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2008年11月

2008年11月30日 (日)

アフガン終わりなき戦場/第5回 ジャーナリストは攻撃対象(1)

Photo_4  2008年10月、わたしは再度アフガニスタン取材に向かった。約半年ぶりのアフガニスタン取材である。
 アフガニスタンに入るにはドバイやバンコクを経由する方法もあるが、わたしは毎回パキスタンのイスラマバードを経由している。同じイスラム教国であり、アフガンと密接な関係にあるパキスタンで体を慣らしておきたいのだ。東京からイスラマバードへは、パキスタン航空で北京を経由して14時間だ。
 今回はビザの不手際があり、イスラマバードで強制送還されそうになった。けれど現地日本大使館の奮戦もあり、何とかパキスタンを無事に出国できた。大使館なんて、といつも小ばかにしていたがこういう時は頼りになるものだ。パキスタン政府内務省にとりあって、特別滞在許可を発行してくれた。無頼なわたしもさすがに今回は頭が下がった。イスラマバードの滞在は3日の予定であったが、滞在許可が出るまで約丸1日、その後2日間を市内のホテルで過ごした。空港のベンチで丸一日、放心状態で過ごしていたわたしを不憫に感じたのか、パキスタン航空も滞在許可発給後は上等なホテルを用意してくれた。
 不運と幸運が重なったが、いきなり出鼻をくじかれてしまった。ホテルに入って一息入れたところで、自分が誕生日を迎えていたことを思い出した。出鼻どころか、顔ごと蹴飛ばされた気分だった。わたしは24歳になっていた。

 10月23日、わたしはカブールに入った。空港には友人のイスマッドが迎えに来てくれていた。握手をし、抱擁を交わす。アフガニスタン特有の砂っぽい、それでいて情感あふれる匂いが彼の懐から届いた。わたしはアフガニスタンに戻ってきたのだ。
 今年の8月にNGO団体ペシャワール会の伊藤和也さんが殺害され、日本ではアフガニスタンの治安悪化が印象付けられた。事実、治安の悪化はつるべ落としの様に急激に悪化しており、外国人ジャーナリストが取材をするのは難しくなりつつある。

 ホテルに着き、荷物を下ろして現地の新聞やテレビをイスマットに訳してもらう。驚いたことに、以前私が取材していた難民キャンプでカナダ人の女性ジャーナリストが誘拐されていた。私の到着前日のことだ。もう以前のように、難民キャンプに何日も通うような取材はできなくなった。
 イスマットは「ちょっと聞いてくれ」と真剣な顔で、わたしに言っておきたいことがあるという。
 「まずは、君がアフガニスタンに戻ってきてくれってうれしいよ、トオル。だけど、ここは君が着た数か月前のアフガニスタンとは全く違うんだ。以前、君はタクシーに1人で乗っていたけど、今回は許さない。絶対に僕か、僕が紹介した人物と一緒に乗ってくれ。街を1人で歩くのもだめだ。それと、難民キャンプにも行ってはいけない。今はジャーナリストが攻撃対象になっているんだ」
「どうしてジャーナリストが攻撃対象になるんだい? 僕たちはアメリカの側にいるわけじゃない。必要なら批判することだってある。そりゃあ、アメリカよりの連中もいるけど、フリーでそんな奴まずいないぜ」
 イスマットはやれやれ、と言った顔をする。
「君はわかっていないよ。いいかい、僕たちアフガニスタン人はジャーナリストが嫌いなんだ。アフガニスタンではBBCのパシュトゥー語のラジオ放送がある。あれでみんな外国人がぼくたちアフガン人をどういう風に見ているか知っているんだ。少しも真実が伝わっていない。聞くのはタリバンが何人死んだか、とかそんな話ばかり。でも、殺されているのはタリバンじゃなくて、民間人だ。もう、誰もジャーナリストを信用していないんだよ」
「でも、君は僕がそんないい加減なジャーナリストじゃない、っていうことはよく知っているだろう」
 私はすこし語気を荒げた。
「知っているよ。だから、言っているんだ。僕は君の親友のつもりなんだぜ。いいかい。キャンプや郊外の人たちが得られる情報はラジオか、人づての話だけだ。ちゃんとした取材をしているジャーナリストがいる、なんてことは誰も知らないんだよ。彼らにとっては君も『外国人ジャーナリスト』と、しか見られないんだよ」
 私は取材範囲を狭めることが嫌だったが、イスマットの言っていることは理解できる。彼のこともあり、私は取材範囲を大幅に狭めることにした。事実、彼と一緒に街中を歩くと、背後にピリピリとしたものを感じた。人の目つきが明らかに以前とは違う。(白川徹)

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2008年11月29日 (土)

ロシアの横暴/第5回 人に優しくなれるカフカスのおもてなし(1)

Photo_2  国家的横暴といってもいろいろな表情がある。グルジア戦争をみているとロシアはすぐ武力行使をするから横暴、というごく単純な言い方もできるが、それだけではない、いろいろなところでいろいろな形ではびこるのがロシア流横暴である。
 新聞やテレビでいくら首都モスクワの繁栄ぶりを見せられても、ロシアの横暴は基本的に300年前と何もかわっていないのだから、おおかたの実態は想像がつく。
 一方ロシアの地方都市の人々の暮らしは、いくつかの報道機関が伝えるいわゆる「格差ばなし」とはかなりの違いがあるようだ。というよりこれらの人々の心を含む暮らしぶりがメディアに上ることはまれである。

 ロシアの鉄道駅には乗り継ぎ客のための簡易宿泊所がある。広いロシアの鉄道網には全行程が7日間を要する有名なシベリア鉄道のほか、目的地まで2日3日という路線はざらで、各地を結ぶ鉄道ダイヤには毎日運行便もあれば週一便しかないところもある。その乗り継ぎ時間を過ごすための空間がこの簡易宿泊所である。日本の病院の相部屋のような作り方でベッドと簡単な物入れ棚がついている。サービスは何もない。パスポートを提示して宿泊料を払えばあとはほったらかしだ。強いていえば1杯2ルーブル(約10円)のお湯または水の自動販売機と、ホールにあるつけっぱなしのテレビといつのものだかわからない古新聞雑誌がサービスと言えるかもしれない。
 この簡易宿泊所で1人のロシア人女性と同室することになった。このロシア人女性はカフカス人と結婚していて、夫の実家訪問をした帰り道という。外国製化粧品販売のビジネスをしているらしい。それは最近のロシアでは珍しいことではなく、モスクワやサンクトペテルブルクではかなり実入りのいいビジネスとして注目を集めている。なるほど最新鋭の携帯電話を持っていた。
それなのに、高級ホテルに泊まらず簡易宿泊所に泊まっているのが不思議だった。大きな鉄道駅のことだからカフェやレストランを併設しているし、街に出ればいろいろな店が軒を並べている。でも彼女は市場でピロシキやハムや野菜を買ってきてそれを宿泊所で食べていた。特別の場合を除いてはレストランに行くことはない、それがこの地方の伝統かも知れない、お金のあるなしに関わらずひとりの食事はつましくして無駄な出費はしないのだろうと、やや耳の痛いことを思いめぐらせてみた。
 自分が食事をしようとしているときに偶然居合わせた客に、この場合はつまり私にだが、一緒に食べましょうと、とすすめてきた。空腹ではなかったが、いらない、とことわるのはほとんど罪悪に感じられる雰囲気だったのでありがたくいただくことにした。真っ先に淹れてくれたお茶は大きなコップに紅茶の葉を入れ、そこに自動販売機の熱湯を注ぎ、蓋をしてしばらく待つ、ロシア式蒸し茶のやり方だった。ほんとうは急須でやるのだろうが、旅の途中なので携帯用コップでの略式である。
 四方山話に興じた。
 カフカスの人と結婚したが、働きたかったので自分の実家のあるロシアのボルガ地方に夫とともに移った。カフカスでは結婚した女性が外で働くことを容認しないからである。でも夫の故郷の地もそこに暮らす人々もとても好きだという。陽気だし、なによりも「もてなしの心」がうれしい、だから年に数回、こうして夫の実家を訪問するのだ、と。紙ナフキンの上に並べられたピロシキとプラスチックコップのお茶がとてもおいしく感じられた。
「じゃあ、あなたがこうして偶然居合わせた私をもてなしてくれるのはこの土地の風習を受け継いだのですね」と問いかけてみた。イスラム教の地域では食事中にだれかが通りかかったら「一緒にいかがですか」と声をかけるのが礼儀だと、どこかの講演会で聞いたことがあったからだ。(カフカス地方はグルジア・アルメニア・南北オセチアを除きイスラム教である)
 この女性はそうですね、と肯定したが、つづけて「でも、私たちも子どものころから見知らぬ人に会ったらおもてなしするものと育てられたわ」「いい風習は継承していかないと」と笑った。そしてあと2日間ここに逗留せざるを得ない私に、自分がこれからボルガまでの長い汽車の旅で食べるために買ってきた食べ物を分けてくれた。
「もてなしの心」はカフカスの特産物と思っていたが、ロシアにもあるんだ!新発見である。モスクワでは外国人とみるともてなしどころか、何かたかるものはないかとギラギラした目を向けられることがほとんどだったから、「古きよき時代のロシア」に出会ったようでうれしかった。「横暴なロシア」もここではすっかり影を潜めてしまう。(川上なつ)

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2008年11月28日 (金)

鎌田慧の現代を斬る/第126回 ヤクザな男たちの暴走が日本を滅ぼす(トヨタ奥田/空幕長田母神)

 米国3大自動車メーカーの不調のなか、250億ドルにものぼる緊急融資をおこなう救済法案が、米議会で成立するかが注目を集めている。ビッグ3の経営不振の直接的原因は、相も変わらず燃費効率の悪い大型車に依存し、近年のガソリンの高騰によって売れなくなっただめだ。もちろん投資銀行のリーマン・ブラザーズ破綻など、米国発の金融不安が大きく影響している。しかし不振の根幹には製造業としての経営努力と販売戦略の失敗がある。

 そのため政府援助によって問題が解決されるわけではない。GMの社長は、救済法案について自動車メーカーではなく米国経済の援助であるとを強調した。たしかにビック3の一角が崩れて事業規模が半減すると、250万人の労働者が職を失うとの推計もある。労働問題としては非常に深刻だ。かつてGMは米国のプライドだった。それが倒産寸前の状況にあるのは、米国経済ばかりか米国の威光の落日を象徴している。

 一方、3大メーカーの衰退に反比例し、日本や韓国の自動車メーカーが米国市場でのシェアを高めてきた経緯を忘れてはならない。実際、トヨタは84年12月以降、北米に7つの車両組み立て工場を建設している。84年12月にはカリフォルニア州に「NUMMI」、88年5月には「ケンタッキー工場」、同年11月には「カナダ第1工場」、99年2月にインディアナ工場、04年8月メキシコ工場、06年11月テキサス工場、さらに今月にはカナダの第2工場が稼働の予定になっている。当初の計画では10年までに200万台以上の生産能力をもつ予定だった。
 金融不安以降、こうした勢いにかげりは見えた。トヨタはこれらの工場を休止あっせて減産し、来年3月期の連結決算では、営業利益で前期比74%減の6000億円となっている。新聞では1兆円利益が下がると盛んに喧伝している。しかし米国メーカーの不振にツケ入り大もうけしてきた時期と比べて収益が下がっているだけ。実際には6000億円もの営業利益を確保している。
 この「赤字宣伝」を隠れミノに、トヨタは下請け企業へのさらなる原価削減と、雪崩を打ったかのような非正規雇用者の削減にむかっている。愛知県内12の工場の期間工や派遣社員9000人を3000人に減らし、九州トヨタでは800人の契約社員のクビを切るという。

 2000年11月16日の『朝日新聞』の登場した奥田碩会長(当時)は、「万策尽きるまで雇用は守る。それが奥田さんの信念と聞いています。でも、トヨタはうまくいってるから言えるという気もしますが」との記者の質問に次のように答えている。
 「『強者の論理だ』と考える人は相当いるだろうと思いながら、書いたり話をしたりしています。でも、人間は尊重しなければならないし、長期雇用でやっていくのが一番いいと考えている。ある職場で人が余ったら、何か別の仕事を考える。それは多角化とは全然違う」
 この発言は期間工や派遣労働者を「人間」の頭数に入れていない。好況のときもさして正社員を増やさず、非正規雇用者を増やしておいて、いったん市場が冷えてくると捨て駒として工場の外に放りだす。これが奥田会長が誇らしげに語った「長期雇用」である。彼のいう「人が余ったら」の「人」に、期間工や派遣労働者は含まれていない。つまり奥田にとって、本工以外の労働者など「人」ですらないということだ。だから景気が悪化したら期間工や派遣労働者のクビを切ることが分かっていても、胸を張って「万策尽きるまで雇用は守る」などうそぶいているのだ。
「本当にどうにもならなくなったならば、僕もやめるというふうに。自分は生き残り、従業員を削るということはあり得ない話だと思いますね」と彼は朝日の記者に語っていたのだが、これは悪い冗談だった。
 いまやゼネラル・モーターズを抜き、自動車メーカーとして世界のトップ企業になったにもかかわらず、トヨタはGMとは比べものにならないほどひどい環境で労働者や下請けを働かせている。給与体系もビッグ3の方が上で、退職者への年金や医療保険も米国企業の方が手厚かった。トヨタにとって労働者の保護など「カイゼン」の対象でしかない。関連企業を含めると1万人以上もの労働者を切り捨てているのに企業責任さえ感じていない。それは企業が儲かれば、労働者は死んでもいいという思想である。

 こうしたトヨタの独善性を如実にあらわしたのが、11月12日に「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」での奥田発言である。
「あれだけ厚労省がたたかれるのは、ちょっと異常な話。正直言って、私はマスコミに対して報復でもしてやろうかと(思う)。スポンサー引くとか」(『朝日新聞』08年11月13日)
 この発言には、気に入らない報道は許さないというトヨタの思想が煮詰まっている。実際、過去に圧力をかけつづけてきたからこそ、あれだけ非人間的な労働環境で働かせながら、トヨタ批判はマスコミにのぼらなかったのである。その効果を十分に知っているからこそ、自分が関係するものへの批判が、気に入らなければマスコミに報復して抑えようとする。
 また情けないことに、メディアもその脅しに屈している。テレビ朝日の和田政夫社長は「(厚労行政は)国民の生活に深くかかわっている。メディアとしては、きっちり批判していかなくてはいけない。そのためにも、批判に走りがちにならないように、不断のチェックが必要」(『読売新聞』08年11月20日)と話し、奥田発言そのものについても「報復するというのは刺激的、穏当を欠く」(同上)と腰の引けたいい回しに終始した。さらに日本民間放送連盟の広瀬道貞会長(テレビ朝日相談役)にいたっては、「出演者の中に感情だけに訴える過激な発言もある。テレビの影響力の大きさから言えばある種の節度が必要かなという気もした」(同上)と、放送規制によってトヨタに迎合しようとしている。
 奥田氏は先述した懇談会で「新聞もそうだけど、特にテレビがですね、朝から晩まで、名前言うとまずいから言わないけど、2、3人のやつが出てきて、年金の話とか厚労省に関する問題についてわんわんやっている」とも語っている。誰を指すのかわからないが、テレビのコメンテーターを「やつ」呼ばわりしているのである。「報復」という暴力的な言葉を使って、言論弾圧を示唆している。経済的な脅しにたいして、きちんとした反撃ができないのは、すでに報道機関として失格だ。
 厚労省に批判が巻き起こっているのは、年金問題などであまりにも対応がオソマツだからだ。情報を公表しない、調査の不備も次々とあきらかになるなどなど。トヨタのリコールでは、関係する下請け労働者を徹底的に追いつめ「カイゼン」させるのに、政府機関なら批判した方が悪いという。この行動形態(ビヘビア)はフィリピンで悪名高きマルコス政権に取り入り、政商として名を挙げて本社に復帰した、奥田の「経済手腕」を思い起こさせる。
 もう1つ許せないのは、「ああいう番組のテレビに出さないですよ。特に大企業は。皆さんテレビを見て分かる通り、ああいう番組に出てくるスポンサーは大きな会社じゃない。いわゆる地方の中小。流れとしてはそういうのがある」ときわめて差別的な発言をしていることだ。
 中小企業をバカにしながら、下請け経営者には、自殺者がでるほどコスト削減を押しつけている。これは期間工や派遣労働者を「人」として勘定しない思想そのものだ。このような人物がついさきほどまで経団連の会長におさまっていたのだから、大企業優先の政策が通り、中小企業や労働者が自殺するのも当然だ。
 言論の自由など気にすることなく、カネに任せて言論封じる人物がずっと経団連のトップに居座り、いまも首相官邸に出入りして意見をいいつづけている。その恐ろしさを、今回の奥田発言は改めて白日の下にさらしたといえる。
 それでいて奥田氏は今回めでたく「旭日大綬章」を受賞した。かつて勲章について質問され、「僕はもともと大嫌いだけどね、そういうの」(『朝日新聞』2000年11月16日)と語っていたが、自分にくるとなるとホイホイもらいに出かけて行くところに、いい加減さがあらわれている。同時受賞したのが、読売新聞の渡辺恒雄主筆だったのも象徴的だ。財界から政治を握ろうとした人物とメディアから政治を操ろうとした人物の同時受賞など、これまで見られなかった取り合わせである。(談)

→続きはPDFで「0811.pdf」をダウンロード 

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2008年11月26日 (水)

職員録に自宅住所などが掲載されていた時代

手元に『ガイドブック 厚生省』平成9年4月版がある。別に内緒でもらったとか違法に手に入れたわけではない。奥付には「発行 日本厚生協会出版局」とあり「本体価格1460(税別)」とある。れっきとした刊行物だ。その最後に「厚生省幹部住所録」が掲載されている。「事務次官」のところには先の事件でなくなられた山口剛彦さんの住所と電話番号が載っている。

元厚生事務次官宅連続殺傷事件の犯人は被害者の住所をこのような職員録で調べたと報道されている。知らない人は「個人の住所を載っけていたのか」と驚かれよう。しかし『ガイドブック 厚生省』のように1990年代までは当たり前のように掲載されていた。地方自治体でも一般職員すべての自宅住所と電話番号が載っている職員録を作成して生協などで一部市販していた。分厚い電話帳のようであった。都道府県政記者クラブのブースに1つは置いてあったように記憶する。
それを止めようとの動きが90年代後半から出てきた。掲載していた最大の理由は職員同士の特に緊急時での連絡に便利、であった。役所という性質上とくに事故や災害の場合に連絡網は欠かせない。しかしこの頃からプライバシー保護の観点から最初は一般職員が「載せる必要を感じない」との声が上がり選択制になるなどを経て幹部職員のみとなり、やがてそれも消えていった。
記者は取材源の1つとして持つわけだが企業の営業もまた便利なツールとして県庁の売店などで買っていた。もっと古くは指定銀行など「確かな会社」には職員録が配られていた。
これが高じてDMの源になったりセールス電話がかかってくるようになった。若い独身女性職員の自宅住所と電話番号がズバッと掲載されていて安全上どうかという声もあった。こうした背景で職員録から公務員の住所と電話番号が消えていく。

連続殺傷事件の被害者はこれ以前の職員録で私が手にしている『ガイドブック 厚生省』のように住所が記載されており、かつ官舎などではなく自宅で、しかも引っ越しなどで変更がなかったゆえに特定されたのだろう。誠にお気の毒であり今後は図書館などの取り扱いも厳重にするといった対応が求められそうだ。

ところでベクトルを変えて「なぜ90年代までは当たり前のように掲載されていたのか」を考えてみたい。上記のような問題はそれ以前から大なり小なりあったはずである。にも関わらず載せていた。時代がおおらかだったといえばそれまでだろうけど何らかの変化がこの頃にあったはずだ。

毎日新聞1995年3月19日付朝刊に興味深い記載があった。同年に行われた知事選挙に関してでタイトルは「各党相乗り候補 官僚色除去に懸命」である。

【本文】
東京・霞が関は沈うつな空気に包まれていた。今月十三日、東京共同銀行問題で乱脈融資の当事者との親密交際を問われて大蔵官僚が処分されたからだ。「政治三流、官僚一流」の幻想が崩れ、国民の間に反霞が関感情が深く、静かに広がる。
だが、東京、神奈川、大阪、福岡知事選で、各党相乗りで担いだ候補はいずれも官僚である(以下略)

「政治三流、官僚一流」。職員録に住所と電話番号が掲載されても公務員が平気でいられたのは正にこの事実に拠るのではないか。「官僚一流」を信じて疑わない時代が確かにあった。「官僚がいれば政治家は誰でも日本は大丈夫」と思い込まれていた時分に「一流」の公務員が住所と電話番号を公開しても手に取る者は恐れ入るだけだった……という少なくとも「思い込み」があったという想像は飛躍しすぎだろうか
すると毎日記事にある「大蔵官僚が処分」から始まった一連の大蔵・日銀スキャンダルはこの「思い込み」を「幻想」に変えたターニングポイントだったのかもしれない。
その後も官僚や公務員を巡る問題が相次いだ。賄賂事件や官製談合は職員と業者による癒着で、そのツールとして職員録が役立った場面もあったろう。これもまた掲載取り止めの動機となったに違いない。そして社会保険庁の「これでもか」というほどの不祥事連発がやってくる。

今回の事件は背景に集団が見えない点や「保健所でペットを殺されて腹が立った」という容疑者の現時点での殺害動機などから当初使われていた「テロ」の言葉が急速に後退している。新聞の社会面を読むと「テロ」から「凶暴な犯人の素顔」と「悲しみにくれる被害者周辺」という典型的な「理不尽な殺人事件」報道のトーンへ変わっているように思えるのが気がかりだ。
私はやはりテロの一種ではないかと思う。官僚集団を「こんなことで狙われるのか」と震え上がらせた時点で暴力によって政治的目標を遂げようとするというテロの定義にかろうじて当てはまる。いかなる理由であれ暴力で政治的効果を狙うような行為は許されないという論陣が欲しい。(編集長)

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2008年11月25日 (火)

板橋スナック密室殺人事件の現場を歩く

Photo  事件当時、内側から鍵をかけられいた店の扉は、白く塗り替えられ今も堅く閉ざされていた。
 その扉の向こう、8畳ほどのスナックで4人の死体が見つかったのは2003年3月30日のことだった。店の経営者だった女性の夫が、午前9時35分ごろ掃除のために部屋に扉を開け、男性2人、女性2人の遺体を発見したという。
 経営者であるママは頭をドアに向けあおむけに倒れ、その横にはタクシー運転手だった男性が横向きに転がり、近くに刃渡り14.7センチのサバイバルナイフが落ちていた。さらにカウンター下に元図書館職員の男性が、そして奥のソファに近くの居酒屋に勤めていた女性がうつぶせで死んでいた。部屋は血の海だったという。
 犯人は比較的早くに割れた。
 鍵が店の内側からかかり、5本の合い鍵も夫が持っていた1本を除いてすべて店内で発見されたこと。また犯行現場である室内から出てきたら残るはずの血跡が、店の外にはまったく見あたらなかったこと。この2点から犯人が店内の4人に絞られた。
 警察が注目したのは遺体に残された傷跡だった。3人の被害者は右側の首に後ろから切られた傷が1ヵ所だついているのに、タクシー運転手だけは首の両側や左手に傷が残り、正面から切りつけた傷と鑑定されたのだ。この鑑定結果から運転手が3人を殺害した後、自殺したと断定された。

 問題は殺害の動機である。
 03年6月16日の東京新聞は、その動機について次のように書いている。
「○運転手は以前から○さん(スナックのママ)に好意を寄せており、今年1月に大島さんが同店を開店すると、連日のように来店。○さん(経営者)に再三交際を迫ったが断られていたという」(原文では○に本名が記載)
 実際、タクシー運転手の攻勢は激しかったようだ。高級日本酒などを手みやげに店に通う姿なども目撃されている。
 遺体を発見した夫と親しかった男性は言う。
「旦那さんから(ママに)プレゼントを贈る人がいるって聞いたから、危ないよって言っておいたんだけどね」
 実際、運転手の行動は、かなりエスカレートしていたようだ。03年6月12日の産経新聞には、次のような記述がある。
「同店の常連客によると、金運転手は大島さんが作った料理を客に出したり、帰る客に対し『ありがとうございました』とあいさつするなど従業員のように振る舞っていた。営業が深夜に及ぶと『帰ってくれ』と周囲の客に告げ、店の看板を片付けたうえで大島さんや数人の常連客と飲みなおす姿も見られたという」
 いっぽうでママは運転手について「嫌な感じのする人だ」と周囲にもらしていたとの報道もある。夫がプレゼントについて知っていたことを考えても、ママにとっての運転手は「お客さん」でしかなかった可能性が高い。
 同店にも行ったことがあるという近隣の女性は、「ホステスだったら独身だって言うでしょ。それが常識だよね」と殺されたママに同情を示した。
「売上げがかかっているからさ。でも、男は勝手に盛り上がっちゃったのかな」

 では、殺されたママはどんな人だったのだろうか。
 皆が口をそろえて語った人物像は「明るい人」だった。さらに近所の喫茶店のマスターは「週刊誌に載った写真よりほっそりしていて感じのいい人でした」と教えてくれた。また「キレイというよりかわいい感じかな」と表現した人もいた。
 朝日新聞の報道によれば、彼女は「自分の店を持つのが夢」で昼はスーパー、夜はスナックでパートをしながら資金を貯め、3店舗が入居していた木造2階建ての建物を購入。事件の3ヵ月前に、殺人現場となったスナックを新装開店したという。
「もともとお母さんが居酒屋をやっていたとかで、接客業には向く人だったと思うよ」
 先述した店への来訪経験のある女性が言うように、ママはお客からも好かれていたようだ。
 事件現場の隣で居酒屋を営む女性も、事件当時は旅行に行っていたので詳しいことは知らないと釘をさしつつ、店の様子だけは教えてくれた。
「隣からキャッキャと楽しそうな声がよく聞こえてきたし、ママも明るい人だったからね。店はうまくいってたんじゃないかな」
 おそらく店では皆明るい酒を飲んでいたのだろう。毎日新聞の報道によれば、事件発生の1時間前でさえカラオケで客同士が歌う声が店の前で聞こえたとされる。

 ただ少なくともママと運転手の間では、少なからず緊張が高まっていたようだ。共同通信(03年4月18日)は事件の2日前に「あの女は駄目だ」と話しているのを関係者が聞いたと報じている。
 近隣住民への取材では、ママが以前に勤めていたスナックの常連客が、そのまま新しい店に移ってきたらしいとの噂を聞いた。犯人もそのうちの1人だと。その話が本当なら運転手の片想いはかなりの長期間にわたっていたことになる。恋愛が成就すると信じるには十分な時間と飲み代だったのかもしれない。そして事件の数日前に何かが起き、運転手は怒りを溜め込んだ。
 その原因は関係者がすべて死んでしまった今となっては分からない。ただ店の近所の住民は、店近くの喫茶店でママが別の男性とたびたび待ち合わせをしていたのを目撃している。

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年11月24日 (月)

書店の風格/第23回 新潟の老舗 萬松堂

 「ばんしょうどう」と読む。創業が江戸末期だから、かなりの老舗だ。
 新潟駅から北へ向けて歩いていくと、大きな橋に出る。広大な信濃川にかかる万代橋だ。日本海からの風が吹き抜ける橋を渡りきると、そこには東西に長く長く続く商店街が姿を現す。古町と呼ばれるその界隈は、万代・南口付近と並んで新潟の繁華街である。しかし、繁華街というに至るまでの華やかさはあまり感じられず、落ち着いた雰囲気が全体を包んでいる。筆者自身、古町を歩いていたら「出張で新潟に来たんですが、新潟で一番栄えている街はどの辺ですか?」と聞かれたことがある。「一応この辺もそうなんですが……」と答えたときにはちょっと切なかった。

 萬松堂は古町のモール街、6番町にある。まわりには医学書の考古堂、これまた老舗の北光社、遊べる本屋・ヴィレッジバンガードがあり、書店のオンパレードのなかで「本好きならここへ」といわれる個性を出しているステキな本屋さんだ。

 どのへんがステキか。お店は4階建てだから、それぞれのフロアのステキさについて紹介してみよう。
 まずは1階。雑誌、新刊・話題書、児童書のフロアなのだが、とくに話題書の「書評コーナー」が素晴らしい。特に日曜日は新聞書評のラッシュ日だが、遅れじとそれぞれの新聞の書評記事を切り抜きして棚に貼りだし、一冊ずつ揃えるのだ。もちろんどの店でもやっている手法ではあるが、これほどの俊敏さは新潟ではなかなか見られないぶん、とても貴重。TV、雑誌の書評欄もできる限り網羅する熱意がとても素晴らしい。
 中二階。なぜかここだけ「中」がつく。文庫とノベルスのフロアだ。やや狭いが、平台よりも棚優先の構成が、瞬間的に売れる本よりも品揃えを重視する姿勢を感じさせて好印象だ。
 二階。専門書売場だ。広いとはいえないフロアなのに、ユリイカのバックナンバーや中小出版社の思想書が豊富。なんといっても注目すべきはレジ隣の平台で、稀覯書や絶版本のフェアをはじめ、数々の催しを展開している。担当者の遊び心が垣間見られ、平台を見るためだけに通ってしまいたくなる。
 三階。学習参考書のフロアだ。コミックも扱っているが棚数は少なく、コミック愛好者には物足りないかもしれない。でも大丈夫、当然注文はできるし、ビックリすることに「真向かいにある北光社さんはコミックが豊富です」と教えてくれる。もし他のお店でも在庫がなかったら、Uターンしてここで注文しようかしらと思ってしまう。

 ちなみに家庭向け以外の医学書は扱っておらず、こちらも「モール4の考古堂さんが医学書専門です」と教えてくれる。得意ジャンルを持ち寄った書店の集まる古町は、地域丸ごとおすすめだ。

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2008年11月23日 (日)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第22回 火事を一気に拡大させた原因が壁に

20a_10  これは丸焦げになった部屋の内部である。ブロック塀のように見えるのが、隣の部屋との間仕切りである。このブロック塀に胴縁を縦にを打ち付け、そこにベニヤ板を張り、その上に仕上げのクロスが張られていたのだ。
 この工法についてニュージャパンの火事に詳しいKBさんは次のように語る。
「当時は、コンクリートブロックに胴縁を固定する方法として木レンガが使われていました。ブロックは上から見ると3つの穴が空いています。その穴に向けてブロックの表面を崩し木を差し込んであるのです。そうすると、その木に胴縁を釘で打ち付けることができるからです。
 ただ火事になると大きな問題が生じます。空洞がきちんとモルタルで埋め戻され、木レンガも隣と貫通していなければ(例えば千鳥配列)問題ないが、ここでは埋め込まれた木レンガに壁の両側から胴縁を固定するため、火が付けば可燃物の胴縁と木レンガを通じて一気に隣の部屋まで燃え移ってしまうのです。木材が乾燥しきっていたらなおさらです」
 1ブロックおきに燃えかすが縦に並んでいるのがわかるだろう。これが埋め込まれていた木レンガの跡だ。その右隣、胴縁が炭となって燃え残っているのは、バスルームを囲っていたセメントを材料とした壁だ。この耐火材料で作られた壁が胴縁の完全な延焼を防いだのである。つまり壁がベニア板でなければ、せめて胴縁を隣室貫通の木レンガで固定していなければ、ここまでひどい火災にならなかったわけだ。
 火災発生直後、耐火材料ではないただのベニア板が部屋に張られていたことがメディアで大々的に報道された。しかし、さらに問題だったのは、本来なら簡単に火が移らないはずのホテルの壁に穴を開け、燃えやすい木レンガが埋め込んでいたことだ。
 きれいに胴縁が焼けたブロック塀と胴縁の残った耐火の壁。この写真は耐火材料がいかに重要かを示している。(大畑)

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年11月22日 (土)

靖国神社/第7回 靖国神社 06年8月15日――この日、九段で起こっていたこと――(上)

 当日の朝、テレビをつけたら既に小泉首相が靖国神社から引き揚げた後だったという人は多いのではないだろうか。何しろ靖国を去った時点でまだ7時55分だったのだから。14日まで連日続いていた報道、論争のハイトーンぶりと比べ、なんだ、意外とアッサリ終わったんだなぁと拍子抜けの感がある人もいるだろう。
 その後、各新聞社の世論調査で首相参拝に50%以上が「賛成」という英霊もビックリものの結果が示されたりしたが、基本的にはどの記事にも「喉もと過ぎた感」がじわりと滲んでいる気がする。

 しかし! 実際の8月15日の靖国神社の熱狂ぶりは凄まじいものがあった。靖国問題ではなく事実上、小泉問題化していた一連の出来事だが、あくまで舞台は靖国一帯なのである。カメラのレンズが白い髪の小泉首相ばかりを捉えていたそのとき、その回りではどんな光景が広がっていたのか、これからお伝えしよう。
 少々時間を遡って当日の午前の6時半、徹夜明けで体力の限界を感じていた編集部員がテレビをつけると、靖国の前で女性リポーターが首相参拝の決定を伝えていた。7時半に官邸を出発、40分頃には到着するという。こうしちゃおれんと仕事を中断して、すぐさま靖国に向かった。

6時50分 九段の坂を登っていると早速こんな場面に出くわした。坂の途中にある九段駅A6番出口前にマイクロバスが止まり、「全学連」と書かれた青いヘルメットを被った一団が飛び出してきた。その数約30人。胸に「小泉首相靖国参拝阻止」と書かれたプレートをつけ、横断幕を掲げ反対のシュプレヒコールをあげるために集まったようだが、数人の右翼に押され気味だった。後のニュースで知ったのだが、その後「全学連」たちは神門前で約50人の特攻服姿の男たちに取り囲まれた。警視庁の赤色のコーンや傘を投げつけられ、「とっとと消えろ」などと叫び声が飛び交い、その場は乱闘騒ぎになった。私服警官らしき人物が殴りかかろうとする人物を必死に止め、羽交い締めにする。そんな一幕があったという。
7時11分 すでに神門前の道は靖国通りにつながる側に警察車両が止まって通行止め。ただし売店横には右翼の街宣車2台が止まっていた。神門前にはテレビカメラが並び、小泉首相到着に備えていた。
7時20分 警視庁と書かれたレインコートを来た20人ほどの一団が神門の中へ入っていく。
7時21分 遊就館横の門、到着殿に車で乗り付けることのできる入り口付近で、右翼と警察の小競り合いが始まる。パトカーから「歩道に上がってください」とたびたび呼びかけるも、黒いスーツを着た若い男性がキレまくっている。数は5人から10人で明らかにカタギではない。そのうちのひとりは、「報道」の腕章をつけた新聞社員らしき男に向かい、「オマエらがキチンと報道せんからこっちが勘違いされるんじゃぁ!」と凄む。
7時25分 到着殿に向かおうとすると、すでに車の通り道にはロープが張られ、マスコミ関係者以外は参集所までしか行けないように警察が通行を規制していた。小社も報道受付をすませれば、奥の到着殿に向かうことができるが時間が切迫しているため、危険を冒さず参集所の横の群衆から小泉の車両の写真を撮ることにした。
7時30分 ますます群衆の数が増えていく。どこかで配っているのだろう、国旗の小さい旗を手にしている人がけっこういた。国旗を持っているくらいなので、その辺りにいる人たちは首相の参拝に賛成なのであり、コイズミよはやく来てくれないかと待ちわびるような雰囲気である。頭上ではうるさいほどのヘリが飛び回っている。10機も飛び回ったとも報じられていたが、参集所横の群衆に体を押されながら見えた機体数は5機だった。
7時40分 首相を乗せた車が到着。一斉にカメラと携帯を頭上に掲げ撮影合戦が始まる。一眼レフカメラがチラホラ上がっていた。カメラ群の前を黒塗りの車が通過する。一瞬の出来事だ。
 到着殿に到着すると、「小泉、最後だぞー! 昇殿参拝しろー」との声が響いた。かなり通なかけ声だ。
7時42分 参道を埋めていた人々が少し引いていく。幾人かのテレビクルーがテープを持って神門の方へ走っていく。少し小雨が強くなり、報道関係者とおぼしき人々が顔をしかめていた。
7時55分 数分前から人がまた戻って来始め、再度、大混雑の中で小泉の車を見送ることに。「小泉さん、ありがとう」との声が参拝客から響いた。車が目の前を通り過ぎると、いっせいに人が帰り始める。神門からの眺めは、とても8時前の神社とは思えなかった。(本誌編集部)

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2008年11月20日 (木)

ホームレス自らを語る 第13回 師匠とともに/宝村長央さん(57歳)

 鹿児島県奄美大島の出身で、昭和25年の生まれです。
 家は貧しくて、生活保護を受けていました。父は土木作業員をしていましたが、敗戦直後の離島では仕事は少なかったと思います。私が物心ついたころには、母親は病気で亡くなっていました。歳の離れた姉は、すでに結婚していて、家には私と父のふたりだけでした。
 子どものころの私は、おとなしくて絵を描くのが得意で、よくクラスメイトをモデルにしては、人物画を鉛筆で描いていました。それに数学とか物理なども得意でした。
 島の普通高校を卒業し、得意な絵の腕前を生かして、大島紬の図柄を描く仕事につきました。ただ、あまり気が入りませんでね。本当は大学に行きたかったんです。理数系が得意でしたから、理工系の大学で学びたかった。でも、家が貧しくて、大学なんかに行くのは贅沢だと諦めていたんです。それでも諦めきれなくて、1年後に東京の大学を受験しました。
(このとき宝村さんの知り合いだというTさんがやってきて、会話に加わる。以下、T「」内はTさんの発言。)
T「彼は優秀でね。国立の理工系の一期校を受験してるんだ」
 いや、学費から東京での生活費まで、全額を自分で工面しないといけませんからね。私大はとても無理で、何としても国立大に入らないといけなかったんです。でも、最初の受験はみごとに失敗でした。受験勉強なしでいきなりの受験でしたからね。それで東京に残って新聞配達のアルバイトをしながら、予備校に通って2年目の受験に備えました。
 ところが、その2年目ですが、大学受験の数日前に父が亡くなり、私は喪主だから奄美大島に帰らなければならなくなりました。葬儀の日が大学受験の日で、大学は諦めるしかなかったです。また1年間も予備校に通う気力も、経済的余裕もなかったですからね。
 父の葬儀を終えて東京に戻り、新聞の専売店の専従になって働くようになりました。朝夕刊の配達、拡張販売、集金などが主な仕事でした。専売店は東京の大田区、荒川区、それに埼玉の狭山と替わりました。それぞれ10年くらいずつ、全部で30年間働きました。
 途中、恋人ができてアパートで同棲するまでになりましたが、結婚はできませんでした。相手の親が許してくれなかったんです。新聞専売店で働いていると、世間からは少し低く見られましたからね。それに私がギャンブルに狂っていたところもあったんです。
 ギャンブルは麻雀と競馬ですね。あのころは男が4人揃うと、あたりまえのように麻雀が始まっていました。土曜、日曜日は場外馬券売り場に通っていましたし、そんなことも彼女の親の印象を悪くしたようです。ある日、アパートに両親が迎えに来て、彼女はそのまま連れ戻されてしまいました。
午前3時半からの商売
 新聞販売店では49歳まで働きました。その歳でやめたのは特に理由はありません。何となく仕事がイヤになったんです。新聞販売店にいても出世するわけでないし、毎日毎日同じことの繰り返しで、逆によく30年間も同じところで働けたと思いますね。
 新聞販売店をやめたときに退職金が出ましてね。そのカネで3年間遊び暮らしましたよ。毎日昼間は、麻雀か競馬、パチンコとギャンブル三昧で、夜は居酒屋で酔い潰れるまで飲むという生活をつづけました。
 そのうちにカネが底を突いてきて、部屋代が払えなくなって、アパートを追い出され、そうなるとホームレスになるしかありませんからね。はじめは新宿に出て、それから池袋、上野へと移りました。
T「オレとはその上野で知り合ったんだ。彼が得意の鉛筆画を描いていて、『上手に描くもんだな』と声をかけたのがきっかけだ。
 そのころのオレは山谷(いまの台東区清川)の朝市に店を出していて、手伝いがほしかったから手伝わないかと誘ったんだ」
 山谷では毎朝3時半から7時まで道路で朝市が開かれていて、Tさんはそこで椅子とか机の家具類と、鍋や食器などのキッチン用品を扱う店を出していたんです。
T「朝市の店を手伝ってくれたら、1日3000円払うがどうだと誘ったんだ。そうしたら彼は山谷に移ってきて、毎朝店を手伝うようになった。それが4、5年続いてね。はじめのうちは横着者で、ものになるとは思わなかったけど、4、5年もやっていれば板に付いてくるからね。それで今年からその店は彼に譲って、オレは別のところに新しい店を出したんだ。オレのこと? オレはホームレスじゃないよ。商売はテキヤで、この先のアパートに部屋を借りて住んでいる。まあ、彼の人生と商売の師匠ってところだな」
 今年からTさんの店を譲ってもらい、一人でやるようになりましたが、Tさんがやっていたころのようには売れないですね。早朝、3時間半だけの商売ですから、1日で5、6件、1000~2000円程度の売上げしかありません。アパートはおろかドヤ(簡易宿泊所)にも泊まれません。それでも食べることと、酒を飲むことは自分の稼いだカネで賄えますからね。
T「そう。オレもその気持ちが大切だと言っているんだ。差し入れや炊き出しをたよらずに、自分の食い扶持は自分で稼ぐ。ホームレスをしていても、そういうプライドを忘れてはいけないってことだ」
 せっかく店を譲ってもらったわけですから、どこまでできるか、一人でやれるだけがんばってみようと思っています。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年11月19日 (水)

奥田碩トヨタ相談役の暴言

私が昔に書いた奥田氏についての記事(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2006/02/post_836c.html)にアクセスが殺到している。無理もない。あの暴言があったから。

厚生労働省を擁護しマスコミ批判を展開した以下の暴言の分析をする前に彼の立ち位置を確認。厚生労働行政の在り方に関する懇談会座長にしてメチャクチャな運営が批判されている同省の外局である社会保険庁の年金事業を引き継ぐ予定の公法人「日本年金機構」の設立委員会委員長。トヨタ自動車相談役で日本経団連名誉会長。
相談役ならばトヨタ自動車への影響力はないか。あるだろう。名誉会長ならば単なる名誉職か。どこぞの先生と同じで違うだろう。でもあくまでも一線を引いた肩書きだから自由に発言していいか。ダメだろう。間違いなく日本最大の企業グループと最大の経済団体へ強い影響力を持つのだから。
大企業と大団体へ指図しうる大人物が国民生活へ直結する大問題を抱える社会保険庁に関わる公職のリーダーにある。本当はそれだけでも問題なのに何ら謙遜することなく、あろうことか開き直って恫喝する始末である。

●発言要旨:新聞・テレビは朝から晩まで厚労省だけ毎日叩くのは異常
→別に異常ではない。そもそも同庁を「ねんきん事業機構」にしようといったんは方向が定まった後に不祥事続出した結果として構想されたのが日本年金機構である。同庁はいかに怠ったかを自らのHPで明らかにしている(http://www.sia.go.jp/top/kaikaku/index.htm)わけで叩かれて当然である

●発言要旨:マスコミに対し報復でもしてやろうか。スポンサーにならないとか
→なんであんたが報復するの?報復とは仕返しである。仕返しとは不当な仕打ちに対する正当または違法な反発である。財界人で民間人の奥田氏にはそもそも「不当な仕打ち」を受けていない。
すると懇談会座長とか設立委員会委員長の立場からか。懇談会とは元々が有識者懇だから厚労省の代弁者ではないし日本年金機構は上記のように叩かれた結果として誕生するのだから委員長が「報復」を口にするとは今までの批判が「不当な仕打ち」だと言っているようなものだ。
「スポンサーにならない」という「報復」方法に至っては筋違いである。だってトヨタも日本経団連も「厚労省だけ毎日叩」かれたから損害を受けたわけではないから。
でもこの発言は「ついに言ったか」という明るい側面もある。これまでトヨタは大広告主として自社へ不都合な番組へのスポンサードを控えるなどして圧力をかけてきたと噂されてきた。でも噂だった。それを公然と「できる」と認めたわけだから

●発言要旨:それくらいの感じは個人的に持っている
→奥田氏の「個人的」とは何だ。冒頭述べたように奥田氏は属性として強力な権威をまとっているので、その発言も「二足歩行を行うヒト科のオスでコードネームはオクダヒロシ」というような立ち位置で、つまり純粋な「個人」としては発言し得ない

●発言要旨:毎日やられたら国民も洗脳される
→ふうん。ならば毎日毎日テレビで流れている、多分厚労省批判よりも流れているトヨタのCMの目的は「洗脳」だったんだ

●発言要旨:編集権に経営者は介入できないといわれるが、やり方はある
→あるよね確かに。それも認めるのか。テレビの場合は「報道」は致し方ないとしてもワイドショー系ならばスポンサーNGを出し得るし、制作サイドへ営業が待ったをかけるか、より自主的な行為として制作側が営業に確認を取らせればいい。その時に暗にダメだと伝えると。
新聞は三大紙は難しくても他ならば……ということか。またマスコミとされるメディアには隠然たる、または公然と権限を握る爺さまが存在する場合がある。彼らは折に触れて内外の同じような権力爺さまと爺さま歓談を行っている。奥田爺さまも歓談に関われよう。そこで「やり方」を発揮するわけか(編集長)

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2008年11月18日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/朝夕の満員電車、概観

 まるで「ドシラ」と重く沈んでいくかのように、何もかも、トーンが下がっていく。そして、しまいには、深いため息に変わっているのだ。
 ん!? 何を言っているのかさっぱりわからないよね。それはそれで、まず。
 一日の仕事を終え、家路を急ぐサラリーマンの姿も、いつもと違うような、なぜかせわしなく感じてしまう。また、家々に灯る、昨日までと同じはずのあかりですら、なぜかあったかそうに見える。さらに、日が暮れ始めて、暗くなっていくときの感じが、なぜか物悲しくてしようがない。
 それらは多分、冬が来るということを日に日に実感しているからか。そんな今日この頃だが、それは今だけで、12月になれば本当に目まぐるしくて、そんなことなど感じてはいられなくなるのだろう。
 毎年のことだが、寒いのは嫌だね。今はまだそれほどでもないが、やっぱり寒い。
 勤務中、ホームで自分が担当する電車を待つことすら、寒さが身に沁みて億劫になる。欠乗防止のために、早めのホーム出場が義務づけられているのだが、ま、3分くらい前からホームに突っ立って待っているわけだ。それだけで辛い。
 寒いから、つい、ポケットに手を入れて何でもいいから踊りたくもなるが(ならないか)、お客さまの目もあり、あまりみっともない格好はできない。背筋を凜と伸ばし、直立不動の状態で、遠くの空を見つめながら、安全と無事故だけを祈り、ただひたすら待っている、わけではないけどね。
 それにしても、中央線は遅れてばかりだ。
 朝はお客さま混雑の遅れの上に、特に多いのが急病人だ。これだけ込んでいるのだから気分が悪くなるのも分かるが、睡眠と朝食は十分だったのだろうかと思ったりする。まさか、乗車時に健康診断をするわけにもいかないし、超満員で消耗する体力は相当なものだろうが、これはどうにもならないことだ。
 そして、日中に多いのは荷物挟まりだろうか。駆け込んで無理矢理乗ろうとするからだが、ドアが閉まりかけているのに傘などを差し込むケースが目立つ。私達車掌は再び開ける手立を取るが、そのまま閉まって発車してしまったりする。で、直ちに非常停止手配をとり、急停車させるが、これも個々人のマナーの問題で、やはりどうにもならないような気がしてしまう。
 あと、夜は断然酔客絡みだ。触車や転落、線路内立入り等々。これからの忘年会シーズンを思うと先が思いやられるが、命に関わる問題だから特段の注意をしなければならない。
 しかし、昔はこんなに多くはなかったと思うのだが、情報が伝わってこなかったり、見えなかったりで、結果オーライなだけだったのだろうか。とはいっても、やはり来る日も来る日もどうにもならないことばかりだ。
 安全は他人任せではいけない。自分の身は自分で守る心構えをしなければならない。なんてね。私自身偉そうなことをいえる立場ではない。
 いずれにせよ、ため息とともにうなだれてばかりいる。「ドシラソファミレド~」というわけです。(斎藤典雄)

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2008年11月17日 (月)

書店の風格/第22回 マニアをオシャレに演出する渋谷リブロ

 道玄坂を登っていると、若者の匂いがむせ返ってくる。立体的な構造をした街・渋谷にふさわしい書店を挙げよと言われたら、このリブロを真っ先に思い浮かべるだろう。デコレーションケーキ風に積みあがる棚作りを任せたら、リブロの右に出る書店はないと思う。

 渋谷のリブロはパルコ1、地下1階にある。エスカレーターを降りると、自然と右のほうへ足が向く。本棚のビビッドなオレンジが目を引くからだろう。一般書コーナーでは書籍の人気ランキングを飾った棚が主役。話題書、新刊が一緒に配置されている。11月13日に伺ったが、気になったのは書店中ほどの特集棚だ。手作り服の本、編み物の本と、一見女子的なもので構成されている棚の一番目に付くところにあるのが、『鉱物アソビ 暮らしのなかで愛でる鉱物の愉しみ方』(P-Vine Books) 。鉱物の本? 「鉱石(イシ)好き少年少女のための待望のヴィジュアルガイド本!」というアオリだが、なんてマニアックなんだ。しかしコンセプトとは裏腹に、装丁はすごく洗練されている。「DIY」というと、農業だったり工作だったりと無骨なイメージがあるが、トータルでオシャレに手作りの生活を楽しむことを目的とした本を集めた面白い特集棚だ。

 さらに店内を見ていると、アクリルの正方体に挟まった一冊の本が目に留まった。『団地巡礼 日本の生んだ奇跡の住宅様式』(二見書房)。なんと団地の写真集である。世の中色んなマニアがいたものだ。透明アクリルの棚に収まっているから、端の本は表紙まで見せることが出来、よりアイキャッチが効く。デコレーションケーキ風の棚とは、このアクリルを使った棚のことだ。正方体のアクリルに本を積め、時には表紙を見せて飾り、それを平台に積み重ねていく。そんな棚が店内に数点あることで、独特の立体感とスタイリッシュさが醸し出されるのだ。

 そして美術書の豊富さは素晴らしい。独立してはいるが地続きの「ロゴス」である。デザインやアートの洋書が表紙を見せた陳列で贅沢に並ぶ。片っ端からパラパラめくっていると、誰でもおなかいっぱいになれるバイキングに来たような感覚に陥る。本を買おうと買うまいと、ぐるっと一周するだけで満足できてしまう、不思議な本屋さんだ。

今の時期は手帳やカレンダー、そしてクリスマスプレゼント用の本が豊富。雑貨屋さんもいいけれど、ここなら他の人とは違う逸品が見つかるだろう。
(奥山)

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2008年11月16日 (日)

日曜ミニコミ誌!/第7回文学フリマに行ってきた

 本来ならば今日は月に一度の「冠婚葬祭ビジネスへの視線」の日である。しかし「日曜ミニコミ誌!」としてこのイベントの報告を載せないわけにはいかず、さらに連載名じたいが日曜日のアップを強制しているため、小松さんにすごい勢いで平謝りし、この日を譲っていただいた。

 「文学フリマ」とは文学限定の同人誌即売会で、2002年に始まった。今年で7回目になる。文学フリマホームページの「理念」に「既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表できる「場」を提供すること、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」をつくることを目的としたイベントです」とあるが、アマプロ問わず同じ幅のブースを与えられ、同じ立場で売り手になっている光景を目の当たりにすると、「文学ってまだまだ元気になれるのかも?」と感動すら覚えた。
 ブースは売り子が二人座れる程度のスペースが与えられ、役150団体が参加していた。10時半から開場を待つ人の列に加わったが、既に50人程度が並んでおり、最初から熱気を感じさせた。11時に開場すると、100人程度になった列がゆっくりと動き始め、30分後には超満員に。コミケの身動き取れなさには負けるが、「文学」と名のつくイベントでこれだけの大盛況振りを見たことがないだけに、驚きが絶えなかった。男女比は作り手が男性6割の女性4割、お客が男性9割の女性1割といったところ。いつも思うのだがこの手のイベントはどうして女性が少ないのだろうか。筆者自身、書き仕事をしているとよく男性に間違われることとあわせて疑問である。

 会場では講談社の主宰する「東浩紀のゼロアカ道場」の関門としての同人誌販売も行われていた。若き批評家たちが冊子の販売数を競うのだ(詳しくはこちらのHP参照)。ざっと立ち読みしたあとに投票的に一冊買ったのが、『ケフィア』(project1980)。関門としてもトップで通過したようだ。フォントの小ささにまで熱意がこもっているこの雑誌、とくに「ゼロ年代的広告論」が出色の出来ではと感じた。個人的に興味がひかれたのは「擬似同期化するファッションの世界」。いつもは話題の外にある批評家たちのファッションについて、内輪的に語っているのが面白い。同人誌にしかやれないことだろう。

 筆者の狙いは、2階でも独特の空気を放っていた一列。名づけるなら「オンリーワン」な一群だ。コンセプト、企画ともに「文芸」「批評」「コラム」などに分類できない、いわば世界に一つ(多分)の専門誌を作る人々のブースである。
 本連載で紹介させていただいた方々の出品から見ると、ミニコミ界では有名な『野宿野郎』が新作『風呂なし野郎』を販売。文字通り「住んでるところに風呂がついてない」人々が送る風呂私生活の数々は、不思議と悲壮感を出しておらず、むしろそれを楽しんでいるかのように見える。コンセプトとしての「野宿」とのつながりが垣間見えた。フリーペーパー『愛情通信』も新作(vol.20)が出来立てで、いつもながら生活に根付いたレポートが面白い。「計画生活」という記事中では、帰宅してからのスケジュールに「ゴミ拾う(20こ)」という記述があり人目もはばからず笑ってしまった。さらに同じ「愛情通信」のブースでは『スケベなのは悪いことじゃない』というフリーペーパーを配る女性がいて、新たな「オンリーワン」の可能性を感じた。そして『どくろく』(武蔵野ヘルスセンター)は中央線の車窓から発見した小さな変化などを紹介するフリーペーパーをまとめた『週刊車窓』を販売。中央線利用者なら誰でも心当たりのある(しかし他人との会話には絶対にのぼることのない)話題満載だ。そして他にも様々な表現者たちと知り合えた。順に本連載で紹介をさせていただければと思う。

 今年の流行語大賞にもノミネートされた誌名を持つ『ロスジェネ』ブースでは、作り手たちがかわるがわるに店番をし、活発なオーラを漂わせていた。秋葉原での事件を扱った論評が主題の増刊号は、作り手も買い手も20代後半~30代が多い(見渡した限り)文学フリマでこそ、販売する価値があろう。同年代性を大事にした誌面づくりも「オンリーワン」だ。

年々参加者の数を増しているという文学フリマ、次回は来年5月に開催される。「私(俺)だからこそ作れる同人誌」が、もっともっと増えていくだろうことが嬉しく、楽しみだ。(奥山)

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2008年11月15日 (土)

ブレンダがゆく/鬼気迫る自分の死を実感して(1)

事件が起きた時に、相手は男4人だったので、

私は、瞬時に殺されるなと思った。

そこで、感じた気持ちというのは、人生を変えるものだった。

あれから、人生に未練のないよう。明日死んでもいいように生きている。

それは、私にとっての大きな変化。

ただし、いつも書いているが明日死んでもいいと思えるのは子供がいないから。私の変わりはいくらでもいる。夫婦でさえも他人だし、離婚も再婚もできるし。親子は、一人っ子ではなければ他に子供もいる、そしてまた作ることも可能である場合もある。もちろんその人、というのは、ひとりしかいないのだけれど。

私は、意外とこういうさめた考え方なのだ。
でも、子供だけには、親の変わりは誰もいない。
親が守ってくれないと子供はとてもつらい。20歳を過ぎたって、30歳を過ぎたってその年齢なりにそうだと思う。
私の友人で両親を失った人の生きる悲しみの姿からそれを学んだ。

彼女は言っている、孤児がどんな家庭に貰われたとしても、両親を失った心が癒されることはないと。

そんな話を聞いて私が考えたこと。
聞いた話や新聞で読んだ情報と違って、目の前にある現実ほど説得力のある物はない。

その友人は、詳しくは、聞くことを私もためらったが、運悪くご両親が病気で亡くなったようだった。
お母様が亡くなる時の状況とその悲しみを聞いて、語りたくないことでも、心に秘めた傷を誰かにさらけ出すことで、癒しが訪れることもあるのかもしれないと思って、私は、必死の真摯さで聞いた。

そして、いろいろな結果でそのような状況になったものの。

残された子供の苦しみは、想像を遥かに絶するものとなるので

子供がもしかして、孤児になるような状況下で子供を作るべきではない。
そして、いずれの理由にせよ片親という状況も実は、危ういのだ。
必然的な状況下ではなく、上記のような状況に至るのは、親のエゴだ。というようなことまで語った。

そんな中、最近衝撃的な真実が発覚した。(つづく)

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2008年11月13日 (木)

世界中から入館者が押し寄せる福島の小さな博物館/アウシュヴィッツ平和博物館

Photo  ポーランド政府から叙勲された日本人はまれである。彼ら国際正義の人々が今年7月から3ヶ月ほど、聖コルベ師のペン画11枚を東北で展示した。長崎時代の1枚もあった。聖コルベ師が身代わりを申し出た瞬間を再現した1枚もあった。叙勲者の1人である福島県白河市のアウシュヴィッツ平和博物館の我妻英司学芸員(44)は、原画貸し出しと原画展開催を呼びかける。

 東北の玄関・白河にあるアウシュヴィッツ平和博物館には海外からの来客もある。ニュージーランド、ポーランド、イスラエル、アメリカ、フランスなど。皆口コミで聞きつけてやってくる。共通の思いが彼らにある。それはナチスの蛮行の記憶を風化させないこと。
「今年の夏の原画展をカトリック新聞が紹介してくれまして、最近は教会関係者の入場者がぽつぽつ増えてきました」
 長野にあった200年以上前の古民家を移転させ、地元ボランティアの手も借りて、ドイツ軍の狂気を今に伝える中心人物の1人が我妻英司さんである。我妻さんがアウシュヴィッツ平和記念館に勤務するようになったのは2000年。英国で4年ほど日本語教師をして帰国してまもなくだった。当時、まだ栃木県塩谷町にあった。
 故・青木進々初代館長はデザイナーとして何度も渡欧。ポーランドでアウシュヴィッツ収容所内での実態、とくに無垢な子供たちの悲劇に触れて衝撃を受け、彼らそがその後なぜ灰にされたのか。このことを訴えるために、ポーランド政府からアウシュヴィッツの遺品を借り受けて、全国巡回展をした。この経験が今の白河にある博物館に生きた。青木進々さんは2002年に食道がんで他界したが、白河にある現在の博物館は青木館長の遺志を継承するボランティアの善意が支えている。地元白河カトリック教会高橋昌神父もその1人である。
 2005年に強制収容所から脱走した生還者をポーランドから招待して福島県各地で講演会を開いた。80歳を過ぎた元囚人はワルシャワに戻ると世界一小さな日本の博物館を大統領府に伝え、それが縁になって、アウシュヴィッツ平和博物の小渕館長以下4人の日本人はポーランド大統領からじきじきに功績男爵十字勲章をもらう栄誉に浴した。

 同館の個人サポーターは年に3000円。団体は一口3000円。入会のメリットは、無料で入館できるようになること。ニュースレターを無料購読できることである。現在の入館者は年に3000人。館内にはアンネの日記を残したアンネ関係の資料もある。青少年の教育的効果が期待できるので、今後は学校関係の団体さんにも薦めたいと吾妻さんは話し、「館を維持していくためにはまだまだ少ないサポーター会員と入館者を増やす必要があります。日本中のカトリック教会に貸し出したいのです。コルベ神父と同じ部屋にいたポーランド人画家が残した作品です。11枚の原画を見て頂きたいと願っています」と訴える。

コルベ神父原画展の貸し出しの相談はアウシュヴィッツ平和博物館 TEL 0248-28-2108 / FAX 0248-21-9068公式サイトはhttp://www.am-j.or.jp/index2.htm 全国の教会や教育機関からの支援をお待ちしている。

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2008年11月12日 (水)

解散総選挙はいつなんだ!

実はその結果を踏まえて出そうと考えている書籍がいくつかある。何しろ今度の選挙は政権交代があるかもしれないしないかもしれない。しかも首相は明日解散するかもしれない。すると出したタイミングによって一挙に陳腐化する内容やタイトルになりかねず、それを避けるとインパクトある内容とならない。だから待っている。知り合いの大手版元の編集者も同じような種類の作品を抱えていて嘆いている。

そもそも解散風は今年冒頭にも吹いた。したがってそこをやり過ごし福田政権の様子を見て……と待っていたら麻生政権へ。総裁選の過程から新聞が早期解散を煽り始めて今度こその準備を始めたら麻生さんが居座ってしまった。何やら年内解散はないとの報道に切り替わっている。

しかしそれも信用できない。そもそも麻生首相による10月頃までの解散は各社ともかなりの確信を持って打ったネタだ。首相の意図を読み違えたか変心か、おそらくその両方だろうけど今のところ新聞各社は「やるぜ」と書いてしまった言い訳&後講釈に追われている。それが目的である以上は「やりそうにない」との記述にならざるを得ない。現にテレビでも事前運動がらみで自粛していた衆議院議員のゲスト出演を解禁している。
だから不安なのだ。新聞記者は一方で年内解散年始総選挙の予定稿を用意していると教えてくれるし、そもそも7条解散は与党が有利になる時にするから意味があるわけで野党も準備万端の際にやるはずがない。

解散風を吹かす→しない風を吹かす→民主党が旅装を解く→突然解散

は十分あり得るのだ。だから書籍の準備も進めている。

といいつつ任期満了まで選挙がない可能性も十分あるわけだから麻生さん何とかして下さい。来年9月まで出版できなくなる。いや総選挙後の様子を見て出すとなると最短で11月。おいおいそこまで小社の経営が持つかよ。持たせるつもりだけれども

問題はまだある。政権交代したら大幅な加筆も必要となりそうな点。何しろ55年体制以後事実上初の交代だから何が起こるかわからないので落ち着いたところで出したいけど何をもって落ち着くとするかもわからない。その点自公政権が続いた方が読める分だけ助かる。ここはぜひ自公で過半数を取っていただきたい……とする零細経営者としての私と自民大嫌いの素の私が同居している。(編集長)

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2008年11月11日 (火)

杉並一家放火殺人事件の現場を歩く

Suginami  1986年11月8日午前4時過ぎ、伊藤正之介さんの自宅にもなっていた3階建てマンションが炎に包まれた。火は2時間後に消し止められたものの大人3人、幼児1人、計4人の絞殺死体が見つかる。殺されていたのは、出火したビルの所有者であり建設会社社長でもある69歳の男性と内縁の妻、次男の27歳の妻と2歳の娘だった。自宅の車が消えており、行方が分からないことから警察はすぐに次男を重要参考人として指名手配した。
「火事に気づかなかったんですよ。近所が騒がしくなって、外に出てみたら火事でね。うちの隣も伊藤さんの事務所と資材置き場になっていたから、こちらに放火されたら危なかったなあと思います」
 近所の女性は、当時の事件についてそう語ってくれた。
 自分の妻と娘とと父親、さらにその内縁の妻を絞殺し、灯油を部屋にばらまいて放火するという残虐な犯行にメディアは色めきたった。しかも犯人と目された次男は1500万円もの金を銀行から引き出し逃亡していた。すでに事件当日の夕刊では、伊藤さんの長男が事件の十数年前に交通事故で亡くなり、次男も半年ほど前に車を運転中に飛び出した子どもをよけようとして十数メートルの土手を転落、その事故の影響で記憶喪失に陥ったこと報じている。
 次男を後継者として期待をかけていた父親は、この交通事故に大きなショックを受けたようだ。その様子について、1986年11月8日の朝日新聞夕刊は次のように報じた。「伊藤さんは『あいつはもう元に戻らないかもしれない』『おかしくなってしまった』など古参の従業員にこぼしながら涙ぐむこともあったという。
 特に最近は『頭が痛い』と訴えることが多く、話しかけても聞いているのかいないのかわからず、ほとんど仕事にならない状態。いらだった伊藤さんが『しっかりしろ』と声を荒げることもあったという」

 派手な逃亡劇だったが、翌日の午前10時過ぎ仙台のインターチェンジで検問中の警官に彼はあっさりと捕まり、4人の殺しを自供する。子ども教育問題で妻とケンカし、カッとなって殺害。さらに1人残る子どもがふびんだと思い絞め殺した。その後、父親に自首について相談したが相手にされなかったので父親とその内縁の妻も殺した。当初、次男は犯行の動機について、このように語っていたという。4人を殺すのは貧弱な理由だが、つじつまが合わないわけではないというとこか。
 しかし起訴の段階で犯行動機は一変する。
 最初に妻と教育問題でもめていたのは事実だが、殺人のきっかけは「この子にはあなたの血なんか入っていない。別の男の子ども」という妻の一言だった。これなら2歳の我が子を絞め殺した理由もわかる。
 さらに犯行翌日の夜、父親に殺人を打ち上けたが「お前はもともとオレの子ではない。どうなろうと知ったことではない」と言われ逆上して殺害。さらに父親の子どもではないことを隠されと思い、内縁の妻も殺したという。その4日後に4人の遺体を1階の寝室に運び灯油をまいて火を付けたとされる。
 衝撃的な話だが、にわかには信じられない話でもある。しかし、このような話を作る理由がないのだ。この話によって被告は死刑の求刑から無期懲役を勝ち取ったが、供述を裁判所に提出したのは、当初の動機では弱いと当人を追求した検察である。弁護士サイドからの訴えではない。わざわざ情状酌量になるような話を、検察が作り上げるはずもない。
 ならば当人が「作った」のかというと、それも信じがたい。本気で減刑を狙うなら交通事故の後遺症があったのだから、弁護士の主張する心神喪失状態を演じればよかったはずだ。しかし彼は犯行を細部までしっかり証言した。しかも1565万円もの金を引き出したものの、火を付けた日の夕方にはほぼ全額を山林に投げ捨てている。本気で逃げる気なら逃走資金となる金を手放すわけがない。逃走というより、死に場所を探していたという方がピッタリくる行動だ。

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2008年11月10日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/第6回 30歳・男性・正社員(後編)

 (前回からの続き)それから特にやりたいことも見つからなかったんですが工業系に進んでしまったので、実家に帰って父親の仕事を手伝いました。父親は嬉しがってましたね。当然跡継ぎ候補になりましたが、私は遅くにできた子だったので父親から学べる時間があまりないわけです。加えて父親の頭に白髪が増えてきたりどんどん体力がなくなってくるのを見るにつけ、焦って怖くなってくるんですね。父親がいなくなったらなんでも1人でやらなきゃならない。責任も負う。当たり前の話ですよね、経営者なんだから。でも、その時期が迫っていることを思い知らされて、怖かったんです。
 そんな矢先、父親が手首を骨折して入院したんです。病院に通って指示を貰い、各従業員に申し送ってたんですが、言われたことをただ伝えて仕事を回す、それだけでもすごく大変だったんです。普段の父親ならプラスで現場にもガンガン行っているわけですから、改めて「すごいな」と感じました。で、なんというのかな、ムリだな、こういうふうにはなれないな、と思ったんです。それに手首の手術の時に担架で運ばれていく父親を見て、もうたまらなかったんですね。横に母親もいたんですが、大泣きしてしまったんです。「いずれこうなるんだぞ」っていうのを見せつけられた感じがしました。それから、そのまま仕事をやっていくのが悩みでしかなくなってきたんです。
 本当に申し訳ないし、父親を助けたい気持ちもあったんですが、堪えられなくなって母親に打ち明けました。母親は残念がってました。そうですよね、男が生まれるまでわざわざ待って、大学まで入れて。

 で、自立というより逃げでしかないんですが、関東に出てきたんです。今は正社員で働けてます。残業代は出てません。管理能力が低いと思われちゃうんで。会社の寮に住んでるんで、電車に乗るロスタイムがなくて、その面ではいいですね。
 距離を置いたら楽になったというか、今は地元に帰って父親の仕事を手伝うのが楽しいですね。手伝いたいばっかりに、有給ちょっと多めにとったりとかしてね。母親も、東京のほうは冬も雪の心配なく施工できていいね、って言ってくれてます。最初は逃げで上京してきたけど、今考えるとそれで安定したのかな、という思いがあります。
 最近は父親と仕事以外の話をするようになりました。今までは仕事の話が主で、父親がどういう人間なのかを考えたりする機会がなかったんです。でも、この前初めてサシで飲んだらすごく新鮮で、ほら、実家だったら家族と団らんになるじゃないですか、そうでなく二人で飲む、ということを味わってみたら、今更、父親自身に興味を持ち始めたんですよ。この年になってきちんと親と向き合えるようになったというか。色々知ってみると、「ああ、この人の子なんだな」と実感します。父親もあんまり人付き合いが良くないし、不器用だし。いろいろ、そこそこ、似ているところはありますね。…なんだか父親の話ばっかりになっちゃいましたね(笑)

 今は、急に携帯電話が鳴ると「悪い知らせなのでは?」とびくびくしてしまう自分がいます。職場では携帯禁止なんですよ。それがすごくもどかしいです。なにかあったとしても、すぐに電話に出られないじゃないですか。それが、怖いです。(聞き手:奥山)

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2008年11月 9日 (日)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第21回 非常扉が開いても死

20a_11  非常階段9階を撮ったものだ。この写真でKBさんが注目したのは、ドアを消防隊がエンジンカッターで切断して開けた開口部の横、ドアノブの下に描かれたチョークの丸だった。
「ここはドアの鍵の部分です。恐らく火災のときには施錠されていたのでしょう。消防隊がカッターを使わなければ客室部分に入れなかったのは、熱でドアが膨張していた可能性もあります。しかしカッターで切った場所を考えると、やはり切り開けた開口から鍵を開けたのではないでしょうか。
 また、ドアノブがへし折れています。推測ですが、消防隊はドアノブを回したが扉が開かず、最初、ノブが壊れたのかとバールを差し込んでこじ開けようとしたのかもしれません」
 じつはこの1つ上10階の客の中には、非常階段の扉までたどり着いたものの階段に出られなかった人もいた。それは煙の中でドアノブが探せなかったからだ。ドアノブさえ探せない状況で鍵を開けることは、なかなか難しかったと思われる。
 ただし9階では非常口が開いたがための悲劇も起こっている。非常口のドアを開けた途端、新鮮な空気が内部に入り込み爆発的な延焼「フラッシュ・オーバー」が起こり、その爆風に吹き飛ばされて死亡した客がいたのである。基本的に非常扉は開けやすい方がよい。しかし状況によっては、ドアが開いたことで亡くなってしまうケースもあるのだ。
 KBさんは「9F」と書かれた紙の上、ライトが付いていたと思われる壁の穴に着目した。
「意図的に外したのでなければ、これはライトのカバーが溶けたのではないでしょうか。建築家の友人は、こうしたライトの器具は700度ぐらいで溶けると聞いています。つまり、この踊り場もかなりの熱に襲われたのだと思います」
 一見、部屋ほどの惨状にではない非常階段も地獄のような状況だったのである。(大畑)

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2008年11月 8日 (土)

書評『小林多喜二と蟹工船』(河出書房新社)

  『蟹工74018船』ブームといわれてしばらく経つ。

 書店営業からの目線で変遷を追うと、今年春には大手書店で関連新聞記事を掲げたフェアが展開されはじめ、5月にはファミリー向け郊外書店にも飛び火し、秋にはいったん落ち着いた感がある。しかし三省堂神保町本店などではまだまだフェアをやっている。

 なぜ今『蟹工船』なのか、と様々なメディアが取り上げた。非正規社員(場合によっては正社員)の過酷な労働状況が浮き彫りになってきた昨今、80年も前の作品でありながら急に現実味を帯びてきたらしい。「ありそうな話」として売れているというのなら、ケータイ小説の売れ方とつながるような気もする。もはや小説は半ノンフィクションでないと売れないのか、と思っていた矢先にこの本が出版された。『小林多喜二と蟹工船』。

 内容は小林多喜二自身についてのことや中野重治による回顧録、多喜二のほかの作品、プロレタリア文学のアンソロジーと豊富だが、その中でも浅尾大輔氏と陣野俊史氏の対談「多喜二の何をひきつぐべきか」は、世相を背景としたブームとして論じるにとどまることなく、『蟹工船』を文学として論じようとする試みだ。
 対談内でも触れられているが、『蟹工船』を読んだときに感じるのはまず「主人公がいない」ということだろう。船内の集団一人一人に言及する箇所はあるが、誰の視線にも内面にも固執することなく物語は進んでいく。まるでコメントのないドキュメンタリー映画だ。そんな中、集団共通の「敵」として描かれる現場監督の浅川だけが、暴君としてのキャラを獲得している。そこで主人公である集団の個々が描かれていないのではないかという問題点が出てくるわけだが、浅尾氏は「(労働運動というのは)みんなが支えていくという意味ではもともと無名の運動だし、ただ、そこには必ず何かしらの意味と役割があって、その集団性=無名性は批判されるべきものじゃない」という。この言葉には、労働運動家としての浅尾氏の実感がかなりこもっているように思えた。
 これは反貧困の活動に参加しているある知人(20代)の言葉だが、「同じ問題をみんなで共有したいという思いはあるけど、『連帯』とか『団結』という用語には違和感がある」というのだ。置かれた状況は一人一人違う。働いてもお金がないのかもしれないし、そもそも働けないのかもしれないし、金はあっても使う時間がないかもしれない。そんな一人一人が「なんかもやもやする、もう限界だ、生きづらい」という動機だけで集まる場所が、今必要とされているのだ。一ミリの揺るぎもない明確な目的を持つイメージのある『連帯』や『団結』は、場所を定義し名指しする。場所が名付けられると、ちょっとコンセプトが違えば排除される人も出てくるわけで、それ自体を息苦しいと思う人も出てくるわけで、それでは本末転倒である。今広く求められているのは、一つの偉大な目的に向かって突っ走っていく場ではなく(もちろんそういった場も必要不可欠ではあるが)、「ちょっとつまづいてしまった」時とか、「不満があるんだけどこれってダダこねてるだけなんだろうか、それとも誰かのせいなのか」と悶々した時とかに寄れる場であろう。それは維持するのがなかなか難しい場ではあると思う、なにせ名付けられていないのだから、人々の出入りが激しいだろうし、不安定なコミュニティになること必須である。
 『蟹工船』の舞台は、集団が寝食を共にする出口のない船だ。名付けるにたやすい場である。中で働く一人ひとりにも違う人生があるし、それについては小説のそこかしこで言及されている。しかし個人にも集団にも主人公の名を与えることなく、俯瞰もすることなく、淡々と描写される文章が、その無個性さこそが、今の状況にあえぐ人々の心を掴んだのではないか。

 『蟹工船』が一番の有名作品であることは間違いないプロレタリア文学。しかし他の作品ではなく『蟹工船』がブームになったことが偶然ではないと思わせる一冊である。(奥山)

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2008年11月 6日 (木)

ロシアの横暴/第4回 政治家殺害と塩を買い占める民衆(2)

 経済危機がロシアに与えた影響を、日本のメディアが正しく伝えているわけでもない。
 カフカスセンターというインターネットサイトが近々ロシアで外貨購入制限制度が復活するだろう、と伝えている。カフカスセンターは過激な反ロシアサイトだが、ものの見方考え方、話のもっていきようがソ連的で笑ってしまうところがある。それでも時々はあれ?というような裏情報も載っている。
 その一つが外貨購入制限制度復活である。これがもし実施されていればいくらなんでも日本の新聞にも出るはずだがまだ何も届いていない。でも、全くのガセではなさそうだ。その後の情報によれば人々は大蔵大臣の「慌てないで、大丈夫」の呼びかけには耳を貸さず、銀行からお金を引き出し、モノを買いあさっているという。モノとは塩・マッチなど腐らない日用品である。塩は必需品だから必ず換金できるからだ。一気に中世どころか、出稼ぎ者の給料が塩だった古代に戻ったようなものだ。
 もともとロシア人は伝統的にタンス預金民族で、現金が見えない銀行預金は信用していない。そのタンス預金をおろして塩を買っているのは近々タンス預金も紙くずになることを恐れているからだ。
 現在の(1月ぐらい前までの)ロシア外貨売買の様子はといえば、各通りごとに両替屋がひしめいていて、外貨(主にドルとユーロ)の売り買いは自由である。それがかつてのソ連時代のように、外貨持ち出しが国家によって強力に管理されることになる、というのだから、確かに国会議員が殺されることより大問題だ。ロシアがそれほどの外貨不足に陥っているということの証である。
 外貨両替は銀行の営業時間内であればいくらでもどこででも両替できる現代の日本にいては外貨両替制限とは何のことなのかわからないだろうが、40年ぐらい昔の日本もそうだった。
 まず外貨を手に入れるのに、なぜ外貨が必要なのかを説明する書類が必要である。当然出張や留学など、外国に行く人だけが対象となる。外国に行くことを証明するいくつかの書類を揃えて正当な旅行と確認された者にだけ、1日いくらの計算で最高何日分までかの外貨が両替できる。両替はモスクワにある外貨銀行でのみ取り扱っている。この場合外貨はドルと決まってはおらず、行く先の通貨である。だから日本に行く者には日本円で、ドイツにいく者にはドイツマルクを公式レートで両替していた。
 逆に外国人が外貨をソ連ルーブルに両替するのは簡単にできた。外国人向けホテルには両替所が必ずある。多額に両替すると使い残したときの再両替はできないから気をつけよう、と旅行案内書に書いてあったこともある。これは理論的には可能だが、現実的にはできない、ということで、使い残しを再両替するのには外貨銀行を経なければならないから時間がかかる、よって出国に間に合わないよ、という意味である。当時のソ連は冷戦の最中だったから、戦争に勝つには外貨準備高がモノを言っていたわけだ。

 外貨管理がきびしくなると、当然ヤミ両替が始まる。ソ連末期にはモスクワなど大都市は闇両替の巣窟になっていた。観光客など外国人にそっと近づき、銀行の交換レートの3倍でドルを買う、ともちかける者が街角にたむろしていた。こうした専門の闇両替商以外にも、タクシーの運転手、レストランのウェイトレス、駅の赤帽など、外国人に出会うチャンスが多い者が闇両替に励んでいた。
 一般国民にとって外貨は夢のまた夢、結果、ドルさえあればどんな夢でも叶うような錯覚に陥っていたのだった。そしてソ連が崩壊すると、共産主義と決別したからドルの雨が降ってくると信じていた。ドルのためには何でもするようになった。ソ連崩壊後のロシア(旧ソ連構成国すべて)の拝金主義を支えたのは夢を追った民衆である。外貨購入制限をしていた共産主義が倒れたのだからこれからは自由にドルが買えるからどんどん買おう、と夢を見た。でもそのころにはソ連ルーブルは紙くずになっていたからドルはやっぱり買えなかったけど。
 一体、ロシアはどうなっているのだろう?
 欧米が持ち上げた「共産主義との決別」はロシアに何をもたらしたのか?
 混迷と腐敗、ただそれだけである。
 プーチンの治世中に石油景気が始まった。原油高に乗ってロシアはますます横暴になった。いつかは底をつく地下資源と知ってはいるが、近い将来のこととは感じられないほど潤った。あちこちで新しい油田が発見発掘され、各国が採掘権ほしさにロシアに跪いているではないか、ロシアは永遠だ、などと、なぜかとてもソ連的なものの考え方で石油景気に酔っていた。栄えあるプロレタリアが石油マンになってしまったわけだ。プロレタリアはモノをつくるが、石油マンにモノはつくれない。原油がいつかまた暴落するなんて誰も夢にも思わなかった。石油の値段は上がることもあれば下がることもあるのが資本主義というのに、未だに決別したはずの共産主義的ものの見方考え方でやっていたのだ。
 ドルが買えなくなった民衆が「そのうちかならず換金できる日用品、特に塩」を買いに走ったのは、金融恐慌がくれば紙幣は紙くずであることを知っているからである。金(貴金属)も堅実だが、ドルと同じく真っ先に急騰し、しかも簡単に買えなくなるし、何といったって、ジャガイモを煮るときには金よりも塩の方が価値があるものだ。
 一方エネルギー資源ほしさにロシアの改革を持ち上げて、ちやほやし、ソ連時代の債務も棒引きにしてやった欧米もロシアから石油をとったらあとは正真正銘のガラクタしか残っていないことに今頃になって気がついた。
 ロシアの資本主義は脆弱で、砂上の楼閣そのものだったのに、買いかぶっていた自分たちの読みの甘さがばれてしまった欧米諸国は、頭を抱えていたにちがいない。
 グルジア戦争が始まると西側資本は雪崩を打つようにロシアから逃げ出して行った。戦争は資本引き上げのいい口実となった。独立国家に侵攻するような国で商売をするべきではない、したくない、と言えばかっこよく引ける。「反戦」で逃げる方が「読みが浅くて儲からないことがわかったから撤退する」より見栄えがよいというわけだ。
 もっともやっぱり「ワル」でいえば欧米の方が一段上で、世界を支配するにはロシアというかつての敵、目の上のたんこぶをやっつけなければならない、そのためには思い切り持ち上げておいてある日ドスンと落とすのが効果的、とわかっていたという見方もできなくはない。(川上なつ)

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2008年11月 5日 (水)

ノンフィクションは始めたけれど

水曜のTBSゴールデンはなかなかの鬼門である。
バラエティーとノンフィクションとライトな教養を思いつきのように取って出しする「水トク」(ちゃんと考えてタイトルを付けましょう)がやっと10%を超えた何回か以外がシングルという低視聴率を叩き出し続け7月16日の「食糧危機・日本人が飢える日」の8.5を最後に終了して、翌週から「水曜スペシャル」(ちゃんと考えてタイトルを付けましょう)はノンフィクションショクを強めて再出発したものの初回は6.9と大コケ。CXのヘキサゴン&はねるの厚い壁に到底及ばないのは当然のこととしてTXの「いい旅・夢気分」(7.5)にまで敗北してキー局最下位へと沈んだ。

結局この「水曜スペシャル」は「マグロに魅せられた男」(6.4%)「有名人壮絶介護日記」(10.1%)「熱血警察官24時」12.0%と私がかねてより強く批判している警察ヨイショ番組が何とかまあの数字を残して自然消滅したらしい。今は「地獄を見た芸能人」とか「銀座の母」のスペシャルで続いている。

で、曲がりなりにもノンフィクション風の番組は消えたかというと9時台に移って「水曜ノンフィクション」(ちゃんと考えてタイトルを付けましょう)が始まった。これが初回6.1%、2回目が何と3.6%とゴールデンにあるまじき物凄い数字を叩き出している。

最近はNHKの視聴率がよく全日、ゴールデン、プライムのいずれもで民放キーへ割り込んで2位から1位をうかがっている。正確にはNHKが伸びたというより民放全体の視聴率が下がった結果の現象だ。ではあるもののそうなってみると「NHKは何やっているのか?」と久しぶりに検討したに違いない。すると当然の結果として民放では弱いノンフィクションやドキュメンタリー、報道で数字を取っているとわかる。ならば……とやってみたのでしょう。
でもね。ロケといっても赤坂周辺というような感覚でノンフィクションは作れない。カネはともかく時間がかかるのだ。それを端折ったような番組作りでは誰も見ない。ゴールデンにノンフィクションを持ってきた勇気は買うけれど肝心の作り手に人を得ぬまま「水トク」「水曜スペシャル」を硬派にしたようなものでは却ってなえる。「マグロに魅せられた男」もオイオイだけれどまだ数字は稼げるよ
それより局員は知らないだろうけど命を張ってドキュメンタリーを作っている独立系の制作プロダクションに相談してみたらいかがか。高飛車にではなく頭を下げて。3.6%はあり得ないでしょう。

さて続く10時台の新番組「久米宏のテレビって奴は」まで5.5%とプライム帯にあるまじき低空飛行というか離陸せずというか。報ステに勝てないのはいい。爆笑レッドカーペットも仕方ない。でも「水曜ノンフィクション」「久米宏のテレビって奴は」を平均して4.6%は同時間帯のTXの2時間もの「秘境イリアンジャヤを行く」(5.6%)にさえ及ばずキー最下位では話になるまい。
「水曜ノンフィクション」はかつて「明石家さんちゃんねる」のあった時間帯。さんまへマルナゲドンでシングルを連発した。「久米宏のテレビって奴は」にもマルナゲドンの香りがする。久米さんも久々の登場だから得意の報道で勝負すればいいのに。というか関口宏と久米宏を入れ替えた方がよくないか? 関係ないのか。(編集長)

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2008年11月 4日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/10・24中央大集会

○月×日
 「今こそ政治決断を! JR採用差別問題の解決要求実現をめざす10・24中央大集会」が大成功裡に終了した。
 会場となった日比谷野音はどよめくほどの熱気に包まれ超満員となった。主催者発表によれば、全国から1万1000人という過去最高の参加だったという。
 真摯な挨拶。分かりやすい経過報告。力強い決意表明。切実な訴え。心温まる激励などなど。どれもこれも素晴らしい発言だったが、今のところは「動き」がないので、私達関係者には真新しいことは何もない。
 だが、1047名問題の現状を内外にアピールするという目的は十二分に果たされたはずである。
 以下の発言は後日に知ったことだが、当事者である闘争団員のある家族は「この集会を最後にしたい」と語ったという。
 私は「これこそ本音だろう」と胸が痛んでどうしようもなかった。
 考えてもみよ!! 22年間という長い間、事あるごとに北海道や九州からと、それこそ遠くから大変な思いで上京し、いったいどれほどのご苦労をされてきたことか。
 正念場だ、山場だ、今こそ、今年こそはという場面は幾度となくあった。しかし、その度に、まるで裏切りにでも合ったかのように全てが実を結ぶことはなかった。
 誤解を恐れずにいうが、どんなに覚悟をしていたとはいえ、自分の意志とは逆に翻弄され続けた人生だったといってもいいだろう。それは、国からもJRからも。そして、いっちゃ悪いが、国労本部からもだ。
 こうした人権侵害は、国策のもとに強行された結果なのだから政府が責任を取るのは当然だが、国労指導部もしっかりと後始末をしてもらいたいと考えるのである。
 というのは、もし仮りに、解決に至ったとしよう。大勝利解決に水を差すつもりは毛頭ないが、万が一、闘争団の人達が解決金などの解決内容にどうしても納得がいかないものであるのなら、国労は全財産をなげうってでも彼らに当てて、償う義務があると思うからだ。
 国労の最重要課題と位置づけられたこの問題は、国労運動史の実に三分の一以上を費やした闘いとなった。人間の尊厳を賭けた闘いだといっても過言ではないだろう。労働運動史上未だかつてない空前で壮大な闘いであったことは誰もが認めるはずだ。
 国労は結成されて60何年か経つ。人間でいえば定年である。この問題解決と共に国労は解散してもいいのではないかと思う。財産はキレイさっぱり闘争団に分配して、そこからまた新しくスタートすればよい。
 微力ながらも私達現場(JR本体)も闘争団を支え続けてきた。国労というだけで、理不尽な扱いを受け、差別のされ通しだった。闘いの真只中にいた先輩達も闘い抜いただけで、結果を得ずに次々と退職していなくなっているのが実情だ。
 残された私達とて、あと僅かな歳月しかない。もういいだろう。十分じゃないか、これまでで。甘ちゃんの私は本気でそう思う。ん!? 何か異論があるかい?(斎藤典雄)

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2008年11月 3日 (月)

●ホームレス自らを語る 第12回 自由が一番/M・Kさん(59歳)

1103  (M・Kさんは府中市を流れる多摩川の河川敷に建てた木造小屋で、愛犬のプーちゃんといっしょに暮らしている)
 出身地は宮城県仙台市で、昭和年24年の生まれです。
 父は瀬戸物を扱う商店に勤めて、番頭のようなことをしていました。その父が脊椎カリエスに罹って入院し、それからうちは極端な貧乏生活に陥ります。母は4人の子どもを抱え、病院の下足番や居酒屋の下働きに出ますが、父の入院治療費と家族の生活を賄う分は、とても稼げなくて生活保護を受けていました。
 私ら兄弟も、全員が教科書は市から無償で支給されていました。その頃、周りの子はみんな革のランドセルでしたが、私だけはズックでつくられた布製のランドセルでした。それに給食費が払えませんでね。それが徴収される日は、学校に行かなかったりしました。
 長く患っていた父は、私が中学1年生のときに亡くなります。といっても、生活がよくなるわけでもなく、相変わらずの極貧生活が続きました。私は何となくツッパリグループに入って、授業をサボっては盛り場をウロついたり、他校のツッパリグループとケンカをしたりするようになりました。ただ、本気で不良になるつもりはなくて、少しイキがっていただけですけどね。
 中学を卒業して、仙台市内のレストランにコック見習いで入りました。修行はそれほど辛くはなかったですが、毎日の仕込みが大変でした。マヨネーズ、ハンバーグ、カレールーなどみんな手造りでしたから、その仕込みが私の役目で、どれも長時間掻き混ぜたり、捏ねたりの重労働で大変でしたね。
 そのレストランは一年ほどでやめて、東京に出てきます。東京にそれほど強い憧れがあったわけじゃないですが、一度はその華やかな都会に身を置いてみたいと思っていたんです。

 東京では居酒屋、ヤキトリ屋、スナックで働きました。ずいぶん店を替わりましたよ。長くいた店で1~2年、短いのだと3ヵ月くらい。ほとんどが都内の店でしたが、たまに横浜、川崎の店で働くこともありました。店をやめる理由はいろいろですが、雇い主と給料のことなどで揉めてやめることが多かったですね。まあ、理由付けは何とでもいえますからね。これだけ頻繁に店を替わったということは、私の性格が飽きっぽくて、辛抱のできない性格だったんですよ。
 どこの店でも私はカウンターや板場に入って、肴を調理するのが仕事でした。カウンターの客の受けはよかったですね。お造りの盛り合わせとか、ヤキトリ、それもツクネの評判がよかったです。私が調理を仕切った店では、ヤキトリの冷凍肉は一切使いませんでしたからね。ツクネも肉を捏ねるところから、自分でやりました。そういうところは、妥協しない几帳面な性格なんです。
 仕事柄、酒は好きでした。好みはウィスキーで、自分で飲むときはスナックに行って飲みました。私の店が休みのときなど、夕方の開店から、翌朝まで飲み続けたこともあります。でも、それで酒に溺れるようなことはありませんでしたね。
 そのうちにあるスナックのオーナーママと馴染みになり、いい仲になって同棲するようになりました。彼女のほうが年上でウマが合うというか、彼女にすれば私のたよりなさが母性本能を擽るんだとか言ってましたね。二人ともゆくゆくは、正式に結婚するつもりでした。ところが、同棲を始めて3年目に、彼女が亡くなってしまうんです。理由はあまり話したくありませんね。事件性のある死に方で、思い出すと辛いんです。
(M・Kさんは潤んだ目で虚空を見つめ、しばらく口を噤んだ)
 私が居酒屋やスナックで働いたのは、44歳の年まででした。それからは日雇い作業員をして働くようになりました。深い意味はないですよ。友人に誘われて、そんなのもいいかと思ったからです。包丁を置くのに、特別な感慨はありませんでしたね。
 仕事は手元といって、職人の下についてその仕事を手助けしたり、現場の片付けをしたりする一番下っ端の仕事です。
 あるとき現場で職人から「おい、ジイさん。何をやってんだよ」と言われましてね。まだ、50歳前だったのに、年寄り扱いされて「もう働かなくてもいいか」とホームレスになることにしたんです。
 はじめのうちは新宿や上野の繁華街を転々としていましたが、1年ほどしてこの多摩川の河川敷に落ち着きました。もう、10年になります。
(M・Kさんは手造りの木造小屋に住んでいるが、これが玄人はだしの本格的な小屋だ)
 この小屋は二代目なんです。前のは一昨年の台風のとき、川が増水して1メートルくらい浸水し傾いてしまい、使えなくなったので造り直しました。私ひとりで全部やりました。例の几帳面な性格ですから、どこまでもカッチリしてないと気がすまないんです。
 いまは雑種犬のプーちゃん(牡・6歳)と、ニワトリを2羽飼っています。プーちゃんが可愛らしくてね。どこへ行くのもいっしょです。
 現金収入はアルミ缶の空き缶を集めて、それを売って得ています。週に50㎏くらいは集められ、いまの相場が100円/㎏ですから、週で5000円になる計算です。それだけあれば、贅沢をしなければ食べていけますからね。
 この生活は何ものにも束縛されないし、一度味を覚えたらやめられません。何より自由
だということが一番いいですね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年11月 2日 (日)

日曜ミニコミ誌!/おひとり様の「老後」ではなく、「今」に効く 「どくろく」

11  「愛情通信」ヨンコさんから「面白いですよ!」と薦めてもらった一冊のミニコミ、それが「どくろく」だった。タイトルが不思議だが「どくしんしゃによる どくしんしゃのための ろくでもないざっしです」とある。なるほど縮めて「どくろく」か。中をめくると「特集・ひとり週末ガイド」「実録ひとりクリスマス」など、徹底してお一人様にスポットを当てているのが面白い。ぶっ飛んだテーマとは裏腹に、知性溢れる文体も魅力だ。早速、編集人のあらみさんにインタビューを依頼した。雨の中、九段下駅まで来てくれたあらみさんは、一見真面目な「オトナの女性」。話しぶりも社会人としての礼儀正しさがにじみ出ていて、このような個性的なミニコミを作っているとは思えない。どういった経緯で雑誌を作ろうと思われたのだろうか?
 早速近くのスターバックスでお話を伺った。

--こういったものを作ろうと思ったのは、何がきっかけなんですか?

あ:2006年のことになるんですが、お酒がらみで大失敗したんですよ。酔っぱらってしまって失敗したということが2度続きまして。で、これはダメだな、と。自分は、ダメな人間なんだ、と思ったんです。人間としてかなりでかい穴があるイメージなんですけど、でもこの穴を掘ったということは掘ったぶんの土がそばにあるわけで、その土で何か作れば、穴の方は目立たなくなるんじゃないか。そんな風に思ったんです。それが「何か作ろう」と思ったきっかけですね。

--なにか作るとすれば様々な表現方法があるわけですけど、そんな中で雑誌という形態を選んだのはなぜですか?

あ:いろんなミニコミ誌が集まる文学フリマというところに行ったのがはじまりでした。
皆さん魅力的な雑誌を様々作られてるんですが、やはりプロが作るわけではないので、普段見かけるような雑誌の美しさはないですよね。でも、内容はものすごく面白くて、こういう物を私もやりたい! と思ったんです。内容は、酒で失敗したことがネックになっているので私と同じような境遇の人、独身で、酔っぱらってやらかしちゃうことが多くて…という人が読むようなものにしたんです。

--酒の絡んだ記事、多いですね。こちらに2号があります。例えば「飲み過ぎ寝過ごし終着駅サバイバル」という記事がありますが、こちらはもし寝過ごして終着駅まで行ってしまったらどこで夜を明かすか、というガイドですね。

あ:こちらは読んでくださっている方にも人気の記事なんです。終着駅でしかも夜中って、本当に何もないところが多いじゃないですか。2号は東葉勝田台編でしたが、1号は高尾と青梅編で、高尾には何回も漂着したことがあったんですが、青梅には行ったことが無かったんです。それが記事を書いた後日、本当に青梅まで行ってしまったんですよ、酔っぱらって寝過ごして。初めての経験だったんですけど、思わぬところで自分の書いた物が役に立ちましたね。取材したとおりに、タクシー乗って漫画喫茶行って、そこで過ごしました。3号では千葉方面を攻めようと思っています。実際に最近また千葉の方へ行ってしまって。それを元に書こうと思っています。

--そして次の記事も酔っぱらいにお役立ちな「白タクさん密着インタビュー」。白タクって、どうやったら乗れるんですか?

あ:終電時間に終着駅付近で路線図を見ていたり、キョロキョロしている人というのを捕まえるんだそうです。私もそうやってキャッチされました。そして2~3人、そういうお客を集めて乗り合わせをさせるんです。私の場合、2回お世話になって、しかも2回とも同じ人たちから声をかけられたので顔見知りになれて、インタビューの運びとなりました。

--9200字ということで、たっぷり書かれてますよね。白タクにここまで密着して(というか、客として乗って)事情を聞き出したって記事は、なかなか見ないですよ。会話内容も、すごく詳しく載ってるんですが…

あ:了解を得て、録音しています。実は、インタビューさせていただいた運転手さんにまだ「どくろく」を渡せてなくて。記事にしたのに渡せてないっていうのは気がかりなんですが、渡すためにはまた終電時間に終着駅まで行ってウロウロしないと、と思うと(笑)。でも、本当に渡したいとは思っているんですよね。「そろそろ白タク辞めたい」とおっしゃってたので、早くしないと。

--他にも「孤独死NOW」など、ひとり感たっぷりの企画が充実した2号ですが、第3号はもう進行してるんでしょうか?

あ:本当はこの秋にある文学フリマに間に合うように作りたかったんですが、3号は詰め込みすぎな感があって、間に合うかどうか…。実は他に作っているフリーペーパーもあって、中央線の窓から見える些細な情報を載せているんですが--例えばあそこの柿の木の柿がなりました!とか、あそこのネオンが切れてます!とか、すっごくくだらないんですけど--そういうものを一週間に一度出しているんですが、それを夏にまとめて冊子にしたんです。それを、3号が間に合わなければ2号と一緒に出品しようかな、と思っています。

3号にさらに期待したい「どくろく」は、模索舎、タコシェ、バサラブックスで売っているとのこと。1号が250円(在庫無し)、2号が350円。(聞き手:奥山)

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