玉ノ井バラバラ事件の現場を歩く
海軍青年将校らが犬養毅総理を殺害した五・一五事件が起きた1932年の3月、人々を震撼させる事件が起きる。「バラバラ殺人」というフレーズが初めて使われた玉ノ井バラバラ事件である。
まだ春も浅い3月7日、玉ノ井(現在の東向島5丁目)の通称「お歯黒ドブ」から、ハトロン紙にくるまれた生首と胴体が見つかった。今やほとんど見かけなくなったが、石けんや古い本のカバーとして使われていたのがハトロン紙である。その薄紙に腐乱した生首が包まれていたのだから見つけたペンキ職人も驚いたことだろう。
当時では珍しい死体切断事件にメディアは熱狂。人気ミステリー作家だった江戸川乱歩に犯人像を推理させていたりもした。この報道合戦のなか東京朝日新聞が生み出したキャッチコピーが先述の「バラバラ殺人」だったのだ。
しかし事件は暗礁に乗り上げる。被害者の身元がわれなかったからである。しまいには腐乱した顔写真を警察が死体発見現場近辺に貼り付け情報を呼びかけるまでになったが、近隣住民を気味悪がらせるだけに終わった。
結局、犯人が逮捕されたのは事件から8ヵ月ほどへた10月末。被害者は秋田県出身の千葉龍太郎。殺される1年ほど前、こじきとして10歳くらいの娘とともに浅草の道端に立っていたとき、彼にたばこやバナナを恵んだのが加害者の長谷川一太郎だった。
一太郎は春画販売を稼業としていたがほとんど収入がなく、同居していた妹・とみは妊娠後に男から捨てられる苦境にあり、62歳の母にも職はなく、一家の生活を支えていたのは帝国大学理学部土木課で印刷工をしていた弟の長太郎だった。この貧しい一家を被害者の千葉龍太郎は言葉巧みにだます。「故郷には莫大な財産がある」とウソをつき長谷川家に入り込んだのだ。一方の長谷川一家も合法的に財産を分捕り、なおかつ妹・とみが未婚の母になるのを防ぐために千葉ととみを結婚させた。
しかし千葉はいつまでもたっても金をもってこないし、働きもしなかった。ついに業を煮やした長谷川一家がお土産持たせて秋田に財産分与の旅に出すが、千葉は手ぶらで帰ってくる始末。そのうえ血のつながらないとみの乳飲み子を虐待死させてしまう。
そして2月、とみと激しく口論していた千葉を一太郎はスパナで殴り倒し、弟・長太郎と協力して絞殺した。後日、台所に下に隠していた死体を母に知られないように分解し、首などを一太郎ととみで玉ノ井まで捨てに行き、腕などを長太郎の職場である帝大内に廃棄したという。
ほとんどのバラバラ殺人がそうであるように、この事件の死体切断も猟奇的な理由によるものではなかった。被害者の手足にやけどなどの跡があり身元が判明するのを恐れたことと、運搬に便利だったことが大きな理由だったらしい。
結局、玉ノ井は遺体の廃棄場所でしかなかったわけだが、この地が選ばれたのにもそれなりの理由があった。当時、ここは私娼窟として賑わい、「お歯黒ドブ」にいたっては望まれぬ嬰児を売春婦たちがこっそり捨てることもあったというドブ川だった。当時は雨が降れば、すぐに水があふれ出したとも伝えられる。
この事件の4年後、永井荷風によって書かれた玉ノ井が舞台の『濹東綺譚』にも、雨上がりに「アラアラ大変だ。きいちゃん鰌(どじょう)が泳いでいるよ」と住民が声をあげるシーンが描かれている。
荷風が玉ノ井に通って書き上げたとされるこの小説の風情を現場で味わいつつ、バラバラ事件の話を住民に聞こうと東武伊勢崎線に乗り東向島に降り立った。しかし改札を出てすぐ目の前に迫るのは赤い看板のマクドナルド。気を取り直して線路づたいに北に歩き、いろは通りに出た。道の両側どちらも玉ノ井と呼ばれていたが、西側が戦後の赤線地帯、東側が戦前の私娼窟だったという。
まずは死体発見現場であるお歯黒ドブにたどり着かねばならない。白髪の商店主などに話しかけたが、「どこだっけ?」と首をひねられてしまった。やっと正確な位置を把握できたのは、荷風がラビラント(迷路)と呼んだくねくねと曲がりくねった路に迷い込んで20分もしたころだろうか。
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コメント
駅名変更時の読売新聞の報道を覚えています。新住民の方が「玉ノ井」では子供たちに説明できない。変えて欲しいという要望が多数あったというものです。これに対して寝耳の水の町会、商店主らは東武電鉄に変えるなと抗議したとありました。ところが抗議した側がサラリーマン(東武電鉄の)を虐めてもしょうがない、どうせ決めたのは上層部だろうし、ということであっさり折れてしまった。新聞の内容はこんな感じでしたが、新住民でなくてもできれば変えて欲しいという人はいたと思います。実際の所は東武電鉄こそが駅名を変えたかったのではないでしょうか。東向島駅には東武博物館も併設してあるのでイメージチェンジをしたかった。
投稿: 櫻井 | 2008年5月26日 (月) 17時48分
貴重な情報ありがとうございました。なるほど町会・商店主の反対があったのですね。それで駅名に(玉ノ井)とあったりするんですね。東武がイメチェンを望んだという話も、さもありなんという感じです。また、調べてみます!
投稿: 大畑太郎 | 2008年5月26日 (月) 20時34分