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2008年8月

2008年8月31日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第25回 潜入「他力本願でいこう! 2008」 LIVE編

 さてさて、先週の続きなので少しタイムロスが生じてしまうが報告には価値があると思う、「他力本願でいこう! 2008」ライブの様子。
 8月23日午後4時半、小雨の降る中800人の男女が築地本願寺本堂前に集まった。お寺でのイベントというのに、ほとんどの顔が10代から20代前半、ストリート系のファッションに身を包んでいる。
 法衣を着た僧侶が、スピーカーで案内し始めた。整理券のナンバー順に、若者が本堂の中へと入っていく。奥山が手にしていた整理券は601番。当日配りの整理券のうちでは、27番目に若い数のはずだ。ということは、先行配布に570人もが並んだということになる。このチケットの先行配布方法は特徴的で、8月中旬の3日間、朝勤行に参加した人に配られるというものであった。平均して200人弱の一般人が参加する朝勤行というのは、なかなか見ることのできない光景であったろう。残念ながらイベントを知ったのが配布後だったので、見ることは叶わなかったが。

 中に入ると既に絨毯を敷き詰めた真ん中の席はいっぱいで、出演者の見えにくい脇の席に座ることになった。ちなみに式次第、ではなくコンサート次第は以下の通り。

サワサキヨシヒロ
いとうせいこう&ポメラニアンズ
法話(吉村隆真/熊本県良覚寺住職)
Hair Stylis(中原昌也)
DE DE MOUSE
法話(吉村隆真/熊本県良覚寺住職)
KAN
法話(吉村隆真/熊本県良覚寺住職)
二階堂和美
法要

最後に「法要」がくるのが何とも宗教っぽい。

 びっくりしたのは、いとうせいこう。皆を総立ちにして日本語ラップ? を繰り広げていたが、いきなり本尊前に僧侶が並んで念仏しはじめた。さらに経文を唱えるのだが、平板な経文がちょうどいいベースとなり、あわせて演奏がなされていく。お経とラップのコラボ。個人でのお経ラップ(日蓮宗僧侶、互井観章氏)は聴いたことがあったが、バンドと僧侶のコラボレーションを聴いたのは初めてであった。ぞっとするほど美しい、とは思ったが、ほか多勢の男女同様ラップ歌詞の「なんまいだ」にはノれなかった。「カモン!」と言われても、若者に「なんまいだ」と言わしめるのはまだまだ難しいようだ。

 そしてKAN。そう、「愛は勝つ」のKANだ。きっと実演者の中では認知度ナンバーワンだろう。やはり登場と同時に万雷の拍手が鳴り響いた。短髪でスーツ姿のKANは、ラップやクラブミュージック中心という今回のイベントの流れの中で、大変さわやかな印象を醸していた。「愛は勝つ」は歌ってくれなかったが、相変わらずの美声と流れるようなピアノ演奏に参加者が聞き惚れ、唄を口ずさむ女性の姿も見られた。

 個人的に一番面白いと思えたのは、法話であった。「果たして若者たちがじっと我慢して聴いてくれるかどうか?」という、余所者のよけいな心配が吹き飛んだほどの面白さで会場を魅了した。

「自分の子どもが生まれるとき、出産に立ち会う、ということを経験したんですよね。初めての経験だから、おろおろしちゃうわけ。これが『出産』じゃなくて『出棺』だったら立ち会い方もようくわかってるつもりなんですが…」

 などと思わず笑ってしまう小ネタを入れてくるあたり、プロの話術を感じた。他に「ビー玉」の名前の由来など、豆知識的な部分には周りの若者がうなずく仕草も見られた。実演を挟んで三回あった吉村隆真住職による法話の主眼は、宗教に無節操な日本人の一年間、「勝ち組」「負け組」というカテゴライズの愚かしさ、「他力本願」の意味と、一つ一がとても重いテーマであったが、ざわざわと会場が落ち着かないということはなかった。一期一会のこの会場で、仏の教えは確かに心に届いたようだ。

 最後は本尊様のご開帳があり、法要で締められた。

 最後に、関係ないことかもしれないが会場にmegっぽい髪型や服装のコが多かったのはなにか故あってのことなのでしょうか、それとも単に流行ってるのか。(小松)

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2008年8月30日 (土)

ロストジェネレーション自らを語る/第3回 27歳・女性・会社員(前編)

 このたびは、就職難の真っ只中に会社員となり、また転職を果たした女性に寄稿をしていただいた。

 少々長くなるので、2回に分けて連載したい。

出身は福島県です。小学校から大学まで、ずっと地元の親元にいて、就職と同時に東京に出てきました。
 大学時代は、文化系のサークルと委員会に所属していました。そこで会計を担当していたのですが、現在の仕事も経理関係なので、もともと何かしら縁があったのかもしれません。また、当時の先輩が現在の会社に誘ってくれた人なので、色々と忙しいこともあったけれどサークルに入っておいてよかったと思います。
 就職活動は3年の2月頃から始めました。先物の業界を回り始めたきっかけは、友人から一緒に説明会を聞きに行こうという誘いでした。そこで聞いた話が面白く、また他の業種に比べて随分待遇も良い業界だったので、さほど深く考えることもなく、業種をそこに絞って就職活動をしていました。その中で一番良いと思った会社の内定をもらったのが5月です。友人内でもかなり早い内定でした。できれば事務職をやりたいと思いましたが、その採用はほとんどないに等しく、最終的には「この会社で働けるならいいか」と思って営業職で受けました。
先物業界のイメージはけして良いものではありませんでしたので、親からの反対もありましたが、「むしろそういう所だからこそ、知識があった方がいいと思う。その業界の勉強をしてみたい」とかそんなことを言って説得した覚えがあります。私にしては珍しく強い主張だったせいか、親も納得してくれました。

研修期間は入社後2ヶ月で、そこで基本知識を教わりました。登録外務員試験という、営業に必要な資格試験に合格するための勉強期間でもあります。たくさんの同期も一緒だったため、大学の延長のような感じで、非常に気楽で楽しい期間でした。
本当に仕事を始め、現実を知ったのは配属されてからです。研修中に勉強したことはあくまで机上の理論だったことを実感し、予想できないような動きをする相場に驚き、先輩の営業トークをとても真似できないと思い、自分がいかに何もできないか・・・という事実を思い知らされる日々でした。知識や経験のなさはある程度仕方ないことですが、営業としての意識が低い、ととにかくよく怒られました。先物取引は投資ですので、当然、お客様に売るものは実体のない「可能性」です。そんなことは分かりきった上でこの職に就いたはずなのに、どうしても自信を持って薦めることができず、だんだんとお客様に相対することが怖くなっていきました。また、相手は資産の運用を考えている層の方々なわけですから、それなりの金額の話をしなければならないのですが、金銭感覚の貧しさが抜けず、規模の小さい話ばかりになってしまって、それもまた注意されていたことの一つでした。自分の意識を、根本から変えないとやっていけない。言葉では分かっていても、頭も身体もなかなか付いていけません。その年の夏から秋にかけて、他の同期が次々と契約を取り、昇進をする中、私はひたすら焦り、憤り、落ち込むことを繰り返し、やる気をなくしていきました。上司や同僚はそんな私を励ましたり叱ったりしてどうにか引き上げようとしてくれていたのですが、次第にそれも苦痛になっていきました。
就職した人なら、多かれ少なかれ誰もが経験するようなことなのだと、今なら分かります。
けれど当時の私は自分のことで精一杯で、このままではいけないこと、周りが心配してくれることがわかってはいても、その気持ちに応えることができませんでした。かと言って親を説得して就職した手前、辞めて実家に戻るということもできず、ストレスにより過食気味になり、人目にも明らかに太り、さらに無気力になっていきました。(つづく)

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2008年8月29日 (金)

『吉原 泡の園』第76回/◆番外編◆ ある女のコとの出会い

 ネットスカウトをやっていて、何人かのコはアポをとるまでにいたった。埼玉県在住のYさんとは「明日の午後5時にハチ公前で」、そんなメールのやりとりをして、最後に相手の携帯番号を聞き出した。写メールはどうしても送れないという。
 スカウト集団の幹部Uさんによれば、渋谷までカモをおびき寄せてくれさえすれば、急用ができたとか言って、僕は行かなくてもかまわないという。つまり家のパソコンの前にいるだけで、うまくいけば金になる商売のはずだった。
 ところが写メールを送らずに面接にだけ来るコは、業界で言う“ポッチャリ”が多い。個人的には健康的で好きだし、ポッチャリ専門の性風俗もあるくらいで、そうした所ならば活躍できる。しかし渋谷はビジュアル重視といって、スラリとモデル体型のコが重宝される。それに面接時の喫茶店での飲食代はUさん持ちだ。毎度毎度金にならないコばかりを僕が送りつけるものだから、終いにはUさんも切れた。
「風俗店に行って、横綱が出てきたら、自分ならどうですか?」
 そうたしなめられる始末となった。

「楽して稼げる仕事などない、か」と、しょげながら2ショットメールをやりだすと、すぐにどこの小娘か分からない相手が、僕のチャット部屋に入ってきた。
“こんにちは、お仕事探しですね”
 いつもの常套句を書きこんだ。
“はい、儲かる仕事ありますか”
 これもまた女のコの常套句だ。何ヶ月もネットスカウトをやっているうちに、女のコの、それも風俗に身を投じているコのパターンが分かってきたのだ。つまり、いままで面接にかすりもしなかったコと同じことを言っていたわけだが……。
 風俗志望のコの興味は1つだけ。とにかく儲かる店をである。金、金うるさいな、と思いながらも、いつものように答えてあげる。

 面接日を決める段階まではスムーズに行く。これも毎度のパターンだった。そして決定的なこと、面接日を決めると女のコはチャット部屋から退出していってしまう。携帯電話の番号も教えずに。今回も、どうせ最後の最後で逃げるんだろうな、そう思いながら適当に相手をしていた。
“面接はどうしますか”
“明日にでも”
 珍しかった。今日の明日ならば、もしかしたらという望みも出てくる。渋谷のスカウトマンだけでなく、女のコ斡旋の個人契約をした潜り業者も知り合いになっていたので、明日、まずは潜りの業者に紹介してみて、ダメならば渋谷に紹介すればいいと思っていた。

 翌日、御茶ノ水でそのコと待ち合わせをした。17時に駅改札で。来るか来ないか、五分五分だと思った。来ないならそれでいい。
 17時少し過ぎ、携帯が鳴った。
「昨日の者ですが」
 来た。約束通り。
 胸の大きなスタイル抜群のコだった。小岩のイメクラに連れて行き、女オーナーと話しをさせるが、時間的な都合が合わなかった。仕方がなく、渋谷のUさんに見てもらうことにする。
 小岩で切符を買って、さっさと行こうとすると、そのコはじっとしていて動かない。スカウトマンは女のコの切符まで買ってあげなければいけないのだと、無言の圧力を感じた。こうなると買うしかない。
 渋谷のUさんと喫茶店に入る。色々話し、吉祥寺の店で体験入店ができることになった。
 体験入店とは、その店でやっていけそうかどうか、試しに1日だけ働くものだ。当然女のコに給料が発生する。さらにUさんのスカウト集団では、体験入店でもスカウトマンにとりあえず1万円が発生するシステムだった。おかげで僕はスカウトマンとして始めて収入を得たのだった。それにしても3ヶ月で1万である。その女のコが完全に働ければ、月の売上から一定の割合がスカウトマンの懐に入る仕組みだ。
 このグループはアダルトビデオの女優もスカウトしており、Uさんなどは、偶然にスカウトしたコがビデオ女優として稼いだので、それだけでもかなりの副収入があると言っていた。
 スカウトマンには専業でない者もいる。現役の一流大学生いれば、ホストがひそかにスカウトをしていたりもする。偽の写真を掲載してネットでスカウトをすればかなり稼げると教えてくれたのは、ホスト兼スカウトマンの人だった。もちろんホストクラブに遊びに来るコも、そんなホスト兼スカウトマンの餌食になっていた。

 渋谷でスカウトをしている者は相当いる。ただ、それぞれのグループに縄張りがある。このグループはこの範囲でスカウトをする。そんなルールが決まっており、各団体はヤクザに金を上納しているそうだ。Uさん率いるスカウト集団が堂々と活動できるのも、この上納金のおかげだ。縄張り内でのトラブルならば、いつでも解決は請け負うらしい。ただし「範囲外では何もできないから、縄張りを荒らさないように」とUさんから注意された。
 しかし、どんなヤクザも警察には勝てない。06年6月には、都条例の改正により風俗案内所とスカウトマンらに対する警察の態度も厳しくなった。条例施行当日、渋谷の街で立っていた数人のスカウトマンが逮捕されたと聞いた。

 それほど幸せに育ってこなかったコが、ネオンのきらびやかに惑わされるのか、スカウトに食いついてくる。食いつくコは、どこかの風俗を辞めたか、辞めようとしているコが多い。1度はまった風俗地獄から抜けようにも抜けられないコが多いからだ。その行く末は精神病院への入退院、そんなコも多い。
 もちろん女のコ流通システムといっても、スカウトなども氷山の一角に過ぎない。強制的に働かせられているコもいる。女のコの状態も千差万別だ。18歳未満や薬漬け、男に貢ぐされているケースも。どれもこれも暗い話しばかりだ。そんな闇を抱える女のコが頑張り、ファンができて、店が潤い、スタッフが暮らせる。
 だからだろう。
「ボーイは女に食わしてもらっているんだ、それを忘れるな」
「ここはマ○コ屋だ」
 吉原ソープでは、そんな言葉を上の者から叩きこまれる。(イッセイ遊児)

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2008年8月28日 (木)

サイテイ車掌のJR日記/ロッカーの土産

 同僚のロッカーの上に田舎からのお土産を置いておいた。
 手渡しすればと思われそうだが、私達は家庭内別居の夫婦さながら、同じ日に出番であっても会わないときは全然会わないのだ。
 ところが、3日経ってもそのままなので、さすがに心配になった私は彼のロッカーの真ん前まで行ってみた。で、名前を見て唖然。苗字だけが同じで全く別の人のロッカーだったのである。

 事の顛末はこうだ。仮に彼の名前を「佐藤良夫」だとしよう。そのロッカーの人は「佐藤典夫」で、良と典の一字違いだったのだ。「佐藤が2人いたなんて知らなかったよ~」。結局、私がよく確認しなかったということに尽きるわけだが。

 それにしても、最近はこうしたウッカリが多い。乗務中のミスでなくてよかったが、やっぱり年なのだろうか。 喫煙室で一服していると助役達が入ってきたのでこの話をすると皆大笑い。指導助役が「ネタが出来てよかったね、また書くんだろ」などとのたまう。私は「こんなくだらないことは書かないよ」といい返したが、ん!? やっぱりこうして書いてしまっているんですね。トホホッ。(斎藤典雄)

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2008年8月27日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷⑤

この連載の日にアクセス数が急減するらしい。ちなみに前回の④では1日約1900。3000超えしていたところをいきなり2000割れ。株式市場ならば大暴落だ。白い目で見ている(ような気がする)社員達。でもこのブログはそもそも私が始めたのだ。アクセス数は気にしない!がコンセプトだったはずだ。というわけで独走連載は後2回は続ける。

●摂関政治
七五年から八〇年までは「摂関政治は、摂関家が天皇の外戚という私的な立場を利用して、律令政治における天皇の高い権威を実質的に自分のものとすることを目ざしたものであったが、摂政・関白が天皇の代理として官吏の任免権をもっていたことが、とくにその権威を大きいものとした」とあり、脚注に「関白は天皇の意向を無視することはつつしんだが、天皇の方も関白を身内の後見役として尊重し、その意見にさからわないのがふつうであった」とある。要するに公私を混同して人事権を握り、天皇さえ「その意見にさからわないのがふつう」という絶対的権力を握ったと読める。
しかし八九年になると、先の脚注は消え、「律令政治における天皇の高い権威」を「律令政治は天皇が太政官をつうじて中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとり、この形は摂関政治も同じであった」と明確に示すようになった。人事権に関しては「天皇の代理として官吏の任免権をもっていた」が「天皇とともに役人の任免権を専有していた」とある。これらの点から摂関家の絶対性は相対的に弱めた記載となっている。
九四年になると「役人の任免権に深くかかわっており、その影響力のおよぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていたから、中級・下級の官人層は摂政・関白などに隷属するようになり」とあり、その理由として脚注に「役人の地位の昇進の順序や限度は慣例として家柄・外戚関係によってほぼ一定していた。そのなかで中級官人などは律令制のもとで経済的に有利な地位とされていた地方の国司となることを求め、私領の獲得につとめた」とある。
さらに九八年からは「摂関家と結ぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていた」と院宮王臣家の主体性をより強めた表記になっている。天皇の人事権についての記述は九四年から見当たらない代わりに任免権を所持していたとはせず、「深くかかわって」とあいまいに表記する。
要するに摂関家の地位は「天皇の代理」という意味合いからは後退し、あくまでも朝廷(天皇家)の権威のもとで院宮王臣家もまじえて、とくに「中級官人」に強い影響力を持ったのが力の源ということになる。したがって、前提となる天皇の権威をどの程度に位置づけるかが問題となる。
当然ながら七五年の記述は「すでに律令政治の体制はすっかりゆるんでいたので」と実質的に機能していないと表現しているが、八九年では「朝廷の政治は先例や儀式を重んじる形式的なものとなっていて」と「すっかりゆるんで」よりは前向きな表記になり、九八年からは「しだいに先例や儀式を重んじる形式的なものとなり」とさらに前向きになっている。
摂関政治は北家藤原氏が天皇家(皇族ないしは皇親)から実質的権力を簒奪したというテンションで従来描写されていた。冷泉天皇の摂関を務めた藤原実頼に始まる「摂関常置」(道長内覧を含む)は常識的に考えて藤原頼通までだろう。この時期は冷泉帝の後継と次の円融帝の後継がほぼ交互に皇位につく一種の両統迭立であり、そこに氏長者を巡る北家内の争いが複雑に絡む。例えば藤原兼通と兼家の兄弟バトルに円融天皇が巻き込まれて冷泉統の花山天皇へ譲位を余儀なくされたというのは本当であろうか。
もちろんその側面はある。ただし逆(天皇)側を主体として考察すると兼家を嫌って北家直系とはいえない頼忠を関白に任じたのは他ならぬ円融帝自身である。その子が一条天皇として即位した時点で円融上皇は存命で、兼家は58歳で念願の摂政となる。一条帝の外祖父は兼家だから即位は円融上皇と兼家が皮肉にも利害一致した結果ともいえる。
同じようなことが一条帝における藤原道長と伊周の叔父甥バトルにもいえそうだ。一般には一条天皇と道長は蜜月関係にあり伊周が政争に敗れたとなろう。しかし伊周は事実上の左遷先である大宰府から呼び戻されており今でいう加藤紘一代議士みたいな感じで朝廷で毒を吐いている。伊周のきょうだいであった定子との間にもうけた『大鏡』絶賛の敦康親王は長男でもあり一条帝が「次に」と考えておかしくない。となると道長が内覧で留まったのは通説の「摂関になる必要がなかった」のではなく「なれなかった」ないしは「ならなかった」可能性がある。次代の三条帝との不和と合わせると十分にありえよう。教科書の記載変遷にはその辺の事情が勘案されてはいないか。
では長らく北家の摂関を絶対と見なした根拠は何か。前述『大鏡』の史料批判のあり方も関係しているように思う。『大鏡』は時に藤原氏へも厳しい指摘をしている。それが天皇家ないしは天皇自身の擁護と解釈すると逆説的に北家氏長者の権勢を立証してしまう。『大鏡』そのものが文学作品としてはメチャクチャ面白いというのも史家にとっては諸刃の剣。こうした面白さを歴史家はおおむね警戒する傾向がある。

●遣唐使廃止以降の国際関係の変化
判断は年度によって異なる。まず遣唐使の廃止の理由に関しては、七五年は遣唐大使の菅原道真が主張した「唐の疲弊と航路困難」を挙げるに止めているが、八九年には「独自の成長をとげているわが国にとって、多くの危険をおかしてまで公的な交渉をつづける必要はないと考えられたから」と踏み込んだ解釈を示している。
ところが九四年からは「独自の成長をとげている」という記載が消えている。この場合の「独自の成長」とは何だろうか。八九年から類推すると、それは「国風文化」と読める。というのも国風文化は「遣唐使が廃止され」た一方で「多年にわたって流入した大陸文化は、ほぼひと通り消化され、そのうえにたって、日本の風土や人情・嗜好にかなったものが自然につくりだされてきた」とあるからだ。この概念は七五年からほとんど変わっていない。では「独自の成長」をはずした九四年の「国風文化」の記述を読むと、ほぼ変わらない記述である。これでは矛盾する。
九四年版の記述の矛盾を問題とするのは他にも理由がある。唐以外の国際関係の扱いが大きく変化しているからだ。まず唐の後に建国された宋との関係を七五年以来、「積極的に正式な国交をひらこうとはしなかったが、宋の商船はときどき九州などへ貿易のために来航した」という表現で、いわば思い出したようにポツポツと貿易船が来るといった印象だったが、九四年からは「宋の商船はしきりに九州の博多などに貿易のために来航した」と大きくイメージが変わる表記に改まったのである。
また渤海の後に建国された遼(契丹)や朝鮮半島の高麗とも七五年以来「国交もひらかれなかった」で終わり、八九年も「交渉は不振であった」と加えられているだけだが、九四年からは一転して「私的交渉で書籍や薬品などが輸入され、11世紀後半にはかえって(交渉は)活発になった」としている。
要するに、遣唐使廃止以降も海外との交渉は盛んで、だからこそ「独自の成長」云々を消したはずなのに、国風文化の説明では「大陸からの直接の影響が減少」とあるのはおかしい。そう思っていたら、九八年でその点を再び大きく書き直してきた。「遣唐使廃止」云々の文言が消え、「それまでの大陸文化の吸収の上に立って、旧来の日本文化がより洗練され、文芸や芸術としてあたらしい姿をみせるようになった」と国風文化を定義している。九四年までは「私的交渉」としていたところも「朝廷の許可をえて中国に渡る僧もあり、宋からは書籍や工芸品・薬品が輸入されるなど、大陸との交渉は活発に行われた」とより踏み込んだ紹介をしている。
要するに、九四年からは、それまでの「遣唐使廃止」イコール「海外交渉の衰退」との図式を外交史上は崩したものの、文化史上では残してしまい、それを九八年で修正したということになる。だがそれでも、「大陸との交渉は活発に行われた」ならば「関係が大きく変化した」程度で、新しい文化の吸収ではなく、「旧来の日本文化がより洗練され」るという方向に文化が向かったのかは謎のままである。
ただ、いずれにせよもはや「遣唐使が廃止されて文化が国風化した」という素朴な暗記が意味をなさないようなのは多くの人にとって衝撃の事実ではないか。考えてみれば文化の国風化とは今にもつながる日本文化のお家芸であって、この時期をもって、またこの時代に限って「国風文化」とするのはおかしい。と同時に外来の影響をまったく受けない文化というのも考えにくい。あえていえば前回紹介した弘仁貞観文化よりは和風化したという比較論でならば、というかそれのみで成立している言葉のような気がする。近年の山川が併用している「藤原文化」の方が実態を誤解させない用語だろう。ただこの場合も「北家藤原氏が権力の中枢にいた時代の文化」と「北家藤原氏が権力の中心にいたがゆえに独自に発展した文化(女房文学など)」の意味合いが混在するからやっかいだ(編集長)

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2008年8月26日 (火)

サイテイ車掌のJR日記/ライブ

 告井延隆(敬称略)のライブを酒田で見た。
  「誰それ?」という人が多いと思うが、名古屋を活動拠点とする「センチメンタル・シティ・ロマンス」(以下センチとする)という名前からしてシビレてしまうバンドのリーダーで、ロックファンの間では知らない人はいないはずだ。
 結成して早30年以上、今となってはメンバー全員おっさん。でも現役バリバリバンドで、超がつくベテラン揃い。告井の担当はボーカル、ギター、ペダルスティールなどなど、卓越したテクニックに聴き惚れるファンは多い。
 私もデビュー当時からの大ファンで、日本のバンドの中では「はっぴいえんど」と共に、これまでにもっとも聴きまくった部類でもある。
 はっぴいえんどがねちっこい重厚なサウンドだとすれば、センチは飛び抜けた軽快感があり、はっぴいえんどはレールウェイ、センチはハイウェイがよく似合うと私は兼ねてから思っている。
 その告井が今年3月にビートルズの完全コピーという初のソロアルバムをリリースした。タイトルは、「SGT.TUGEI'S ONLY ONE CLUB BAND」とほほえましい。

 問題の中身はなんと!! ビートルズの各パート(ギターからベース、ボーカルなど)をアコースティックギターたったの1本で、多重録音なしの一発録りで表現したという意欲作。
 その宣伝を兼ねての、これまた初のソロライブ全国ツアーの一環で東北の田舎町、酒田にも寄ってくれたというわけだ。
 で、興味津々で会場へ。「ごめんね、告井さん」、田舎のライブハウスだから、いろんな意味で勘弁してほしい。でも、観客は超満員。といっても30数人だっぺ。やはり50~60代のビートルズ世代がほとんど。そんなことより、チケット代はワンドリンク付きで2500円という安さでびっくりだよ値。お店は告井にギャラを払えば儲けなし(だと思う)で呼んでくれたマスターにも頭が下がるし、感謝だ。
 でもって、待ちに待った開演である。アコギ1本での完全コピーのからくりは、ギターのパートは勿論のこと、その曲の特徴的な部分あるいはイメージを単音やストロークなどをふんだんに駆使して取り入れていくといった手法とでもいえばいいのか。

 誰もが皆、静かにうなずきながら聴き入っていましたね。目の前に広がるのはビートルズそのもの。目を閉じても頭の中はビートルズ一色。遠い昔の青春の思いも通り過ぎていったよね。すばらしいほど幻想的で、美しい旋律には心の芯まで和み、こんなに安らいだことはあっただろうかとさえ思ってしまうのでありました。
 このように、ビートルズには知らず知らずのうちに私の文体まで穏やかなものに変えてしまう不思議な力があるのだ。そればかりか、今現在でも、芸術や文化のみならず各方面に多大な影響を与え続けていることは今や誰もが認めているといっても過言ではない。
 それでは、今何故告井はビートルズなのか。ビートルズでなければならないのか。それは告井のルーツがまぎれもなくビートルズであるからに他ならない。告井達の年代(彼は57才)でビートルズの影響を受けていないミュージシャンはまずいないといってよい。告井の身体にはビートルズが人一倍強烈に染み込んでいて、それを表現することで吐き出さずにはいられなかったからだろう。

 最後に、この記念すべきライブのラストを飾った曲は、センチの初期の作品「庄内慕情」であった。「さよならね、元気で、元気でね」という歌詞で終わる歌。なぜかしんみり。観客からのリクエストに応えてくれたのだが、この庄内とは名古屋なので悪しからず。
 さんきゅべりべり。センチ・告井はいつも2度おいしい。庄内の地、この酒田にまたきてほしいという願いを込め、改めて拍手。(斎藤典雄)

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2008年8月25日 (月)

ホームレス自らを語る 第3回 もう働けない/Cさん(54歳

 生まれは、昭和28年で東京の杉並です。オヤジは板金工場を経営していました。まあ、経営といっても従業員が5~6人の町工場でしたがね。貧乏ではなかったけど、裕福でもなかったですね。ただ、オヤジは毎日、仕事、仕事で、ほとんど遊んでもらった記憶がありません。

 子どもの頃のボクは水泳が得意でしてね。中学生のときに東京都の大会で4位に入賞しています。背泳100メートルを1分17秒が、ボクの記録です。水泳は得意でしたが、勉強のほうはダメでしたね。高校は都立の普通高校に行きました。水泳は中学でやめました。水泳で食べていけるわけじゃないですからね。
 高校を卒業して、安全靴をつくる大手メーカーに就職しました。ボクは二人きょうだいの長男で、下は妹ですから、本来ならオヤジの工場を継ぐべきだったんでしょうが、そんな気はぜんぜんありませんでした。オヤジも継げとは言いませんでしたね。
 せっかく就職した安全靴メーカーですが、半年ほどでやめてしまいます。原因は職場内での人間関係のトラブルですね。というか、ボクは相手から理不尽な言動を受けると、カーッとなって前後の見境なく、相手に突っかかっていってしまうんです。相手が上司であってもやってしまいます。これで幾度も失敗を繰り返すんですけど、この性格はいまだに直らないですね。
 つぎは野菜の仲買人になりました。都内の小さな八百屋さんから注文をまとめて受けて、築地の青物市場で仕入れて届けるのが仕事です。この仕事も人間関係のトラブルでやめました。ここでは何年くらい働いたんだろう? 覚えていませんね。
 それでオヤジの工場を手伝ったり、ブラブラしたりしていたんですが、25歳……くらいのときかな? 都内の大手印刷工場にアルバイトで入り、そのアルバイトを50歳でやめるまでつづけます。

 といっても、ボクの性格ですからね。ずっと連続して働いていたわけじゃありません。例の人間関係のトラブルを起こしてやめることもあれば、そのアルバイトの仕事は夜8時から朝の8時までという過酷なもので、ずっと連続して働けるような職場じゃなかったんです。
 だから、気分で出たり入ったりしながら、50の歳まで働いたわけです。しばらく休んでいて、また働こうかと思って電話をすると、担当者は大歓迎でOKしてくれました。ボクの場合は経験者で新人教育なしの即戦力でしたからね。何しろ、夜間のバイトだけで200人から働いていましたから、担当者は頭数をそろえるのに汲々としていたんです。ですから、働きたときには、いつでも働けたんです。

 34歳のときに結婚しました。ボクは30代に入ってスキーを始めましてね。毎シーズン志賀高原に滑りに行っていたんです。女房も女の友だちと滑りに来ていて、そこで知り合って結婚しました。結婚して女の子が一人生まれました。
 結婚生活は10年くらい続いて、破局しました。まあ、ボクが愛想を尽かされたんですね。印刷工場のバイトの仕事を、気分でやったり、やめたりでしたし、アルバイトで稼いだカネは競馬、競輪、それに酒に消えていました。生活費は女房がパートで稼いでいましたからね。離婚したとき娘は小学校3年生でしたから、いま18か、19歳になっているはずです。どんな娘に育っているのかと思いますね。
 その後も印刷工場の夜間作業のバイトを、気分でやったり、やらなかったりという生活が続きます。
 50歳のときでした。

 ある晩、バイト仲間の友人と、立ち飲み酒場で飲んでいたんです。その仲間が隣の客とトラブルを起こし、どんどん険悪になって殴り合いにまでなっていました。
 ボクはそれを止めようと思って、二人のあいだに割って入ったんです。それが相手の客を、かえって興奮させてしまったようでした。彼は「てめえはなんだ!?」と声を荒げ、傍らにあったテニスのラケットを取り上げると、ボクに向かって殴りかかってきたんです。そのラケットで頭を3発殴られたところまでは覚えています。そこから先は気を失って、記憶はプッツリと途切れてしまうんです。

 気がついたときは病院のベッドの中でした。ボクは3日3晩意識を失っていたそうです。よほど頭の打ちどころが悪かったということでしょうね。
 幾日か入院して、一応完治したということで病院を出て、印刷工場の仕事に復帰しました。しかし、作業で重い物を持ち上げたり、肉体的にきつい作業が続いたりすると、フッと意識が遠退いて気絶してしまうことが、しばしば起こるようになります。
 病院でいろいろ検査してもらったんですが、原因はつきとめられませんでした。それで医者からは「肉体労働は避けて、仕事は軽作業のものに限るように」と言われています。でも、ホームレスに軽作業の仕事の募集などありませんからね。事実上、もう働けないということです。

 ボクは病気もちですから、福祉事務所に申請すれば施設に保護収容してもらえるんです。以前、一度だけ施設に入ったことがあります。でも、規則に縛られ、知らない他人との共同生活は、息苦しいばかりで、早々に逃げ出してしまいました。
 野宿生活は暑いとか、寒いとかあって大変ですが、施設での共同生活にくらべたら、自由で気ままにできますからね。ボクにはこっちのほうが向いています。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年8月24日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第25回 潜入「他力本願でいこう!2008」

  8月23日、朝九時半。築地本願寺の門をくぐると、男女の列があった。まだそんなに集まっていないようだ。最後尾、26人目に並び、地べたに腰を下ろす。すぐ傍の築地市場から磯の香りが漂ってくるこの場所で、あと1時間ここにこうしていなければならない。

 仏教系イベント「他力本願で行こう!」も、今年で4回を数えた。会場はこちら築地本願寺、正式名称浄土真宗本願寺派(西本願寺)本願寺築地別院。日中はフリーマーケットやフードコートを楽しむことができ、夕方からは本堂でライブが行われる。私が並んでいるのはライブの無料チケット配布を待つ行列だ。10時半にはかなりの数がおり、みんな10代から20代といった若い男女である。いとうせいこう&POMERANIANSが出るからだろうか。なんにせよお寺では珍しい光景だ。

 10時半、無事チケットを貰ったが本堂ライブまではまだまだ時間がある。まずは雅楽を聴くためにテント内のイスに座った。先ほど並んでいた人たちに比べると老若男女バラツキが見える。カップルもいれば親子連れもいて、おばあちゃんが一人で来てたりもする。「縁起カフェ」と名付けられたこの催しは、僧侶が雅楽と声明の説明・演奏を行うというもの。雅楽は平調越天楽、声明は五会念仏と、文字にすれば難解だがみんな一度は聴いたことのあるものを披露してくれた。演奏後は奏者が客席の方に下りてきて、珍しい楽器を触らせてくれたり、仏教相談に応じてくれたりとコミュニケーションを取り始めた。進んでお客ににこやかに話しかける僧侶の積極性には、形式的な葬式仏教から抜け出し、かつてのお寺の姿を取り戻そうという活動主旨がにじみ出ており、大変感動した。

実際、この度のイベントの主旨にはこうある。

お寺は元来、仏教の道場であったとともに、
地域の中心にあって誰もが気軽に集える場所でした。
そこには歌があり、踊りがあり、笑いがありました。
人々は仏教の全ては分からなくとも、
お寺に集う事でそれを身近なものとしてきたのです。
しかし、時代や価値観の移り変わりの中で、
いまや多くのお寺がそうした姿を失ってしましました。いつの間にか、特に若い人たちにとって
敷居の高い存在になってしまいました。
ここ築地本願寺も、その例外ではないのかもしれません。このイベントは、お寺のかつての姿を取り戻し、
たくさんの人びとに楽しみながら
仏教に触れてもらいたいという願いから、
本願寺がみずから企画したものです。

(以上、「他力本願でいこう!2008」ウェブサイトより

 そう、お寺は昔から巨大な無料イベントスペースだったのだ。音響・照明設備はバッチリ整ってるし、控え室もたっぷり取れる。勿論イベントだけじゃなく、まちの集会に使ってもいい。僧侶だけのためにあるんじゃない、信者とみんなのためにある。そこに力点を置き、訴えていく僧侶たちには確信に満ちた輝きがあるように見えた。 ただ、御案内役の僧侶たちの格好にはちょっとビックリした。夏向けの絽の法衣を来ているので中が透けて見えるのだが、ワイシャツにスラックスなのだ。なんて新しい。そしてシャツが白ならまだよいが、ときたまブルーだったりするとちょっと悩んでしまった。じ、自由だ! さすが型破り開祖・親鸞聖人の教えを受け継ぐ人たち。親鸞さん、あなたの教えはとても良い方向に広がりつつあるようです。

 などと思いながら「縁起カフェ」で僧侶が声をかけてくれるのを待っていたが、誰も来ない。まんべんなく回る暇がないほどみんな大人気なのだ。近くの席にいた女性4人組は、僧侶に差し出された雅楽専用の楽器をキャーキャー言いながら吹いている。そのとなりの30代と思しき男性は、同じような世代の僧侶と一対一で人生について語り合っている。カップルと話が弾んでいる僧侶もいる。まあ、客観的に見て妙齢の女性が一人でこういうところに来てただじっと座っているというのは不気味なもので、いくら僧侶といっても話しかけづらいのだろうと思い、席を立ってタコ焼きを食べに行った。

 最後に、「他力本願でいこう!」というこのイベント名は、一見ふざけているようでにも見えるがとんでもない。浄土真宗の最大コンセプトである。粋な名前も、このイベントの宝であろう。(小松)

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2008年8月23日 (土)

書店の風格/第17回 高円寺界隈

 さきの第16回では、オトナな街・西荻窪の書店様をご紹介した。
 不運にも店主には会えなかったが、「日中は他の店舗にいる」と連絡先を教えていただいた。ブックカフェである。地図を取得するためネットで検索すると、新刊・豆本を扱っていて、カフェスペースでは軽食もできて、さらにイベントスペースやギャラリーとしての機能もあるお店のようだ。

 1つのイベントが目をひいた。
 「アニメーション・ポルカ」。

 アニメのショート・フィルムとは珍しい。山村浩二の「田舎医者」を見て以来、このジャンルは注目したいと思っていたのだが、願望だけで終わっていた。情報キャッチが難しい分野なのだ。しかしこんな催しがあったら行くしかない。
 ということで、仕事とは全く関係ないが、お客としていそいそ参加してみた。

 お店は「茶房 高円寺書林」。高円寺駅北口を出て、純情商店街を突っ切って、庚申通りをまっすぐ進むと左手に看板が見つかる。手作り感覚の、木の看板だ。案内どおりに左に折れるとすぐに見つかった。観葉植物の置かれたテラスがあり、見た目はまごうことなきカフェ。しかしテラスのテーブルには多くのミニコミ誌やフライヤーが置かれ、棚には本がたくさん並んでいる。間違いなくここは、本屋さんなのだ。

 中に入ると、左手に本棚、右手にイベントスペースが広がっていた。
 「いらっしゃいませ」とにこやかに話しかけて下さる女性がいる。ワンドリンク制とのことなので、アイスティーを選んだ。スクリーンこそないが、白壁はひろく空けてある。普段はカフェスペースであろう空間に木製の椅子がいくつか並べられている。うながされ、ちゃっかり一番前に陣取った。

 上映作品は韓国の映像制作会社「MASCO」のもの。最初はコマーシャルフィルムがいくつか、そしてプライベートフィルム、短編アニメが上映された。アニメばかりではなく、実写のものもある。クレイアニメによく見られるように、コマ撮りのものが多い。印象的だったのは「貞子」もどきが出てくるプライベートフィルムで、テレビの中から映画のとおりに貞子が登場するがあまりに小さいので誰からも相手にされず、物をテーブルに置いた時の振動で床に跳ね落ちてしまうというもの。言葉が伝わらなくとも、ユーモアは伝わる。表象文化は素晴らしい。実際、日本人はもちろん韓国人、フランス人と多国籍の人々が集まっており、上映後はそれぞれの言葉で盛り上がっていた。

 せっかくなのでご挨拶したいと、先ほどコーヒーを持ってきてくれた女性に話しかけると、店主その方らしい。図々しくも名刺を差し出すと、なんと弊社雑誌「記録」を取り扱っていてくれたとのこと。そしてホームレス本についての意見をいただいた。曰く、「2番目に出たのよりも1番目の方が緊張感があって好きですね」と。1番目の『ホームレス自らを語る』は、調べうる限りでは本邦初のホームレス本であった。偏見の目で見られがちなホームレスに取材し、その重みある半生を語っていただくというものだ。体当たり取材の緊迫感が読み手にも伝わったのであろう。

 後日、もう一度お邪魔して、先日は拝見できなかった本棚をじっくりと拝見した。一般書店では手に入らないような若手の書くミニコミ誌、デザイナーの記念本、Tシャツ、そして豆本と、表現したい人々の息づかいが伝わってくるアーティスティックな品揃えだ。さすがはサブカル・ディレッタントな街、高円寺。西荻窪のお店とはひと味もふた味も違う。店主の守備範囲の広さに、思わず唸った。これからも絶えずアンテナを張って、本と人との出会いのサポート役として活躍していただきたい。(奥山)

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2008年8月22日 (金)

『吉原 泡の園』第75回/◆番外編◆ スカウト悪戦苦闘

 渋谷でスカウトマンを始めた。さすがに若者のファッションをリードする街だけあり、お花畑を連想させるような色とりどりの服や髪などのカラーの渦。その中で僕が所属したスカウト集団Lのメンバーが活動する。ストリートナンパだけでなく、インターネットを活用したスカウトもある。
 Uさんが僕にどのようにスカウト活動をするか提案してくる。ストリートナンパか、それともネットスカウトマンか。僕はネットスカウトマンを希望した。街中で女性に声をかけるのは気恥ずかしく、僕が声をかけるとスカウトというよりも、モテない男が女性にすがるように見えるのではと思ってしまったからだ。
 ネットスカウトマンとしての活動は、ある有名チャットコーナーでスカウトするという単純なものだが、意外とコツがいる。

 ネットをやっている人ならばご存知の方も多いと思うが、チャットとは見知らぬ人どうしがメールのやりとりで会話するものだ。2ショットメールといえば2人きりでの会話を意味する。ネットスカウトは2ショットチャット専門であった。
 8部屋×8コーナーほどの部屋があり、空き部屋に早いもの順で入れる。入った者はメッセージを貼り、待機すればいい。たとえば僕のようにスカウトマンならば。
“バイト紹介しますよ”などと貼りつけて待機している。
“こんにちは、どんなバイトですか”
全国で、そのチャットを見ていて、かつ興味のある人が入ってくる。男を意味するのが青で、女は赤なのだ。ただ、これも男なのに女になりすます者もいる。
“風俗だよ”
 などと会話が進み、近場の女性ならば渋谷の喫茶店で会う。いわいる「面接」だ。
 会う前に聞くことがある。もちろんチャットでだが年齢、経験の有無、希望条件、写メールを送ってもらうこと。そして実際に会う日には、身分証を持参してもらう。住基ネットもOKだ。
 希望条件などは建前で聞いてやっているだけで、どうでもいい。身分証は18歳以上ということを確認するため。経験の有無は結構大事なのだ。経験が浅いと、ビビって逃げてしまうこともある。写メールを送ってもらうのは、ある程度ビジュアルが大切であり、送られた写メールをスカウト集団の幹部に見せ、OKがでて初めて面接となる。渋谷で面接といっても、喫茶店を利用し、その飲み代はLの幹部持ちとなる。写メールで確認くらいはしておきたいのは当然だろう。
 性風俗はビジネスであり、金を払うも払わぬも客次第。そこにはシビアな駆け引きも伴う。女ならば誰でも性風俗で働けるものではないという厳しさを感じずにはいられなかった。

 チャットでのスカウト活動は、中々思うようにはいかない。それも考えてみれば当たり前なのだ。見ず知らずの人間の言うことを信じて、ノコノコついてくる女もそうはいまい。それでも月1回渋谷で行なわれるスカウトマンの定例会などでは、前月の成績を発表され、ぞくぞくと高額賞金をゲットする者がいたりして、聞くとネットスカウトマンだというのだ。そんなベテランなどに方法を聞いたりして、何とか僕は地味に活動していた。体験取材といっても、一歩間違えれば逮捕だろうし、やっているこ自体違法でもあった。ただ、やらねば書けぬ。
 携帯での出会いサイトを教えてもらい。あるホストの写真を拝借して、それを自分だと偽り、スカウトもした。かなりグレーゾーンの行為だ。ただ体当たりでぶつかってこその取材だし、命がけだからこそわかることもある、そう自分に言い聞かせた。自分で見て、聞いて、触れたものをベースにしていきたい、と思ったからやったのだ。
 2ヶ月、3ヶ月と時間だけが過ぎていった。大抵1ヶ月もやっていれば何かしらの成果はあるそうだが、もう3ヶ月も何もできない。才能もなけりゃ運もないのか、と諦めかけていた。(イッセイ遊児)

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2008年8月21日 (木)

サイテイ車掌のJR日記/トップの召喚

 葛西敬之JR東海代表取締役会長が証言台に立つ。
 来る6月2日の鉄建公団訴訟控訴審において同氏の証人尋問が行われることになったのだ。
 JRのトップが出てくることなどこれまでの長い裁判闘争の中ではなかったし、全く予想外であったことからも非常に画期的なことであり、極めて重要な意義を持つ。その衝撃は計り知れないほど大きい。

 これは、原告・弁護団が氏こそ適性証人の最たる人物であるとしてかねてから強く求めていたもので、去る2月15日の同控訴審の場で決定されたもの。
 裁判長が「葛西証人を採用します」と告げた瞬間、法定内はどよめき、歓声が沸き起こったというが、ここへ来てようやく、国労が不当労働行為の張本人だと信じてやまない氏が尋問されることを、まずは喜びたい。

 国鉄関係者であれば葛西氏を知らない人はいないが、JR東日本の松田昌士氏、西日本の井出正敬氏両元社長らとともに「国鉄改革3人組」と呼ばれた主導者の1人で、当時の国鉄本社職員局次長だった人だ。
 JRになってからは東海の役員となり、95年社長に昇格、04年から今の会長を務めている。また現在では国家公安委員、教育再生会議委員、さらには年金業務・社会保険庁監視等委員会委員長などの公職も務める政財界の要人だということだ。

 そうした人物だが、職員局次長時代は特に組合対策では最前線で主導的役割を果たし、原告ら国労組合員などの職員管理調書での格付けやJR採用者名簿を作成するなど人事選考課程に深くかかわっている。

 それらは、氏自身が書いて出版された国鉄改革をめぐる2冊の著書である「未完の国鉄改革」(01年刊)、「国鉄改革の真実」(07年刊)に当時の内幕を得々として綴っていることからも、JR採用差別事件の実態を国鉄当局から調べる上で氏ほどの現役適任者は他にはないのかもしれない。

 いずれにしても、葛西氏の尋問により、国鉄による国労嫌悪の不当労働行為意思、および、採用差別、清算事業団解雇にいたる一連の不法行為の全容を明らかにして、全面解決の実現を勝ち取るしかないわけだが、葛西氏はいかなる戦略をもって出てくるのか。おエライさんの中でもトップクラスの人だから気負いはないだろうが、被告弁護団とは相当綿密な謀議を重ねているに違いない。

 さぁ、正義は勝利できるか。事態はここに来て一気に緊迫度を増してきた。闘いにもいつかは必ず終わりが訪れる。終わりはそう遠くないのかもしれない。しかし、悔いだけは残したくない。国労はまさに総力を挙げる時だろう。奮闘するしかない。(斎藤典雄)

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2008年8月20日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷④

●北家藤原氏の台頭
七五年から八〇年までは藤原冬嗣から良房、基経がそれぞれ摂政、関白に就任する事実をまず挙げ、その間に起こった承和の変と応天門の変を切り離して記述している。二つの変と良房、基経の躍進は切り離せないので、これでは因果関係が読み取りにくい。そこで八九年には「良房は承和の変で伴健岑・橘逸勢ら」を「退け」、「応天門の変」では「伴善男」(脚注)らを「没落させた」と明記した。九四年からは「伴健岑・橘逸勢」の固有名詞が消え(なぜ?)ている。その後の安和の変も八〇年までは左遷された源高明が明記されておらず、八九年から明記されている。これらは「変」と藤原氏の台頭の因果関係を浮き彫りにしたいとの意図が感じられらる。
なお承和、応天門、安和の変をよく「藤原氏の他氏排斥」という表現でくくられるのを覚えてはいないだろうか。だが教科書は七五年の段階から「これらの政変は、かならずしも藤原氏北家が他氏を排斥しようとしておこしたものばかりではない」という立場を取っている。以降の教科書の記載も微妙で、八九年からは承和の変は「良房は(他氏を)しりぞけ」と、応天門の変は「良房は(他氏を)没落させた」と、安和の変は主語がないまま「源高明が左遷された」とある。これだと「藤原氏北家が他氏を排斥しようとしておこした」と読む方が妥当にも思える。なぜこうした記載になっているのか。

●藤原薬子の変
810年における薬子自身の役割は何だったのか。七五年では脚注に「嵯峨天皇が平城上皇と不和になったとき(薬子の変)」とだけあって、薬子の変は「不和」の結果とも原因とも読める。それが八九年になると「嵯峨天皇の即位後、平城上皇は寵愛する藤原薬子の言にうごかされて天皇と対立したので、天皇は兵をだして薬子を自殺させた」と薬子を明確に変の原因と規定した。ところが九四年からは再び「嵯峨天皇の即位後、奈良の平城上皇と京都の天皇との間に対立がおこり、天皇は兵をだして上皇の寵愛する藤原薬子を自殺させた」と嵯峨天皇と平城上皇と不和が原因であるという記述に戻っている。ただ九四年の記述だと、なぜわざわざ「藤原薬子を自殺させた」のかがわからない。
藤原薬子は道鏡と同じく後世面白おかしく脚色された人物である。と同時に脚色されるにふさわしい事実があったとも推測される「平城上皇は寵愛する藤原薬子」あたりの史料批判が難しいのか高校教科書で扱うには一種のタブーなのか。とくに「寵愛」の関する後世のにぎやかしは読み物として出色である(ただし大人向け)だけに避けたい気持ちが執筆者にあったのかもしれない。もっとも「薬子の変」「藤原薬子の変」との言い方は変わらないので彼女が主導者であるとの認識は間違っていないようだ。普通ならば兄の仲成と合わせて「仲成・薬子の変」と呼ぶか「平城上皇復位事件」としそうなものだから。

●菅原道真
七五年からは基経の時代からは「醍醐・村上天皇のときをのぞいては」「ほとんどつねに摂政または関白がおかれる」と北家藤原氏全盛の様子が紹介されていて、基経以後で醍醐朝の前にあった宇多天皇の時代の菅原道真の登用と失脚は本文から切り離されて脚注で説明があるのみだ。しかし八九年になると「宇多天皇は基経の死後、摂政・関白をおかず、菅原道真を登用して藤原氏をおさえようとした」と本文に明記されるようになる。また「策謀を用いて」道真が失脚した後の記述も八九年からみられる。そこには「その怨霊のたたりをおそれて北野天神としてまつられた」とあり、ほぼ同様の記載で今日に至っている。
ちなみに「菅原道真は大宰権帥へ左遷された」との記述は一貫して存在しない。前職の右大臣も大宰権帥も官位相当制で位階が従二位の位置にある者が就任しておかしくない官職だから。もちろん実質は左遷である。

●延喜・天暦の治
醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治を「天皇親政の理想的な時代」とする見方は七五年から否定的で、「事実は律令体制の崩壊が、はっきりあらわれた時代であった」としている。だが、七九年になると「醍醐天皇」は「律令政治の復興につとめ、延喜格式の編纂も行った」と、若干評価の要素も加わる。「復興」は九〇二年の「延喜の荘園整理令」をさし、これを「令制の再建をめざした」ものとしている。「延喜の荘園整理令」は八〇年までは脚注に単に「荘園整理令は九〇二年・・・・発せられたが、その実施は不徹底であった」とあるのみで、本文に太字で固有名詞を示した八九年以降の扱いよりはるかに小さい。
同時に八九年以降は「延喜の荘園整理令」などの「令制の再建をめざした」動きも三善清行の「意見封事十二箇条」などを例に「律令制の原則で財政を維持することは不可能になっていた」と結論づける。すなわち延喜・天暦の治が「崩壊」をはらんでいたという点では一貫しているが、とくに延喜の治のありようが後の土地制度史の大きな転換点となったという見方を八九年以降は強く打ち出している。

●荘園制
その転換点の最たるものが荘園制である。七五年から八〇年までの論理展開は①地方官である「国司」の政治にゆるみが出て地方政治は混乱し②「班田収授の実施」を前提とする「律令の土地制度」は私有地である「荘園」の登場で「困難になり」③荘園の開墾者は土地を徴税者でもある国司らの「干渉からまもるために」有力者に「寄進」した。これを「寄進地形荘園」という④国司もまた預けられている公領を「私有地のように」扱った(国衙領)、となる。これでは国司と荘園のあり方が一読しただけではよくわからない。
それが八九年にはかなりすっきりとした記載になる。まず前記の延喜の治の頃に露呈した「律令制の原則で財政を維持することは不可能」という状況から「国司に一定額の税の納入を請け負わせ」ることとし、「国司のはたす役割は大きくなった」。そこで国司は有力農民に「田地の耕作を請け負わせ」「租税を徴収」した。請負人を田堵という。戸籍登録者が預かる口分田から田堵の経営地へと課税対象が移り、それを担う国司のうまみは増大し、八〇年までの①の事態が訪れる。やがて自立の度合いを強めた田堵(=開発領主)と国司の対立が深まると、開発領主は有力者に土地を「寄進」した。
ここまではいいのだが、以降に国司は国司で、公領(国衙領)を「あたかもみずからの領地のように管理」し、「実務をとる在庁官人」には「開発領主があてられる場合も多くなった」とあるからややこしい。
九八年には開発領主が「在庁官人となって国衙の行政に進出するとともに、他方で国司から圧力が加えられると・・・・寄進し」とある。同じようなややこしさだ。果たして開発領主にとって国司は敵か味方か。
要するに地方制度は、律令に定められた「国・郡・里」制度から「荘園と公領(国衙領)で構成される体制に移行した」ということになる。九四年からは「荘・郡・郷などと呼ばれる荘園と公領で構成される体制に移行した」とさらにくわしくはなるのだが、かなりわかりにくい。
要するに「公」が「私」に引きずられる形で荘園化したが、その最初の頃はなお「公」の部分も残していて、それが寄進地形荘園の形成や、「不輸・不入の権」獲得を誘発したということであろう。八九年からの記述に「国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を深めるようになった」一方で、脚注に「逆に任期終了近くになると、荘園の拡大を許可して利権を得る国司もいた」という一見矛盾した記述の背景にもこうした環境があると思われる。
七五年は八世紀以来の「貴族・寺社がみずから開墾した土地を中心に買収した墾田を加えて、付近の農民や浮浪人を使って直接経営する」荘園を「自墾地系荘園」と紹介している。そして脚注に「みずからの墾田を荘園としたものを自墾地系荘園、買収した墾田を荘園としたものを既墾地系荘園として区別し、両者を総称して初期荘園あるいは墾田地系荘園とよぶ説もある」と別の説を紹介している。
ところが八九年になると、ほぼ同じ概念ながら「自墾地系荘園」「既墾地系荘園」という言葉は消滅し、本文では「初期の荘園」、脚注に「墾田地系荘園とよばれることもある」と変わる。この流れは九四年の大改訂以降も変わらない。なぜ七五年以降は「説もある」とされてきた傍流説が主流になったのだろうか。(編集長)

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2008年8月19日 (火)

サイテイ車掌のJR日記/福知山線事故

 JR福知山線脱線事故から4月25日の今日で丸3年がたった。
 忘れもしない、107人が死亡、562人が重軽傷を負うという、JR至上未曾有の大惨事だった。
 現地ではJR西日本主催の「追悼慰霊式」が行われ、犠牲となった人々の冥福を祈る大勢の姿がテレビのニュースに映っていた。
 JR西日本の山崎正夫社長は「あの日の朝、106人の平穏で幸せな毎日を私たちは突然奪い去ってしまった」と改めて謝罪し、「安全を最優先する企業風土にすることが最大の目標となっている」と述べていた。

 国交省の事故調は昨年6月に「運転士が制限速度を大幅に超えてカーブに進入したのが原因」とする最終報告書を公表していたが、その中には、ミスをした乗務員に課される懲罰的なJR西日本の「日勤教育」が要因との指摘もあった。
 それにしても、JR西日本に対する遺族や被害者の不信感や反発は依然根強いものがあるということだ。
  「なぜ事故が起きたのか、なぜ事故を防ぐことができなかったのか」「JR西日本の回答は謝罪や抽象論ばかりで真相が分からない」「極めて不誠実な姿勢をつづけてきた」などなど、十分な説明が行われていないとして、JR西日本の企業責任を問う声は収まる気配がないのだそうだ。
 また、補償交渉でも合意に至ったのは遺族の約2割、負傷者の約7割にとどまっているということで、未だに進んでいる状況とはいえない、
 一方、兵庫県警はJR西日本幹部の刑事責任の有無について今夏までに最終判断する見通しだという。

 別の話になるが、JR東日本でいえば、05年12月末に起きた、5人が死亡し33人が負傷した羽越線脱線事故の事故調最終報告書も今月の2日にあったが、「局所的な突風の予見は困難」として、速度規制や運転の見合わせをしていなかったJR東の対応に問題はなしとしていた。
 これに対しても「時間がかかりすぎる。内容はこれまで報道されたことばかりだ」「一つの区切りにはなるが、心の傷に変わりはない」と落胆や憤りの念を禁じえないでいる被害者らの多くの声があった。

 この2つの事故に共通することは、やはり一瞬にして人の命が奪われてしまったということだろう。たとえ一命は取り留めたとしても、内臓破裂や骨折、手足の切断といった、どれも想像を絶することばかりで、その人にしか分からぬ闘病生活や重度の後遺症による辛さや苦しさは一生つきまとうのである。
 またそれが最愛の人や家族であったり、これまでも、これからの人生をも全てメチャクチャに破壊されたも同然だろう。そのような状況になった人でないと分からない、それこそやり場のない悲しみや苦悩、悔しさ、怒りなどはいつになっても癒えたり消えたりするものではないはずだ。あまりにも悲惨すぎて、筆舌に尽くしがたい。
 思うに、いくら安全対策が進んでも、最終的には人だということだ。企業の体質や意識など、つまり、人間の問題が根本的に解決されない限り、忘れた頃に大事故はまた起きるといっても過言ではないだろう。

 特に福知山線の事故ではJR西日本の社長がいう「企業風土改革」は、人権侵害の限りを尽くしたおエライさん方が退職などでいなくなる前にやり遂げなければ何の意味もないのではないか。やっていない人にやるなといっても始まらないのだから。
 いずれにしても、JR西日本も被害にあわれた方々もこの苦しい現状を何としてでも克服して、明るい新たな道を切り開いてほしいと願うばかりだ。やはり、改めてご冥福を祈り、お見舞いを申し上げるしか、今の私には術がない。(斎藤典雄)

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2008年8月18日 (月)

ホームレス自らを語る 第2回 引っ込み思案な性格が/本間さん(59歳)

 子どもの頃から引っ込み思案のおとなしい性格で、ずいぶん損ばかりしていた気がします。子どもたちで野球をやろうということになると、最初はメンバーが足りないから仲間に入れてもらえるんですが、そのうちに仲間が増えてきて、いつの間にか押し出されて見ているだけになっている。そんな子でした。
 いま、こうしてホームレスをしているのも、そんな性格が原因だったような気がします。どうしても、人を押し退けて前に出ていくより、押し退けられてはみ出してしまう。そんな人生でしたね。
 生まれは新潟県の岩船郡。富山県に近いほうです。7人兄弟の5番目でした。父の仕事は製炭業、炭焼きですね。それが唯一の収入源でしたから、両親に父の祖母を加えた9人家族の暮らしは苦しかったですね。生活保護を受けるギリギリの暮らしぶりでした。
 私は中学を卒業して、父の炭焼きを手伝うようになりました。町の工場に就職して人と競うような生活より、父と二人で山で炭を焼いているほうが、私の性には合っていました。ケヤキとかナラの木の伐り方から、窯から出る煙の状態によって、炭の焼け具合を知る方法などを父から教わりました。
 ただ、母は炭焼きの仕事には反対でした。その少し前頃から、家庭の燃料はガスや石油が主流になっていて、木炭の需要は下降の一途で将来性がなかったからです。それで母は東京から船でやって来る炭の仲買人に、私の就職先の斡旋をたのんでいたんです。
 私は17歳のときに東京に出て、南千住の製紙工場に就職します。炭の仲買人の紹介でした。その工場では段ボールや新聞用の用紙を主につくっていました。越後の山のなかから、いきなり大都会に出てうまくやっていけるのか心配でしたが、その工場には新潟県出身の工員が多く、みんな親切で心配するほどのことはありませんでした。
 ところが、入社して5年ほどしたところで、すごく強引で乱暴な工員が入ってきて、私と同じ職場の配属になりました。しかも、彼は寮でも私と相部屋になってしまったのです。彼の仕事ぶりはいいかげんで、その尻拭いは私の役目でした。それに何だかんだと難癖をつけてはケンカをふっかけて乱暴をするし、カネを幾度も脅し取られたりもしました。
 私には居心地のいい職場だったんですが、その彼が入ったことで地獄の職場に変わってしまい、辞めざるをえなくなりました。

 製紙工場を辞めて、次は陸上自衛隊に入りました。富士山の裾野の山梨側にあった特科連隊に入隊して、野戦砲を扱いました。野戦砲はとても重い大砲で、一門を扱うのに4人がかりでした。ただ、自衛隊には1年しかいなかったですね。ここは荒っぽい男の集団の場で、私のようなのがいるところではありませんでしたね。
 それからまた東京に戻って、駄菓子を製造する町工場に就職します。私は溶いた卵と小麦粉を混ぜて焼く焼き菓子の製造が担当でした。ところが、こんどは工場の経営が思わしくなくなって、解雇されてしまいます。私が入社して3年目、26歳のときのことです。このときは第一次オイルショックから続く不況で、完全失業者が100万人を超えていましたが、私もその一人だったわけです(笑)。
 それからは土工と建築関係の日雇い作業員になりました。半月契約で飯場に入ってカネを稼ぎ、山谷(いまの台東区清川あたり)とか、横浜の寿町(中区)のドヤ(簡易宿泊所)で暮らし、カネがなくなったら、また飯場に入って働く、その繰り返しでした。
 浅草にビューホテルってあるでしょう。あの建設工事に、私も参加したんですよ。元国際劇場の跡地に建てられたホテルです。バス、トイレ、洗面台など水回りの設備の設置工事をやりました。私が参加した有名な建物の工事は、そのホテルの工事くらいですね。
 私は若い頃から、ギャンブルや賭けごとに手を出したことがありません。パチンコ屋にも入ったことがないですからね。酒も飲まないし、女遊びもしたことがありません。
 だから、飯場でもドヤでも仲間たちとワイワイ騒ぐこともなく、一人でコタツに入ってテレビを見ていることが多かったですね。テレビを見るのが唯一の愉しみで、シュワルツェネッガーが出演するような、派手なアクション映画を見るのが好きでした。
 あんまりにも不器用で、つまらない生き方だっていうことは、自分でもわかっているんです。でも、私の引っ込み思案の性格では、こうした生き方しかできませんでしたね。
 結婚? まったく縁がなかったですね。もし、女の人と知り合う機会があっても、私の性格では声をかけることもできなかったでしょうね。
 いつから路上に寝るようになったのかは、はっきりこの日からというのはありません。日雇いの仕事にあぶれてカネをもってないときは、山谷でも、寿町でも、路上や公園の適当なところに寝てしまう。カネをもっていれば、ドヤに泊まる。そんないいかげんなことをしているうちに、路上で寝るほうが多くなったんです。こっちの(新宿中央)公園に移ってきたのが、いつだったのかもよく覚えていませんね。
 いまの望みは施設に入れたら入りたいですね。以前、民間がやっているホームレスの収容施設に入ったことがありますが、大勢の相部屋で待遇もよくありませんでした。民間といっても、暴力団が資金稼ぎにやっているんですよね。だから、こんど入るんなら、都とか、区などの公的なところがやっている施設がいいんですけどね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年8月17日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/番外編 墓に刻む言葉ランキング

 以前から気になっている寺があった。いや、正確には地域だ。文京区図書館あたりをよくブラブラするのだが、図書館の目の前に寺が三つ並んでいるのだ。1つずつ宗派が違い、どれもなにやら立派である。田舎モノの私はついつい参じようと門を入るのだが、物騒な都会ではそれも珍しいらしい。墓参りに来たふうでもない女がブラブラしていたらお庫裏さんもさぞかし怖がることであろうと遠慮していたが、そうだ、お盆なら怪しまれることはないだろう! と思い立ち、迎え盆である8月13日、墓参者に紛れ込んでみた。

 とはいえ、紛れ込むのも容易ではなかった。紛れるほどの人が来なかったからだ。真ん前の図書館からじっと見ていたが、都会モノは7月の新暦盆にさっさと墓参を終えてしまうのだろう、なかなか人が現れないのだ。
 しかしここで怖じ気づいていてはいけないと、午後5時10分、外に降り立ち1つの寺の寺門に向かった。
 裏口にある霊園に回ろうとしたら、墓参客らしき人に声をかけられた。

「私たち、もう帰りますけど、門は開けておきますから」

唐突にそう言われ、「は、はい・・・」と答えると

「お墓参りですよね? ここ、いつもは5時までなんですよ。でも今日はずっと開けておきますから、ゆっくりお線香あげてってください」

おじさまがにこやかに笑った。
 どうやら檀家の巡回役らしい。もしもうちょっと早い時間だったら、この方にご案内されてしまうところだったのだ。参るべき墓なんて1つもないのに! あー、あぶないあぶない。

 おじさまにスマイルを返しながらお礼を言って、墓地へと続く坂を上った。上りきると、小規模の霊園になっている。墓はざっと240基だ。そのうち、花が供えられているのが40基程度。こんなに来ていないんだから、人混みに紛れられないわけだ。

 他に人っ子ひとりいない状況で、ゆったりとそれぞれの墓を見ることができた。最近はお墓に刻む言葉(墓碑文字と呼ばれる)にもバリエーションがあり、生き様が忍ばれ、見ていて楽しい。ここで、こちらの霊園に限った墓碑文字ランキングを調査してみた。

1位 倶会一処 4基
阿弥陀経に出てくる言葉で、阿弥陀仏の極楽浄土に往生すると、浄土の菩薩たちとひとつところで会うことがかなうという意味だ。主に浄土真宗で使われる言葉だが、この寺院はたしか真言密教系のはずだ。ふと周りを見渡すと、「南無妙法蓮華経」と書かれた墓もあればキリスト教式の墓もある。檀家でない者にも土地を貸しているのだろう。

2位 夢 3基
「夢遊び」も含む。

3位 愛 2基

と、「よく使われる言葉」というのは意外に少なく、本当に人それぞれだ。1基のみのものをざっと並べてみると、
「My Way」「ありがとう みんな またね」「空」「無」「寂」「転生」「一期一会」「真善美」

などなど、バラエティーに富んでいる。

こういう文字の選び方って、年代によって違いがあるものなのだろうか?
そもそも、だれが選ぶのか??
突っ込んでみたいテーマがまた増えたなと、虫に3ヵ所も刺されて痒がりながら考えた。(小松)

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2008年8月16日 (土)

ロストジェネレーション自らを語る/第2回 28歳・女性・主婦・東京在住

今回取材する女性には小さい赤ちゃんがいるということなので、自宅におじゃましてお話することになった。白い腕に男の子を抱えて出迎えてくれた彼女は、赤縁メガネの美女だ。自らの趣味を「モテない系」と称するが、外見的にはかなりモテそう。フィッシュマンズのまったりとした音楽が流れる室内で、赤ちゃんをあやしながら語ってくれた。

 生まれも育ちも緑豊かな田舎です。両親は2人とも小学校の教師でした。高校は近くの市の公立進学校で、勉強第一のところでした。小中学校と違い、どんなに容貌がショボかろうと、勉強ができれば尊敬されました。そんな風潮が嫌いではありませんでした。高校を決める時は、「行けるから行こう!」と。将来何になりたい、というのは真剣に考えたことがなくて、高校の受験面接で「何になりたい?」と聞かれて一応そのころなりたかった職業として「獣医さんです」と答えてたけど、入学したらすっかり忘れて遊んでました。獣医志望だったら理系の勉強をしなきゃならないのに数学が苦手でしたしね。

 高校の時は遊びと部活が楽しくて、全ての価値観がカワイイとカッコイイでできてました。今考えると痛々しいんですけどね。自分で自分のキャラクターを面白い方向に創り上げていってました。数学ができないのも、理系クラスなのにこんなに出来ないってスゴくね? とか。そのぶん、あまりに全部出来ないとただのバカだから、国語とか他の教科は頑張りましたよ。そういうのって、周りから見てどうだったんだろうと思うと恥ずかしいですね、今となっては。痛いコスプレをして大勢の中で平気で振る舞うのを端から見ているという感じだったのかな。
 だから今考えると高校生なのに地に足がついていた人がうらやましいですね。今見ればすごく立ち位置に差がある気がする。理系クラスだから看護師とか医者になりたいという人が多かったんですよ。見えていたものが違ったんですかね。私は働くことの大変さをわかっていなかった。両親は早ければ5時前に家にいましたから。小学校の先生だから部活もないしね。バブルの崩壊とか、他人事でした。

 みんなが必死で受験勉強している時期に私は遊びほうけていて、東京の服飾専門学校に行きたいって親に言ったら入学金が高すぎて止められてしまいました。服飾に進もうと思ったのも、可愛かったらいいじゃんという気持ちで、就職を考えてのことではなかったんですけどね。でも基本的にノリで生きていたから、みんなが勉強してる波に乗ってノリで勉強してみたら、地方の国立大学に受かったんです。とりあえず数学がダメだったからセンター試験が4教科の入れる大学、という狙いでした。本当は東京の私立大学に行きたくて2つ3つ受けたんですが全部落ちましたね。東京に出てきたかったな。

 大学ではバイトとオーケストラ活動に夢中でした。就職するときは、東京で一社受けたけど落ちて、遠いし活動にお金もかかるからいいやと思って東京に出るのはやめました。でもその就職試験、集団討論だったんだけど、自己紹介しかしなかったな・・・自己紹介で落ちるって、そういえばどういうことなんだろう。
 東京で一つと、地元で二つと、大学のあった地方都市で一つと、・・・本当に真剣にやってないですね、就職活動を(笑)。第一希望はデパートで、最終面接までいったんだけどダメになってしまいました。就職活動は、熱意を持ってはやらなかったな。だから一つ地元で内定がとれて、ああやれやれと思ってそれで就職活動は止めたんです。

 でもその仕事も忙しすぎて2年くらいで辞めました。ストレスで精神がやばくなって、なんか退廃的な気分になるんですよね、忙しすぎると。寝不足で車を運転してて停車中のトラックに突っ込むっていう事故を起こしたことがあるんですけど、その時も「死んでも別にいいや」って思ってた。そんなふうに自分を大事にできないし、モノも大事にしなかったし、投げやりに生きてました。最後はもう自分の部屋を満足に掃除できなくて、ある日あまりにも汚いのを見かねて母が掃除してくれたんですね。その時本当に自分が情けなくて恥ずかしくて、「なんで掃除しちゃったの」って母を責めてしまいました。本当に精神がやられてて、ちゃんと生きてなかったな、と思います。

 仕事を辞めて病院に通いました。安定剤のせいで食欲もないのでみるみる痩せて、一日の大半を散らかった部屋の中で寝てました。でもどんなに具合が悪くても地元のオーケストラには行こう! と決めて、通っていました。これひとつすら通うことができなかったら駄目になると自分に言い聞かせながら。そこで仲間から励まされたりして、回復していきました。彼氏もできて、その人が東京に就職するというので、ゆくゆくは結婚するからと両親に報告して東京に出てきました。そのまま東京で就職して、妊娠を期に休職しました。赤ちゃんが今、生後3ヵ月です。

 今は自分というよりも、実家にいる姉と弟の方が不安ですね。姉はオタクなんですけど、最近初めて彼氏ができたみたいです。同じような趣味の。2歳年下って言ってたから、30歳ですね。姉とつきあってくれる人がいるなんて、と思います。弟はネットに触れてからかな、自分がこうなのはまわりが悪いからだ、という態度をとることがあって焦ります。24歳の大学6年生で、もう7年目決定なんですけど、反省というものをしない。「オレ、こうすればよかった」というのがないんです。「自分が大学に行けないのは家族が起こしてくれないからだ」と言われたこともあります。で、今年の春に「大学辞める」って言い出したんです。東京でバイトしながら仕事探すよ、と。以前バイトで酒屋の配達をしたことがあって面白かったから、そういうのを仕事にしたいっていうんです。一生その仕事するの? と思うんですけど。社会に出るってどういう事か、友達が全くいないから知らない。まわりに比べて自分はどうかっていう規準がないんです。私の言うことは比較的ちゃんと聞いてくれるので、「今のウチにがんばって大学卒業して、それから東京に出て来てもいいんじゃない?」って言ってみて、一応それで納得してはいましたね。でも、そのくらい自分で考えなさい、と思います。(聞き手:奥山)

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2008年8月15日 (金)

『吉原 泡の園』第74回/◆番外編◆ 潜入魂に火がついた

 スカウトとは吉原ボーイ時代から仕事上付き合いがあった。彼らの本音や女のコをどうやって店まで連れてくるのか知りたかった。それが僕の潜入魂を揺さぶり、吉原を離れた後にスカウトマンになることにした。場所はスカウトのメッカである渋谷だ。
 渋谷センター街通り、東京の繁華街でも若者がひしめく街。新宿や池袋でも性を求める店はあるが、渋谷はアダルトビデオからスター女優までさまざまなスカウトマンが闊歩する街でもある。少しばかりスタイルが良ければ、たかだか100メートル歩くだけで数人の男が声をかける。もちろん声をかけるのはスカウトマンだけではない。ここでは素人の男もめぼしい夜の相手を求めてさ迷っている。
 男が見知らぬ女に声をかける場面に遭遇した。
「ねえ、○○円でどう」
 女にしてみたらたまらない。突然知らぬ男が信号待ちで話しかけてくるのだ。

 ネットの裏情報的サイトでスカウトの記事を見た。出勤自由、ノウハウ・イチから教えます。そんな謳い文句に半信半疑でメールを送ってみると、数日後返信メールが届いた。
「仕事の質問ありがとうございます。後日渋谷でお会いましょう。U」
 約束の日、渋谷ハチ公前でUさんの携帯に電話をすると、強面をイメージしていた僕の前に現れたのは意外にも小柄でやさしそうな男だった。
「場所移りましょうか」
 Uに促がされセンター街の中にある喫茶店に向かった。
「どうも始めまして」
 Uはそういうとバンバン届くメールと着信を無視しながら僕に飲み物を勧めてきた。
「スカウトは始めてですか」
“笑顔がさわやか”ではあるが、まだ未知の人間だ。油断はならない。そう思っているとAというUと共同経営している人物が現れた。ちょび髭にゴツイネックレス。いかにも渋谷のワルといった感じだ。
「いやーケツ持ちに金払うのが大変でね。でも、きちんと金は払っているから仕事はばっちりできます。稼げますよ」
 何を言ってもそのちょび髭が言葉を軽くしてしまうようだった。
「どれくらい稼げますかね」
「そうだね、やる人なら月に50とか軽いでしょう」
 それも嘘っぽいと思った。もちろん、いるのかもしれない。100人に1人くらいは。
「未経験でもできますか」
「もちろん、ノウハウは教えます」
 ここまで来たのだから、やはり結構ですと断る理由もない。せっかくだから性風俗産業のありとあらゆる繋がりを調べてやろう。ヤクザに何かされても、あるいは警察沙汰になろうとも、調べずに指をくわえているほうが僕にとっては耐えられなかった。
 奢っていただいたアイスコーヒーを一気に飲み干し、スカウトマンとして風俗譲候補を追いかけることになった。

 普通、スカウトが店に女のコを入れると、何日働いていくら、という具合に報酬が発生する。ところが僕が出会ったスカウトマンの団体は、体入(体験入店)だけでもいいので店に採用されれば、1万円が発生するという目から鱗の契約方法を店と交わしていた。しかも吉原ソープとは契約もしていない。あまり関わらないようにしているという。吉原ソープに暴力団関係者が多いかららしい。スカウトの聖地で活躍する先鋭ですら、吉原ソープは敬遠されていたのだった。
 ともあれ、どのようにソープまたはその他の性風俗に女のコが売られていくのかを知るべく、僕はスカウトマンとして渋谷の住人となった。(イッセイ遊児)

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2008年8月14日 (木)

◆新連載◆サイテイ車掌のJR日記/3・13判決

「3・13判決」について、私は「とんでもない判決」「裁判官によってこうも判断が変わってよいものなのか」と前号で書いたが、裁判にいつも携わっている弁護士ですら「手抜きの判決」「姑息な判決だ」といっているくらいだから、やはり相当に不当な判決なのだろう。

 以下はある著名人がいっていたことだが、「裁判所は親分が白といったら黒いものでも白で、ヤクザ業界と似ているところがある。先のイラク空自派兵違憲判決を下した名古屋高裁の青山邦夫裁判官は退職直前で、住基ネットで同様な判決を下した大阪高裁の竹中省吾裁判官は自殺した。職か命かを賭けない限り政府与党の口パクを繰り返すしかない。やくざゴロツキの司法だよ」と、言葉は汚いが明快だ。
 なるほどと思うが、こんなことではいけないとそれを証明するのは至難の業だろう。また、驚くことに、「私が神だ」などといい放つ裁判官もいるそうで、国に有利な判決しか出せない、国にたてつく判決は出してはいけないという暗黙の了解が蔓延しているというのがもっぱらの噂であるらしい。

 まったく、どこもかしこも似たり寄ったりの世の中で、怒りよりも情けない気持ちでいっぱいになってしまうのだが、もしこのようなことがまかり通るなら、裁判を最後の拠り所として訴えた人はたまったものではない。浮かばれないし救われない。いったい何を信じればいいのか分からなくなってしまう。これでは国民を愚弄、冒涜しているのと同じではないか。やはり許せない。私たちはただただ公正であってほしいと訴え願うしかない。
 この裁判の報告集会で、加藤晋介主任弁護士は「和解を進める方向も考えていたが、事態は変わった。判決を覆すには判決をもってするしかない。高裁勝利を目指す」と述べたという。ということは、裁判闘争が控訴審へとしっかり長引き、解決がまた先々に延びるのではないかという心配が先行する私で、実は気持ちを奮い立たせるのが一苦労だったりするのだ。

 裁判は全国でやってるが、人口が多い都会は事件が多い分、件数も多い。田舎なんてチョボチョボだろう。それにしても、裁判は時間がかかりすぎる。それと、それに費やす労力などを考えただけで気が重くなるばかりか、気が遠くなりクラクラと目眩さえ覚えてしまうのだ。
 人間のエゴ、驕り、いがみ合い、競争、いじめ、狂気、格差などなど、いざ蓋を開けてみればそのような醜さはどこにでも際限なく渦巻いている。人間同士が共生共存することなど本当は不可能なのではないかと思えてくる。所詮、人間のすることは!? なのだろうか。
 その点、田舎はまだましだ。連れてってもらおうかな、遠くまで。そう、明日にでも、おれの列車で。(斎藤典雄)

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2008年8月13日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷③

●高群逸枝の研究
住居の変化から家族の様子がうかがわれるというのが八九年以来の主張でもある。八九年から「家族構成は、今日と多少異なっていた」とし、当時の結婚形態が「男が女の家にかよう形をとる」などの違いを紹介しており、九四年からはその形を「妻問婚」と明記した。一方、七五年以来、平安の「貴族の結婚は男子が妻の家で生活するのがふつう」という記載があり、八九年からは藤原道長の結婚形態を例として挙げている。九四年からはその形を「招婿婚」と明示している。これらの概念は高群逸枝が一九五三年に発表した『招婿婚の研究』に即していると思われる。五三年の研究が教科書に九四年になって明記された理由は何だろうか。高群が在野の研究者だったからか。

●いわゆる「蝦夷の征討」
なるべく異民族である蝦夷を「征伐する」というトーンを抑えている。八〇年までは「阿倍比羅夫が秋田地方の蝦夷を討った」とあるが、八九年以降は「服属させた」に変わる。記述自体も増えている。八〇年までは記載されていなかった嵯峨天皇の時代の文室綿麻呂の征討が八九年からは加えられ、九四年からは「蝦夷の族長伊治砦麻呂の乱」が明記され、「俘囚」「柵子」といった概念や政策も加えられた。

●天平文化
「おもな美術作品」は記載が増えている。七五年から八〇年までにはないが、八九年からは記載されているものは、「建築」の「法隆寺夢殿」、「彫刻」の「唐招提寺金堂盧舎那仏像」「聖林寺十一面観音像」「新薬師寺十二神将像」、「工芸」の「正倉院螺鈿紫檀五弦琵琶」「東大寺大仏殿八角灯籠」である。九四年からは正倉院宝物の「銀薫炉・漆胡瓶」が「工芸」に加わった。
「法隆寺夢殿」は七五年から一貫して掲載されている「伝法堂」と東院を構成し、現在の記述も「法隆寺夢殿・伝法堂」と一対とみなしている。なのに当初載っていなかったのは、夢殿が鎌倉時代に大修築を受けたからか。有名な藤原種継暗殺事件は七五年から「長岡京」建設長官の暗殺と紹介されていたが、九四年からは消えてしまう。

●桓武天皇の治世
八九年に「雑徭を半減」が加えられて「農民の負担を軽減した」とある。ところが、九四年からは消滅する。同時に桓武朝の「律令政治の維持につとめた。しかし、平安京の造営や蝦夷の鎮定などに多くの国力を費やしたので、じゅうぶんな成果はおさめられなかった」という総括文も消滅し、「桓武天皇の改革の方針は、平城天皇、嵯峨天皇にもひきつがれた」と桓武朝単独での総括はなくなったのだ。正確にいえば八九年と九一年には総括と「ひきつがれた」が併記されているが、九四年から総括は消えている。
元来、桓武朝は勘解由使や健児の採用、班田の励行、「雑徭を半減」などの「いいところ」と、藤原緒嗣が指摘した「軍事と造作」(『日本後紀』)、つまりと「蝦夷の鎮定」と「平安京の造営」という「悪いところ」が相半ばする政権とみられ、それでもなお、「桓武」という言葉に特別な意味合いを感じてきた。八〇年までの「総括」のみの記載にはそのニュアンスが色濃くにじむ。九四年からの総括カットはこうした「相半ば」論そのものと決別したといえる。
ではどのような立場に変わったのだろうか。総括が削除された九四年からは「農村と貴族社会の変化」という新項目が設けられ、そこに「桓武天皇以後、朝廷では天皇の権力が強まり、天皇と結ぶ少数の皇族や貴族が多くの私的な土地を持ち、勢いをふるうようになった。このような特権的な皇族・貴族を院宮王臣家とよぶ」と書かれている。「院宮王臣家」とは当時聞き慣れない言葉だったがその後定着する。

●令外官
七五年から九一年までほぼ一貫して「令にきめられている以外の官職を令外官とよぶ」とし「もっとも」「とくに」「有名なもの」として嵯峨天皇の時の「蔵人頭と検非違使」を挙げている。ところが九四年からは「蔵人頭と検非違使」は本文では「令に規定された官職とは別のあたらしい官職」というに止め、「令に規定されていないあたらしい官職を令外官というが、蔵人頭や検非違使は、官職についている者のなかから天皇が特別に任命する職であった」と注釈がついている。
さて、すると「蔵人頭と検非違使」は「令外官」といっていいのか。具体的には「令に規定された官職とは別のあたらしい官職」と「令に規定されていないあたらしい官職=令外官」は同一なのかということである。八九年と九一年には、奈良時代の令外官の例として「中納言・参議・近衛府・勘解由使」さらに「内大臣」を示している。これらとの違いを考えてみたい

●桓武-嵯峨朝総括
以上のような変更は次のようにまとめることができよう。七五年から八〇年までは、桓武朝は「律令政治の再建」に力を注ぎ、平城天皇をはさんで出現した嵯峨朝は「法制の整備」を進め、律令政治を実質的なものに改めようとしたというトーンで、「ひきつがれた」論が入ってくる八〇年代後半からは桓武-嵯峨朝を連続した視点から「令制の再建」期とみなした。しかし九四年からは桓武-嵯峨朝は、「再建」ではなく「令制の改革」をめざしたと読める。それは「桓武天皇は強い権力をにぎって貴族をおさえ、積極的に政治の改革にとりくんだ」という記載でもわかる。令外官もそれまでと違うとの認識からか「天皇が特別に任命」であり、「天皇も勅旨田という田を持ち、皇族にも、天皇から田が与えられた」という新たな記載もある。そして「院宮王臣家」の登場だ。
つまり桓武-嵯峨朝は積極的に律令制を破壊したわけでは決してないが、単なる「再建」というよりは、強い天皇とそれに従う皇族・貴族という支配階層をめざした時期であるという解釈になるのではないか。

●「令義解」と「令集解」
律令の私的な解釈である「令集解」の説明は九四年に初めて脚注に出てくる。だが、それ以前から受験生は公式な解釈である「令義解」とセットで覚えさせられたものである。なのになぜ「令集解」が本文にも脚注にもなかったのか。

●天台宗と真言宗
最澄の伝えた天台宗が「密教」だと勘違いしている方も多いのではなかろうか。実際には空海の真言宗は最初から密教だが、最澄が伝えた天台宗は密教ではなく、弟子の円仁や円珍によって密教化がはかられた。
このような勘違いは教科書の記載にも関係があるのかもしれない。というのも七五年から八〇年までは「最澄や空海」「天台宗・真言宗」と両者を併記し、「密教にもとづく真言宗」の次に「天台宗は法華経の信仰を説いて、のちの思想界に大きな影響をおよぼしたが、同時に密教を取り入れて」とある。この記載は間違いではない。天台宗が「影響をおよぼした」「のち」と「同時に密教を取り入れ」たならば、最澄の天台宗は密教とはならないし、「同時に」の前の脚注に「最澄の弟子の円仁・円珍は天台宗を発展させた」と書いてもあるからだ。だが、間違えやすい記述には違いない。
そのあたりは七九年には解消されていて、「天台宗でも最澄のあと、円仁や円珍によって本格的に密教がとりいれられた」と誤解の余地がない書き方に変わっている。
真言宗と天台宗が栄えた原因について七五年からは「真言宗は現世利益にふさわしいものとして皇室や貴族のあいだにもてはやされ」、「天台宗」も「密教をとりいれて、同じく貴族の信仰をあつめた」と説明する。七九年からは天台の密教化の後の記載として「天台・真言両宗とも、加持祈祷によって現世利益をはかる仏教として」皇室や貴族のあいだにもてはやされ」たとある。ところが九四年からは「天台・真言の両宗は、元来、山中にあって厳しい修行をつみ、国家の安泰を祈るものであったが」との一文が挿入されている。
これが、それまでの記述がもとから「現世利益をはかる仏教」ではなかったと、天台・真言両宗の名誉のために加えられたのか、「元来」のあり方を逸脱した結果栄えたということを強調したいのか、どちらとも読める。

●弘仁・貞観文化
同文化の彫刻様式である「一木造」の紹介で、九四年からは「豊満で神秘的」のうち「豊満」という特長が消えている。「おもな美術作品」の「彫刻」では八九年に以前の六作品に加えて「教王護国寺講堂不動明王像」と「法華寺十一面観音像」が加えられた時点で、「豊満」はそのままで、「新薬師寺薬師如来像」が加えられた九四年からなくなっている。「新薬師寺薬師如来像」はたしかに一木造だ。だがこの仏像が他に挙げられている仏像に比べて「豊満」ではないとは見た目ではいえない。とすると一木造が豊満とする見解に問題を生じたか、「豊満」という表現が教科書にそぐわないと判断したか、あえて「豊満」というほどでもないと考えたか。九四年から図が掲載された天平時代の「薬師寺吉祥天像」の説明には「ふっくらとした顔立ち」という表記があるから、表現に問題があるならば「豊満」を「ふっくら」に変えればよかったはずだ。
また「一木造」と並ぶ弘仁・貞観彫刻の特長である「翻波式」の説明は八〇年まで「元興寺薬師如来像」の特長としてのみ記載されているが、八九年からは全体の特長として脚注に太字で示されている。
八〇年まではみられなったが八九年以降は「漢文学の隆盛」の項で「漢詩文の名手」として「嵯峨天皇、空海、小野篁、都良香、菅原道真」が、「現存する最古の説話集」として「日本霊異記」が、それぞれ脚注に追加されている。同時期の「唐風書道」に「唐様」という固有名詞を付したのも八九年からである。漢文学の記載の増加は大きな変化で、八九年には「主な著作物」として本文で触れられていない「菅家文草」「文鏡秘府論」「類聚国史」が加わる。これらはいずれも空海か菅原道真の著作であることから、八〇年代に研究が進んだ結果として掲載する必要があったのか
弘仁・貞観文化の「主な美術作品」のうち、八〇年にはみられなかったが、八九年以来掲載されているのが「教王護国寺両界曼陀羅」で、口絵(巻頭のカラー写真)まで紹介されている。九四年からは「西大寺十二天像」が加わる。「教王護国寺両界曼陀羅」は空海とゆかりの深い美術品で、先の八〇年代に研究が進んだ結果と符合する。(編集長)

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2008年8月12日 (火)

◆新連載◆ホームレス自らを語る/野宿の生活に疲れた

 生まれは昭和9年で、茨城県の石岡の出身だね。兄弟は6人か、7人いたと思うけど、よく覚えていないな。オレは上から4番目だった。オヤジは左官をやっていた。
 終戦は小学5年生で11歳のときだけど、戦争の記憶はほとんどない。田舎暮らしだったせいだろうな。子どもの頃のオレは、おとなしい子で成績も中くらいの目立たない子だった。
 中学を終えて普通高校に進学したけど、1年生の夏休みになる前にやめちゃった。のんびり勉強なんかしているより、早く手に職をつけたいという、焦りのようなものがあったんだな。
 オレが高校に入った昭和24年という年は、大変な年でね。定員法(行政機関職員定員法)とかいうのができて、公務員や国鉄(いまのJR)職員の何十万人ものクビ切りがあったり、下山、三鷹、松川の国鉄三大事件の起こった年でもある。だから、早く手に職をつけたほうがいいと思ったわけさ。
 それでオレも左官になろうと思って、オヤジの紹介で東京の左官の親方に弟子入りした。左官修業は特に辛いことはなかった。子どもの頃から、オヤジの仕事を見ていたしね。それにオレの場合、修行中から一人前の日当がもらえたんだ。親方がオヤジと友だちだった関係だろうね。当時で一日500円くらいだったのかな? いや、もっと安かったのかな?
 住んだのは土木建築関係の職人ばかりに部屋を貸す下宿。当時はそんな下宿があったんんだよ。朝夕の二食賄いつきでね。どこにあったのかって? 覚えていないね。あちこち転々としたからね。
 修業は5、6年続いて、20歳すぎに一本立ちした。親方が町場の左官だったから、オレも町場で働いた。町場というのは、一般住宅の建築に関わる仕事のことをいう。
 左官の腕は悪くなかったと思うよ。壁や床塗りをやらせたら、垂直面、水平面を勘だけでピタッと出せたからね。あれはコテ使いと、コテを持つ手の微妙な力の入れ具合で決まる。まあ、口で説明しても伝えられないよ。先輩や親方がやっているところを見て、盗んで覚えるしかない。オレもそうやって覚えたんだからね。
 結婚はしなかった。職人の仕事場は男だけの世界だからね。女の人と知り合うきっかけがなかったし、何となく面倒臭いというのもあったな。
 遊びは派手だったよ。まあ、職人相手の下宿に入ったのが運のツキさ。休みの日や雨で仕事が中止の日は、酒好きなヤツは朝から酒盛りを始めるし、賭けごとの好きなのは、やれチンチロリンだ、やれオイチョカブだって始めるしね。競馬や競輪、競艇、パチンコに出かけていくヤツもいる。
 そんな環境のなかにいたら、大酒飲みのギャンブル好きになってしまうよね。オレもそうだった。当時は職人のほうが、普通の会社員より稼ぎがよかったからね。よく池袋のキャバレーにも通ったよ。有り金をきれいサッパリ遣ってしまうのが、職人の気風のよさだと思っていたしね。
 ピークは東京オリンピックあたりだった。昭和40年代中頃からプレハブ住宅というのが出回りはじめて、あっという間に在来工法の住宅は建てられなくなってしまった。プレハブ住宅というのは、工場でつくった部材を現場に運び込んで、ボルトで止めて組み立てるだけだからね。熟練の大工や、オレたち左官は必要とされなくなったんだ。
 で、それからは日雇いで働くようになった。山谷(いまの台東区清川周辺)のドヤ(簡易宿泊所)に寝泊りしながら、手配師から仕事をもらってね。ほとんどが土工の仕事だった。
 ただ、日雇いで働けたのもバブル(経済)が弾けるまでだったね。途端に手配師から声がかけられなくなって、仕事にあぶれるようになった。ドヤに泊まるカネが稼げないんだから、路上に野宿するより仕方ないよね。
 路上に寝るのに特別な感慨なんてなかったよ。山谷にはそんな仲間がいっぱいいたからね。オレもその仲間入りをしただけのことだ。まあ、成り行きさ。
 いまいる浅草に移ったのは、5、6年前からだね。山谷はホームレスの数が多くて、何かと騒がしくてうるさいだろう。それに物騒なヤツもいるからね。それにくらべると浅草は静かでのんびりできるからいいよ。夜は新仲見世通りに寝ているが、あの通りにはアーケードがあって雨露がしのげるから助かるよ。
 それに浅草は飲食店が多くて、残りものなんかを出してくれる店があるんだ。この街には困っている人を助けようという人情が、まだ残っているからいいよね。
  (山口さんの顎から首筋、胸のあたりまでが土気色になっていて、そこに白い斑点が浮き出てまだら模様になっていた。それについて聞いた)
 10日くらい前から、こんなふうになってね。皮膚病だろうと思う。ロクなものを食べていないから、栄養失調の一種じゃないのかな。足も痛くて歩くのもやっとだしね。もう野宿の生活にも、つくづく疲れちゃってね。
 じつは、明日、墨田の区役所に生活保護の申請をしに行く予定なんだ。ホームレスの仲間に手続きに詳しいのがいて、連れていってくれるというからね。最近は生活保護もなかなか認定してもらえないって噂だけど、オレの場合は70歳をすぎているし、身体もこんな状態だから、だいじょうぶだと思うけどね。
 畳の上に布団を敷いて寝るなんて久しぶりだからね。何とか認定してもらえるといいなと思っているんだ。(神戸幸夫)

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2008年8月11日 (月)

トヨタに夫を殺されて(3)

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
ブログでは明かされない新たな事実満載!!

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 もともと生産工程に物理的・時間的な余裕があれば、不良品の修理などそれほど大した問題にならない。外しておいて、あとで処理することもできるからだ。しかし生産工程の1秒のムダさえ削ってきたトヨタではイレギュラーな問題の解決がとても大変になる。それゆえ健一さんは、怒鳴られながら各部署を走り回らなければならなかった。

 しかも業務はこれだけではない。会社が業務と認めていない「自主活動」が山ほどあったからだ。(大畑)

 職場カイゼンの目標に取り組む「QC(クオリティーコントロール)サークル」、業務の改善策などを個人で提出する「創意くふう提案」、健一さんの職制だったEX(班長)の会、さらに部下と神社のお参りまで行かされる交通安全活動。健一さんはそれらのリーダーなどを任されていたうえに、トヨタ自動車労働組合の職場委員まで押しつけられていた。

 この「自主活動」に奪われる時間が半端ではない。

 通勤中の運転で危ないと感じたことを従業員は毎日「交通ヒヤリ」という書類に書き込む。その記述をまとめるのは交通安全リーダーだった健一さんの仕事だった。さらに交通安全の定期的なミーティングも実施しなければならない。創意くふう提案は毎月書く必要があり、品質管理の意識を高めるためのグループ活動「QCサークル活動」の発表のために睡眠時間を割いて自宅で書類を作成しなければならないこともあった。このQCサークル活動がどれほど面倒なものであったかは、健一さんが関連書籍を30冊近く購入していたことからも分かる。会社の製品の品質向上を目指して本まで買って勉強し、ほぼ強制的に書類の提出が科されるのに、トヨタは従業員の自主活動だと言い張ってきた。人件費を抑えるためである。

 また本来なら労働者を守るはずの労働組合まで労働強化に加担した。組合の会議は昼休みに開かれ、健一さんから貴重な休息時間と食事タイムを奪っていった。組合研修が土日に開かれれば、それも強制的に出席させられた。時に年休まで取らされてである。

 こうした諸々の業務が積み重なり、健一さんが亡くなる直前の1ヵ月間の時間外労働は155時間25分にもなったという。

 博子さんは亡くなる1週間前の三層会のことを強く記憶にとどめている。

「夫の帰りを起きて待っていたんです。会社に抗議の電話をしようと思って」

 その日、健一さんは早番で6時25分から16時10分まで働いていた。そのあとに開かれたのが、CL(チーフリーダー)とGL(グループリーダー)とEX(エキスパート)三層の会議だった。

「朝4時に起きて、めいっぱい働いてから会議に出席。それからアルコールは一滴も飲めないし、カラオケも好きじゃないのにウーロン茶でお付き合いして。会が終わったのが午前1時で、反対方向の上司を2人送って自宅に戻ってきたのが3時半でした」

 誰の目にも健一さんが過労気味だとはわかっていた。彼の上司は年賀状に「今年は早く帰れるように頑張ります」と書いていたほどだ。新年会では友人から冗談交じりではあるが、「そんなに働いたら死ぬぞ」と言われたという。そんな状態の部下を上司が運転手代わりに使ったのである。約24時間動き続けているのに。推測だが、酒を飲まない健一さんは運転手として使いやすかったのだろう。

 夫の健康が心配でならなかった博子さんが、会社に抗議の電話をしようと思ったのもうなづける。しかし結局、博子さんは電話をかけなかった。

「男の人は奥さんに電話されたくないでしょ。そりゃ、そうですよね。だからとどまったんですが、こんなことになるならちょっとね……」

 そう言って、博子さんは寂しそうに笑った。

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2008年8月10日 (日)

増山麗奈さん個展にて、月刊『記録』芸術デビューする

 以前紹介した「ロスジェネ」という雑誌の関連活動を追いかけて、編集委員でもある画家・増山麗奈さんの個展「SUMI KANNON」に行ってきた。赤坂見附のCOEXISTという小規模のギャラリーだ。8月6日、お邪魔したところ増山さんは絵を描いている真っ最中だった。個展のタイトル通り、炭で観音様を描いている。観音様とはいうものの、実際は麗しい3人の美女(「三美神」と名付けられていた)。美女の周りには沢山の腕、腕、腕が四方八方に伸びている。千手観音のイメージだ。描かれた腕は、ギャラリーの観客達のもの。指先でポーズを作っていたり、何か持っていたり、男だったり女だったり様々だ。感心して見ていると、「奥山さんも描かれてみませんか?」と誘っていただいた。「『記録』を持って」と。

 えっ! こ、この子を描いていただけるんですか?! と、なぜか不肖の息子を持ったお母さんのような恥じらいを見せてしまった…が、『記録』が記録されるという二度とないであろう幸運に甘えることにした。
 結果、手に『記録』(今月号)を持った私の左腕が増山さんの芸術に参加することになった。難しいのは『記録』をどのように表現するかということだ。印刷物である雑誌をそのまま貼ると、和紙に炭というスタイルの作品の中でどうしようもなく目立ってしまう。増山さんのアイディアで、部分的に雑誌を切り貼りすることになった。タイトルは切り貼り、きろくま(いつも表紙に描いてある下手くそなクマ。奥山作)は改めて描いていただく。そして今月号の記事の中から編集人の連載を選び、タイトルを貼ったところでタイムオーバーしてしまった。次の日が個展のクロージングパーティーだということなので、明日また見に来ますと言ってギャラリーを出た。

08080704  そして次の日、パーティーに参加してみると…完成してる! 記事がページいっぱいに貼られて、作品全体の雰囲気になじむよう、記事の周りが凹凸のある白で塗られている。塗ってくれたのはギャラリーに観客として来たアーティストの方で、ここにも参加型のアットホームな芸術が実現されている。ちなみにこの方の腕も、千手の一つになっている。下の写真を見て欲しい。ピンクのステッカーを貼ろうとしている腕が彼のものだ。

08080702 このステッカーは現実にある。彼の作品だ。ナイキのマークをウナギに仕立てたマークの下に、「JUST DOITE?」と書かれている。渋谷の山下公園が「ナイキ公園」として生まれ変わる計画に反対する運動のステッカーである。なぜ反対するのか、興味を持たれた方はこちらへ

08080701パーティーでは「三美神」モデルの一人、白井愛子さんと増山さんのパフォーマンスが催された。刺激的な衣装で銃を奪い合ったあと、浴衣姿で歌う白井さんに増山さんが「NO 原発」と書かれた帯を巻き付け、布をまとわせた針金を巻き付け、そして最後に傘を持たせる。緑の傘はMireyHIROKIデザインのものだ。ヒロキさん自身からプレゼントされたもので、環境に優しい素材で作られている。実は前日に奥山もギャラリーでヒロキさんに初めてお会いして、どのような思いを込めて傘を作ったかを詳しく話していただいた。その内容は大変に深いもので、こちらで紹介するには誌面が足りない思いだ(ここで「誌面」と言うのはヘンな気がするが)。今度改めて取材したい。そう、このパフォーマンスからもにじみ出ているように、増山さんは環境問題に取り組む活動家アーティストである。そして二児の母。たいへんにエネルギッシュな人だ。こうやって沢山の人の目に触れる芸術に参加させていただいたからには、何らかの形で恩返しせねばならない。こちらの個性を生かして、どのようにアプローチすればいいだろう? 色々と考えさせられた2日間であった。

08080703 最後に、作品の全体を。絵が大きすぎるのと人がギッシリあふれていたのとで、全体が撮れなかったのが残念。(奥山)

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2008年8月 9日 (土)

書店の風格/第16回 西荻窪界隈

 西荻窪はオトナな街だ。
 降り立って北口から出、一分ほどすれば静かな街並みが現れる。何が素晴らしいって、コンビニやらチェーン店やらの進出が垣間見られるにも関わらず、街特有の落ち着きを失っていないのが素晴らしい。いや、そんなに昔からこの土地のことを知っているわけではないが、昔からこのような佇まいだったのだろうな、と感じさせる。アンティークや古本を扱う店が転々と並び、婦人向けのブティック、小劇場、有機野菜専門の八百屋、天然素材のパン屋などが「普通に」そこにある。看板で華々しく宣伝文句を謳っていたり、昨今の流行に乗ってみましたという真新しさは感じられない。ただ地域の人々のために、ひっそりとそこにあるのだ。思わず万人が詩人になってしまう、そんなロマンスを持っている街だ。

 こんなに素敵な街に降り立った8月7日。私だって詩人になりたいのは山々なのだが、何せ炎天下である。駅前で鼻血が出てしまい、格好悪い姿をひとしきり晒してから書店様へと赴いた。本日伺うのは、西荻のカルチャーを体現しているとも言われている、本好きからたいへんな寵愛を受けている書店様だ。弊社から出ているホームレス本を、新刊扱いでなくなったあとも再三ご注文くださっている。お礼参りとともに今後の出版のヒントを得たいと、駅から歩いて3分の書店に向かった。公道から少し奥まった所に入り口がある可愛らしいお店で、このような規模の書店様に何度も注文をいただいていたのかと思うと本当にありがたい。

 中に入ると、まずは雑誌のコーナーがあった。アニメ雑誌が嬉しい豊富さで、必死に好みの雑誌を探す女の子がいるのが微笑ましい。そして奥が一般書コーナーなのだが、人文社会系がかなりの面積を占めており店主のこだわりがはっきりと見える。今のところ弊社の本は棚から消えているようだ。レジにいる眼鏡をかけたおじさまに、お忙しいとは思いつつ声をかけてみた。

 お名刺を渡してから、「棚のご担当の方はいらっしゃいますか?」と聞いてみると、「今はいないな」とのこと。

「何時頃お戻りでしょうか?」

「一時くらいかなあ。」

時計は午後の三時を指している。

「い、一時ですか?」

「一時くらいだね。」

最初は無言の門前払いを食わされているのかな、と少々悲しかったが、本当のことらしい。信愛書店は午前12時半まで営業している夜型な人たちに親切なお店なのだが、棚担当者が戻るのは閉店後のことらしい。そもそも信愛書店は高円寺にある「高円寺文庫センター」の支店である。そういえば高円寺文庫センターに行った折も、「担当者は夜中にならないと来ない」と言われてしまったことを思い出す。

「担当者は昼間、高円寺にあるカフェにいます。夜になるとまた違うところに移動して、そこからこっちに帰ってくるので1時くらいにはなってしまうんですよ」

おじさまよりご丁寧な説明を受け、さらに「ここに連絡してみて下さい」と電話番号をいただいた。高円寺のブックショップカフェのことは噂程度に聞いていたが、3店舗をほぼ一人で見て回っているなんて…感心を通り越して感動した。書店の新しい形を模索して走り続けている店主を、ぜひ追いかけたい。

 さすがにカフェで営業はまずいので、お電話でアポを取ることにした。めったに会えないお人だろうから、後悔のないようスッキリPRしないと! というわけで、こちらの回はもう一回続きます。次は邂逅編…になる予定です。(奥山)

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2008年8月 8日 (金)

『吉原 泡の園』第73回/ソープ嬢

 性風俗の世界はソープからファッションヘルスなど多種多様である。20年以上前に流行ったノーパンシャブシャブに代わり、2006年現在、生着替えシャブシャブなるものまで出現している。出会い喫茶という新しいサービスも出現した。では業種によって女のコに違いがあるのだろうか?
 吉原のような高級店は、容姿、マナーなどの品格、エンターテインメント性を重視する向きがある。これに対峙するのが、ピンサロなどの比較的安い店で働くコだ。容姿、品格が劣ると言っているのではない。始めて風俗に足を踏み入れるコというのは、始めはピンサロのような所から入るのが一般的だと言いたいのだ。
 吉原ソープのようなところで勤めるには、ギリギリまで追い詰められた何かがあり、さらに場馴れしていることが重要なのだ。デパートガールをしていたコが、いきなりS店に体験入店してきて、1日で辞めたこともあった。「素人」だとまさにそうなるのだ。
 ソープに入店に踏み切る理由には、借金や男への貢金などがあるが、もうこの商売しかできない女であることも大きい。AVに出演していて、それをプレゼン材料として持ってくるコもいる。さらに好き者派のボーイがいるように、女のコでも好き者だから働いているコも多い。さらに即尺サービスがあるから度胸も必要だ。金のためにといえ、なかなか大変なサービスなのだから。立場としてはソープ譲に対して、こんな考えを抱いてはいけないのだろうが、客観的に“偉いな”と思っていた。
 吉原に来る客も色々な悩みや不安を抱き、女のコたちに癒されに来るのだろう。地元では世間体で苦しみ、学校では人間関係で苦しみ、あげくの果てには勉強勉強でわけのわからない問題を強制される。吉原という小さな“村”には、そうした悲鳴をあげながら、のたうちまわる男達が数多くやって来ていた。それを黙って癒してくれる彼女達は、客にとって一筋の希望なのかもしれない。もちろん、夢を打ち砕く高額な現金は介在するが、そんなことを忘れさせてくれる何かが吉原にはある。
 ボーイは入店して来てはすぐに辞めるパターンが多い。ソープ譲も同じだ。ただ、業界を上がるために辞めるコは非常に少ない。「嫌よ嫌よ」と言いながら、1度夜の世界で生きた者はなかなか夜の世界を抜け出せない。高給でもあるし、楽して儲けられる部分もある。また、どうしても他の仕事がしにくい人もいる。風俗譲はうつ病を中心に、精神的に病を抱えている者が少なくないからだ。
 S店にいたコで、見た目はなかなかの美人だが問題のあるDという女のコがいた。サービス内容を客を見て変えるのである。それも客が金を持っているかどうか、基準はそれだけ。見た目が悪くないので、ある一見の客にそのコを勧めてみた。
「じゃあこのコで」
 とすぐに決まった。
 そしてご案内。90分後、上がりを受けて待合室に通し、アンケート用紙に記入してもらう。サービスから戻ってくる客の顔はテカテカになっていた。緊張と興奮がまだ冷めぬといった風情だ。
 冷たい麦茶を一気に飲み干し、少し落ちついたところで
「どうでしたか、今日のコは」
 と質問すると、テカテカになっていた顔を強張らせ
「う~ん、あんまりかな」
 と表情を曇らせた。
 アンケート用紙には。
“即尺サービスはありましたか”
“キャミソールを着ていましたか”
“浴槽内でのサービスはありましたか”
 などなど相当な数の質問があり、最後に。
“本日の女のコを、100テン満点で表しますと、何点くらいですか”という質問事項がある。そのお客は、0点と書いてあった。
「え?、はい?」
 0点である。いくら僕が勉強ができなかったからといって、0点は取ったことがない。それなのにD子さんは見事0点をゲットされた。
 サーット血の気が引いた。やばい、怒られる。そう感じ、恐る恐る客の顔を見てみると、テカテカの顔からは殺気までは見られなかった。
「あの~、0点とはなぜにでしょうか」
 聞きたくはないが、これも仕事なので仕方なくたずねた。
「ああ、あのコ全然ダメ。サービス悪いし、嫌々話している感じだしね、ダメだよ」
 アンケートの最後に、ボーイが必ず聞かなければならないことがある。
「そうでしたか、それは……。それでですね、最後にお聞きしますが、またこのコに入ってみても良いと思いますか」
 0点と言われていたがたずねてみた。
「嫌だね」
 思ったとおりのご回答だ。
「ねえ、君だってあんなコじゃ嫌でしょう? 正直にさ、違うかな」
 逆に質問されてしまった。怒りに震えてもおかしくないものを、グッとこらえ、優しく話してくれるそのお客さんが、そのとき何だかおかしくなり、思わず真っ赤になって吹き出してしまった。
 本気で笑っている僕に、お客さんはさらに質問を重ねる。
「ねえ、違う?」
 真顔で聞いてきたとき、そのおかしさは絶頂に達した。
 こちらがごり押しして入ってもらったお客さんなのに、そんな良い人を騙してしまう。これまた吉原ボーイの宿命なのであった。

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2008年8月 7日 (木)

トヨタに夫を殺されて(2)

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
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 事故でも事件でもない、何の前触れもなく起こった夫の突然死。そんな状況をすぐに受け入れられる家族はいないだろう。そこに会社が追い打ちをかける。人事が退職金の書類持ってお通夜に訪れたのだ。
「退職金がどうのと言われたとき、正直、『誰が退職するの』と思いました。自分の中ではまだ夫が死んだかどうかも納得できない状況での退職金ですから。退職って何? 別に辞めるって言ってないけど、何で会社に残してくれないんだろう。そう思いましたね。
 このとき、死んだら従業員なんていらないだって実感したんです。悔しかったですね」
 会社側としては葬式費用などを心配して、素早く対処したつもりだったらしい。しかし突然死に直面した遺族への配慮が欠けていたと言われても仕方ないだろう。なにせお通夜の晩だったのだから。
 そのうえ労働組合が、さらなる追い打ちをかける。
「組合がお見舞いって、10万だったか20万円だったか手渡したんです。『お確かめ下さい』と言われて封筒からお札を出して数えて。自分は何やっているんだろうって思いましたね」
 結局、組合も会社も遺族の気持ちに寄り添えなかった。いや、むしろ寄り添う気持ちがなかったというべきか。両者が優先したのは、遺族の気持ちではなく仕事だったのだから。夫の死を金銭に換算したように遺族が感じても仕方がない。
 じつは、ここに健一さんを追いつめたトヨタという会社の本質が見え隠れする。何にも増して会社を優先するという論理。命よりも利益を大事にする企業意識である。

 健一さんの残業が増え始めたのは、過労死する2年近く前、2000年あたりからだったという。EX(エキスパート)と呼ばれる班長に昇進したことが契機となった。ただ、それでも当初は2時間程度の残業で帰ってきていたという。しかし亡くなった前年の6月あたりから、どんどん仕事が忙しくなってくる。2人の子どもの誕生日である6月12日に合わせて取った連休が、自分の都合で取れた最後の休みとなった。
「夫が疲れているなと感じたのは、亡くなる半年前ぐらいですかね。お盆休みのときも何日か仕事に出ていて、そのとき『頭が回らない』って。いろんなことをしなければならないのに、切り替えられないって意味だと思うんですけれどね。基本的にいつもニコニコしている人だったのに、笑顔が減ったなと感じました」
 健一さんの仕事は車のボディーの品質検査業務だった。品質検査と聞くと多くの人はできあがった製品のチェックを思い浮かべるかもしれない。コンベヤーで流れてくる商品から形の悪いものを取り除くような作業だ。しかしトヨタではさまざまな工程で品質完全チェックが行われる。
 健一さんの前工程はプレスの工程、後ろが塗装・組み立て工程となっていた。ここで不具合が見つかった時に、修理する段取りを整えるのが健一さんの仕事である。ただし生産ラインは常に動いており、各ラインの従業員の動きは秒単位で決められている。そのうえトヨタ生産方式は必要以上の在庫を持たない。つまりトヨタでは、ギリギリまで切りつめられた作業時間で、決められただけの製品を製造することが強く求められている。
 そうした状況の中、健一さんは後工程から不良品のクレームを受ける度に駆けつけ、関係する前や後の工程の担当者と話し合い、ただでさえ余裕のない生産ラインに不良品の修理を押し込むよう調整を続けてきた。当然、ギリギリの製作時間しか与えられていない各部署の担当者は健一さんを怒鳴りつける。しかも時に健一さんは、トヨタでは重大犯罪ともいえるラインの停止を決断しなければならなかった。
 もともと生産工程に物理的・時間的な余裕があれば、不良品の修理などそれほど大した問題にならない。外しておいて、あとで処理することもできるからだ。しかし生産工程の1秒のムダさえ削ってきたトヨタではイレギュラーな問題の解決がとても大変になる。それゆえ健一さんは、怒鳴られながら各部署を走り回らなければならなかった。

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2008年8月 6日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷②

●渡来人の表記
五世紀に大陸から渡ってきた人々を91年までは「いわゆる帰化人」と表現していたが、94年からは「渡来人」と変わり、98年からは「戦乱を逃れた多くの渡来人」と説明がついている。「帰化」という言葉の起源に「君主の徳化に帰服すること」(広辞苑)があり、「戦乱を逃れた」が理由であればふさわしくなく、また自らの希望で日本国民になったというよりも、やむを得ずという側面があったのも「帰化」という言葉をためらわせる理由であるらしい。
ただ「いわゆる帰化人」「渡来人」の例とされる王仁、阿知使主、弓月君らの伝説は『古事記』『日本書紀』を読む限り「戦乱を逃れた」という印象はない。ただこうした有名な氏以外に、数の上では多い「戦乱を逃れた」「渡来人」がいた可能性も高い。いずれにせよ、そう神経質になるほどではないと思われる。

●沖縄への言及は
一貫して増えている。旧石器人骨の「港川人」は60年代後半の発見であったにも関わらず、80年まで記載されていなかったが、91年には載っている。また弥生文化が及ばず、独自の「南島文化」(94年からは「貝塚文化」)があったと91年には記載されているが、80年まではない。同様のことが北海道の「続縄文文化」にもいえる

●天皇の称号
「大王」に代わって「天皇」の称号が用いられた時期は91年までは推古天皇の時代と推定している。しかし94年からは「天武天皇のころからとみられる」と見解を変えた。根拠となっている柿本人麻呂の「大君は神にしませば」は時代に限らず引用されている。聖徳太子伝説との関連か?

●改新の詔
かつては重要史料と扱われていた「改新の詔」はどうか。戦前には高く評価されていたが、すでに津田左右吉が疑問視していたように、後世の修飾があるのではないかという疑いが消えない。この点について75年は「『日本書紀』に記されているこの詔には、のちの令の文によって修飾されたと思われる部分もある」と指摘した上で、「新しい中央集権政治への方向がはっきりとうちだされている」と積極的に評価している。この傾向は91年まで基本的には変わらないが、94年になると「6年ごとに戸籍をつくり、班田収授を行うというのちの令の制度が、このときから行われたかどうかは疑わしい」と詔「其の三」への疑念の度合いを高め、評価も「あたらしい中央集権国家のあり方を示している」にトーンダウンさせた。
詔は真実だとする者から、『日本書紀』自体がトンデモ本だから、まったく信用できないとする者まで、幅広い議論があるなかで、「改新の詔」をでっち上げとする論はとらず、かといって646年に「改新の詔」によって劇的に律令制度が確立したとの論もとらず、700年代までに徐々に形成された律令制のスタートラインとしてとらえる記載は妥当ではないだろうか

●藤原京
持統朝の重要性を高めた大きな要因が、同朝の694年に建設された「藤原京」の研究にある。75年に「最近の発掘調査によって」「ようやく明瞭になりつつある」とし、その表現がしばらく続くが、91年には「藤原京と木簡」というコラムで詳細に紹介し、文中で「発掘調査は近年、著しく進み」とし、七〇一年の大宝律令施行までは地方の単位は「郡」ではなく「評」だったと出土した「木簡」から「確認された」とある。たしかに六四六年の「改新の詔」に「郡」とあるのに、694年建設の藤原京から出土した木簡から「評」だったという証拠が出てくれば、「改新の詔」の真贋を占う大きな成果といえよう。

●飛鳥文化
同文化の「主な美術作品」の工芸品として「法隆寺龍首水瓶<白銅造>」が七五年には載っている。ところが八〇年には<銀造>に改められ、九一年以降は消えている。同様に白鳳文化の「主な美術作品」の絵画として八〇年までは「聖徳太子像(皇室御物)」が紹介されているが、九一年からは消えている。宮内庁に聞かねば。「龍首水瓶」は東京国立博物館の説明では「銅鋳製鍍金銀」となっており、製造は「奈良時代」とある。X線調査で青銅上に金・銀メッキが施されているとわかる。東京国立博物館『MUSEUM』第457号(1989年4月)の三浦定俊らの研究か?

●薬師寺移建問題
現在の薬師寺が藤原京から移建したのか、平城京で新しく建造したのかの議論も年を追って変化する。八〇年までは「学会の問題点」であり、「どちらともきめがたい」とあるが、九一年には明快に移建説を支持した上で、薬師寺東塔と薬師寺金銅薬師三尊像は「意見がわかれている」とした。九八年になると一層踏み込んで、薬師寺東塔は「あたらしく建てられたものとみられる」で、金銅薬師三尊像だけが「意見がわかれている」とした。

●和同開珎の扱い
意外なことに「和同開珎」は七五年以来一度も「日本初」「日本最古」の貨幣という表記はない。八九年からは七〇八年に武蔵国からはじめて銅が献上されたので、朝廷はこれを祝って和銅と改元した。そして和同開珎をふくめ・・・・」という説明を付している。『日本書紀』六八三年に「今より以後、必ず銅銭を用いよ」とあり、これと七〇八年には時間差があり、かねがね「和同開珎」以前の銅銭の存在が指摘されていた。
最近の発掘で「富本銭」という和同開珎より古い銅銭が藤原京などから多く見つかり、流通貨幣としての役割を果たしていたのではないかと検討されている。だが、二〇〇二年まで「富本銭」は登場していない。

●竪穴住居
一般人はいつまで竪穴住居暮らしであったのか。七五年から八〇年までは「律令国家の成立」の「農民の負担」という項で、「住居も一般には昔ながらの竪穴住居であった」と記載されているのに対し、八九年からは「平城京の時代」の「新しい土地政策」の項で、「竪穴住居にかわって、平地式の掘立柱の住居が普及しはじめた」とより突っ込んだ記載に変わっている。九四年になると「平地式の掘立柱の住居が西日本から普及しはじめた」とさらに具体的になり、二〇〇二年まで続いている。これは平出の農家の遺跡の研究の進展か?(編集長)

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2008年8月 5日 (火)

元乙女のゲーム生活〜ペルソナ4

ペルソナ4を一応クリアした。感想は、かなりおもしろい。

ロールプレイングはレベル上げがとても面倒なのであまり好きではない。ダンジョン関連は相方に任せ、日常のサブクエストやコミュニティークリアは私がやりました。
ペルソナは、ダンジョンパートと日常生活パートが明確にわれていて(わかれているのは当然なんですが)、ダンジョンで戦うためのペルソナ作成がなかなかおもしろい。
各ペルソナはタロットカードのアルカナ別になっている。しかも、コミュニティー自体もアルカナ別にわかれており、10段階あるランクを上げていくと、対応するペルソナを作ったときに経験値のボーナスをもらうことができる(死神のコミュニティーのランクをあげると、死神に属するペルソナを作ったときにボーナス経験値がもらえ、ランクが高いほどもらえる値も高くなる)。

そのコミュニティーの各キャラのストーリーも独立していてしっかりと作られている。進めれば進めるほどキャラに愛着もわく。女子キャラとは恋愛関係も結べ、クリスマスにはイベントも起こる仕組みになっている。個人的に好きなコミュは、花村陽介。主人公の親友で、終盤に陽介が泣くシーンがあり、選択肢に「胸を貸す」があり、選んだら主人公、抱きしめてやんの。予想と違った。かと思ったら意味不明な殴り合い。どうやら親友になるには殴り合うことも必要らしい(陽介談)。いやー、青春だねー。

本編も連続殺人が起きて、最終的に世界の破滅が待っているにも関わらず、明るい。さすがに終盤は暗いが。中盤の林間学校、修学旅行、文化祭は笑った。大笑いした。前作のペルソナ3の舞台も出てきて懐かしい気分に。

エンディングはマルチになっていて、分岐で正解を選ばないとバッドエンディングになり、しかもバッドにも二種類あって、私が見たのは1番後味の悪いもの。わざと選んだんだけど、ありゃー、複雑だったわ。

ノーマルは爽やかに終わるが、真エンドを見ると爽やかさも複雑なものに代わり、考えようによっては問題の真の解決を迎えていないので、バッドに近いのではないかと。

現在は、真エンドを迎えるべく、隠しダンジョン攻略中だ。

真エンド。明るいといいな。(奥津)

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2008年8月 4日 (月)

トヨタに夫を殺されて(1)

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
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Img_6390_2 2008年5月、時間外の「QCサークル活動」(品質管理活動)に、トヨタ自動車はやっと残業代を払うことを決めた。大手メーカーではとっくに業務と認め、同じ系列の豊田自動織機ですら24年前から時間外の活動に残業代を払っていたのに、トヨタ自動車は「QCサークル活動」を従業員の自主的な活動だと言い張ってきた。
 そんなトヨタの非常識に「蟻の一穴」を開けたのは1人の女性だった。6年前にトヨタ自動車の社員だった夫・内野健一さんを過労で亡くした内野博子さんである。ただ彼女は労働組合の幹部でも闘士でもなかった。

「あー、こらこら、雄貴(ゆうき)、手を洗ってきて。ハンカチは持っているでしょ? そうそう。でも、コーラはなーし。わかった?」
 取材の始める直前、博子さんは小学1年生の長男・雄貴君にそう声をかけ微笑んだ。
「わかったよー」と返事する雄貴君にも満面の笑みがこぼれる。
 裁判闘争を繰り広げた労働基準監督署も、彼女がトヨタ自動車44年の悪癖を変える女性だとは、つゆほども思っていなかったに違いない。
 博子さんは言う。
「最初から闘う気なんてなかったんです。すんなり夫の労災が認められると思っていましたので。闘いなんだと思ったのは、裁判が始まって『集会』というのが始まったときですね。抵抗ありましたけれどね。集会かって(笑) あとから組織力の大事さは知りましたけれど。当時はみんなの前で話すのも憂うつでしたし」
 つまり当たり前に幸せな妻であり、母だったということだろう。三代トヨタ自動車に勤める子煩悩の夫がいて、かわいい娘と息子を持ち、プログラマーとしても仕事をこなす日々だったのだから。

 しかし、その幸せは彼女の母親による早朝のドアを叩く音から崩れていった。
 2002年2月9日、まだ夜明けの気配さえない冬の闇の中、博子さんは仕事中に夫が倒れたことを知らされる。
 健一さんは遅番。午後4時10分から夜中の午前1時までが勤務時間だった。しかし大量の仕事を抱えていた健一さんは定時に帰ることなどできない。午前4時20分、机で『申送帳』を書いているとき眠るようにイスから崩れ落ちたという。すぐに救急車が呼ばれ病院に搬送されたものの、病院に着いたときには心肺停止状態になっていた。過労による致死性不整脈だった。
「もし、倒れた夫を救急隊員が看ていたらと思うんです。確かに夫は救急車には乗せられました。でも、それは会社の私設救急車なんです。車に救命器具はそろっていますが、車に同乗したのは119番で呼ばれた保安課の方。救急医療ができる人は会社の『救急車』に誰もいませんでした。
 心臓に異常が起きた早い段階で心臓マッサージができていれば……」
 そう言って博子さんは目を伏せた。
 この私設救急車が病院に到着したのは、倒れてから30分後である。小さな事務所から運び出すのに手間取ったのが原因らしい。つまり生命をつなげたかもしれない貴重な時間を、トヨタの救急システムが食いつぶしたのである。もし倒れて数分後に消防署から救急隊員が到着していればと、遺族じゃなくても考えるに違いない。
 しかも健一さんが運ばれたのはトヨタ記念病院。
 トヨタ車で会社に通い、トヨタ系の生協で買い物をし、トヨタ系の住宅会社で家を建てるとも言われる企業城下町の悲劇がここにもある。糧を得るのがトヨタなら消費する場もトヨタ。命を削るほど大量の仕事を命じたのもトヨタなら、仕事によって壊れた体を治療するのもトヨタ系列なのだから。

「夫はガタイの悪くない人でした。体の弱い人なら、どこか具合が悪くなって療養に入りますよね。でも夫はギリギリまで頑張ってプツン、と。
 不思議でしょうがなかったですね。死因も分からないし、なんで死んだのかもわからない」
 そう言って博子さんは目を伏せた。

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2008年8月 3日 (日)

日曜ミニコミ誌!/つっぱり和尚の『寺門興隆』

 ミニコミ誌の定義とは何だろう。自費出版物や一般流通にのらないといった枠組みを超えて、マスコミに対してのミニコミということならば、これだってミニコミ誌と考えていいだろう。「仏教界ならびに全宗派すべての住職・寺族のための最も信頼できる実用実務月刊情報誌」と銘打っている『寺門興隆』。前身は『月刊住職』で、『月刊住職』が廃刊になったあと、関係者が興山舎をおこし、『寺門興隆』を発行している。興山舎で出ている書籍には『そんな生き方じゃだめなのがわかる本』などがある。

 さて『寺門興隆』の面白さはなんといってもその見出しにある。今月号の見出しの一例を挙げてみよう。

「宗門IT化で個人情報流出の危機を証明した現実問題と対策」
真宗大谷派の研究機関、親鸞仏教センターの職員がwinnyを使用していて名簿が流出してしまった事故について、その危機管理体制を探る。

「案内状を出せば必ず法事は増えるか」
年忌を思い出してもらって法事を続けてもらうには、と頭を悩ませる住職は数多い。様々な実践について聞く。

「お寺にあげるお供物もったいないか」
お供物が「供養の後に生ゴミになるならもったいない」という声があることについて、様々な寺院の意見をきく。

「ボードゲームを日本に広める青年住職の技」
山形県長井市の住職が、ドイツのボードゲームを世に広める仕掛け人となっている。活動的な住職への取材ルポ。

と、ほかにも作家・三浦しをん氏による寄稿、アルカリ還元水で山寺が蘇った話など、見出しを読むだけで日頃はなかなか知ることのできない住職の日常がまざまざと迫ってくる。そんな中でおすすめしたいのが連載「つっぱり和尚の骨山日記」だ。表題の通り住職の日記なのだが、もとライターである筆者の語り口はやはりプロで、一般読者が読んでも面白い。中身は法事や葬儀に関する料金交渉のことまで相当に突っ込んでいるので、たいへんためになる。檀家にはソッと値切られ(申し送った額と最終的に封筒に入っている額が微妙に違う)、出入りの葬儀社はクルクルと担当が変わってそのたびに宗派によるお供えの違いなどを教えなければならず、ハッと気づけば今月も家計は火の車…住職様も大変である。筆致的には弊社「記録」の執筆陣である斎藤典雄、塩山芳明と似ていて、辛辣な中にユーモア満載。「記録」読者の皆様(あんまりいないけど…)はお好みかもしれない。

 一癖もふた癖もあるこの雑誌、インターネットでの評判はどうなのかな? と思い調べてみたところ、広告にある目次に注目するばかりで、買う勇気がないという方がほとんどだ。そりゃあ特殊な業界だし、「ちょと面白そう」で年間購読料12600円を出すのはきついかもしれない。でもバラ売りもしてくれるみたいだし、一般人なのにうっかり年間購読してしまった好奇心のかたまりがここにいるし、一年読んでみたけど一冊千円の価値はじゅうぶんにあると考えている。もっと興味のある人なら2倍、3倍の料金でも買う価値ありと判断してもおかしくない良本(良誌?)だ。

 さて次は何を年間購読しようかな。おすすめがある方、是非教えてください。(奥山)

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2008年8月 2日 (土)

ロストジェネレーション自らを語る/第1回 33歳・男性・会社員

 「ロスト・ジェネレーション」という言葉がある。
 ガートルード・スタインがヘミングウェイに対して「あんたたちはみんなロストジェネレーションだ」と言ったのがはじめらしい。それから第一次大戦後に青年期を迎えたアメリカ人を指すようになったようだ。
 いま、日本でこの名をつけられているのは就職氷河期に社会人1年生として世に出なければならなかった世代だ。
 かれらは具体的に何を「ロスト」したのか。もしくはなにゆえ「ロスト」なのか。論じるよりも聞くがやすしということで、この連載ではいろんな「ロストジェネレーション」にその来し方を聞くことにした。もとの定義が「就職氷河期」世代ということなので、「ロストジェネレーション」は当然のように就職で苦労した人、今現在苦労している人を指すが、問題点を浮き彫りにするためにあえて「勝ち組から普通の人まで」全ての人に話を聞きたい。取材対象を選ばないので、きっと「普通の人」が多数となるだろう。

 最初に協力してくれたのは、世代問題に比較的興味関心を寄せている男性だ。新宿のカラオケボックスで「苦しかった時代のことを、やっと最近は割り切って話せるようになった」と言いながら、語ってくれた。




28歳のときに、社会人になりました。

 8年間大学に通って、1年ぐらいフリーターやって、5年ぐらい前に今の会社に拾ってもらったんです。2年前に転職活動したことあるんですけど、上に行けないんですよね。今より好待遇な所には転職できない。勝ち逃げしたいって思ってましたけど、最近の労働問題とか若者の生き方についての模索が始まってる動向も見るにつけ、勝ち組を目指すのもなんか違うんじゃないかなと思うようになって、最近はやってません。今の待遇はまともじゃないから、33歳でこれかよって思うし、逃げたいのは山々なんですけど。若かったら我慢できるけど、30すぎるとだんだん不安になってきますからね。

 東京暮らしは、大学入学と同時だから15年弱くらい。出身は東北です。高校は大学付属のエスカレーター校だったんですけど、そこの大学に行くのは嫌でしたね。地方の閉塞感ってすごいんですよ。加えて両親も仲が悪くて、ケンカ以外で口きいてるの見たことないですよ。姉貴も専門学校出た後、だんだん家に帰らない日が多くなってきて、いつの間にかいなくなっちゃったし。とにかく家から出たかったんです。合法的に家を出るのって、進学くらいしかないじゃないですか。父親が設計事務所やってるから、その関係で建築学科に行きました。家を出られれば、どこの学科でも良かったんですよね。父親は特に家業を継いでほしいとか、そういった思惑はなかったみたいですけど、でもどうせ家を出るなら建築の方面に進んでほしかったみたいです。今は全然違う仕事してるんで、父親とは絶縁状態ですけど。大学自体はあまり知らなかったし、入れる大学ならどこでも良かったんです。本を読むのが好きだったんで文系の方が良かったんですけど、「文系なんか行ったら就職どうすんの」的な雰囲気が蔓延してたんで、理系で進学しました。好きに選べっていわれたら、当然文系ですよね。

 大学に入学した頃は「解放された!」って感じで、楽しく過ごしてたんですけど、そのうちあんまりそうでもないなって思うようになったんです。どこ行っても閉塞感ってあるなって。1、2年の時は忙しかったんです。講義の課題もすごく多くて。忙しいと、自分のやってることに疑い持たないですよね。でも僕は3年くらいにはなんかヘンだな、と思い始めました。地方と同じくらいの閉塞感を感じ始めて。そのうち、お酒を毎日飲むようになってしまって、しんどいなって思いながら、辛いから飲んでるんですよ。で、3年の終わりくらいから精神科通いが始まりましたね。異常な閉塞感で、どこ行ってもきついな、しんどいなってのがあって。東京も地方も変わらないなと。どうしたもんかと。そこで1年留年したんです。もうしんどくて、自分の手首とかもがんがん切っちゃって。ある日、病院でもらった薬を大量に飲んで(オーバードーズして)、手首切って、そのままうつぶせに倒れ込んで寝ちゃったことがあったんです。で、真夜中に「なんかお腹が冷たいな」と思って起きたら、体の下一面に血だまりができてたんですよ。しょうがないから、病院が近いんで自分で歩いていきました。ああいう時でも医者ってサクサク処理しちゃうんですね。ああ切ったのね、って感じで。計9針も縫ったのに、心のケアは皆無でしたよ。

 あるとき、所属していた運動部の先輩が、宮台真司さんの本をすすめてくれたんです。で、すごくはまっちゃって、そこからガッとその手の本を読み始めるんです。宮台さんの本で、男の子の自殺を追ったやつがあるんですけど、それを読んですごくショック受けちゃって。もしかして俺ってこれなのかな、と。実存にかかわる本だったんですけどね。僕は親の言うことをずっと聞いて生きてきたから、こういう時に何にすがればいいのかわからない、なんで苦しいのかわからない。朝起きると、「もう終わりだ、死ぬしかない」ってよく思ってました。全然その理由がわからないんですよ。その状態が怖くて、鶴見済さんの本とかも熱心に読んでて。辛かったですよ。頭の中、朝起きるとぐしゃぐしゃになってて。絶対このままじゃやばいと思って、どうすればいいのか考えるわけですけど、なかなか答えが出ない。

 精神科以外に、カウンセリングにも通いました。今思うと自分を助けてくれたのはカウンセラーさんです。話をして、自分の感覚の歪みをうまく気づかせてくれるんですよ。認知療法っていうんですけど。「こういう見方もあるよね」って話してくれると、そこで「あっ」と気づくんです。本ばかり読んでても、ちょっと危険ですよね。そのカウンセラーさんのおかげで救われたし、自分の生き方を相対化してくれる人が周りにいたのも良かったです。バイト先で知り合った美大生とかね。芸大出身のフリーターの人なんて、35歳くらいでふつうにバイトしてて、住所不定だったりするんですよ。すごく自由な人たちでした。特殊技能があるからそうできるわけで、自分が真似できるとは思わなかったんですけど、でも多少は救われましたね。しばらくは、それでしのげたりもしました。

 大学院を出ても、2年くらいはずっと薬を飲んでしのいでましたね。3年目も睡眠薬だけはもらってて。4年目くらいから生活も安定してきて、食うには困らないくらいになってたし、そうすると安心できるようになってきたんです。それから、当時は社会人やるには体がボロボロだったんで、ジョギングを始めてたんですよ。それがすごく良かった。そのうち、2時間も3時間も走れるようになって、悩む暇なんかないですよ。帰ったら疲れて寝ちゃうし、そうしたら何も考えなくてすむから。結局現実逃避なんですけどね。で、ランニング依存症みたいになって、疲労で倒れちゃったりもするんですけど。

 そうこうするうちに、生きるのがだいぶ楽になってきましたね。30歳を越えて、メンタリティがおっさん化してきて・・・ふてぶてしくなってきて、感受性も鈍くなるし、いろいろなことが楽になってはいます。でも、いまだに苦しかった頃の感性を捨てられないのは嫌ですね。ガキっぽいなって思うんですけど。でもしょうがないですよね、27年つきあった性格が、2、3年で治るモンでもないし。最近は元気になってますけど。時々辛くなってきちゃうと、走ったり飲みに行ったりすれば忘れられます。精神的にきつい内容の本を読んでると、やっぱり辛くなりますね。なるべく、そうならないように気をつけてますけど。

 最近、同世代の間でいろいろな主張・論調が出てきたのが嬉しいですね。インターネットの普及でネットワークとかポジティブなコミュニティも出来てきたし、若い人たちが羨ましいです。それはそれでまた違う問題が起こってるんでしょうけど、僕らの時はまだそういうものも少なかったですからね。

 僕は、基本的に自分自身の問題があって、それを僕らの世代の問題と絡めて考えたいと思ってます。でも、そもそも今世間で騒がれてることは、僕らだけの問題じゃないですよね? 貧困問題にしても、割を食ってるのは僕らだけど、目に見えない形で90年代からホームレスの増加という形で進行していたって言う専門家もいるし。ただ、僕らの世代の苦境がなかったことにされているという危機感はありますね。一番割食ってるな、という印象。直感的に、僕らの世代に不満がたまってるというのはわかると思うんですよ。ただ、そうだとしても、その解決方法はどんなものがあるかっていうと難しいですよね。政権批判するにしても、多くの人はそんな難しい話なんかしたくない、もっと身近なところで考えたいって言うでしょうし、そもそもそんなに考えないですんでいる人がほとんどかもしれない。そういう考えない人たちを批判する気は全くないですよ。どうしても僕が、いちいちつまずいてしまう性格なんで、しんどいんですよね。今は文化の領域で、個人個人を救うようなものも少ないと感じます。マンガ、小説とか音楽とか。それも寂しいなって思います。あとは当事者性って結構大きいと思ってて、そこは大事にしたいところです。みんながついて行けるような、活動・運動とか文化がこれから出てくるといいですね。(聞き手:奥山)

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2008年8月 1日 (金)

『吉原 泡の園』第72回/金の受け取り忘れ

 義理風呂や夜の付き合いで、ボーイの財布事情は火の車だと書いた。しかも毎度のことではないにしても、ボーイならば一度は犯す大失敗があり、そのミスがさらなる貧乏生活にボーイを追い込んでいく。

 お客は店のフロントで入浴料を払うのが一般的だが、フロントに先客がいる場合は、フロント係はお客を待たせるのを嫌がりさっさと待合室に入れる。
 フロントは店の入り口にあるので、お客が怒って勝手に部屋から飛び出して帰ることがあり、それを追ってソープ嬢も飛び出すことも。そんなときフロントに客が詰まっていると、ソープ嬢のドタバタ劇を晒すことにもなりかねない。そもそもソープランドでは、部屋以外でソープ嬢と客がバッティングしてはならない。ましてお客を追いかける姿など、もってのほかだ。
 そうしたトラブルを避けるため、フロント係はとっとと客を待合室に入れてしまう。それからボーイがおしぼりとドリンクメニューを持って行き、「入浴料」と名前を変えたルーム使用料を貰う。金を受け取る革の銭入れを小脇に挟んでいくので、通常ならば忘れることはない。でも、ボーイの頭がテンパっていると、入浴料の2万5000円を貰い忘れてしまう。これが一大事なのだ。
 フロントも確認しないまま何事もなかったかのように時は流れ、店が終わったあとの集計で
「2万5000円足りねえ~」
 との声が響き、店は大騒ぎになる。
 この時ばかりは銀行顔負けである。帰りたくても帰れない。一体誰が犯人だ! とああでもない、こうでもないと議論が始まる。それで犯人がわかると、とり忘れた入浴料分は自分の給料から差っ引かれる。とり忘れた人が分からなければ、みんなの責任になりそれぞれ減給だ。

 また、運良く客がまだ店にいる時に、あのお客さんからお金貰ってねえ!と気がついたとしても、事態はさして変わらない。
 客も馬鹿ではない。
「え!?払ったよ、何いってるの?」
 たいていそう言ってすっとぼける。確実に貰っていないのに、客が払ったと言い張るケースはたちが悪い。そうなると店長クラスが出て行くことになる。ただ吉原はチンピラ風な客も多く、喧嘩にまで発展する場合さえあるのだ。
「もうくんじゃねえ!」
 裏口から店長が怒鳴り、客も負けずに
「もうこんなクソ店こねーよ」
 と怒鳴り返す光景が展開される。

 この手の悲劇は、何もボーイだけに起こるものではない。お客から金を貰い忘れる呑気なソープ嬢がいるからだ。お客が帰った後、慌てた声でフロントにコールしてくる。
「い、今のお客さんから、お、お金貰い忘れました」
 完全に帰ってしまった後ではもうお手上げ。そんな場合はソープ嬢がなくしかない。要するに、タダ働きである。
 また、ソープ嬢の取り分であるサービス料をボーイが先に受け取るケースもあり、それを渡した、渡さないとトラブルになる場合もある。
 先払いで全額フロントに預けてあったサービス料を、「ソープ嬢に渡して来い」と言われ、僕は金を持って部屋に行った。確かに渡したつもりだったが、忙しくていちいち覚えていなかった。すると、そのソープ嬢から「金はまだか?」と内線が来たのだ。
「おいマル、金は渡したのか?」
 と言われて、思わず固まった。
「ええ、はい確か!?」
 それでもソープ嬢は頑として貰っていないという。もう泣きたくなった。僕にしてみれば、渡したのに貰ってないと言われているのだから。たまたまそのときは、店長が僕を信じてくれて給料から差っ引かないでくれたのだが。

 ボーイはお客とソープ嬢に板ばさみ状態で、どちらからも責められる。そうした仕打ちを乗越えて、偉くなっていくのだ。(イッセイ遊児)

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