山川出版社教科書『日本史』表記変遷 最終回
●院政
白河上皇から、鳥羽、後白河と続く「院政」と摂関政治の関係はどう記載されているだろうか。七五年は「強烈な専制的性格」をもった院(上皇)が「摂関家を完全に圧倒した」とある。白河上皇の父である後三条天皇の政治が「摂関家をこえる天皇の権威を認識」させたことに続く、「天皇家の権威」の復活という文脈である。
八九年になると「強烈な専制的性格」といった上皇の個性の記載は消え、「摂関政治のもとでめぐまれなかった中・下級貴族、とくに荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力にとりこ」んだ、などの結果として「摂関家の勢力はおとろえた」となる。
この変化は前回に述べた延久の荘園整理令への評価の違いから来る。八九年は整理令を「かなりの成果をあげた」とするために、「荘園との対立関係にもあった国司が歓迎」して「支持」したということになる。九八年からは「摂関家は、勢力のおとろえを院と結びつくことでもりかえそうとつとめた」と、摂関政治から院政に、オセロゲームのように権力基盤が変わったのではなく、衰えつつも摂関の権威はなお残存したという事実を重視したような記述になる。橋本義彦の主張も顧慮されたと見るべきか
とにもかくにも白河上皇という人物の存在感は強烈である。大河ドラマに取り上げられるのはいずれも歴史上の有名人物だ。そこに列する人々と同等以上の人と私は思う。どうやら学界の主流は白河上皇のパーソナリティーというより外部環境が変化しての「そして誰もいなくなった」論のようである。けど本当かなあ。以前「女系天皇はどうして問題なのか」というタイトルで書いた(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2005/11/post_00ce.html)文章から再掲すると
父は天皇ということになっているが実は・・・・という例で有名なのは鳥羽天皇1子の崇徳天皇である。彼の実の父は祖父の白河上皇(法皇)だとの説が有力だ。確かに倫理的にはともかく万世一系は途切れてはいない。ただこの話は、だからこそ表沙汰になり得たともいえるのだ。皇統に皇族以外の男性の遺伝子が紛れたことはないと絶対に言い切れるか
である。考えれば考えるほどすごい話だ。山川の教科書は個人の力量によって歴史が転換したというロジックを基本的に避けているので白河上皇に限らず英雄史観が乏しい。それはそれで一つの見識だけれども面白みを欠く要素でもある。まあ教科書は面白くなくてもいいのか。
また七五年は、摂関政治と院政の「私的な」性格についての記載がある。「摂関政治がすでに国政の私的な運営であったが、摂関は天皇の外戚とはいいながら、ほんらいは臣下であるという遠慮もあって、あまり専制的な行為はとらなかった。これにたいし院政は、上皇が天皇の父であるという立場で国政を専断するというもので、私的な性格がいっそう強くなった」とあるのだが、八九年以降は見当たらない。
この辺も意外と見逃されていないか。「家来の立場のお爺さん(外祖父)よりも元天皇(または天皇パパ、天皇ジジ)の方がおっかないから摂関政治より院政の方が強いのだ」という刷り込みが多分に残っている気がする。考えてみれば、それが当てはまるならばいつの時代でも天皇家がある限り通用する万能鍵のような理屈になってしまう
●僧兵
どのような階層で組織されたのか。七五年は「所領の荘園から徴集された農民たちが、寺内の雑務にあたっていた下級僧侶とともに」組織されたとある。八九年は「数多くの荘園から挑発した農民たちと下級の僧侶」とし、ほぼ同様の記載である。ところが九四年からは単に「下級の僧侶」だけとなり、「徴集された農民」が消えている。
ここからは私の推察。要するに「僧侶」とは何かという価値観の問題であろう。律令制に書き込まれている得度がなされていない者(私度僧)を僧と認めなければ「下級の僧侶」と分けて考えねばならない。でもこの時代は実態としてそうした区別が消えかけており北嶺(比叡山延暦寺)も律令を厳格に当てはめるならば私度僧ともいえる人物が座主に就いているのだから分ける必要がない、と
●保元の乱
構図はどう変わったか。七五年には父の鳥羽法皇に「きらわれていた崇徳上皇」らが「乱をおこし」、「朝廷方は機転を制して勝利をおさめた」とある。八九年になると「かねて皇位継承をめぐって(鳥羽)法皇と対立していた崇徳上皇」が「武士を集めた」のに対して、「後白河天皇」らが「武士を動員し、上皇方を攻撃して討ち破った」と変わる。この流れは二〇〇二年まで変わらない。
まず、弟の近衛天皇と後白河天皇の即位に崇徳上皇が好意的だったとは思えないので、「きらわれていた」と「皇位継承をめぐって対立」はさほどの違いはなく、山川らしく主観的な文言を嫌った変化とみられる。崇徳上皇が「乱をおこし」ではなく「武士を集めた」も同様の理由とみられる。問題は「後白河天皇」が八九年以降の記載のように、主導権を握っていたかどうかである。二九歳の天皇に当事者能力があったのだろうか。確かに後年の活躍?から推せば後白河帝に並々ならぬ力量があったとはいえる。とくに源頼朝との今はやりの言葉でいえば「インテリジェンス」合戦はすごかった。頼朝もまた希代の謀略家だったので息を飲むやりとりが展開された。
しかし保元の乱時点では後白河天皇側の藤原通憲という謀略に長けた学者、最近で例を探せば竹中平蔵さんみたいな人のプレゼンスが大きいのも事実。
●平氏政権は古代か中世か
七五年から八〇年までは中世の範囲に、八九年以降は古代の範囲に記載されている。これは広く知られているように平清盛による六波羅政権が多分に貴族的性格を有しているのを「清盛は武士だろう」(つまり中世)を退けているのだろう。
でも清盛はやっぱり武士でしょう。出自はもちろん、平治の乱には勝ったわけだし。なるほど平治の乱は藤原信頼を名前通り信頼してしまった源義朝の落ち度や政略は仕掛けるものの意外と失敗もする「平安の小沢一郎」後白河院のエラーなど清盛の武将としての能力以外での勝因は数えられる。とはいえ彼が武士でなければあり得なかった勝利であるのも事実だ。
もう少し引いて考えてみると清盛の祖先達、通称「桓武平氏」は戦争に弱かったという点に着目できる。将門は強かったけど結局敗死。忠常は源頼信へ戦わずして降伏。正盛に至っては源義家の家来。ただここで白河院政に食い込み、彼の新設した北面武士のトップとなる。この足がかりは子の忠盛にも引き継がれ、忠盛はさらに鳥羽院政で殿上人入りを果たし院近臣として権勢を振るう一方で宋との貿易で大もうけする。清盛も基本的にこの路線を踏襲しており「六波羅政権の貴族的性格」と切り離すより忠盛-正盛-清盛の連続性を求めれば古代に位置づけるのは妥当ではないか
これでひとまず当連載は終わらせていただきます。中世編以降は時間を見つけては進めてまとまったらアップする予定です。ごくわずかの気高き読者の皆様。ご愛読ありがとうございました(編集長)
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コメント
こちらこそ、他にはない内容を毎週楽しませて頂きました。
また会える日まで、さようなら。
投稿: 愛読者 | 2008年9月10日 (水) 04時27分