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2008年2月16日 (土)

『吉原 泡の園』第55回/世間様とは「さよなら」した身

 弁護士との接見はすぐに終わった。次に会うのは東京地方裁判所だ。そこで免責の降りた者は裁判官に名前を呼ばれる。それが自己破産確定の時でもある。
 当日、どれほどの人が裁判所に来ていただろうか。あまりにも多すぎるので、裁判自体は数十分で終わるそうだ。1人頭ものの数分という計算である。
 まるで学校の合格発表かのように若者が多く、自己破産を受けに来ているものにしては数が多すぎるように感じた。

 裁判所の中に入り、椅子に腰掛ける。裁判官に名前を呼ばれた者は起立する。
「以下の者、免責を認定する?」
 とかそんな感じの事をたしか言われた。呼ばれた者は法廷を出て、裁判所の廊下に集まり、担当弁護士先生にあいさつなどをして帰宅する。
 まったくもって簡単であり、あっけないものだった。自己破産は弁護士を通さなくてもできる。しかし確実に免責が降りるし、手間も省けるので、ほとんどの人が弁護士に頼むようだ。費用はその人の借金額によって違うが約30万である。
 その30万は分割OK。たったそれだけの額で、600万近くの借金の重荷とさようならできる。
 人生たった一度のドラえもんグッツのようなものか、というと怒られるかもしれない。

 ただ自己破産した実感はなかった。どのみち世間様とは当の昔にさよならした身だ。それに今は吉原のど真ん中で生活している。ここにいると何が起きても気にしなくなってくるし、また気にしていては生きていけない。世間にさよならはしたけれど、どこかでまた戻れるという淡い期待もなくはない。ただ、こんな生活から普通の生活に突然変われるとは思えないかった。なるようになれ、といった感じが正確かもしれない。

 ともかく借金返済という重荷だけは免れたので、随分と気持ちも楽になった。返済分を食費に当てらので、義理風呂があっても生活に余裕が出てきた。
 仕事は相変わらず怒鳴られっぱなしだが、じつは意外とできるようになっていて、ミスも少なかっていた。

 そんなある日、朝のミーティング開始時間に出勤すると、大きな体をした男が店のフロア―にいた。こいつも借金取りか、ヤクザ関係者か、と相手にしないようにしていると。
「あのー、R店の人ですかー」
 とのんびりと象さんのように聞いてくる。
「ええ」
 面度臭そうに答えると、うれしそうに微笑む。メガネのレンズは分厚く、かなり目が悪いのだろうと想像できた。
 はちきれんばかりのスーツ姿だ。

 スタッフが揃うと、マネジャーが話し出した。
「今日からうちで働く事になったHだ。以前はA店にいた」
 A店というのはR店の近くにある高級店だ。
「H、あいさつしろ」
 ボーっとしていたHにマネジャーが渇を入れた。マネジャー5人分くらいの体格をしていたHだが、どこか気の抜けた感じのする男だった。
「あ、Hです。よろしくお願いします」
 メガネの奥の目は贅肉で埋もれ、少しだけ鋭い光を放っていた。これだけの体格に恵まれていて、どうしてソープで働くのか、少し不気味に感じた。たまたま寮の部屋が空いていたので、僕と同じ部屋となった。それまでいたTちゃんが、3畳ほどの1人部屋に移ったのだ。
「マル、部屋まで案内してやれ」
 とりあえずHはかなり年上だし、得体の知れないオーラを放っていたので、僕は「Hちゃん」と親しみを込めて呼ぶことにした。Hちゃんは僕をマルちゃんと呼んだ。僕も先輩として威厳を見せようとするが、なにせ持ち合わせた貫禄が違う。こいつ、何者だ、と様子を探ることにした。

 ボロ寮に入り、部屋を案内する。
「ドアは絶対に開けっぱなしにしないこと。ねずみが部屋に侵入するからね」
 とドアを開けたらすばやく閉めることを教え、服をかけるクローゼットを教え、2段ベッドの下を指差す。
「ここが空いているから。さすがに上だとベッドが抜けるでしょう」
 と冗談などを言ってたら、Hちゃん、おもむろにバッグから写真立てを取り出した。
 そこには綺麗な女性と子供3人が写った写真が飾られていた。それを枕元に置く。
「へー、知りあいですか」
 聞いていいものか、少し戸惑いながらも僕はHちゃんに質問した。聞いて怒り出したりはしないだろうかと心配だった。とにかく体格が違う。贅肉がついているとはいえ、Hちゃんが暴れ出したら僕にはどうすることもできない。きっと。

「嫁と子供だよ」
 メガネの奥でやさしい目が、こちらを見返す。
「へー、結婚してるんですか」
「ううん、離婚した」
 ええー、いらぬこと聞いちまった。
 でもまてよ。どうして離婚したのに、そんな相手の写真を枕元に飾るんだ。全くここは変わり者しか来ないのかよ。
「離婚したけど、お互い嫌いで離婚したわけではないんだよ」
「ふーん」
 それ以上、理由を聞くのは野暮ってもんだ。僕はそんな離婚もあるのかな、と思いを馳せていた。(イッセイ遊児)

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