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2008年4月14日 (月)

日本をダメにする言葉

●切り替える
スポーツの大会などで負けるたびにアナウンサーや解説者が呼号する。06年ドイツW杯では終了間際にオーストラリアに逆転負け。なのに終えた瞬間から「まだ次がある」「次に切り替えろ」。続くクロアチア戦で引き分けて最後の相手であるブラジルに勝つしか決勝トーナメントへの道が事実上閉ざされたにもかかわらず「奇跡を信じろ」「切り替えろ」。奇跡は起きないから奇跡である。案の定ブラジルには大差負け。やっと「切り替える」が出てこなくなったかと思いきや「次の南ア大会に向け切り替えろ」だって!その南ア大会アジア3次予選でバーレーンに負けたらまたまたまた「切り替えろ」。
切り替えてはいけないのである。というか切り替えてさえいないから負けるのである。「負けたことをとやかく言っても仕方ない」との大声でかき消されるけど敗因の分析と敗北を叱咤する声こそが戦うチームを強くする。ねちねちと敗因を追及し、戦犯は放逐し、必要な人材を招き入れるのが必要だ。ずっと気持ちだけ切り替えていては永遠に栄光はやってこない
●夢
寝るときに見る現象。起きたらたいていは記憶から消えてしまう。ここから比喩的に将来の目標や獲得すべきポジションをかなえる時に使われる。だったら文字通り「目標」「ほしい地位」とすればいいのに「夢」とあいまいにする。このすり替えは「目標をあいまいにする」にほかならない。それがいかに目標達成に障害となるかは各組織論で大声にてとなえられている。
読売球団の上原浩治選手が大リーグ行きを「夢とはとらえていない。目標なので」と発言したは以上の意味で立派だ。「夢」だと原義では「かなわない」が続かねばならない。なのにちまたでは「夢はかなう」などという言語矛盾が満ちあふれている。先の「奇跡」と同様だ。できもしないあいまいなスローガンを若年者に強要したら鬱へ導くのみである。「夢のレベルではかなわない。目標は何だ。具体的に言え」と迫る大人が少なすぎる。それ以前に大人が漠たる「夢」で生きている
●面白い(ないしは「ウケる~」)※正しくは「有卦」?
「笑える」「親しみやすい」というニュアンスで使われる場合が問題。この言葉は「そのニュースは面白い」といった用法もあるのに、こちらの方はどんどん駆逐されて「笑えればいい」の風潮が爆発的に増えている。といって『閑吟集』の有名な「一期は夢よ ただ狂え」(ちなみに「夢」とは正しくはこう使うべきだ)との覚悟もない。東知事や橋下知事を生み出した背景にある。
漱石の『猫』のユーモア表現にニコリともしない若者がいる。「ここはこういう理由で笑うポイントだ」と「説明しなければわからない。そうした彼ら彼女らは教師が壇上で苦しげにせきをしたり、むせ込んだり、転んだり、手に持っていたプリント類を誤ってぶちまけてしまった時に爆笑する。以前ならばシーンとなるケースでだ。むろん若者だけではない。やむを得ない失敗を爆笑する大人社会は至る所である。「笑っている場合ではない」「面白いではすまない」という文化はどこへ行ったのか。かつては東京人の決まり文句だったのに
●国民不在
古舘伊知郎氏の決めせりふ。「国民不在の国会」など。国会議員は国民の選挙で選ばれる。したがって「国民不在の国会」などあり得ないのだ。国民が切実に求めている懸案の解決に国会議員が興味を示さずほったらかしという状況をもってそういうならば国民の選択がいかにいい加減で自業自得に陥っているかをメディアが知らせなければならない
●オーラ
そんなものはない。ないものをあるとするはオカルトである。オカルトを信じた行動の大半は失敗に帰する。仏像には確かに光背がある。あれはオーラなるものの親戚であろうが仏様だからあるのである。
●精神力
同じくそんなものはない。真剣ににらんでも小石一つ動かせないし、不惜身命の境地にあっても結跏趺坐ではサッカーに勝てない。ビジネスでもそうだ。契約が取れないのは精神力が弱いのではなくトークなどに問題があるからだし、営業成績があがらないのは単に生産性が低いだけである。「心技体」とは何だ。技と体は絶対必要だけど「心」は? 「心」って何だ?
「前へ向かっていく精神力(ないしは「心」)が足りない」という現象はたいてい技と体で相手に圧倒されているからである。
●一丸となる
室町時代の「一味同心」あたりと同じことを訴えた言葉なのかね。組織に「一丸となる」などあり得ない。少数のリーダーが高い生産性を示し、ほぼ同数の落ちこぼれが何とかかんとか最後尾でついていき、大多数の中間層がそこそこ働けば御の字である。なるほど成功した組織は一丸となったように見えよう。でも内実は成功体験から美化しているだけ
●元気をもらった
何だそれは。元気とやらの物質が存在して両の手のひらで受け取ったとでもいうのか。「感動をありがとう」も親戚。(編集長)

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心と体」カテゴリの記事

コメント

言い捨て逃げるようで申し訳ないですが、「ダメにする」と挙げられた言葉の必要性を実感している立場としては、あなたが何を悟って「ダメにする」と挙げたのかがわかりませんです。

投稿: 通りすがり | 2008年4月14日 (月) 12時41分

批判が欲しくて書いているのか、虫の居所が悪いのか分かりませんが、一言だけ。

あなたが書かれている内容を他者に伝えることの意味とは何でしょうか。

投稿: 50 | 2008年4月14日 (月) 14時11分

ほぼ同意です。
>50
あんた、馬鹿?

投稿: yama | 2008年4月14日 (月) 17時20分

確かにダメにする言葉は多々散らばっているかもしれません。
こちらの語りを読んでいて思ったのは「ダメにする言葉」ではなく、
それは「使い方」「捉え方」なんじゃないかな?と素朴に思いました。
そんなん思う自分も「言葉の使い方」なっちゃいないんですが…。

投稿: ぶんぶん | 2008年4月14日 (月) 17時24分

批判されたくて書いているのかもしれませんが、ものすごく主観的で説得力のない記事ですね。

日本がダメになるまえに、あなた方がとっくにダメダメな編集部なんじゃあないですか?編集長さん。

投稿: 月刊「㌔ク」編集部 | 2008年4月14日 (月) 20時27分

一つの言葉にも沢山の解釈が存在します。言葉を扱うことを生業としておられるなら良くご存知ではないでしょうか。例えば百人の人が「夢」と口にする時、そこには百通りの「夢」があるのです。発音と文字は同じでも。
また、言葉の使い間違いなど、大した問題ではありません。間違いの方が時を経て正しくなることはいくらでもあるのですから。
本当に大切なのは、心を知ろうとすることではないでしょうか。言葉はその行為の手助けをするものに過ぎないと私は思うのです。

投稿: すな付近 | 2008年4月14日 (月) 22時24分

コメントを書く気にもなれない記事を綴るのが当ブログの目標だったのに6人も付けてくださってありがとうございます。賛否どちらでも感謝します。読んで下さった上に感想までいただけるのは意外とうれしいものと実感しました

投稿: 月刊「記録」編集長 | 2008年4月14日 (月) 23時42分

編集長さんは黒服に徹して、しかも(おそらく)身銭を切って商売をなすっているんでしょうから、素人が私見を述べるのはまず、というところがあります。ただ、こと文才に関しては巷間でご高名の通り、故・青木雄二にも劣らぬ国宝級の輝きで、決して素人がいじっていいものではない。少なくとも、おこがましいと思わされます。

そのうえで、かの奇行女史ニーナ・シモンをよりポップにしたストラングラーズの名曲「ノーモアヒーロー」が端的に、月刊・記録の光点だと思っています。つまり、英雄は俺一人でたくさんだッていう野茂英雄ばりの大衆性が。

以下は私見ですが、表現というのは歪みであり、意見というのはだから手垢にまみれた素材を扱うものだ。ただ、まとまりすぎな、もっと言えばまとめようまとめようという意志が感じられて(それでも面白かったですが……)。

文芸と文学は、ハッキリちがうと思います。坂口安吾が文学たりえたのは、スポーツ万能の体躯を持っていただけではなく、ロシアの血をひく異邦人であったことに在るわけですし、全盛期たけしがツービート時代「開同ネタだけはやれなかった」、かの三上寛も「人種差別は芸術の領分になる」とエクスキューズの防戦一方になっていましたけれど、野間宏「真空地帯」というのはフィクションにして楽々「同和と在日」をオシャレに過不足なく描ききっている。

これは批判ではなく、現代性という点で編集長さんの資質に不足があるのではないか……。

車谷長吉はこう著している。サッカーサッカーと煩くて、
「日本が負けた時、私はざまァみやがれッと思うた」
 否これでも十分過ぎる表現で、というところが在りました。

それにこういう世の中だからこそ、精神論は押すのが大切で、司馬遼太郎が描ききれなかったのが「非合理」で、その点石原都知事はでかい事を言った後に目をパチクリさせてしまう愛嬌をもって徹底的に「戸塚ヨットスクール」を応援している。

オーラは有る。
精神力が全てである。
しつッこさと言ってもいい。
濁点一音は梶原一騎「タイガーマスク」に「あしたのジョー」の世界である。もっともっとオカルトの、荒唐無稽の世界たれッ、ここのところそういう時代に今はあるのではないか。実際斯界では、身長150センチ台40何キロの男が、それこそ185センチ100キロ超の相撲取りくずれを舎弟にしてしまう。逆に体躯に勝った男が、首魁になる例の方がレアという厳然たる事実はさておいても。漱石も、然り。英国階級社会のアナーキズムは日本の学歴社会と照らし合わせてみたのがそもそもの失敗で、生まれは絶対というところからユーモアは産まれてくる。英語に関しては当時日本筆頭の人(推論ですが東大推薦ナンバー1で渡英できたひと)なので、だからこそウイット止まりで、だったら己の病みを真摯にぶっつける以外になかったという。ユーモアというのは絶望下における勇気一点を指す、非常にジャーナリスティックな言葉であって漱石をもってユーモアを不用意に使うのは不適当だと思います。というのも井伏や深沢の系譜の方が、これまで拝読させていただいてきた編集長さんの文体、資質に近い気がするのです。プロの世界は打率2割以上が一流とされる線ですが、あれっと思った由(プロに忙しさうんぬんは冗談としてうたう以外に言及できない事柄でしょうから)。とまれ一般論として、運動の本質は殺戮であり、喧嘩の実存は気迫です。もしも石原の向こうを張った愛嬌が、かの野村秋介に在ったとすれば、徹底的な自己顕示欲、すなわち「なんとかナニガシここに在り!」という切実な、可憐そのものの感情にあったのではと、編集長さんの再読させていただいて改めてそう思った次第です。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月15日 (火) 02時34分

大衆性では女性自身が図抜けていて、新入社員(男性)に銀座で千人ナンパしてこいというのが新人研修とか。これは女性慣れする、異性を路上のゴミ同然に扱う感性を身につけるのが目的ではなく、まずはダメになる。己はゴミ以下の存在であると頭ではなく体に叩き込ませるのが一義なのだと思います。大企業というのは社史のどこかで確実に成り上がったに決まっており、零細にこそ輝きがというのは陳腐な世迷い言でしょうけれども、少なくともダメなところ以外からは人の心を打つ記事は産まれないでしょう。或いは徹底的にダメ、というのが資質といえそうです。いや何が言いたいのか申しますと、宮崎さんが最近お書きになりないのはと。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月15日 (火) 02時52分

あと編集長さんの玉稿と並び、一貫して大畑さんの記事、特に「グルメ関連」を、たのしみにしています(期せずして、というか明らかに期しているのでしょうけれど、こと食い物になると俄然、独特の孤独感が微妙に出てきて、何とも緊張感にあふれていますね)。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月15日 (火) 03時01分

ジャーナリストにとって本当に大切なのは言葉だと信じています。決して、心などではない。ヒッキーは「言葉ではない、ソウルで唱う、家族をも超えるのだ」と言っていますし、全盛期矢沢も「美空ひばりさんの言う通り心の汗をかくことこそがロック」とこう、巷間ではまかり通っておりますが、圭子は「金のために唱う」、ひばり「心で唱うなんざトウシロウだ。プロなら歌唱力一本でうたえ。私は観客全員をことごとく大根だと思っている」。同様に、仮にも文で飯を食ってる人間ならば、一字一句は無論のこと、一点一丸譲れない。心を写すツールが言葉ではない。まるっきり、逆です。矜持ではなく事実として、言葉こそが人の心を創るのです。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月15日 (火) 03時14分

文芸と文学の違いは防腐剤の効かせかたにあるような気がします。漱石の山の手言葉は流行語となって今でも下町に息づいておりますが、ヒンシュクは買っても言葉の間違いばかりは絶対にしなかった。漢字はひらき、抽象の概念は削り、さらに尚お手伝いさんにも読ませて、つまり時間と労力をかけて、徹底的にわかりやすくした。言葉は思惟といってもいい、間違いがあってもいいというような意思、意志がある以上、論外以外に落ち着かない気がします(糸井重里のような傑物はおいといて、ですが……)。たとえば「夢」は抽象以外の何物でもありませんけれど、もともと言葉は抽象であり、万人に通ずるものです。抽象のツールを使って具象をイメージさせてゆくものでしょう。まさにおっしゃる通り「百人が百人とも」という体たらくに陥ってしまっている。根元的な間違いは、その誰でも説明できる空虚な「夢」を、実感として、誰にもマネさせない、つまり発酵させることなく安直にお使いになってしまったのかな、そう感じさせられる点にあるのかなと、私もそう思うのです。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月15日 (火) 03時37分

「言葉は心より大切」「言葉が心を作る」というのは率直に申し上げて初耳です。心と言葉、どちらが先に存在するかを考えれば直ぐにお分かりになることであると思うのですが、これは驚きました。
心を映すツールでないとしたら、言葉とは一体何なのでしょうか。心によって意味を込められぬ言葉など、ただの音であり、
心によって意味を込められぬ文章など、ただの記号の羅列に過ぎないでしょう。
そもそも、後者のような文章など、私は見たことがありませんけれども。

「全ての言葉は心の前に敗北する」という事実を認めることこそがジャーナリストのスタートラインであると、私は考えます。
それを知り認めなければ、一部の知識人にしか理解できないような自己満足で盲目的な言葉しか紡ぎだすことは出来ないでしょう。
それがジャーナリストの誇りというものであるとするならば、それもまた良いですが、しかし、神に挑むに似た行為であると知りながらも、言葉の意図する真を万人が理解出来うるようなかたちとして、あくまで正しい表現の中で伝えるよう心砕くことこそがジャーナリストをジャーナリストたらしめる重要な行為であり、また同時に命題でもある。私はそう思います。
それを放棄してしまったかのように、一般人の百人百様を「体たらく」と見下すことは傲慢以外の何者でもありません。そういった考えを持った方は、多くの人に物事を伝えるような仕事には残念ながら向いていないと言わざるを得ないでしょう。
高みから降り手を差し伸べることが、真の知者の取るべき道ではないでしょうか。
それがたとえ茨の道であったとしても。

投稿: すな付近 | 2008年4月15日 (火) 11時01分

直前の方、「心と言葉、どちらが先に存在するかを考えれば直ぐにお分かりになる」とおっしゃってますが、どっちが先なのか、私には分からないのでぜひ真の知者として教えて頂きたいところです。

以上、ごめんなさい通りすがりの者です。

投稿: 通りすがってみました | 2008年4月15日 (火) 14時07分

すな付近さんの御文はハッタリや衒いのない、真摯さにあふれた、だから率直に好感を持ちました。そのうえで、あれっと思ったことを権威や比喩をもって、つまり自信がないぶん虎の威を借りて(その方がよりコミュニケートできるのではと考えて)、しかし真摯に述べたいと思います。

寡聞にして、おそらく最も成功したジャーナリストというのがサルトルで、文章を生業としているひとならば共通言語といってもいい「実存は本質にさきだつ」をひいたつもりだったのですが、これは史上最大のベストセラーである聖書の「はじめに言葉ありき」の徹底批判であったわけですけれども、哲学は文学以上に先達の否定から成り立っているジャーナリズムの本質であるわけですから、ストーンズもビートルズも要らないとなるのは当たり前の話です。要するにサルトルのはまだまだ体制であったキリスト教以前のギリシャ哲学である「はじめにロゴスあり」(日本語の「言葉」というのはロゴスの訳語から派生したものですが、ロゴスは「論理」と訳すべきだと思っています)を批判してのしあがったのは第二次世界大戦のあだ花サルトルではなく、ソシュールであって「言葉は、単なる記号である。記号とは恣意性である。従って神性は恣意の本質である」と、無神論でブレイクしたのはこちらの方がオリジナルですが、サルトルはおそらくもっと大ブレークさせるべく「言葉より実存がさきだつ」すなわち「恣意よりも己の主体が大切だ」と主張しまた文学やジャーナリズムを介して社会参画もしたわけですけれども、端的にこうでしょう。思うがまま世間をあッといわせたサルトル実存主義は、「もし俺という俺自身の心がなければ神も言葉も論理もない、今目の前に厳然として在るように見える聖書も無い」と胸のすくような断定をしたわけですけれども、15年後ソシュールチルドレンのストロースから徹底批判されて、いわゆるサルトル=ストロース論争はサルトルの実存野郎宣言が葬られたというのが私見ではなく今や定説といっていいかと思います。ストロースいわく「ひとの心には生来、時代、血脈にさえぎられた制限がある(圭子の子供は、ヒッキーといったところでしょうか)」。ソシュール以前の、個人の心によって言葉を超えるという定説を生物学や数学やら(まったく理解できないのですが)をもって、構造の観点からサルトルのを「それは独善的にして傲慢だ。現にサルトル先生がお亡くなりになってもコップどころか宇宙も在る」と。

上のを前提にして、もしも心を映すツールでないとしたならば、言霊(ことだま)であると私は考えています。宗教の本質は、反復です。或いは反復という技術こそが宗教です。性行為すなわちエロスを何かで具現化したのが言葉です。言葉が、記号に過ぎないのはわかりきった話です。もともと漢字は具象をひもといた記号、そのものなのですから。そのうえで言霊、もののけ、といったものになるキーはやっぱり反復なのではないでしょうか。かの親鸞の師匠である法然が「意味はわからなくてもいい。なむあみだぶつとさえ繰り返し繰り返しとなえておけばひとの心は救われる」とした反復の快楽、もっといえば、反復による酸素呼吸過多をなだめる失神こそ言葉の機能なのだと思います。個人の心を主体とする考え方は衒いとハッタリをおさえてなお、戦争後の虚無感から受け入れられた、やはりそれこそが時代にどっぷり浸かったものとするのが自然に思われます。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月16日 (水) 01時54分

すな付近さん流に言えば、ジャーナリストの本懐は「ひとの心は言葉の前に敗北する」というのが衒いなく偽らざるところです。換言すれば、ひとの心をうたうならばもとより己の心などはゴミに過ぎない、といった謙虚さからスタートするものでしょう。
逆に私は大宅壮一といった時代を超えて残る一流のジャーナリストが著した文章で、心によって意味が込められたものなど一文たりとも目にしたことがありません。

以下は体験ですが、ジャーナリストの文体は徹底した硬質が求められます。無私の文章といったらいいのでしょうか。文を書く以上、主体が当然出てくるのはあたりまえの話ですが、極力主観を抑える。具体的には形容詞、形容動詞を削る、黒子に徹する、文芸のハードボイルドとはちがう意味合いですが、心ではなく言葉という抽象を主体にもっていく。乾いた、簡素な、心のない文章。なぜ心が言葉に先だってはいけないのかといえば、経済に縛られているからです。どんなに良心的かつアウトローにして尖鋭な零細企業であっても、やはり金に文章が縛られてしまう。新聞社に入ってまず叩き込まれるという一条「心でうたうな!」とはどういうことか。凡人が心でうたっては、多くのひとに響かない、営業利益があがらないからです。これはむしろ人間賛歌であって、多くの伝統芸能がそうであるようにまずはじめに「カタにハメる」即ち個性をつぶす、この個性やら独自の感性やらがくせ者で、私は百人に独りしか個性が無いとおもっています。私のような凡夫が個性を口にするのは噴飯ものの話であって、そこが記者の客観性、ジャーナリズムの良心につながるのではと感じています。

言葉が記号であることはまちがいないけれど、安西冬衛「てふてふが1匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」のてふてふが蝶々であっては全く意味がつたわらない。ひらがな表記の「てふてふ」も漢字と同様記号ではあるけれども「渡っていく感」が蝶々ではかんじられない。これは主観に過ぎませんが、日本語のひらがなという恣意性によるものが大きいはずです(論証できない直観ですが)。

ただし、ジャーナリストが使おうとするツールは上記の抒情詩ではなく、徹底的に散文です。散文とはなにか。無個性でのしあがった、小説を筆頭とする19世紀以降の、文学というジャンルの中の人気種目です。私小説はもっぱら作者自身の心を嘘を使って描くものとされていますけれども、その心一辺倒のジャンルでさえ言葉が心にさきだちます。決して言葉は心を写すツールではない。吉行淳之介が「己の心を表現するに当たっては、けっきょく無私の距離感しか無いとおもうに至った」遠藤周作が「はじめに言葉ありきの含蓄をトンチンカンにわかったような気にさせられたのが小説を書き始めた動機である」川端康成のほうがもっと端的で「末期の眼」、ものをかくひとにとって大事なのは「死人の目で眺めることである」と。一般人の百人百様を是とするのは、文芸でしょう。政治の世界である。99人をうすく喜ばせるのが政治の命題でしょう。文学は、そもそもの機能からして逆です。99人を不快な気持ちにさせることで、たった一人に法悦を味わわせる。即ち編集長さんの、もっぱら天賦の才の文章は、どっちらけという平成の時代で俄然光輝を放っていますし、事実さまざまなメディアから刮目されているというのも事実です。

なぜ、ジャーナリズムの世界においては、心が言葉にさきだたないのか? これは簡単な話で、心をのっけると腐りやすくなるからです。心には顕示欲に自己愛が過分なほどに混ざってくる。形容詞をきらびやかに使った三島や、右翼の檄文まがいの太宰の例外は、極力排さなければいけない。より客観的に、もっともっと多くのひとに伝わるように。かみくだいて言えば、燃えに燃えた心を完全燃焼でのっけったラブレターほど、逆に他人にはつたわらないでしょう。カラオケでオーティスばりに膝を折って苦しげに「マイウェイ」もっと端的にポスト実存主義は「アイム・アンチ・クライスト!」などと絶叫する素人も然り。いいからマイクを放せという話です(ただ酔っぱらってのカラオケは宗教的な快楽が在るのは否めないにしてもです)。だからこそ、美空ひばりは「心でうたうなッ」と一般人にではなく、後世の、徹底的に売れたいというモノマニー(偏執性)を抱える歌手に向けて、真摯にして謙虚な置きみやげを残していったのではないかとおもいます。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月16日 (水) 02時05分

編集長さん率いる稀有のノンポリ硬派雑誌のゆえんを今、つらつらかんがえていたのですが、ポストポスト構造主義をオシャレにやってみようというところではと勝手に一方的に邪推しています。すなわち、生命と物との差異はなにか? 「記憶」というのが現代の定説ですけれど「血脈」のアナクロニズムよりよっぽど、記憶にはポスト感がかんじられる。雑誌のタイトルは雑誌内本文の象徴で、月刊記録というのはすっとぼけた艶を直截におぼえさせられます。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月16日 (水) 02時16分

ちょっと誤解のないように、月刊記録というのは河原乞食と同義語で、徹底的に弱者の視点からみたものであるでしょう、というよりは株屋、芸人、えたひにんの位置に堂々立つスタンスで、作家先生(これ自体が矛盾しているのですが)の啓蒙とは対極の、怒りを込めて密やかに振り返る、馬鹿者の馬鹿まるだしの(これこそ技術の賜です)、無名の、しかし個性的な執筆陣による、そういった婉曲な表現方法で在りつづけてほしい、一愛読者としてそう心から願ってやみません。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月16日 (水) 02時25分

ちなみに私は元社会部記者(ライバル会社ながら編集長さんのご高名は新人研修時代から繰り返し聞かされていました)、記者は挫折して現在職業小説家ですが、ここのところ日々、仕事がちっともうまくいかなくて(すな付近さんご教示の通り、多くのひとになんでつたわらないのかと、電車男はプロの作品ですが、ああいう具合に売りたいのに、という心が少なからずあって、読者からすればきっと一目瞭然なんでしょうね、具体的に二度返品があるとヒラ積みされない、従って目立たない、さらにペンネームを変えない限りというお粗末さで)、他人には全く興味がもてない悶々としたものを安直に、ストレス解消そのままに吐き出させていただいたことをこの場をもってお詫びします(しかも月刊記録は必ずや歴史に燦然と残り続けると確信したうえでの計算高さというか下品さそのままで……)。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月16日 (水) 02時38分

編集長さんのご高名は新人研修時代から繰り返し聞かされていました……って本当ですか。ちらほらと似たうわさは聞いていましたけど都市伝説(それも実に小さな)と信じていませんでした。誰が言いふらしているのでしょうか?なるべく潜んでいるつもりなのに

投稿: 月刊「記録」編集長 | 2008年4月16日 (水) 17時47分

もっぱら、ゴールデン街は内藤先生だったのではないでしょうか(田中コミマサの妖しい文章も今や伝説かもですが、刺激的なタレントが案外ひとづてに残るのは実感として信じられるのですが。上記に関しては、都市伝説ではなくハッキリ事実です)。若き日のナベツネも井上靖の再来とうたわれたタレントであったの何だのと、先輩から聞いたことがあるのです。新人研修時代というのは暗喩ですけれど、おそらく私は、月刊「記録」編集長さん(記録がかっこ付きではなくスミマセン)と前後2年以内の入社であることはまちがいありません。編集長さんの「記録」は心より応援させていただいておりますし、白川静先生も編集長さんのことを陰ながらと(私のように感動をそのままダダ漏らしてしまうのではなく……)そうおっしゃっていました。経営の才となると読売の首魁にはいうまでもなく到底、というところが感じられて、ドリフのいかりやが模倣したJBは、ミスしたら即罰金システムの、とてつもない独裁経営であったそうです(ソウルは南に行くほど厳しくなりますね)。ミックジャガーVS五木寛之対談で、ミックはライブで自身が熱狂したことはオルタモント以外に一度もないし、ライブ終了後はこの目でインチキがないか金勘定していますと、まあ、経営感覚はともかく、思惟に関しては掛け値なしに、本職オブ本職の歪みがあると直観しましたし、直覚しつづけてもいます)。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月16日 (水) 23時10分

あと全く関係ないですが、イーストエンドXユリのDA.YO.NEは非常にナベツネ系譜の路線だとおもいますし、実際イーストエンドのボーカルは英語に関しては天賦のモノが確実に在りますね。努力でなしうるものにロクなものは無いと明言したのはノーベル文学賞辞退者のディランですけれども、スモーキーロビンソンの音踏みライムは流石にディランがスモーキーが同時代に居る以上と推しただけあって、病的なまでの歪みがありますし、コッポラなんてアンチハリウッドのあれで、自己破産していますし、金の問題はつくづくってところがあるとおもいます。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月16日 (水) 23時23分

むしろノー・レス期待ですが、「記録」という題名は、清新かつリハブのポップがあっていいですね。さきに酩酊で生命と物の相違は記憶の有無としましたけれど、ダーウィンの進化論は現代では古くて猿ではなく魚から直接進化したというのが定説になっていますよね。月刊「DNA」だとこれは学生のりに過ぎて、記録は謙虚さがあって編集長さんならではの聡明さだと勝手に想像しているのですが……。そのデンで、科学は宗教にかわる絶対的なモノサシだというのが現代のメインストリームですが、心、というのはいまだに誰もが説明できない。普通に考えれば、脳の左っかわにある前頭葉のシナプスどうたらこうたらと私のような素人は聞きかじりの丸覚えするしかないのですが、記録と表記させた硬骨漢からするとどうなんでしょう。或いはとふとおもったのですが、すな付近さんの「大勢を対象にする仕事には不向きなのでは」というハートウォーミングな提示は天啓めいた気にさせられました、脳科学者の一流どころは口を酸っぱくしてここ一点に関してだけは学派を超えて団結しますよね、どうも「心」は脳を超えたところに在るのかもしれないと、端的にDNA、産まれながらに言葉や呪術や忌まわしい実体験にもとづく生命のリレー、すなわちオーラやソウルやスピリチュアル(巧言令色ってとこですか?)といった言葉に属するような、と。実際に、宇宙飛行士の、現世とは裏腹の末期の感慨であったであろうものをかんじるのです。地球は青いか? 青かったという色覚ほど人対人をかんじさせる断絶はないでしょうけれど、すな付近さんの思惟は逆に、正攻法ではない、粘りの振り飛車イズムかもと、書いたのはあくまでも自己顕示欲に自己愛の他人からすれば腐臭生一本であり、むしろ表現する以上はヘタウマではなく生粋の下手であれ、ドシロウトの凄みをみせてやれといった初期衝動であって、要するに人より優位に立ちたかっただけり話であって、どなた様もなんら傷つける意図も余裕もありませんでした。またもや編集長さんがらみの縁があったので、この問題は、じっくり考えてみたいとおもいます。

投稿: 巻太郎 | 2008年4月17日 (木) 00時11分

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