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2008年10月

2008年10月30日 (木)

ホームレス自らを語る 第11回 身も心もボロボロだけど

 オレの人生は、「聞くも涙、語るも涙の物語」でね。まあ、聞いてくれ。
 生まれは千葉県らしい。らしいというのは、オレが生まれて間もなく、両親とも病気で亡くなってしまったからだ。それでオレは2歳のときに里子に出された。
 もらわれていった先は、八丈島の老夫婦の家だ。その老夫婦は元々小笠原で暮らしていたんだが、敗戦で島が米軍に接収され、それで八丈島に移って来た人たちだった。だから、すごく貧しい生活でね。食べるものがないのが幾日も続いたり、想像を絶する暮らしぶりだったね。
 オレが里子だってことは、小学校入学の前に教えられた。呆然自失というか、頭の中が真っ白になったな。
 そんな家が何でオレを里子にもらったのかというと、将来の稼ぎ手にするためだったんだ。だから、小学生になると家の手伝いをさせられた。学校に行けばイジメに遭うし、クラスで誰かの物がなくなると、みんなオレのせいにされた。貧乏のうえに里子だからね。
 中学生になると「学校なんか行かなくていい」といわれ、家の仕事の手伝いをさせられた。こんな家は逃げ出そうと、幾度思ったか知れない。しかし、八丈は島だから、島外に逃げ出さないと意味がない。中学生ではそんな金を持ってないしね。
 中学を卒業して、地元の建設会社に就職した。島外に働きに出ることは、里親が許さないからね。給料も全額を家に入れさせられた。将来に何の夢もない毎日だった。それで少しずつカネをクスねては、1万円を貯めたんだ。そのカネを握り締めて、家出と島外への脱出を図った。19歳のときのことだ。

 オレが逃げ出した先は東京新宿歌舞伎町。そこでキャバレーのボーイ募集の看板を見て交渉すると、その場で採用されて寮の部屋をあてがわれた。その店で23歳まで働いて、池袋の炉端焼きの店に移った。
 当時は炉端焼きがブームで、オレは魚を捌いたり、調理をするのが好きだったからね。オレの料理は客に評判がよくて、働きぶりも真面目だったから、オーナーに気に入られて「次の支店を出したら、店長をまかせるから」と言われていた。
 その店に毎晩のように通ってくる女の客がいてね。たがいに好き合うようになった。それでオレのアパートで同棲するようになる。彼女はキャバレーのホステスをして働いている女だった。
 ある晩、仕事からアパートに帰ってみると、女の姿がなくて彼女の荷物も消えていた。「やられた」と思ったね。オレの実印もなくなっていた。そのころオレには400万円の預金があって、その通帳だけは別に隠してあったから、それは無事だった。女はオレの実印を使って、マチ金(融)から300万円のカネを引き出して姿をくらましていた。
 そのマチ金の取り立てが、炉端焼きの店にまで押しかけてくるようになってね。やつらはあまりにしつこいし、店にも迷惑がかかるから、女の借りたカネを清算することにしたんだ。元利合計で385万円も払わされた。オレが何年もかけて貯めた400万円が、あっという間にパーだ。ショックだったよ。29歳のときのことだったかな。
 それで炉端焼きの店には居づらくなって、水道の配管を専門にする工務店に転職した。社長は背中一面に彫り物を入れていて、明らかな組関係者。いかがわしげな会社だった。
 ある日、社長が「仕事上の保険にかけるから、おまえの戸籍謄本を取ってこい」と言うから、言われたとおりにした。それから何年かして、謄本を取る必要があって見たら、オレがいつの間にか韓国の女性と結婚していることになっているんだ。社長の仕業に違いない。それで問い詰めても「オレは知らん」の一点張り。当時、偽装結婚の謝礼は100万円が相場だったから、そのカネは社長のフトコロに入ったわけだ。
 それから34歳のときのことだった。その日は給料日で、朝出勤したら工務店の中がもぬけの殻。社長一家が夜逃げをしてしまったんだ。1ヵ月分の給料はフイになるし、おまけに寮費として給料から引かれていたアパート代が、大家に支払われていなかったとかで、それも支払わされた。“泣き面に蜂”とはこのことだよね。

 次は信州だ。ちょうど長野オリンピックが間近のときで、その施設建設の仕事についた。ある日、仕事を終えて自転車で宿舎に帰る途中で、歩道の沿石に乗り上げて転倒し、骨折の大ケガを負ってしまった。24日間入院した。通勤途中のケガだから、労災の対象になって医療費と入院費が支払われた。労災だから休業補償も出ているはずなんだが、工務店の社長に聞いても、「そんなのは支払われていないよ」と惚けるんだ。彼がネコババしたに違いないんだよね。
 それで東京に戻って日雇いの仕事を始めたら、こんどはヘルニアになってしまった。それも頚椎と腰椎の2ヵ所で、2回の手術を受けた。それで働けなくなった。日雇い仕事の肉体労働は当然できないし、同じ姿勢で座っているだけでも、1時間もすると首と腰が痺れて痛くなってくるからね。
 幾度も、幾度も、人に騙され、裏切られて、もう、身も、心も、ボロボロだよ。疲れた。人間不信にも陥っているしね。
 ……だけど、オレもまだ51歳だからね。このままじゃ終わりたくないよ。何とか、もうひと花咲かせたいと思っている。この身体で何ができるのか、ずっと考えているんだけどね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月29日 (水)

原ジャパンとは呼ぶまい

イチロー選手の「WBCを北京のリベンジの場としてとらえたら、チームの足並みはそろわない」発言は図らずもWBCの正体を示している。ズバリそれは米国メジャーリーグベースボール(MLB)の大会という性格である。
そもそも1回目からClassicという名がついているわけで。大リーグのスペシャルイベントだぞと明記しているに等しい。時期も大リーグ開催前。場所もアメリカ。
対するイチロー選手言うところの「北京」とは五輪の大会である。周知のように次回ロンドン大会から野球が正式競技でなくなる。おそらく最大の理由は「ロンドンで野球をやってどうする」だろうが公式見解として見られるうちの1つが大リーグの不参加であろう。根本的な問題でないとしてもIOCとしては我慢がなるまい。似たような関係にIOCとFIFAがあるにはある。しかしFIFAはオーバーエージ枠を渋々ながら認めたし世界の競技国・地域数が野球と比較にならない。
で、イチロー選手はもはやMLBの一員として発想する。するとせいぜい3Aクラスが出場するにすぎない「北京」とWBCでは格が違う。ないしは別種である。したがって北京の延長線上(リベンジ)にWBCを置けばWBCをMLBの大会ととらえ、ゆえに参加でき、参加もしようとする「チーム」の主力を構成するであろう日本人大リーガーの「足並みはそろわない」。この「足並み」とは月並みなチームワークといった意味ではなさそうだ。現に前回のWBCでイチロー選手は事実上特別扱いされていた。今回は彼以外にも多くの日本人大リーガーがいる。ポジションを考えると

●投手
松坂大輔
岡島秀樹
黒田博樹
小林雅英
斎藤隆
●捕手
城島健司
●内野手
井口資仁
岩村明憲
松井稼頭央
●外野手
田口壮
福留孝介
イチロー

あたりは選出しない理由があまりない。少なくとも日本プロ野球選手で彼らを押しのけてまでレギュラー入りする選手は先発投手とコマが1つ足りない内野手を除いて考えにくい。けがの松井秀喜と不振の井川慶も場合によってはあり得る。この大リーガー達に混じって先発出場させたい北京代表はどれだけいるか。投手のダルビッシュ有と藤川球児、外野手の青木宣親ぐらいではないか。
つまりイチロー発言はWBCで日本人大リーガーが主力となるのは必然であり、「北京のリベンジ」にされたら彼らの「足並みがそろわない」のである。なぜならば日本人大リーガーは北京に出場していないからリベンジも何もない。担う必要のない荷物を負うのはご免であり筋も違うと。
選手の分際で監督人事に間接的ながら口を挟むのは何ごとかとイチロー発言を非難する向きもある。そうだろうか。イチロー選手は「選手の分際」ではなく大リーガーの立場から大リーグの大会へ出場する当事者として発言したのであろう。

第1回からの3年で事情も大きく変わった。一番の変化は繰り返すように日本人大リーガーでチームができるほど増えたという点。したがってこの集団を指揮するにふさわしい日本人フィールド・マネジャーを本来は育てておくべきだった。具体的には大リーグの指導者経験である。日本と違って選手時代の輝かしい実績は必要ないのだから日本野球機構(NPB)はしかるべき人物をMLBへ送って育てておくべきだった。
もちろん外国人監督でもいいけど国別対抗戦となるとどうか。最近ではサッカーのW杯では違和感がないもののサッカーの方は「日本はトップレベルとはまだまだ差がある」との認識で共通しているからまだいい。曲がりなりにもWBCは前回優勝国ですからねえ。

とか何とかで原辰徳氏が監督とのこと。いろいろ心配ではある。みんなそうだろう。ジャイアンツ愛の原サンで大丈夫かと。でも案外いい人選のような気がする。なぜならば「原ジャパン」とは呼ばれそうにないから。松坂が投げて城島が受けてイチローが仕切るチームにそれはなかろう。
前から書いているように監督名をチームのシンボルにするのはそもそも誤りである。北京優勝チームを誰が「キム韓国」と呼び、準優勝を「パチェコ・キューバ」としたか。日本でのプレー経験がありそこそこ知名度があっても三位決定戦で敗れたチームを「ジョンソン・アメリカ」と言う声を聞いたことがない。相手には付けないのに自分には付ける。その顛末はどうだ。反町ジャパン、植田ジャパン、星野ジャパン、柳本ジャパン……。惨憺たる結果である。
比較的健闘した女子サッカーは「なでしこジャパン」で監督名なし。優勝して日本中をわかせた女子ソフトボールに至っては愛称すらない。誰か斎藤(春香)ジャパンなぞ言い習わしたか。(編集長)

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2008年10月28日 (火)

鎌田慧の現代を斬る/第125回 密室暴力集団となった自衛隊と悪徳業界をカネづるにする民主党議員

 今回は、広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校が舞台である。ここに入校中の25歳の三等海曹が死亡した。この事件は自衛隊の今日の姿をクローズアップしている。
 彼は15人対1の徒手格闘訓練中に倒れ、2週間後に亡くなった。海曹は特別警備隊の養成課程に所属していたが、「つづける自信がなくなった」として学校を退校、別の部隊に移動することが決まっていた。この退学への「はなむけ」が非常識な格闘訓練だった。
 旧軍隊の訓練は暴力的であり、「精神注入棒」というバットで殴るのが日常茶飯事だった。もともと江田島は特攻隊員が数多く所属した予科練の訓練基地としても知られている。土地だけではなく、自衛隊は暴力的な組織風土も旧軍から引き継いだといえる。

→続きはPDFで「11.pdf」をダウンロード  

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2008年10月27日 (月)

ロシアの横暴/第3回 政治家殺害と塩を買い占める民衆(1)


 ロシアはどこに行くのだろう?
 ずっと昔から言われてきたことばだが未だに行く先がわからない。グルジア戦争は収まったのか、膠着状態なのか。NATOだ、MD配備だと騒々しかったロシア周辺が最近は水を打ったように静かになってしまった。
 9月末、モスクワでチェチェン選出の国会議員が何者かに殺された。日本の新聞では少しだけ触れてあるが、ほとんど「他に大した記事がなかったから」載せたような扱いだった。この国会議員はカディロフ政権と対立していると言われている、と結んであって、それ以上の情報は何もない。
 2年前にジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが何者かに殺されたときプーチン大統領(現首相)は取るに足りないこと、と言ってのけた。
 しかし、今回の殺人はプーチンにとっては取るに足りないことではないはずだ。
 チェチェン選出の国会議員、ルスラン・ヤマダエフは元独立派で後にロシア側に寝返り、第二次チェチェン戦争が始まったとき、ロシア軍がやすやすとチェチェン入城するのに貢献したと言われているスリム・ヤマダエフ司令官の兄弟である。
 チェチェン制圧の功労者一族だからやすやすと国会議員になったわけだが、その功労者が殺されたというのに、問題にもならないのが現在のロシアである。
 司令官はその功績を買われてチェチェンを威圧するべく編成されたロシア軍旅団「ヴォストク」の親玉となった。当然ロシア傀儡政権のカディロフ大統領の忠実な下僕であるはずだ。ところがこの殺人の犯人はおそらくカディロフの手下であると言われている。プーチンロシアの下僕と手下の争いということになる。でもこれはプーチンにとっては好都合である。なぜかというと2つの勢力が結束しているよりも、ときどきは殺し合い程度の対立は起こしてくれた方が、ロシアの駐留を正当化できるからだ。それに下僕と手下が結束しているといつロシアに反旗を翻すかわかったものではない。
 国会議員が殺害された、というのに世界はアメリカ発の経済危機にかかりきりで、だれも関心を払わない。いわゆる後進国の国会議員が殺されても日本のマスコミに取り上げられることはほとんどない。他に大きなニュースがなければ1行ぐらいは載る可能性もあることはあるが、ほとんど無視される。
 今のロシアはサミット(先進国首脳会議)のメンバーであり、国連安全保障理事会の常任理事国でもある。そこで起きた国会議員殺害という大事件のはずが今や後進国の出来事並に取るに足りないこととなってしまったようだ。
 もっとも、チェチェン選出、つまり選挙で選ばれた国会議員といったって、その選挙が不正疑惑だらけなのは今や「常識」である。
 ロシアの選挙は候補者が立候補して選挙戦という先進国で一般的な方法はとっていない。国政選挙か地方選挙か、あるいは選挙区のレベルによって多少ちがうが、表向きだけ立候補を受け付け、対立候補にはなんやかやとナンクセをつけて書類不備にし、立候補させない。国際的に目立つような大きな選挙なら1人2人の対立候補は残しておいて帳尻を合わせておくのが普通だ。チェチェンなどそれこそ取るに足りない選挙区などどうでもよい。
 対立候補がいなければ信任投票となる。信任投票の方法は日本の最高裁裁判官国民審査と同じで不信任の場合のみ記入する。しかも信任不信任は守秘義務とやら、カーテンで仕切られた投票記載所に入って記入しなければならない。すると、居合わせた全員に「あ、あいつは不信任投票をしている」とわかるようになっている。
 もっともこの話もけっこういい加減で、実際には投票に行く者などほとんどおらず、ごくまれに候補者の血縁関係者などが投票に行くかもしれない程度のもので、当然「信任」、だから何もせずに投票用紙を投票箱に入れて投票終了、ひょっとしてカーテンで仕切られた記載所キャビネットははじめから設置されていないかもしれない、というのがより信頼できる裏情報である。選挙後に公表される信任率ほぼ100%―場所によっていくらか数値は違うとしてもーはこのような投票の結果であって、データそのものは正しい。選挙そのものがほとんど捏造というわけだ。
 そんな方法で選出された国会議員が殺されたところでだれも関心を払わないのは当然といえば当然である。
 要するに、アメリカ発の経済危機が世界中を吹き荒れているから、ロシアの国会議員の1人や2人が死んでも殺されても、関わっているヒマはないというわけだ。(川上なつ)

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2008年10月26日 (日)

羽田女高生殺人事件の現場を歩く

Photo_5  京急線・穴守稲荷駅から多摩川に向かって南へと歩いていく。踏切を渡り、商店街を抜けると住宅街。どこからともなく油の匂いが流れてきた。点在する町工場からだった。

 1979年8月11日、午後2時半ごろ羽田のアパートで女子高生の遺体が発見される。引っ越し準備のために訪れていた、住んでいたアパートから歩いて数分の新居で殺害された。ふすまの張り替えの準備をしている姿を目撃されたから、わずか25分程度の間に50個所以上もナイフで刺され、あおむけに転がされいた。
「美人だったし、スタイルのよい子だったわよ。ホットパンツとか履いていて。お父さんも背が高かい人だったからね」
 被害者の親族ともつきあいのあるという女性は、被害者のことをそう語ってくれた。被害者がもの静かな美人であったことは、当時の新聞や雑誌で何度も報じられている。確かに新聞に掲載された写真も美しかった。事件の朝、友達と出かけた5泊6日の海水浴旅行から帰ってきての悲劇だった。

「夏でしょ」
 事件を知っているかとの問いに、殺害現場のすぐ近くに住む女性は「あー」と言いながら当時の状況を思い出してくれた。
「あの日、昼ぐらいから夕立みたいに雨が降ったんです。それでみんな家に居たんですよ。甲子園もあったし。事件があったアパートは人通りの多い角に建っていたから、そうじゃなければ分かったと思うんです」
 じつは事件当日も人通りが少なかったわけではない。被害者の生存が確認されている午後2時から7分過ぎまでは、現場の前の道に近所の誰かがおり、15分頃には犯人らしき人物を見た女性がその道を通過している。そして25分頃に死体が発見されている。多くの近隣住民が証言しているように治安の悪い地域ではなく、もの寂しい場所でもなかったのだ。
 ただ先述の殺害現場のすぐ近くに住む女性は、そのアパート自体によい思い出がないという。
「一度、アパートの上から男性のね、かけられたことがあるんですよ。最初ツバか何かと思ったけれど、臭くて臭くて」
 一応、何を髪にかけられたのかを確認すると、顔をしかめながら「精液ですよ」と教えくれた。アパートそのものが近隣住民から問題視されるような存在だったのかとの問いは否定したが、「独り者も多く、あまりアパートの方とは交流がなかったですね」と続けた。

 当初から事件は比較的大きく取り上げられた。美人女子高生がメッタ刺しにされたという猟奇性ゆえだろう。しかし、この事件が本当に世間の耳目を集め始めたのは、被害者女性が妊娠していたと報道されてからだった。
 

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年10月25日 (土)

●サイテイ車掌のJR日記/「おくりびと」を観た

 「おくりびと」を観た。
 いやあ、感動した。涙が止まらなかった。チェロの音色が耳から離れない。
 帰省すると必ず寄る飲み屋の女将さんから「エキストラで出てるから、観に行っての~」と昨年からいわれていたので、正直、義理で行ったのだが、観てよかった。

 人間の尊厳を一番感じるのは死んだ時なのだろうか。だとしたら悲しい。

 納棺師という職業があったのも知らなかったが、その役を演じた「もっくん」こと本木雅弘には本当にやられた。人生の最後をこれ以上はないような優しさで包んでくれる仕事ぶりには、素直に美しいと思った。
 指先にまで神経を集中させた演技。真剣で誠実で、静粛で厳かで、温かさに満ち溢れていた。これぞ愛情、これぞ仕事師だと胸がいっぱいになった。
 美人女将の神妙なアップも見ることができたが、自分のふるさと、酒田の四季の風景をこんなにキレイに撮ってくれたことも嬉しい。
 流れるチェロの旋律が厳しい冬を穏やかに、春の息吹を長閑にしてくれていた。

 本当にいい映画に出会えたと思う。

 「また会おうの~」、の!!

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2008年10月23日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第4回 悪化する治安(2)

 治安の悪化は、体感的に2006年から段々と悪化してきていた危険度のラインが2007年に一線を越えたように思う。2007年の韓国人援助団体23人の拉致が決定的だった。それまで、武装勢力の攻撃対象は外国軍やアフガン政府に限られていたのだが、そこに関係の無い援助関係者が狙われたのだ。

 わたしは事件の発生した7月に現地にいた。事件を契機に外務省の発表する危険情報も「渡航の延期をおすすめします」から最高レベルの「退避を勧告します」に跳ね上がった。わたしも「日本人ならば大丈夫だろう」と思っていたが、それではすまない事態に発展した。それまで仲良くしていた友人がわたしと歩くのを怖がるようになったのだ。「外国人といるところをタリバンに見られたら、殺される」と言うのである。
 それまでわたしはアフガニスタンの戦況分布を外国軍対タリバンという単純な図式で見ていたが、2001年末までは正しかったこの構図は現在では完全に用を成さないものになっている。韓国人拉致の事件で明るみになったのは、タリバンに多くの外国人義勇兵が参加していることであった。韓国人23人は拉致された後に3つのグループに分けられ、一つのグループはアフガン人タリバンが管理し、一つはパキスタン人タリバンが、一つはシリア人タリバンが、という具合に管理された。事件発生後何度も「開放する。開放しない」と様々な情報が錯綜したが、国ごとのグループによって意見が割れたからである。

 以前は頂点のオマル師から末端の構成員までの指揮系統があったが、現在は指揮系統が完全に崩壊し、外国人義勇兵たちとばらばらに共闘しているのが現状だ。しかし、この外国人義勇兵は往々にして本家のタリバンよりも過激になりやすい。もともと、タリバンというのはもともとアフガニスタン統一を目標とした一派であり、アメリカ侵攻後も民衆を味方につけ、国を取り戻すのがイデオロギーだ。しかし、外国人義勇兵というのは反米とイスラム主義をイデオロギーとしているので、行動原理がタリバンとは異なる。
 タリバンが再興した際、民間人を犠牲にした自爆攻撃というのは行われなかった。民衆の支持を失っては元も子もないからだ。しかし、外国人義勇兵は非イスラム者、ひいてはアメリカ、欧米憎しで行動しているので、援助関係者だろうがアフガニスタンの民間人だろうがお構い無しなのだ。近年多くの市民を巻き込んだ自爆攻撃が行われているが、外国人義勇兵の参加がその要因となっている。
 わたしもカブールで空爆の被害者の国内避難民を取材した際、彼らからも同様の話を聞いた。

 カブールの国内避難民は激戦区ヘルマンド出身だ。昨年11月の米英軍の空爆にあい、カブールに避難してきた。約400人が雪の降る空き地にテントを張って暮らしていた。
 キャンプを見回すと、男女や年齢の比率が明らかにおかしい。女性や子供、老人しかいない。若い男がほとんどいないのだ。
 復讐のためにタリバンに参加したのだろう。
 近年外国軍の空爆は激しさを増しおり、その空爆の被害者が復讐のためにタリバンに参加することが増えているのだ。しかし、彼らは本家のタリバンとはほぼ無関係であり、外国人に対し怒りを燃やす復讐者だ。彼らは少人数のグループで活動しており、団体の軍事作戦というよりも、仕掛け爆弾や外国人への無差別攻撃など、小規模なテロに走っている。
 彼らも外国人義勇兵同様、政治的な意図を気にかけない。復讐が行動原理だから、行動も非常に過激だ。
 米英軍は「テロリストを根絶やしにする」という。しかし、実際にはその攻撃の被害者が、敵に回っていのだ。結果的には敵を増殖していることになる。ひとり殺せばその家族の若い男が皆「テロリスト」になり、米英軍を攻撃するのだ。
 「憎しみの連鎖」という言葉が、現実味を持っている。米軍もそれに気づき、復興支援などを行い人心を得ようとしているが、彼らが居つづける限り連鎖は断ち切られないだろう。

 では、外国軍が全て撤退したらどうなるだろうか。間違いなく、3日も経たずカブールはタリバン勢力の手に落ちるだろう。しかし、米軍はアフガニスタン国軍を何年もかけて訓練をしてきた。現在アフガン政府の中枢にいるムジャヒディーンが権力を手放すとは思えない。恐らく、現政権のムジャヒディーンとタリバンによる内戦に突入するだろう。1989年にソ連が撤退し後、親ソ政権とムジャヒディーン側で血で血を洗う内戦になった。歴史が繰り返される可能性がある。
 現在、アフガニスタン情勢は悪化の一途にある。最大の問題は、何をすれば、何がよくなる、というビジョンが全く無いことだ。外国軍が力で抑えようとしても失敗し、外国軍が退けば、内戦に突入。旱魃(かんばつ)は深刻さを増し、英オックスファムの発表によると今冬には500万人が飢餓に直面するという。何もかもが悪い方向に進み、一縷の希望も見えないのだ。
 ペシャワール会の伊藤和也さんはこの絶望的な状況の中、「子供たちが食うに困らないように」と活動をしていた。事実、ペシャワール会はジャララバード付近で事実を好転させていた。もし、アフガニスタンに未来があるならば、それは彼らNGO団体の地道な活動によってこそ達せられるのではないだろうか。
 伊藤和也さんの冥福をお祈りする。(白川徹)

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2008年10月22日 (水)

【謹告】当ブログにおける私(編集長)の立ち位置について

紙の『記録』を移行して約1ヶ月。著者の皆様も多くもご了承いただいた通り順調に新作を発表いただいている。同時に編集部員による取材記事もアップできている。よりよい内容を目指すつもりなのでご指導ご鞭撻を今後とも賜れば幸いである。

さて今回は編集長である私の立ち位置について。
当ブログは元々株式会社アストラのホームページの1コーナー「月刊『記録』編集長」として私一人が書いていた。市区町村のHPにある「市長より」みたいなもので、あってもなくてもいいけどあれば賑やかしになる程度で進めていた。

それが案外なアクセス数となると同時に編集部から「紙の『記録』を盛り上げるネット展開をしたい」旨の申し出があり、新しくブログなどを始めるよりは一定のアクセスがある当ブログを改変してはどうかとの結論に達した。結果として編集部員による「月刊『記録』編集部」がスタートする。

そこに今回の改変である。編集部とは著者の皆様の黒子となるべき存在だから当ブログが「月刊『記録』」となった時点で執筆から退くべきと当初は考えた。しかし幸か不幸か小社は零細で私を除く編集部員もまた一面ではライターとして紙の『記録』にも書いていたためルポなど取材ものは編集部筆もブログ版「月刊『記録』」に残してよかろうと判断した。今は大畑や奥山が担っている部分となる。
残る問題は私自身である。私は立場上、企画・編集のすべてに関わり、発案の多くを手がけている。大畑や奥山の記事も含めてだ。と同時に編集長なるものは究極の黒子であり云々をブログ版とはいえ書くべきではないのではないかと悩んでいる。
できれば私も物書きの端くれなので取材して記事を書きたい。しかし私までそっち側へ回ると支える役割を果たす者が誰もいなくなる。かといって当ブログの執筆を止めてしまうと以上のような経緯より極少数ではあるも以前より読んで下さっていた読者様に不義理をするのも事実である。したがって従前のまま週1回は書いている。
でも本当はいけないのだ。取りあえず私の紹介をプロフィルの一番下とし最下位の位置付けとはした。とはいえ週1回となると7分の1。雑誌で換算すると数ページを担っている勘定となる。そんな編集長はいない。編集長などせいぜい数行の編集後記を月1回書き、後はお知らせやらお詫び、お願いといったところで顔を出せばいい。現に紙の『記録』ではそうしていた。私個人としては編集後記さえ書くべきでないとの思いがあり紙の『記録』にはいっさい登場しないで来た。

ゆえに悩んでいる。もう少し今までと同じような位置づけで続けようと思う。それでどうしても違和感が出てしまうと判断したら後続の企画を立てた上で撤退するつもりだ。ご理解いただければ幸甚である(編集長)

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2008年10月21日 (火)

ロストジェネレーション自らを語る/第5回 30歳・男性・正社員(前編)

 出身地は東北です。観光に力を入れている市でした。それなりにひらけてましたけど、ちょっと中心から外れるとすぐ畑に出るようなまちです。
 物心ついたときには6人家族でした。両親と姉が二人に祖母です。父親が建築関係の会社を興していまして、やはり跡継ぎが欲しいというので「男が生まれるまで」と頑張った結果、3人目に生まれた長男が私です。
 一番上の姉とは年が離れているのであまり接点がなかったですが、すぐ上の姉とは結構仲がいいのかな。今でもいろいろアドバイスを受けたりしてますからね。父親は仕事人間でした。やっぱり自分の会社なんで、責任があるじゃないですか。休みなく働いてました。母親は父親の片腕的な存在で、事務や経理関係を手伝っていました。家事もやってるから、大変ですよね。

 高校卒業までは実家にいました。高校は、父親が入った工業高校です。完全に跡を継がせるつもりで入学させたんですが、あんまりあてにされるのもプレッシャーですよね。小さい頃からちょっとしたことでも仕事の手伝いに行かされたりとかしてずっとやってきたので、無意識に「跡を継ぐしかないのかな」と他の可能性を諦めていたような気もします。母親が父親の意見は絶対に立てる主義なので、親2人の考えが同じなんですよ。だから逃げ場がなかったというか。他に何か思いついたとしても怖くて言い出せなかったと思います。

 小、中学と部活動でバスケをやっていて、中学の時には東北大会に出場するなど結構強かったので、高校は推薦で入学できました。ただ、高校では顧問の先生と考え方が合わなくて結局すぐ辞めてしまったんですが。個々人のレベルに関係なく一年生は軒並み筋トレと走りばかりやらされていたんですね。そんなんじゃ、今までの経験も実績も意味がないじゃないですか。
 勉強のほうは、正直、推薦で入ったんで勉強の仕方がわからなかったんです。だから先生にいい顔をしてレポートはきちんと出して、皆勤賞も取って、と一生懸命まじめな生徒のふりをしていたら大学も推薦で入学できてしまいました。

 関東にある工業系の大学に進みました。でも相変わらず勉強の仕方がわからなかった。親しい友達もできませんでした。実は、人と接するのが怖くなってしまっていたんです。高校時代、一応は期待されていたらしく、部活を辞めたらいじめが待っていました。ひどかったのは体育祭の時です。バスケの試合に出たら倒されて、加害者の顔もわからないまま5、6人に蹴られたんです。先生が止めに入りましたが、その出来事があってからは人がちょっと苦手になりました。こちらからすると、期待してたのに辞めるなんて、とか言われても関係ないじゃないですか。誰か知らない人に、学校で、暴力を振るわれる……警戒心が生まれました。話しかけてきてくれる人とは普通に接することができたんですが、自分から軽いノリで話しかけていく、というのはできませんでしたね。で、大学だと決まった席がないので、以前に席が近くてたまたま話しかけてくれた人がまた近くにいるとは限らないわけですよ。自然にできる友達というのがいなくて、面白みも見出せなくて、だんだん休みがちになりました。でも学費を払ってくれている親に申し訳ないので、悪あがきみたいなんですがテストは受けよう、と思ったんです。でも運悪くその日に車にひかれてしまいまして。肩を打撲しながらも必死でテストに臨んだんですが、頭もボーッとしてしまって。ダメでした。結局親に謝りまくって大学を辞めました。(続く)(聞き手:奥山)

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2008年10月20日 (月)

ホームレス自らを語る 第10回 くる病と結核を患って/S・Mさん(52歳)

「くる病」って知ってますか? ビタミンDの欠乏によって発症する、乳幼児に多い病気です。放っておくと、鳩胸や背骨異常、X字脚あるいはO字脚など骨の形成障害を引き起こす病気です。いわゆる僂傴(せむし)の人は、この病気が原因の人が多いですね。
 私も生まれてしばらくして、そのくる病に罹っていることがわかりましてね。2歳のときからその治療のために虚弱児施設に入れられました。そこに小学校を卒業するまで入っていました。
 生まれは長野県で、松本の近くのA町でしたが、こんどの町村合併で別の名前になったような噂を聞きました(A町は2005年の合併で市に昇格し、別の名前に変わっている)。
 父親は失対(失業対策)の作業員、ようするに日雇い労働者ですね。母親は私を産んでから、しばらくして病気で亡くなっています。どんな病気で亡くなったのか、誰も話してくれないからわからないですね。ですから、私は母親の顔を知りません。上に姉と兄がいて、私が3人姉弟の末っ子になります。
 ただ、私は2歳から施設に入っていましたからね。もの心のつく前からなので、施設で生活するのがあたりまえのようになっていました。だから、家が恋しいというような思いはありませんでした。その施設はA町から車で3時間もかかる県南のI市にあって、家族が会いに来ることもほとんどなかったですね。
 小学校もその施設から通いました。学校は普通の小学校でしたが、クラスは病気などのハンデを抱えた児童ばかりを集めた擁護学級でした。その小学校に卒業するまでの6年間通いました。
 小学校卒業と同時に、施設の医師からくる病は完治したといわれ退所を許され、A町の家に帰りました。母親こそいませんでしたが、姉が母親代わりで、家族4人で食卓を囲んだときなど、「ああ、これが普通の家庭の生活なのか」と思いましたね。
 中学校は家から通いクラスも普通のクラスでした。ただ、体育の時間は3年間ずっと見学をしてました。勉強のほうは普通。音楽が少し得意だったのかな。

 中学を卒業後、松本のレストランに就職して、コックの見習いになりました。手に職をつけておいたほうが、将来的にいいと思ったからです。そのころになると、もう肉体的なハンデはなくなっていて、同僚たちと同じように朝の仕込みからいっしょに働きました。仕事が辛いと思ったこともありませんね。
 ただ、このコックの見習の仕事は、2年くらいでやめてしまいます。私は気分にむらっ気があるというか、その後も1つのところに辛抱できなくて、職場を転々とすることになります。
 レストランをやめたあとは、ドライブインとか、大衆食堂のような飲食店で働きました。どの店も2、3年すると辛抱できなくなってやめて、別の店に代わるというのを繰り返しました。
 そんなことしていて20代後半に東京に出てきました。特に目的があったわけではなくて、東京に行けば何か面白いことがありそうな気がしたからです。でも、特に面白いことはありませんでしたね。
 最初はパチンコ店の店員になって、それもすぐに辛抱できなくなって、あとは日雇いの労働者です。半月契約で飯場に入って働き、契約を終えて飯場を出ると、場末のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって遊び暮らし、カネがなくなるとまた飯場に入って半月間働く。その繰り返しですね。
 ただ、私の場合は同じ日雇い仕事でも、1つのところに落ち着けなくて、東京の山谷をはじめ、横浜の寿町、大阪の西成など、各地の飯場を転々としました。

 稼いだカネは酒とギャンブルに消えました。これが唯一の愉しみでね。酒なら何でも飲みました。ギャンブルは競艇が多かったです。でも、私の性格ですから借金をしてまで、酒やギャンブルにのめり込むことはありませんでした。ささやかな愉しみだったです。
 結婚はしませんでした。そんなことは考えたこともなかったし、日雇いで働いていては、そんな機会もありませんからね。
 42か43歳のときでしたが、胸の痛みを覚えて病院で診てもらったんです。診断は肋膜炎でした。しかし、それはわりと簡単に治って、それからも日雇いの仕事を続けていたんです。そうしたら45歳のときに、また胸が痛んで診てもらったら、こんどは結核でした。肋膜炎を患っていながら、日雇いの肉体労働で働いたのがいけなかったようです。
 半年間の入院でした。そのときは横浜の寿町で働いていたので、治療費や入院費は横浜の福祉事務所が面倒をみてくれました。
 病院を退院するとき、医者から「もう、肉体労働はしないように」と禁じられてしまいました。といっても、世の中は不況のどん底のときで、肉体労働以外の仕事のクチなどありませんでした。だから、ホームレスになるより仕方なかったですね。

 それで前から知っていたこの戸山公園(東京・新宿区)で、野宿をするようになりました。ただ、私は新参者でこの公園に段ボール小屋はつくれないので、夜はこの先の首都高の道路の下に小屋を作って寝ています。それで昼間だけこの公園に来て、ベンチで日向ぼっこをしながら、ラジオを聞いて時間をつぶしています。
 私もまだ52歳ですから、何とかしなくてはとは思うんですが、こんな生活をしていて身体が元の丈夫な身体に戻るとも思えませんしね。どうしたもんかと考えるばかりです。(聞き手:神戸幸夫)

ホームレス自らを語る

新・ホームレス自らを語る

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2008年10月18日 (土)

ブレンダが行く!/冗談じゃなく死にかけた事件

Brendaと言えば、

と言えば、と言えば

たいていみんなが

「忙しい」

という、くらい私は忙しい。

しかし、好きでやってる訳じゃないので、これからは、スローダウンする。

なぜなら、今回、とんでもない事件が起きた。

まずは、1件目、事件一歩手前から。

とにかく、私の携帯は鳴り続けていた。
ひっきりなしに電話がかかってくる。
歩いている時もしょうがないので、電話にでた。

そして、迎えの車に乗り込もうとして道を渡ろうとした瞬間に

トラムが轟音とけたたましい警笛をならし

私の方に向かってきた

何となく気がついたが、

あまりよくわかっていなかった。

死にかけた。

トラムも微妙に黄色信号アクセル全開だったので

私が渡ろうとしていたときには、歩行者の信号は青だったものの

死んでからでは、とりかえしはつかん。

こういう日は、本気で落ち込む。

そして、次は、衝撃的な事件が起きた。

ある日の朝のこと。

私は、たいてい朝は、とんでもなく意識不明、不機嫌、意味不明な言動や行動、話しかけると酷く攻撃的な応答をしてしまう。

だから、状態が良くなるまで寝るのが一番。
たいてい、調子のいい時間に起きる。

それでも、あまりにも忙しい時期は、無理してでも起きようとしていた。

それで、どうにか起きてイスの上に膝を抱えて座っていた。

友達は、心配して、私のためにコーヒーを入れてくれた。

友達が部屋に入ってきたときに、床に布団が散乱していて、それをよけてくれないと前に進めないと言われた。

友達は、足が不自由なので、その布団でつまずいて転んだらいけないと思って。

ハッと瞬間的に目が覚めて、機敏にささっと床の布団をよける行動をするつもりだったところが

とんでもないことに・・・

膝を抱えて座っていたイスからバランスを崩して倒れそうになった

のを機に

なぜか

なんと、ド派手に空中に身体を投げ出し

アクロバットのごとく空中で半宙返りして頭から床に落下

着地時に手などつく余裕もなく

喧嘩した時に頭突きをする部分で見事に着地。

ラッパーが頭でまわって踊る姿みたいな状況で倒れ込み。

かわいいネグリジェはめくりかえり

その瞬間の出来事に着地後数秒無言の倒れ込んだまま寝そうになる。

コーヒー入れてきた友達は、あまりの衝撃に心臓が止まりそうな顔で生きてるか確かめていた。

私は、もう死んだか生きてるかもわからなくなったので、そのまま目をつぶって気を失ったフリ?をするしかなかったが、あまりにおかしいので、数秒死んだあとに、腹から笑いがこみ上げてきた。

バカかお前は?

というよりも

いや、まじで危ない。

本当に危険だ。

だから、無理することはよくない。

無理するとろくなことはない。

自分のできる範囲内でやって結果がでなければ、それはしょうがないと思うような。

そういう生き方をこれからはしようと、本気で思った出来事だった。

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2008年10月17日 (金)

サブプライム問題に翻弄されるNPO法人「もやい」

 サブプライム問題が世界を揺さぶっている。米国ではリーマン・ブラザーズが破綻し、世界中の株価は一気に値を下げた。メディアで見る限り、投資に血眼になっていた金持ちが慌てふためいているだけに感じる経済混乱だが、じつは庶民の生活にも影響が出始めている。特に経済的弱者にとって、この騒動は人ごとではない。

 円高と世界的な不況の予測におびえ、自動車産業ではさっそく非正規雇用者のクビを大量に切り始めた。10月7日の閣僚懇談会で、麻生太郎首相は「これから次第に実体経済への影響も出てくる。内需拡大に適切な手を打っていかなければならない」と発言していたが、政治家が歯牙にもかけないワーキングプア層の「実体経済」は、すでにボロボロだ。

 そして、この経済混乱の余波をもろに受けた団体がある。ネットカフェ難民やホームレス、DVの被害者などの生活相談や住居の確保に尽力してきたNPO法人「もやい」だ。活動費の約40%に当たる1320万円を寄付してきた、賃貸の保証人代行業「リプラス」が破産手続きを開始したからである。企業業績を一気に悪化させたのは、サブライム問題の影響を受けたファンド部門の行き詰まりだった。
「毎月110万円ずつ寄付をいただいていたのですが、5月からストップしていました。会社が危ないのではとの噂もあったので対策は協議していたのですが、現実のものになってしまいました」
 稲葉剛理事長はそう説明してくれた。
 もやいの趣旨に賛同したリプラスは活動資金を寄付するだけでなく、もやいが支援する人々の保証人をもやいと共同で請け負っていた。しかも彼らの支払いが滞っても、もやいを信頼し借り主には直接交渉しなかったという。
 なぜ、リプラスがここまでもやいに肩入れしたのか、正確なところは分からない。ただ、もやい設立から現在までの社会状況を考えれば支援したくなる気持ちは分かる。

 もやい設立当時、『新・ホームレス自らを語る』(アストラ)の取材でホームレスの方々に話を聞いていた私は、時に絶望的な気分にさいなまれていた。ボランティア団体は、彼らが死なないように援助していた。食べ物や衣服も配り声をかける。できる限りの援助だったと思う。ただホームレスの方々の生きる尊厳を取り戻すことは、なかなか難しいとも感じていた。当時、取材のたびに「もう死にたい」と聞かされていたのだから……。

 誤解している人も多いが、たいはんのホームレスは働きたいと思っている。また、せめて簡易宿泊所で暮らせるぐらいの生活を確保したいとも願っている。暑さや寒さ、虫など住環境の問題だけではない。路上で生きることは精神的にもつらいのだ。他人の視線が生きる意志を少しずつ浸食していく。雑踏の片隅で腰を下ろして行われる数時間の取材でも、そう感じた。地べたに座って見上げる風景は、見慣れたはずの場所を別物に変える。
 そうした現実に報道など何の力も持たなかった。実際、取材した男性から「話したって、オレたちの生活が変わるわけじゃねえし」とため息まじりに言われたこともある。

 住む場所を完全に失ってしまうと、そこから人は目先の問題に追われていく。食料や寝場所の確保などなど、とにかく生きるための戦いが始まる。その前の段階で支援する人がいたなら、せめて相談できる場があれば、と考えていた人もいたに違いない。しかし、そんな困難を全面的に引き受けたのは、もやいだけだった。だからこそ相談の電話が今でも鳴りやまない。
「会が設立された2001年から2006年3月まで、すべての活動は無償ボランティアでした。だから無給に戻ればいいかとも思うんです。ただ、リプラスから寄付を受けた2年間で活動は一気に広がりました。以前は月20件程度しか生活相談が無かったのに、現在は月100件ほど対応しています。活動が報じられたこともあって、地方からいきなり事務所に相談に来る方もいます。そうした期待を裏切れません」
 稲葉さんは強い感情をにじませることなく、さらりと語った。

 この会にかかわる人々は、まじめ過ぎるのかもしれない。「貧乏人を食い物にするような商売はしない」と、生活相談はすべて無料。孤立しがちな弱者のために、サロンまで作ってしまった。コツコツと積み上げてきた入居保証は、1350世帯にもなった。これだけの活動をしているのに、活動に対する報酬は月12万円にも満たない。
「みんな自分の仕事を別に持っています。わたしも塾講師をしながら続けていますし。支援する側もワーキングプアなんです」と、稲葉さんは笑う。
 会の経済状況が悪化すれば、生活費を稼ぐ時間が必要となり、活動に費やす時間が減ってしまうだろう。すでにシェルターとして使っていたアパートを解約するなど、規模縮小は始まっている。
 リプラス破産の影響は寄付金だけにとどまらない。リプラスと連帯保証した入居人の家賃保証まで負うことになってしまった。リプラス破産の報を受け、もやい以外の保証人を求める大家も出てきているという。

「企業が史上空前の利益を上げているときですらアパートを追い出される人がいたわけですから、景気の悪くなるこれからはもっと支援の必要な人が増えるでしょう」と、稲葉さんは予測する。その通りだろう。
 悪質な保証人代行業や敷金や礼金が無料のかわりに数日でも滞納したらアパート追い出すような賃貸物件の広まりで、以前よりホームレスへの圧力は高まっている。かつてのように大家さんに頭を下げ、家賃を少し待ってもらうことなどできない御時世となった。
 この不景気に勤務先に何かあったら、どこに相談すればいいのか不安に感じないだろうか? 少しでも不安がよぎった方は、ぜひもやいにカンパに協力してほしい。(大畑)


―― ※ ―― ※ ―― ※ ―― ※ ―― ※ ―― ※ ――

<資金カンパお振込み方法>

①臨時特別カンパ 1口50000円(何口でも)
②サポーター会員 年会費1口5000円(何口でも)
③その他、一般の(金額自由)
 いずれも歓迎です。


*ゆうちょ銀行振替口座 No.00160-7-37247
口座名「自立生活サポートセンター・もやい」

*三菱東京UFJ銀行 新宿通支店 普通 3149899 
口座名「特定非営利活動法人 自立生活サポートセンター・もやい 理事長稲葉剛」
(トクテイヒエイリカツドウホウジン ジリツセイカツサポートセンターモヤイ リジチョウイナバツヨシ)

三菱東京UFJ銀行の口座へのお振込みをされる場合は、連絡先の御住所と御氏名、金額の内訳をメールにて送信の上、上記口座に入金をお願い致します。

*クレジットカード募金(イーココロ経由)
https://www.ekokoro.jp/card/index.php?ngo=147
募金の仕方・クリック募金の仕方は
http://www.moyai.net/modules/weblog/details.php?blog_id=314

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2008年10月16日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第3回 悪化する治安(1)

Pc064110_edited1_2 『記録』がWeb版に移行したこともあり、アフガニスタンの歴史やこれまでの経過を経験も交えておさらいしてみようと思う。2006年から取材を始め、本誌に寄稿してきたが、この間のアフガニスタンの状況は転がり落ちる悪化の一途を辿っている。

 今年にいたるまで、タリバンの再興、増加するケシ栽培、旱魃による飢餓、戦死者や民間人の犠牲の増加など、状況は好転の兆しさえ見えない。日本でも大々的に報道されたニュースだと、2007年7月18日に韓国人の援助団体23人が誘拐され、今年にはペシャワール会の伊藤和也さんがタリバンとの関連を主張するグループに誘拐、殺害された。

 2001年に9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、アメリカは10月7日に武力侵攻を開始した。アメリカの侵攻時には日本でも大々的に報道されたものの、その後はメディアの注目も薄れていった。戦争後は「復興しているのではないか」という漠然としたイメージだけが残り、アフガニスタンという存在自体が忘れ去られていった。89年のソ連撤退から始まる内戦は、外国軍の介入など耳目を引く要素が無かったため「忘れられた戦争」と呼ばれた。現在のアフガニスタンも日本人が関係していれば報道もされるが、以前の内戦と同様に「忘れられた戦争」になっているのではないか。

 2004年には選挙によりパシュトゥーン人のハミット・カルザイが選出された。民主的な選挙を標榜していたが、「民主政治」というもの自体に触れたことの無かったアフガン民衆は混乱し、ロヤ・ジルガ(アフガニスタンの国会にあたる。パシュトゥーン語では「大会議」を意味する)は殆どがアメリカ侵攻時に協力したタジク人やウズベク人などアフガニスタンの非多数派に占められた。人工の40パーセントを占めるといわれる多数派のパシュトゥーン人は議席で少数派となった。不正選挙との声も大きい。各省庁でもタジク人やウズベクが実権を握っている。これまで民族対立が少ないと言われていたアフガニスタンで、民族間の関係悪化が先鋭化した。

 わたしの友人のパシュトゥーン人も民族間の感情の悪化を肌で感じるという。彼は25歳で、再建・発展省で働いている。
「ちょっと昔までは民族間での通婚も当たり前だったんだ。けれど、最近は役所でパシュトゥーン人だからと長く待たされることも多い。でも、こんな風になったのはつい最近なんだぜ」
 アフガニスタンでの民族対立は、アメリカに協力した北部同盟側のタジク人やウズベク人が優遇されていることに起因している。マジョリティーでありながら、権力からはじき出されているパシュトゥーン人の不満は大きい。(白川徹)

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2008年10月15日 (水)

公職選挙法が選挙をつまらなくしている!

日本民間放送連盟放送基準(http://www.mro.co.jp/mro-info/minkankijun.html)「第2章 法と政治」の12条を抜粋して紹介する

12条 選挙事前運動の疑いがあるものは取り扱わない。
公職選挙の選挙運動は、放送に関しては選挙期間中における経歴・政見放送だけが認められ、それ以外の選挙運動は期間中、期間前を通じて一切禁止されている。したがって、期間中はもとより期間前においても、選挙運動の疑いのあるものは取り扱ってはならない。
立候補予定者については、選挙の公示(告示)が近づいた時は、番組であると広告であるとを問わず、その起用にあたっては慎重でなければならない。立候補者および立候補予定者の出演は、公示(告示)後はもちろん、少なくとも公示(告示)の1ヵ月前までには取りやめることが望ましい。(中略)
衆議院のほうは、解散による選挙を考えるのが普通であるが、この場合、解散がかなりの確度をもって予想される段階から、立候補予定者の出演は避けるべきである。継続出演契約の場合にも、この時点で出演を中止するという条件をつけておくべきであろう。(後略)

というわけで民放はキー局でも報道番組やニュースを除いて今やこの縛りに見舞われている。「解散がかなりの確度をもって予想される段階」は「今まさに」で総選挙の公示は「少なくとも12日前」と公選法に定められているので「1ヵ月前まで」はすでに始まっている。9月頃の番組から「継続出演契約の場合にも」衆議院議員の情報番組やバラエティーへの出演は抑えられている。
12条冒頭の「一切禁止されている」は公選法の解釈に依る。「1ヵ月前までには取りやめることが望ましい」は放送局の自主規制ではあるものの「これくらいしておかないと怖い」から定めているので結局は公選法の準用である。
麻生首相がさっさと解散しないものだから「かなりの確度をもって予想される段階」がズルズルと後送りになって下手すると来年秋の任期満了まで続くかもしれない。その間ずっと「避けるべき」状態が続くので衆議院議員をキャスティングできない。
良くも悪くも政治を面白くした「小泉劇場」のお陰で衆議院議員を招いたりレギュラー格とする情報番組が次第に育ってきた。言い換えれば数字が取れ出した。そこに水を差す状況が続いているのだ。閣僚でも衆議院議員だとダメである。

雑誌はどうか。わが『記録』は紙で出していた9月までは公選法の「雑誌の報道及び評論等の自由」を享受できた。具体的には148条にある条件①毎月1回以上号を逐って定期に有償頒布②第3種郵便物の承認③選挙期日の公示又は告示の日前1年①②を満たし引き続き発行する、を満たしていたからだ。ところがブログに移行した今日はそれが失われた。「有償」でなくなったし郵便を用いないので第三種を継続しようもなく、したがって③も自動的に満たせないわけだ。
代わって146条がやってくる。ブログは文書図画であり、その頒布や掲示の際に「公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する」を選挙運動の期間中は「できない」とし243条でそれを守らないと「2年以下の禁錮又は50万円以下の罰金」に処すとある。
恐るべし。衆院選が公示された瞬間から「自民党負けちまえ」「麻生太郎候補を落選させよう」と書いただけで牢屋が待っているのだ。今まで適用除外だったから気付かなかったけど(注意はしていた)物凄い言論弾圧ですね。選挙期間中は白鳥の湖のバレーでも流しておけと。それでは旧ソ連の政変時と何ら変わらない。

つまり。テレビはその最も面白くなりそうな時期に旬のキャスティングができずネットは公示の瞬間から白鳥の湖状態を強いられる。選挙というとメディアの情報操作云々がよく取り上げられる。でも操作されるのは有権者である。有権者は主権者だ。操作されようが騙されようが主権者の意思は絶対なはず。みんなが言いたいことを好き放題ワーワー叫び、賛同反対批判称賛が入り乱れてこそ民意は形成されるというのが表現の自由を民主主義の根幹の価値とする理由ではないのか。ある特定の存在のみを適用除外とする方がよほど操作の危険が高まる。

どこの党かこの点を争点にしてくれないかな。意外と票になると思う。(編集長)

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2008年10月14日 (火)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第20回 はがされた壁

20a_12  この写真は、不可思議な部分が一点ある。それは燃えてもいないのに、消火栓の横にある仕上壁が両方ともはがされ、下の垂木やコンクリートがあらわになっていることだ。
 この理由について、建築に詳しいKBさんは消防による調査の結果だと教えてくれた。
 当然のことだが、この消火栓の裏には配管が納められている。放水するための管が必要になるからだ。
 この写真に写る消火栓も垂木が見えるコンクリートの裏側に、地下から10階まで貫いたパイプスペースという空洞があり、給排水管などが入っていると推測される。
 消火栓を納めるため、この空洞に穴を開けたのだが、その際コンクリートで隙間をきちんと埋め戻しているのかを、消防署はチェックしたのだという。隙間があればこの空洞を伝わって、別の階からの煙や炎が進入してしまうからだ。(大畑)

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年10月13日 (月)

●サイテイ車掌のJR日記/「10・24中央大集会」へ行こう

○月×日

 「裁判外での話し合い解決を」という高裁からの提案があったのは7月14日。あれから3ヶ月が過ぎたが、進捗状況はいかに。
 機関紙等を見ると、4者4団体は解決のための交渉テーブル設置に向けて精力的に動いてはいるものの、相手側弁護士は「裁判外では話さない、水準はマイナスαだ」との主張で、頑なな態度を終始一貫させているということだ。つまり、鉄道運輸機構は話し合いに応ずる気配にはほど遠く、膠着状態に陥っているということらしい。

 それはそうと、政治の方が大混乱となっている。ご存知、阿倍に続き、福田首相までが突然の無責任辞任という有様で、麻生新政権が発足するも、中山新国交相が暴言により何日もしないうちに、これまた辞任というお粗末さだ。それに加え、解散総選挙はいつなのか、あるのかないのかと、政局が安定していないことからも、関係議員たちもこの問題どころではないというのが本音だろう。
 従って、政治解決は当面ないと見るのが妥当と思われるが、どうなのだろう。

 ここで、若干の整理をしてみたい。原告である当事者の要求はあくまでも「雇用」「年金」「解決金」であり、裁判闘争を軸に政治解決を目指す方針だったことからも、高裁の提案も即受け入れ、応じると表明。翌日には冬柴国交相(当時)も「お受けして、その努力はすべき」と政治解決の必要があることに言及していた。
 また、本訴訟の加藤主任弁護士によれば、過去の例からも裁判の到達点は一部の解決金であり、雇用と年金は厳しい。裁判闘争には限界があることからも、解雇者を救済するためには話し合い解決が一番の手法であり、そのために弁護団としても全力を挙げるとのことであった。
 というわけだが、原告と被告側の考えには相当な乖離がある。今後もかなりの紆余曲折が予想されるが、原告は裁判は裁判として粛粛と判決を求めるとしている。また、万が一、話し合いが決裂した場合でも、納得のいく判決を勝ち取るために最後まで闘い抜く決意だとも。

 「う~む」と様々な思いが交錯してしまうが、かつての「四党合意」の時期の国側の言い分は「国労はまとまっていないから話し合いは出来ない」「JRに法的責任はないと認め、裁判は下ろせ」などであった。だが今は4者4団体でがっちりまとまっているし、まさか機構側が裁判を下ろすとはいえまい(逆に控訴しているのだからね)。なんだか当時と立場が逆転した感もなくはないが、つまり、国側の理屈はもう通らないということだ。
 そんなことより、この問題は国策でなされた差別であり、政治行政の責任で解決するのは当然のことである。同じことの繰り返しになるが、何度でもいう。あれから22年目という、あまりにも長い時間が経過しすぎている。もはや、人道的にもこれ以上の先送りは許されない。一日も早く人間らしい生活を取り戻せるように、政府は早急に決断し、強い指導力を発揮してもらいたい。

 最後に、来たる24日には、日比谷野音で「今こそ政治決断を! JR採用差別問題の解決要求実現をめざす」という大スローガンを掲げて「10・24中央大集会」が大開催される。
 今はとりあえず、この大集会の圧倒的な大成功を勝ち取るしかない。ぜひ、ご参加を!!(斎藤典雄)

「10・24中央大集会」についてはこちら↓

http://www7b.biglobe.ne.jp/~tomonigo/osirase/1024syukaiosirase.htm

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2008年10月12日 (日)

秋葉原無差別殺人事件の現場を歩く

 今月10日、東京地検は加藤智大(ともひろ)容疑者(25)を殺人や銃刀法違反などの罪で起訴した。

 6月8日午後12時33分、彼は秋葉原の歩行者天国にブレーキもかけずにトラックで突っ込み、5人を跳ね飛ばした後、ナイフを持って走り出し12人を次々と刺す。7人が死亡した。
Img_6850 何度もメディアに取り上げられた事件現場の献花台も今はすでになく、わずかに残る痕跡は事件の目撃者を募る警察の看板だけだった。事件が起きた交差点の間の前にある電気店の男性店員も、「事件の後はずいぶんと警官が居て、人も少し減っていたようですが、もう戻りました」と話す。事件直後、各店舗が自主規制していた路上でのビラ配りも再会。メイドや巫女に扮した女性が笑顔を振りまきビラを手渡していた。
 歩行者天国は中止されたままではあるものの、事件から4ヵ月、街はすでに平静を取り戻していた。

 この事件の謎の1つは、どうして秋葉原を狙ったかだろう。
 08年6月16日の朝日新聞によれば、加藤容疑者は次のように供述したという。「リストラのためにつなぎを隠されたと思い、4トントラックで工場入り口を封鎖しようと考えた」。ところが2トントラックしか借りられず、「これでは封鎖は無理だと思い、犯行場所をアキバに変えた」。
 自身が立てたネットのスレッド(掲示板)でも、会社への怒りを露わにしていたから、最初に会社を狙おうとしたのは理解できる。しかし、そこから彼の怒りは脈絡もなく秋葉原に向けられてしまうのだ。

 すでにさまざまなメディアで報じられた通り、加藤容疑者は秋葉原に土地勘があった。現在の職場がある静岡県から月1~2回は通っていたとの報道もある。また、カラオケではアニメソングを歌い、お気に入りのアニメのセリフを丸暗記していたとも報じられた。つまりアキバ好きなオタクだったというわけだ。
 『週刊朝日』(08年6月27日)によれば、3月下旬には親しい友人3人を連れて秋葉原を案内している。同行した友人は誌上で次のように語っている。
「昼前にアキバに着き、人出の多さに僕らが呆然とするのを加藤さんが裏路地へとグイグイ引っ張ってくれた。慣れた様子でメイド喫茶に入り、メイドがケチャップでイラストを描いてくれるオムライスを『これだけは食べてほしいんだ』と3人に薦めてきて、みんなの分をおごってくれた」
 また『AERA』(08年6月23日)は、5月中旬に「サイトで知り合った女性がいる。その子は秋葉原に通っている」と、加藤容疑者が語っていたと報じた。「ところが、5月末--。普段からケータイをいじっていることが多かった彼は、二つ折りのケータイを乱暴にたたんだ後、怒ったような口調でこう言った。
 『メールが来ない。秋葉原に会いに行く』
 しかし、同僚たちは、その彼女を実際に紹介されたり、写真を見せられたりしたことはなかった」
 さらに、WEBの報道媒体「ZAKZAK」では「犯行前にメイド喫茶の女性に渡したのか、サイトでは《安い指輪なのにめちゃくちゃ喜んでくれてた》と素直な喜びを記してもいた」とも書かれている。
 これらの報道が真実なら、加藤容疑者にとって秋葉原は聖地だったはずだ。彼女やプレゼントを喜ぶメイドに会える場所でもあり、自分の趣味に合った店が立ち並ぶ場でもある。

 彼の秋葉原での足跡をたどりたくて、秋葉原のメイド喫茶を訪ねてみた。

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年10月11日 (土)

書店の風格/第21回 書店人に、とくに注目! オリオン書房ノルテ店

 今まで何故この書店を紹介しなかったのだろうと思うほど、重要な書店様である。立川市という立地を活かして駅前に大型店舗を二つ(ノルテ店、ルミネ店)、中型店舗を二つ(サザン店、アレア店)構えるこの書店は、なんといっても働いている人が素晴らしい。どの店舗に行っても、私のようなしがない小出版社営業の話を快く、しかも熱心に聞いてくださる。まるでこちらがお客だと錯覚してしまうほどの丁寧さであるが、それは徹底的に間違っている。新刊が出る度に置いていただいて、例外なく売れ行きが悪く、真っ先に頭を下げに行かなければならないのに月に一度行けるか行けないかという不義理を働いているのはこちらなのだ。感謝の気持ちとお詫びの気持ちでいつも押しつぶされそうになりながら中央線(特快が速くてよい)に乗る私がいる。実際にはスーツにネクタイのおじさま方に押しつぶされている。

 ノルテ店のSさんは、都内でも抜群に目利きの書店員さんだ。ふとハードカバーの小説の帯を見ると、よく書評員として登場している。お客様にも版元にも本当に親切な、カリスマ書店員さんである。彼の作る棚は魔法にかかったかのごとく美しい。普通の書店ならば敬遠してしまいそうな文芸の翻訳書も豊富で、丁寧に区分けされている。装丁の美しい本の選定も素晴らしい。凝ったつくりの仕掛け絵本もたくさん揃えてあるのが面白い。Sさんは長らく文芸書の担当をされていたが、最近人文系の棚に担当替えになった。
 人文棚のお隣、社会系の棚を担当しているAさんも長らく弊社のご意見番である。といってもご本人はそれをきっとご存じない。弊社の本はほとんどがノンフィクションなので、新刊の企画が出る度にコンセプトやあおり文句などのご相談に上がるのだが、穏やかに話す言葉一つ一つに重みがある。カンばかりではなく「今こういった本が売れているから」という、書店員さんにしか会得できない感性と論理を働かせてくれる。あまりに的を得ているので、「参考にします!」と言いながら、たくさんの意見をまとめる際にかなりウエイトをかけてしまうのだ。
 ご意見を聞いておきながら、それを活かした書籍がまだ出ていない。最近年一冊ほどのペースでしか本を出せていないためだ。なかなか企画が進まず、毎回「残念ながらまだ出版の目処が立ちませんで……」と言ってしまっている。前回お邪魔したときは「残念ながら『記録』が廃刊になってしまいまして」と言う羽目に陥った。Aさんの中で「残念な営業」としての地位を確立しているであろうと思うと、残念でならない。
 神保町や早稲田界隈の書店がいちばん、と通われている方にご提言したい。それも確かに素晴らしい、しかし立川市だって隅に置けない。というか、東京の本好きならば一度は行かねばモグリだとすら思う。遠くても是非と薦めたい本屋さんだ。規模の大きさはもちろんのこと、書店員さんそれぞれの、輝きを放つ働きぶりを見てほしい。棚の一つ一つにまで、「本が好き、本が大切」という思いが溢れているから。(奥山)

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2008年10月10日 (金)

靖国神社/第6回 献木・戦友会が植えた1000本(下)

 献木のプレートの文言にはバリエーションがある。
 部隊の戦歴がかなり詳細に記されているものがあり、戦死者の遺句が記されているものもある。その中のひとつに、献木として桜が選ばれた理由が書かれてあるものを見つけた。
「……同期の友多く南に北に散りて靖国の森に静かに眠る、斃れし友を偲びて、武運拙く生還の同年同期の友等と計り、武人の華とも謂ふべき染井吉野桜をこの地に植樹す 星移り時は流れしと雖も、春爛漫の桜花に想ひを馳せ“二魂一命”の夢叶い、再開の喜びを共にし、その盟約を果たす所以なり」
 靖国にある桜の中でもかなり立派な桜だ。「海軍十三年桜」という名前までつけられている。この文言に表れているように桜が「武人の華」として見られていたのなら、ほとんどの献木が桜であることにもうなずける。

 昭和53年10月に近衛歩兵隊六隊の戦友会として植樹した方に話を聞かせて頂いた。近衛歩兵隊六隊を略して「キンポロッカイ」と呼ぶのだそうだ。
「亡くなった戦友をおなぐさみするために献納させていただきました……」
 幹事の方は言った。張りのない小さい声だったが、なぜ靖国を献納先に選んだのかを聞くと声が熱を帯びた。
「なんで靖国神社を選んだのかって、そんなこともわからないんかね!? そりゃあんた、靖国神社には戦友たちの御霊が眠っておられるでしょ、それが理由だよ、戦争の惨劇をもう体験したくない、そんな私たちの願いをこめて木を植えたんですよ。今の人はそんなこともわからんのかね……」
 近衛歩兵隊六隊ではみたままつりで提灯も奉納している。あの黄色に光る大きな提灯だ。春と秋の例大祭にも欠かさず参拝しているそうだ。
 今年も7月13日から16日までみたままつりが行われた。ずらりと並ぶ大きな提灯を名前入りで奉納するにはひとつ20万円の費用がかかる。それを12個も奉じた。

 戦争の惨劇を繰り返したくない、と幹事の方は言ったが、そんな気持ちを知ってか知らずか、今年もみたままつりは大盛り上がりだった。極太のサーチライトが夏の夜空に向かって放たれ、ソース、焼きイカ、水飴、あらゆる屋台の匂いがごちゃ混ぜになった祭りの匂いがして、やっぱり浴衣のギャルたちが大挙して押し寄せている。大村益次郎の回りでは盆踊りの輪ができているが、心なしか盆踊りに参加する人数が多く去年より盛況な感じがした。普段は誰一人よりつかない「慰霊の泉」にも屋台で買った焼きそばなんかを食べる人、人、人。今年も能楽堂でつのだ☆ひろが奉納コンサートで出演した。携帯番号を交換しあう男女がそこかしこにいる。

 そのバカ騒ぎも、群衆を通り抜け(人をかき分けて進むのも大変!)、遊就館あたりまで来るとかなり落ち着いてくる。神池のあたりまで来るとひっそりとしてくる。そして、「献木ロード」まで来るとやっぱり誰もいなかった。祭りの浮ついた雰囲気に流されておイタをするカップルが1組くらいいるかと思ったがいなかった。
 桜になって靖国で会おう、そんな約束を献木という形で果たした戦友たちがいる一方で、どこまでもハシャぎ足りない若者たちの社交場としての靖国がある。そして、小泉首相最後の8月15日を迎える。(宮崎太郎)
                    

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2008年10月 9日 (木)

ホームレス自らを語る 第9回 宮仕えのむなしさ/和田義人さん(仮名・65歳)

 オレが生まれたのは、昭和17年。出身地は勘弁してくれ、どこで生まれたかは話したくない。父親は公務員をしていて、兄弟姉妹は4人で、オレは上から2番目。家のことや家族のことは、このくらいでいいだろう。これもあまり話したくないことだからさ。
 中学を出て、都立の農林高校に進んだ。いまはもうなくなってしまったか、校名を変えて普通高校になっているかもしれないが、青梅市にそういう高校があったんだよ(この発言で、和田さんは東京西多摩地区の出身ということになろうか)。

 農林高校へ進学したといっても、家が農業や林業をしていたわけじゃないし、オレ自身も将来その道に進みたかったわけじゃない。
 昭和30年代に入り、高校に進学する人が増えて、オレも高校くらいは出ておいたほうがいいかなと思ったんだ。だけど、勉強が苦手で、オレの成績で入れる高校といったら農林高校しかなかったわけさ。
 高校には3年間休まずに通ったよ。こう見えても根は真面目なんだ。高校を卒業して、電気工事が専門の電業社に就職した。ただ、ここには2年くらいしかいなかった。
 次は東京都の水道局に就職した。といっても、都職員としての正式採用ではなくて、水道局の作業員として雇われるかたちだった。
 仕事は地下に埋設されている水道管の維持管理。古い水道管を新しいのと取り替えたり、ヒビ割れて水漏れを起こしている水道管を緊急に取り替えたりするのが、主な仕事だった。

 水道管の取替え作業は、道路を掘り返すことが多いから、ほとんどが夜間作業だった。いや、仕事が大変なことはない。実際の作業をするのは業者で、オレたちは都の職員として行くから、作業を見ているだけでいいんだ。それに作業にずっと付き合っている必要もないからね。仕事としては楽だった。
 結婚はしなかった。縁がなかったんだね。水道工事の現場は男ばかりだし、水道局には幾人かの女性職員もいたけど、みんな所帯持ちで若い子はいなかったからね。縁がなかったんだな。
 愉しみは休みの日にパチンコをやったり、仕事帰りに居酒屋で一杯引っ掛けることだったね。そのパチンコも酒も度をすごしたり、給料を全部注ぎ込むようなことはなかった。まあ、良識の範囲の慎ましいものだった。

 水道局に勤めて12年目の、32歳のときだった。オレが担当していた現場で事故があってね。いや、人身事故ではなくて、作業員が重機操作をミスして、水道本管に穴を開けてしまったんだ。そこから水道水が噴出して、あたり一帯に流れ出し住宅に床下浸水の被害が出て、周辺住宅の水道は断水するしで大騒ぎになった。この事故については、特定されては困ることがあるので、これ以上は話せないよ。
 新聞やテレビでも大きく報じられて、水道局でも大問題になった。事故の直接の責任は重機操作をミスした作業員と、彼を雇っていた工務店にある。オレは発注者の立場だから、直接の責任はないんだ。水道局の連中は誰も、オレに「責任を取れ」とか、「辞めろ」とは言わない。だけど、無言の圧力というのかな、責任を取らざるを得ない雰囲気がヒシヒシと感じられるんだ。それで辞表を出して、水道局を辞めることになった。
 それからはホームレスだ。宮仕えのむなしさを経験して、またどこかに就職して働こうなんて気は起こらんからね。

 それで32歳から基本的にはホームレスをしているが、時には現金が必要になることもあるからね。そんなときは日雇いに出たり、飯場に入って働いたよ。カネがあれば弁当が買えて、ドヤ(簡易宿泊所)やカプセル(ホテル)に泊まれる。カネがなければスーパーやコンビニのゴミ箱を漁って、公園のベンチや段ボールの小屋に寝る。それを繰り返してきたんだ。
 日雇いなどで働けたのも50代半ばまでで、あとはずっとホームレスをしているよ。長いあいだこういう生活をしているけど、だんだんに食べるものの確保がむずかしくなっているな。炊き出しや差し入れだけでは足りないから、どうしても自分で探さないといけないんだが、世の中が世知辛くなったのか入手するのがむずかしくなった。食べものにありつけない日が多くなって、ひもじい日がつづいているよ。

 夜、寝ているところかい? 冬の夜は寝ないことにしている。寒くって寝られやしないからさ。ビルのシャッターの前にうずくまって、じっと夜の明けるのを待つんだ。それで朝になって日が差してから寝るんだ。いつもこのあたり(JR新宿駅新南口)の適当なところを探して寝ている。

 オレも65歳になったから、生活保護が受けられるんだが、最近は役所が渋ってなかなか出したがらないからね。面倒臭いから申請もしてないよ。
 オレの友人に生活保護を受けているのがいるんだが、ホームレスでアパートに入るのはむずかしいから、ホームレスの寮に入ったんだ。そうしたら「部屋代だ」「食費だ」といろいろ理由をつけて、支給された生活保護費の大半を徴収され、本人の手元にはいくらも残らないらしい。ああいうところは暴力団が経営しているのが多いからね。いくら寒くても身体の利くうちは、外で気ままに暮らしていたほうがいいよ。
 最後に言いたいけど、国の福祉予算がどんどん削られているだろう。弱い者イジメをしないでほしい。弱い者を救うのが、政治の本分なんだからさ。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月 8日 (水)

止めよう地デジ

地上波デジタルは本気でやるらしい。何のため、誰のためなのか全くわからない設備投資である。およそテレビに関わる者としては

①テレビ局
②番組の出演者
③視聴者
④スポンサー

あたりが当事者。そのいずれもが別段得をしない。
地デジの売りは「電波の有効利用」「高品質画像」「双方向」「マルチ編成」当たり。これらが何をもたらすのか

「電波の有効利用」は空いた周波数で何ができるかだから差し当たってテレビには関係ない。

売り物の「高品質画像」は誰がそれを求めているか謎である。丹念に追った動物ものとか世界遺産や美術紹介、開局○周年記念とか芸術祭参加作品とかいった目玉番組で奮発した豪華セットなどにはよかろう。でも「開局○周年記念とか芸術祭参加作品」は常にではない。ラインナップから推して恩恵があるとしたらNHKぐらい。
そもそも今のテレビ番組をより高い品質でみたいとする視聴者が多くいるとは思えない。バラエティーなど特にそう。ドラマはセットのアラが見えるとまずいのでコストアップにもつながりかねない。俳優さんの化粧もより入念にということになりそうだ
ワンセグは移動体でテレビが見られる仕組みでデジタル化の成功例といえよう。しかしそれは文字通りワンセグ。つまり通常のテレビ画像の3分の1程度の低品質である。それが成功したのは視聴者が画質より利便性を重んじている何よりの証拠ではないのか
お金持ちのスポンサーは高品質画像のCMを流したいかもしれないけど、これまたカネのかかる話だ。そもそも広告の効果測定はなかなかに難しく画質をあげれば客が付くといった明確な根拠をこれまで広告代理店の方から聞いたことがない。

双方向も端末であるテレビ受信機から視聴者がテレビ局へアクセスできるわけではないので本当の意味での双方向ではない。WEBカメラでお話しするような「双方向」が実現するはずもない。

マルチ編成に至っては存在自体が矛盾をはらむ。先に示した高品質画像のCMを提供してくれるスポンサーはおそらく上得意だ。したがって番組も高品質画像で流すしかない。その時点でセグメントの過半数を制してしまうからマルチにしようがない。
今程度の画像でよければ理論的にはワンセグを維持したまま3番組がマルチに作れる。正確には2番組分が空く。空いてどうだというのだ。人もカネも時間も余っていて(ありえないけど)今まで通りのメーン番組に加えて同時間帯に別の2番組を流す? それは自局で裏環境を整えているのと同じ行為にならないか。何が悲しくてしのぎを削る他局(裏)ばかりでなく自局で同時間帯を張り合わなければならないのか。
その「自局裏」が数字を取ったらどうする。メーンの広告主はきっと怒る。「いやあ裏であんな強いのをぶつけられると厳しいですよ」との言い訳が通じない。
では「自局裏」が数字を取れなければいいのか。よくない。「まったく無意味な行為をしている」と同義だからだ。
そして人もカネも時間も余ってなどいないという現実を考えればマルチ編成はほとんど意味がない。

地デジというのは要するにハード依拠の公共事業と同じだ。ソフトである番組制作への恩恵がないし、そうした配慮がもともと感じられない。費用はテレビ局に重くのしかかる。その分だけ制作へのしわ寄せが必至だ。高品質を価値あらしめるためには制作にカネをかけねばならないのに実際には逆方向となる。マルチ編成を本気でやったらテレビ局の編成さんも制作サイドも比喩ではなく本当に多数が死んでしまう。それでもやり遂げて戻ってくるのはスポンサーの苦情なのだからやりきれないことこの上ない。

今からでも遅くない。やめましょう。そのお金は制作現場につぎ込みましょう。ソフトの充実あってのハードである。地デジの電波塔である新東京タワーの開業は停波に間に合わないらしいし……ていうかこれもすごい話ですよね。
ところで新東京タワーの名称はなぜ「新東京タワー」でいけなかったのか。今ある東京タワーと紛らわしいから? いやあ、誰も間違えないと思うね。「東京スカイツリー」との新名称も定着するかしら

①「モーニング娘。」のように最初は違和感があったが次第に定着する
②「E電」のように最初の違和感を抱えたまま消え結局は新東京タワーと呼ばれる運命にある

どちらか。私は②に賭けたい。そういえばJR車掌の斎藤典雄さんの記事を編集して知ったのだけどJR東日本社内ではE電という言葉は生きているそうだ。よかった!……という話でもないか(編集長)

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2008年10月 7日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/モノ捨てまくる晩夏

○月×日
 捨てた、捨てた。捨てて捨てて、捨てまくっている。まるで引越しでもするかのように、要らないものを次から次へと処分しているのだ。
 実は、8月に入ってから、ゴミだらけのような部屋の中の整理をしているわけです。どうしてそんなに時間がかかるのかって? ま、それは後で記すことにして、まずは本とレコード類から片付け開始。
 とにかくある。狭い部屋にこれでもか!! というくらいある。もっとたくさんある人はごまんといるだろうが、20年、30年と手にしたことがないもの、それも100パーセント手にしたことがないとくる。これからもそうであろうと思うものがやたらと多い。
 ここに越してきて10年が過ぎたが、その際も随分と処分はした。しかし、思い入れのあるものは大切なものだからと、もちろん捨てずに持って来ている。だが、再びどんどん増え続け、ゴミではないが、飾りものでしかなくなっている。このように、不要なもので溢れているという現実を見て、やっぱり未来永劫手にすることはないのだと思い、一大決心、捨てることにした。
 でも、思い出なんだからとっておけばいいじゃないか、何も捨てることはないと慫慂してくれる声も聴こえてくるが、捨てるといったら捨てる。そう、固い決意なのだ。
 で、本は、世間ではどうでもいいようなものでも、自分で読んで面白いと思ったもの、また、お世話になった出版社やその関係の比の本などは残しておいて、若い頃はたいして真剣に読まなかった純文学など、これからも無縁であろうと思うものは全部捨てた。
 それと、雑誌などは、音楽関係でいえば、ビートルズ関連以外のものは捨てた。あと、組合(国労)関係の冊子や資料、子ども関係で自分が書いた父母会ニュースなども。そして、自分の原稿。ゲラやボツになったものも含めて数千枚はあっただろうか。こんなものとっておいてど~すんの、誰が見るんだ、おれは二度と見ないと捨てた。
 あとは、モンダイ!? のレコードやテープ類。ジャズはクロスオーバー系の比較的新しいものは殆ど捨てた。日本のジャズではナベサダや山下洋輔を残して、その関連以外は捨てた。それと、ポールモーリアなどのストリングス。映画のサウンドトラック。クラシック。レゲエ。音源の悪いロックの海賊版。日本の歌謡曲。全く聴かないもんなと、ざっと300枚は捨てた。
 残した主なものは、一般的な!? ジャズ、ロック、ブルース。日本のフォーク、ロック、ブルースなどで、厳選したつもりだが、まだ700枚からある。
 ビートルズは殆どCDに買い替えたが、レコードを残したのは無意識で、いくら擦り切れてボロボロになったものでもやっぱり捨てられない。
 つまり、大袈裟かもしれないが、おれの人生はこれだ!! というもの以外は全部捨てたといってよい。
 それにしても、流行だからと買ったもの。また、衝動買いだったもの。せっかく買ったのに、ろくに読まなかったり聴きもしなかったものもかなりあった。
 それらの捨てたものの中にはいいものも山ほどある。が、「ごめんね、偉大なアーティスト達よ」と一人言を呟きながらポイポイ捨てたのだった。

 しかしながら、困ったものだなと思った。こんなものまで買っていたのか。そうだな、確かに買ったよな。なんだかポリシーがないというか、まとまりがない。ほんとにちゃらんぽらんなヤツだ。呆れたヤツだなと赤面しつつも捨てたのだ。
 もちろん、ゴミとしてではなく、フリマやリサイクル、古本屋、古レコード屋と有効利用も考えたが、私はそこまで暇ではない。面倒なことも然ることながら、どうせ二束三文でしかないのだから。

 最後に、前段のどうしてそんなに時間がかかるのかの理由だが、なんと私は、本でもレコードでもカバーからジャケット、ケースまで、一冊一枚ずつ全部丁寧に拭いて綺麗にしているからなのだ。ん!? やっぱり暇なんじゃないかって? いや。なら思い出に浸っているかってか? 違う、違うって。そう、ちと異常なんでしょうよ。いや、相当かもね。
 いずれにせよ、私は案外、熱しやすく冷めやすい性格なのかもしれない。それは何事に対してもだ。そんなことを思うと、むしろ捨ててしまったものこそおれの人生だったのではないのかという気がしてきた。ああ、なんて優柔不断なヤツなんだ。もはや後の祭りだが、片付けは当分終わりそうにない。そうだな、きっと何事ももっと慎重にしないとダメだという暗示なのだろう。
 秋だな、すっかり。(斎藤典雄)

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2008年10月 6日 (月)

ホームレス自らを語 る 第8回 間の悪い人生でしたが…/高野博見(ひろみ)さん(62歳)

10_6  生まれは昭和21年で、東京の常盤台(板橋区)です。父親は自宅の作業場で、竹カゴをつくっていました。果実を盛り付ける竹カゴづくりが専門でした。
 父が完成した竹カゴを問屋に卸しに行くときは、自転車の荷台に山のように積んで行きました。そんなとき私を連れていってくれることもあって、その帰りには必ず板橋駅前の居酒屋に寄るのが決まりでね。父は焼酎を飲んで、私はモツ煮込みを食べるんですが、その煮込みのうまかったことは、いまでも忘れられませんね。
 その父は私が小学5年生のときに急死します。脳溢血で倒れ、その日のうちに亡くなってしまいました。残されたのは、母親と兄弟が6人。途端に生活が苦しくなって、生活保護を受けて何とかしのいだようです。
 私は6人兄弟の上から3番目でしたが、上の2人が姉だったので長男でした。そんなこともあって、私は高校へ通わせてもらいました。それも私立高校の商業科でした。そのころは姉の2人が、もう働いていて学費を出してくれたんです。
 高校では野球部に入りました。そんなに強い野球部ではありませんでしたが、私は1年生からレギュラーでした。ところが、夏の都予選を前にした練習試合で、スライディングに失敗して、右足首を複雑骨折してしまいます。それで野球は断念することになりました。
 3年生になって、卒業を控えたある日の授業中にコッソリ小説を読んでいたら、それが先生に見つかり本を取り上げられてしまいました。その本は友人から借りたものだったので、私も必死で先生に突っかかっていき、思わず殴ってしまったんです。即謹慎処分が下され、卒業式には出られず、一人だけ6月になって卒業証書が渡されました。
 それで学校から就職の斡旋もしてもらえず、自分で探してトラックの助手になりました。在学中に商業簿記と珠算の3級の資格を取っていたんですが、結局、その資格は生涯使うことがありませんでした。
 そのうちにトラックの助手の仕事は面白くなくてやめました。運転手になりたかったわけでもないですからね。それでしばらく喫茶店のウエーターをしてから、バーのバーテンになりました。あまり酒は飲めないんですが、あのスマートな恰好よさに憧れたんですね。

 最初に働いたのは伊豆の戸田にあったバーです。スポーツ新聞に募集広告が出ていたんで、応募したら採用されました。その店にいた先輩のバーテンがいい人で、酒のことも、バーテンの仕事のことも、何も知らなかった私に、イロハ……から親切に全部を教えてくれました。
 それで24歳のときに、その先輩の許を離れて一人立ちします。箱根の日本旅館の中にあったバーをまかされたのです。その店で10年ほどやっかいになりますが、私の人生で一番愉しかったのが、このときの10年ですね。
 住み込みの三食賄い付き、温泉付きのうえに、社長がとてもいい人で「バーの売上げのことは考えないでいいから、お客様に愉しんでもらえるようにしてくれ」というのが口グセでした。
 旅館というのは、女の人の多い職場ですからね。結婚のチャンスも二度ありました。一人は出入りの芸者で、彼女のほうが私に惚れたんです。もう一人は売店で働いていた子で、こちらは私のほうが惚れてしばらく付き合いました。でも、どちらも私の態度が煮え切らないので、実を結ぶまでにはなりませんでした。私には結婚をしてもやっていく自信がなくて、どちらのときも「結婚してくれ」と言い出せなかったのです。特に芸者の彼女とは、二人だけで菅平高原に泊まりの旅行に行きながら、手を握ることさえできませんでした。晩生というか、ここ一番というときの最後の押しが、どうしてもできないんですね。

 そんなことがあって、何となく旅館にはいずらくなって、34歳のときにやめました。それからは東京に戻って、土木作業員になりました。いや、日雇いではなく、工務店お抱えの作業員で、工務店の寮に入りました。
 私は一つのところに落ち着くタイプで、箱根の旅館でもそうでしたが、工務店も東京と千葉の工務店に、それぞれ10年以上やっかいになりました。
 どちらの工務店からもよくしてもらいましたが、特によかったのが千葉の工務店でした。社長がいい人でね。仕事が少ないときには、工務店の器材置き場や寮を清掃する仕事とかをつくって、それで日当を払ってくれましたからね。
 今年に入って私は右足の足首に痛みが走るようになって、現場作業ができなくなりました。高校生の頃に複雑骨折をした古いケガが、いまごろになって痛み出したんですね。骨折の治療で患部に鉄板を入れたんですが、それがそのまま入っていますから、原因はそれだろうと思います。
 そのことを社長に申し出ていったら、「いままで通りいてくれて構わないよ」って言うんです。ねっ、いい社長でしょう? だけど、何も働けない人間が、そこまで甘えるわけにはいきませんからね。6月に工務店を出て、行くところがないから新宿に来て、それからはホームレスの生活です。
 いま振り返ってみると、私の人生というのは、間の悪い人生だった気がしますね。ここ一番というときの押しも弱かったですしね。でもね、出会った人はいい人たちばかりで、この人生も悪いことばかりじゃなかったという気もしているんですよ。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月 5日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第27回 映画「おくりびと」を観てみた

 第32回モントリオール世界映画祭でグランプリを受賞した「おくりびと」。納棺師が主人公だというので、さっそく観に行ってみることにした。土曜の丸の内ピカデリーは、さすがに混んでいる。その中でも特に年配の方々が、この映画上映会場に吸い込まれていくように見えた。若者は、2人連れのお姉様方がちらほらといるくらいだ。動員数は120人程度といったところだろうか。

 納棺師という職業が果たして映画のような田舎で成り立つのかどうか、分からない。筆者は映画の舞台である庄内にほど近いところで働いていたが、納棺は原則として葬儀社の仕事だった。描かれている納棺師に近い職業と言えば「湯灌屋」だ。
 湯灌屋が何をするかといえば、故人宅に簡易バスタブを持ち込み、体を洗ってシャンプーする。そして改めて脱脂綿を詰めるなどの処置をし、着替え・メイクまで仕上げるのだ。そのまま納棺を進めることもあれば、納棺だけは葬儀社が担当することもある。
 湯灌は葬儀社で受注するのだが、ノルマがあり、筆者は達成するのに大変苦労した。とにかく「洗う」事に抵抗のある遺族は多い。湯灌はそのあとに納棺までするのが段取り的にもスムーズなのだが、納棺となると田舎では親戚とともに隣組まで集まる。隣のじいさんがシャンプーしている姿を、いくらタオルで覆われているとはいえ、見たいと思うだろうか。しかも亡くなっているところを。事情をいちいち近所に話して人払いするのも煩わしければ、バスタブを持ち込むことも仰々しく思える。結局、「そんなに丁寧にしてもらわなくてもいい。病院でキレイにしてもらったんだから」と言って断られ、「ではお着替えだけでも」と食い下がっても「着物なんか体の上にかけるだけでいい。おばあちゃんの時もそうだったんだから」と言われる。地域のコミュニティの中で生きている人たちほど、他人と違うことをするのを嫌う。遺体が痛んでいるなどの事情がない限り、湯灌屋さんに仕事を持っていくのは難しかった。
 遺体が痛んでいたとしても「どうせ、明日までだから」と断られる可能性は高い。葬儀よりも火葬が先に来る地域では、主役の場面でもう骨になってしまっているのだ。そこまで身綺麗にしなくても、という遺族の気持ちも分からないでもない。ということは、「痛んでいるから」という理由だけではなかなか注文をいただけないということだ。遺族心情に訴えかけなければならないが、私にはその手腕がなかった。一番効くのは「最近は皆さんされてますよ」という台詞だが、それは嘘なので使う気にはなれなかった。
 結局プランの中に一体となっている時以外は、湯灌を受注することは数回しかなかった。ちなみにオプションでつける場合、価格は8万円。決して安くはない。

 などということを映画を見ながら考えていたが、主人公の納棺師を演じる本木雅弘の動きが美しい。お着替えのシーンなど惚れ惚れするくらいだが、実務をやっていた人間にとってはなんだか仰々しくて気恥ずかしいな、と思った。でも、これくらい厳かにやらなきゃいけなかったんだろうか。汗をだくだくにかきながら着替えをしていた自分の姿と重ね合わせて、「ああ、あたし格好悪かったなあ」などと思った。とにかく練習の出来ない仕事なので、いつも余裕がなく、心の中では非常に取り乱していた。ひげを剃っている時に軽くお顔を切ってしまったこと。深爪させてしまったこと。水死した方の手を組み直そうとしたら皮膚が破けてしまったこと…情けない記憶しか浮かんでこない。しかし、次に浮かんだのは遺族の感謝にあふれた顔だ。ただ無我夢中で開いた口を閉じさせようとマッサージしていたのを見て「おじいちゃんを大事に扱ってくれて」と涙ぐんでいた娘さん。髪がまとまらなくて一心不乱にブラッシングしていたのを見て「何度も梳いてくれて、実の孫みたいだ」と言ってくださったおばあちゃん。「故人のために、真心込めて」という気持ちがない訳ではないが、それより与えられた仕事を完璧にしたい、という思いの方が強かった。だから感謝の言葉を言われる度に「いいえ、お仕事ですから」と答えてきたのだ。謙遜ではなく、本当にそうでしかない。逆に仕事でもなければ、そんなことはしない。

 「おくりびと」の主人公は、はずみで納棺師になってしまう。人に感謝される仕事だとか、誇れる仕事だとか、そういった自己弁護的な台詞は一切吐かない。ただ与えられた仕事をいっしんに、丹念に成し遂げる男の、真摯な物語である。

 ただ、納棺師という職業が成り立つとすれば、ますます葬儀社の仕事にやりがいを感じる人は減ってしまうだろうなと思わされた。一連の業務の中でも、やっぱり一番わかりやすく感謝されるのが納棺だからだ。仕事に誇りを感じるメイン業務なのである。それを取り上げられてしまったら、本当にイベントの手配屋みたいになってしまう。それを思うと、納棺師はいいとこ取りの職業だなあ、と思った。ちなみに、初任給はどんな湯灌屋でもあんなには貰えない。(小松)

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2008年10月 4日 (土)

書店の風格/第20回 耕棚の達人~三省堂書店神保町本店~

 書店の風格も、今回で20回目となる。記念して言わずと知れた「神保町のマドンナ」(命名:奥山)三省堂書店神保町本店を恐れ多くも紹介させていただきたい。

 古書の街・神保町にあって燦然と輝く日本有数の新刊書店。店内に入ると、まず「本日の勝負本!」とでも言うかのごとくに平台が特設されている。めぼしいモノはないかと思いながら書店に入るのが常の人であれば、その目的が一秒で叶ってしまうだろう。それほどまでに多くの人が「めぼしく」感じる事のできるラインナップが、ここには詰まっているのだ。そしてふと左右を見れば、コンシェルジュが厳かに佇んでいる。コンシェルジュが常に固定の場所にいる書店なんて、数えるくらいしかないだろう。そして正面を向けば雑誌棚が並び、奥にはフレッシュな文芸書とエッセイが山積みになっている。いわば本屋の「花形」フロアだ。

 2階、3階とあがるごとに専門的な領域の本が集まるようになってくるが、このたびはとくに4階を中心にご紹介したい。書誌アクセスから地方・小出版センター扱いのコーナーを受け継いでリニューアルし、少々時間が経過したがフレッシュ感はまだまだ失っていない。それどころか常に進化を遂げつつあると感じることができるのは、隣にある思想・社会棚の存在が大きいであろう。いつも時代に先駆けた情報を与えてくれる平台作りはもちろんのこと、思わずううむと唸らせる美しい棚構成。特に時系列・思想別に並べられている思想棚には舌を巻く。人物ごと、テーマごとに、ところどころ「おっ」と考えさせられる本がささっていて、思わず手に取ってみたくなる。そう、特定の本を探すときにしかじっくりと眺めることのない棚差中心の本棚こそが魅力的な香りを放っているのである。図書館的な構成になってしまい、平積みに比べてなかなか売れないとされる棚差こそが活きている本屋というのはなかなか見ない。

 書店でアルバイトをしているとき、「本棚というのは耕すものだ」と言われていたのを思い出した。新しいものが入ってくるから、古いものをよける。それだけでも棚を耕したことにはなるのだけれど、そこに担当者の考え方なりこだわりなりが入った差し替えがなされると、そのことそのものが栄養になる。養分が多ければ多いほど、棚は育ってゆくのである。そのためには試行錯誤を重ねて、掘って、掘って、掘りまくる。本棚の豊穣は、そうやってつくられるのだ。

 4階に来ると、棚を見るのが楽しみだ。そこには本との出会いばかりではなく、担当者の思いとのゆたかな出会いがいつもあるからだ。そしてエスカレーターを降りる頃には、決まって大量の本を抱えていることになる。よって、給料日前に行くのは大変危険な本屋さんである。(奥山)

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2008年10月 3日 (金)

靖国神社/第5回 献木・戦友会が植えた1000本(上)

●満員御礼で植樹はもう無理!

 この『靖国神社』の連載が本になった。『誰も知らない靖国神社』(2006年8月12日 発行)、書店で見かけたらぜひ手に取ってみて下さい。サブタイトルが「通いつめたり5年間」。5年も通えばいい加減に書くこともなくなるだろうと思われるかもしれないが、まだまだ題材は尽きないのである。
 靖国を歩いたことがあるならば気付いた人もいるだろうが、神社の境内に植えられた桜の多くには白いプラスチックのプレートがくくりつけられている。そのプレートにはこのような文言が記されている。
「北支派遣○○部隊 戦友会一同 昭和○○年○月○日」
 どうやら同じ部隊に所属していた者同士で樹木を献納したようだ。
 靖国神社にたずねてみたところ、現在境内には約1000本の献木が植えられているという。そして境内に植樹するスペースがなくなってしまったため、今では献木は受け付けていないらしい。

 神社という空間において、森は古くから「鎮守の森」として神々が宿る神聖な場とされてきた。明治神宮の鎮守の森が日本全国から10万本以上もの献木によって形作られたのは有名だ。明治天皇が1912に崩御、陵墓が京都に決定した後、東京市民のみならず全国的な気運の高まりがあって東京に「神宮」が創建されることとなった。
 林学博士の本多静六を中心として、「育ち続ける木」と「枯れる木」が巧みに配置されるなど森は150年構想で設計され、受付が始まると同時に献木が殺到した。納めたのは役所、団体、個人など様々だったが、中には1万本も納めた強者もいた。
 靖国と明治神宮では森のスケールが違うが、納められた木が景観を形成している点では共通している。ただ、その性質はあまりにも違っている。明治神宮における献木は亡き明治天皇へのものであるが、靖国の場合は何に対する献納なのか。やっぱり、「御霊」なのだろう。

 靖国神社の中でも、参道や神門、能楽堂といった華やかで明るい場所から遠く離れたところに、私が秘かに「献木ロード」と名付けた場所がある。遊就館より奥、神池よりさらに奥に進むと、それまでとはまったく雰囲気を異にしたなんだかとても地味な小道にたどり着く。
小道の靖国通り側には雑木林や白い石で作られたナゾのモニュメントなどがあり、反対側の本殿側には鉄柵に沿って献木の列がどこまでも続いている。奥まった場所だから人なんてまったく通らない。

 そこで、じっくりとプレートを眺めて歩いていると、ちょっとした疑問が浮かんできた。
 なぜ「靖国に」献木したのか。といっても、この疑問についてはほとんど「靖国だから」という答えが出てるようなものなのだが、やはり献納した人の口から靖国を選んだ理由を聞きたいと思った。また、なぜほとんどの献木の植えられた年が終戦のすぐあとではなく、20~30年経った昭和50年あたりに集中しているのか。これも気になった。
「駆逐艦『槇』生存者一名 連絡先 03-XXXX」
 あるプレートにはこう記されていた。生存者という言葉がリアルだ。

●迷うことなく、植樹は「靖国へ」
 いきなりの電話だったが、『槇』の戦友会の幹事である後藤さんは快く電話取材に応じてくれた。
「わたしたち『槇』の乗組員は舞鶴を中心に北陸地方出身者が多いものですから、北陸のどこかに慰霊塔を建てようという話もあることはあった、しかし実現はしませんでした」
 乗組員たちが終戦後に初めて集まったのは戦後20年ほどが経過した後だった。連絡の取りようがなかったのが、少しずつとれるようになり、ようやく戦友会を開くことができた。献木は戦友会が発足した記念に納めることにした。
「献納の先には靖国神社しか考えられなかったですよ。護国神社も含めて、他の神社なんて考えられなかったですよ。もう、自動的に、靖国神社、という感じだった。私たちが戦争に行ったころは、死んだら靖国に祀られる、というのが分かってました。靖国神社には顔見知りだった、しかし戦死してしまった兵隊たちが祀られている、やっぱり他の選択肢は考えられなかったですよ」
 議論の余地なく献納先は靖国だった。プレートに連絡先が書いてあるのは、まだ連絡の取れていない『槇』の乗組員が見たらいつでも連絡できるように、という理由からだという。後藤さんは22歳で『槇』の乗組員になった。全体で何人の乗組員がいたのかは把握できないが、少なくとも50人は戦死した。
「22歳、若い頃ですよ。今の人は戦争に行って戦った人の気持ちなんて分からないかもしれないけど、自分も含めて当時の人たちは純粋だったと思うよ。ただお国のために一所懸命に戦った、政治的なことなんて全く考えなかった……」
『槇』戦友会が献納したのは桜だが、これは他の献木に桜が多かったからだという。もともと桜が多く咲いていた土地であったこともあるが、靖国と桜は1944年の大ヒット曲『同期の桜』の歌詞に表現されているような特別な意味を持つ。
  貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
  花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう
                 作詞:西條 八十
 明治神宮では森を作る際に桜はあまり使われなかったが、これは明治神宮のすぐ隣を走る蒸気機関車の煙害を防ぐのにカシやシイ、クスなどが適していたという理由だった。こういう観点からも、靖国と明治神宮では献木の意味合いが全く違っていることに気付く。(宮崎太郎)

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2008年10月 2日 (木)

ホ ー ム レ ス 自 ら を 語 る 第7回 脚が利かない/和田広之さん(60歳)

 両脚が痛くて利かないんだよね。だから、うまく歩けなくてさ。そこに駅への階段(JR新宿駅東口地下改札に降りる階段)があるだろう。もう、4回も転がり落ちているよ。そのたびに交番のおまわりさんに助けてもらって、「また、あんたかい」って有名になっちまった。
 最初は右脚だけが痛くて、それもいつもというわけじゃ

なくて、年に何回か数えるほどだったんだ。それが15年くらい前から、頻繁に痛むようになって、その右脚をかばって歩いているうちに左脚も痛むようになって、とうとう両脚が利かなくなってしまったんだ。
 原因? わからんね。病院に行ってないからさ。ただ、右脚が痛くなるのは子どもの頃もあったから、先天的なものじゃないかと思うけどね。
 オレが生まれたのは昭和23年、青森県の津軽半島の村。家はオヤジとオフクロで農業と漁業、それに林業をやっていた。といっても、裕福だったわけじゃないよ。貧乏だったね。自分の家で稲作をやっていながら、オレたちの口に銀シャリが入るのは盆と正月だけだった。あとは麦飯か、サツマイモを蒸かしたのを食べていたからね。
 田圃は「足切り田」とよばれる底の深い田でね。大人が入ると腰のあたりまで泥に浸かっちまう。オレたち子どもがゴム長を履いて入っても、ゴム長の中に泥が入ってきたからな。普通の田圃なら一人が4条ずつ植えていくが、足切り田では2条植えが精一杯。まあ、ひどいところだった。
 中学を終えて、東京に出てきた。いや、集団就職じゃあない。中学3年生の3学期になるとほとんど授業がなくなるだろう。それでオヤジに「毎日ブラブラして遊んでいるんだったら、東京にでも行って働け」と、家をおん出されたんだよ。体のいい口減らしさ。それだけうちは貧しかったということだな。
   
 夜行列車で東京に出て、上野駅に降り立ったけど、右も左も分からないだろう。駅前でボンヤリしていると、手配師が寄ってきて仕事を紹介してくれた。土工の日雇い仕事で、ビルの基礎工事の掘削作業。日当は3,000円だったと思うな。それにしても、すぐ仕事にありつけるなんて、さすがに大都会は違うなと思ったよ。
 それをきっかけにして、以後、脚が利かなくなるまでの30年間、ずっと日雇い仕事を続けることになる。オレが東京に出てきたのは、昭和38年で東京オリンピックの前の年だったから、東京の街は建築ブーム、建築ラッシュでね。土曜、日曜も休みなく仕事があって、土日に仕事に出れば日当が2割5分増しになった。
 いまは日雇い仕事でも、土曜、日曜は休みだっていうじゃねえか。恵まれすぎなんだよ。オレたちの頃は大雨か大雪、それに台風がきたときくらいしか休みにならなかったからね。
 結婚? しなかった。こんな仕事をしていて、結婚なんてできるわけねえじゃねえか。ヤボなこと聞くんじゃないよ。
 愉しみは酒を飲むことだったね。オレはもっぱら焼酎。行きつけの立ち飲み屋で、豚のモツを肴にして浴びるようにして飲んだ。よく酔いつぶれちまって、ドヤ(簡易宿泊所)まで帰れずにそのまま道端に寝ちまうなんてこともあった。オレはギャンブルはやらないからさ。一日の仕事を終えて飲む焼酎が、一番の愉しみだったね。
 いまから15年くらい前だったかな……それまでも右脚が時々痛くなることはあったんだが、そのころから頻繁に痛くなるようになってさ。日雇い仕事は肉体労働だから、とても働ける状態じゃなくなって仕事をやめた。それからはホームレスだ。そのうちに左脚も痛むようになって、いまじゃ普通に歩くのもままならないからね。
 病院に行かないのかって? 行かない。行かない。さっき新宿駅の階段を4回も転がり落ちた話をしたろう。そのときおまわりさんが救急車を呼んでくれたんだけど、オレは4回とも途中で降りて、病院まではいかなかったからね。
 なぜかって? オレは福祉だとか、行政だとか、国だとかの世話になりたくないんだよ。いまの日本は国民一人あたり600万円もの借金を抱えてんだよ。そんな国民の大切な血税を、オレみたいな者のために遣ったらもったいないだろう。国民のみなさんに申しわけないからね。
 だから、これまで福祉とか、ボランティアの世話にはなったことがないんだよ。食べものだって、みんな自分で手に入れてるからさ。
 どうやってかって? 読み捨てられた漫画週刊誌を拾って、それを路上書店に卸して現金に替えているんだ。ただ、オレは両脚が利かないから遠くまではいけないし、階段の多い駅の構内にも入れないからね。一日中探し回って10冊も拾えればいいほうだ。10冊を卸しても500円にしかならない。それで一日分の食費を賄うんだが、500円稼げない日も多いからね。まあ、こんな身体だから仕方ないよな。

 行政とか福祉の世話にはならないけどさ。一つだけ希望があるんだ。それは雨の日と冬の特に寒い日だけでいいから、新宿駅の構内に入ることを許してくれないかと思ってね。一般の乗客に迷惑のかからない片隅でいいからさ。脚の利かないオレには、雨の日と冬の寒い日はほんとうに辛いんだ。
 あとは人に迷惑をかけないように、オレのことはオレが始末してやっていくからさ。それだけはお願いしたいな。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月 1日 (水)

テレビ局の入構証

仕事の関係でテレビ局の入構証というのを局ごとに持っている。理由は簡単でないと局内に入れない。入れないと仕事ができないからだ。忘れると大変で一緒にお仕事をしているADの方など呼び出してもらって降りて来させ、受付でかなり面倒な手続きをしなければならない。その間に会議でも始まったら迷惑をかけてしまう。
今の入構証は以前と違ってハイテクだ。おおよそスイカやパスネットみたいなものと考えてもらえばいい。それをピッとかざすと門が開く。入構証には局名と私の名前と顔写真と所属会社などが見えるように記されている。いったん入構するとそこは別世界。めくるめく……などということは別にない。
「マスコミ」と呼ばれる組織に正社員として、または関係者として関わるようになって20年以上経つと何の驚きもない。いやそうでない人も別段すごいとは感じない光景が広がる。

新聞社の場合は基本的に社員が構成するので社員証でいい。ただし編集局は厳重である。これは20年前より厳しくなった。毎日新聞の場合は私が社員だった頃、編集局の前には警備員が一応いたけれども眠っているようだった。今はビシッとしておられる。そこをくぐり抜けると20年前はそのまま編集局へ入れたと記憶するが今はもう1つチェック機関をくぐらなければならない。
それも当然だろう。編集局の中で飛び交う情報は、それこそ全部書いたらあぜん呆然仰天のたぐいのオンパレードである。「10を取材して1を書く」の原則でいえば残りの9が渦巻いているわけである。裏が取れない、書くに値しない、書ききれないなどなど。そのなかには値しないけど下世話な興味は十分に引く情報も満載なのである。

一方でテレビ局にはそうした深刻さがあまりない。ただし私のような外部の人間が関わる量が新聞作りに比べると格段に多いので入構証が必要なのだろう。でも顔写真は効果薄な気がする。局内には「入構証を常時携帯せよ」と張り紙が貼ってあるので私は首からぶら下げている。そうしている人が圧倒的に多い。といってすれ違いさまに入構証の顔写真とご本人を素早く比較するのは神業である。多分できないしやろうとしている人を見たこともない。
おそらくそんな表面上の問題ではなく入構するまさにその際の情報確認が決定的に重要なのだろう。スイカと同じわけだからIDカードの情報はコンピュータで照合されているはずだ。そこで怪しい人物をはじこうとの算段である。ここで問題。私は怪しい人物ではないのか。答え。怪しい。ただし怪しいにしても個人情報と入構時間が記録されるので何かあれば特定される。だから大丈夫なのである。

最近時々見かけるのはタレントさんで入構証をぶら下げている方。この光景は以前はなかったよなあ。

この入構証はなくすと大変らしい。どうやら顔認証まではしていないらしく拾った人が不届き者だと入れてしまうようだからだ。あんなところに仕事もないのに入っても仕方がないと思い込んでいたのだが、どういやらそうでもないと最近気づいて厳重に管理するようになった。
というのも私の入構証を見て「すごーい」「ほしーい」という人がたくさんいると知ったからだ。見せびらかしたのかって? 違う違う。先に書いたように局内にいる時にはぶら下げておかねばならないではないですか。で、そのまま退局した後も忘れたままぶら下げていたのを「それ何?」と聞かれたのだ。
笑い事ではなさそうである。うっかり置き忘れたのを不届き者が手に入れて私の入構証で侵入したとする。そこで盗撮やら何やらを働いて去ったとする。後に発覚したら記録に残っている不届き者は「私」となってしまうのだ。
そうか。だからこそ入構は厳重になったのか。(編集長)

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