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2008年10月 3日 (金)

靖国神社/第5回 献木・戦友会が植えた1000本(上)

●満員御礼で植樹はもう無理!

 この『靖国神社』の連載が本になった。『誰も知らない靖国神社』(2006年8月12日 発行)、書店で見かけたらぜひ手に取ってみて下さい。サブタイトルが「通いつめたり5年間」。5年も通えばいい加減に書くこともなくなるだろうと思われるかもしれないが、まだまだ題材は尽きないのである。
 靖国を歩いたことがあるならば気付いた人もいるだろうが、神社の境内に植えられた桜の多くには白いプラスチックのプレートがくくりつけられている。そのプレートにはこのような文言が記されている。
「北支派遣○○部隊 戦友会一同 昭和○○年○月○日」
 どうやら同じ部隊に所属していた者同士で樹木を献納したようだ。
 靖国神社にたずねてみたところ、現在境内には約1000本の献木が植えられているという。そして境内に植樹するスペースがなくなってしまったため、今では献木は受け付けていないらしい。

 神社という空間において、森は古くから「鎮守の森」として神々が宿る神聖な場とされてきた。明治神宮の鎮守の森が日本全国から10万本以上もの献木によって形作られたのは有名だ。明治天皇が1912に崩御、陵墓が京都に決定した後、東京市民のみならず全国的な気運の高まりがあって東京に「神宮」が創建されることとなった。
 林学博士の本多静六を中心として、「育ち続ける木」と「枯れる木」が巧みに配置されるなど森は150年構想で設計され、受付が始まると同時に献木が殺到した。納めたのは役所、団体、個人など様々だったが、中には1万本も納めた強者もいた。
 靖国と明治神宮では森のスケールが違うが、納められた木が景観を形成している点では共通している。ただ、その性質はあまりにも違っている。明治神宮における献木は亡き明治天皇へのものであるが、靖国の場合は何に対する献納なのか。やっぱり、「御霊」なのだろう。

 靖国神社の中でも、参道や神門、能楽堂といった華やかで明るい場所から遠く離れたところに、私が秘かに「献木ロード」と名付けた場所がある。遊就館より奥、神池よりさらに奥に進むと、それまでとはまったく雰囲気を異にしたなんだかとても地味な小道にたどり着く。
小道の靖国通り側には雑木林や白い石で作られたナゾのモニュメントなどがあり、反対側の本殿側には鉄柵に沿って献木の列がどこまでも続いている。奥まった場所だから人なんてまったく通らない。

 そこで、じっくりとプレートを眺めて歩いていると、ちょっとした疑問が浮かんできた。
 なぜ「靖国に」献木したのか。といっても、この疑問についてはほとんど「靖国だから」という答えが出てるようなものなのだが、やはり献納した人の口から靖国を選んだ理由を聞きたいと思った。また、なぜほとんどの献木の植えられた年が終戦のすぐあとではなく、20~30年経った昭和50年あたりに集中しているのか。これも気になった。
「駆逐艦『槇』生存者一名 連絡先 03-XXXX」
 あるプレートにはこう記されていた。生存者という言葉がリアルだ。

●迷うことなく、植樹は「靖国へ」
 いきなりの電話だったが、『槇』の戦友会の幹事である後藤さんは快く電話取材に応じてくれた。
「わたしたち『槇』の乗組員は舞鶴を中心に北陸地方出身者が多いものですから、北陸のどこかに慰霊塔を建てようという話もあることはあった、しかし実現はしませんでした」
 乗組員たちが終戦後に初めて集まったのは戦後20年ほどが経過した後だった。連絡の取りようがなかったのが、少しずつとれるようになり、ようやく戦友会を開くことができた。献木は戦友会が発足した記念に納めることにした。
「献納の先には靖国神社しか考えられなかったですよ。護国神社も含めて、他の神社なんて考えられなかったですよ。もう、自動的に、靖国神社、という感じだった。私たちが戦争に行ったころは、死んだら靖国に祀られる、というのが分かってました。靖国神社には顔見知りだった、しかし戦死してしまった兵隊たちが祀られている、やっぱり他の選択肢は考えられなかったですよ」
 議論の余地なく献納先は靖国だった。プレートに連絡先が書いてあるのは、まだ連絡の取れていない『槇』の乗組員が見たらいつでも連絡できるように、という理由からだという。後藤さんは22歳で『槇』の乗組員になった。全体で何人の乗組員がいたのかは把握できないが、少なくとも50人は戦死した。
「22歳、若い頃ですよ。今の人は戦争に行って戦った人の気持ちなんて分からないかもしれないけど、自分も含めて当時の人たちは純粋だったと思うよ。ただお国のために一所懸命に戦った、政治的なことなんて全く考えなかった……」
『槇』戦友会が献納したのは桜だが、これは他の献木に桜が多かったからだという。もともと桜が多く咲いていた土地であったこともあるが、靖国と桜は1944年の大ヒット曲『同期の桜』の歌詞に表現されているような特別な意味を持つ。
  貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
  花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう
                 作詞:西條 八十
 明治神宮では森を作る際に桜はあまり使われなかったが、これは明治神宮のすぐ隣を走る蒸気機関車の煙害を防ぐのにカシやシイ、クスなどが適していたという理由だった。こういう観点からも、靖国と明治神宮では献木の意味合いが全く違っていることに気付く。(宮崎太郎)

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