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2007年10月19日 (金)

貧困に対抗する「つながり」を求めて――NPO法人「もやい」

「どうして野宿者を支援する活動を続けられたのですか」という質問に、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の稲葉剛代表理事は少し考えてから答えた。
Img_5871_3 「野宿労働者の支援をしている新宿連絡会の設立メンバーに見津毅(みつ たけし)という人がいましてね。わたしはずっと彼と一緒に外国人労働者の支援や路上生活者の支援をしてきたんですが、95年3月に彼がバイク事故でポックリと亡くなってしまったんですよ。それで後釜として、わたしがやらざるを得なくなったというのはありますね。
 見津はカリスマ的なリーダーでした。でも、わたしはワーッと人を引きつけて盛り上げるタイプではありません。だから最初から長いスパンで活動しようと思っていたんです。当初は10年とか。もう過ぎてしまいましたけどね(笑)」

 享年27歳。人権活動家としてあるいはジャーナリストとして、見津さんがどれほどのカリスマだったのかはインターネットでも伺い知ることができる。メジャーになる前のエコーズやブルーハーツのライブを企画し、原宿・歩行者天国での不当逮捕と闘った。亡くなった後には『駆け抜けた日々~人権活動家・見津毅の軌跡~』という映像作品まで作られている。

そのカリスマの後を継いだ25歳の実務家。それが稲葉さんだった。しかし時代は稲葉さんに穏やかな日々を用意しなかった。新宿連絡会が組織して新宿西口の地下道に作りあげた野宿生活者のための「段ボール村」が社会的に注目されたからだ。稲葉さんも連絡会のスポークスマンとして飛び回る日々が続く。
「段ボール村は一種の解放区的な雰囲気はありましたね。アーティストが来たり、段ボールに絵を描いたり、写真展が開かれたり、カメラマンが撮影に訪れたり。
 一方で日々いろんな形で強制排除の圧力がかかっていました。警察やガードマンが嫌がらせに来たり。とにかくそれに抵抗するのに必死で、ココを守りさえすればとも思っていました」

 実際、96年1月には850人もの警察官とガードマンを動員し、動く歩道を建設するためとの理由で200以上の段ボールハウスが撤去された。世論は割れた。仕事もなく路上に寝るしかない人たちへの同情論と、働かざる者食うべからず的な批判論と。そうした中で「村の住民」の団結は強まり、コミュニティーとしての輝きは増していく。
「段ボール村のころの活動は割とロマンチシズムでした。社会から排除されて、路上からも強制的な排除の圧力を受けていた人たちが、自分たちのコミュニティーをつくったというね」

 しかし稲葉さんが「美化しすぎた面があった」と表現した段ボール村は98年2月に忽然と消える。火事が原因だった。東京都インフォメーションセンター裏あたりから出た火は段ボールハウスを一瞬にして焼き尽くした。住民4人が死亡。
 数ヵ月前から東京都の姿勢が対決一辺倒から自立支援に向けて変わってきたこともあり、新宿連絡会は段ボール村の撤去を決め、住民は臨時宿泊施設へと移っていった。
 ここから新宿連絡会は中央公園で炊き出しをしながら、野宿から抜け出す制度的なルートをつくろうと活動を続けてきた。その成果の一端はホームレス自立支援法の成立や自立支援センターの設立にみることができる。そして01年、野宿生活者がアパートに入るときのネックとなる保証人を提供しようと、稲葉さんは友人とともに「もやい」を立ち上げる。これまでに1200人以上の人に保証人提供し、数知れない生活相談を受け付けてきた。

 またインターネットカフェから電子メールを使った相談が03年に初めて届いたことから「ネットカフェ難民」の問題にいち早く警鐘を鳴らし、その活動は一気に全国に知られることとなった。小社の取材当日にも他のメディアが3社訪れるなど、「もやい」は現在もっとも注目されているNPOである。
 そんな稲葉さんに段ボール村などに暮らしていた中高年の野宿生活者とネットカフェ難民に代表される若い貧困者の違いついてたずねると、「大ざっぱな言い方になっちゃいますが」と断りながら「共同性」だと教えてくれた。

「段ボール村などでは、野宿になる前からの知り合いって、けっこう多かったんです。同じ現場で働いたことがあるとか、あるいは手配師だった人がいるとか。貧困の中にも共同性がありました。
 今の若者も日雇いという就労形態自体は一緒ですが、すべて携帯電話で派遣先から連絡がくる。労働者を一本釣りできるから、寄せ場に人を集める必要がないんですね。しかも寝る場所も仕切りの中にあって知り合う機会がありません。もしかしたら隣は同じ境遇の人かもしれないのに」

 こうした共同性を失うと相談ができなくなる。そうなるとヒドイ労働環境でも抜け出す方法や手段が見つからなくなる。経済的な貧困と人間関係の貧困という貧困問題の2つの側面がそろってしまうのだ。アパートの保証人が見つからないのは人間界の貧困の象徴だとの想いから、船と船を結び付ける「舫(もやい)」を名前に団体を立ち上げた稲葉さんにとって孤立化する貧困者の問題は捨て置けない。

 こうした問題を解決する一助としてもやいでは、毎週土曜日に事務所で「サロン・ド・カフェこもれび」という喫茶店を開いている。朝から30~40人が訪れるサロンでは、子どもも近所の老人も路上生活者もメディア関係者も立場に関係なく、好きなように話し込んでいる。
 それは段ボール村の規模からすると小さなコミュニティーかもしれない。しかし「闘争」のためではなく、誰もがのんびりと集える場所としてサロンが機能していることは画期的だ。「カリスマではない」稲葉さんだからこそ作れた場かもしれない。

「もやいでは支援者と当事者の違いがますますなくなっています。元当事者の方がボランティアとして支援者になったり、あるいは支援者が心の病を抱えて当事者的にかかわることもあります。この社会で何らかの生きづらさを抱えている当事者として、みんなかかわっているんですね。
 そういう意味では私も当事者です。生きづらさを抱えている人が集まってつながりを作ろうとしているんだと思います」
 稲葉さんの投げかけた「もやい綱」はしっかりといろんな「船」につながれている。今後、さらに結びつきが広まっていくことだろう。(大畑)

写真説明:サロンで来訪者と話す稲葉さん(写真左)

リンク先:NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい

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