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2008年2月18日 (月)

金属バット事件の現場を歩く

 犯行現場にほど近いトンカツ屋の女主人は、事件当日の昼に検死官が血の付いた白い手袋をカウンターにポンっと放ったのを鮮明に覚えているという。

Img_6588_2   1980年11月29日、神奈川県川崎市で起こった夫婦殺害事件は、翌日20歳の息子が逮捕され解決した。東大出の父と早稲田卒の兄を持つエリート一家で二浪の息子が金属バットで両親を殴り殺すという事件は、加熱する受験戦争を背景に世間を震撼させた。

 じつは犯人の一柳展也自身、高校まではエリートコースを歩いていた。進学校として有名な海城高校に入学。志望校も早稲田大学に置いていた。しかし高校進学してからの成績はふるわず、中の下といったところをウロウロ。現役時代には早稲田の法と商学部など5つの私立大学を受験するも全敗。一浪でも早稲田にくわえ2つの大学を受験したが不合格となった。

 犯行当日、彼はレコードを買うために父親のキャッシュカードで1万円を引き出し、父から怒られている。また母親からも「こんなことしていると、大学に合格できないわよ」となじられたという。その後、いら立ってウイスキーをあおっていた彼の自室に父親が入ってきて、「ドロボウを飼っておくわけにはいかない」と彼を蹴った。結局、これがダメ押しとなり、展也は午前2時半頃、両親を撲殺。外部の犯行に見せかける工作を施してから、翌朝、両親が死んでいると近所に駆け込んだのである。

 事件が起こった自宅は田園都市線の宮前平駅のほど近くにあった。東急が一括して開発した高級住宅街は当時、憧れ土地だった。それは事件から3年後にTBSで放映され話題となった『金曜日の妻たちへ』が、この沿線の新興住宅地を選んだことからもわかる。

 取材に訪れた金曜日の昼下がり、その一帯がいまだに「高給新興住宅街」だと知った。駅周辺を歩いている住民たちは皆おしゃれで、声を掛けてもにこやかに対応する。ただ「金属バット事件の取材だ」と告げると、誰もがにこやかな笑みのまま「全然知らないんですよ」と答え、きびすを返すのである。
「ちょうど越してきたばかりのころで、まったく覚えていないんですよ」
 そう語った高齢者の女性に「ありがとうございました」と挨拶し、数秒たってから「ところでここらへん大騒ぎだったでしょう?」と背中越しに声をかけてみた。すると、「そりゃもう、通勤客にまで取り調べしてましたからね」と振り向いて答え、一瞬しまったという顔をした。それでも、その女性はすぐに笑みを取り戻し、「でも、詳しく覚えていることは何もないんですのよ」と語り去っていった。
 面倒なことにかかわるのは、この地では禁物なのだ。
 
 こうした反応は、最初に話を聞いた二子新地の住民とは大きく違った。川崎の下町的な風土を残すその地で、古くから住む地元住民に私は丁寧に犯行現場を教えてもらったのだから。駅にしてわずか4つだが、その差は大きかった。

 それでもかなりの住民に声を掛け、やっと当時の思い出を語ってくれたのは、冒頭のとんかつ屋の女主人だった。犯行当日も店を開けていたという彼女は、犯行現場にいた展也と親戚からの昼の出前を頼まれている。
「事件があった日でしょ。ゾッとしましたね」と、彼女は当時を振り返った。その夜、展也は親戚の家に泊まり翌日には逮捕されているから、彼が自宅で食べた最後の食事は、この店のトンカツだったことになる。

 その女主人によれば、一柳家は夫婦をはじめ穏やかな気持ちのよい人だったらしい。展也が両親が死んでいると最初に知らせた隣人も、「あの日、展也君がウチに知らせに来てね」と店でしんみり話したこともあったというから、展也に極端に悪感情を抱いていたとも思えない。「一帯が同時に家を買って引っ越してきたから、隣組というか連帯感があったんですよ」と女主人の語る近所付き合いに、展也は犯行後もまだ参加していたことになる。

 犯行日、被害者夫妻は結婚記念日だった。そのため、いつもはお酒を口にしない母親からも司法解剖で少量のアルコールが検出された。おそらく結婚記念日を夫婦で祝っていたのだろう。
 夫婦仲もよく、憧れの土地に自宅を購入し、長男もエリート街道をひた走っている。そのなかで鬼っ子だったのが犯人の展也だった。彼がどんな大学を受験したのかは分からない。しかしエリートの枠組みを捨て、とりあえずどこかの大学に潜りこむぐらいは、海城出身の彼なら容易だったはずだ。しかし彼の家族に、そしておそらく彼自身にもそんな選択肢はなかった。結局、エリートの家庭に育った「鬼っ子」は、どんどんスピンアウトしていき、最後には自分をエリートの道に押し込めていた家庭を破壊した。

 そして事件を起こしたことで、彼は地域の鬼っ子にもなった。報道などで騒がれたことに嫌気がさしたのか、事件後、この土地を離れた一柳家のご近所も少なくないという。
「近所の人がタクシーで『宮前平』って言ったら、『あー、金属バットのところね』って言われて怒ってましたよ。『事件が起こって【金属バットのところ】になちゃった』って。だから、あの事件にはみんな触れたくないというかね」
 地域の声をトンカツ屋の女主人は、そう代弁してくれた。

 不倫の代名詞ともなったドラマ『金曜日の妻たちへ』は、新興の高給住宅街で暮らす家庭の抱える見えない危機をあぶり出した。まったく違う形ではあるが、一柳展也もまた「金ツマ」と同じ環境で、エリート家庭が抱える危機を表面化させた。だからこそ犯行現場一帯では、いまだに事件がタブー視されているのだろう。

 かつて惨劇があった家は取り壊され、今はしょうしゃな洋館が新築され新しい住民が住んでいる。ただ、坂の高低差を利用して作られた、地下駐車所だけは当時の写真のままだった。家の土台に当たる部分だけに、手を加えるわけにはいかなかったのだろう。住民の記憶と同様、すべてを塗り込めるわけにはいかなかったようだ。

 犯行当日に一柳家から出前を頼まれた女主人は「こんなときでもお腹が空くんだな」と思ったというが、きっと生身の人間なんてそんなものなのだろう。
 食って、寝て、生きてさえいればいいんじゃない、と片意地張らず生きていければ、展也もここまで追いつめられることもなかったはずだ。せめて住環境ぐらい気楽な場所だったらと思わずにはいられなかった。(大畑)

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コメント

事件のあった地域周辺付近か広域かで事件に対する関心具合や心情の差が、大畑さんの取材をされた記事内容を読み鋭く感じ受けました。
私の記憶違いかもしれないのですが、金妻ドラマの設定は田園都市線の中央林間やたまプラーザ、もしくは宮前平よりであれば鷺沼辺りが舞台だったように思います。
二子新地と宮前平で駅が4つしか違わないとは言っても区が違うのですから、同区であっても交差する南武線の線路を挟んで隣り合う地域でさえ、住民の地域に対する考え方の違いが出ます。
関係があるかわかりませんが、当時川崎市は区が5つから7つに増えようとしていた時期で、事件のあった辺りは1つの区が2つに分かれようと区界付近にあたり、
より一層隣近所で住民結束みたいな意識があった時期だけに、事件が地域にもたらした情況は根深かったのでは…と思いました。

投稿: ぶんぶん | 2008年2月18日 (月) 03時25分

宮崎さんかと思って読んでた

投稿: | 2008年2月18日 (月) 04時00分

はじめまして。

金属バット事件の現場から数百メートルの場所に、サントリー元部長射殺事件の現場があります。
(元部下が大橋夫妻を射殺後に現場屋内で自殺)
陰惨で極端な事件が起こりやすい地域なのでしょうか。

投稿: タニシ | 2009年2月21日 (土) 19時54分

『ストリートの思想』の中で著者がこの事件に触れていて、思い出していたらこの記事にあたりました。
私は、川崎で育ちました。あの事件とき宮前区にいたかどうか定かではないですが、事件の記憶はあります。あおの事件の後、故江藤淳が「人の生き死にのない場所だ」という一文を寄せましたが、実に的確な補表現でした。どこか人工的な町並みは、宮前区に移り住んだときなんとく居心地の悪さを感じたものです。後のサカキバラ事件の時TVに写った事件あった町の風景が、下作延の高台から俯瞰した宮前区そっくりでほんとうに驚いたものです。
宮前区、NHKの番組で「戦後日本でもっとも土地の値上がり幅が大きかった土地」と紹介された事があります。急激な開発地はどこか人間的ではありません。そんな非人間的な背景が事件を引き起こすのかもしれませんね。今は宮前区も町としてのたたずまいが定まった気がします。しかし宮前区はそのこぎれいなたたずまいとは裏腹に、この事件の10年前に私立高校生による同級生殺人事件がありましたし、その後若い女性の凄惨な殺人事件があったと記憶しています。あのリクルート事件の最初の逮捕者、川崎市の助役も宮前区在住でした。意外に心の痛みを覚える事件の起こる土地柄でした。
しかし、最初に「二子新地」の住人に話を聞くのは、あまり良い選択ではありません。新地の住人はあの手の事件からは気持ち的に遠いところにいたと思いますよ。あの当時宮前区よりはずっとずっと居心地のいい町でしたから(その昔、山下敬二郎もすんでいたんですぜ)。
それと、今、この事件のこと書くことに何か意味がありますかね。2008年だから30周年記念でもないし。私立高校生の事件を書いて本にしたライターもいましたが、野暮だなぁ、と思いました。ウケ狙いで書くなよ、という感じです。もっと身体と命を張った仕事をしてください。ビルマで打たれて死んだ写真家みたいに。でも死んだらだめですけどね。死んだら、負け。勝ち組というは、結局生き残っているもの達だと思います。なんといっても生きているうちが華。
だから写真家が死んだ時に、弔いつつもあなたが残した「運」を私にくれ、というくらいの図々しさなければジャーナリストをやってられないでしょう。
まさに、屍を超えて書き続けることが大畑さんの使命だと思います。

投稿: sumimadsen | 2009年10月 5日 (月) 02時05分

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