◆新連載◆アフガン・終わりなき戦場/アフガンを視る(1)
パキスタンのイスラマバードから飛行機に乗り、30分で、アフガニスタンの首都カブールに到着した。2006年12月のことである。眼も醒めるようなラピスラズリ色の空を思い描いていたのだが、アフガニスタンの空は東京のそれに近い、淡い青をしていた。空よりも眼界に強く飛びこんできたのは、UNのマークをつけた国連の輸送機や、ISAF(国連治安支援部隊)に所属するルーマニア軍やイタリア軍の軍用機であった。自動小銃を肩に担いだ兵士があたりを忙しそうに走り回っている。
かつて、アフガニスタンはシルクロードの要所として発展した。そこでしか採取することのできないラピスラズリは、瑠璃石と名前を変え、金以上に高価な宝石として、遠く離れた日本にまで伝来した。日本では、ファミリーレストランの名前にもなっている「バーミヤン」とは、シルクロード時代に発展した、緑の美しいオアシスの町の名である。日本とアフガニスタンは何の関わりも無いように思えるが、その接点は紀元前から存在しているのである。
シルクロードの輝かしい歴史と同時に、アフガン史を染めるのは近代に入ってからの戦争につぐ戦争の側面である。1838年から1989年の間に、アフガニスタンはイギリスやソ連の列強国から度重なる侵攻を受けた。ソ連軍の撤退後、各勢力による権力争いが勃発し、内戦に発展した。内戦は凄惨を極め、血で血を洗う戦闘が繰り返された。治安状況は急激に悪化し、イスラムで禁忌とされている、強姦や強盗という事件がアフガン全土で多発した。治安の悪化と経済の瓦解に伴い、多くの人々が祖国を離れ、難民に身をやつすこととなった。国連難民高等弁務官事務所によると、内戦が終結する1990年までに、最低でも620万人が難民になったという。アフガニスタンの人口は、正確な調査が行われたことがないので詳しくは不明であるが、一般的に二千万人だと言われている。つまり、国民の30%もの人々が戦火で国をおわれたのである。
90年代後半に入り、治安の回復を掲げて、アフガニスタン統一を図ったのがタリバンである。パキスタンを通じて投じられた、アメリカの莫大な資金を駆使し、タリバンは快進撃を続け、2000年にはアフガニスタンの90%を手中に収めるまでに至った。タリバン主導の厳しい統制の下、アフガニスタンは治安を取り戻し始め、国外に避難している難民たちの帰還事業も小さいながら始まった。イスラム原理主義という、復古的な側面もあったが、ともあれアフガニスタンの市民は、この時、戦闘が日常に顔を出すことのない、通常の社会を取り戻しつつあった。
しかし、2001年の国際貿易センタービルに対する、同時多発テロが、アフガニスタンを再び戦火に引きずり込むことになる。アメリカは報復戦争をしかけ、デイジカッターやバンカーバスター、非人道的兵器の疑いが極めて深いクラスター爆弾をアフガニスタンの大地に雨あられとふらした。この攻撃で、再度十数万人規模の人々が国をおわれ、パキスタンやイランで難民となった。
私は、アフガニスタンに着いて以来、この暗澹たる受難の歴史を頭の中で幾度となく、なぞっていた。これだけの災厄に見舞われた人々は、何を思い、国を脱出したのか。そして、どのような日常を送っているのか。わたしはカブール中心部ダ・アフガン市場にほど近い難民の移住地を取材した。(白川徹)
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コメント
ご負担おかけするとあれなのであくまでノーレス期待ですが、白川静先生の漢字論を読ませていただいている気分にさせられました。いや白川徹さんって或いは宮崎さんなのかって、宮崎さんの文章しんじられぬほど美味くなりましたね本当にビックリしました。
投稿: 蒔田一郎 | 2008年9月13日 (土) 01時54分
蒔田一郎様
宮崎太郎氏と白川徹氏はまったくの別人です。当ブログ左上の「プロフィール」にも書いておきました。白川氏はアジアプレス所属の気鋭の新進ジャーナリストでアフガンで現地取材を敢行しています
投稿: 月刊「記録」編集長 | 2008年9月13日 (土) 09時30分