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2008年7月 7日 (月)

ロボトミー殺人事件の現場を歩く(1)

 2008年2月、河北新報は「『自死権』は認めません」という見出しで、無期懲役で服役している男性が起こした裁判を報じた。79年に2人の女性を殺害したとした桜庭障司79歳の訴えを退けた地裁判決だった。
「男は長期の服役による身体の不調を訴え、『生きていても仕方がない』などと主張していたが、近藤幸康裁判長は『自死権が認められる憲法・法律上の根拠はない。身体状態や刑務所の処遇状況にかかわらず自死権の根拠はなく、請求は前提を欠く』と指摘した」(『河北新報』08年2月16日)
 いわゆる門前払いの判決である。法理論から考えれば当然だろう。しかし1988年3月には、3メートルの金網をよじ登り拘置所の5階屋上から飛び自殺を図った原告にとって、この判決は数奇な運命をたどった男の最後の希望を打ち砕いたような気がしてならない。
 彼の犯した殺人容疑に対する裁判で、「被告は現在も医師の殺害を願っており、矯正は到底不可能」と検察は死刑を求刑した。ところが地裁判決は「極刑を科すには一抹の躊躇を感じる」、高裁では「死刑をもって臨むことはためらいを禁じ得ない」、最高裁でも「(被告が)割り切れない気持ちを募らせたことには理解できる面もある」と、被告への同情を示し無期懲役とした。こうした裁判所の「配慮」が、さらに桜庭を追いつめているのだから皮肉である。

 1979年9月26日午後5時過ぎ、桜庭はデパート配達員を装い、円形の帽子を入れる段ボール箱を持って藤井擔(きよし)医師の家を訪ねた。対応に出た藤井氏の妻の母・深川タダ子さんを隙を見て押さえつけ、手足を手錠かけ、目と口をガムテープでふさいだ。それからしばらくして買い物から帰宅した妻の藤井道子さんも同じように縛りあげた。通常なら午後6時には帰ってくるはずの擔さんを殺害するためである。
 しかし、たまたま同僚医師の送別会に参加していた藤井医師は夜8時を過ぎても帰宅しなかった。このまま藤井医師が帰らず、縛り上げた2人を解放すれば藤井医師に近づくチャンスはなくなる。それを恐れた桜庭は2人の首と胸を刃渡り8センチのナイフで切りつけて殺し、物取りに見せかけるため、約46万円が入っていた藤井氏の給与と約35万円の残高があった妻名義の預金通帳を持って逃走したのである。
 しかしてんかんの発作を抑えるために大量に睡眠薬を服用していた桜庭は、かなりもうろうとしていたのだろう。藤井宅を出て2時間後には池袋駅の改札前で段ボールから手錠を落として職務質問を受け、そのまま西口交番まで連行。給与袋や血の付いたナイフなどが発見され、銃刀法違反の容疑で逮捕となった。
 結局、藤井医師が帰宅したのは午前4時近くであり、それから警察に通報していることを考えると、遺体発見前に容疑者が逮捕されていたことなる。

 わざわざ待ち伏せして殺す。そのために家族の口までふさぐ。そこまで桜庭の憎悪を募らせた原因が、藤井医師が事件の15年前に実施したロボトミー手術だった。そして手術の発端となったのは、なんと兄妹げんかなのだ。
 64年3月、母親のことで妹夫婦ともめ、激高した桜庭は茶ダンスや人形ケースなどを壊して暴れた。その様子に恐怖した妹の夫が警察に通報。当時35歳だった桜庭は器物破損の現行犯で逮捕されたのである。
 民事事件には原則として介入しない警察が逮捕したのだから、かなり暴れていたのだろう。しかし事件の翌日妹夫婦が告訴を取り下げたのにもかかわらず、警察は彼を釈放しなかった。それどころか1週間後に精神鑑定を行い、「精神病質」との鑑定を受けて精神病院に強制入院させたのである。こうした警察の行動に、彼の前科が関係したことは間違いない。過去に2度ほど逮捕されていたからだ。ただし、その2件が劣悪な犯行だったのかは疑問だ。

 最初の逮捕は57年。暴行、恐喝容疑だった。当時、土木工として道路工事に携わっていた桜庭は、飯場で出稼ぎ労働者をいじめている男をいさめた。気の荒い連中の多かった飯場でのこと、たちまち殴り合いとなった。しかし19歳のとき社会人ボクシング大会で優勝した実績もある桜庭が負けるはずもない。簡単にノックアウトしたのである。
 それからしばらくして桜庭は路肩の手抜き工事を発見する。正義感の強い彼は班長に抗議する。ところが班長は取り合わず、お前はクビだと脅した。これに腹を立てた桜庭は社長に直談判をする。それを受けた社長は桜庭にしこたま酒を飲ませ、5万円を握らせて同意の上で解雇した。大卒銀行員の初任給が1万3000円に満たない時代であった。かなりの金額ではある。しかし気の荒い連中を使うことになれていた社長が、事をうまく収めたとみることもできるだろう。
 この事件から2ヵ月後、桜庭は逮捕される。訴えたのは彼がノックアウトした土木工だった。この件で事情聴取された社長が金を渡したと自供し、暴行に恐喝が加わることとなった。ただ初犯ということもあり、判決は執行猶予がついた。
 次の逮捕は翌年8月。ダム工事の土木工をしていた彼は賃金不払いと不当解雇に怒り、社長に直談判した。これが恐喝にあたるとして逮捕だった。1年8ヵ月もの間、長野刑務所に収監されることになったのである。

 こうした前科も影響し、強制入院として送り込まれた先が桜ヶ丘保養院だった。そこで医師をしたいたのが、後に妻を義理の母を殺されることになる藤井医師である。脳の一部を切り取るなどして精神障害を「治療」するロボトミー手術の1つチングレクトミーが、彼の専門だった。
 爆発的な激情を抑え社会適応させるための手術として、藤井氏はこの手術を高く評価していたようだ。一方、桜庭はこの手術をかなり恐れていた。病棟で出会った若い女性がこの手術の1ヵ月後に首つり自殺をしていたからだ。手術をどうしても回避したいと考えた桜庭は藤井氏に懇願するとともに、母親にも手術の承諾書に絶対にサインしないよう手紙で頼んでいた。
 ところが藤井氏は肝臓の検査と偽って桜庭氏を手術台にあげ、ロボトミー手術を強行した。母親を病院に呼び出して熱心に説得してまで実施した手術だった。

 ここで問題になるのは、この治療に効果があるとしても桜庭に必要だったのかという問題である。
 当時、彼は売れっ子スポーツライターと活躍していた。独学で勉強し米軍の諜報機関OSIにもスカウトされた英語力、ボクサーとしての経験、作家を夢見て磨いてきた文章力。どれもがライターとしてプラスに働いていた。
 この事件を含め、ロボトミー手術にまつわる事件をルポした『ロボトミー殺人事件』(佐藤友之 著 エポック・メーカー)には、「いま評論家と呼ばれている人たちは、すべて桜庭さんの亜流みたいなものです。当時、海外の情報をきちんと紹介できる人は、他にいませんでした」という担当編集者の声が掲載されている。
 実際そうだったのだろう。当時のサラリーマンの月収の3~4倍を稼ぎ、資料の整理に2人のアルバイトを雇っていたのだから。そのうえ強制入院させられても、彼は病院で原稿を書き続けていた。編集者から厚い信頼を得ていた証拠だろう。
 鬼山豊のペンネームで書かれた原稿は今読んでも古びた感じがしない。海外の報道で取り上げられた事実を織り込み、きちんと人の心を描いている。例えばベースボール・マガジン社発行の『月刊プロレス&ボクシング』では海外レスラーの人生を小説風に仕立てた読み切りの連載が続いていたが、第二次世界大戦中を述懐するプロレスラー、ブルーノ・サンマルチノに、桜庭は次のように語らせている。
「すべては破壊の中にあった。ものも人々の心も伝統も道徳も、一切が破壊と混乱の中にあった。私は多くの仲間たちのように不健康な遊びにおちいらぬため、なにかスポーツをやる決心をしたが、貧しい労働者の私に許されるスポーツといえば、重量挙げしかなかった。それなら、いつでも自分の都合のいいときに好きなだけやれるし金もかからない。はじめはあまり楽しくもなかったが、やがて、私はこのスポーツは肉体を強くする以上に心を美しく強くすることを知った」(『月刊プロレス&ボクシング』64年8月号)
 このセリフは桜庭の人生とオーバーラップする。
 東京高等工学院付属工科学校に進学したものの貧困により退学して働くしかなかったこと。それでも「禁欲昇華」を目指してボクシングやボディービルで体を鍛えていたこと。

 この原稿は、ロボトミー手術による連載中断のわずか4号前、閉じこめられた桜ヶ丘保養院で書かれたものだった。(つづく)

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