ホームレス自らを語る 第10回 くる病と結核を患って/S・Mさん(52歳)
「くる病」って知ってますか? ビタミンDの欠乏によって発症する、乳幼児に多い病気です。放っておくと、鳩胸や背骨異常、X字脚あるいはO字脚など骨の形成障害を引き起こす病気です。いわゆる僂傴(せむし)の人は、この病気が原因の人が多いですね。
私も生まれてしばらくして、そのくる病に罹っていることがわかりましてね。2歳のときからその治療のために虚弱児施設に入れられました。そこに小学校を卒業するまで入っていました。
生まれは長野県で、松本の近くのA町でしたが、こんどの町村合併で別の名前になったような噂を聞きました(A町は2005年の合併で市に昇格し、別の名前に変わっている)。
父親は失対(失業対策)の作業員、ようするに日雇い労働者ですね。母親は私を産んでから、しばらくして病気で亡くなっています。どんな病気で亡くなったのか、誰も話してくれないからわからないですね。ですから、私は母親の顔を知りません。上に姉と兄がいて、私が3人姉弟の末っ子になります。
ただ、私は2歳から施設に入っていましたからね。もの心のつく前からなので、施設で生活するのがあたりまえのようになっていました。だから、家が恋しいというような思いはありませんでした。その施設はA町から車で3時間もかかる県南のI市にあって、家族が会いに来ることもほとんどなかったですね。
小学校もその施設から通いました。学校は普通の小学校でしたが、クラスは病気などのハンデを抱えた児童ばかりを集めた擁護学級でした。その小学校に卒業するまでの6年間通いました。
小学校卒業と同時に、施設の医師からくる病は完治したといわれ退所を許され、A町の家に帰りました。母親こそいませんでしたが、姉が母親代わりで、家族4人で食卓を囲んだときなど、「ああ、これが普通の家庭の生活なのか」と思いましたね。
中学校は家から通いクラスも普通のクラスでした。ただ、体育の時間は3年間ずっと見学をしてました。勉強のほうは普通。音楽が少し得意だったのかな。
中学を卒業後、松本のレストランに就職して、コックの見習いになりました。手に職をつけておいたほうが、将来的にいいと思ったからです。そのころになると、もう肉体的なハンデはなくなっていて、同僚たちと同じように朝の仕込みからいっしょに働きました。仕事が辛いと思ったこともありませんね。
ただ、このコックの見習の仕事は、2年くらいでやめてしまいます。私は気分にむらっ気があるというか、その後も1つのところに辛抱できなくて、職場を転々とすることになります。
レストランをやめたあとは、ドライブインとか、大衆食堂のような飲食店で働きました。どの店も2、3年すると辛抱できなくなってやめて、別の店に代わるというのを繰り返しました。
そんなことしていて20代後半に東京に出てきました。特に目的があったわけではなくて、東京に行けば何か面白いことがありそうな気がしたからです。でも、特に面白いことはありませんでしたね。
最初はパチンコ店の店員になって、それもすぐに辛抱できなくなって、あとは日雇いの労働者です。半月契約で飯場に入って働き、契約を終えて飯場を出ると、場末のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって遊び暮らし、カネがなくなるとまた飯場に入って半月間働く。その繰り返しですね。
ただ、私の場合は同じ日雇い仕事でも、1つのところに落ち着けなくて、東京の山谷をはじめ、横浜の寿町、大阪の西成など、各地の飯場を転々としました。
稼いだカネは酒とギャンブルに消えました。これが唯一の愉しみでね。酒なら何でも飲みました。ギャンブルは競艇が多かったです。でも、私の性格ですから借金をしてまで、酒やギャンブルにのめり込むことはありませんでした。ささやかな愉しみだったです。
結婚はしませんでした。そんなことは考えたこともなかったし、日雇いで働いていては、そんな機会もありませんからね。
42か43歳のときでしたが、胸の痛みを覚えて病院で診てもらったんです。診断は肋膜炎でした。しかし、それはわりと簡単に治って、それからも日雇いの仕事を続けていたんです。そうしたら45歳のときに、また胸が痛んで診てもらったら、こんどは結核でした。肋膜炎を患っていながら、日雇いの肉体労働で働いたのがいけなかったようです。
半年間の入院でした。そのときは横浜の寿町で働いていたので、治療費や入院費は横浜の福祉事務所が面倒をみてくれました。
病院を退院するとき、医者から「もう、肉体労働はしないように」と禁じられてしまいました。といっても、世の中は不況のどん底のときで、肉体労働以外の仕事のクチなどありませんでした。だから、ホームレスになるより仕方なかったですね。
それで前から知っていたこの戸山公園(東京・新宿区)で、野宿をするようになりました。ただ、私は新参者でこの公園に段ボール小屋はつくれないので、夜はこの先の首都高の道路の下に小屋を作って寝ています。それで昼間だけこの公園に来て、ベンチで日向ぼっこをしながら、ラジオを聞いて時間をつぶしています。
私もまだ52歳ですから、何とかしなくてはとは思うんですが、こんな生活をしていて身体が元の丈夫な身体に戻るとも思えませんしね。どうしたもんかと考えるばかりです。(聞き手:神戸幸夫)
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