ深く考えてみたところで、理由はよく分からない。
 この1年を振り返ってみると、公私共に特に変わったことは何も起こらなかったように思う。
 そりゃあ、時には、鼠色の雲が低く垂れ込めてきて、「荒れてくるな」と身構えたこともあった。が、しかし、総じて、時はたんたんと過ぎて行き、まるで何事もなかったかのように結果はオーライ。穏やかな日差しに包まれながら、のほほんと、順調に推移した1年ではなかったか。そうだと思う。
 正直にいうと、「もう何もかも関係ねえんだ、おれには」というと語弊があるが、いつの頃からか(たぶん、ここ1~2年だと思うが)、私は何事に対しても距離を置き、深く関わることはしないできた。
 それは、残り少ない仕事、残り少ない人生が、これ以上波瀾万丈だなんてまっぴらだと思うようになったからだ。私自身もあえて波風を立てるようなことはせず、ただ静かに、無事に終わってくれればそれでいいと思うようになったからだ。
 少し具体的にいうと、たとえば職場だとする。余計なことはいわない。仲間の輪の中には入るが、うんうんと聞き役に徹するというか。これまでの私は、1つ1つにいちいちこだわり、ああだこうだと人一倍一喜一憂していたものだが、最近はどうも疲れるというか、どうせ結果は分かっているのだから何も大騒ぎすることではないのではないかと。ある意味、醒めた目で見るようになったということだろうか。
 乗務中に人身事故や何かのトラブルがあっても、自分の仕事が済んでしまえばそれでいいと。勿論やることはやり、一日が無事に終わればそれでいいと思うようになったのだ。
 また、誰が遅刻しただの、ミスをしただのはまったく眼中になどなくなった。そんなことはもうどうでもいいと思うようになった。今まで張り巡らしていたアンテナは引っ込め開店休業状態にした。つまり、傍観者を決め込んだりといった具合なのだ。
 こんなことをいうと、なんてマイナス思考なんだとヒンシュクをかいそうだが、大事なことにはキチンと向き合い、やることはやっているわけで、ま、どちらかといえばそのようにしていますといった程度のことなので、まずまず、あしからず。
 なんだかしけた話になってしまったかな。
 いずれにしても、今年もまた東京と田舎を行ったり来たりの1年だった。それは昨年と変わりない。
 でもね、帰省の度に、東京よりははっきりしているふるさとの四季の美しさに触れ、十分に満喫できたこと。海や山などの旬のもの、それと地酒などなど。美味しいものばかりたらふく舌鼓を打てたことは何よりの贅沢だったように思う。少しは余裕が出てきたのだ。
 いつまでも元気でいたいよね。
 ではでは、また来年。(斎藤典雄)]

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