トヨタに夫を殺されて(1)
人気シリーズ「あの事件を追いかけて」+「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
ブログでは明かされない新たな事実満載!!
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2008年5月、時間外の「QCサークル活動」(品質管理活動)に、トヨタ自動車はやっと残業代を払うことを決めた。大手メーカーではとっくに業務と認め、同じ系列の豊田自動織機ですら24年前から時間外の活動に残業代を払っていたのに、トヨタ自動車は「QCサークル活動」を従業員の自主的な活動だと言い張ってきた。
そんなトヨタの非常識に「蟻の一穴」を開けたのは1人の女性だった。6年前にトヨタ自動車の社員だった夫・内野健一さんを過労で亡くした内野博子さんである。ただ彼女は労働組合の幹部でも闘士でもなかった。
「あー、こらこら、雄貴(ゆうき)、手を洗ってきて。ハンカチは持っているでしょ? そうそう。でも、コーラはなーし。わかった?」
取材の始める直前、博子さんは小学1年生の長男・雄貴君にそう声をかけ微笑んだ。
「わかったよー」と返事する雄貴君にも満面の笑みがこぼれる。
裁判闘争を繰り広げた労働基準監督署も、彼女がトヨタ自動車44年の悪癖を変える女性だとは、つゆほども思っていなかったに違いない。
博子さんは言う。
「最初から闘う気なんてなかったんです。すんなり夫の労災が認められると思っていましたので。闘いなんだと思ったのは、裁判が始まって『集会』というのが始まったときですね。抵抗ありましたけれどね。集会かって(笑) あとから組織力の大事さは知りましたけれど。当時はみんなの前で話すのも憂うつでしたし」
つまり当たり前に幸せな妻であり、母だったということだろう。三代トヨタ自動車に勤める子煩悩の夫がいて、かわいい娘と息子を持ち、プログラマーとしても仕事をこなす日々だったのだから。
しかし、その幸せは彼女の母親による早朝のドアを叩く音から崩れていった。
2002年2月9日、まだ夜明けの気配さえない冬の闇の中、博子さんは仕事中に夫が倒れたことを知らされる。
健一さんは遅番。午後4時10分から夜中の午前1時までが勤務時間だった。しかし大量の仕事を抱えていた健一さんは定時に帰ることなどできない。午前4時20分、机で『申送帳』を書いているとき眠るようにイスから崩れ落ちたという。すぐに救急車が呼ばれ病院に搬送されたものの、病院に着いたときには心肺停止状態になっていた。過労による致死性不整脈だった。
「もし、倒れた夫を救急隊員が看ていたらと思うんです。確かに夫は救急車には乗せられました。でも、それは会社の私設救急車なんです。車に救命器具はそろっていますが、車に同乗したのは119番で呼ばれた保安課の方。救急医療ができる人は会社の『救急車』に誰もいませんでした。
心臓に異常が起きた早い段階で心臓マッサージができていれば……」
そう言って博子さんは目を伏せた。
この私設救急車が病院に到着したのは、倒れてから30分後である。小さな事務所から運び出すのに手間取ったのが原因らしい。つまり生命をつなげたかもしれない貴重な時間を、トヨタの救急システムが食いつぶしたのである。もし倒れて数分後に消防署から救急隊員が到着していればと、遺族じゃなくても考えるに違いない。
しかも健一さんが運ばれたのはトヨタ記念病院。
トヨタ車で会社に通い、トヨタ系の生協で買い物をし、トヨタ系の住宅会社で家を建てるとも言われる企業城下町の悲劇がここにもある。糧を得るのがトヨタなら消費する場もトヨタ。命を削るほど大量の仕事を命じたのもトヨタなら、仕事によって壊れた体を治療するのもトヨタ系列なのだから。
「夫はガタイの悪くない人でした。体の弱い人なら、どこか具合が悪くなって療養に入りますよね。でも夫はギリギリまで頑張ってプツン、と。
不思議でしょうがなかったですね。死因も分からないし、なんで死んだのかもわからない」
そう言って博子さんは目を伏せた。
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