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2008年9月

2008年9月30日 (火)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟/第19回 投げ出されたホースの謎

 新シリーズのホテルニュージャパンは、このブログを介して知り合ったニュージャパン通の方にお話しを聞いてまとめていく。最初はニュージャパンの建築問題に詳しいKBさんの話から。

20a_13  まずはこの投げ出されたホースに注目してもらいたい。一見、消火活動に使ったように思えるが、KBさんはその説が疑わしいという。それはホースのソケット部分が外れているからだ。通常、消火用のホースは連結した状態で納められているので、ホテルに忍び込んだ誰かがイタズラした可能性も高いという。

※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年9月29日 (月)

ロシアの横暴/第2回 南オセチア独立に隠されたロシアの野望(2)

364  さて、ここで今回の紛争の舞台となったカフカスについて少し説明しておこう。カフカスはカフカス山脈の北側に位置する地域の呼び名である。チェチェンをはじめ、ダゲスタンやイングーシなど小国がひしめいている。山の南側に位置するグルジア・アゼルバイジャン・アルメニアをザカフカジエ地方(カフカスのうしろにある場所)と呼んでいるが、両地域をひとまとめにして「カフカス地方」とすることが多いようだ。

 ザカフカジエのアルメニアにはノアの方舟で有名なアララット山がある。大洪水を生き延びるのに神の予言を守って方舟に乗りこんだ7人はアララット山に漂着し、この地から世界に散って行ったとされている。神の裁き、ノアの洪水で壊滅した人類を再建する出発点になったというわけだ。一説によればアララット山から北へ散ったのが白色人種、東へ散ったのが黄色人種、南へ散ったのが黒色人種だそうである。大洪水をもたらした大雨があがった時、空いっぱいに大きな虹がかかった。その虹は人類に「今後は助け合って生きよ」と告げたのだという。生活協同組合のシンボルは虹で、「助け合い」が出発点になっている。ノアの洪水伝説に由来したものだ。カフカス地方で助け合いや協調を趣旨とするコミュニティに「虹=ラードゥガ」と命名することが多いのもこの伝説に基づいているようだ。

 こうした聖書伝説を裏付けるようにカフカス地方には人類が生きるのに必要なすべての農作物が生育できる土地であると言われている。さらに大洪水以前は草食だった人類が洪水以降には肉食を始めたという説のとおり、アララット山に羊が立っている絵がアルメニア産のワインやブランデーのラベルにある。カフカス地方では羊飼いは聖職である、という言い伝えもこのことを物語っている。

 ところでカフカスは「ロシアのアキレス腱」と言われているが、実に的を得たたとえである。ギリシャ神話に登場する不死身の英雄アキレスはトロイア戦争のとき、唯一の弱点である足首の腱(アキレス腱)をアポロンに射られて死んだという。
原油高の波に乗って強いロシアを印象づけてはいるが、だまし討ちや買収といった裏の手を使わなければ支配できないカフカス、実は大国ロシアの、さわられたくない弱みなのである。弱みを気づかれたくないから強引で横暴になる。ロシアは今、何かのはずみでアキレス腱を撃たれて破滅するかも知れない、危険な道を走り抜けようとしている。(川上なつ)

※写真は、前回とは別の角度から撮影したカフカスの山々

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2008年9月28日 (日)

鎌田慧の現代を斬る/第124回 自公政権とトヨタ横車の崩壊

 自民党の総裁選挙は、初めから麻生太郎に決まっていたデキレースの茶番劇だった。候補者として立候補した与謝野馨、小池百合子、石原伸晃、石破茂は、総裁選よりも大臣のイスや衆院選での自分の票稼ぎに関心があったようだ。まさに「偽装総裁選挙」で麻生をはやし立てる4人組という感じであった。
 いずれにせよ、麻生太郎が選挙管理首相という光栄あるイスを手にしたことになる。まちがいなく、麻生太郎は自民党の歴史に残る政治家となるだろう。11月の総選挙の詳細な議席数はかわからないが、自民党の大敗、民主党の勝利、野党連合の過半数はまちがいない。すでに世論は自民党を完全に見限っているし、自民党内でさえいつ鞍替えしようとソワソワしだした議員がいる。自民党の敗北、政界再編成となって自民党分裂は避けられない見通しだ。つまり麻生太郎は自民党最後の首相として歴史に刻まれることになる。

→続きはPDFで  「10.pdf」をダウンロード

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2008年9月26日 (金)

靖国神社/第4回 平和のシンボル「白鳩」を探せ!

 それを眺めていたら、販売機の横にある小屋から女性が出てきて、「今は動いてないですよ」と言われてしまった。どうやら餌付けをしたい参拝客(事実ではあるが)だと思われたようだ。その女性によると、鳩の餌を買いに販売機を訪れる参拝客が結構いるようで、動いてないという旨の注意をしているそうだ。

 なぜ「餌付けを休止」したのか、社務所へ行き聞いてみた。受付の男性によると、「(白鳩が)他の鳩と混ざらないようにするために、4、5年くらい前から止めているんですよ」とのことだった。

 この話が事実だとすると、編集部が靖国を取材し始めた頃か、その直後くらいから餌付けが行われなくなったということか。いずれにせよ、白鳩に囲まれた清らかな私の写真を撮ることはできなかったということだ。やはり一万羽に一羽しか生まれない貴重種だからこそ手厚く保護をしなければならないのだろう。その白鳩は、1973年に発足した「白鳩の会」が増やしているそうだが、やはり日頃から土鳩と交配しないように気を使っていかなければ、あっという間に土鳩だらけになってしまうのだろう。
 現在、餌付けはどこでしているのかというと、「鳩小屋であげています。なので、小屋であげていることを知っている鳩(白鳩)は餌小屋に行き、その他の鳩は餌がないことを知って寄りつかなくなるんです」

 そういえば、境内に行ってすぐのところで白鳩が歩いていた。写真を撮ろうとしたら飛んでいってしまい、小屋のような所へ入っていった。近寄ってみると、白鳩が数羽出てくる。そこが鳩小屋なのだろう。
 餌がないことを知れば、土鳩やその他の鳥が寄りつかなくなることは容易に想像できる。しかし、境内にはまるまると太った土鳩が、じゃりの間にくちばしをつついて何かを食べている。餌がないはずなのに、なぜ居座るのか。鳩の餌について調べてみると、鳩用の餌以外に、ボレー粉(カキの殻)や青葉、さらに塩土があるらしい。

 もしかして塩土を食べているのかと思ったが、どうやら土、塩、ボレー粉を混ぜ合わせて作られているようで、とうてい靖国の土が塩土だとは思えない。とりあえず参拝客が密かにまいた餌か、土か何かを食べながら境内に居座っているのだろう。
 いずれにせよ、駆逐されるどころか土中の何かを食べハングリーに生きている土鳩は、白鳩と差別されていることなど全く意に介していないようである。

 白鳩、白鳩と言っているが、靖国には鳩の銅像があることをご存知だろうか。
 馬、犬の銅像と並んで、「鳩魂の塔」というものが立っている。地球の上に羽ばたいた鳩が立っている銅像だが、これは伝書鳩の功績を称えるために、1929年に中野の陸軍電信隊内に建立され、1939年に上野動物園に移転されている。その後、1982年に靖国に奉納されたが、これはオリジナルではなく復元されたものらしい。犬と馬の銅像は、鳩と同じく功績を称えられ建てられたものだが、どちらもはじめから靖国内に造られたものである。
 巡り巡って、それも渡り鳥のように靖国へ羽ばたいてきた鳩魂の塔だが、なんの説明もなく立っているので、これがいったい何を示しているのかわからない。

 この銅像は伝書鳩のために造られたものだが、そもそも伝書鳩とはなんなのか。私の知っている伝書鳩は、足に手紙をつけて、「これを届けて」というセリフとともに飛ばされていることくらいだ。
 調べてみると、優れた方向感覚、帰巣性、高い長距離飛行の能力、そして飼育が容易なカワラバトが使われている。日本へは奈良時代に持ち込まれたようで、今では日本全国至る所で見ることができる。

 伝書鳩の歴史は古く、紀元前3000年頃、エジプトの漁船が港に漁協を知らせるために利用されていたり、ローマ帝国も通信用に多用していたようだ。第二次世界大戦直後までは軍用鳩としても利用され、軍用鳩ととも呼ばれていたようである。さらに新聞社などで写真フィルムの運搬や情報の伝達係として利用されていたりと、人類の歴史とともに伝書鳩は歩んできたといえる。しかし、1950年代以降は、伝書鳩の飼育ノウハウを用いて愛好者の競技用として飼われはじめ、現在はレース鳩と呼ばれている。
 広場にいる鳩(土鳩)の祖先はカワラバトであり、ということは伝書鳩(レース鳩)にもなれる実はすごい素質の鳩であるのだが、今ではカラスについで駆逐される存在(糞の問題で「餌をあげないでください」という看板があったりする)になってしまった。平和のシンボルとして白鳩を飼育している靖国からすれば異種(白鳩の方が本当は異種であるが)である。

 白鳩はシンボルとしているからには減らすわけにはいかない。だから当初、編集部では白鳩以外の鳥をどうやって追い出しているのだろうか、もしかしたら屠殺しているのではないか、と疑っていたのだが、餌をやらずに自然にいなくなるのを待つという、とても生き物にやさしい施策をとっていることを聞いて安心した。

 しかし、「餌付けをしない」という策も、境内にたくさんいる土鳩や雀を見るとうまくいっているとはとうてい思えないし、さらに鳩小屋で餌を与えているせいか餌のない境内にはあまり白鳩が寄ってこない。
 靖国のシンボル「白鳩」を見たい参拝客には、少し残念な策であると感じた今回の取材だった。(奥津裕美)

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2008年9月25日 (木)

靖国神社/第3回 平和のシンボル「白鳩」を探せ!

 600万羽の白鳩など見たことない
『ようこそ靖國神社へ』(近代出版社)の8ページに、白い袴を着た宮司とともに、たくさんの白鳩が集まっているとてもカッコイイ写真がある。
 靖国には鳥居、銅像、遊就館と様々な目玉があるが、忘れてはならないのが白鳩だ。マジシャンがシルクハットから出しているアレだが、靖国では平和のシンボルとして位置づけられている。

 神札授与所では「白鳩のお守り(800円)」が売られている。ちなみにこのお守りは鳩の形ではあるが、折り鶴を基に作られているらしい。それなら鶴のお守りにすればいいのに。その他に、就館内の売店では「銘菓 白鳩の願い(1000円)」というお菓子が売られている。

「白鳩の願い」は、アーモンドに白い粉と粉砂糖がまぶされているお菓子で、見た目は鳩の卵といったところ。味は練乳でほのかに甘い。好き嫌いが分かれそうなお菓子だ。販売者は靖国神社となっていて、それ以外のクレジットがないので完全なる靖国オリジナルなのだろう。白鳩にかける情熱は、思ったより熱い。その『ようこそ靖國神社へ』によると、「純白の鳩は、自然の状態では、一万羽に一羽しか生まれないというから、その貴重さがよくわかる。よく人間に慣れていて肩に乗ったりするので、参拝者に親しまれている」と書かれている。

 私も白鳩に囲まれてカッコイイ写真を撮りたい!ということで、鼻息を荒くしながら取材へ行ってきた。
 久しぶりの靖国は、午後2時にもかかわらず参拝客が多い。私が取材をはじめたころの平日午後2時は人が少なかったはずだ。いつのまにか靖国はムーブメントから定着へと変化していたらしい。
 さて今回のテーマ白鳩だが、どこにいるかというと神門を入ってすぐの能楽堂前にいる。これまで靖国には幾度となく通っていたが、白鳩をあまりみたことがない。いても5羽くらい。しかし、前出の『ようこそ靖國神社へ』には、「現在約6百万羽の鳩は、年に二回獣医による健康診断を受けるなど、万全の管理下に置かれている」と書かれている。そんなにいるのに、毎回5羽くらいしかみられないのはどういう事だろうか。何かあるに違いない。

 どんな生き物でもそうだが、餌付けをしてくれる人の元へ多く集まり、それが恒例となるとそこに居着く。たとえば駅前に広場があったとして、そこで餌付けを始めると翌日にはあっというまに鳩広場(しかも糞だらけ)と化してしまう。『ようこそ靖國神社へ』には、「餌を差し出すと、手のひらにも乗ってくる」という説明とともに20羽近くの白鳩がよってきている写真がある。資料によると、一日2回の餌タイムがあり、さらに100円で餌付けもできてしまうということなのだが、お目当ての餌販売機がない。

 どういう事だ?と思いつつ境内をさまよっていると、能楽堂前の端のほうにポツンと置かれていた。しかも壊れている。写真を撮るため近寄っていたら、お金を入れる部分に、「白鳩管理の為、餌の販売を休止します」と書かれた張り紙がされているではないか。【つづく】(奥津裕美)

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2008年9月24日 (水)

紙としての月刊「記録」終了について

08年8月28日に発行した9月号をもって月刊「記録」を紙の雑誌として提供するのを休止した。その号で発表した「最後の言葉」を今回掲載する。
本来ならば10月号を作り終えている時期で寂しい限りではある。しかし下記にあるように連載陣の多くの方々を当ブログへ移行せきたのは不幸中の幸いであった。正確には9月28日をもってweb版「記録」が正式スタートする。その予告も兼ねて。
なおカメラマンの石川文洋様はじめ紙の「記録」休刊に際して温かなねぎらいのお手紙をいただいた。読者の皆様からもである。この場を借りて御礼申し上げる。

いよいよ9月号で紙で出す月刊『記録』はラストとなりました。こうした報を有料で最後まで読んでいただいた方にしなければならないのは誠に残念かつ申し訳がありません。
以前よりご報告してきたように月刊『記録』は消滅してしまうのではなく、その内容のかなりをブログ形式のWEBサイト(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/)へ移行させます。幸いにして著者の皆様の多くからご了承いただきました。当サイトは私がそもそも「編集長のブログ」として始め、その後に月刊『記録』を宣伝するために編集部員も加わって運営してきました。もっとも最大の目的だった誌勢増にはほとんど結びつかなかったのですが思わぬ副産物を生じました。

例えばこの原稿を執筆している08年8月16日の前日のアクセス数はパソコンで1,537、携帯電話から1,700の合計約3200アクセスを記録しています。ブログが無料であることや媒体の性質上アクセスだけして読まれていない記事も多くありましょうから単純比較はできないものの、この1ヶ月分(×約30日)と考えると現在の発行部数をはるかにしのぐ数ではあるのです。

残念ながら小社(アストラ)の体力ではこれ以上紙の雑誌を出し続けることができません。紙ゆえに、有料ゆえに保ち得た執筆者と読者のコミュニケーションは大変貴重で、それがWEBへ移れば希薄化ないしは消滅してしまう恐れは十分にあるとわかっていても物理的に難しくなってしまいました。そこで窮余の策としてインターネットに賭けてみようと思った次第です。
すでにブログ名は試行的に「月刊『記録』」と変更しました。また今後も連載をしていただける斎藤典雄氏や神戸幸夫氏の過去の記事もアップしてこの号の1ヶ月後より始める完全移行の準備を進めています。ご覧になっていただければ幸いです。

無料にしたら結局は赤字になるだけではないかという危惧から有料化も検討しました。しかし集金システムの確立や運営にもまたコストがかかり、それに見合うネット上の読者が獲得できるメドもまた立っていないので取りあえず読んでいただく方を優先して無料で始めます。それでも諸経費は大幅に圧縮できるというのが情けないけれども事実であると告白しなければなりません。

もちろん無料化するわけですからこの号(08年9月号)以降の購読料を前払いでいただいている読者の方へは返金をしなければならないのは言うまでもないことです。残りの購読料を記したはがきを同封いたしました。返金をご希望の方は振込先などをお書きの上でお手数ですがポストに投函して下さい。すみやかに対応する所存です。勝手に打ち切っておきながらさらにお手間をかけるご無礼をお許しいただきたく存じます。

以前にご報告した通り『記録』は09年4月に創刊30周年を迎えます。できればそれまで紙で発行し続けたかったのですが以上のようなていたらくで今号をもってWEB以降という苦肉の策へ転じるのを余儀なくされました。それはひとえに小社および小誌編集部の力量不足であり謝っても謝り切れない失態です。
しかし「月刊『記録』」はWEBになって生き残ります。決して止めません。この変更をもって「『記録』は生まれ変わった」とか「新たな地平へ歩み出した」などと強弁する気は毛頭ございません。紙の『記録』が出せなくなったのは明らかに小社の経営の失態であります。あきれられて当然と粛然とするばかりです。
それでももし、多少は汲んでやる情状もあるとお考えいただければ望外の喜びです。こちらから望むべきことではございません。読者の皆様のお心に委ねさせていただく他ないと思っております。

08年9月末より始まるブログ版『記録』は、これまでブログのみで連載してきた記事のうちルポを中心としたものを残した上で、現在の紙の『記録』の著者陣の多くが曜日を定めて更新していく予定です。ということは「毎日更新する月刊誌」という論理矛盾になります。まったくその通りで汗顔の至りですが他によい知恵もなく少なくとも最初はそこからスタートします。
なお巻頭をずっと飾って下さった鎌田慧氏の「現代を斬る」は現発行日の28日に今と同じくレイアウトした形でまとめて掲載する予定です。具体的には28日のブログ上には概要を掲げた上で小社のホームページ(http://www5b.biglobe.ne.jp/~astra/)にPDFファイルで全文を載せ、ブログからリンクする形を取ろうと企図しています。読まれる場合はAdobe - Reader というソフト(無料)のダウンロードが必要となります。

最後に、これは発行者同士の話で本来は読者の皆様には関係のないことなのですが、『記録』が発行人と発行体を一度変えた経緯があるために申し上げておきます。79年から92年までの発行人であった庄幸司郎氏と記録社から譲られる形で小社が今日まで発行して参りました。その際に庄氏より「紙1枚になっても続けろ」と条件を付けられました。WEB化がこの条件に合っているのかお尋ねしたくとも、また謝罪したくとも庄氏はすでに他界されていてかないません。ただ同時に庄氏は「精神のリレー」ともおっしゃって下さいました。それだけは曲がりなりにも果たしていくつもりです。お許しいただければと切に望む次第です。(編集長)

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2008年9月23日 (火)

サイテイ車掌のJR日記/9月18日、関東運輸局からの警告文書

○月×日

 時はどんどん過ぎて行く。9月もあっという間に終盤になってしまった。
 JRは相変わらず、そう、冴えないのだ。9月になってからも事故のオンパレードで、18日にはラッシュ時の相次ぐ輸送障害は通勤通学客に多大な影響を与えたとして、関東運輸局から警告文書が出されていた。テレビのニュースで、呼び出しを受けたJR東日本の神妙な顔付きをした幹部の面々がアップで放映されているのを見た。
 それらの目立った事故は以下の通り。
 4日19時45分頃。中央線と直通する青梅線と、接続する八高線に落雷。青梅線は約3時間ストップ。八高線は終電まで終日ストップ。
 8日18時25分頃。青梅線青梅~東青梅間の踏切でトラックと衝突。約100メートル引きずり停車。先頭車両脱線。トラックの運転手重傷。運転再開は翌朝6時30分頃。
 17日6時40分頃。中央線吉祥寺~三鷹間で信号機故障。約2時間ストップ。21万人に影響。
 18日6時35分頃。常磐線我孫子駅で架線切断。約3時間ストップ。16万人に影響。
 以上。
 他にも何件かの人身事故等もあった。こうした事故の多さに利用客は困ったを通り越して呆れているのではないかと思う。私たち乗務員も出動する度に「今日こそまともに動いて欲しい」と願うばかりだ。また、こうもしょっちゅうだと「申し訳ございません」というアナウンスもはばかられ、どうも気持ちが込められていないような気がしてしまう。
 14日には全日空でシステム障害が起き、欠航など終日混乱したとのニュースを見たが、それでも影響は5万人というからJRの混乱は桁が違っている。
 それにしても、落雷や人身事故は仕方がないとしても、設備のトラブルは100パーセントJRの責任だ。再発防止策となると、とりあえず保守点検の強化ぐらいしか思いつかないが、どうなのだろう……。

 閑話休題。私は冒頭のことを書きたかったのだ。
 今日の点呼で助役にいわれた。「斎藤さん、11月の×日と×日はハチクン(八訓)が入っているからね」。新秋津にある八王子訓練センターで行われる2年に1度の乗務員訓練がもう回ってくるのだ。けど、今はまだ9月だ。まだまだ先のことだと思われるかもしれない。11月のこの日は予定を入れないようにという会社側の計らいによるものだが、ちなみに、来月(10月)の勤務(年休申込み等も含めて)は既に確定しているため動かせないことになっている。
 それはそうと、毎回決まりきった訓練は私たちロートルはもういいから若い人たちだけでやればいいと思うのだが。とはいっても事故等の対応方は何度やっても忘れることが多く、完璧になど到底出来ない私がエラそうなことをいう資格はない。つまり、普段と違ったことをするのが煩わしく感じてしようがないのだ。ま、国交省の指示でもあるし、「はい、勉強してきます」と私は答えた。
 しかししかし、時の経つのは本当に早い。11月のこのハチクンも数日後にはやってきそうな勢いだ。10月にはクレペリン(運転適性検査)、11月には人間ドックも入っている。しかし、早いと感じさせる原因は、何よりも私達の仕事は勤務時間が毎回違うという点が1番であるように思う。
 明日は日勤、明後日は泊まりと、来る日も来る日も勤務表とニラメッコしながら追っていくから。泊まりで1度出勤すると2日が過ぎてしまうから。月末には2ヵ月先の休日が指定され、先先先と先のことばかり考えてしまうからではないのか。
 土日休みの一般サラリーマンと違うのは確かだろう。2日間の休日が終わり、明日からまた仕事だという時に、朝起きて「さあ、今日から……、出勤時間は、え~と、17時59分……」。想像してみて下され。仕事になんて行かなくていいなら休みたいけど、これってツカレルものですよ。

 話が逸れたついでに、私は天候に左右されるタチで、いつもさわやかに晴れてほしいと願うのだが、残暑も秋晴れも殆どないような今月は沈んでばかりいた。だが、9月は雨と台風の季節でもあると切り替えるものの、どうもスカッとしない。
 先日、「八王子のカラオケに来てるから出て来いよ、4人いる」と同僚から電話があった。気乗りはしなかったが、久しぶりだからと出掛けた。4人は既に酔っていて上機嫌。歌も五木ひろしや吉幾三などの演歌でみんな上手い。
 私は「おそうじオバチャン」(憂歌団)や「颱風」(はっぴいえんど)などで吠えまくった。「典はいつもみんなが知らない歌ばかり歌うんだよな」といわれたが、歌がヘタなことをそれでカバーしているというのもバレバレだった。
 いったいどこが沈んでいるのかといわれそうだが、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうということをいいたかったわけです。
 ではまた。

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2008年9月22日 (月)

◆新連載◆ ロシアの横暴/南オセチア独立に隠されたロシアの野望(1)

 8月9日、ナガサキを地上最後の被爆地にしよう、と平和への願いをこめて祈念式典がおこなわれているとき、ロシア南部のカフカス地方では戦争が激しさを増していた。
 その後欧米の強い非難をうけてなんとか沈静化の様相を見せてはいる。エネルギー資源をロシアに頼るヨーロッパの非難は迫力に欠けるが、それでも1999年の9月に始まった第二次チェチェン戦争とは大違いで、横暴なロシアもしばしば行く手を阻まれたりしている。長年加盟したくてたまらなかったWTO(世界貿易機構)についてですら、「そんなものに加盟して何になる」と捨てぜりふを吐くまでに追いつめられた時もあったほどだ。
 しかし、「それなら石油を売ってやらないぞ」と逆襲されてロシアへの非難が腰砕けになってくると、プーチン首相はグルジア領内にあるアプハジアと南オセチアの独立を承認する、と発表した。そもそも紛争の根拠となったのは南オセチアなのに、なぜアプハジアまで紛れ込ませたのだろう?

 それはともかく、このプーチン発言を受けてメドベージェフ大統領がどう決断するかがちょっとした注目事項になった。というのも、ロシアは領内に300年来の分離独立志願民族・チェチェンを抱えているからだ。そのロシアがグルジアからの分離独立を求めている2つの自治共和国(南オセチアとアプハジア)の独立を認めれば大矛盾が発生する。独立国家ロシア領内にあるチェチェンの分離独立の動きは認めないが、グルジア=ロシアと同じ権限を持つ独立国家=領内の分離独立の動きは認める、というのは誰がみても矛盾しているからだ。5月に就任した新大統領はKGB出身のプーチンとはちがい、法律家でリベラル派と目されていたので、このメチャクチャな首相案を大統領がすんなりとみとめることはないだろうと、善良な、特に日本のメディアは淡い期待を持ったのだった。
 期待は「期待を持つのがそもそもまちがい」と言わんばかりにうち砕かれた。プーチン案をそっくりそのままオウムのように復唱するだけの「リベラルな大統領」に唖然とするしかなかった。アメリカのどこかの新聞にプーチン首相の執務室の壁にクマの毛皮が貼ってある一コマ風刺漫画があったそうだが、その通りになったというわけだ(メドベージェフというのは「クマ」という意味である)。
 300年以上も独立を叫び続けているチェチェンは話題にも上らなかった。

 ソ連時代にグルジア領に組み込まれていたアプハジアはペレストロイカとソ連崩壊を経て分離独立の気運が高まり、民族紛争が火を噴いた。とはいえ、チェチェンのように本物の自立独立志向ではなく、グルジアよりもロシアの方が羽振りがよさそうなのでひとまず独立しておき、ついでにロシアにしっぽを振ってお小遣いをせしめよう、といった程度のものである。植民地支配から独立へ、の気運が世界中に満ちているとき、みずから進んでロシアの支配下に入るのは何とも格好が悪いから、そこはトレンディに独立志向のポーズだけはとっておこう、としていたのだった。
 南オセチアの独立承認はかなり不可解である。イスラム教徒が多いアプハジアが周囲をキリスト教地域に囲まれて何となく孤立感を持つのは理解できなくもないが、南オセチアは革命前からグルジアと同じキリスト教である。グルジア領にいても孤立することはないはずなのに、ここに来て急にグルジアの支配による人権侵害を云々し始めた。独立志向などないのに、ひょうたんからコマのように独立が承認された。

 ロシアがアプハジアに肩入れするのは、黒海沿岸の良港「スフミ港」にある。現在はウクライナ領クリミアのセバストーポリを母港としているロシア黒海艦隊の常駐港が必要になってきているからだ。グルジア戦争が始まって間もなく、グルジア沖を目指して出港する黒海艦隊に対してウクライナは、「戦争目的なら二度と帰って来るな」と言い渡したほどだ。ウクライナの黒海艦隊追放宣言の法としての効力はともかく、ウクライナとの対立は日増しに厳しくなり「母港」の居心地は悪くなる一方の今日、自由にふるまえる居心地のよい港が欲しい、それがロシアのホンネであってグルジアの不当な支配からアプハジアを救うためではない。

363_2  南オセチアの独立を承認したのは、ここにロシア軍を常駐化させて、グルジアや、近辺のチェチェン・イングーシに睨みを利かせたいからである。というより挑発をかけて常に不安定状態にしておきたいからだ。2004年の9月に学校占拠事件がおきた北オセチアにはロシア軍の要塞があり、首都ウラジカフカスはその名も「カフカスを守れ」、の意である(カフカスを制覇せよとする訳者もいる)。不安定さを逆手にとってこの地域の支配を固めたいのである。
カフカス山脈を挟むオセチア地域を北のロシア領「北オセチア」と南のグルジア領「南オセチア」にまさしく「山分け」したのはスターリンだそうだが(何かにつけスターリンの仕業となる)、おそらく単なる区画整理的な観点であろう。当時はソ連という1つの国家のなかだったから、境界線は単純な方が好都合だからだ。その後ソ連が崩壊したので、南オセチアはグルジアに残したままになっていた。帝政時代からソ連に引き継がれた南下政策がソ連崩壊で後退した形である。

 ロシアが2つの国を承認したとき、「おい、それならチェチェンはどうなるんだよ!」と疑問を持った国は多かったはずだが、口にしたところはない。1997年、チェチェン大統領選挙のあと、東欧のいくつかの国がチェチェンを承認したが、何の効力もなかった。国際的に力のあるEUの主要国は、ロシアのエネルギーと引き替えにチェチェンを見捨てて承認を見送ったからだ。ロシアの横暴にブチ切れながらも決定打を出せないヨーロッパは自分で撒いた種をどうやって刈り取るか、悩んでいることだろう。(川上なつ)

※写真はグルジア上空からみたカフカスの山々」

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2008年9月21日 (日)

日曜ミニコミ誌!/あいじょうaijou『愛情通信』

Aijou19  『愛情通信』。左の小冊子の名前だ。模索舎タコシェなどミニコミ誌を多数扱っているところに置かれているフリーペーパーである。多くの個人ミニコミ誌が続行困難となる中、無料配布で19号まで続いている。誌名から考えて、心温まるエピソードが書かれているのか? と予想する人は、中を見て驚くだろう。例えば19号の最初の記事は「サンドイッチすごい」というタイトルだ。サンドイッチの携帯性と利便性のすばらしさについて延々と語っている。口語体の文章に独特のノリとキレがあり、思わず笑ってしまう。そして次の記事は「今更何故か光GENJI」。さらにスポーツコラムや音楽芸能ネタなど、愛情にはあまり関係ないと思われる記事ばかりだ。どうしてこれが「愛情通信」なのか。

 ホームページを拝見すると、編集人のナカダヨーコさんは以前「愛情」という劇団を結成していたらしい。が、なぜ「愛情」なのか。「愛情通信」はそこから来ているのか。ご本人にお話を伺った。

--フリーペーパーを作る前は、「愛情」という劇団をされていたということですが?

(ナカダさん:以下ナ)はい。演劇のゼミに通ったあとに仲間と結成して、2回ほど上演しました。愛情という名前は、ア行だとイベント情報誌の最初のほうにくるのでいいと思い、国語辞典で調べて「愛情」に決めました。
そしてフリーペーパーを作って役者募集をしようと思い、出来上がったのが『愛情通信』です。最初の何号かは劇団員募集の広告を載せていたんですよ。誰も来ないので載せなくなりましたが。

--『愛情通信』はいつごろから続けているんですか?

(ナ)2001年からなので、今年で7年めですね。ほとんど1人で作っているので、締め切りなど決めずに書いています。一貫したテーマというのも特にはなく、自由にその時書きたいものを書きます。
Aijou11  例えば11号の表紙は、ピンクチラシにアルバイトで覚えなければならない事項を書き殴ったものなんです。仕事を始めたばかりで覚えられなくて。その時、本当に働きたくない気持ちでいっぱいだったので「働きたくない特集号」になってます。バイト初日にあった嫌なことを題材に小説を書いたりしています。

--バックナンバーをみると、結構「働きたくない」というテーマと、芸能ネタが多いようですね。

(ナ)ぱっと思いついたものを書いているんですが、やはり頻繁に気になってしまう題材はありますね。「働きたくない」もそうだし、芸能だとm.c.A.Tが自分の中で何度もブームになるので彼について書くことが多いです。書き始めるのは突然で、急に思いつくんですよ。どんな形の文章でいくかには悩みますが、それが決まれば一気に書き上げます。

その時に気になったものを自由に書く、というスタイルを一貫して持っているナカダさん。勢いのある文章はそこから生まれるのだろう。ナカダさんは「愛情通信」の別冊として『孤立無援』も刊行している。

Koritsumuen (ナ)『愛情通信』は8ページで短いので、もっと思いっきりしつこく書こうと思って『孤立無援』を書いたんです。

『孤立無援』もトイレ特集や結婚特集などバラエティに富んでいる。しかしどんなテーマでも筋が一本通っていると感じさせるのは、「はじめに」に書かれた「発行の原動力は強い怒りや悲しみが大半」という言葉にヒントがあるとみた。斬新な企画や文章力はもちろんだが、表現したいという情熱がナカダさんの雑誌の一番の魅力ではないかと思う。編集ツールが圧倒的に欠けていても、それでも伝えたいという思いがにじみ出ているからこそこんなにも惹かれるのではないか。
その情熱は『孤立無援』の「おわりに~感性、共感、繋がり~」にも見てとることができる。…引用したいところだが、大変に長く、一部を切り取ると曲解される可能性もある。手にとって読んでいただくことを強くおすすめしたい。(奥山)

(■『愛情通信』フリーペーパー ■『孤立無援』1号 15×21㎝ 46P 350円)

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2008年9月20日 (土)

ブレンダがゆく/自殺大国日本の精神構造

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以前、アストラのブログにも寄稿してくださっていたポーランド在住のブレンダさんが、ご自身のブログを立ち上げています。
ピアニストとして、起業家として、そして日本人として…日々思うところや発見などをみずみずしく、そして痛快に書き上げている良ブログです。
ご本人の了解を得て、ブログからひと記事ずつ転載させていただくことになりました。
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自殺大国日本の精神構造

フランスでの生活についての同じ相談を日本人とポーランド人にする。

まったく正反対の答えが返ってくる。

日本人は、本当に悲観的。何をするにも細かすぎてついていけない。

きっと頭が良すぎるのだと思う。

ポーランド人は、危ないレベルに何も考えていない上に問題が起きると責任転嫁で夜早めに寝る。

何につけても本能的と言うか自然すぎる。

そういう彼らに何か相談をすると、かけてもらう言葉の質が全然違う。

日本人は、たとえ自分がうまくいっていても

「アタシも出来たから貴方もできるわよ大丈夫!」なんて言わない。

何が辛かったか、どれだけ大変だったか。
どんなにつまずく危険性があるか、あなたのような子にはむり。そういう話はお多い。

就職した時が一番良い例だ。
必ず新入社員にはこれから社会人としてどんな試練が待ち受けているか、もう学生気分ではやっていけないんだとか、なんだとか。囚人の先輩からの忠告みたいな話が多すぎる。

私も、就職したときには、日本のサラリーマンの悲壮感に何がここまで彼らを鬱にさせるのかと思ったが。

もう国民病というか、国民性というか。

国の象徴たる天皇家でも、精神的に深刻な事態が起きているようだし。

ポーランド人は、と言うと。
「Brendaはいつも考え過ぎじゃないそんなことまで考えているの?」と言い

「きっとうまくいくから悩まない方がいいよ」って。

いつも言っている。

ちなみに、私が険しい顔していると

悩むな、悩むなとうるさいので。

ついに、険しい顔さえもできなくなるのはおもしろい。

結局、人を笑顔にしたいのだろうね。

昔は、「みんなのんきすぎなんだよ!」と思ったこともあったけれど

でも、ポーランド人の楽天的責任転嫁人生はものすごく知的なのだ

結局、何かを心配したところで考えたところで、それが何のためになるのか?

考えても結果は変わらない。

究極に言えば、末期癌になったとして、悩んで心配しても、それが直接的に何の解決にもならない。
もちろん策はあるだろうが。

要は、アクションを起こすことが大切なのであって、考え悩むことは短ければ短いほど良いのだ。

結局のところ、病気が悪ければ死ぬ訳だし、何か考えたところで、病気が悪いか、それとも良いかなんてこと、自分の力量でどうにかなるわけではないのだ。だから結局それについて悩んでも、心配しても何も良くなることは無い。

人間関係についてもそう。社会生活についてもそう。
自分が何かを変えられることなんてそうはない。
人は変わらないし、社会も変わらない。
それを変えられる人は天才だなと思うけど。

ま、自分は変えたければ変えることは可能。

それでも、外見ぐらいは変えられても中身っていうのはそうは変えられるものではない。

現実を受け入れて別に?か、あーあ、っていうスタンスで行くしかないのでは?
何に関しても。

日本人が悩んでいるのは、何に関しても完璧にしようとしているのだと思う。
しかし、そんなことポーランドやフランスでは誰もやろうとしていない。

だから、そこまで悩むことは無い。

なぜならほとんどのことが意外とどうでも良いことばかりだから。
家族の愛と自分の健康以外。

仕事だってさっさと切り上げて帰って寝りゃいいものをあーじゃない、こーじゃないといつまでもやっているから。山手線は夜中でも人がたくさん。

帰路で線路に飛び込む者、毎日あり。

夜なんだから寝ろよまったく。と思うが。

躍起になってなにかをやろうとしても、努力したからなにか良くなるか?
いや~意外とそれは違う。日本では努力、勤勉という言葉に完全に洗脳されているけど。

なんだか・・・

日本人が暗く見えてしょうがない。

ちょっと話を聞くと

今日で人生が終わりみたいな気持ちに陥る

と思って。

あ、そうだ。

日本は自殺者の多い国だ。

やっぱり、日本人と言うのは、すごく悲観的な精神構造なのだろうな=と思った。

でも、この悲観性は、知的で芸術的な趣を含むものなのだけれど。

日本と言う国のエレメントに関わるといつも感じる、この「鬱的」なイメージ。

影響を受けたくないメンタリティーだなぁ

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2008年9月19日 (金)

靖国神社/第2回 検証! 靖国は「身体にやさしい」かどうか(下)

 遊就館で入り口から、床を足の裏で舐めるようにして歩く。うーん、すばらしく優しい歩き心地、この点に関しては満点。はじめて聞いたときにはにわかには信じがたかったが、5mmの高低差があれば高齢の方はつまづくものなのだ。でも、そのわずかなひっかかりもこのフロアには存在しなかったのだ。車椅子の方の用のゆったりとした広さのトイレがこれ以上ないほどクリーンな状態で設置され、スロープもエレガントなまでのなめらか。さすがハートビル法制定後に改装された建物なのだ。
 遊就館の展示物は多く、幕末から太平洋戦争までの日本の(いささか軍事色の強い)歴史を追った展示ルートはとてもとても長い。だから、見ているうちに足腰が疲れてくる。チェックリストの項目には入っていないが、休憩所の有無はどうか。こんなに長いコースなのだ、休む場所がなければハートのある建物とはいえないだろう……と思ったがしっかり休憩所はあった。しかも3ヵ所という心遣い。どこかでアラを探してやろうとして見つけられないのだから、よっぽど配慮を重ねられているのだろう。それも、高齢の方が訪れることが多いだろうと容易に予測がつくこの建物だからのことかもしれない。
遊就館を出て、参道に向かう。もっとゴツゴツしていたと思っていた石畳が、実際に注意しながら歩くとものすごく平坦になるように作られているのがわかる。別方向から来た石畳と交わるポイントには、平らを保つために金属製の詰め物までされている。
 ようやく気になるポイントを見つけたのは神門のあたりだった。車椅子用のスロープがあるにはあるのだが、どうもその坂が急勾配なのだ。理由はすぐに分かった。なだらかにすれば当然スロープの距離を長く取る必要があり、もしそうすれば玉砂利の敷かれている場所まで達してしまうからなのだ。要するに、車椅子の車輪が玉砂利にとられないようにするには、急勾配にせざるを得ないのだ。さらに、神門の前の石段。この階段の段差がかなり大きいことを発見した。石段は3段だが、高さが16ある。現に、目の前でムチウチの男性がこわごわと足元を探って下りたりしている。ちょうど、車椅子を押した人がやって来て、そのスロープを上っている場面に出くわした。
「車椅子でもガタガタしないように気をつけられてるっていうのは感じますけど、この坂だけはちょっとね…つかれますけど」と車椅子を押す女性はいう。
 ただ、神社という場所が「誰にとっても使い勝手がいい場所かどうか」というモノサシで計られてしまっていいものかという議論はあっていいところだろう。便宜が図られていないからといって「じゃあ改装すればいいんじゃないのか」簡単には言わせないなにかが神社仏閣にはある。考えてみればそんな類の建物というのは他に思いつかない。私は現代の若い世代の多くがそうであるように、神仏をありがたがる人種ではない。それでも、「簡単に建てかえるなんて」と自然に思わせるような何かがある。他のすべてに当てはめることができるような自由を仏閣にだけは求めることができないのだ。
 はじめて靖国を訪れたときは、白い敷石でかなりの広さがある参道を歩きながら、なんて明るい雰囲気の場所なんだろうと思った。
 本殿や大鳥居、遊就館に大村益次郎と、一見して目立つもの、話題性があるものが靖国には溢れているが、その一方で昔からほとんど変わらないのではないかと思われる場所も境内にある。遊就館からさらに奥へ相撲場に向かっていくと、白く平らな敷石が終わり地面は一般の神社で見られるような玉砂利と土になる。境内の最も奥に位置する池のまわりは参道の明るさとは対照的な薄暗さでひっそり静まりかえっている。そこにはバリアフリーもハートビルもない佇まいがある。
 神門の段差を取りあげたものの、他には境内にこれといった不備はなかった。そんな細かすぎる点をいちいち検証するより、これでもかとばかりに主張してくるギンナンの青臭いにおいのほうがよっぽど問題だ。やはり、最終的には九段の坂が問題なのだということになる。坂については本連載で1度取りあげたことがあるからここでは割愛。靖国にはこのハートビル時代になっても下界を睥睨する坂に、境内の奥に、不変かつ独特の存在感がが残されているが、それでも坂がほとんど「絶壁に近かった」(『ようこそ靖国へ』より)頃よりはその雰囲気は薄れてきているのか。(宮崎太郎)

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2008年9月18日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第2回 アフガンを視る(2)

 11月の終わりではあったが、カブールには初雪がしんしんと降り、気温は0度に達していた。道路沿いに粗末なテントや日干し煉瓦の小さな家が並んでいる。
 テントの中からひょいと、ひどく眼のくすんだ男が出てきた。尋ねると、彼はこのキャンプのリーダーだという。男はアブドゥと名乗った。40歳くらいに思 えたが、話を聞くとまだ28歳だと言う。アブドゥは抑揚の低い小さな声でぼそぼそと何か言いながら、彼の家に私を招きいれた。彼の小屋に入ると、気温が急 に五度は下がったように思えた。気のせいではなく、日差しの当たらない分外より寒いのだ。アブドゥは火の入っていない炬燵に腰を下ろすと、1分間ほど押し 黙り、それからぽつりぽつりと彼の境遇を語りだした。

 彼の家は、カブールで小さな商店を代々営んでいた。しかし、20年前のナジッブラー政権下の動乱で、彼の家族は身の危険を感じ、パキスタンに脱出した。 アブドゥは多感な青年時代をパキスタンで過ごすこととなった。勉強を終え、18の時に工場で技術者の職を得た。豊かではないが、十分な食べ物があり、温か い家と家族があった。パキスタンでの生活の中でも、彼は常に自分の故郷であるカブールを思っていたという。そして、彼は2004年に念願を果たし、アフガ ニスタンに帰国した。しかし、夢にまで見たカブールでの生活は、みすぼらしい小屋の中で、明日の食べ物にも困るような生活であった。

 私は、なぜアフガニスタンに帰ってきたのかと尋ねた。隣国のパキスタンからなら、アフガニスタンの状況は推測できなかったのか。
 彼は小さな声だが、少し怒気を含んだ声で答えた。
「騙されたんだよ」
 2004年、アブドゥたちの前にアフガンから使者がやってきた。使者は、難民たちに伝えた。
「アフガニスタンは君たちの若い力を必要としている!アフガニスタンに帰還し、国の再建に力を貸してほしい!食べ物も、住居も、仕事も全て政府が用意する!今、帰還するならその費用として、一家族あたり100ドルを与えよう!」
 少年の頃からアフガニスタンに思いを馳せていたアブドゥにとって、これほど希望に満ちた話は無かった。彼はすぐに荷物をまとめ、親戚らと共に故郷カブールに向かった。
 アブドゥはカブール市民から歓迎を以って迎えられるはずであった。しかし、彼がアフガンでかけられた言葉は侮蔑であった。
「お前はパキスタン人か、それとも動物か。どうやっても、アフガン人には見えないね。この臆病者!」
 町じゅうで口汚くののしられ、政府が用意してあるはずの家も、食べ物も、仕事もない。働こうにも、バザールの荷物運びの口すらない。物乞いで得た残飯で 何とか食いつないでいる。アブドゥはその屈辱的な記憶と生活を唇に乗せながらも、また抑揚のない小さな声に戻っていた。もう怒る気力すら残っていないの だ。

 彼の住んでいるキャンプから、昨年は子供と老人ばかりの凍死者が6人出た。また今年も死んでいくだろうと言う。外国からはもとより、政府からの支援さえ全く無い。
 アブドゥはそっと周りを見回してから話してくれた。やはり、小さな抑揚のない声で。怒気はもう、かった。
「カルザイが外国からの支援を横流ししているんだ。全部やつのポケットにすべり落ちるような仕組みになってるんだよ。私たちを帰国させたのも、外国に対してのポーズにすぎないんだよ」

 カルザイ政権は汚職にまみれ、外国からの支援も届かないことが多い。また、パキスタン政府は2009年までに国内の全難民キャンプを閉鎖すると発表している。(白川徹)

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2008年9月17日 (水)

終戦直後の2つの「大連立」構想と小沢代表の深謀

1946年4月の総選挙(全464議席)は日本自由党140、日本進歩党94、日本社会党92。すったもんだの末に自由党の吉田茂を首班とする第一次吉田茂政権が発足する。保守党の進歩党も支える側に回って過半数スレスレの政権運営となった。
この年の暮れから相次いで大型の労働争議が発生する。なかでも11月結成の全官公庁共同闘争委員会(共闘)の存在感は大きく政府へ次々と要求していく。翌1947年1月18日には共闘を中心にいわゆる「二・一ゼネスト」宣言を行った。

窮地に陥った吉田は一方でスト計画者や労働組合を厳しく難じつつ他方では野党社会党との連立工作を始めた。当時の社会党は左派はイケイケだったに対して右派は共産党主導の共闘路線には懐疑的だったとみられる。ここで社会党を抱き込めば冒頭の議席から与党は圧倒的多数となるので「大連立」の誘いだった。
誘われた相手は社会党右派の西尾末広書記長。西尾は前向きで同じく右派の片山哲委員長も抱き込み中央執行委員会で連立協議スタートを認めさせた。しかし反対の左派を中心に閣僚ポストの大幅要求などハードルを上げたために話は難航する。47年年明けに吉田が「参加しないと西尾は公職追放になるかもね」のような発言をしたとされ西尾が激怒して頓挫してしまった。このままいけば「ゼネスト→『反動』吉田政権瓦解」のはずだったが周知のように二・一ゼネストはマッカーサーの「許さない」声明で中止となった。

その年の4月、新憲法施行を直前に控えて先取りする形で行われた総選挙で日本自由党131、民主党(主に進歩党の党名変更)121、日本社会党143と社会党が比較第一党になってしまった。当然片山首相をめざす羽目?へ至った西尾書記長は社会、民主、自由に議席29の国民協同党を含めた4党大連立を画策する。というかせざるを得なくなった。
確かに勘定だけならば社・民・国の3党連立で多数派にはなれる。しかし社会党自身が前述のような左右対立を抱えている上に民主党は反軍演説の斎藤隆夫から中曽根康弘までゴチャゴチャに入り乱れている。やはりGHQと渡り合い日本国憲法の制定など戦後改革を指揮した自由党を巻き込みたい。今度は西尾が吉田自由党総裁へお願いする側となった。4党の幹事長・書記長会談で政策を示し、閣僚配分まで飲ませた。

とはいえつい数ヶ月前は散々ごねた挙げ句に自由党の「大連立」構想をけっ飛ばしたのは当の社会党および西尾だった。なるほど西尾は最後はキレてしまったものの本意でなかったかも知れない。だが背後の左派はどうだ。散々「反動吉田」と罵り、ゼネストにもシンパシーを寄せ、「大連立」構想を葬った事実上の「主犯」ではないか。大野伴睦自由党幹事長らは「だったら左派を排除せよ」と西尾に迫る。「いやそれはできないけれどそこを何とか……」と懇請する西尾。「いやダメだ」「そこを何とか」の繰り返しは結局「この分からず屋」「そのセリフは数ヶ月前の手前に返すぜ」みたいになって最後は吉田総裁の野党宣言で手が切れた。

今秋から冬にかけて行われると予想される解散総選挙の結果、この時の再現が見られるかもしれない。民主党が比較第一党になるものの過半数には届かず、自民党は大幅議席減ながら比較第2党は揺るがない。とはいえ公明党と合わせても過半数は取れない。民主が社民、国民新党、新党大地ら小政党と無所属をかき集めてかろうじて過半数、といった状況だ。
当然ながら比較第一党になった以上は民主党は小沢一郎首相を願う。でも小政党合わせて過半数かいくぶんそれを切るようななりでは大胆な政策は行えまい。共産党は「確かな野党」だから野党だろう。公明党も自民とともに「連立野党」などという誰が考えても無意味な選択はしないだろうけど、いきなり連立与党に加わるわけにも参らず「第三極」といういつかの歌を再び歌うのが精一杯のはずだ。何より共・公を加えたら安定するという話でもない。

その小沢民主党代表は昨年末に自民党との「大連立」協議を始め本人は前向きだったものの党内の反対に遭って蹴り飛ばした過去がある。この辺は自由党と本心では組みたかったのに派内の圧力で失敗した西尾とよく似ている。その小沢代表が、その時点での自民党総裁へ「大連立」を持ちかけられるのか。持ちかけたとして自民は応じるか。大野伴睦と同じく「左派を切れ」となりそうだ。そしてやっぱり「そのセリフは数ヶ月前の手前に返すぜ」でジ・エンド。

そうやってできた片山内閣の末路は実に悲惨だった……というところまで考えて小沢代表が今になっても福田首相との「大連立」構想を自分では間違っていないと主張を変えていない点へ思いを巡らした。
総選挙で民主党が比較第一党になって現在の共産党を除く野党勢力が結集すれば衆議院で何とか過半数というのは民主党にとって望外の勝利である。そう「望外」なのだ。今日よりありとあらゆる手段を講じて最高の結果を出したとしてこの辺だ。政権は取れよう。でもその後はどうなる。片山内閣と続く芦田均内閣の無惨な結末。その後の吉田茂大復活という歴史を手繰った時に小沢代表がいまだ「あの大連立構想は間違っていない」と言い続けている真の意味がわかるような気がする

しかも予想される連立政権の略称を並べると民・社・国。あの時と同じ(編集長)

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2008年9月16日 (火)

三鷹事件の現場を歩く

「5歳のときだね。親父の膝の上で寝てたんだよ。そしたらバーン、バーンってスゴイ音がして。戦車が突っ込んできたのかと思ったよ。そしたら電車だったんだから!」
 1949年7月15日、9時23分。三鷹駅の西側にある電車庫から7両編成の電車が無人のまま暴走。駅構内にある一番線の車両止めを突破し脱線。そのままトイレと交番を破壊して人家に突っ込み止まった。謎の多いことで有名な「三鷹事件」である。下り電車から降りたばかりの乗客6人が死亡する痛ましい事件であった。

「線路があった側には4畳と6畳の部屋があったんだよ。ちょうど電車が押し入れと仏壇のあった場所に突っ込んだから誰もケガしなかったんだ。でも、かもいに大きな羽子板が飾ってあって、電車が衝突した振動で姉さんが寝ているところに落ちてきたんだよ。もし蚊帳を吊っていなければ、ケガしてたね」
 54歳の男性は自宅に電車が飛び込んできた様子を、そう語ってくれた。
 当時の新聞に掲載された写真を見ると、交番など跡形もなくなっている。もし、脱線する角度がわずかでも違えば、この家の住民も無事ではなかったはずだ。
 現にその家の隣に住んでいた75歳の男性は、次のように証言する。
「寝ているおばあさんの30センチ横を電車がかすめていったと聞いているよ」
 当時、高校1年で翌日の数学の試験に備えて勉強してこの男性は、2階の窓から事件を目撃している。
「ダダダダって爆音がしてね。それからスパークがバッバッと光って、途端に数メートルの埃が舞い上がって何も見えなくなったんだ。爆弾が落ちたのかと思ったよ。機銃掃射も艦砲射撃も経験しているから余計にね」
 終戦からわずかに4年、日本はまだ米国の占領下にあった。爆音なら自動車や飛行機、列車の事故より爆弾を思い浮かべる、そんな時代でもあったのだ。

 捜査の進展は早かった。事件翌日には逮捕状が執行され、その翌日には2人の共産党員が逮捕された。じつは共産党員が事件の犯人だという説はさまざまな形で広められていたふしがある。事件直後の現場で「これは共産党の仕業だ」と吹聴する人物がいただけではなく、放送まで流れていたという情報まであるのだ。
「三鷹駅前にも日本放送連盟三鷹放送所のスピーカーが設置されていたが、事件発生直後に、次のような放送を流した。『この事故は、共産党員が関係していると見られています。あくまで町民の皆さまと真相を追求していきましょう』。放送所は防犯等で警察とは普段協力関係があった」(『新盤 三鷹事件』小松良郎 著/三一書房)
 それだけではない。7月15日に三鷹で大事件が起きるという噂は、鉄道関係の上層部や警察関係で語られていたとの噂もある。実際、電車によって大破した駅前の駐在所には4人もの警察官が勤務していたが、たまたま交番を留守にしており全員が助かっている。しかも戸籍簿まで事件発生前に持ち出してだ。

 共産党に罪を押しつけるために列車を脱線させるなど、今の感覚では荒唐無稽の一語。しかし当時の日本では「バカらしい」とも言いきれない雰囲気があったらしい。
 事件が起きた年の1月に行われた衆院選で、共産党は勢力を一気に拡大した。4議席から一挙に35議席。同じ選挙で社会党が48議席であることを考えれば、この人数がどれだけインパクトがあったかがわかるだろう。しかも事件の3年前、1946年3月にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」が勃発している。米国にとって日本は東アジアの前線基地であり、ソビエトや中国に対する反共基地でもあった。それだけに日本の「赤化」だけは避けたかった。実際、事件の翌年に企業のレッド・パージも行われるようになっている。
 また当時、GHQと政府は日本経済を立て直すために、国家財政と大企業優先の政策を推し進めていた。結果として民間企業で大量の解雇が生まれ、労組との争いが起こっていた。さらに官公庁職員の首切りも行われた。国鉄の整理予定者は関係職員の6分の1という苛烈なものであった。この計画に強く反対していたのが、共産党がリーダーシップをとっていたとみなされた国鉄労組だったのだ。
 つまり日本を「赤化」させないためにも、経済政策を推進するためにも、共産党の「力」を弱める必要があったのである。実際、当時の首相だった吉田茂は、事件の翌日に共産党を批判する声明を発表している。
「虚偽とテロが彼ら(共産党)の運動方針なのである。私は国民諸君が冷静に落ち着いておられることを切に希望する。共産党主義者が鳴らす警鐘や彼らの発するバ声を割引し事態を正しく観察するならば、現下の社会不安の大部分は霧散霧消する種類のものであろう」(一部抜粋)
 この声明は共産党を三鷹事件の犯人として糾弾したわけではない。むしろ大量の解雇に反対する先鋭的な労働運動を警戒する声明として読み取れる。しかし事件の翌日、テロリストだと名指ししたのも事実である。
 7月17日の朝日新聞1面には、三鷹事件の容疑者が逮捕されたことが大きく扱われ、その下に「不安をあおる共産党」という見出しで吉田首相の声明が書かれている。タイミングよすぎるとはいえまいか。

Photo_2  昨年12月、三鷹駅改札の内側に商業施設がオープンした。中華などのレストランに加え、化粧品なども扱う雑貨店、マッサージ店などもある。10時半、11時まで開いている飲食店を見ていると、59年前に列車が暴走したことなどウソのようだ。
 ただ、戦争も占領も払拭した街でふっと大丈夫かとも思う。ビラを配っただけで75日間も拘置され、ネットで流布された自己責任論が大手を振って被害者を断罪する時代になっているからだ。きな臭い時代に生きている実感さえない時代は、三鷹事件のころと比べて安心なのだろうか。(大畑)

※写真:三鷹駅南口、当時とは場所が違うだろうが、まだ交番もトイレもある。


※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2008年9月15日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/第4回 27歳・女性・会社員(後編)

前編はこちら

1年ほど経った頃、上司から進退を聞かれた時には、もう辞めようと思いました。しかし、その上司は「辞めてもどうせすぐに再就職なんて出来ないだろう?本社で事務を募集してるから、そっちへ行ってみる気はないか」と言ってくれました。後から聞くと、営業で挫折した社員を事務に回す、というのはよくある話らしいのですが、本当にありがたく、うれしいお話でした。

本社で配属されたのは経理部でした。経理知識の全くない私に、部署の人は丁寧に仕事を教えてくれ、残業もあまりしないように計らってくれました。それでも部署の関係上、月末や給料日前は残業になるのですが、営業から来た身にはそれでも早いくらいの時間にしかなりませんでしたし、営業経験のおかげで役に立つことも多くありました。少しずつ仕事を覚えていくにつれ、自分への自信も取り戻していけた時期だったと思います。
また、これは営業と事務を両方やったおかげで分かったことですが、自分にはルーティンワークが性に合っているらしい、という発見がありました。仕事が決まっていること、1日の締め・1ヶ月の締め・1年の締め・・・と仕事の区切りがはっきりとあること。それがこんなに気分的に楽なものだとは知りませんでした。営業には、一応の締めはあっても、ここまでやれば自分の担当終わり、という区切りはありません。今にして思えば、新規の契約を取ってもすぐまた次へ! というスタイルが苦痛の一因でもあったのでした。毎日同じ仕事なんて耐えられない、という人には事務がつらいのでしょうが、私には思いのほか合っていました。営業で頑張れなかった分を、ここでなら頑張れると思いました。
 そこでは結局2年ほどお世話になり、別にそのまま続けていても良かったのですが、前述の大学時代の先輩から事務員募集のお誘いがあった時に、転職を決めました。先物の会社では営業社員の出世は力量次第ですが、事務社員は10年以上勤めても殆ど昇給も昇進しなかったからです。

転職先は前の会社に比べると50分の1にも満たない規模ですが、その分社員の結びつきも強く、風通しの良い会社です。事務社員は私しかいないため、わからないことは何もかも調べたり聞いたりしなければなりませんが、そんな私でも総務・経理全般を任せてもらっているので、責任も感じますし、勉強することの多い日々です。

今こうして話をさせてもらうことで自分を振り返ると、ひどいなあ、と苦笑してしまいますが、とにかく周囲の人にお世話になりっぱなしだ、ということに改めて気づかされました。甘ったれで生意気だった新入社員時代にも、無気力で鬱の手前みたいだった営業時代にも、経理部で仕事を覚えてちょっとずつ元気になっていった時にも、転職をしてからも。
本当に人に恵まれていた、と思います。そして、営業部も経理部も、どちらの経験も後になってからとても役に立ちました。
周りに迷惑をかけながらなんとかやってこれましたが、これからは自分が今まで貰ってきたものを少しでも返せるように、誰かや何かの役に立てるように・・・と思います。

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2008年9月14日 (日)

メディアの良心

 社会的な矛盾の最終的な解決は、結局、裁判にたどりつく。このブログで取り上げた「トヨタに夫を殺されて」でも、夫の過労死に企業として向かい合おうとしないトヨタに妻・内野博子さんが起こせた行動は裁判だった。

 行政や大企業に生活を踏みにじられ無念や怒り、悲しみに包まれた人々は、さまざまな逡巡の末に裁判を決意する。しかし、その闘いは得てして辛く厳しい。判決までに時間はかかるし、大量の資料も取りそろえねばならない。もちろん金だって必要だ。ただ誠意ある謝罪がほしいのに、金で損害を算出しなければならない苦しみもある。しかも裁判は政府や企業に有利であるうえ、弱者を食い物にする悪徳弁護士だっている。
 そうやって起こされた多くの訴訟のほんの一部が小さな権利を勝ち取っていく。ほとんどの訴えが棄却され、少しだけ残った小さな小さな権利を勝ち取る。それが日本の裁判の現実だろう。
 しかし、例え小さいな権利であっても、それが小さな勝利というわけではない。同じような問題で苦しんでいる人にとっては、大きな一歩にもなりうるからだ。その意味で裁判の判決と、その法的解釈には小さな希望にあふれている。ただ、その「希望」をほとんどのメディアが報じないだけだ。

Chinsya085b  月2回発行している雑誌『賃金と社会保障』は、社会問題そのものの解説や研究に加えて、社会保障や社会福祉の判例や、社会問題の法的な解説を扱っている。B5でサイズで約70ページで、びっしり3段組。誌面は文字で埋まっている。
 ただ、明らかに法律の専門家ためだけに作られている雑誌ではない。それは社会に対する強いメッセージがあるからだ。法解釈を扱いながらも無味乾燥な感じがしない。法律の向こう側に、常に人がいることを誌面全体が教えてくれている。

 例えば2008年7月号では、知的障害者の男性が誤認逮捕・起訴されたことに対する国家賠償を求めた判決と、その解説が掲載されている。
 この事件で警察が作った虚偽の自白調書などビックリするほどひどい。自分の名前さえ書くことができない被疑者が、「えき」などと書いた地図を作成したというのだから。
 さすがに判決でも「(彼は)抽象的概念の理解力が不足しているところ、現実の建物や道路などの位置関係を紙の上に抽象化して表現できるとは考えられない」と断じている。
 また「(自白調書は)迎合的であるという特性を利用して、そのほとんどを誘導して、被害者らの供述に合致するように作成されたものであり、またあたかも原告が自主的に記載したかのような地図を添付し、更に、原告が自主的に犯行現場を案内したかのような引き当たり見分調書を作成したもので、誘導尋問として許容される範囲を著しく超えるばかりか、著しく妥当性を欠く方法を用いたものということができ、その取調べは裁量の範囲を著しく逸脱するものとして違法である」とも結論づけている。
 このような捜査方法は、非識字者の調書を勝手に作った1963年の狭山事件となんら変わりがない。警察や検察が作り上げた「物語」があり、それに合わせて書類を作る。抵抗しないなら思いのまま。そんな警察・検察組織の意識が、この調書作りに見え隠れする。
 さすがに、ここまでひどい捜査で真犯人が別に捕まったとなれば、裁判所も違法と断定する。ただし、警官個人の違法行為は認めても、警察署幹部の違法性となると、「両警察官に違法な取調べを是正すべき法的義務があったとはいえず、原告の主張は採用できない」と違法性を認めない。こうした恐ろしい現実を、この判決は如実に伝えてくれる。

 ジャーナリズムも商売である。売れない記事はやはり書けない。そのため地味な題材の貴重な情報は、取り上げられることなく情報の渦に埋もれてしまう。そうした貴重な情報を掘り起こし解説している本書は貴重だろう。メディアの良心ともいえる。
 この雑誌を発行している旬報社のHPにバックナンバーが掲載してあるので、興味のある特集号を手に取ってみてほしい。(大畑)

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2008年9月13日 (土)

書店の風格/第19回 気流舎 売らない本もある

 下北沢駅なら断然北口から降りたい、と思う。理由は数え切れない。真ん中にのびてる道を選んで下っていけばベーカリー「アンゼリカ」がある。ここのみそパンは一度食べたら病みつきになること必須、駅から猛ダッシュして行きたいお店ナンバーワンだ(個人的には)。さらに古着屋、安くてかわいいランジェリーショップ、ヘンなものを集めた雑貨屋などが一つの通りに凝縮されて存在する。若々しい雰囲気を横目で楽しみながらさらに歩いて大きめのクリーニングチェーン店を抜けたところで、少々落ち着いた街並みになってくる。コンビニ、マンション、カフェ、食堂…そのうち一つの角を曲がると、こじんまりとした木造のたてものがあらわれる。塗料を塗っていない、裸の木の色をした建物だ。それが「対抗文化専門古書 気流舎」。コーヒーの飲める古本屋、いわゆるブックカフェだ。

 「いわゆるブックカフェだ。」と書いてしまったが、どうも違う気がする。えっなんで、本を読みながらお茶が飲める場所でしょ、ブックカフェ以外のなにものでもないじゃんなんて無情にツッコミを入れるあなたには一度足を運ぶことをおすすめする。行ってみればわかる、多分。

 中はおよそ4坪程度で、こちらも裸の木の匂いがする美しいつくりをしている。壁2面に本棚がある。本棚の下から飛び出すように板がしつらえられているのは、そこに座って本を読むためだ。さらに店の中央にもテーブルがある。本棚の一画に陣取って読みふけるもよし、テーブルでくつろぐもよし。店主も同じテーブルの隅に座ってパソコンをパタパタやっているので緊張するかもしれないが、真ん中にそびえる大黒柱が緩衝材になってくれる。チャイがとびきりおいしいので、注文すれば穏やかに返事をして作ってくれる。

 さて肝心の品揃えのほうだが、「対抗文化専門古書」ということなのでどんなトンガリかと思いきや、本が好き、悩みの多い青春期を過ごしてきた、少し社会系、という人たちに幅広く支持される本が並んでいる。そしてそんな本の合間に、コアな本があったりするのだ。「基本は押さえている」といったところだろうか。新刊書店の人文棚に基本書があるように、古本屋にも基本書があるのですよ、と言われたような気がした。「ちょっと本読みに来た」人も、「なかなか濃い趣味」の人も、等しく満足するだろう棚。そんなに冊数はないはずなのに奥行きを感じる本棚構成である。
 さらに驚くのが、「この本いいな、買いたいな」と思って値札を見ようとすると「非売品」と書いてある。えっ? と思って他の本を見ると、ちゃんと値段が書いてある。蔵書と商品にする本が分けられているのだ。しかしどちらも自由に読むことができる。さらにカフェスペースはあるが注文しなくてもいっこうにかまわないスタイルだ。ということは、図書館みたいに好きな本を好きなだけ読んで、まったりして、すうっと帰ってしまう、なんて適当なことが可能なのだ。
 まるで他人様の書斎にお邪魔して、「ちょっと借りるよ」と言ってその場で読んでいるような気持ちにさせられる。しかもロフトがあって、誰でも上がって読めるようになっている。寝っ転がって読んでもいいのだ! そしてすごく居心地がいい。それは店主の見事な気配りに起因するものとみた。つかず離れずの距離感が、とても心地いいのだ。お話をしようと話しかければおだやかに返事をしてくれるし、こちらが読書に集中するとそっとしておいてくれる。こんなにこだわりのこもった書店なのに、お客さんのためという基本姿勢が一貫して保たれている。

 気流舎にあるのは普通の本だけではない。ミニコミな雑誌もある。各種チラシやフライヤーも置いてある。夜にはイベント会場として使うこともできる(そして夜にはバーになる!)。「ブックカフェ」というくくりには収まらない、「誰かの家」的な雰囲気が心地よさを誘う、そんな空間だ。(奥山)

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2008年9月12日 (金)

◆新連載◆ 靖国神社/検証! 靖国は「身体にやさしい」かどうか(上)

 私がはじめて九段の坂を上ったのは大学生の頃だった。ただ、そのときは靖国神社に興味を持っていたわけではなく靖国に向かっていたわけでもなかった。目的地は境内から歩いて1分ほどの距離にあるインド大使館だった。大学最後の夏休みで、念願のインド旅行を控えていた。インドに入国するためはビザを取る必要があり、それで大使館に行ったのだが、なぜだったか忘れたけれど大使館が閉館するギリギリの時間で、武道館を左手に見ながら九段の坂を駆け上っていたのだ。めちゃめちゃに暑かったせいもあるけど、あの傾斜は本当にきつかったことを昨日のように覚えている。

 かつて書いた「九段の母を探せ!」という企画では現在では100歳になろうかという「母」に会うことができなかったが、それもこの坂のせいと考えれば合点がいかないでもない。数えてみたところ、靖国に最も近い九段下駅の出口から坂を上がって、神社の入り口まで約300歩。入り口からさらにしばらく坂が続いて、合計600歩近くの上りの連続なのだ。100歳のお年寄りにはこの坂はあまりにもキツイ。

 2006年5月10日付けの西日本新聞に驚くべき記事が載っていた。「万里の長城、バリアフリー」との見出しで、以下がその本文になる。
 「北京市の張茅副市長は、同市に3ヵ所ある万里の長 城の長城観光スポットのうち、もっとも有名で一般的 な「八達嶺長城」のバリアフリー化を進め、2007年末 までに障害者用のエスカレーターを設置する計画を明 らかにした」
 世界遺産であるこの長城を傷つけないように工事は進められるという。「あの中国が、しかも万里の長城にバリアフリー」という二重の驚きをもって私はこの記事を読んだのだが同時に、日本のみならず世界中にバリアフリー、ノーマライゼーションといった観念が浸透しつつある事実をしみじみと実感したのだ。
 恐ろしいスピードで超高齢社会に突き進むこの国では、交通や各施設の利用に関する高齢者に対しての配慮が年々高まりつつある。
 1994年に制定された「高齢者、身体障害者が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(通称ハートビル法)では、法律の名前から察せられるように、誰もが利用する特定建築物を建てる際、設計において守られるべきバリアフリーの規準が打ち出されている。

 こういった高齢者や障害者にとっての使い勝手の視点で見たとき、靖国神社にはどんな顔が現れるのだろうか。もしかして、それは鬼の顔かもしれない。
 ここにひとつのチェックリストがある。ハートビル法が定める、建物を円滑に利用することができるかどうかの規準となるチェックリストだ。ハートビル法はこれから新たに建てられる建物についての法律だから、実のところ靖国神社はこの規準に忠実である必要はない。ただし、遊就館を除いてだが。
 ハートビル法の制定は94年。改装後の遊就館がオープンしたのは02年だから、現在の遊就館は特定建築物(延床面積3000平方メートル以上、多くの人が利用する建物というのがだいたいの定義。遊就館の延床面積は11200平方メートル)として規準が適応されるのだ。

 チェックリストは ・床の表面が滑りにくい仕上げであるか ・傾斜では手すりを設けているか ・階段はつまづきにくいものか……といったものがいくつか続く。
 ギンナンの強烈なにおいに満ちた参道を通り、まずは遊就館に向かった。靖国神社が「九段の母」にとって苦痛なく訪れることができる場所なのか、その検証である。(宮崎太郎)

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2008年9月11日 (木)

◆新連載◆アフガン・終わりなき戦場/アフガンを視る(1)

 パキスタンのイスラマバードから飛行機に乗り、30分で、アフガニスタンの首都カブールに到着した。2006年12月のことである。眼も醒めるようなラピスラズリ色の空を思い描いていたのだが、アフガニスタンの空は東京のそれに近い、淡い青をしていた。空よりも眼界に強く飛びこんできたのは、UNのマークをつけた国連の輸送機や、ISAF(国連治安支援部隊)に所属するルーマニア軍やイタリア軍の軍用機であった。自動小銃を肩に担いだ兵士があたりを忙しそうに走り回っている。

 かつて、アフガニスタンはシルクロードの要所として発展した。そこでしか採取することのできないラピスラズリは、瑠璃石と名前を変え、金以上に高価な宝石として、遠く離れた日本にまで伝来した。日本では、ファミリーレストランの名前にもなっている「バーミヤン」とは、シルクロード時代に発展した、緑の美しいオアシスの町の名である。日本とアフガニスタンは何の関わりも無いように思えるが、その接点は紀元前から存在しているのである。

 シルクロードの輝かしい歴史と同時に、アフガン史を染めるのは近代に入ってからの戦争につぐ戦争の側面である。1838年から1989年の間に、アフガニスタンはイギリスやソ連の列強国から度重なる侵攻を受けた。ソ連軍の撤退後、各勢力による権力争いが勃発し、内戦に発展した。内戦は凄惨を極め、血で血を洗う戦闘が繰り返された。治安状況は急激に悪化し、イスラムで禁忌とされている、強姦や強盗という事件がアフガン全土で多発した。治安の悪化と経済の瓦解に伴い、多くの人々が祖国を離れ、難民に身をやつすこととなった。国連難民高等弁務官事務所によると、内戦が終結する1990年までに、最低でも620万人が難民になったという。アフガニスタンの人口は、正確な調査が行われたことがないので詳しくは不明であるが、一般的に二千万人だと言われている。つまり、国民の30%もの人々が戦火で国をおわれたのである。

 90年代後半に入り、治安の回復を掲げて、アフガニスタン統一を図ったのがタリバンである。パキスタンを通じて投じられた、アメリカの莫大な資金を駆使し、タリバンは快進撃を続け、2000年にはアフガニスタンの90%を手中に収めるまでに至った。タリバン主導の厳しい統制の下、アフガニスタンは治安を取り戻し始め、国外に避難している難民たちの帰還事業も小さいながら始まった。イスラム原理主義という、復古的な側面もあったが、ともあれアフガニスタンの市民は、この時、戦闘が日常に顔を出すことのない、通常の社会を取り戻しつつあった。

 しかし、2001年の国際貿易センタービルに対する、同時多発テロが、アフガニスタンを再び戦火に引きずり込むことになる。アメリカは報復戦争をしかけ、デイジカッターやバンカーバスター、非人道的兵器の疑いが極めて深いクラスター爆弾をアフガニスタンの大地に雨あられとふらした。この攻撃で、再度十数万人規模の人々が国をおわれ、パキスタンやイランで難民となった。

 私は、アフガニスタンに着いて以来、この暗澹たる受難の歴史を頭の中で幾度となく、なぞっていた。これだけの災厄に見舞われた人々は、何を思い、国を脱出したのか。そして、どのような日常を送っているのか。わたしはカブール中心部ダ・アフガン市場にほど近い難民の移住地を取材した。(白川徹)

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2008年9月10日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷 最終回

●院政
白河上皇から、鳥羽、後白河と続く「院政」と摂関政治の関係はどう記載されているだろうか。七五年は「強烈な専制的性格」をもった院(上皇)が「摂関家を完全に圧倒した」とある。白河上皇の父である後三条天皇の政治が「摂関家をこえる天皇の権威を認識」させたことに続く、「天皇家の権威」の復活という文脈である。
八九年になると「強烈な専制的性格」といった上皇の個性の記載は消え、「摂関政治のもとでめぐまれなかった中・下級貴族、とくに荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力にとりこ」んだ、などの結果として「摂関家の勢力はおとろえた」となる。
この変化は前回に述べた延久の荘園整理令への評価の違いから来る。八九年は整理令を「かなりの成果をあげた」とするために、「荘園との対立関係にもあった国司が歓迎」して「支持」したということになる。九八年からは「摂関家は、勢力のおとろえを院と結びつくことでもりかえそうとつとめた」と、摂関政治から院政に、オセロゲームのように権力基盤が変わったのではなく、衰えつつも摂関の権威はなお残存したという事実を重視したような記述になる。橋本義彦の主張も顧慮されたと見るべきか
とにもかくにも白河上皇という人物の存在感は強烈である。大河ドラマに取り上げられるのはいずれも歴史上の有名人物だ。そこに列する人々と同等以上の人と私は思う。どうやら学界の主流は白河上皇のパーソナリティーというより外部環境が変化しての「そして誰もいなくなった」論のようである。けど本当かなあ。以前「女系天皇はどうして問題なのか」というタイトルで書いた(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2005/11/post_00ce.html)文章から再掲すると

父は天皇ということになっているが実は・・・・という例で有名なのは鳥羽天皇1子の崇徳天皇である。彼の実の父は祖父の白河上皇(法皇)だとの説が有力だ。確かに倫理的にはともかく万世一系は途切れてはいない。ただこの話は、だからこそ表沙汰になり得たともいえるのだ。皇統に皇族以外の男性の遺伝子が紛れたことはないと絶対に言い切れるか

である。考えれば考えるほどすごい話だ。山川の教科書は個人の力量によって歴史が転換したというロジックを基本的に避けているので白河上皇に限らず英雄史観が乏しい。それはそれで一つの見識だけれども面白みを欠く要素でもある。まあ教科書は面白くなくてもいいのか。
また七五年は、摂関政治と院政の「私的な」性格についての記載がある。「摂関政治がすでに国政の私的な運営であったが、摂関は天皇の外戚とはいいながら、ほんらいは臣下であるという遠慮もあって、あまり専制的な行為はとらなかった。これにたいし院政は、上皇が天皇の父であるという立場で国政を専断するというもので、私的な性格がいっそう強くなった」とあるのだが、八九年以降は見当たらない。
この辺も意外と見逃されていないか。「家来の立場のお爺さん(外祖父)よりも元天皇(または天皇パパ、天皇ジジ)の方がおっかないから摂関政治より院政の方が強いのだ」という刷り込みが多分に残っている気がする。考えてみれば、それが当てはまるならばいつの時代でも天皇家がある限り通用する万能鍵のような理屈になってしまう
●僧兵
どのような階層で組織されたのか。七五年は「所領の荘園から徴集された農民たちが、寺内の雑務にあたっていた下級僧侶とともに」組織されたとある。八九年は「数多くの荘園から挑発した農民たちと下級の僧侶」とし、ほぼ同様の記載である。ところが九四年からは単に「下級の僧侶」だけとなり、「徴集された農民」が消えている。
ここからは私の推察。要するに「僧侶」とは何かという価値観の問題であろう。律令制に書き込まれている得度がなされていない者(私度僧)を僧と認めなければ「下級の僧侶」と分けて考えねばならない。でもこの時代は実態としてそうした区別が消えかけており北嶺(比叡山延暦寺)も律令を厳格に当てはめるならば私度僧ともいえる人物が座主に就いているのだから分ける必要がない、と
●保元の乱
構図はどう変わったか。七五年には父の鳥羽法皇に「きらわれていた崇徳上皇」らが「乱をおこし」、「朝廷方は機転を制して勝利をおさめた」とある。八九年になると「かねて皇位継承をめぐって(鳥羽)法皇と対立していた崇徳上皇」が「武士を集めた」のに対して、「後白河天皇」らが「武士を動員し、上皇方を攻撃して討ち破った」と変わる。この流れは二〇〇二年まで変わらない。
まず、弟の近衛天皇と後白河天皇の即位に崇徳上皇が好意的だったとは思えないので、「きらわれていた」と「皇位継承をめぐって対立」はさほどの違いはなく、山川らしく主観的な文言を嫌った変化とみられる。崇徳上皇が「乱をおこし」ではなく「武士を集めた」も同様の理由とみられる。問題は「後白河天皇」が八九年以降の記載のように、主導権を握っていたかどうかである。二九歳の天皇に当事者能力があったのだろうか。確かに後年の活躍?から推せば後白河帝に並々ならぬ力量があったとはいえる。とくに源頼朝との今はやりの言葉でいえば「インテリジェンス」合戦はすごかった。頼朝もまた希代の謀略家だったので息を飲むやりとりが展開された。
しかし保元の乱時点では後白河天皇側の藤原通憲という謀略に長けた学者、最近で例を探せば竹中平蔵さんみたいな人のプレゼンスが大きいのも事実。
●平氏政権は古代か中世か
七五年から八〇年までは中世の範囲に、八九年以降は古代の範囲に記載されている。これは広く知られているように平清盛による六波羅政権が多分に貴族的性格を有しているのを「清盛は武士だろう」(つまり中世)を退けているのだろう。
でも清盛はやっぱり武士でしょう。出自はもちろん、平治の乱には勝ったわけだし。なるほど平治の乱は藤原信頼を名前通り信頼してしまった源義朝の落ち度や政略は仕掛けるものの意外と失敗もする「平安の小沢一郎」後白河院のエラーなど清盛の武将としての能力以外での勝因は数えられる。とはいえ彼が武士でなければあり得なかった勝利であるのも事実だ。
もう少し引いて考えてみると清盛の祖先達、通称「桓武平氏」は戦争に弱かったという点に着目できる。将門は強かったけど結局敗死。忠常は源頼信へ戦わずして降伏。正盛に至っては源義家の家来。ただここで白河院政に食い込み、彼の新設した北面武士のトップとなる。この足がかりは子の忠盛にも引き継がれ、忠盛はさらに鳥羽院政で殿上人入りを果たし院近臣として権勢を振るう一方で宋との貿易で大もうけする。清盛も基本的にこの路線を踏襲しており「六波羅政権の貴族的性格」と切り離すより忠盛-正盛-清盛の連続性を求めれば古代に位置づけるのは妥当ではないか

これでひとまず当連載は終わらせていただきます。中世編以降は時間を見つけては進めてまとまったらアップする予定です。ごくわずかの気高き読者の皆様。ご愛読ありがとうございました(編集長)

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2008年9月 9日 (火)

サイテイ車掌のJR日記/8月28日、深夜の豪雨

○月×日

 寝たかと思ったら大音響の雷だった。28日、11時頃だったろうか。まるですぐそこで何かが爆発でもしたかのような、これまでに聴いたことがない、ホント凄まじい音だった。
 9時頃からどしゃ降りになっていた。それはいつもとは訳が違う超強烈なヤツで、「今夜トマ(泊まり勤務のこと)の連中は大変だろうな。これじゃただじゃ済まないよな」と同僚にメールして寝たくらいだ。
 出番ではなかった私は、寝入端をくじかれた悔しさも手伝い「荒れろ、もっと荒れ狂え。雷よ、おれに落ちてみろ。おれの身体を直撃してお前の電気ショックでおれの腰痛も五十肩もみんな治してみろよ。それが出来るんなら、ちょっとの安眠妨害や痛さも、大災害だって許してやろうじゃないか。えっ、どうなんだ」などと、ほんとは恐いくせに強がってみたりと自分自身もゴロゴロしていたら、いつの間にかまた深い眠りに落ちたのだろう。

 すると、今度は深夜の2時頃だったか。とにかくもの凄い音だった。それも何度鳴っても遠のく気配は一向にない。家の窓はガタガタと音を立て、地響きでマンション自体が何度も揺れた。
 こんなことはこれまでなかったことだ。いつもの雷なら、遠くでゴロゴロという低い音で鳴っているか、上空から急降下するみたいなバリバリという金属的な音かのどっちかだが、この時ときたら地上から突き上げるようなドドーンという「ン」にも濁点をつけたくなる巨大で重量感のある大爆音とでもいうのか、実はそんなことを分析している場合ではなく、「頼むから早くあっちへ行ってくれよ」と、もうただ寝かせてほしいだけなのでありました。

 で、5時半頃に寝不足のまま起き出して、カーテンを開ければいつもの朝。雨はすっかり上がっていて、青空まで覗いていたのにテレビをつけるとびっくり仰天。
 外の眺めは何の変てつもないというのに、ここ東京多摩では1時間に100ミリを超す記録的な豪雨ということだった。しかも、テレビのニュースは八王子のオンパレード。中央線の高尾駅では近くの川が氾濫して駅構内が浸水していた。水は中央線の車輪の半分くらいまで達したのだという。車輪の直径は約90センチと聞いているから、人でいえば膝の辺りまで水浸しになったということになる。信じられないが、泥沼と化したわけだ。高尾の一つ先が相模湖という駅だが、本日の高尾は高尾湖という駅に改名、というのは冗談にしても、これでは電車は動かない。
 また、高尾に隣接する京王線は崩れた土砂に乗り上げて脱線するという大事故。さらに、周辺には避難勧告が出され、住民が深夜に避難するなど、まさに大災害であったのだ。
 中央線は前夜から八王子以西はストップしていて、この日は始発から八王子~大月間が運転見合わせ。東京~八王子間の折り返し運転とし、本数は通常の半分程度。全面復旧は13時頃を見込んでいるとニュースでは言っていた。従って、朝のラッシュは大混雑。誰もがウンザリ、朝から疲れ切ったことだろう。

 私は夕方からの泊まり勤務だったが、信号トラブルや速度規制があったり、夜にはまたも雷雨となり、結局終日乱れに乱れ、通常ダイヤに戻ることなくヘトヘトで幕を閉じた。
 人間は大気などの自然を操作することは不可能だろう。自然は受け入れ、うまく利用するか、被害が出ればそれをいかに最小限にするかしか対策はないと思うが。
 いずれにしても、8月は雨が多かった。終盤はほとんどの日が雨に見舞われたような気がする。しかも降り出すと半端ではない。中央線の輸送が安定していたのは中旬の何日かで、気象の影響以外にも何かしらの事故でしょっ中乱れていた。
 また、中旬頃からはいきなり涼しくなった感じだ。たまに太陽が顔を出しても、真夏の鋭い日差しが戻ることはなく、夏と秋のはざまにしてはすっかり秋の気配が漂い始めていた。

 私は先日も東京を3日ほど留守にした。いつもの帰省だが、夜に戻ってちょっと驚いたのは、窓の外では秋の虫が一斉に鳴いていたことだ。もうそれだけで「ああ、夏は終わったのだな」と、何故かしんみりとしてしまっていたのだった。
 これといって特別なことは何一つしない夏だった。旅行やレジャーの休暇も取らなかった。今や仕事の一つとなった施設にいるおふくろの様子を見に行くための帰省を2度しただけで、毎月と何も変わりない。
 そんな夏、8月も今日で終わる。どうであれ、まずは無事に乗り越えられたのだからそれでいい。日中は晴れ間もあったが夕方からまた雨だ。テレビでは多摩地方は大雨洪水警報だといっている。またかよ…。
 さあ、明日から9月だ。時はどんどん過ぎて行くだけだが、実り多き秋であってほしいと心から願っている。(斎藤典雄 9/1記)

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2008年9月 8日 (月)

●ホ ー ム レ ス 自 ら を 語 る 第6回 路上生活まだ1週間/Yさん(62歳)

9_8   このあいだ秋葉原で大事件があったろう。
(08年6月、東京・秋葉原で無差別殺傷事件が発生し、17人が死傷した)
あのときオレも秋葉原にいたんだよ。というか、あの街がオレの仕事場だったから、毎日通っていたんだけどな。仕事は無店舗の街頭販売。秋葉原の街を歩いているスケベそうな中年のオッさんや若者を捕まえて、裏DVDを売りつけるのが仕事だったんだ。
 あの日も客を捕まえて、路地裏に引っ張り込んで商売をしようとしたら、警官に見つかってよ。職質(職務質問)が始まって「こりゃあ、パクられるな」と覚悟を決めたときに、警官の無線に連絡が入って「別件の事件が起きたから、あんたはもういい」と言い残して駆け出して行っちまった。
 そのうちにパトカーやら消防車、救急車ののワンワンとしたサイレンの音が聞こえてきて、それでオレも音のするほうに行ってみたんだ。現場はすごいことになっていたよ。あれだけの数のパトカーや消防車を、一度に見たのは初めてだったからな。凄惨な現場だったよ。
 ただ、あの事件以来、オレたちの商売は上がったりでさ。秋葉原にやって来る客足が落ちたろう。それに警官の姿が増えたから、うっかり商売でもしたらパクられちまいそうだからよ。それで1週間前に足を洗って、ここ(上野公園不忍池の周辺)で野宿をするようになったんだ。
 いまは夏だからいいが、秋から冬の寒い時期のことを考えると、どうなるか心配だよな。

 生まれは茨城県の笠間。オヤジは町の製材所で働いていた。子どもの頃のオレは、どちらかといえばいじめられっ子のほうだった。背が低かったからな。だけど、ケンカは強かったよ。1対1だったら負けたことがねえんじゃねえかな。ただ、勉強のほうはさっぱりダメだったよ。
 それで中学を終えて、東京に出てきた。いまはなくなっちまったけど、上野にステーションホテルというのがあって、そこの厨房に入った。和食の板前を目指したんだ。
 修業はきびしかったよ。朝の一番電車に乗って、築地まで買出し行かなけりゃならねえし、先輩のいじめもあったしな。どうもオレはいじめに遭うタイプらしい。だが、逆に可愛がってくれる先輩もいたけどよ。
 この季節で思い出すのは、夏の屋上ビアガーデンだ。仕事帰りのサラリーマンで、連日連夜、満席の賑わいでさ。おかげで厨房のほうは、みんなが怒鳴り合って戦場のようだった。ツマミの枝豆なんかは、2tトラックで仕入れんだからよ。それくらい客が来たんだ。
 ステーションホテルには2年いて、別の店に移った。オレの都合じゃねえよ。板前の世界は兄貴格、その上の兄貴格と系列がビシッとしていて、上から「おまえ、××の店のほうを手伝え」と言われれば、その命令は絶対だからな。オレの板前人生は23年間だったけど、小料理屋から料亭までいろんな店の板場で働いたよ。
 店を代わるのは上からの命令ばかりじゃなくて、板前仲間とケンカをしてやめることもある。先輩面をして、新人いじめをするやつが結構いるんだよな。

 結婚はしたよ。35歳のときで、女房は元芸者だった女だ。なかなか色っぽいところがあったよ。まあ、ションベン芸者だけどな。酒の好きな女で、一升酒も平気だった。オレも酒は嫌いじゃないから、いっしょになって飲むんだけどね(笑)。女房とのあいだに女の子が一人できた。
 その女房が10年くらいして、女の子を連れてプイと家を出たきり帰って来ないんだ。わけがわからんよな。
 じつは……オレはこれまでに4回のムショ(刑務所)暮らしをしているんだ。4回とも障害罪の過剰防衛で、初犯から実刑だった。何ていうか、普段のオレは性格的にはおとなしいほうだと思うんだ。ただ、キレやすくて、キレたら手に負えなくなっちまうんだな。
 ケンカの発端なんて道を歩いていて、肩が触れたとかささいなことさ。それで相手が低姿勢に「どうも」とかいって出りゃ何でもねえが、「何だ。てめえ」とでも返そうもんなら、オレはブチキレちまって突っかかっていってケンカになっちまう。
 オレは相手をグーの音も出ないほど叩きのめさないと気がすまねえんだ。というか、背が低いほうだから、中途半端にやっつけておいて、相手が息を吹き返して反撃してくるのが怖いんだよ。あとで警察や裁判所で「いくら何でも、あんなにまでやることはないだろう」といわれるくらい徹底的にやっちまうんだ。ケンカのきっかっけは相手のほうが悪くても、オレも過剰防衛ということでムショ送りになっちまうんだ。
(Yさんは言葉を濁すが、板前をやめたり、妻と離婚したりしたのも、こうした事情と関係があるのかもしれない)
 ムショと娑婆を4回も行き来しちまったからな。仕事といったって、日雇いの建設作業か、いかがわしいDVDの街頭販売くらいしかねえからよ。
 その日雇いも60歳をすぎたら声がかからねえし、DVD販売もあんな事件があって商売あがったりだしね。もう、ホームレスになるしかなかったわけさ。お先は真っ暗だよ。
 えっ? 写真を撮りてえって。ダメだよ。後ろ姿だってダメさ。ダメったら、ダメなんだよ。てめえ、しつこい野郎だな。
(Yさんはキレてしまった。最後まで写真の撮影は許されなかったが、取材記事の掲載だけは許してくれた)(聞き手:神戸幸夫)

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2008年9月 7日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第26回 高野山カフェへ行ってきた

 「高野山」に「カフェ」がくっつくとは誰も予想だにしないだろう。だって、あの高野山である。高野山といえば金剛峯寺。金剛峯寺は真言宗の総本山。開基は空海こと弘法大師様々であり、さらに2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたこともあり、ありがたく荘厳な空間として日常からは遠くかけ離れている。要するに近寄りがたいのだ。「観光」といって「じゃあちょっくら高野山にでも行ってみっか」ということにはめったにならないだろう。
 そんな高野山が「カフェ」を期間限定でひらくという。「カフェ」ですよ。カフェといったらあれですよ。要するに喫茶店ですよ。しかも横文字なんで、妙齢の女性があははうふふとチンタラ色恋話に華を咲かせるスポットのはず。いったいどういう事?! と、妄想ばかりたくましく悩んでいてもしょうがないので、とりあえず行ってみることにした。

 高野山カフェは表参道にあった。場所どりもオシャレである。青山学院大学前の無印良品から小道に入って徒歩1分。カフェレストランHy'Sを、一週間だけ高野山テイストにしてある。飲食可能なカフェスペースはもちろんあるが、他にも観光案内、そして体験スペースが設けられている。体験は、写経・阿字観(瞑想)・声明ライブと3つのコースがある。写経も声明も別イベントで体験済みなので、阿字観とやらに行ってみた。
 連載名が示すとおり、宗教に興味があるというよりはむしろ葬式が専門分野である。よって「阿字観とはなんぞや?」という素人くさい態度で臨むことになった。

 会場に足を踏み入れた途端、嗅ぎなれた匂いに鼻が過去を連れてきた。これは抹香の匂い、しかもこの甘ったるくゆるぎなく漂う匂いは参拝客用の安い抹香じゃない、住職専用のかなり高いヤツだ! …この抹香でないと承知しなかった真言宗の住職のことを思い出した。業務用のファイルにも書いてあった。この寺の葬儀の際は白檀(びゃくだん)必須、と。…などと過去に浸ってる間に整理券を渡され、地下に案内され、靴を脱いで座布団が並んだマット敷きの室内へと進んだ。座布団の数はざっと70枚。ほとんどの席が埋まって、なんとほぼ全員が女性である。男性はきっかり3人きりで、みんな女性に連れられてきたような格好だった。年齢層もかなり絞られていて、20代後半から40代前半といったところだ。ほぼ出産年齢期が集まっていると言える。世の女性よ、なんでこんな所に瞑想しにくるのか。スピリチュアルとかヨガブームの一環か。軽率といわれてもむしろそうであることを望みたい。これだけの人が純粋に瞑想しにきてるんだったら驚愕だ。

 しばらくすると僧侶が参内し、正面にある弘法大師、曼荼羅、大日如来に向かって真言を唱え、阿字観についての説明をし出した。曰く、「阿」の「字」を「観」ずると書いて「阿字観」。サンスクリット語で大日如来を示す「阿」の「字」を手で表現し、正しい呼吸法を用いて心身をリラックスさせ、仏を「観」ずる、ということらしい。まずは体をまっすぐに整え、さらに正面の仏を見つめ、両手を組み合わせるようにそろえて「阿」の字をつくり、息を吐くときに「あー」と声を出す。
 ここで僧侶は「座禅みたいですけど、全然違う修行です。むしろ正反対と思ってください。座禅は心を無にするためのもの。しかし阿字観は、祈りを込めます。瞑想に近いものがあります」と言った。なるほど、昨今の座禅ブーム(ブームになっているかどうかは微妙だが、どうやら座禅見合いとかがあるようだし)にたいするアピールのようなものだろうか。たしかに一緒くたにされてはたまらない。座禅と観想は全くの別物だ。そして座禅は曹洞宗など禅宗の専売特許、たいして阿字観は真言宗や天台宗など密教系のものである。

 「吸うときは鼻から、仏様の清新な気を吸い込むように。吐くときは口から、体中の良くない物を吐き出すように」と指導され、さらに「自分の中の仏様を感じてください」と言われた。うーん、こうしてあぐらをかいて座って、半目開きで吸ったり吐いたりを繰り返してると、なんだか宗教みたい。と思ったが、そうだった、宗教であった。オシャレな雰囲気にすっかり取り込まれていたが、これは宗教的所作の一環なのだ。だから危ないとか言い出す気はさらさらないけれど、はて会場のみんなは自覚しているのであろうかどうか。
 結局20分程度、吸ったり吐いたりを繰り返したのだが、ただ座っているだけでも同じ姿勢を保つのは結構辛かった。いつもどんな乱れた姿勢をしていることか。そういえば会社では椅子に座っているし、家では寝っ転がっている。自分で自分の背中をまっすぐに保つ、腹筋を使った所作はしていないのだなと実感した。そりゃ腹に肉もたまるわけです。

Ts3g0054  さて体験して煩悩がなりをひそめたり、心が落ち着いたかと言われれば笑うしかない。だって隣接カフェの限定スイーツがとんでもなくおいしそうで、体験終了後に直行してしまったのだから。ちなみに食べたのは「護摩豆腐と季節のマチェドニア」。濃厚さが嬉しい高野山名物ごま豆腐の上には、キウイやパインなどのフルーツがいっぱい散らしてあって、なんと茄子のコンポートが飾られていた。おそるおそる口にしてみると、冷たくて甘くて、茄子なのにちゃんとデザート化している!

 宗教的体験と精進料理。一見地味だが、スピリチュアルと美食を取り入れて女性向けにプロデュースする余地は確かにある。今回は南海電鉄との共同企画なので観光PR中心であろうが、宗教の本分はやはり布教だ。葬式仏教から抜け出して、新しい宗教観を作り出すきっかけとしては充分なアプローチであろうと思った。(小松)

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2008年9月 6日 (土)

書店の風格/第18回 神保町をギュっとね! 本のすずらん堂

 由緒正しき古書店街の入り口である神田すずらん通り。その中核に佇む新刊書店が、本のすずらん堂だ。店内商品のほとんどがビジュアル系で、コミック、アダルト向け写真集、ゲーム雑誌など男の子の胸をときめかせること間違いなしの品揃えである。店内入ってすぐ右の棚には、一風毛色の違う社会問題や政治的な色合いの濃い本も置いてあるのだが、じつはものすごく選び方が秀逸である。不健康な中の健康さとでも言い表そうか(まったく日本語としてなってないが)、普通の男の子の感性ではボーダーラインをちょっと越えてしまう、という雰囲気のものが一冊もないのが素晴らしい。イマドキのネット男子なら「ここは抑えときたかったんだ」と手に取ること必須の、アキハバラ本、靖国本、犯罪本、下流本エトセトラ。男性のツボを心得ているといえる書籍担当者のセンスには脱帽だ。

 そんな感激を胸に、店内に華開く磯山さやか、安めぐみ、安田美沙子らに見守られながら(もしかして理想的な職場なんじゃないだろうか)階段を上がると、そこはDVD売場。1階の本屋、2階のDVDと、完全に売場が分かれているのだ。もはや男の園。ああ、きっと男だったらこのパラダイスは甘く受け入れることが出来るのに、いくらアイドル好きでも女では門外漢である(この場合「漢」でよいものか)。講談社の面接で「最近読んだ本は」と聞かれ「『月刊現代』です。とくに香椎由宇のグラビアが良いと思いました」と答えた奥山も、ここでは邪魔者である(その面接自体は成功だったが、『月刊現代』はもうじき終わってしまう)。では何故そこに来ているのかというと、きっとこちらのお客さんが喜んでくれるであろう企画を持ってきているからで、要するに営業である。書籍仕入れの方も、こちらの意図を分かってくださったようで、にこやかに応対していただいた。厳選に厳選を重ねた工夫が見られる棚づくりをしている担当者様に認められれば、本だって生き生きと輝いてくるだろう。頑張って、良い仕上がりにしなければならない。

 ちなみに、最近心惹かれてしまった本に『妄撮』がある。女の子の服の下を妄想するという男子のココロを具現化させた写真がいっぱいなのだが、すごいのはそれだけではない。かわいい系からカッコイイ系まで、旬のモデルやアイドルが23人も参加した豪華な本なのである。23人もいれば当然脳内に全く情報のないモデルさんもいて、「この子は一体どういう娘なの??」と、自分の発掘魂をくすぐられてしまう。そんな時にすずらん堂のような本屋さんはかなりありがたい。帰ってネットで調べるより先に、調査項目がギッシリ詰まったものがそこかしこに積んで、飾ってあるのだから。一日中いても飽きない、探求心くすぐられる書店である。(奥山)

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2008年9月 5日 (金)

『吉原 泡の園』第77回/◆番外編◆ 楽して儲かるわけじゃない

 結局スカウトの潜入でわかったことは、楽して儲かる商売はないということだった。
 毎月1回、僕の所属したスカウト集団は渋谷でミーティングを行なっていた。あるときは喫茶店を貸切、あるときはミーティング専用ルームにて、とにかく性風俗に関するさまざまな意見、動向、地域性などの話しを聞く。業種などの詳細や、女のコの落とし方なども勉強する。

 男達10名くらいが随時この勉強買いには出席していた。その集まりの日の最後に、先月のスカウト成績を発表され、報酬がもらえるのだ。僕は1回だけ体験入店させたコがいて、1万円をもらっただけにすぎないが、儲かっている人はスカウトだけで十分食っていたし、最低の保証まで受けているものもいた。自分でもそれくらいはできるだろうとタカをくくっていたが、副業にでもなれば、くらいに腰掛け程度の気持ちでやっていたのではダメなのだった。

 餅は餅屋で。さすがはその道のプロだと思った。ただ、僕にはそんな能力はないし、なくて良かったとも思った。

 ミーティングルームを使用した勉強会の時、歌手の浜田省吾を見かけた。もちろんその人はスカウトなどのミーティングではないだろうが、会議などでも使える貸し部屋なども、こうした大繁華街ではビジネスになるのだと感心したものだった。(イッセイ遊児)

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2008年9月 4日 (木)

ホームレス自らを語る 第5回 死ぬまでここで暮らしたい/大関文治さん(80歳)

 昭和3年生まれだから、ちょうど80歳になる。
 まだ、足腰はシャンとしているからね。足腰の動くうちは、誰の世話にもならないで一人でやっていこうと覚悟しているんだ。福祉の施設に入って他人と共同生活をしたり、規則に縛られて生活するのは鬱陶しいからね。
(大関さんは荒川河川敷の埼玉県川口市と戸田市の市境付近に、ビニールシート小屋をつくって一人で住んでいる)

 荒川の河川敷で暮らしているホームレスは多いけど、みんなもっと上流のほうで固まって暮らしているよ。ワシはそういう集団生活も嫌いだから、みんなから離れて暮らしているのさ。
 ここら辺りには新宿や上野のような、炊き出しとか、差し入れのような便利なものはないからね。毎日の三食の食い扶持は、自分で稼がないといけない。だから、一人だけで暮らしていくのは、結構大変なことで、それなりの覚悟がいるからね。

 ワシは金属の廃品回収をして、それを古物商に卸して現金収入を得ている。廃品回収は川口、戸田界隈のゴミ置き場を自転車で回って、捨ててあるナベやフライパン、ヤカンのような金属製品を失敬してくるんだ。それで合成樹脂や木製の把手を外して、鉄は鉄、ステンレスはステンレス、銅は銅でまとめて、古物商に持っていく。種類の違う金属が混じっていたり、非金属が入っていたりすると引き取ってもらえないからね。
 この仕事で1ヵ月に稼げるのは2万円くらい。1日あたり700円弱にしかならないだろう。それで毎日3食を食べていくんだから大変だよ。贅沢はできないし、腹いっぱい食えないしね。
 ホームレスになって10年くらいになるけど、今年の冬がいままでで一番厳しいんじゃないのかな。ビニールシートだけの小屋は深々と冷え込んで、その寒さは半端じゃないからね。それにも耐えなければならないから、ホントに大変なのさ。

 生まれは栃木県。家は機織業を営んでいたが、昭和18年の戦時統制をきっかけに廃業してしまう。オヤジはもう歳だったし、上の兄二人は働きに出ていたからね。末っ子のワシもこの年に中学を卒業して就職したしね。
 ワシの就職先は地元にあった中島飛行機の工場。日本陸軍や海軍向けの戦闘機「隼」とか「ゼロ戦」なんかをつくっていた工場だ。ワシの仕事は戦闘機の金属部品の製造だった。
 軍需工場だから幾度も米軍機の空襲を受けてね。そのたびに防空壕に逃げ込むんだが、爆弾を落とされるとすごい轟音と身体ごと揺さぶられて、生きた心地がしなかった。米軍は艦載機での空襲だから、超低空飛行で爆弾を投下していくんだ。やつらにとっては面白半分でやっていたんだろうが、下にいたワシらにはたまったもんじゃなかったね。
 戦争が終わったときは、地獄から生還したような気分だった。ホントに生き延びたと思って、ホッとしたのを覚えているよ。

 中島飛行機は軍需工場だったから、GHQ(連合国総司令部)の命令で解体され、ワシもクビになってしまった。それでしばらく米軍基地の雑用係で働いてから、配管工になる。以後、ずっと配管工でやってきたんだ。
 配管工というのは、一人の親方の下に10人くらいの仲間でチームをつくって仕事をする。仕事の内容は水道管工事はじめ蒸気タービン、ボイラー、油管などの配管から、個人住宅の水周りの配管までいろいろあった。

 26歳のときに結婚をする。相手は7歳年下の女の子で、パチンコ屋で知り合った子だ。ワシはパチンコと競艇が好きで、仕事がない日は必ずそのどちらにかに入り浸っていてね。彼女のほうもパチンコが大好きで、毎日のように通ってきていて、それで知り合い意気投合して結婚したのさ。
 ところが、ワシらが結婚した当時の昭和20年代終盤というのは、朝鮮(戦争)特需の反動からか、未曾有の大不況でね。配管工の仕事もパタリとなくなってしまった。配管工は日当仕事だから、働かないと一文にもならならないからね。
 好きなパチンコで遊ぶどころか、米や味噌を買うカネにも不足するようになってきてね。そんな生活でも、若い彼女が何とか我慢していてくれたけど、とうとう3年目に辛抱できなくなって出て行ったよ。

 それが皮肉なもんで、彼女と別れてしばらくして、高度経済成長というのが始まるんだ。途端にワシら配管工も、大忙しになってね。ネコの手も借りたいくらいの忙しさだった。その後、オイルショックとか多少の浮き沈みはあったけど、おおむね順調でワシも配管工ひと筋に70の歳までやってこられたんだ。
 ホームレスになったのは、それからしばらくしてからだ。アパートの部屋代が払えなくなったからで、最初からこの河川敷で始めて、ずっと同じところでつづけている。
 ワシは競艇も好きだったと言ったろう。よく戸田の競艇にも遊びに来て、帰りに荒川の土手を歩いていると、河川敷にホームレスの小屋が点々と見えて、「いざとなったら、こういう暮らし方もあるな」と思っていたんだ。
 だから、ホームレスになると決めたら、迷うことなくここに来て、ビニールシートの小屋をつくって住み始めたのさ。
 ワシもいま80歳だからね。いまさら役所の世話になって、施設なんかに入りたくないよね。このままここで、一人でのんびり気ままにやっていきたい。そして、できたらここで静かに死を迎えられたらと思うよ。それがワシの最後の望みだな。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年9月 3日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷⑥

●武士の台頭
七五年には武士が台頭した理由として「地方政治の混乱によって治安がみだれると、国衙の役人や荘園の荘官は、治安維持のためにも、また支配下の土地や人民を確保するためにも、武装しなければならなかった」とある。同年には「中央も地方も治安はみだれるいっぽうで、火事・盗賊・闘争はいたるところにおこった」とあるので、武士団はこうした地方の乱れが原因で、自衛のために成立したと解釈するのが妥当だ。
八九年になると「地方行政のあり方が大きく変質していくなかで、各地に成長した有力農民は、その勢力を拡大するために武装し」たと改まる。「国司の支配下からぬけ出」すほど「勢力を拡大し」ていた「有力農民」は、国司の支配をもはや恐れなくなったと読める。事実、「武士団」は「時には国司に反抗した」とある。
失政からの自衛手段ではなく、時代の波を先取りした自主的な判断が武士団の結成につながったと解釈は大きく変わっている。この論調は以後も大きくは変わらない。
さてその頭領の座を占めた桓武平氏が根拠地にしていた「東国(関東地方)」は、その理由として七五年以来、「蝦夷征討の基地として軍事的行動がさかん」だったからとしていたが、九八年からは消えている。蝦夷征討との因果関係が疑問視されるような新説が出たのか。
●「前九年の役」「後三年の役」
九八年からは「前九年合戦」「後三年合戦」と改まっている。「変」「乱」「役」といった俗称はある角度からのものの言い方なので近年は古代史に限らず中立的な言い方が進んでいる
●奥州藤原氏
九四年からは、藤原清衡から始まるいわゆる「奥州藤原氏」の記載が増えている。本文には「奥州藤原氏は、金や馬などの産物の富によって京都の文化を移入したり、北方の地との交易を行って独自の文化を育て、繁栄をほこった」とあり、脚注には「11世紀に奥州で2度の反乱がおきたあと、奥州の藤原氏が勢力をきずくと、藤原氏を媒介にして地方の産物が都にもたらされた。藤原氏は金の力を背景に平泉を中心に繁栄し、中尊寺や毛越寺などの豪華な寺院を建立した。最近の平泉の発掘・調査では、京都と北方の文化の影響がみられ、日本海をめぐる交流や北海道からさらに北方とのつながりもあるなど、広い範囲での文化の交流があったことがあきらかになってきた」とある。
この「最近の平泉の発掘・調査」は顕著な実績をあげたと一部で評価されている。世界遺産がらみでもスポットが当たった点だ。また中央政府以外の勢力や、海外交渉に着目する近年の傾向とも合致している。
●平安文学
まず平がなや片かなの定着はいつだったのか。七五年からは「10世紀の初めにはその形もしだいにさだまってきた」とあるが、八九年からは「字形も11世紀初めにはほぼ一定し、広く使用されることになった」とある。間に一世紀の開きがある。
次に紫式部や清少納言といった「宮廷女性の文学的な活動がさかんであったのは、摂関政治のころは天皇の外戚という地位がきわめて重んじられたので、貴族の娘が后妃になると、その地位を確実にするためにも、すぐれた女性をえらんで侍女として后妃に仕えさせ、これを後援したことにもよると考えられる」と七五年は推察する。藤原彰子と紫式部、藤原定子と清少納言の関係がたやすく浮かぶであろう。ところが八九年からこの推察はいっさいカットされている。また本地垂迹説という「考えのもとにうまれた神道が両部神道である」という記載も九四年から消滅している。
●延久の荘園整理令
後三条天皇の「改革」は成果を上げたのだろうか。七五年は「成果はかならずしも十分ではなかった」とするが八九年からは「かなりの成果をあげた」と一変する。成果の証拠として「石清水八幡宮では、34ヵ所の荘園のうち、21ヵ所だけが認められ、残りの13ヵ所の権利がすべて停止された」からだと示している。
ただ荘園そのものは、同じ八九年が、整理令以後の「鳥羽上皇の時代」に「院に荘園の寄進が集中したばかりでなく、有力貴族や大寺院への荘園の寄進がひじょうに増加した」と書いているように、延久の荘園整理令をきっかけに減少傾向をたどったわけではなく、また後三条天皇の問題意識が「荘園の増加が公領を圧迫することを心配した」からだとすれば、「かならずしも十分ではなかった」とした方が妥当ではなかろうか。
後三条天皇の治世をどう判断するかはその前の北家藤原氏の隆盛、後の院政を考えるとなかなかに難しい。荘園もまた「公領を圧迫」の見地から考えれば純粋な意味での律令制の「敵」ではある。だから「減少傾向をたどったわけではな」ければ「量」として成功とは言いにくい。ところが天皇の威令を示したという見地で考えると「停止」に至ったとの事実そのものが重要といえよう。後の院政を天皇権威復活の変形バージョンと判断するかどうかで「院に荘園の寄進が集中」という「その後」と延久の荘園整理令の「成果」の判断が分かれてきそうだ。これは「質」の問題である。
余談だがこのあたりの評価を出題する入試問題は、したがって悪問といえる。(編集長)

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2008年9月 2日 (火)

サイテイ車掌のJR日記/証人尋問

 JR東海会長の葛西敬之氏が鉄建公団訴訟の控訴審に証人として出廷した。
 労働問題の訴訟で企業のトップが出てくるというのは極めて異例なことだそうで、1047名不採用問題を巡るこれまでの裁判でも勿論これが初めてのことである。
 繰り返しになるが、氏は当時の国鉄職員局次長で労務政策を担当。分割民営化を強力に推進した中心人物の一人だ。
 当日の高裁前には傍聴券を求める人で長蛇の列だったという。翌日の新聞各紙も尋問の中身をこぞって報道していた。また、ネットや機関紙等でも既に明らかにされているが、改めて氏の興味深い発言を記してみたい。
 まず、この訴訟の争点は「所属組合による採用差別があったか」だが、氏は「組合によって差別はしていない」と述べている。そんな嘘っぱちはどうでもよろしい。もう私達は聞き飽きている。それではその概略を。

 組合との関係は――
 56('81)年までははまず国労に提示し、妥結できる水準まで落としてから他の組合にもっていくというスタイルだったが、57('82)年以降は各組合に同時に提示した。
 合理化については――
 管理運営事項については事前に誠心誠意説明するが、合意が得られなくてもある時期が来たら実施するという姿勢だった。生産計画は経営事項であり、組合との合意は要らない。
 組合のいい分など聞かなくていいということか?――
 国鉄改革は国策だったからそれしか方法がなかった。 仁杉国鉄総裁更迭('85)まで分割民営化反対が多数だったが――
 そう考えて間違いない。私達(改革派)以外皆(当局の主流派)反対だった。
 85年6月から分割民営化の準備が始まったのか――
 62('87)年4月1日までという政府の方針に合わせて準備をした。
 国鉄改革反対は誤った方針だと思っていたのか――
 もちろんです。
 労使共同宣言については――
 時代はどんどん進んでいる。国労がそれを乗り越えなければならなかった。鉄産労に移った人達(国労脱退者)は分割民営化しかないと理解し、民営化後の企業への順応性が高い人達だと思う。
 職員の評価は――
 分割民営化に賛成すればプラスに評価されるということだ。
 人活センターの認識は――
 職場規律の維持、安全、安定輸送の確保のために必要だったと理解している。
 新会社への採用基準は――
 処分歴だけだが、本人の知識、適性、技能等のデータを参考にした。
 国労の採用率は40%、他労組は100%。本当にこれほどの差になると思っているのか――
 そう思っている。
 国労の処分が多くなる時期を狙っての採用基準作りという見方が成り立つと思うが――
 第2臨調、三塚委員会の方針にのっとったもので、国労排除の意図はなかった。
 「国労を潰せば総評も潰れるということを意識してやった」という中曽根発言を知っているか――

 知っているが、それが目的とはいささか物事の本質を取り違えている。私は鉄道の再生のため、また、真面目にやる者が報われるようにやってきただけであり、「子の心、親知らず」の典型だと思っている。
 概ね以上だが、誌面の都合で改革法23条等については割愛した。
 全体を通して、「おれのいうことを黙って聞いていればいいんだ」みたいな強権的な印象を受けたが、私も感情的になっているからだろうか。
 いずれにせよ、採用の判断基準は分割民営化に賛成か否かだったのである。賛否に最もウエイトが置かれたといって間違いない。

 氏がいくら勤務成績が云々といっても、実際は成績不良であっても国労を抜けさえすれば採用されたという事実。当時の当局による「国労にいたら採用されない」という凄まじいほどの恫喝。国労は、配属、昇進、賃金とあらゆる面で差別され続けたのだ。
 いくら躍起になっても事実は消せない。事実だけが真実なのである。(斎藤典雄)

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2008年9月 1日 (月)

ホームレス自らを語る 第4回 生活保護を受けるまでは/R・Sさん(61歳)

 昭和22年に鹿児島県の大隅半島で生まれました。家の近くの高台に登ると、桜島が見えましてね。そんな雄大な景色のなかで育ちました。家は魚屋をやっていまして、暮らしぶりは普通でしたね。私は7人兄弟の5番目で、性格的におとなしくて、人の先に立つより後ろからついていくほうでした。
 中学を卒業して東京に出てきました。あの頃は高度経済成長の真っ只中でしたから、日本中がものすごい求人難で、私らは「金の卵」とかいってもてはやされましたね。

 私が就職したのは鉄工所でした。従業員が10人もいない町工場です。工場は渋谷の円山町にありました。当時はあの町にそんな工場もあったんですよ(笑)。私の仕事は溶接工でした。鉄骨を溶接で切断したり、鉄骨に鉄筋などをくっ付けたりするのが仕事です。ただ、10人足らずの工場ですから、ほかの作業も何でもやらされましたけどね。
 その鉄工所で働きながら、駒場にあった都立高校の定時制に通いました。4年間真面目に通って、ちゃんと卒業しました。英語が得意でしてね。大学か専門学校にでも進んで、もっと勉強したい気もありましたが、経済的な理由で無理でした。だけど、無理してでも進学して、もっと英語を学んでいたら、いまとは違う人生だったかなとも思いますね。

 高校を卒業して、鉄工所のほうも辞めました。仕事の内容が、自分の性格に合わなかったからです。それで運送会社に就職して、大型トラックの助手になりました。助手をしながら大型用の運転免許を取得して、トラックの運転手に昇格しました。
 私が運転手になった頃から、「合理化、合理化」と盛んにいわれるようになり、トラック乗務も助手制が廃止されて、運転手の一人乗務になりました。私の仕事は東京の大森から群馬まで、毎日ビールを運ぶのが仕事でした。当時のビールケースは木箱で、1ケースに大ビン24本が入っていました。荷物の積み下ろしが機械化される前で、すべて自分の肩に担いでしなければならないから大変な重労働でした。
 大変な仕事だけに給料はよかったんですが、こんなことを続けていたら身体を壊してしまうと思って、運送会社を辞めました。24歳のときですね。
   
 それからは横浜の寿町に来て、日雇いで働くようになりました。寿町を選んだ理由ですか? やっぱり、この町にいると仕事にありつく機会が多いですよ。東京の高田馬場や山谷にくらべて、寿町には荷役など港湾関係の仕事もありましたからね。日当もこっちのほうが、少しだけどよかったんじゃないかな。手配師の数も多かったですしね。
 仕事はその港湾関係の仕事や、土工の仕事、その仕事で飯場に入ったこともあります。それに私は大型車の運転ができましたから、車の運転をする仕事も多かったですね。何をやっても食っていくことができる。そんなふうに安易に考えていたところがありましたね。

 結婚はしませんでした。仕事場に女の人がいませんでしたからね。それに所帯をもつにしても、経済的にやっていける自信がありませんでしたからね。
 稼いだ金の使い道ですか? 酒とギャンブルですね。酒は日本酒でした。1日の仕事を終えて寿町に帰って、馴染みの居酒屋で酔いつぶれるまで飲んで、ドヤに帰って寝るという毎日でした。
 ギャンブルはもっぱら競輪です。競輪は人生のドラマそのものですよ。選手の先輩、後輩による駆け引き、所属バンクが同じ選手同士での仕掛け、それに走路妨害や落車のアクシデントもありますからね。それこそ人生ドラマを見る思いでしたよ。
 そのレース展開をピタリと読み当てたときの、痛快なことといったらありません。私も1レースで最高30万円くらい当てたことがあります。そんな金は酒と次の競輪の車券に消えて、すぐになくなってしまいますがね。
 そんなふうに日雇いの仕事があって、競輪で遊んで、酒が飲めたのも50歳まででした。50歳を越した途端に仕事をまわしてもらえなくなって、あぶれる日が多くなりました。

 それに私の場合は、若いときに無理をしたのがいけなかったのか、両膝を悪くしましてね。「膝関節機能障害」とかいうことで手術を受けました。(R・Sさんはズボンを捲り上げて、膝の手術跡を見せてくれた。)
 それからはもう働けなくなりました。いまでも同じ姿勢でいると、膝が痛くなってくるんですよ。(そういえばR・Sさんは取材の途中で、突然立ち上がるということを、幾度も繰り返していた。そんな事情があったのだ。)
 仕事にあぶれて稼げないと、ドヤにも泊まれなくなりますからね。いつからか路上に野宿するようになっていました。寿町にはそんなのが、いっぱいいますから特別な感慨はありませんでした。ただ、この街にはアーケードのような屋根付きの通りがありませんから、雨のときなど逃げ場がないから困りますね。
 それに私は膝に病気をもっていますから、遠くまでエサ(食料)探しに行けないので、夕食抜きという日が結構あります。夕食が食べられないのはひもじくて辛いですね。

 いまはじっと我慢のときだと思っています。あと数年もすれば生活保護の対象年齢になって、役所から世話をしてもらえますからね。それまでひもじさを抱えながら、じっと辛抱したいです。なーに、この街で35年も暮らしてきたんですから、あと数年の辛抱ができないはずがありませんよ。ねえ。(聞き手:神戸幸夫)

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