阿部定事件の現場を歩く
1936年5月18日、左の写真の近辺で日本でもっとも有名な猟奇事件が起こる。不倫相手を殺し、イチモツを切り取って逃げた阿部定事件である。現場は東京都荒川区尾久にあった待合茶屋「満左喜」。当時の『東京朝日新聞』の見出しには「旧主人の惨死体に血字を切刻んで 美人女中姿を消す」とある。
犯人は芸者や娼婦としても働いた経歴を持つ30歳の美人。被害者は彼女を雇っていた料理店の旦那・石田吉蔵。1週間も待合茶屋に宿泊した末に、旦那を絞殺して陰部を切断、雑誌の表紙にくるんで身につけ、さらに現場のシーツと被害者の左太ももに「定吉二人キリ」と血文字をつづり、左腕には「定」と刃物で刻んだという。しかも18日の朝、阿部定は「水菓子を買ってきます」とタクシーに乗って出かけたて行方をくらませたのだから、当時の人々が熱狂するのも当然だろう。
定が逮捕される20日まで「定らしい美人を見かけた」との情報が警察に殺到。そのたびに警察が付近を大捜索するため野次馬が退去して押しかけることとなった。銀座ではその騒ぎによって一時は通行止めまで起こったというから尋常ではない。
現場近くで料亭を営んでいた93歳の女性は、当時を振り返って言う。
「そりゃ大変だったよ。警察は来るし、野次馬は来るしで、大騒ぎ。だって、アレ持って逃げちゃったんだからさ。あんな大事件、尾久の警察じゃあ、最初で最後じゃない」
実際、新聞には事件現場を見物する人でごったがえす「満左喜」周辺の写真が掲載されている。また当時、12~13歳だったという85歳の元芸者も子どもながらに、その喧噪を覚えていた。
「ここらへんも電話があまりなくてね。新聞記者が自宅の電話を使いっぱなしで離れないのよ。うちの仕事ができなくなるぐらいにさ」
人々を興奮のるつぼにおとしいれた阿部定事件だったが、人々が定を怖がった様子はない。むしろ同情的だった。凶悪事件にもかかわらず、どこか滑稽で、何かしら悲哀が漂う。
こうした「雰囲気」を、この事件がまとった理由の1つは定が美人だったことだろう。子どものころから近所でも評判の美人であり、定の友人の母親も雑誌で次のように語っている。
「お定ちゃんはなかなかきりよう好しでしてね。色は白いし、鼻筋はツンと取ってゐるし、口許はしまつてゐるし、まァ強ひて難をいへば、目許が少し上り気味だつた位のもんでせう。相模屋のおかみさんも、定ちやんだけは自慢で、いろんな着物を取り換え着せ換えては、近所となりを連れて歩いたものです」
また、定の報道を記憶していた93歳の元女将も「キレイな女だったね。小股の切れ上がったイイ女っていうのは、あういう女を指すんだよ」と述懐した。
さらに定が開いたおにぎり屋「若竹」を訪れ、60を越えた定と話をしたという72歳の女性も「昔はさぞかしキレイだったろうな思わせる顔立ちでした」と話してくれた。
そしてこの事件を滑稽さを際だたせたのが、イチモツを切り取るという行動だった。
「小さな風呂敷包をいやに大事さうにしてゐましたが、あれが問題の包みなのでせうか、箪笥の上に乗せられたりして何だか嫌な気持ちです」
待合から逃げた当日、定が変装のために立ち寄った新橋の古着屋の主人が新聞記者に答えたコメントである。この「問題の包み」が指だったら、この発言から受ける印象はまったく違っていたはずだ。
しかし人々が定に同情を感じた最大の理由は、旦那と女中の不倫という被害者と犯人の関係性にあったと思われる。また殺人現場となった「三業地」の特性が、この殺人の悲哀を深めたのである。
そもそも三業地とは芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可される区域を指す。つまり芸者のいる花街である。この花街で料理を提供して芸者遊びができるのが料亭。待合は酒だけしか置いておらず、料理は仕出し屋から取り、宿泊もできる施設だった。売春が行われることも多かったとされる。宿泊もできたため待合をラブホテル代わりにも使えたが、値段はかなり高い。
事件のあった満左喜でも、定は5泊分の料金として当時の公務員の初任給とほぼ同額70円を支払っている。今なら総額20数万、1泊4万数千円を支払った計算になる。つまり三業地そのものが金に余裕のある人しか滞在できない空間だったといえる。
先述の女将は当時を振り返って言う。
「お客さんがコセコセしてなかったからね。玉代(芸者を呼ぶ代金)が付いているのに、4人の半玉(芸妓)にお小遣い渡して、浅草まで映画見に行かせたりしていたからね。
だいたいその日にお金をいただくことなんてなかったんだから。いちげんさんは別にして。お金持ち以外来られなかった場所だったよ」
先述の元芸者の女性も「半玉を50人いっぺんに上げたりしてさ。いい時代だったねー。戦争が近かったっていうけど花柳界は別。みんなキレイに遊んでいた」と、嬉しそうに話した。
今の感覚だと不思議な気もするが、定と被害者の石田も長逗留した待合でたびたび芸者をあげている。芸者と酒を用意して一騒ぎし、その後に愛し合う。そんな日々を2人は数週間も続けていた。まさに金持ち「旦那衆」の遊びである。妻の元に返したくない定の想いは、待合で長逗留できる石田との「身分差」に阻まれたといえる。現場の三業地から多くの人はそんな情報を受け取り、自分だけのものにしたくて陰部を切り取った定に喝采を送ったのである。
実際、定は驚くほど真剣に石田にほれていた。
ネットで公開している予審調書には、次のような定と検察官の問答が記されている。
問 何故石田の陰茎や陰嚢を切取って持出したか。
答 それは一番可愛い大事なものだからその儘にして置けば湯棺の時、お内儀さんが触るに違いないから誰にも触らせたくないのと、どうせ死骸は其処に置いて逃げなければなりませぬから石田のオチンチンがあれば石田と一緒の様な気がして淋しくないと思ったからです。
また事件後、殺害当時に身につけていた吉蔵の下着と血で汚れた腰巻きを身につけ、留置場に入るときでさえ脱ぎたくないと騒ぎを起こしたとも伝えられている。
一方、石田も定のことをかなり好きだったことは間違いない。
定との関係が妻に知られてから殺されるまでの約1ヵ月。石田は多くの時間を定と過ごす。とにかく離れたくないと、ズルズルと各待合に泊まり続けてもいる。しきりに帰したくないから殺すつぶやく定であったのに、結局、最期まで石田は逃げようとしなかった。
2人が泊まった田川という待合の女将は「石田さんも女から逃れたそうな様子なのにいくらすすめても動かない、恐ろしい女です」と語っている。この発言を掲載した『東京朝日新聞』の記事は「絡む女郎蜘蛛」と見出しを打った。しかし石田を捕らえて離さなかったのは、彼女の手練手管ではなく、まっすぐ過ぎる愛情だった。
現在の尾久三業地には当時を忍ばせるものなど、ほとんど残っていない。満左喜は住宅街へと変わった。阿部定事件の現場紹介の写真として、よく紹介されてきた待合いろはも、取材の数日前に更地となった。近隣住民の話では土地を手放したという。
殺害後の定を新宿まで乗せたタクシー会社は現存こそしているが、当時2~3台だったという会社の規模からは考えられないほどの車が並び、以前の面影はない。また元三業地にもかかわらず、いまでは大学まで建設されている。
「もう20年も前から跡取りがいなくて、どんどん待合もなくなっていったよ。1人やめたら次々とね。人も来なくなったしね。もう住宅ばっかりだろ」
現場近くに住む男性は寂しそうに語った。
13歳で事件に遭遇し、「新聞を読んじゃいけません」と女中から叱られた記憶を持つ元芸者も、「芸に糸目をつけずに好きなだけ踊ったから、もう思い残すことはなにもないよ。あんないい時代はもうないからさ」と笑う。
93歳の元女将は「いいお客さんが戦争でいっぱい死んでしまったしね。当時のことを知ってる人も誰もいなくなったよ」と話した。
人も街も変わり、結局、この地で受け継がれているのは事件の記憶である。
ただし定は調書の中で「石田と別れるのが淋しいので石田のシャツを着たりオチンチンを切ったり気違ひ染みた事をしてしまったのです。そんな事で、世間から変態のように云はれるのが口惜しう御座います」と語っている。おそらく、このように記憶されること自体、不本意なのだろう。
彼女が経営するおにぎり屋で定と話した女性は、「死ぬときに誰にも分からないように死にたいんだ」と語ったのを強く覚えているという。
事実、70年代初頭から彼女の行方はようとして知れない。(大畑)
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コメント
男と女はホント困ったもんだよね。おれにとっちゃサケだなやっぱ、女より
投稿: | 2008年4月30日 (水) 19時21分
この事件を詳しく知ったのは高校生時代のこと。あれから15年余りの間に、数人の男と付き合って、結婚して別れてを経験して、阿部定と同年代になって、ようやく彼女の言うとおり『心から好きになるのは一生に一人』だと分かったのです。今の夫は35歳で好きになったから。いつも阿部定の言葉が頭にあるせいか、事件のゆかりの場所に行ったり本を読み漁ったり。すると、阿部定の甥っ子と幼なじみで実際に阿部定と話たことがある人と顔見知りになり、1987年位に彼女が亡くなったことを知らされました。さらに、現在仕事をしているビル内に入っている会社の社員さん。この人の兄嫁の兄弟が事実婚していた時分の阿部定と交流があったことや社員さんのいとこが浅草で失踪前まで阿部定を世話していたことまで知りました。なんとも不思議なご縁です。宣保愛子さんが阿部定のお墓が谷中にあると著書に書いてあるのが本当ならばいつか偶然見つけられるかもなんて密かに思ったりしています。
投稿: さくらん | 2009年1月31日 (土) 09時11分
小さい頃「アベサダにする」と言う言葉を聞いた事がありました。「アベサダ?アベサダって何?」ずっとそう思ってました。私が18歳頃にやっと大体の事を知りましたが、こんな詳細まで知らず、読んで知れば知る程女の情念に翻弄されたり、正直羨ましさも…。
過去にしたであろう大恋愛を比較しても私には阿部定の様な一人の男性を恋い焦がれ、そこまで情熱的に人を愛せただろうか…あらゆる事を考えさせられた内容てです。現在は完全に世代交代。
今は娘や息子達の恋愛を密かに応援する事しかできないけど、できれば阿部定の様な激しい恋がしてみたい。今からでも…。
投稿: まりぃ | 2009年4月16日 (木) 02時06分
2回目のコメントです。偶然ですね。私も事件現場を訪れた時、いろはという料亭は更地になっていたんです。小畑さんが訪ねた数日後のこと。1994年頃でしたか、阿部定事件を取り上げた番組で満佐喜のあった場所を土地の地主さんが案内していました。角地を差して『ここの一角ですから、満佐喜って待合いさんだったの』と案内していて、その人の背後に料亭とおぼしき古い建物があったので『何か知っている人がいるかも』とわずかな期待を持ったのです。あれから、谷中を散策しては阿部定さんのお墓は・・・とバカらしいことしています。宣保愛子さんの言ったことが本当かどうかも分からないのに。もうすぐ5月18日ですから、あの場所へ行こうと思っています。吉蔵さん、お定さんと再会できたかい?と手を合わせて来ます。
投稿: さくらん | 2009年5月14日 (木) 22時00分
追伸 5月18日、満佐喜跡に行きました。料亭いろは跡は駐車場になっていましたよ。これで、満佐喜跡地に住んでいる人も周辺の人も阿部定事件のことを知らない人が増えるかもしれませんね。つまり、惚れるってことはこれほど激しいものと感じる男と女がいなくなる・・・寂しいことです
投稿: さくらん | 2009年5月20日 (水) 22時55分