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2008年9月 4日 (木)

ホームレス自らを語る 第5回 死ぬまでここで暮らしたい/大関文治さん(80歳)

 昭和3年生まれだから、ちょうど80歳になる。
 まだ、足腰はシャンとしているからね。足腰の動くうちは、誰の世話にもならないで一人でやっていこうと覚悟しているんだ。福祉の施設に入って他人と共同生活をしたり、規則に縛られて生活するのは鬱陶しいからね。
(大関さんは荒川河川敷の埼玉県川口市と戸田市の市境付近に、ビニールシート小屋をつくって一人で住んでいる)

 荒川の河川敷で暮らしているホームレスは多いけど、みんなもっと上流のほうで固まって暮らしているよ。ワシはそういう集団生活も嫌いだから、みんなから離れて暮らしているのさ。
 ここら辺りには新宿や上野のような、炊き出しとか、差し入れのような便利なものはないからね。毎日の三食の食い扶持は、自分で稼がないといけない。だから、一人だけで暮らしていくのは、結構大変なことで、それなりの覚悟がいるからね。

 ワシは金属の廃品回収をして、それを古物商に卸して現金収入を得ている。廃品回収は川口、戸田界隈のゴミ置き場を自転車で回って、捨ててあるナベやフライパン、ヤカンのような金属製品を失敬してくるんだ。それで合成樹脂や木製の把手を外して、鉄は鉄、ステンレスはステンレス、銅は銅でまとめて、古物商に持っていく。種類の違う金属が混じっていたり、非金属が入っていたりすると引き取ってもらえないからね。
 この仕事で1ヵ月に稼げるのは2万円くらい。1日あたり700円弱にしかならないだろう。それで毎日3食を食べていくんだから大変だよ。贅沢はできないし、腹いっぱい食えないしね。
 ホームレスになって10年くらいになるけど、今年の冬がいままでで一番厳しいんじゃないのかな。ビニールシートだけの小屋は深々と冷え込んで、その寒さは半端じゃないからね。それにも耐えなければならないから、ホントに大変なのさ。

 生まれは栃木県。家は機織業を営んでいたが、昭和18年の戦時統制をきっかけに廃業してしまう。オヤジはもう歳だったし、上の兄二人は働きに出ていたからね。末っ子のワシもこの年に中学を卒業して就職したしね。
 ワシの就職先は地元にあった中島飛行機の工場。日本陸軍や海軍向けの戦闘機「隼」とか「ゼロ戦」なんかをつくっていた工場だ。ワシの仕事は戦闘機の金属部品の製造だった。
 軍需工場だから幾度も米軍機の空襲を受けてね。そのたびに防空壕に逃げ込むんだが、爆弾を落とされるとすごい轟音と身体ごと揺さぶられて、生きた心地がしなかった。米軍は艦載機での空襲だから、超低空飛行で爆弾を投下していくんだ。やつらにとっては面白半分でやっていたんだろうが、下にいたワシらにはたまったもんじゃなかったね。
 戦争が終わったときは、地獄から生還したような気分だった。ホントに生き延びたと思って、ホッとしたのを覚えているよ。

 中島飛行機は軍需工場だったから、GHQ(連合国総司令部)の命令で解体され、ワシもクビになってしまった。それでしばらく米軍基地の雑用係で働いてから、配管工になる。以後、ずっと配管工でやってきたんだ。
 配管工というのは、一人の親方の下に10人くらいの仲間でチームをつくって仕事をする。仕事の内容は水道管工事はじめ蒸気タービン、ボイラー、油管などの配管から、個人住宅の水周りの配管までいろいろあった。

 26歳のときに結婚をする。相手は7歳年下の女の子で、パチンコ屋で知り合った子だ。ワシはパチンコと競艇が好きで、仕事がない日は必ずそのどちらにかに入り浸っていてね。彼女のほうもパチンコが大好きで、毎日のように通ってきていて、それで知り合い意気投合して結婚したのさ。
 ところが、ワシらが結婚した当時の昭和20年代終盤というのは、朝鮮(戦争)特需の反動からか、未曾有の大不況でね。配管工の仕事もパタリとなくなってしまった。配管工は日当仕事だから、働かないと一文にもならならないからね。
 好きなパチンコで遊ぶどころか、米や味噌を買うカネにも不足するようになってきてね。そんな生活でも、若い彼女が何とか我慢していてくれたけど、とうとう3年目に辛抱できなくなって出て行ったよ。

 それが皮肉なもんで、彼女と別れてしばらくして、高度経済成長というのが始まるんだ。途端にワシら配管工も、大忙しになってね。ネコの手も借りたいくらいの忙しさだった。その後、オイルショックとか多少の浮き沈みはあったけど、おおむね順調でワシも配管工ひと筋に70の歳までやってこられたんだ。
 ホームレスになったのは、それからしばらくしてからだ。アパートの部屋代が払えなくなったからで、最初からこの河川敷で始めて、ずっと同じところでつづけている。
 ワシは競艇も好きだったと言ったろう。よく戸田の競艇にも遊びに来て、帰りに荒川の土手を歩いていると、河川敷にホームレスの小屋が点々と見えて、「いざとなったら、こういう暮らし方もあるな」と思っていたんだ。
 だから、ホームレスになると決めたら、迷うことなくここに来て、ビニールシートの小屋をつくって住み始めたのさ。
 ワシもいま80歳だからね。いまさら役所の世話になって、施設なんかに入りたくないよね。このままここで、一人でのんびり気ままにやっていきたい。そして、できたらここで静かに死を迎えられたらと思うよ。それがワシの最後の望みだな。(聞き手:神戸幸夫)

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