町田・保険金偽装殺人事件の現場を歩く
1978年12月、クリスマスを2日後に控えた喧噪のなか「死んだはずの男」が逮捕された。
事件は75年3月4日、人気のない東京都町田市の区画整理地で起きた。電柱に激突して炎上している車を新聞配達員が見つけ119番通報。火は消し止められたものの、焼け焦げた車から真っ黒な男性の死体が見つかる。この遺体について警察は、衣服や時計、血液型などから車の持ち主であり、消費者金融を営んでいたO(28歳)と断定した。ただ警察が単純な事故ではなく、事件として捜査を始めたのには訳があった。現場の状況があまりにも不自然だったのだ。
まず電柱に追突しているにもかかわらずスリップ跡がなく、サイドブレーキまで引いてあった。またガソリンタンクが壊れて炎上するほど激しい衝突ではなかったことも判明。さらには後部ナンバープレートにわずかながら血痕が付着していた。
しかも、その後の調べで「金の問題で人に会ったが、相手は三人も来てけんかした」(『毎日新聞』75年3月4日)と、Oが友人に電話を掛けていることがわかる。さらに彼は経営に失敗して多額の借金があり、金銭のトラブルが絶えなかったことも報じられた。
当時の新聞には「激突死装った殺人?」や「殺して放火か」などの見出しが躍る。ただその後、両親を受取人としてOが多額の生命保険に加入していたことが分かり、保険金のおりにくい自殺を偽装するため他殺に見せかけたとの見方も出ていた。
そんななかOの葬儀が済んで1週間後に、事件はひっそりと動き出す。Oの恋人だったY子(24歳)の勤務先に「おれだよ」とO本人から連絡があったのだ。ワナで車を盗まれたと話すOを信じ、事件から2ヶ月後、Y子は家族に置き手紙を残して家出する。Oの49日にしっかりと出席した後だったという。
その2人がひっそりと暮らし始めたのが小田原駅から海に向かって10分ほど歩いた2階建てアパート(写真参照)だった。現在でも同じ場所に建つアパートについて、地域住民は「あー、あのアパートね」と顔をしかめた。
「あのアパートの住民とは近所づきあいなんてないよ。夜逃げとかもあったし、外国人もいるし、とにかく何だか分からない人が住んでいるんだから」
いまだに地縁が生きている地方都市に、ひょっこりと現れた忌避の地。2人はそんな場所に逃げ込んだ。現地で取材した限り、自分を殺して戸籍を失った男とその恋人は息を潜めて暮らしていたようだ。
これだけ大きな事件の犯人なのに、近隣住民は彼らのことをまったくといいほど覚えていなかったのだから。2人が住んでいたアパートから道1本隔てた家に住む女性は、「(昭和)37年から住んでいるけど、(そんな事件も犯人も)知らない」と首をかしげた。古くから住む高齢者も多い土地だったが、犯人と同じ町内の住民なのに軒並み事件を知らない。ご近所の情報なら何でも知っていると教えられた家も訪ねたが、その女性も事件はもちろん新聞に掲載されたOの顔さえ知らなかった。「お役に立てなくてごめんなさいね」と本当に申し訳なさそうに話す口ぶりからも、ウソをついているとは思えない。
結局、数時間取材して回ったが、彼らのことを覚えていたのはアパートの向かいで商店を営んでいる男性だけだった。しかも彼が見知っていたのはY子のみ。
「あー、あの事件ね。あのアパートに住んでいた人でしょ」
事件の概要を説明すると、その商店主は大きくうなずいた。
「女は歩いているの見かけたことあったけど、男は近所でも誰も知らなかったよ。男が逮捕されたとき、こんな怖い人が住んでいたんだねーって話になったけど、そのときもたいして話題にはならなかったなー。
ただオレはまだ遊んでいた時期だったからさ、バーで会ったんだよ。女は、この道の少し先にあるバーに勤めていたから」
彼はY子を「静かでしゃべらない女」と表現した。
「横に付いて酒をついでくれたことはあるんだ。黙って酒をついでいたね。普通ならホステスは『キャーキャー』言うけど、話すわけでも歌うわけでもないんだよ。まあ、オレも近所の女だから、それほど話したくもなかったけどね(笑)
ボインだけど、派手じゃなかったな。顔はかわいいってほどじゃねぇな。むしろ怖いっていうかキツネ顔だよ」
24歳の普通のOLだったY子は、Oとの3年半の月日を沈黙のまま過ごしたようだ。彼女を知る商店主は、「やっぱり(酒場で)キャーキャー騒ぐような人じゃ(逃亡生活なんて)できないでしょ」と語った。
一方、犯人のOは事件の1年後となる76年4月から近隣のゴルフ場に勤め始め、2年後の78年4月から正式な職員として採用されている。事件が起こった当時、会社の同僚が「彼は無口でおとなしい性格。店では貸出係を担当していたが、客の評判もよかった。自殺にしろ他殺にしろ全く心当たりがない」(『毎日新聞』75年3月4日)と語っているように、おそらくマジメに仕事をこなし、それが認められての正社員採用だったのだろう。逮捕時の報道でも、ゴルフ場の関係者は「Oは、酒はほとんど飲まず、車の運転もしたことがなく、不審な点はなかった」と『読売新聞』(78年12月23日)に語っている。
ただし戸籍がなければ運転免許証を作ることもできないから、当然、車の運転はできない。ほかにも健康保険などの問題も深刻だったに違いない。その「不便さ」がOを逮捕へ導いていく。
逃避行のほころびは、逮捕の4日前、12月18日に横浜県警にかかってきた1本の匿名電話に始まる。その年の5月に発生した殺人事件への情報提供という形で、「横浜市内のジャパン何とかという金融会社に勤めていた男が犯人ではないか。この男は戸籍をほしがっているというし」との情報が寄せられたのである。警察はこの電話から3年半前の事件にたどり着き、そこからOの恋人だったY子が不自然な失踪に注目し、小田原のアパートに踏み込む。
逮捕後の供述によれば、Oは自分と背格好の似た作業員風の男に「家まで送ってやるよ」と声を掛けて助手席に誘い込んだという。その後、道路脇で小便をしているときに殴りつけて失神させ、自分の服や靴、時計など男に身につけ、ベンジンと灯油で車を燃やしたとされる。
Oの根無し草の生活は、わずか3年半で終了した。おそらく、その最大の要因は彼の資質にある。
そもそも自分ではけっして受け取ることのできない保険金を、殺人を犯してまでせしめようとしたのは最後の親孝行がしたかったからだという。また自らの葬儀の1週間後には恋人に電話をし、戸籍がほしいとなれば過去の素性を知る人物に連絡までしている。住まいとして選んだのも事件現場沿線の終着駅だった。
すべてを完全に手放して生きられない男の限界が、この3年半という時間に見て取れる。つまり彼には根無し草としての才がなかったのだ。
皮肉なことに彼が身代わりに選んだ男性は、そうした才能に恵まれていた。彼が誰だったのが、いまだに判明しないのだから。そして酒が入ってさえ、自らの素性を明かさなかったY子もまた、その手の才を備えていたかもしれない。
結局、根無し草になれなかった男は、逮捕とともに熱望していた戸籍を取り戻すことになった。(大畑)
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