三鷹事件の現場を歩く
1949年7月15日、9時23分。三鷹駅の西側にある電車庫から7両編成の電車が無人のまま暴走。駅構内にある一番線の車両止めを突破し脱線。そのままトイレと交番を破壊して人家に突っ込み止まった。謎の多いことで有名な「三鷹事件」である。下り電車から降りたばかりの乗客6人が死亡する痛ましい事件であった。
「線路があった側には4畳と6畳の部屋があったんだよ。ちょうど電車が押し入れと仏壇のあった場所に突っ込んだから誰もケガしなかったんだ。でも、かもいに大きな羽子板が飾ってあって、電車が衝突した振動で姉さんが寝ているところに落ちてきたんだよ。もし蚊帳を吊っていなければ、ケガしてたね」
54歳の男性は自宅に電車が飛び込んできた様子を、そう語ってくれた。
当時の新聞に掲載された写真を見ると、交番など跡形もなくなっている。もし、脱線する角度がわずかでも違えば、この家の住民も無事ではなかったはずだ。
現にその家の隣に住んでいた75歳の男性は、次のように証言する。
「寝ているおばあさんの30センチ横を電車がかすめていったと聞いているよ」
当時、高校1年で翌日の数学の試験に備えて勉強してこの男性は、2階の窓から事件を目撃している。
「ダダダダって爆音がしてね。それからスパークがバッバッと光って、途端に数メートルの埃が舞い上がって何も見えなくなったんだ。爆弾が落ちたのかと思ったよ。機銃掃射も艦砲射撃も経験しているから余計にね」
終戦からわずかに4年、日本はまだ米国の占領下にあった。爆音なら自動車や飛行機、列車の事故より爆弾を思い浮かべる、そんな時代でもあったのだ。
捜査の進展は早かった。事件翌日には逮捕状が執行され、その翌日には2人の共産党員が逮捕された。じつは共産党員が事件の犯人だという説はさまざまな形で広められていたふしがある。事件直後の現場で「これは共産党の仕業だ」と吹聴する人物がいただけではなく、放送まで流れていたという情報まであるのだ。
「三鷹駅前にも日本放送連盟三鷹放送所のスピーカーが設置されていたが、事件発生直後に、次のような放送を流した。『この事故は、共産党員が関係していると見られています。あくまで町民の皆さまと真相を追求していきましょう』。放送所は防犯等で警察とは普段協力関係があった」(『新盤 三鷹事件』小松良郎 著/三一書房)
それだけではない。7月15日に三鷹で大事件が起きるという噂は、鉄道関係の上層部や警察関係で語られていたとの噂もある。実際、電車によって大破した駅前の駐在所には4人もの警察官が勤務していたが、たまたま交番を留守にしており全員が助かっている。しかも戸籍簿まで事件発生前に持ち出してだ。
共産党に罪を押しつけるために列車を脱線させるなど、今の感覚では荒唐無稽の一語。しかし当時の日本では「バカらしい」とも言いきれない雰囲気があったらしい。
事件が起きた年の1月に行われた衆院選で、共産党は勢力を一気に拡大した。4議席から一挙に35議席。同じ選挙で社会党が48議席であることを考えれば、この人数がどれだけインパクトがあったかがわかるだろう。しかも事件の3年前、1946年3月にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」が勃発している。米国にとって日本は東アジアの前線基地であり、ソビエトや中国に対する反共基地でもあった。それだけに日本の「赤化」だけは避けたかった。実際、事件の翌年に企業のレッド・パージも行われるようになっている。
また当時、GHQと政府は日本経済を立て直すために、国家財政と大企業優先の政策を推し進めていた。結果として民間企業で大量の解雇が生まれ、労組との争いが起こっていた。さらに官公庁職員の首切りも行われた。国鉄の整理予定者は関係職員の6分の1という苛烈なものであった。この計画に強く反対していたのが、共産党がリーダーシップをとっていたとみなされた国鉄労組だったのだ。
つまり日本を「赤化」させないためにも、経済政策を推進するためにも、共産党の「力」を弱める必要があったのである。実際、当時の首相だった吉田茂は、事件の翌日に共産党を批判する声明を発表している。
「虚偽とテロが彼ら(共産党)の運動方針なのである。私は国民諸君が冷静に落ち着いておられることを切に希望する。共産党主義者が鳴らす警鐘や彼らの発するバ声を割引し事態を正しく観察するならば、現下の社会不安の大部分は霧散霧消する種類のものであろう」(一部抜粋)
この声明は共産党を三鷹事件の犯人として糾弾したわけではない。むしろ大量の解雇に反対する先鋭的な労働運動を警戒する声明として読み取れる。しかし事件の翌日、テロリストだと名指ししたのも事実である。
7月17日の朝日新聞1面には、三鷹事件の容疑者が逮捕されたことが大きく扱われ、その下に「不安をあおる共産党」という見出しで吉田首相の声明が書かれている。タイミングよすぎるとはいえまいか。
昨年12月、三鷹駅改札の内側に商業施設がオープンした。中華などのレストランに加え、化粧品なども扱う雑貨店、マッサージ店などもある。10時半、11時まで開いている飲食店を見ていると、59年前に列車が暴走したことなどウソのようだ。
ただ、戦争も占領も払拭した街でふっと大丈夫かとも思う。ビラを配っただけで75日間も拘置され、ネットで流布された自己責任論が大手を振って被害者を断罪する時代になっているからだ。きな臭い時代に生きている実感さえない時代は、三鷹事件のころと比べて安心なのだろうか。(大畑)
※写真:三鷹駅南口、当時とは場所が違うだろうが、まだ交番もトイレもある。
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