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2007年12月

2007年12月30日 (日)

年末年始のお知らせ

今年も1年間ご愛読いただきありがとうございました。

本日から3日間お休みをいただき、

2日より記事をアップいたします。

来年もよろしくお願いいたします。(大畑)

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2007年12月29日 (土)

『吉原 泡の園』 第48回/花魁を追う者

 いつもと同じ朝の作業で、洗車している最中。インターネットを見て笑っているはずのマネジャーが慌てて表に飛び出したと思うと、僕を見つけ。 「マル、レディス○ラにいってくれ」
と言う。レディス○ラとは吉原の中にあるビジネスホテルに毛をはやしたようなホテルで、女の子で住まいのないコは、とりあえずここに寝泊りするのが定番だった。
 マネジャーが僕にそこに大至急女のコを迎えに行けと言う。洗車も途中だが、大急ぎで作業をやめ、レディス○ラに向かった。信号も無視し、大急ぎで到着する。ホテル入り口の細い路地の前に、黒い服を来た女性がたっていた。放っているオーラが明らかに普通の女性ではなく、ひと目でわかった。
 「ははーん、このコだな」
すぐに見つかって安心した僕は、車を停め、ウインドウを降ろして聞いた。
 「R店にいく○○さんですか」
すると彼女はニコッとなんともいえない笑顔をするではないか。
 「か、かわゆい」
おもわずそう思った。車に乗せると、元気一杯なコだと分かる程、話しを次から次に話してくる。
 北九州から飛行機で来たこと、ボーイが何だか抜けていて不安でもあるが安心したこと、つまり、僕が抜けているというのだ。だが、それで安心してくれたのならばそれでいい。
 店までの短いドライブだったが、僕はこのはつらつとしたコが気に入った。
 店につくとマネジャーが。
 「おお、○○ちゃん、お疲れねー」
とあかちゃん言葉混じりで話す。これがまた気持ち悪いのだ。女のコの荷物を車から降ろすと。
 「マル、5号室案内してやれ」
と言われ、そのコを2階に案内する。改装中の階段をのぼり、5号室のドアをノックする。ノックするのはいつもの癖で、いきなりあけて誰かが着替えていたりするケースがあるので、いつのまにか癖になっていた。荷物を5号室に入れてやる。
「では、何かありましたらこのインターホンを取ってください。フロントに自動でつながりますから」
 言って部屋をでようとすると、そのコ。
「ありがとう」
 と微笑むのだった。
「いえ」
 僕はクールに、スマートにその場を去る。心の中では
「金が出来たら君を指名したいでーす」
 と思いながら。その豊満な胸をチラッと見ながら。
「失礼します」
 と言いながら何だか妙に楽しくなりそーと思ったりしていたのだった。
 すぐに1階に降りる。洗車も終わっていないが、買い物やら何やらやることだらけなのだ。
「おいマル」
「はい」
「テメー花魁に手ぇだしたら、半殺しじゃすまねえぞ」
 僕の浮かれた顔を見て、そんな物騒なことを言われたりもするのだった。
「…」
 そんなするわけないじゃないですか、と言えばいい、もちろん僕にはそんなつもりは毛頭ない。が、そう反発できない自分がいた。それはマネジャーが怖いからでもなく、その気があるからでもなかった。理由はわからない。とにかく、言えない人間がいるのだ。それは権力うんぬんや、弱みうんぬんではない。言えない人間がいる。そうとしかいいようがない。
 はるばる北九州からやってきたコFさん。ただ、これとは逆に、東京から北九州にいわば逃げるケースもある。
 借金地獄でソープのボーイになるケースが圧倒的に多いが、女のコもやはり借金苦からソープ譲になるケースも少なくなく、借金もいわいる闇金まで手を出すケースも多い。吉原の夕方くらいの風景には、客に混じってそうした闇金関係者も多い。
 大体なれてくると、あの車は闇金関係者だな、と分かる。ごつく、ダーク色で高級な車に暑苦しい男が2人。そんなのは明らかに闇金の人間だ。
 表で客引きをやっていると、ずっと路上駐車した怪しい車が止まっている。ずっとR店を監視しているのだ。そして、金を貸している花魁を待っている。
 それを察知すると、出勤する女のコに連絡するときもあるし、店長がわざわざ出向いて話しをすることもある。
「お宅に○○いうコいてませんか」
 と闇金業者。
「いませんね」
 とシラをきる店長。そうなったらもう東京で働くのは危険だ。姉妹店の北九州に、その花魁をしばらく飛ばすのだ。何ヶ月も連絡が取れなくなると、闇金業者は泣く泣く諦める。
 会長がソープのほかに闇金も手がけていたので、闇金の動き方はこちらの専門分野でもあったのだ。
 「金貸しは、半分ダメ元で貸すんや、返すほうが馬鹿なんやでぇ」
これが店長の哲学だった。(イッセイ遊児)

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2007年12月28日 (金)

タイゾーもさくらパパも議員向き!?

 先日、起業に興味を抱く学生と話す機会があった。その学生の思う社長に必要な能力は論理的な思考力だという。その話を聞いて、「なるほど」と思った。学生時代には自分もそんな風に考えていたからだ。

 頭の回転が速く、理屈に強い人物は学生時代のヒーローである。しかし社会に出て成功しているベンチャー企業の社長などにお会いする機会を得て、頭の回転などビジネスの成功にさして関係ないんじゃないかと思うようになってきた。理屈なんか通らない、一見メチャクチャな計画や目標を掲げた社長でも成功するときはするからだ。
 むしろ社長として重要なのは、少々ムリな話でも周りが応援したくなるような人間的な魅力を持っていることであり、仕事が回ってくる人脈をきちんと押さえていることだろう。

 このような理想像のズレは珍しいことではない。例えばライターという職業にかんしても、出版業界にいない人は文章力の有無を気にしがちだ。しかし編集者としての私はフットワークの方が気になる。こうした違いは、おそらく対象の職業との「距離」によって引き起こされるものだろう。ライターに直接仕事を頼む編集者と、できあがった作品を読む読者で「距離」が違うのは当然。その差が実務のとらえ方にも表れる。

 さて、長い枕になったが、じゃあ、理想の政治家とはどのようなものだろう? 
――カネに清潔で、政策をしっかり判断できる能力があり、実行力があり、ときに既得権益と闘う勇気がある――
 こんなところか。
 しかし最近話題になった政治家の発言を考えると、こうした政治家の理想が実情をまったく反映していないもののように思えてしまう。「さくらパパ」こと横峯良郎・民主党参院議員は、政治のバラエティー討論番組で自らの愛人問題を揶揄されると、「『よく出て来たな』なんてよく言えるな、オイ!腹立つ。何か知ってんのかよ!! だから何か知ってんのかよ!!」と逆ギレ。

 次期衆院選の自民党北海道1区の候補者の公募に名乗りをあげ、あえなく落選した杉村太蔵衆院議員は自己アピールで「現職(議員)の強みは、財務大臣に会おうと思えばあえるんです」と語ったとか。政策を持ってないのに大臣に会ってどうする。大臣はミッキーマウスか!(まあ、「中の人」が官僚のディズニーキャラクターが大臣と考えた方が、しっくりくるが)。
 この2人はもともと政治家としての資質を疑われていた人物だった。ただ、国会議員として大過なく過ごしてきたことも事実なのだ。

 もう少し別な政治家も考えてみよう。
 東国原英夫・宮崎県知事はどうだろう。イメクラで16歳の女の子と楽しんじゃったのは風俗店選びに失敗したからといった言い訳も通用しそうだが、フライデー編集部襲撃と弟子の頭を蹴って書類送検された事件は、「政治家としてどうよ」と言われても反論ができまい。
 ところが政治家になってからは、宮崎県の特産品の知名度は上がるし、鳥インフルエンザも的確に押さえ込んだし、となかなか評判がよい。礼儀を覚えさせるのが目的で「徴兵制があってしかるべきだ」などと発言する政治家など、私自身はまったく信用できない。しかし知事として次第点を取っているとはいえるだろう。

 では、安倍晋三前首相はどうだろうか?
 いまなら彼の政治的センスをほめる人などいないだろうが、少なくとも首相就任後しばらくは大絶賛されていた。実際、首相なるまで政治家として無難に歩んでいたのである。
 いまや批判の矢面に起たされている福田康夫首相も官房長官時代も、その手腕が高く評価されていた。

 さて、安倍・福田両氏を政治家としては有能だが、首相として器が足りなかっただけと言い切れるだろうか? 残念ながら政治家としての能力が足りないのだと思わざるを得ない。

 こうやって実際の政治家を並べると、理想像どころか政治家として最低限必要な能力まで分からなくなる。案外、理想も最低限必要な能力も、顔が売れていることだけだったりして。そうならば杉村太蔵議員は、もっとも「有能な」議員の一人となる。
 怖いッス……。(大畑)

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2007年12月27日 (木)

■月刊『記録』1月号発売!

『記録』08年1月号が発売。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~astra/link/test0712.html

 

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2007年12月26日 (水)

薬害肝炎訴訟とミドリ十字という怪物

<脅しの道具は血清肝炎という病気であった。(中略)輸血を受けた人たちの二〇パーセントは、この恐ろしい病にかかるのですよ。私は、あざとくならないように心を配りながら、そういって読者を脅し続けたのである。忸怩たる思いはいささかあったが、これこそ「必要悪」と割り切ったのであった。でも、あざとい脅し方をしたわけではない「黄色い血の恐怖」の前文に出てくる二〇パーセントという数字は、ごく控え目に見たものである>
1960年代に売血を止めさせるべく読売新聞紙上で「黄色い血」キャンペーンを打った本田靖春氏の述懐である(『我、拗ね者として生涯を閉ず』より)。本田記者の主たる敵は売血最大手の日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)。そして行政側で「売血は必要悪」としていた旧厚生省薬務局だった。
本田氏の前掲書によるとキャンペーンが功を奏し始めて日本赤十字社への献血が軌道に乗ってくるとミドリ十字は厚生省課長を通じて日赤の廃血を取り引き材料に採血から完全撤退すると告げてきた。結局そのようになってミドリ十字の売血は消滅する。
ミドリ十字は廃血からの血漿分画製剤へ転換し、売買血が許されている米国から血漿を輸入して新たな形で生き残る。そして血友病患者への薬害エイズ問題へと転換、731部隊出身の内藤良一創業者は松下廉蔵元厚生省薬務局長を迎え入れて組織防衛をしていた。この報を聞いた本田氏は前掲書で<私が至らなかったばかりに、亡くならなくてもいい血友病患者が亡くなった。その責任の一端はこの私にある>と後悔する。
本田氏は晩年<取材で何回も血を売りに行ったのが原因>と目される肝臓ガンを患ったまま2004年12月に亡くなった。

もし今、本田氏が生きていて今日の薬害肝炎訴訟の報を聞いていたら何を書くであろうか。フィブリノゲン製剤を国内で生産していたのはミドリ十字だけだった。第9因子製剤クリスマシンも同様である。「黄色い血」キャンペーンの時すでに「二〇パーセント」の恐れがあった行為を平然となしていたミドリ十字。本田氏はそれを「脅し」と表現したが今となっては脅しどころの騒ぎではなく正真正銘の本件だったとわかる。
そして1960年代からこの背徳企業を陰に陽に擁護し続け、主な天下り先にまでしていたのが旧厚生官僚だったのも明らかだ。

私は本田氏に「責任の一端」があるとは思わないけれど、そう自制するジャーナリストの倫理観を尊敬する。対して旧厚生省や製薬会社、厚生省を含む行政とそのトップである内閣の対応は余りにもお粗末だ。一方で感じなくてもいい責任を痛感して恥じ入る者がいる。他方で感じなければならない責任を何とも思わない輩がいる。驚いたことに後者は表向き「厚生」(健康の維持増進)を仕事とするはずの公務員だ。
ミドリ十字という存在は戦争と戦後が生んだ怪物または鬼である。しかし怪物や鬼は培地がなければ育たなかった。それが厚生行政だったのは今さら説明するまでもない明白な事実で「国の責任はない」云々をどの口が言わせるのかとあきれるばかりだ。組織が腐る時、堕落する過程では官僚の誇りも立派であろう学歴も何ら役立たないどころか腐敗の促進剤にさえなるようだ。
行政トップの福田康夫氏が内閣総理大臣としてではなく自民党総裁として議員立法の形での救済を決断したのは確かに情けない。ではあるがかえってよかったのかもしれない。行政の責任追及が司法でかなわなければ立法府が担うしかないのだから。どんな法案が出てくるかは与党の死命を制するであろう。
訴訟の原告団は自らの救済を拒否してまで被害者一律の救済を求めている。死の恐怖にある者が自己の利益でなく公を考えている。できないことだ。私にはできそうにない。と同時に公に奉仕すべきは本来は厚生官僚のはずである。その倒錯にはめまいがする。だらしない法案が出てきて原告団に血涙を流させるようでは自公政権はおしまい。そんな事態を見逃したらジャーナリズムも死んだも同然だ。(編集長)

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2007年12月25日 (火)

メリクリ☆

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 今日はクリスマス。昨日は月曜日でクリスマスイブだったからケーキを買って、シャンメリー飲んで、ケンタッキーでフライドチキンを食べた家庭が多いかと思われる。

 昨日のことだが、夫が銀座へ行きケーキを買ってきてくれた。

 

 さて、今年は空前の食品業界の偽装ブーム。赤福、白い恋人、不二家ほかいろいろ。

 北海道土産で白い恋人を食べまくったあとに偽装が判明したときはビックリ。そして、小さい頃から好きだったペコちゃんも偽装。

 ミルキーはママの味どころではない。あのペコちゃんの舌は、「消費者騙すなんてたいしたことじゃないよ」と舌なめずりしている姿だったのか。

 

 クリスマスを前にして不二家の偽装が再び判明した。つい最近、営業を再開し、さんざん叩いたマスコミもお涙頂戴ドキュメンタリーの放送したときは失笑を禁じえなかったが、結局、小売店がいくら販売努力しても本社の体質が変わらない限り消費者は騙され続けるのだろう。

 

「不二家にはがっかりだよ」(桜塚やっくん風)と思いながらニュースを見ていたら、夫が「お土産」と言いながらケーキの箱を差し出してきた。

 ちょうどケーキが食べたかったので喜びながら箱を見てみると、不二家のデコレーションケーキだった。

 

 その日の夕方、家族みんなでケーキを囲み紅茶を飲んだ。

チョコレートに描かれたペコちゃんの目が邪悪な光を放った気がしたのは気のせいだろうか……。

 

クリスマスケーキは作り置きとはいうが、やはり不二家のケーキは懐かしい感じがした。

ごちそうさまでした。

来年は天使の笑みを浮かべたペコちゃんと会えますように。

メリークリスマス。

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2007年12月24日 (月)

エガちゃんと福田首相が同列に!?

 私はインターネットエクスプローラーの「ホーム」を「IGoole」にしている。そのためネットを立ち上げるとまずグーグルの検索用の窓が現れ、その下に最新ニュースやYou Tubeで話題のビデオ一覧やB級のニュース一覧が並ぶ。もちろん、その一覧から気に入ったものをクリックすれば、即座に記事や動画に飛べる。

 ちなみに現在ホームに並んでいる項目は、「薬害肝炎、一律救済へ 首相が方針を転換」、「【12月21日の必読記事】田原総一朗:薬害肝炎、年金問題を放棄 国民から見放された福田内閣」、「タイ下院選、タクシン派が勝利・国軍も容認」、「『M-1グランプリ2007』 サンドウィッチマンが敗者復活組から初優勝」、「江頭2:50『チ○コ、マ○コ、○○コ!』『お前にチ○コをズームイン!』 女性リポーターを襲う」、「猫丼の作り方」などである。

 つまり私のネットの入り口は、薬害肝炎に対する首相の決断も猫丼も江頭2:50の暴走も、同列で扱われている。本来なら同じカテゴリーに入れられるはずもない福田首相の決断と江頭2:50の暴走が、時間を浪費する「娯楽」情報として同一線上に並んでいるのだ。

 かつてホリエモンが「ニュースバリューはアクセス数で判断されすべきで、編集者の恣意的な選択などいらない」というような発言をした。当時は少なからず反感を抱いたものだが、現在の私も同じようなことをしているわけだ。少なくとも雑多な情報を同一線上に並べて選択するという思考法という意味では。
 ものスゴイ勢いで現れ、一瞬で消えていく大量の情報を追うとき、この思考法は都合がよい。何より面倒くさくない。

 以前批判したレストランの『ミシュランガイド東京』も膨大にあるレストランを一列に並べ、シチュエーションやTPOに関係なく、一気に評価する手法が一緒だ。おかげでデートに使うべき店と、接待で使うべき店の差が星付きの店では消滅した。「星付きなんですよ」と言えば、クライアントも恋人も満足するからである。

 このように書くと、「ランキングもの」に代表されるこうした思考法が、取り立てて目新しいものではない感じるかもしれない。しかし、それは半分当たりで、半分は外れている。
 例えば大手取次が発表する年間ベストセラーなどは、新聞検索で1985年には検索に引っかかるのに、恒例行事として新聞で大きく報道されるようになるのは92年以降である。

 また深夜の音楽番組としてしっかりと定着した感のあるTBSの「COUNT DOWN TV」も、93年から始まっている。この番組の最大の特徴は、歌を聞く番組ではないこと。音楽はサビの部分しか流れず、50位からどんどんカウントダウンしていく。もちろん音楽ジャンルの差など構わない。演歌もアニメの主題歌もJポップも一律に並べられる。歌手を見、歌を聴く番組だったTBSの「ザ・ベストテン」と比べると、その違いがハッキリする。89年に番組終了した「ザ・ベストテン」からわずか3年、ランキングは歌を聞く以上のエンターテインメントになったわけだ。

 ちなみに売り上げランキングなどを基に、上位の商品だけを取り扱う雑貨店「ランキンランキン(ranKing ranQueen)」も、91年に1号店が渋谷駅にオープン。この店の出現によって、書籍からお菓子、CDまでのあらゆるものが、売り上げという名の下に等価値を持つようになったといえる。

 つまり90年代に入り商品そのもの以上にランキングが重要となり、そうした価値観を95年以降に普及していったインターネットが一気に広めたのである。その結果、いまやニュースサイトよりブログの方がPV(ページビュー)を稼ぐようになったとも報じられた。
 正しい情報かどうかよりも、多くの人に支持された情報であるかどうかが重要になっているのかもしれない。しかもランキングの決定における不公平さは、あまり問題とされない。こうした流れが大きく変わることはもうないだろう。

 小社のような弱小出版社は地味だが重要(だと思える)情報を、どう加工していくのかを考えなくちゃいけないのだろう。(大畑)

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2007年12月23日 (日)

「死化粧師」を観る 第12回(最終回)/泣きながら受け入れる

 エンバーミング(遺体衛生保全)という、パソコンで変換しても絶対に一発では出てこないまれな仕事を題材にした三原ミツカズ原作のドラマ「死化粧師」も今回で最終回を迎えた。エンバーマー・間宮心十郎(和田和人)は、愛する人をエンバーミングすることでどのような成長を遂げるのか。――と、最初からヒロイン・アズキ(篠原真衣)が死ぬであろうと思ってしまっている筆者であったが、案の定お亡くなりになった。前回、トラックにひかれて傷だらけになってしまった顔はそのままで。
 発狂寸前の心十郎に、葬儀屋・恋路(忍成修吾)は「アズキさんのご両親が、エンバーミングを望んでいる」と酷な一言を投げかける。仕事熱心にもほどがあるぜ。当然、心十郎は「俺にはできない」と拒否するのだが、恋路は「親父さんを乗り越えろ」と諭した。そう、心十郎の父親もエンバーマーで、亡くなった妻、つまり心十郎の母親に、心十郎の目の前でエンバーミングを施したのだ。「お母さんと約束したんだ」と言いながら。そんなに強くなれるだろうか。でも、心十郎は父親を意識してエンバーマーになって、ずっと追いかけてきたのだ。恋路はそれを知っている。だから依頼した。
 しかし心十郎は、愛する人のエンバーミングを頑なに拒んだ。当然といえば当然だ。エンバーミングは全身の血を抜く作業だ。皮膚にメスをいれ、顔にパテを塗っていく。心を深く通わせた人が、自分の手で人ではなくなっていくのを、より深く死んでいくのをじわじわと見せつけられるのは、よほど達観しているか神経が図太くなければ耐えられないだろう。でもそれは、死を肯定していない態度だ。死を相手にしているのに、肝心なところで死を否定してしまっているのだと思う。もう言葉を発さないとしても、二度と目を開けなくても、少しでも長く人々の胸にその人を生かしめたい。死してなお生きる手助けをしたい。だから闘うのが、エンバーマーなのではないだろうか。

 私が葬儀屋だったころも、身内の葬儀は担当できないのが業界の常識のようになっていた。たいていは喪主の立場になってしまい、主役が取り仕切るというのも忙しないから、もしくは商材やサービスをちょろまかす危険性があるから、または色々知っているのをいいことに無理なことを言う可能性があるから、といった理由ももちろんあるのだが、精神が普通の状態でないときに仕事をしても絶対に手落ちがあるから、というのがまかり通った理由であった。会社として、危険な施行は避けたいのだ。
 私個人は、身内の葬儀は自分で仕切りたい。死に化粧もしてあげたい。体も拭いてあげたい。逆に、葬儀屋などに身内の体を触らせてたまるかという思いがある。しかし実際にその場に立ったとき、自分がどこまで思うとおりにできるのかについてはまったく自信が持てない。

 ドラマでは、結局心十郎がアズキにエンバーミングを施した。彼の心を動かしたのは、アズキの弟・ミツルの言葉だった。
「お願いだ。姉ちゃんを、心ちゃんの手でエンバーミングしてくれ。姉ちゃんを、なかったものにしないでくれ」
「なかったもの」とは、ミツルがふざけて持ち帰った英語のエンバーミング教本に書かれた言葉の引用だ。
「死者を、なかったものにしてはいけない」
つたない和訳だが、ひとの死から目をそらすな、受け入れてさらに生かしめろ、という意味に相違ないだろう。
 心十郎はそれを聞いて、泣きながらエンバーミングすることを選んだ。悲しんだままで受け入れる決心をしたのだ。それは、死に臨む者にとってとても大事な姿勢のように思えた。

 さて、心十郎はどのような成長を遂げたのかというと、お決まりのようだが、エンバーミングをしたあとも震えが来なくなった。寒くて「体温がほしい」と言っていたのが嘘のようだ。いや、ドラマではそれについて特に言及がなかったから、もしかしたら私の思い過ごしかもしれないが。震えが来なくなった理由については、ここでは措こう。なんだかいまさら野暮な気がするから。(小松朗子)

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2007年12月22日 (土)

『吉原 泡の園』 第47回/ボーイにも左遷はある

 夏も終わりを告げようとする頃、いよいよ本格的に内装全面改装が本格化し始めていた。
 名前を変えるかどうかは、まだ保留のまま、様々な業者がR店に来ては会長や店長と打ち合せを行なうようになっていった。
 第2待合室に会長が来る。店内はガチガチのピリピリムードになる。そして、この時ばかりはマネジャーも怒鳴るのをやめる。やめるのだが、さすがにボーイの動きが気に食わなく、顔だけは怒っているのだった。
 会長がトイレに立つ。すぐにおしぼり保温器からおしぼりを取り出し、ビニールからおしぼりを出し、熱々なのでちょうどいい熱さにさますのも、大事な作業なのである。
 会長がトイレからでると同時に、
「おしぼりでございます」
 と言って両手で丁寧にお渡しする。
「あ、ああッ」
 と何気なくおしぼりをとるのだが、どこかまんざらでもない様子。つまり、もともと20万やそこらで、○代目○口組若頭射殺事件で破門になった組にいたため、逃げるように吉原に来た会長が、今や社員数百の暴力会社の会長に成り上がったのだ。まんざらでないはずはない。
 もちろん、会長は入れ墨はもとより、指詰の経験もある。大変な苦労人でもある。人の心を読む力もあるので、僕はそう思っても思っていないように努めるのだった。おしぼりでササッと拭くと、ポイと僕におしぼりを投げ返す。その仕草が完全にボーイは屑。とその動作が表しているのだった。
 悔しかったら上になれ、無言でそう言っているようでもある。
 もともとR店の店舗の基礎、骨格は古いらしい。また、この場所は以前は花魁の寮があったそうだ。江戸時代、遊郭と呼ばれていた頃には、この場所で花魁が生活していた。それだけ多くの花魁が寝起きする歴史の中で、自殺を含め多くの死があったそうだ。この場所で。いわくつきの土地だったのだ。
 そのためか、R店の102号室は夏でも涼しく、あそこは出る。ともっぱらの噂だった。もっとも、幽霊よりもマネジャーの方が怖かったのだが。新しい店舗に向け、何もかもリニューアルしよう、そう考えるマネジャーが、女の娘も新鮮で頑張るコをそろえようと躍起になってもいた。まず、Rグループの姉妹店で、北九州にある店から東京にひき抜くコがいるという話しが出た。
 わざわざ北九州からくるのか、と大変だなと思ってみたが、ボーイも東京から北九州に行くケースがある。ようするに左遷である。そして、それを脅しに、店の幹部はボーイをこき使うケースもあった。
「九州、いくか?」
 それだけで普通のボーイは真っ青である。僕も冗談交じりで聞かれたことがある。姉妹店のDの社長に。R店の店長の前でだ。
「あ、い、あ」
 と戸惑っていると、店長が助け舟のつもりで、
「もちろん、よろこんで行くよな、ハハハ」
 と僕に言ってきた。Dの社長も人の心に感心があるのか、あるいはボーイをあまり信用しない人なのか、用心深く、僕のそんな態度を見て冷たく微笑んでいた。もう、僕には笑って冗談の言える余裕はなかった。
 このD店社長Aさんは、マネジャーが師匠と呼ぶお方だった。以前、マネジャーもR店繁盛のため、D店に武者修業にいっていたそうだ。そこでA社長に弟のようにかわいがってもらい、ソープランド経営のノウハウ、あるいはスタッフの束ね方などを教えてもらったそうで、A社長の前ではまるで別人で、A社長もそんなマネジャーを気にいり、マネジャーのことを「専務」などといっておだてていた。
 何が専務だよ、あの怒鳴りっぱなしの人のせいで、客が怖がってサービス前に帰る人が続出する始末なんだ。あんたらの師弟愛などみたくもないんだよ。
 みんなそう思っていただろう。A社長には店長も頭があがらない。RグループでいえばA社長などまだまだひよっ子なのだろうが、R店はRグループ本店にもかかわらず、売上でいえば常にビリかもしくはブービー賞がいいところなので、頭があがらないのだ。
 もし、Rグループで、売上が1,2を争えるくらいになれば、マネジャーもふんぞり返るだろう。僕も給料は50万以上になり、あるいは昇格するかもしれない。まあ、R店に限っては、夢のまた夢である。
 給料に関していえば、大入りという制度がある。水商売全般にいえることだが、その日の売上が、このラインを超えると、その日の帰りに大入りと称して5000円や10000円が貰えるのだ。R店もそれはきちんとやっていた。
 あと10000円で大入りだから、頑張ってあと1人客をひけ、などというとき、僕が外で客ひきをやっているとプレッシャーになる。
 自分の給料にも関わってくるが、ほかのボーイにも関わるからだ。
 もし、僕が客をひき、その客が10000円分店に落とすと、大入りになる場合、その日の夜食が豪勢になるか、あるいはコンビニで済ませることになるかが決まるのだ。そんなプレッシャーのある時は、マネジャーに見えない位置に移動して、タバコで気を落ち着かせるのだった。(イッセイ遊児)

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2007年12月21日 (金)

クリスマスのディナーはやめておけ!

 クリスマスが近い。ミシュラン発売が大騒ぎになったことだし、星付きのレストランはきっと大いににぎわうことだろう。以前触れたように『ミシュランガイド東京版』は「東京いい店やれる店・2007」なのだから、きっと星の数と男の情熱は一致するに違いない。バブル期、同じティファニーのオープンハートをプレゼントされるのでも、シルバーよりゴールドの方が「偉かった」ように。

 こんなふうに書くと、クリスマスイブが大掃除、クリスマスが仕事の恨みをはらせるようで少し嬉しい。まあ、星付きの店を予約している人は、そんなことを気にも留めないだろうが……。

 そもそもクリスマスシーズンにイタリアンやフレンチに行くのは控えておいた方がよいのだ。まず料理が高くなる。クリスマスのスペシャルメニューと称して、選択肢のないコースが1.5倍から2倍の値段になる。プリフィックス制がうりの店であっても、この時期は例外。しかも客を大量にさばくために、時間制を設けて1テーブルに2~3組の客を入れる店も。当然、サービスは荒くなる。
 スペシャルメニューなのでたいてい食材が高級になるが、普段より美味しいかは微妙だ。時間がなければ火入れの時間が短くできる料理が多くなりがちだし、普段より丁寧に作る時間がない。

 というわけで、イブの夜の外食を彼女などからせがまれたら、きっちりと断るべきであろう。「本当に美味しい食事を君と食べたいから」などと言いながら、クリスマスディナーのコストパフォーマンスがいかに悪いかを説明すればよい。わたし自身はこのような説明をする必要に迫られなかったが、実際に10年以上、イブの豪華ディナーなど食していない!

 しかーし、賢明なる読者の皆様方におかれましては、どうしてもイブに彼女や奥さまを食事に連れ出さなくちゃいけなくなった方もいるでしょう。
 というわけで、そんな読者の方に逃げ道を1つ。

 狙い目はランチである

 たいがいの店はランチを通常料金で出している。しかも「戦場」となる夜に向け、体力を温存している店内は何ともユルく、かなりゆったりと食事ができる。また、意外なほど空いている。外はクリスマス一色なのに、レストラン内は弛緩しまくりというミスマッチはけっこうお勧めだ。
 さすがにミシュランで星の付いた店は昼でもいっぱいだろうが、「アスクユー」あたりで高得点をたたき出しいてミシュランで星が付いていない店なら、まだ可能性があるだろう。

 ランチなので夜に比べるとかなり安くつくのもありがたい。デザートが充実している店ならば、クリスマスケーキを別に買う必要もない。昼だとクラシカルなコッテリ・フレンチもけっこう美味しく食べられる。
 ほら、いいことずくめでしょ!(大畑)

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2007年12月20日 (木)

■制作中

月刊『記録』の制作中である。どうにかこうにか今年最後の発行に至りそうである。毎度のことだが多少ラインナップが濃厚すぎる感じもするが、次作も乞うご期待。

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本当に安全な農作物にJAS表示がない!?

 現在、「有機栽培」や「無農薬栽培」と表示をするには、国が定めた検査に合格しなければならない。2001年4月のJAS法が改正によって定められたものだ。
 「有機」や「無農薬」といっても基準がバラバラ、本当にマジメに取り組んでいる農家かさえ分からない。安全に対する国民の意識が高まっているから、今まで通りの農法で表示さえ変えれば高く売れると考えている農家もあるだろう。そんな消費者の不安に応えた法改正のはずだった。

 ところが一部の良心的な有機栽培の農家が、JAS法に基づく有機無農薬の検査・認証を申請していないという。その理由の1つが検査員の旅費や手数料だ。もともと有機無農薬の農法は従来のものより手間もコストもかかる。しかも農薬や化学肥料を使わないとなれば、当然のことながら生産が不安定になる。ときに虫が大量発生し、農作物に壊滅的な打撃を与えることさえあるという。そうした有機無農薬の農家にとって、10万円以上にもなる検査費用は安くはない。
 
 またJAS改正法成立そのものについても、不信感を持っている人は少なくないという。この法律の推進に大手商社の影がちらついたため、海外から格安の「有機無農薬野菜」を輸入するのが目的だと疑われているのだ。実際、法律改正後から中国の有機農産物が大量に輸入されている。

 もともと有機無農薬を目指した農家の多くは、従来の農法に疑問を感じた人たちだった。安全を確保するのはもちろんのこと、その土地で採れた野菜をその土地で消費することで、人も生態系の大きな循環の中に生きていくことができる。そうした理想に向けて、ムリを承知で頑張ってきた人たちが大勢いる。そうした人たちにとって、野菜を大量に輸入するために作られたマークなど意味がないと感じるのは当然だろう。

 そのうえJAS改正法の定めた基準をごまかすことなど、さして難しくないのだという。実際、農薬を使った農作物から殺虫剤が検出されたとして、有機JASマーク表示業者としての認定を取り消す事件も起こっている。
 頻発する国内の食品偽装、さらに中国などで起こった食品汚染などの現状を考えれば、有機JASマークだけを信じろと言われても無理な話だ。
 
 結局、味もよく安全で、長年にわたってお客さんの信頼を築いてきた農家はJAS表示を申請しないで、大手流通に商品を流すことなく消費者に直接農作物を送っている。もちろんマジメに有機無農薬に取り組み、JAS表示を受けた人も多いだろう。
 しかし商品に自信があり、長年の顧客を抱える農家がJAS表示を申請せず、法改正に合わせて出荷できるよう商社の指導の基で3年間だけ農薬を使わなかった海外の農家がJAS表示を得た。

 どこかおかしくないだろうか!?

 今回話を聞いた、ある有機無農薬栽培の農家は「20年間、農薬を使わないで土地の微生物を整えて、やっと本当に美味しい野菜が採れるんです。一朝一夕にはできませんよ」と教えてくれた。
 彼の野菜はJAS表示をしていないが、その安全性と旨さに着目した料理人からも注目され、個人宅だけではなく高級料理店からも引き合いがきている。(大畑)

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2007年12月19日 (水)

新聞はでかすぎて厚すぎる

アクセス数をみていて面白いことに気づいた。新聞について書くと急減するのだ。これはすばらしい。新聞のことを書こう!

07年のアメリカ新聞界は大揺れだった。発行部数3位の新聞グループでシカゴに基盤を持つ「トリビューン」が不動産王に買収された。4位のダウ・ジョーンズはジャーナリズムのかけらもないマードックに身売り。ウォールストリートジャーナルがマードックの手に落ちたというのは驚きである。
前年の06年には2位のナイトリッダーがマクラッチーに買われている。これで業界は唯一の全国紙「USAトゥデー」を持つトップのガネットと5位のニューヨーク・タイムズに焦点が絞られてきている。
アメリカと日本の違いは発行部数である。USAトゥデーでさえ225万部。ナイトリッダーはもろもろ合わせて300万部。高級紙のニューヨーク・タイムズに至っては100~150万部。単一の題号で比較すればせいぜい日経から大きな地方紙程度の規模。日米の人口比を考えるといかにも少ない。

いや日本の全国紙の発行部数が大きすぎるのかも。読売1000万部、朝日800万部、毎日と中日新聞グループが400万部。特殊指定と再販売価格維持制度が「両輪」として機能しなければ維持できそうにない部数である。
ニューヨーク・タイムズは電子版が充実していて私は助かっている。大胆なネットへの移行をはかっているようだ。2・3・4位の新聞グループが荒波に飲まれている様子をとても平然とは見ていられまい。答えはネットしかないと業界の誰もが分かっている。しかし「紙」あっての新聞との観念はアイデンティティーに近いから輪転を止める勇気はない。かくして日本の新聞も恐る恐るネットに進出しつつも印刷は止めない。その紙代は高騰の気配にある。

新聞を読まない高校生に理由を聞くと意外と多いのが「でかすぎる」だ。ハラキリを避けるレイアウトだとちょうど真ん中で折って読むこともできない。考えてみれば全国紙の標準サイズであるブランケット判はA2より大きい。両面を広げたらA全以上である。よくよく考えるとこんなにでかい読み物は他にない。
といって半分サイズのタブロイドにすると「タブロイドになってしまう」という抵抗が起きる。日刊ゲンダイや夕刊フジと同じ大きさになれば成りまで同じに思われては堪らないとよくよく考えればどうでもいいところが気にかかる。書籍や雑誌では同じ判型で専門雑誌もあればエロ本もある。全国紙がタブロイド判になっても内容まで馬や裸を入れなければならない理由はない。紙代一挙節約となるのに、でも踏み切らないどころか議論にさえならないのは強烈な精神的抵抗線があるからだろう。でもそんなこだわりは前述高校生の「でかすぎる」の一言の前では何の説得力も持たない。
ページ数も多すぎる。80年代頃まではドンドンとページを増やすのが競争だった。一紙が増やせば他紙も追随する。もう36ページ建てにまでなってしまった。歴史上白のページを作ったことがない各紙は、したがって何らかで埋めねばならない。美意識として一行空白さえ許さないから仕様もない記事が入ってしまう。たいしたニュースがない月曜日の紙面はどこもスカスカである。だが下手に建て数を減らせば「薄い=貧弱」と批判されそうでできない。これまた作り手の被害妄想にすぎないと多分作り手自身がわかっていても踏み切れない。

でかい判型に多くのページ数となれば当然紙代がかさむ。一方で広告スペースは豊かになる。だがそれが有効なのは広告が入ればこそだ。この本山彦一が考案したビジネスモデルは今や崩壊の一歩手前である。私の会社は出版社なので新刊が出るとなれば三八ツに出稿しようかと思案しなくはない。三八ツとは一面などの下三段を八つ割にした書籍広告の定番である。
ここの実勢価格が実のところ以前では考えられないほど安くなっている。タイミングによっては驚くほど安い。それでもたいがいは見送る。安いというその値が惜しくなるほど効果がないからだ。三八ツを利用している御同業からも販促効果よりあいさつ代わりの経費と割り切っているとよく聞く。

結局何かの付加価値を見いださない限り新聞の未来は暗い。その点で得をしているのが朝日新聞だ。まず熱烈な支持者がいる。ただこの点は多少の差はあれ他紙にも通じる。朝日が強いのは熱狂的なアンチも抱えている部分だ。「左翼新聞」「どこの国の新聞だ?」「朝日の朝は北朝鮮の朝」みたいな朝日批判がネットでは至るところで垣間見える。
朝日新聞が進歩的で弱者に目配りして(だから左翼っぽい)いて反日だ……などという批判は記者クラブに一週間もいれば「シンジラレナーイ」である。そのように見せかけておけばファンとともにアンチも付いてくる。何か悪口を書くためには朝日を読まねばならない。悪口であっても何も触れられないより存在感が残る。『週刊新潮』なぞ朝日新聞の読者を増やす隠れファンではないかと思うほど。
もしこれが単なる成り行きではなく朝日新聞社のしたたかな計算に基づいているとすると……ネットで朝日罵倒を書き連ねている皆様は体よく踊らされている格好となる。(編集長)

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2007年12月18日 (火)

銀座で猫

Cat 土曜日のこと。
 銀座へ行ってきた。目的はユニクロと、1000円カット。マロニエ通りから銀座2丁目に出て、4丁目交差点の方へ歩いていったところ……。
 ミキモト、山野楽器あたりに、カメラ付き携帯などを片手にパシャパシャ撮っている人たちがいた。
 なんだなんだと普段は人だかりに興味を示さないが、せっかくなので近づいていってみた。
 土日の銀座は歩行者天国になっている。「人寄せ行為」が禁止になっていて、道路中央にはテーブルがいくつか置いてあり銀ブラを楽しむ人々が憩いでいる。
 そこにその奇妙な人だかり。
 近づいてみてみると、「銀座4丁目」の表記看板の上に3匹の猫。
 「ぬこ!ぬこ!ギザカワユス!」(中川翔子風)って感じでバシャバシャ撮られている。
 看板の上で眠る猫に奇妙さを感じながらも、面白い被写体だったので私も携帯カメラで撮ってみた。
 毎年恒例の8月15日靖國神社肉弾戦取材で鍛えられているので、人混みをくぐり抜け良いポジションを取ることにはなれている。
 絶好のポジションをとったものの背が低いのでオヤジの頭の攻撃と、逆光で良い写真を撮ることができなかった。
 しかし、その猫3人組(親子?)だが、撮られ慣れているのかどうかはしらないが、たくさんの取材陣に囲まれながらも堂々としたそぶりで佇んでいる。
 周囲から、「あんなところで寝てるなんてかわいそう」という声がちらほら聞こえたが、かわいそうだと思うんなら降ろしてやりなよ……と呟きそうになった。
 動物愛護の観点からみればかわいそうなのかもしれない。しかし、猫にも猫なりの意志があるわけだし、なにか嫌だと感じたら逃げ出すだろうが、ペットとして生きてきて、野生さを失っているのならば無理かもしれない。
 猫たちをみて、いくらかわいそうだといっても逃げ出すことはなさそうだった。

 1時間後。
 ユニクロで大量に買い込みヒーフーいいながら猫たちの様子を見たらいなくなっていた。
 今後この猫たちとまた遭遇するのだろうか。(奥津)

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2007年12月17日 (月)

トヨタ生産方式で英語が上達するって!?

 トヨタ自動車が日本一の企業といわれるようになってから、けっこうな時間がたつ。そこからずっとトヨタ礼賛が続いている。もちろん「流行」に敏感な出版界もブームにのった。インターネット上の書店「アマゾン」で「トヨタ」を検索すると、なんと4043件もの書籍が引っかかった。そのうち159冊が今年出版されたものだというからスゴイ。

 その本の内容といえば、トヨタ生産方式の説明あるいはトヨタ生産方式を活用した自己啓発本だ。下請けや労働者をギリギリまでこき使い、「乾いたゾウキンを絞る」とも評されるコスト削減を押し付けるトヨタ生産方式を自分に課すなど理解に苦しむ。マゾヒスト御用達の本かとも思ったが、これがけっこう売れているらしい。

 しかし、それでもまだ自分の成長のためにトヨタ生産方式を使うのなら、何となく理屈は通るような気がする。「人間力」が大事と唱えるトヨタイズムは自己啓発と肌合いが似ているようにも感じるからだ(下請けが自殺するまでコスト削減を叫ぶ企業の「人間力」などつけたくもないが)。

 でも、英会話とトヨタ生産方式ってどうなんだ???

 少なくとも普通なら両者に何の関連性も見出せない。その意味で『トヨタ流英語上達術』(スティーブ・モリヤマ著 ソフトバンクパブリッシング)には驚かされた。書名を見る限り、現場に張り付き、ムダを無理やり見つけては「カイゼン」し、採算性向上とコスト削減に力を発揮する生産方式を使って英語を上達させると思わせるからだ。
 
 で、結論からいえば、両者は見事に結びついていた!

 この本は現役の「トヨタマン」6人へのインタビューで構成されている。そして、彼らのほとんどは英語ができないまま海外に派遣されたのである。
 例えば、本書に登場する野中靖氏などは「外国人との接点はほとんどない部署にいましたので、まったくしゃべれませんでした」という英語レベルで、40時間だけグループレッスンを受け、着任早々、欧州投資銀行の借り入れプロジェクトに加わったという。おかげ現地の外国人担当者と毎日のように電話で1時間も会話しなければならなかったというから、現場主義もここに極まれりである。なんといっても中野氏本人が英語が上達した最大の理由を「やっぱり危機感でしょうね。一番の要因は」と分析している。

 語学ではなく、仕事ができるかどうかという基準によって選ばれ、いきなり海外に派遣される。それが「トヨタイズム」らしい。しかも「現場に送り込まれれば、トヨタマンなら英語ぐらい何とかする」と会社から「信頼?」を寄せられているらしい。

 おかげで本書で説かれる英語上達術に目新しいものはない。
 最終的にはワシントンでロビイスト相手に活躍した小西工己氏ですら、「わからん単語を(辞書で)片っ端からひくというローテク」で英語をマスターしたのだから。ただし極限まで溜まったストレスによって、顔に帯状疱疹ができたそうだが。この本の読者が、そこまでして英語を話せるようになりたいかは、かなり疑問だ。

 こうした責任重大な仕事を押し付けて現地に飛ばすという「英語上達法」と同時に本書が説くのが、英語は道具でしかないという「哲学」である。そのため英語上達法の本なのに、コミュニケーションで大切なのは英語よりも人間としての魅力だと力説する。

 ある意味スゴイ!

 この内容で『トヨタ流英語上達術』と書名を付けたことには、かなり感動した。

 ただし、本書に意外な使い道があることを読んでいて発見した!

 なんと現役「トヨタマン」が、トヨタイズムにどれほど洗脳されているのかを知ることができるのである。
 例えば、トヨタ内だけで通用する「トヨタ語」を英語に翻訳するのが非常に大変だったという思い出を語るシーンで、あるトヨタマンは「やっぱりかなり特殊な世界で生きている気はしますね。英訳できないということは、彼らはそういうコンサーンを持って仕事していないわけです。言葉がないんですから……」と語っている。

「初めに言葉ありき」ではないが、言葉がなければその世界を構成できない。だからオウムのようなカルト教団では、その教団内だけでしか通じない特殊用語が大量にはびこる。このトヨタマンは海外で初めてトヨタの特殊性に気づいたようだが、系列会社を除けば国内でもトヨタが異質な会社であることに気づくべきだろう。

 というわけで『トヨタ流英語上達術』は、トヨタウォッチャーにはお勧めである。そんな人がどれだけいるのかわからないが。(大畑)

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2007年12月16日 (日)

「死化粧師」を観る 第11回/死者の「意思」

 三原ミツカズ原作のドラマ、「死化粧師」も今回を含めてあと2回となってしまった。10月に見はじめてからはや2ヶ月。早いものだ。
 今回のドラマのテーマは、「愛する人を失ったら」。
 エンバーマー・間宮心十郎(和田和人)は、病院内で知り合いになった、今は亡き母親に似た女性のエンバーミングを依頼される。異常なまでの夫の嘆きに、「何か胸騒ぎがする」と遺体の保全を渋る心十郎に、葬儀屋の恋路(忍成修吾)は「おふくろさんに似ているからエンバーミングしたくないんだろう」とズバリ言う。そのようには思っていない、ただ胸騒ぎがするのだと心十郎は訴えるが、恋路は「遺族の意思だ」とエンバーミングを強要した。

 結果、綺麗になった妻の遺体を抱えて夫が失踪してしまう。
「だから胸騒ぎがするって言ったのに…どうして気をつけて見ていなかったんだよ!」となじる心十郎に、恋路は「エンバーミングの依頼書にはサインをいただいたし、今日が火葬であることはちゃんと打ち合わせしてある。こっちにぬかりはない」と苦しい言い訳をする。
「紙の上だけで仕事してんのか! それでいいっていうのかよ! どうしちゃったんだよ!」と、さらに激昂する心十郎に向かって恋路は怒鳴る。
「こっちは、生きてる人間山ほど相手にしなくちゃなんねえんだよ! お前みたいに、ご遺体とだけ向かい合っていればいいってもんじゃないんだ!」

 前回指摘したとおり、似た者同士のすれ違いから摩擦が起こってしまったわけだ。

 結局、故人と知り合いだった心十郎が覚えていた「海岸でプロポーズされたの」という言葉をもとに、妻を抱えて海を見ている夫が発見されたのだが、彼に帰りを促すべく発した心十郎の言葉が秀逸だった。
「奥さんの体は、奥さんのものです。あなたのものではありません」
 死者と向き合い、きちんと尊重し、会話をしている者でなければ出てこない言葉だ、と思った。

 私が葬儀を仕切っていたころ、こんな発想が出てきたことはなかった。遺族が体を洗ってあげたいといえばそうしていたし、反対にそっとしておいてほしいと言われればそのとおりにしていたし、布団はここにおいてほしい、棺を動かしてほしい、などなど、遺族の希望に添えるように仕事をこなしていた。
 要するに、故人ではなく生きている人に向けて仕事をしていたのだ。葬儀屋は、残された人々、すなわちこれから生きていく人のための職業なのだ。
 エンバーマーも、もちろん生きている人の心を安らがせるためにある。しかし、彼らは遺体ともじっくりと向き合う。それだけに、死者だからといって遺族のいいように体が扱われることに敏感になるのかもしれない。

 そういえば、死者のために考えるとコレは疑問だな、と思えることが一つだけある。それは当たり前のように仏教式で葬儀をするという点で、もちろん寺に一家の墓があって、ようはそこの檀家であるということなら不自然でもないが、菩提寺がない、墓もこれから、という人が亡くなっても簡単に「仏さん」にしてしまうのはおかしいのではと思う。仏式の葬儀というのは仏弟子になるための儀式からはじまる。生前は信仰の自由が守られているのに、死んだとたんに仏教徒にされるというのはいかがなものか。みんなもう少しその辺を、当事者意識を持って考え直してみてはどうか、とささやかに提案したい次第である。当事者意識を持つというのは簡単で、死んだら仏教徒になりたいか、と自らに問えばいいのだ。おそらく積極的にそうしたい人はそんなにいないのではあるまいか。

 さて、ドラマでは心十郎とナース・アズキ(篠原真衣)がクリスマスイブの待ち合わせ。そういえばクリスマスなんてものも世の中にはあったな、と思いながら見ていると、心十郎の目の前でアズキがトラックにひかれてしまった。横断歩道の向こう側にいる心十郎に駆け寄ろうとして周りがまったく見えていなかったらしい。
 もうだめじゃない?! と思うほど血まみれなんだが、助かるんだろうか。
 それとも最終回は、愛する人をエンバーミングして終わっちゃうんだろうか。(小松朗子)

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2007年12月15日 (土)

『吉原 泡の園』 第47回/生き方の流儀

 人生で大切なのは何か、金にしても、名誉にしてもその人が大切だと思ったものが1番なのだろうか、たとえ東大を卒業しても、食うに困る人生では仕方がない、東大のような名誉ある大学にいかなくても、普通よりも金を得て、楽しく暮らせることが大切と思えばそれが大切か。吉原流。
 吉原の価値観で言えば、人生カネ。そのためには人の意見や噂などお構いなし。という後者の考え方が当てはまる。
 僕は基本的には吉原にどっぷり漬かって生きてきたわけでもなく、これからも上(社長)を目指すつもりも無かった。そこらへんの考えの違いが、マネジャーの怒りをかう原因にもなったのだろう。
「あれやったか?」
と頼まれごとを聞かれ、
「一応終わりました」
 などというと、その一応という言葉が大嫌いで、非常に怒り出す始末。
 今、金があり、これからも恐らくそれは変わらないという人生は、それなりに不安もなく、深く物事を考えないでも済んでしまう。
 あまり考えないとは恐ろしいことである。まず人の気持ちを考えない。
 フロントには会長の5か条なる、人生成功の大事な言葉が掲げてあり、そこには人の気持ちを考えろ、とある。
 しかしマネジャーはそんなもの微塵もない。俺が嫌ならやめろ。ただそれだけだ。
「今まで、こんな風にキレまくって、怒鳴りまくったし、喧嘩も売りまくった、けど、ここに来るボーイは誰も言い返さないし、喧嘩にもならねえ」
 とマネジャーは僕に言った事があった。が、この人とは確かに喧嘩にもならないのだ。要するに、自分の考えをしっかり持つのは良いが、それを強要する所があり、議論の余地もない。それにああ言えば暴力で、そこに付け入る話し合いの余地はない。
 しかしそれはマネジャー1人ばかりがわるいのではないと思ったのだった。
 在日韓国、朝鮮の親の元、温かい親子関係とは言えない日々と、日本社会での偏見、差別、学校の先生すら放棄したマネジャーという人間の存在。それらが帰結した形として、吉原ソープのマネジャーがいたのだ。
 だから、有名一流大学よりも、友達よりも、家族よりも、このマネジャーにとって1番大事なのは金だったのである。
 金があればNOとはいえない、言わせない。それが日本という国では、あるいは差別の中では大事なもんだと感じていたのだ。
 学校教育ですら金でどうにでもできる。家族が無くとも金があれば腹も満たせる。
 知り合いが無くとも、金があれば結婚までこぎつける。それがマネジャーの価値観なのだった。
 所が、金を得るためのソープで金も手に入っていない。金で思い通りにしようにも、ボーイはマネジャーを恐れ距離を置く。そうしたことが小さな言動ですらマネジャーを刺激し、すぐにキレさせるという風な人格にさせていったのだと思った。
 つまりは大人達のつくった社会やシステムの被害者でもあるのだ。
 その被害者はさらなる被害者を生む。それが下っ端の末端ボーイであり、社会底辺の掟のように定着してしまっているところに問題があったのだった。
 それでもここ吉原には次から次へと人が寄ってくる。
 それは客として寄り、従業員としてでもあり、花魁という立場としてでもある。
 従業員はこれでもかというくらい出入りが激しく、これでもかというくらいにどこかから沸いて来る。
 ただ、ここは吉原ソープである。一筋縄ではいかない者が最後に辿り着く、まさに人生の終着駅と考える者も少なくない。
 ヤクザすら勤まらないヤクザ者、刑務所を出たら、まずは吉原と考えるものが来るのだ。僕のようにレンタカーに揺られて、のん気に陽気に来るものなどみむである。後にして考えれば、刑務所などを出てくる人などに対しても、僕の態度はかなりふざけて見えたのではないかと思う。(まあ、僕はかなり真剣だったが)
 つまり、その世界のルールなどこれっぽっちも知らないで来たのだから、どう思われても仕方が無いのだった。
 僕と同じ出身の日本最大の暴力団の元組長が、関西を生活の拠点にした際、劣等感だったのが、
 1 関東出身者という後ろめたさ
 2 刑務所の経験が無いという事
だったという。
ならばその当時の僕も、やはり刑務所も少年院も経験が無く、周りの人間は実にそうした出が多く、ひそひそ話しを聞いてみれば、 
 どこどこの刑務所の刑務官とやりあった。などという馬鹿げたものだった。
 馬鹿げたものではあるが、話しが出来ないのは何だか牙をぬかれた男、という感じもして非常に居場所が悪かったことを思い出す。(イッセイ遊児)

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2007年12月14日 (金)

国民生活センターを整理かよ!

 独立行政法人の整理合理化が官僚の抵抗により、ほとんど進まないとマスコミで報じられている。天下りの温床であり、子会社を作って資金をプールしている独立行政法人もあるから「ガンガンぶっ潰してくれ」と言いたいところだが、その候補に国民生活センターが思わなかった。企業の不祥事が相次ぎ、消費者保護が叫ばれる最近の状況を考えればなおさらである。

 発端は今年9月に発表された内閣府国民生活局長の私的諮問機関である「国民生活センターのあり方等に関する検討会」の報告書だった。この報告書でも「消費者から寄せられる苦情相談件数も、平成18年度は約110万件に達するなど、高水準で推移している」と消費者トラブルが多発していることは認めている。実際、提言の3本柱は「情報の収集・分析・活用の強化」「消費者に対する啓発及び教育の充実」「消費者トラブル解決能力の向上」と業務の充実をうたっているのに、直接相談窓口を廃止し、商品テストを外部に出す業務縮小方針を打ち出したのである。

 しかもテストの一部を委託しようとしたのが、経済産業省所轄の製品評価技術基盤機構なのが気にくわない。経産省といえば、ずっと産業育成ばかりを考えてきた省庁である。消費者の安全と産業の拡大なら、迷わず産業側に付くDNAが組み込まれている。
 例えば原発問題では、原発を推進してきた経産省が原発の安全を監視する原子力安全・保安院を作り、電力会社を擁護しまくってきた。原発のひび割れが続出した東京電力が保安院の通達を無視したのに、その原発に「安全」のお墨付きを与えたりしているのだから、もう口アングリである。こんな省庁の所轄研究所に商品の安全性をチェックさせるなど自殺行為だろう。
 また、このようなテストに民間が参入すれば、建築基準法改正によって建築確認・完了検査を民間に開放し、大量の構造偽装マンションを生みだした悪夢の再現となる。
 直接窓口を廃止し、自治体の消費者生活センターで受け付けた情報に頼ると、国民生活センターまでデータが届くのに50日もかかるという。消費者生活センターが受けた膨大な数の相談をデータとして打ち込むのに大変な時間を要するからだが、そもそも組織の縮小で悪徳商法に約2ヵ月の猶予を与えるなど「改革」ではない。

 だいたい国民生活センターの問題は、そんなところにあるのではない。消費者からの情報が集められ問題の企業が特定されても業務停止などの権限がなく、所轄の官庁や企業に「要望」を出すしかないのが一番の問題だ。新聞報道によれば、NOVAへの行政処分は消費生活センターに苦情が寄せられてから10年近くたっているという。その間に何万人もの人がムダに高いチケットを買わされたことになる。
 また天下りの問題は行政独立法人の整理・縮小問題とは別にある。
 理事長を含む4人の役員のうち2人が内閣府から、1人が日本輸出入銀行からの天下りである。生え抜きはわずかに1人。経済企画庁の事務次官が天下っていることを考えると「美味しい」天下り先なのかもしれないが、こんな人事では味方であるはずの消費者から常に不審の目を向けられることになるだろう。

 結局、消費者団体や本弁護士連合会などの反対を受け、同法人の縮小はなくなった。しかし切りやすそうな場所から刃を向ける怪しげな「改革」には注意が必要だ。(大畑)

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2007年12月13日 (木)

浦和が弱いんじゃない、ミランが凄いんだ(にわかサッカー評論家風に)

アジアナンバーワンの座についたチームである。このトヨタW杯でも浦和レッズはセパハンを下している。が、欧州王者・ミランには遠く及ばなかった。
インザーギ、ピルロ、ネスタ、ガットゥーゾに加えて後半には39歳マルディーニまでが登場。少し世代の古いイタリア代表祭でもあった。この時点でカルチョ・ファンには満足。が、最大の満足はやはりブラジル代表カカ。トゥーリオ、坪井の日本代表クラスのDFを引き連れてのバイタルエリアでの動きはやっぱり別格。
浦和ファンには悪いけど、カカのボール裁きを見ることができたので見る価値はあったでしょう。
すばらしいフットボーラーを見るとなぜか生きる勇気のようなものがわいてくる。(宮崎)

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2007年12月12日 (水)

守屋武昌氏にまつわる問題の謎

まずなぜ守屋氏は07年11月になって逮捕されたのか。氏が防衛庁(当時)事務次官となったのは2003年。それから2年で交代が当たり前の次官職を4年超続けた。この間に彼の人事や人となりに関する否定的、批判的情報は雑誌メディアを通してほぼ公然と伝えられてきたのに居座っていた。その背景に官邸(小泉純一郎-安倍晋三時代)の庇護があったのは明白であろう。
07年7月、参議院議員選挙で安倍政権は大敗を喫する。その翌月には小池百合子防衛大臣が「守屋切り」を進めて守屋氏が激しく反発し官邸にまで押し掛ける。この時点で守屋氏が事務次官を続ける気は明白であったし、官邸との密接な関係が図らずも露呈した。
その安倍氏が官邸を去り、相前後して守屋氏も退官した10月から大マスコミが突如として「接待ゴルフ」疑惑を書き立て始めた。そして東京地検特捜部による逮捕となる。ただし容疑は単純収賄。

すでに雑誌メディアでちらほら報じられていた専横をトレースしたような出来事で地検が動くものなのか。動くかもしれない。特捜部や特別刑事部の検察官には怪文書まで含めて愛読者が多いから。ついでにいうと大マスコミの記者も同様。でも前者が事件にするか、する動きをみせない限り報じないのが習いである。官邸と職権というついたてを一度になくした人物をこの際一気に縄としようというのはわからなくはない。
でも「ゴルフ漬け」だけでは「おねだり妻」付きでも、いかにもつまらない。ワイドショーは別として。少なくとも特捜部が力こぶを作ってやりたいヤマとは考えられない。当然その先があるはずだと一応誰もが思っていることになっている。で、何があるんだ?

守屋問題周辺で具体的な事件となったのは宮﨑元伸元山田洋行専務による横領である。時期から察するに横領は宮崎元専務が山田洋行とケンカ別れして日本ミライズを創設するあたりだから、縁の切れ目と袈裟まで憎いがない交ぜとなった内紛劇が顕在化の背景にあろう。
その宮崎氏に守屋氏はゴルフ漬けにされていたので捕まった。宮崎氏が何の見返りも期待せずに守屋氏を接待するはずがない。どんな口利きがあったのか。いかなる職務権限に触れる、ないしは職務に密接に関連した行為があったのか。それはないと守屋氏は証人喚問でも言い切った。だったら受託収賄には持っていけない。
果たして請託はあったのか。今後の捜査を待つしかないのだが一般論として請託をしなくてもゴルフ漬けぐらいの接待を業者は行う。防衛利権の場合は相手の外資に「ジムジカントナカガイイ」と示すだけで有効だろうし、もっと単純に事務次官と仲良くしていて損はない。賄賂性を帯びるほどやりすぎたという話にすぎない。何よりここを執拗に追求する気が特捜部にあるとはこれまた一般論では到底信じられない。平たくいえば「そんなに守屋をいじってどうする」だ。
こうした文脈から特捜部はバッジをやりたいんだという噂がまことしやかに流れる。そこに守屋証言が重なる。国会の二度にわたる証人喚問で久間章生元防衛相と額賀福志郎財務相が宴席を同じくしたと証言したのだ。久間氏は入院と分かりやすい行動をとった半面で額賀氏の発言が要領を得ない。
いや要領は得てるのか。ハッキリ否定しているから。でもそうなると守屋証言が解せない。守屋氏が個人名を出したのは二度目の喚問である。議院証言法違反(偽証)がどれほど重いのか知っていての発言だ。変な話ゴルフ接待による賄賂罪より議院証言法違反の方が量刑が重くなる可能性が十分にある。だから守屋証言は彼に額賀氏を陥れてぬれぎぬを着せられるならば本件(賄賂罪)より重い懲役刑が科せられても構わないという格別のうらみでもなければ嘘をつく動機が全然見当たらない。

特捜部がこの守屋証言に興味を持ったとも思われない。守屋氏と額賀氏の両方を呼んで証人喚問を行うと決めたのが11月27日、喚問予定日は12月3日。もし喚問が行われていたらどちらかが嘘をついているとわかるか、額賀氏が守屋証言を認めるか、民主党が主張していた日時が間違いとわかって笑い話になるか、などの結果が考えられた。御用納めまでの拘置期間を考えても喚問後に動いて時間もある。伝統的に検察は国会の動きに棹さすのを嫌う。なのに11月28日に守屋氏を逮捕した。守屋氏の偽証にも額賀氏の宴席同伴にも検察が興味を示していなかった証拠であろう。
1998年の防衛庁調達実施本部事件も2006年の防衛施設庁談合事件も当初はすごい疑獄へ発展すると騒がれ、結局役人が何人か罪に問われておしまいだった。今度もその轍を踏み、軍隊(自衛隊)の決め事には警察や検察がほとんど立ち入れないとの前例を作れば平成のゴーストップ事件のような効果となる。決してアンタッチャブルではないと防衛省に知らしめるには「天皇と呼ばれた前事務次官の逮捕」で十分だと考えていたとしたら……合点はいくけど納得できない。(編集長)

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2007年12月11日 (火)

ゲームハード大戦。

 そろそろクリスマスだ。
 クリスマスといえば、キリスト教信者ではない日本国民にとっては1年最後の大イベント・イブ(大晦日があるので)。
 子どもは誕生日以外にプレゼントをねだれるワクワクする日、カップルからすれば数ある記念日の中でも特に燃え上がる(いろいろな意味で)日。
 店にとっては最終商戦! ボーナスも出るし、バーゲン時よりも大物を買ってもらえる機会が多い。クリスマス万歳! といったところだろうか。

 先日、母への誕生日プレゼント兼クリスマスプレゼントにニンテンドーDSのソフトとケース、タッチペンをプレゼントした。
 「Wii Fitがいいわ~」などとふざけたことを言っていたがさっくり無視し、ともに横浜のヨドバシカメラへ行った。
 11月に新型PS3が発売。これまでは20GBと60GBしかなかったが、新型は40GBとちょうど良いスペック。値段も3万9800円と、20GBの4万4980円よりも5000円お得!と言うことらしいが、この新型はPS2との互換性がなく、起動できるソフトはPS3のみ。
 40GBで4万円を切るのはいい話だが、新製品のソフトはPS2から今でも発売されている。いまだ多くのソフトが売られているにもかかわらず、互換性がない。これまでのプレステは互換性があった。メモリーカードを変えるだけでよかったし、PS3にしても仮想メモリーカードを作成すればセーブすることができる。来年以降、ビッグタイトル大量リリースがあれば、もう少しPS3を購入しようと思ってくれる人が出るかもしれない。今年は、惨敗ということで。
 任天堂率いるWii、DS陣営だが、DSは6月と10月に新色が発売され常時入手可能状態となった。一時期の入手困難状態がウソのようである。そしてWiiも10月以降いつでも手に入る状態が続く。そして今年最大の目玉として12月1日にWii Fitが発売された。
 これのコンセプトは家にいながらにしてフィットネスができる! で、ヨガ、筋トレ、バランスゲーム、有酸素運動ができる。運動した時間をある程度貯めると新しいゲームが増えて飽きない。ゲームで運動! というのはナンセンスかもしれないが、ビリーズブートキャンプのようにドタドタとした音を立てず深夜でも運動可能なのでマンション住まいの人にはかなりおすすめだ。
 家族みんなで楽しみながら年末年始を過ごすのにもってこいのWiiはDSに続いてひとり勝ち。来年度の決算報告が楽しみだ。
 最後にXBOX360。ひそかに売れている。周辺機器を買っている人をよく見かける。そして、12月6日に『ロストオデッセイ』というタイトルが発売された。総指揮は坂口博信(FFシリーズの人)、絵は井上雄彦(スラムダンクの人)、音楽は植松伸夫(FFシリーズの音楽を作っている人)と、『クロノトリガー』を思い出すヒットする予感満々のソフト。しかし、内容を見るとこれってなんてファイナルファンタジー?(魔導とか出てくるし……)といった感じだが。
 XBOXはオンライン(XBOX Live)でプレイすると数十倍楽しくなるそうだ。ライトユーザー向けというより、ハード……いやコアユーザー向けハードってことで、クリスマス、年末商戦関係なしに買う人は買うし、買わない人は買わないといったところか。子どもが買いそうな気がしないし……。
 というわけで、今年の(今年も?)ハード大戦は任天堂のひとり勝ちということで。
 来年は、PS3でファイナルファンタジー13、ファイナルファンタジーヴェルサス13、デビル・メイ・クライ4、メタルギア・ソリッド4、バイオハザード5、鉄拳6などのタイトルが発売予定。DSはドラクエ9、そしてコンスタントに発売される多種多様な年齢設定のソフトとどちらに軍配があがるかはわからない。
 来年も楽しみなゲームワールド。(奥津)

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2007年12月10日 (月)

『南極に暮らす』

Nann  南極に暮らす越冬隊員に一度はあこがれたことがあるだろう。(ない人もいるだろうが)『南極に暮らす』(坂野井和代・東野陽子/岩波書店)は日本人で女性初の越冬隊員として選ばれた2人が著している。

 東北大学地球物理学科を1997年11月から1998年3月にかけて行われた第39次越冬隊の生活と研究を詳細に追った1冊を読んでるうちに東京の寒さが薄らぐような気がしてくる。昭和基地で常に行われている「電離層」と「気象」の2部門の観測をはじめ、荷運びの難しさ、多難なゴミ処理の現場など南極での日常も紹介されている。(宮崎)

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2007年12月 9日 (日)

「死化粧師」を観る 第10回/似たもの同士のすれ違い

 ドラマではエンバーマー・間宮心十郎(和田和人)と、ナース・アズキ(篠原真衣)が全開ラブモードになってきてしまっている今日この頃。
 エンバーマーとナース、どちらも生死に関わる職業なだけに、惹かれあうのも当然といえば当然の話なのだろう。そういえば葬儀屋時代、医師との合コンに誘われたことがあったっけ。残業続きでそんな気にもなれず、そしてそれは私だけではなかったらしく話自体がお流れになったが、とにかく同業者同士でくっつきやすいのがこの世界の特徴といえば特徴だ。なかなか理解が得られない職業柄、離婚経験率も高い気がする。

 自分が通常の職業(たとえば証券会社のOLとか)に就いている、もしくは完全に仕事を持たない主婦であると想像してほしい。旦那がいくら仕事とはいえ毎日が午前様、もしくは急の泊まりが多く、休日がまったく定まらず、故にクリスマスも盆も正月もろくなあいさつ回りができず、脱いだスーツはどんなに芳香剤をかけてもクリーニングに出しても加齢臭ではなく死臭と線香の匂いが取れないとなったら、なんだか逃げ出したくならないだろうか。男と女が逆の立場の場合もまた然り、というかそれ以上に嫌なものだろう、妻から絶えず死臭がするというのは。よほど理解があるか、もしくは身をもって大変さを知っている者しか添い遂げることができないのではないか。

 以前勤めていたところはやたら職場結婚が多く、女の子が1年や2年で結婚退職するたびに「社会人として育てるために雇ったのであって、社内見合のために雇ったのではない」と上司が愚痴っていたのを覚えている。葬儀屋が葬儀屋として一人前になるには、仕事の質にもよるが半年はかかってしまう。最初の三ヶ月は社会人としてのマナー、葬儀という特殊な場所での作法と言葉遣い、先輩への動向で流れをつかみ、あとの3ヶ月で先輩に尻をたたかれながら覚束ないやりとりで施行を仕切り、ようやっと「一人で任せても安心」な仕事人になるのだ。お給料を払ってまで一人前に仕立て上げたところを、あっという間に同じ社員にさらわれて行っては、共食いもいいところなんである。だから職場恋愛は厳禁だった。逆に言えば、それほどまでに女性も男性と変わらず大事に育てられる職業であるといえよう。まあ、営業系では大体そうなんだろうけれど。

 さて、ちょっと見ぬまにドラマでは葬儀屋・恋路(忍成修吾)とエンバーマー・心十郎が火花モードになってきている様子だ。見ようによっては発注元と下請けともとれる二人だけに、立場の上下関係がわだかまりを生むかといえばそういう話でもでもないようだ。ただ、遺族の悲しみと煩雑な忙しさとを一気に抱える恋路の辛さが、遺体とその遺族数人とを相手にしている心十郎に届かず、すれ違いが起こってしまっているような感じがする。遺族、親族、寺院、ご近所の常識や見栄がぶつかり合うなかで死者と関わらなければならない葬儀屋と、あくまでも死者と遺族を癒すことにいっしんになる使命を得たエンバーマー。どちらが尊いということもない。しかし、同業であることに慢心して双方の立場の違いを省みる気遣いを忘れてしまったら、そこから亀裂は進んでいく。(小松朗子)

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2007年12月 8日 (土)

『吉原 泡の園』 第45回/吉原百景

 元々反社会的な集団だ。無論、子供の頃から学校行事は大嫌い。曲がったことが大好きな野郎どもである。
「おいおい、消防訓練?」
 中には笑い出してしまうものもいる。しかし、消防訓練をしておいたおかげで、命が救われたケースもあり、これは馬鹿にはできないと僕は思った。
 黒電話がこちらのテーブルと向こう側にある。向こうには署員、こちらがボーイだ。受話器から119番をする所から訓練は始まった。
「もしもし、ボイラー室から火災です」
 と店のボーイ。
「お店の名前と住所を」
 署員が本番さながらの迫力で聞く。
「○○店です。住所は××」
「わかりました。直行します」
てな具合である。蝉が鳴く公園で、蝉の声などかき消す熱気であった。
 続いて消火器の扱い方。火元と見立てた所に、水の入った訓練用の消火器を使用した訓練だ。簡単そうでいて、パニックに陥ると順番が間違えたりする代物なのだ。油断はできない。
 ビニールでできた簡易施設。中には煙を充満させて煙からの脱出訓練。ハンカチを鼻にあて、姿勢を低く歩く。煙は空気より軽いから、なるべく姿勢を低く、地面の方に行くほど酸素が残っている。
 人口マッサージ。人形を使っての心臓へのマッサージだ。肋骨が折れるくらいの勢いでやるのが正解らしく、けっこうビビるのだった。
 一通り訓練を終えると、どことなく各ボーイ達は一回り大きく見えた。ただの不良ではない、一人前の男の集団に見えてしまうから恐ろしい。署員のあいさつがあり、解散。またダラダラと店に戻るボーイの数が吉原を練り歩き、それがまた異様であった。その頃、どこぞの店の部屋では、アンアン言っているのだ。何だか不思議な空間に自分がいるなぁと、笑ってしまう。
 店に戻ると店長がおで迎え。
「ご苦労な、マル」
 休む暇なく
「おいマル、日暮里まで迎えいってくれや」
 とマネジャーから注文が入る。疲れていたがさっさと行かねば、
「は、はい」
 消防隊員さながらの出動である。いや、出動の早さならばそれ以上かもしれない。なにせ、遅れればドヤされるし、客も遅いと違う店に流れる事もあるのだから。そうして吉原消防訓練の1日は、何事も無かったかのように終わり、また怒号の店内作業に戻るのであった。
 ただ、どんなにドヤされようとも、使い走りにされようとも、あるいは金がなくても、刑務所のようであっても、ここ吉原には俗に世の中の工場や長時間拘束される現場などとは違う、独特さがあり、死にたいとか、そういった感情に流されることが無いことが救いだった。
 ホームレスのようでありながら、どこか陽気なのだ。
 工場のようでありながら、自殺する人などいない。むしろ、自殺希望者がここに来て、自殺をしないで生きられる。そんな深さを持ち合わせていることも、吉原の魅力のひとつになっていたのではないだろうか。
 日暮里駅が近づいてきた。いつも待ち合わせに使う牛丼屋がある。そこは、R店だけでなく、他の店も待ち合わせに使う。
 何人かスケベそうな男がたっている。スケベそうな、というのは、ボーイの視点からみれば、送迎者待ちの人間を嗅ぎ分けられるようになるのだ。ただ、何人かいる場合は、
「R店ですが、○○様でいらっしゃいますか」
 と聞くのだ。
 常連になればすぐに分かる。
  客を乗せたらすぐに乗せた旨を店に報告するのだ。その報告が遅いと、
「おいマル、何しとるんやおまえ」
 となる。報告後、他に客が発生すれば、上野や鶯谷にもそのまま向かう。
 であるから、道路にはめっぽう詳しくなければならないのだった。
 たまたま生れが関東である僕は、何となく土地感もあるのでそれほど苦労はしなかったが、まるで土地感の無い者は、ここで脱落したりする。
 あまりにも激しい時間に対するプレッシャーで、余計に迷い、余計に焦り、店を去るしかなくなるのだ。ボーイといっても生き残りの激しい世界で、もしかしたら花魁の生き残りよりも厳しいかもしれない。(イッセイ遊児)

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2007年12月 7日 (金)

どうして出版したのか?

「どうして『あの頃』を出版したのですか?」とたずねられたことがある。「あれぐらいのことを体験した人は、それなりにいると思うんです」と。あまり考えたことがなかっただけに、その質問には驚いたが、逆にどうしてなのか本気で考えることも、それなりの意味があるように感じた。

 18歳で彼をガンで亡くし、25歳のときには親友も死亡。自暴自棄だった時期もあり、奇妙な宗教に誘われた経験もある。『あの頃』はそんな小林さんの自叙伝である。
 たしかに小林さんの人生はメチャクチャ大変だが、世の中にはもっとヘビーな生き様もあろう。少なくともさらに不幸な人を探すことはできたように思う。もちろんブログで人気が出たことも出版した要素の1つだが、決してそれだけではない。

 いま考えれば、彼女の肝の据わり方が出版を大きく近づけたように感じる。とにかくノンフィクションで本を出版するのはラクではない。過去の事件については当事者の見解や記憶が違っていることもしばしば。もちろん事実と違うなれば、それなりの問題が生じる。裁判までいかなくとも、怒鳴り込まれるぐらいの覚悟は必要だ。
 さらに事実だとしても公表されたくない人だっている。私も既婚女性の恋愛について取材したときには、取材が終わり原稿が上がってから取材した女性に泣きつかれ、仕方なくボツにした経験がある。
 こうした雑多な問題を自身で引き受ける気構えを持って、自身の人生をつづるのは並大抵のことではない。ヘタをすると、書籍に出てくる親類・友人から総スカンを食う可能性がある。

 それでも本を出版したい。実名も顔もさらして、自分の人生から得た教訓を同じ悲しみに沈んでいる人に訴えてみたい。そんな小林さんの気概に編集部の面々がほれてしまったのかもしれない。
 その意味で小林さんの著作は、ネットでの人気を背景にしたとはいえ「事実を基にした」と言いながら著者の正体が全く謎の携帯小説とは一線を画する。

 ノンフィクションの書籍を中心に出版しているためかもしれないが、小社とおつきあいのある著者さんは、皆がっちりと現実と組み合っている。そうした環境で働けていることに、改めて誇りを感じた。

 そんなわけで、ここからは宣伝ですが、小社の出版している書籍も読んでいただければ嬉しく思います。(大畑)

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2007年12月 6日 (木)

テラ豚丼と『ひとり起つ』

 感じたのは違和感である。
 ニコニコ動画に投稿された「テラ豚丼」問題についてだ。

 吉野家で発売されている「メガ牛丼」を超える大盛りを作るという趣旨で、吉野屋の店員が丼に牛肉をガンガンのせた映像をネット上に公開。その映像を見た人が吉野家に苦情を寄せたことで、この行為にかかわったアルバイト定員を吉野屋が処分すると発表したのである。

 多くの人の怒りを誘った要員の1つは、その作り方の汚さにあったとされる。盛り上げ過ぎた肉は鍋へとどんどんこぼれ落ち、とても衛生的とはいえない。また「テラ豚丼」の制作者は作った丼の材料を元に戻したとも伝えられた。この行為に雇用主である吉野屋が怒るのは当然だろう。食品会社としてのブランドイメージもある。

 しかし「ギガジン」が吉野屋に取材して伝えたように、電話での問い合わせが数百件に達するほどの問題なのか。度は過ぎているが、たかが悪ふざけじゃないか。そう感じるのは私だけだろうか?

 悪いことを見過ごさずに声をあげる。それは正しい。でも、権力者でもない、一個人のイタズラを声高に追求するのは見ていて気持ちのいいものではない。まあ、いいんじゃねえの、ぐらいの余裕が社会からどんどん失われているように思う。
 先月、大手自動車工場に勤める組合員にお話を伺ったが、かつての工場では仕事中でも交代でタバコを一服するぐらいの余裕があったという。ところが近年「効率化」が押し進められ、タバコどころか息つく暇さえなくなった聞いた。たしかに業務時間中は懸命に働くのが、正論といえば正論。だが、もっとおおらかなな職場環境じゃないと、保たないのではないか。

 しかし、こうした「効率化」の波は自動車工場だけにとどまっていない。さまざまな場所で働く人々が余裕をはぎ取られ、何かに追われ続けている。そして、追われた人々がときに何かを追いつめていく。

31984006  最初「テラ豚丼」に対する違和感の原因がよく分からなかった。しかし『ひとり起つ 私の会った反骨の人』(鎌田慧 著 平原社)を読んで納得した。吉野家に抗議した数百の主が安全な場所から攻撃していることに、どこか苛立っていたのだと。

 この本に紹介されている「反骨の人」はとにかく逃げない。無実の罪で死刑判決を受けていた谷口繁義さんの訴えを聞き、裁判長という職を投げ捨てて彼の弁護に努めた矢野伊吉氏などは、奇人扱いされても検察や裁判所の批判をやめなかったとされる。小誌にも快く原稿を寄せてくださった松下竜一氏は、警視庁の家宅捜査などの嫌がらせにも屈することがなかったと書かれている。

 私は公安に「嫌がらせ」をされた記者を数人知っている。誰もが脳天気で明るい性格の人たちだったが、その圧力には心底おびえていた。風の噂で公安が追っていることが耳に入る。そのうちワザと尾行をばらすように、毎晩決まった時間に自宅前で靴音が止まる。これでは肝の据わった記者でもおびえるはずだ。

 しかし、それよりもっと過激な「嫌がらせ」を受けても、抵抗し続けた「反骨の人」がいるのだ。単純にカッコイイと思う。そんな度胸はまるでないが、できるならそうした姿勢を目標にしたいとも考える。

「内気で控えめだった青年が、全国の市民運動に、理論的にかつ精神的な影響をあたえるようになるのは、目の前に起こったことから逃げられない誠実さによる。それは、下戸であっても、平然とテキーラを体内に流し込む潔さによくあらわれている」
 本書に描かれた松下竜一氏である。

 姿をさらし、主張し、ひるむことがない。本に描かれた22人の生き様が、私に元気と勇気をくれたような気がした。(大畑)

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2007年12月 5日 (水)

ニューヨーク商業取引所の原油価格決定に異議あり

原油高が深刻である。高騰を続けるのはニューヨーク商業(マーカンタイル)取引所の原油先物相場が引っ張っているからだ。
NYマーカンタイルで指標となっているのはアメリカ産標準油種のWTI(West Texas Intermediate)。アメリカ国内でも数%、世界レベルでは1%を占めるかどうかの西テキサス産出(一部別)の超軽質原油の値段で世界中が揺れ動くのだ。

NYマーカンタイルの先物相場が「信用できる」とされているのは①WTIがきわめて良質である②アメリカの経済力は世界一である③WTIの実質量をはるかに上回る買い手が参入するので(約100倍ともいわれる)実勢に近い価格決定がなされる、などだ。本当だろうか
一番疑わしいのは③だ。この論理はより多くの参加者がいる模擬試験の偏差値は信用できるというのとさして変わらない。ただし模試と違うのは先物とはいえリアルな物質を売買している点だ。スーパーマーケットで陳列商品(物質)をはるかに上回る客を想定するなぞ考えられない。一方でNYマーカンタイルの売買方は商品(原油)を買ってバケツに入れて持ち帰ろうとか持ってこようとは思っていない。
あえて比較すれば商品があっと言う間に売り切れるスーパーの棚をめがけて必要量の何倍もの買い物をしたい客が群がるとの日常生活ではイメージしにくい構図となる。実際には大半が予約権の売買にすぎない。この部分だけとらえれば原油をダシにした壮大なマネーゲームの結果として原油価格は実勢とは遠くかけ離れているといえる。
でもダシとはいえ主役は原油である。市場参加者は多いほど客観性の高い数字になる。参加者が少ないと1人の大金持ちの気まぐれ売買で価格が乱高下してしまうからだ。世界の供給量をも上回る金額を示す参加者がいたらそうはならない。②で述べたようにアメリカならばそれが望める。ゆえにWTIは「指標」「標準」になりえる。
しかしそれは取りも直さずNYマーカンタイルが鉄火場だといっているのと同様だ……と話は堂々巡りになる。

②の「アメリカの経済力は世界一」を「標準」の根拠とするのも反論できなくはない。それは取りも直さずアメリカ国内問題を原油価格に反映しているのと同義で、ストック市場が冷え込めばファンドの資金がNYマーカンタイルに流入して需給と関係ない相場が形成される。現に今の価格はその面が強い。

アメリカの政策がドル高であるのは明白である。国内の製造業向けに違うアナウンスをするのは一種のガス抜きである。ドル高だからこそ世界の物資がアメリカ市場になだれ込め、赤字をたれ流しながら繁栄の形が作れる。そうでなくなったらアメリカの消費が落ち込むだけでなく基軸通貨としての存在感が衰える。アメリカがアメリカであり得るのは自在に印刷した紙切れ(ドル札)を世界が信用してくれてこそだ。

こうなると甲論乙駁あるもののNYマーカンタイルの価格を世界標準とするのに疑義を差しはさむ余地は十分にあるといえる。①の「WTIがきわめて良質である」も、その事実が他の市場でもうけようとしている人々のアリバイとなっている可能性だってある。
日本の中東での原油依存度は06年2月発表の経済産業省の調査によると9割を超える。WTIなぞ拝めはしない。中東は世界の供給量の約4割を占める。WTIよりよほど影響力があるはずなのだ。
ただ中東産原油は一般にWTIよりは精製に手間がかかる油質(=WTIより劣る商品)である。その価格は石油専門情報会社のプラッツ社がアラブ首長国連邦(UAE)産ドバイ原油とオマーン原油の価格を石油関係者などから取材して毎日発表する価格に大きく影響される。ではプラッツの情報源は何を参考にしているか推測するに、やはりWTIの動向だろう。売りたい商品の値が高くなればプレーヤーはうれしい。したがって便乗するのにためらいはないはずだ。三大市場の残り一つである欧州原油市場(ロンドン市場)が扱う
北海ブレント原油はWTIに似た品質だから連動しやすい。
というわけでWTIはどうしたって原油価格の国際指標になってしまう。正しくはWTIのマネーゲームに他の市場が便乗しているのだ。

なぜNYマーカンタイルがこれほどの力を持ってしまったかというと1970年代の石油危機に対する対抗軸との側面が歴史上浮かび上がる。OPEC(石油輸出国機構)の石油戦略に苦しめられた輸入国の多くは80年代に入ると省エネやOPEC外での石油調達および開発に務め、一転して石油余りの状態となり、70年代に開発が進んだ北海ブレントなど北海油田が欧州をうるおし始めるとOPECは守勢に立たされ、83年には初の価格引き下げに踏み込んだ。そして肝心の価格決定権も同年に始まったNYマーカンタイルの先物市場に次第に移っていくのだ。
80年からのイラン・イラク戦争、90年のイラクのクウェート侵攻に端を発した翌年の湾岸戦争および2003年のイラク戦争、親米産油国と反米産油国、石油に頼り切りの国と工業化を進める国などOPEC内にある亀裂は時々に噴き出して相対的な力を落としてきた。そこを踏まえると中東や湾岸諸国の「地政学的リスク」はむしろNYマーカンタイルをオーソライズしているといえる。
地政学的リスクは少なくとも結果としてアメリカが何らかの関与をしている。これは果たして結果論だろうか。日本はインド洋上の無料ガソリンスタンドを再開するかどうかですったもんだしているが、私が知る限りアメリカの視線はアフガンにはなく、泥沼化するイラク情勢とイランのウラン濃縮に対する米軍攻撃の可能性に向いている。OPEC加盟国のイラクは戦争や国内の混乱で生産枠の協議に加われない。イランはいうまでもなくOPEC加盟国だ。「地政学的リスク」を自作自演してNYマーカンタイルの覇権を守っているといったら陰謀史観とそしられようか。
もっともOPECもOPECで加盟国は歴史的に総会での決めごとを整然と守らない場合も多い。反米感情を抱えながら、また南米のOPEC加盟国であるベネズエラのチャベス大統領が反米を煽りながら、もうけるところはもうけている。原油消費国の側面も持つアメリカは、原油高によって赤字がさらにふくらんで産油国の黒字とのバランスが崩れてドル暴落=世界市場の大混乱を心配もするからややこしい。ハッキリしているのは皆が皆いいとこ取りをしたいとの思惑がうずまいて煽ったり冷水を掛けたりしているなか日本だけ拱手傍観しているの図である。(編集長)

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2007年12月 4日 (火)

携帯小説。

 少し収まってきているが、携帯小説が盛況だ。
 2006年10月に発売され100万部以上の売り上げ、映画化もされた『恋空』、第1回日本ケータイ小説大賞大賞作品、来年2月に映画公開される『クリアネス~限りなく透明な恋の物語』、最近は「魔法のiらんど文庫」というものができ続々と新刊が出ている。
 現在(2007/12/3)魔法のiらんどには48204作品あり、今後も増えていくだろうと予想される。
 魔法のiらんどの歴史だが、1999年にドコモのiモード専用無料ホームページ作成サイトができたところから始まる。
 携帯小説の先駆けといえば、yoshiの『Deep Love』だが、援助交際を続ける女子高生が主人公で最終的に死ぬというストーリー。その続編が、前作の主人公と関わりのあった少年がホストになる話。完結編が、1作目の主人公の友だちが売られていくという話。なんとなく現実味のありそうな、けれど普通に考えればあり得ない荒唐無稽なストーリーにもかかわらず250万部以上売れ、ドラマ化もされた。たくさんの女子高生を涙させた『Deep Love』から3年、『天使がくれたもの』(chaco著)が発行された。
 最近の携帯小説は、完全フィクションまたはフィクションとノンフィクションをミックスさせたものが主流となっている。
 少女小説のような物語(地味な女の子がカッコいい男の子(不良だったり、学園長の息子だったりいろいろ)に見初められ恋が始まる…… といったもの)からホラー、サスペンスなどいろいろそろっている。
 あまりにも話題になっていたのでいろいろと読んでみたが、ションベン臭いガキが本気の恋だとのたまってみたり、盛りのついたサルのように避妊もせずにヤリなくり揚げ句妊娠、産めないから中絶、または流産、たいした理由のないレイプ、死亡、ホスト狂い、キャバ嬢→風俗嬢→泡姫→真実の愛に目覚める……。劇的な出来事をチャンポンした小説も結構多い。
 それがリアルだと感じるのかはよくわからないが、共感され涙を流している読者が多くいるのは間違いない。
 いろいろ読んで研究してみたが、どこが感動ポイント、共感ポイントかが未だわからない。
 ジェネレーションギャップなのかとも思ってみたが、読者層が10代だけではなく20代にもいる。
 小説のだいご味は追体験だが、主人公を普通のどこにでもいる女の子という設定にし、狭いコミュニティの中に友だちを放流。関係性はグループの中に彼氏の元カノがいたり、元カノが友だちと付き合ったりと恋愛中心に回っている。こういう状況は学生時代に経験したことがある人が多いはずだ。
 ここまではシチュエーションに無理はない。しかし、そのあと、レイプ、妊娠、死亡、ドラッグなどの要素が絡んでくると途端に現実味が薄まる。
 大多数の人間が経験しないようなことを、主人公やその周りの友人が経験する。追体験するなら一つの作品の中でたくさんの出来事があったほうがいいのかもしれないが、そういったことは隠し味として使うからおもしろいのであり、多すぎるとかえって食傷気味にならないのだろうかと感じてしまう。
 いくら携帯小説をよんでもその疑問が解消されることがないので、つい先日から携帯小説を書き始めた。とりあえず書くことでなにかわかればいいと思っているのだが、私の疑問が解消される日はくるのだろうか。(奥津)

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2007年12月 3日 (月)

気管支炎

最近のお医者はやけに丁寧だと感じる。
しばらくの診察のあと、言い渡されたのは“気管支炎”だった。「肺炎かもしれないから」と言われようやく行った内科だったが肺炎より軽い気管支炎でまだよかった。
まず、最近のお医者は症状がどのようなものなのか、何をすればいいのか、何をしたらダメなのかを懇切に説明してくれる。そして、薬を決めるときには一方的に決めるのではなく、患者(私)とあれこれ相談しながら決める。パソコンのモニターで薬価を示しながら予算の心配までしてくれる。気管支炎ごときでセカンドオピニオンをする奴はいないだろうが、まるでそれをさせないかのごとく丁寧に感じた。
内科の場合はまだ分かるが、患者への対応が必死さを伴うのは歯科医の場合ではないか。ウソか本当か分からないが、どうやら現在、歯科医はコンビニの数と同じくらいあるらしい。高い授業料を払っても歯科医は働く先がない。それなりの患者の数を診なければならないだろうから治療室はバタバタしているが説明はかなり丁寧である。
丁寧であるから治りも早い、のならいいがまだ処方された抗生物質は効き目があまりない。(宮崎)

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2007年12月 2日 (日)

「死化粧師」を観る 第9回/葬儀屋は儲かるか

 ドラマの冒頭、いきなり罵倒されてしまった。
 葬儀屋・恋路(忍成修吾)が遺族になじられた。
 「人の不幸を食い物にして、儲けているくせに!」
 それに対して恋路は返す言葉もない。本当に人の不幸を食い物にして儲けているからだ。
 私が勤めていた葬儀屋では、棺と言えば思い浮かぶであろう飾り気のない桐八分棺(中国製)の原価が九千円。これが単品で売るとなると七万円に跳ね上がる。普通はコース内容の一部として売り込んでしまうので単純計算で半額以下にはなるが、それでも高いと言えば高い。
 棺は保存状態が悪いと蓋が浮いてしまったりすることがあるので温度管理が難しく、また施行数が読めない業界である事を考えれば(月に何人死ぬか、なんて……まあ、大体は分かるけど)管理費込みということで納得いただけるだろうか。いただけないだろうな。
 ただ、「儲かる」からといって誰もがこぞってやりたがる職業でないことには、皆さん納得していただけるはずだ。体力、気力ともに消耗が激しく、容赦なく長時間労働が襲いかかる。同期だった子は鬱病になり、ものを食べれず10キロ痩せて別人のようになってしまった。「葬儀屋が鬱病になった」といえば、人の死に触れて落ち込んでしまったと思われ勝ちかもしれないが、原因は一般企業と変わらない。過労だ。
「葬儀屋は儲かる=お給料がいい」との図式は、一般的にはあてはまる。
 正しくは、「儲かる葬儀屋はお給料がいい」だが。競争が激しい地域では当然儲からない葬儀屋というのも生まれる。そこでは新入社員の手取りが12万だとか14万だとかささやかれる。田舎の事務員並みだ。反対に羽振りの良いところは新入社員で22万、なんていううわさもある。あくまでもうわさだ。これなら見習い期間を経て担当が持てるようになれば、あっという間に30万、40万の世界に突入するだろう。営業手当がつくからだ。
 営業手当の種類としては、社によって様々だろうが、私のいたところではコース手当(料金の高いコースで契約を取るとコースのレベルに合わせて支給)、オプション獲得手当、夜勤手当の3種類があり、残業代とあわせると手取りで25万円を超えていた。東北の片田舎、失業率がどんどん上がっていた時代における入社1年目の給料である。ボーナスは2.7ヶ月分。
 ただ、「お給料、いいんでしょうねえ」と言われるたびに私はこう答えていた。「時給にすると、たいした事ないですから」と。休みは平均で月4回。ということは8時間労働としても月216時間、一日平均4時間は残業していたからプラス月108時間、合計324時間。25万円で割ると時給換算で772円。……ダメだ、なんだかへこんできた。こんな計算、やらなきゃよかった。
 手当の対象となるオプションは、祭壇に飾る花、火葬場へ持っていく茶菓のセット、祭壇に飾る花など様々あったが、その中で私が最も苦手とするものは、湯潅の獲得であった。湯潅とは、ご遺体を洗い清める儀式のこと。昔はそれこそ遺族が一丸となってお風呂に入れる、なんてこともあったようだが、今ではどこもぬるま湯で絞ったタオルを使い手足を拭くくらいではないだろうか。私が獲得しなければならなかった湯潅は、湯潅業者が簡易式のお風呂をご自宅に持ち込んでご遺体を丸ごと洗い清めるサービスだ。単価8万円也。薦めるのがヘタなのだろうが、ご遺体を一旦裸にすることに戸惑う遺族が多く、なかなか獲得できなかった。「いいよ、このまんまで。病院で看護師さんがきれいにしてくれたし」という言葉を聞くことが、圧倒的に多かったのだ。
 今回のドラマで、エンバーマー間宮心十郎(和田和人)は珍しくエンバーミングを行わなかった。看護師・ユカリ(安倍麻美)の唯一の身内である祖父(織本順吉)が亡くなり、ずっと自身のエンバーミングに自信を持てなかった心十郎が言った台詞は「エンバーミング、させてもらっていいですか」。大切なおじいちゃんをなくしてしまった孫に、せめてもの慰めを。そう思ったのかもしれない。しかし、ユカリの返事は「ううん、このまんまでいいの。このまんまのおじいちゃんが、一番好き」。
 心十郎はユカリに気づかされ、礼を言う。「エンバーミングをする必要がない、ということもあるのだと教えられた」と。
 そう、心十郎は受注したご遺体を処置しているだけだから、その他大勢の「エンバーミングはいらない、して欲しくない」遺族の気持ちに、リアルに触れる機会がないのだろう。
 だから、もしかしたら必死でエンバーミングの仕事をとってくる恋路の苦労が分かっていないかもしれない。私が湯潅であんなに苦労したのだから、エンバーミングの受注なんてめったにないだろう。恋路の気持ちも考えて、ありがたいと思いなさいよ。ちょっと、そんな風に説教したい気持ちになった。(小松朗子)

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2007年12月 1日 (土)

『吉原 泡の園』 第44回/吉原のボーイたちが集まるとき

 保健所と同じように怖い存在が消防署だ。吉原は堤消防署が管轄である。
 その近くには指定暴力団YのK本部があり、乗用車に乗った二人組の刑事が、24時間本部事務所を監視しているというディープスポットである。消防署員が来る際、いつも決まってかわいらしい女性の署員が来た。恐ろしいスタッフにも臆することなく、ビシビシ言いたいことを言うのである。まあ、火事にならないように指導するのだから当たり前だが、吉原で生活していると、そんな一般常識も希薄になり、「なんでこの姉さんは度胸があるんだろう」などととぼけた感覚になるから怖い。
 地方公務員として、当たり前の任務をしているだけなのに。
「この姉さんならどれくらい稼げるかな」
 などと女性を見ると花魁に結びつける自分が怖かった。
 店長もその姉さんの話しだけは笑いながら素直に聞いていた。ボイラー室がソープの命である。そこで湯の温度を左右し、客に楽しいひとときを提供するのだ。だが、ボイラー室は燃えやすいものが密集している。それに温かい。洗濯物の乾いてないものなどを皆がボイラー室に干している。部屋で使うタオルをたたんで保管してあるのもボイラー室だ。
 ねずみやゴキブリも相当いる。
 消防署員の姉さんは、来るたびにボイラー室を注意し、ランクでいうとBランク、あるいはCランクを記していった。数百というソープの店(箱)が密集している吉原は、こうした署員の地道な努力あってこそ、ということもできるのだ。
 ある日、いつものように店で作業をしていると、店長に呼ばれた。
「おいマル」
 僕はいつものごとく使い走りだろう、と思って
「はい」
 と行った。
「吉原公園行ってくれ」
 と突然言われたのだった。
 吉原公園は、吉原の中でも北東方向にあり、吉原の中にいくつかある公園の中では1番大きく、立派な公園だった。住みついているホームレスもいるが、地方から来た客が一休みするような公園だった。また、夜はそこに屋台のおでん屋が来て、ホームレスなどを相手に商売もするような所だった。
「とにかく行けば良い」
 そう言われたので吉原公園に向かった。少しサボれるぞー。というのが正直な気持ちだったのだ。
 公園に向かうと、何だかやけにボーイが歩いている。それも同じ方向に向かってである。
 吉原ボーイは言ってみれば単なる不良である。金髪やら緑やらの頭をした不良どもが何百近く、吉原の中をぞろぞろ移動し、吉原公園に向かっている。異常な光景だった。そして、その光景の一部に、僕自身もいたのだ。
「うっわーヤクザの街だ」
 と僕は感じた。ヤクザの街だが、みんな何かの目的に向かってら、とおかしくもあった。吉原公園につくと、すでに各お店から1名づつ代表者が来ていた。
 こんな時、同じ系列のボーイを見つけると、何だか同じ系列なんだよね、と気持ちが高ぶる。仲間がいたー。という感じだ。ひとり人寂しくいるよりはいい。僕も必死で同じグループの人間を探した。だが、同じグループ内の人間同士よりも、隣近所の知り合いと話すほうが多かった。
 僕も目の前のPアンド○のボーイを発見した。
「あー、どうもSさん」
 うれしそうに挨拶すると、まるで弟のように僕にちょっかいを出してくる。いつも売上のことや、警察のこと、ヤクザ関係でピリピリしている吉原ボーイも、こうしてここに集まると、何だか子供が集まる校庭、といった感じで僕は嫌いではなかった。
「はい、そろそろ集まりましたか、全部」
 マイクでそう話すのは、いつもの消防署の姉さんだった。今日はマイクで吉原全店から赴いたボーイを束ねている。まさに姉さんだ。きっと、その姉さんに憧れている吉原ボーイもいたことだろう。
「はい、今日は消防訓練を行います」
 姉さんはマイクでそう怒鳴った。
「ええー、消防訓練なんて中学校以来だよ」
 吉原公園に集合したヤクザもどきのボーイどもがざわめき出した。(イッセイ遊児)

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