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2007年10月

2007年10月31日 (水)

続・亀田一家をほめたたえる

やはり何といっても亀田である。この一週間「亀田のことだけを考えて仕事をしろ」と編集部一同にきつく言い渡しておいたのにブログの記事を見る限り言うことを聞いていない。と嘆いている私自身の読みさえも大きく越えた信じられないほどみごとな亀田興毅選手の「パフォーマンス」が飛び出した。

前回の記事(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2007/10/post_ee0b.html)で私は史郎氏は決して反則を認めず凶暴親子路線を選んだ。三兄弟は「ですます」レベルの丁寧語さえ決して使わない。これでは協栄ジムとの契約も切られてしまう。どん詰まりの亀田家は元世界王者の興毅選手が引退して「亀田ジム」を興して弟を引き取る。その際に興毅会長は一転して丁寧語の紳士として登場して世間をアッといわせ、イメージを好転させる……との読みだった。
かなり自信があったのに現実ははるかにそれを越えていた。

どんな劇作家でも書けないシナリオだった。シェークスピア劇でいうならばタモラの二人のバカ息子たるディミートリアスとカイロンの性根が実はリアの娘コーディリアのように美しかった、と『タイタス・アンドロニカス』と『リア王』を混ぜ合わせたありえない展開である。史上最高の劇作家の想定を超えている。

恐らく私の読みの甘さには史郎氏の「諸芸の原点」として梶原一騎を挙げたにもかかわらず「笑いをかみしめなければ見られない」などとあなどったところにある。

史郎氏は考えた。あの自分の会見では逆風は止まない。反則→梶原一騎→反則→梶原一騎→反則→梶原一騎→反則→梶原一騎……。2つの言葉をグルグルと巡らした時にファンファーレのごとく響くフレーズがあった。「トラだ。トラだ。亀田はトラになるんだ」。
なぜ気づかなかったのだろうか。「タイガーマスク」が梶原一騎の作品だったことを。育てた「虎の穴」のいうなりに反則レスラーとして名を馳せた「タイガーマスク」が一転して裏切り、いっさい反則をしない正義の味方となって世の喝さいをあびる。亀田家の練習風景に私はマス大山や「巨人の星」は見出した。でもあれ全部が「虎の穴」だったのだ。そういえば本家「虎の穴」の訓練も激しいようでメチャクチャだった。
興毅選手の記者会見をメディアは「父からの自立」とほめた。「自立」は「虎の穴を裏切る」のオマージュである。史郎氏は決して切れないと世間(と私)が疑わなかった父子のきずなを絶つという演出を用意した。そして「タイガーマスク」で「虎の穴」の首領が出てこなかったように(アニメでは出てきた)史郎氏は姿を消すとの選択をした。「興毅1人」の会見に史郎氏が出られなかったのではない。出てこない方が首領らしいのだ。
反則一家から一転して「亀田 敬語を使う」を切り札に抜け出した興毅選手。正直いってこの札をあの会見の時点で持っているとは思いもよらなかった。興毅選手のポテンシャルは高い。「興毅 長髪決意」がニュースになるなどの予測はまったく問題外だった。内藤大助戦の様子を改めて確認するとセコンドの興毅選手にはモヒカン風の髪の毛が生えている(ように見える)。興毅=丸刈りというのは私の拙い想像力がはじきだした先入観だったわけだ。そうか。あのような会見で「丸刈り」に意味を持たせるための伏線として生やしていたのか。芸の細かさには脱帽である。

「タイガーマスク」の主人公である伊達直人は自らが育った児童養護施設の子ども達と疑似家族関係にある。そのためもあって「虎の穴」から離れた。興毅選手も同じで二人の弟のためにという大義名分がある。というかこの名分があれば正義の味方への転身=反則屋の汚名返上が可能となる。この役割は三兄弟の長男である興毅選手しかできない。だから大毅選手は黙っていた。なんてみごとな展開であろうか。
なぜ興毅選手でないとダメなのか。これは日本の家制度と深いかかわりがある。家長である父=史郎氏との決別を正統化するには長男の家督相続が不可欠なのだ。私も三人きょうだいの一番上(下は妹弟)だからわかる。妹弟は私より普段は明らかに親孝行をしているにもかかわらず一旦火急の際には私が前面に出なければならない。これは自負ではなく妹からも「いざとなったら長男が出てこないと収まらない」といわれた経験がある。
「興毅1人」には兄弟愛の含みもあろう。世間で薄れている親の愛の象徴として「史郎と三人の息子」の物語があった。それが通じないとなると親の愛よりもっと薄れている兄弟愛を打ち出せば効果絶大だ。何しろ合計特殊出生率が2を割って久しいなか「三兄弟」自体が珍しいわけでノスタルジアを呼ぶには十分だ。
大毅選手はしかる後に会見をしなければならないが、その際に「兄ちゃんに迷惑かけて……兄ちゃんゴメン」と涙ぐめば終わってしまう可能性さえある。よく考えれば内藤戦で反則を働いた張本人と教唆した、いわば共犯なのに、そんな事実関係は吹き飛んでしまうだろう。このあたりは決別して支持を失った大相撲の若貴兄弟を参考にすると推測される。

残されたポイントは2つ。一つは前回の記事で「金平某」などと軽く扱ってしまった金平桂一郎協栄ボクシングジム会長の正体である。「興毅1人」の会見でも影のように寄り添い適切なジャブ……じゃなくてアドバイスを差しはさんでいた。反則試合から「興毅1人」までの発言を改めて点検してみると世間の反応をうかがう観測気球をさまざまに打ち上げているよう読める。
しかも史郎氏との会談は密室(亀田家)でなされ、その内容は金平会長の口からしか明らかになっていない。あそこで「タイガーマスク路線で行こうや」と言い出したのは金平会長かも。何となく世間では密室での会談を緊張感に満ちたやりとりと思いこんでいるが案外と鍋をつついて謀議をこらした可能性もある。
もう1つはやはり末っ子の和毅選手である。金平会長は彼がアマチュアであるのを理由に処遇を具体的に言及していない。ここに次の伏線を感じる。和毅選手だけプロ転向後、協栄以外のジムに所属して史郎氏が陰となって寄り添えば……史郎氏は星一徹になれる。悪くても明子にはなれる。いやはや亀田はすばらしい(編集長)

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2007年10月30日 (火)

ベトナムへ行った。下

Dsc05679 ベトナム最終日。この日は、買い物と証券会社の講座開設に費やした1日だった。
 口座開設は、以前、M君が行ったところと同じところだったので、手順は同じだが、その本を読んでも口座開設のための手続きには最低2日間は必要と書いてある。しかし、私たちにには3日間しかなく、しかも運の悪いことに2日目の月曜日は祝日で証券会社はお休み。M君がいうには、「朝早くから行動すればなんとか1日でいけると思うよ」というありがたい? お言葉を頂いたが、いかんせん相方が方向音痴のためアテンドは私。何とかなりそうな気もしたが、ちょっとでも道を間違えたり、寄り道をするとアウトになる可能性が高かったので、現地旅行会社で行っている開設ツアーに申し込んだ。
 「時間がなければ金で買え!」がモットーの私が、「コレ申し込んだ方がいいよ……」と、気乗りのしない相方(開設したい人)に勧めたのではあるが。
 当日、チェックアウトをして、昼食をとり、集合時間に旅行会社へ行く。
 ツアーの内容は、タクシーで証券会社まで行く→領事館へ連れて行く→証券会社へ行く→旅行会社まで戻るというもの。
 約4時間くらいで終わる。なぜこんな短時間かというと、領事館でもらう証明書の受取などを委託するからだ。本来なら本人がすべてやるところを、委託できるところは委託しするから早く終わる。時間はないけど、どうしても開設したい! という人にはとてもおすすめ。
 さて、開設手続きをしている横で私は何をしていたかというと、旅行会社のイケメンスタッフと、可愛い女性スタッフ3人で海外暮らしの話題で盛り上がった。
 売買する際に使う用紙は開設者本人のサインでないといけないため手伝うことができない。開設の手続きで大変なところはここだと思う。1冊20枚×2冊の合計40枚にひたすらサイン、サイン。しかし、これがカネに化けるのだから仕方がない。
 マーケットが未整備なので、注文はネットでできても実際の取引は紙で行われるので大変な作業ではあるが、これから発展すると思われる国への投資と、もしかしたら大金が舞い込むかもしれない未来のことを考えれば、40枚のサインなんてたいしたことはないだろう。
 さて、私が行った時は午後だったので開設する日本人の姿は見かけなかったが、日本人専用の室内を見回すと、サインされているであろう用紙の束がかなり置いてあった。本当に開設者は多いのだということを感じた。
 サインもおわり、日本領事館へ行き、いろいろな手続きを済ませ、旅行会社のあるデタム通りへ戻った。
 カフェでお茶をしてから、ベンタイン市場へ行きサンダルを買う。ここは、サンダルの甲の部分を選んで自分のサイズに合わせて釘打ちをしてくれる。そこで2足買う。日本は秋に向かっているが、来年用に購入。
 土産を物色したあとは、公園で一休み。そこで不思議な光景を目撃。
 トランスミュージックのようなユーロビートのような音楽に合わせてラジオ体操のようなものを踊っている集団がいた。
 あきらかに動きはラジオ体操もどき。しかも夕方6時頃。辺りは薄暗くなっている。しかも、その輪に加わろうとしていた女性は、その振りをしながらずんずん近づいていく。東南アジアでしか見られない風景? と思いつつ眺める。
 さすがに飽きたので夕食を食べ、空港へ向かう。雷雨が激しく、もう少し遅く出発していたら濡れていた。旅の最中ではなく、帰りでよかった。
 チェックインまでずいぶんと時間があったので、ベンチでぼーっとしていたら、徐々に明かりが消えていく。
 停電だ。停電が多いとは聞いていたが、空港で停電は聞いたことがない。30、40分くらい暗かった。その後、徐々に復旧していったが、新しくてきれいな空港と、追いつかない電力供給の差に不安を感じた。
 今後は、インフラ整備に重点を置いたほうがよさそうだ。いくら他国が投資しても、いくらベトナム株人気が沸騰しても、今のままでは中国の二の前になりそうな気がしないでもない。どうなるベトナム。(奥津)

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2007年10月29日 (月)

月刊『記録』11月号が発売!

『記録』11月号が発売。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~astra/link/test0711.html

■《特集》出版界に浸食するトヨタの怪/取材・文 本誌編集部

 トヨタ関連の本が巷に溢れている。多くはトヨタ方式にならえ!のトーンである。トヨタ式はどんな問題も解決してくれるらしい。企業の収益はもちろんのこと人間関係から怠惰な自分まで「カイゼン」してくれる。果ては英語までもが、「トヨタ式」ならうまくいくとか。今回はそんなトヨタ本の中身を少しだけ覗いてみた。

 

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2007年10月28日 (日)

「死化粧師」を観る 第4回/死臭についての誤解を解く

 エンバーミング(遺体衛生保全)の仕事を終えたあと、いつものように人肌恋しいと震えている間宮心十郎。だからそれなら何でエンバーマーなんかになったの? といつものように思っていると、彼に怪しく近づいてくる人影があった。
「あなたのこと、全部知ってるのよ」
 甘く囁いたのは、謎のゴスロリ美女(しかし年増)だ。彼女は死化粧師、つまりエンバーマーとしての心十郎を、ずっと追いかけていたらしい。

 なんせ「誕生日に自殺します」と、自作ホームページの掲示板に書いてしまうほどの女子高生だ。自殺したあと、化粧してもらって、お気に入りの服に着せ替えてもらって、と、うきうきしながら心十郎にプランを語る。いるんだよな、死にたがりやって…

 しかし「オレはな、自分から死ぬなんて言い出すヤツが、一番嫌いなんだよ」と、心十郎は断った。ふてくされたゴスロリだが、すでに彼女のホームページには「自殺後、死体の写真を公開します」とデカデカ書いてある。

 どんな風に死ぬつもりなんだ?
 綺麗に自殺するのって意外と難しいぞ。睡眠薬じゃ致死量が計りにくいし、ヘタすると苦しくて漏らしながらのたうちまわったりする。水死じゃすぐにブヨブヨし始める。首くくってもいろいろ漏らすし。顔はむくむし。投身なんてもってのほかだ。
 比較的綺麗なのは、練炭自殺だ。血管が収縮して顔が青白くなるから。それだって発見が遅れれば悪臭がしだす。
 どんな死体だって、ニオイから逃れやしない。残酷なことに、若くって水分の多いぷるぷるしたお年頃の方ほど臭いやすいのだ。

 よく、死臭というと加齢臭のキツイものと勘違いされやすいけれど、それはまったくの誤解である。
 じゃあどんな臭いなのか、と言われると形容が難しいけれど、死を経験したことのない人間は、まったく嗅いだことのない臭いである。それだけは言える。口臭、脇の臭い、足の臭い、衣服の臭いなど人が発する不快な臭いのうちに、死臭に似ているものはない。
まあ、「足から死臭がする」っていうのも、かなりヘコむだろうし。
 例えれば、臭いそのものとしては全く似ていないけれど、果物が熟しきってしまって腐って発する臭いにイメージが近い。甘ったるくて、ちょっと刺激のある臭いなのだ。

 以前、引っ越してきたとき、「なんだかこの家、おじいちゃんちみたいなにおいがする」と言われたことがあった。
 それは私も感じていた。しかもそのにおいは、暮らすにつれだんだん強くなってきた。「まさか、この床下におじいちゃんが…」なんて不謹慎な事を言い出したが、「いや、そういう臭いじゃない」と、即座に否定することができた。
 それくらい、嗅いだことのない人には想像が難しく、嗅ぎなれた人には一発でわかってしまうものなのだ。反対に、もし「床下に」が真実だったら、私はにおいですぐにそれと分かったであろう。

 自殺志願者は「綺麗に死にたい…」と、死に方を研究する。しかしどんなに綺麗に死を遂げても、それこそエンバーミングでもしない限り、死臭からは逃れられないのだ。
君は、かつて嗅いだことのない臭いが自分から無防備に醸し出されることについてどう思うか。それを自殺志願者に問いたい。

 くだらない事を考えているうちに、ドラマではゴスロリ自殺願望娘が実際の死体に触れてショックを覚え、改心した。ホームページも閉鎖した。間宮心十郎は、ホームページを探しても出てこない事を確認して、ふっと笑う。
のどかな最後かと思いきや…
院長が倒れた!
どうなる次週!
そういえば男のエンバーミングって見たことないぞ!(小松朗子)

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2007年10月27日 (土)

『吉原 泡の園』 第39回/Tさんが見た泡の園

 朝、いつもと変わらない。朝は幸せな人にも、辛い渦中にいる人間にも平等だ。眠りから覚めると11時頃である。いつもならば布団から出て店に向かう。
 だが、昨日暴力を受け、憂鬱な朝を迎えていた。このまま飛ぶか、ふとそんなことが頭をよぎるのだった。
 楽になれる。そうだ、これは刑務所の中でもなければ、僕は戦争で捕まった捕虜でもない。ここは日本だ。民主主義の国だ。辞めてもいいんだ。が、金がない。
 上手く出来ていた。ボーイに寮を提供し、そのかわり、貯蓄の出来ないようにする。1度奴隷になったなら、もう帰すつもりはない。それが暴力団仕込みのRグループのやりかただった。
 金がないから出られない。だがマネジャーをあそこまで怒らせたのは今のところ僕だけだ。ああ、袋小路か。
 そう思ったとき。
 ドカドカと凄まじい音をたて、廊下を闊歩する音がする。僕の部屋には鍵があり、一応は毎回しめている。
 ドアが叩かれた。
「開けろやイッセイ」
 続けてまたドアが叩かれた。
「ひぇえー、ま、マネジャーだ」
 昨日の暴力の熱が冷めないのか、それともまだやり足りないのか、同じ部屋のEちゃんも驚いて起きた。
「はい」
 恐る恐るドアを開ける。マネジャーがスーツに着替えて立っている。
「いくぞイッセイィィ」
 気合でそう言った。そう言うことで、昨日のことはもう終わりや、そう聞こえた。
「あ、あっはい」
 胸中複雑だったが、もしここで終わっていたら東京から去ったかもしれない。一応は夢の道から脱線せずにすんだ。ただ、そんなことくらいでマネジャーが変わるはずもなく、店では相変わらずではあった。
 次に暴力のターゲッツトになったのは長野出身のTさんだった。気の弱そうな笑顔をするのだが、いじめは人を、いや、いじめは人の心を変えるといっても過言ではないと思う。それはいじめる加害者もさることながら、時に、被害者の心もすさみ、そしてすれる。
 いつも田舎ののんびりした笑顔を見せていたTさんも、どうやらマネジャーのいじめにより、心がパンパンに一杯になったらしく、そのパンパンを放っておくといつか破裂する。
 それを防ぐためには、時々ガス抜きをしなければならず、そのガス抜きのターゲットが僕だった。
 本来かばってくれるはずの先輩が、事あるごとに、
「ああ、それはイッセイです」
「それやったの確かイッセイですよ」
「関口、タラタラするな、走れ」
 などと店長のようなことを言い出したのだった。そしてそれは全てまずは自分がそう叱られたことを全て、僕に言い始めたのだった。
 僕は怒りに燃えるというよりも、むしろ悲しかった。
 人は変わるのだ。ただ、それは環境や人により、良くも悪くも変わる。Tさんは悪く変わったのだ。それはこの環境や、人、当然僕自身にも原因がある。そうしたTさんを悪く変えてしまった僕らR店の人間と環境に絶望した。同時に、Tさんには申し訳ないことをしてしまったと思った。人はどこでどうなるか分からない。昨日まで幸せだったのに、次の日はTさんのようになっていることもある。
 もし、車の事故がなければ、Tさんは長野の片田舎で、嫁さんと静かに家庭を築き、もしかしたら幸せに暮らしていたのだ。
 が、それがどうか、後輩を無意味にいじめ、吉原で義理風呂に行きながら、いつまでたっても貯まらない金の心配をして生活している。
 それを思うと、いてもたってもいられないほどだった。
 いいよ、Tさん、僕はいじめられても。僕は不覚にもR店の1階大広間兼ボーイの待機場で、涙を流してしまった。もちろん、誰にも見られないようにである。
 ごめんTさん、ごめんよ。あんなやさしかったTさんをこんなに苦しめ、変えたのは僕らだ。
 マネジャーに合わせ、好かれる為に、話しを合わせる努力もしていたのだった。
「マネジャー、やっぱ覚せい剤ですよね」
 などと悪ぶってみせる。が、そうした努力が全て裏目に出ていた。
 仕事が終わり、ビールを買って持って来い。といわれたので、買い物をし、マネジャー達の部屋に持っていき、ドアを開けたとき。
 ベッドの下から上の部分を寝そべりながら足で蹴り、Tさんが蹴飛ばされ空中に何度も浮いている光景はまさに、「いじめ」「暴力」だった。
 Tさん。
 とめてやれない僕も同罪だった。(イッセイ遊児)

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2007年10月26日 (金)

初音ミクが増幅させたグーグルへの不審

 先週、初音ミクがグーグルとヤフーから消えた。
 亀田大毅の試合や謝罪について世論が沸騰していたころ、ネット上ではバーチャルアイドルが画像検索しても引っかからないと物議を醸し出していたのだ。

 初音ミクとはクリプトン・フューチャー・メディアが発売したソフトで、音階と歌詞を入力すると人間の声そっくりに歌ってくれる代物だ。このソフトで作った「歌声」はネットでいくらでも聞くことができるが、なかなか見事な歌いっぷりである。体験版を付録にした雑誌が即完売し、ネット上で高値の取引が続いているのもうなづける。

 で、そのソフトのイメージキャラクターである「初音ミク」の画像が、ヤフーやグーグルの画像検索でヒットしないと、17日から騒がれ始めたのである。23日には画像が復帰したため「事件」は沈静化に向かっているが、大手広告代理店やテレビ局などの圧力によって、グーグルやヤフーが検索からはじいたという説がネット上ではかなり支持を受けていた。

 真相は分からない。個人的には画像検索の情報が上がるのが遅れ、検索から漏れたのだろうという意見に賛成している。ただ問題はイメージキャラクターが検索できなかった事実が、グーグルの陰謀と簡単に結びついた点にある。

 ユダヤ人やフリーメンソンが世界を支配しているといった話は書籍の世界ではかなり人気だ。日本人は陰謀史観が好きなのかもしれない。しかしユダヤ教団理事長や日本フリーメイソンの広報委員会委員長に取材した経験からいうと、世界を支配する欲望を彼らからは感じなかった。特にフリーメンソンの委員長にいたっては、平和すぎるほど平和な好人物だったと記憶する。
 では、グーグルへの疑惑の眼差しも陰謀史観の妄想かと笑えるかと問われれば、素直にはうなづけない。

 まずグーグルには、「グーグル八分」と呼ばれる検索からの意図的に排除した「実績」がある。企業などから削除依頼を受け、検索に引っかからないように細工しているのだ。また中国のグーグルでは天安門事件や法輪功をいくら検索してもページが現れず、これが中国政府からの検閲に従ったことをグーグル自身が認めている。

 つまり表向きはすべての情報を平等にキャッチし、アクセス回数などを数値化して並び順を変える機械的な検索だと発表しているが、じつは検索そのものにかなりの手心を加えているのである。そのうえグーグルの最高責任者エリックシュミットは、「地球上のすべての情報を検索できるようにするのがわれわれの使命だ」と豪語している。

 無邪気と思えるほど壮大な支配欲と、公正さを欠いた情報の取り扱い。さらに削除の基準を公開しない方針と他社を圧倒する技術力。これらがあいまってグーグルは「陰謀」を疑われる企業になったともいえる。

 企業である以上、そこが提出する情報にバイアスがかかるのが当たり前かもしれない。しかし情報の壁を次々と取り壊し、あらゆる情報(例えば航空写真の情報でも)が無料で手に入る環境をネットに出現させるグーグルの姿に、多くの人は長い間、幻想を抱き続けてきたのではなかろうか。彼らは「自由」の体現者であると。

 しかし今回の初音ミク騒動で、グーグルへの不信感を募らせた人が大幅に増加した。他の検索エンジンを使うようにすると、ネットで宣言する人も少なくなかった。この反応を、私は喜ばしいことだと思う。

 ネットが世論形成に大きな影響を持ち始めていることは間違いない。またネットがお金を生み出すことも異論の余地がない。だからこそネット上で巨大すぎる権力を握る企業の情報に、一定の疑念を持つことは重要だと感じている。

 ちなみに初音ミクと一緒に亀田大毅の映像も消えたという噂もある。これが事実なら大毅は、初音ミクと「歌手」つながりで消えたってことか!? それともバーチャルなボクサーと、バーチャルなアイドルの括り?
 おそるべし亀田大毅。闘い方ばかりではなく、ネット映像の消え方まで物議を醸し出すとは……(大畑)

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2007年10月25日 (木)

新人理学療法士、走る! 第4回/筋肉は触って覚える!

 今日は勉強の話をしたいと思います。

 3年制のPT養成校では、朝9時から夕方16時半まで1日中授業がギッシリ、ということは以前にも書いたが、その内容は、理学療法の手技、医学、福祉分野を中心に、物理や統計学、心理学、倫理学などの一般教養まで多岐に渡るものである。
 1年次には、解剖学、生理学、運動学など、PTとして必要不可欠である人体の基礎知識と、関節可動域や筋力の評価方法などを主に学ぶ。
 解剖学や生理学は講義形式なのだが、評価方法などの授業は、学生がお互いを実験台にしつつ進められる。実技形式の授業はいくつかあるが、中でも『生体観察』の時間には大いに戸惑ったことを覚えている。

 講義で習った筋骨を実際の身体で確認するという授業なのだが、「もういいだろ!?」というくらいにしつこく、且つ、思い切って触らないと、教科書の平面で見る絵を立体的に理解することができない。
 骨盤だろうが足の付け根だろうが脇腹だろうが、所構わず、どこでも触る。初めのうちは、強制的に男女で組まされるのだが、一ヶ月もすると、男だろうと女だろうとスッと手が出るようになってくる。
 それでも、30をとっくに過ぎたおっさんが10代のカワイイ女の子に触っているのをみると、
「いやいや、犯罪だろ!」
 と、突っ込みを入れずにはいられなかった。
 2・3年次には、病理学や内科学、整形外科学、脳神経学など疾患についての各論、脳卒中や脊髄損傷など、各疾患の後遺症の程度に関する評価法、治療法、その他、家屋改修や、義肢装具学、などを学ぶ。義肢装具士、という職種がちゃんとあるので、義肢(義足や義手)や装具を私たちPTが作るわけではないが、どんな物を作るか、素材はどうするか、足首の角度はどうするか、など詳細をドクターと相談して決めるのも仕事の一つなのである。

 試験は前期、後期の2度に分けて実施される。
 教科が20科目弱ととにかく多くて、昔から一夜漬け派の私はいつも2~3日徹夜する破目になった。
「こんな歳にもなって何やってんだか・・・」と毎回情けない気持ちになりつつ、毎回それを繰り返した学生時代だった。

 実技テストでは、教師に対して評価や治療法を実際に行うことがあった。
横:縦が1:2の、背が小さくて丸っこい学科長を車椅子からベッドに介助して移す、というテストで、重みに耐え切れず転がしてしまったことがあったのだが、見事にゴロンと転がった学科長を見て、テスト中にも関わらず思わず笑ってしまったことを覚えている。
私の学校はテストの採点がそれほど厳しくなかったのだと思うが、そんな大失態を披露しつつも再試験を受けずに済んでしまった。

学校で学ぶことができるのは、ほんの基礎中の基礎で、これだけでは質、量ともに足りない。
この職業を選んでしまったら最後(?)、一生勉強し続けなければならない。
卒業後は、頻繁に催されている勉強会に出席したり、自分で本を買って勉強したりする。何万も払って勉強会に行ったりする人もいる。理学療法にもいろいろな手技があるのだが、それぞれの手技で学派みたいなものが確立されている。

私は何度も言っているように新米で、また勉強不足なので詳しくは知らないが、有名な学派に「ボバース」というのがある。
一度だけその治療を見学したことがあるのだが、傍目にはなんだかおまじないみたいに見える。
魔法使いならぬ、ボバース使い(実際、こういう言い方もする)。動きが少なくて、正直、見学していると眠くなってしまう。
植木屋さんが木に語りかけてるみたいに、筋肉に語りかけてる感じ。多分。
でも、神経系とそれに関わる疾患に関して、体系化された考えが身に付くそうなので、勉強したいなとは思う。
PTの世界は奥底が知れなくて、あまりにも道のりが遠くて、先輩たちみたいになるのは無理だな。と思ってしまう今日この頃。(染谷)

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2007年10月24日 (水)

亀田一家をほめたたえる

何といっても亀田である。「亀田家」と書くと名門のようで「亀田一家」とすれば博徒に読める。当記事は亀田史郎氏および息子の三兄弟を絶賛するつもりなので「亀田家」で通そう。

『少年チャンピオン』07年11月1日号で板垣恵介氏が「さすが悪ガキ大毅 君は一流の取材対象だ!」とのコメントを寄せている。やはり一流の表現者の目線は違う。その「取材」第一歩となった「史郎&大毅&金平某の謝罪みたいな記者会見」では主に史郎氏の天才ぶりにうならされた。
パフォーマンスなどのこれまでの言動について史郎氏は「今はちょっと分かりません」と発言するもギラッとカメラをにらんでいる姿から「何がパフォーマンスじゃ!」と非言語コミュニケートしているのがアリアリ。ここが「11ラウンド前の反則は指示したのか」との質問に対する伏線となる。史郎氏は「指示はしていません」と明確に否定してしまった。日本ボクシングコミッション(JBC)は反則を促すような指示があったと認めているにもかかわらずである。
もちろん本当に反則を指示していても公の場では認めづらい。だから否定はわかる。だったらパフォーマンス云々の質問に対して「そうです。パフォーマンスが過ぎました」と言っておけばいい。だからあの「指示」もパフォーマンスの行きすぎだと落ち着く。
しかし史郎氏はそれすら事実上認めない。となるとマジであんな指示した上に反則とは認識できない男というレッテルを貼られる。ホンマものの凶暴親子である。そうだと満天下に示した時点ですばらしい。

会見での大毅選手の丸刈り&憔悴無言および翌日の内藤大助選手へのアポなし謝罪と興毅選手の謝罪談話とJBCへの電話での陳謝は合わせ技一本。要するに肉声で「ですます」レベルの丁寧語使用さえ聞かれたくないとの作戦だ。まさか会見で「内藤、悪かったな」とはいくまい。亀田兄弟的には反則は許されても丁寧語はタブーなのだ。それをみごとに貫いた。
金大中韓国大統領(当時)訪朝による南北首脳会談までの金正日北朝鮮総書記をほうふつとさせる。とにかく肉声を封印することで「聞きたい」ニーズを高めるのだ。この兄弟だと「亀田 敬語を使う」だけでスポーツ紙の一面が飾れる。
憔悴は慶応病院での安倍晋三前首相会見を思い起こした。亀田家は荒っぽく、安倍前首相はていねいにと口調に違いはあるが勇ましい言動大好きという点で共通する。それより何より「最後の最後は放り投げる」というポリシーが重なって美しい。
丸刈りというのも深遠だ。そもそも武蔵坊弁慶が関西出身なのにわざわざ「浪速の弁慶」とするのに強いフェイク感を覚えていた上に丸刈りにされると興毅選手と見分けがつかない。事実あの映像を最初にチラッと見た時には「何で興毅の方がいるんだ?」と驚いた。亀田家自体がフェイクの領域にあるなかでのフェイク感。なかなか出せる味ではない。
これだと将来予測される興毅選手のタイトルマッチで反則負けしたらどうするのだろうか。興毅選手はフライ級へ上げるため王座を手放しており、同門対決を避けるならば内藤戦しかありえない。ポンサクレックが王座奪還しても難敵に変わりはない。上記のごとく亀田家は反則との認識なく反則すると認めているのだから反則負けとなろう。すると処分が下る。
大毅選手はフサフサから丸刈りにできたけど興毅選手は元来丸刈り。すると謝罪会見ではかぶり物をしてきて「オレも丸刈りにしたかったけど元々そうやから被ってきたで」となるのか。それとも将来の丸刈りに備えて今から生やすのか。興毅選手の髪の毛から目が離せなくなった。「興毅 長髪決意」「興毅 長髪で挑発?」の見出しをデイリースポーツは待っている。

少し話がそれた。世間では史郎氏を「諸悪の根源」扱いしているも本当は「諸芸の原点」ではあるまいか。1965年生まれの42歳。ほぼ同世代の私は亀田家の練習風景の映像を笑いをかみしめなければ見られない。史郎さん。お互い梶原一騎にハマってたんだね。でもあなたはすごい。それをそのまま息子に当てはめて世界王座まで取らせたのだから。パクリと批判する向きにはオマージュだと言い返されたい。オマージュ?オマージュだって(笑)。
現在進行形で亀田家は協栄ジムとの関係ももめているらしい。解雇されたらボクシング界から事実上追放との報道もあるが何のことはない。亀田ジムを作ればいいのだ。だって興毅選手はすでにして皆が忘れかけているけれど元世界王者なのだから慣例では比較的容易にジム会長へなれるはずだ。その下に大毅選手と和毅選手が属するのだ。
そう!亀田家にはまだ和毅選手がいる。何の根拠もなく三兄弟最強と流布されている和毅選手が。「三兄弟最強」のフレーズに意味があるのかとの論争を論壇で巻き起こしかねない和毅選手が。日本の学齢主義ではまともに通学しなくても中学まで卒業できるのだと証明して悩めるいじめられっ子に希望を与えた和毅選手が。
大毅戦の後で自信喪失との報道もあった興毅選手ゆえ引退してジム会長も悪くあるまい。ひそかにマナーの勉強をして、ある日突然引退会見を信じられないほど丁寧な口調でさわやかに行ったら風向き一挙に逆転だ。

亀田人気は視聴率は取ったがボクサー志望者はかえって減りボクシング人気にはつながっていないとの指摘もあるがとんでもない。亀田家は内藤大助というスーパースターを誕生させたではないか。何しろ「国民の期待」を(ファンの期待ではない)今や担っている。「内藤になりたい」ムードでボクシングブームがやってくる。来るべきポンサクレック戦の興行権は国費で買い取るべきとの国会決議が共産党を除く圧倒的多数で採択される勢いだ。いやはや亀田はすばらしい。(編集長)

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2007年10月23日 (火)

ベトナムへ行った。中

Dsc05458_2  2日目。この日はメコン川クルーズ(英語ツアー)。集合場所のシンカフェ(ツアー会社)へ向かう。
 集合時間は8時15分。ホテルから2、3分のところにあり非常に近い。そこにはたくさんのひとであふれかえっていて、ひっちゃかめちゃかだった。
 ツアー催行はいくつもあって、なかなか乗るバスが来ない。8時半。ようやくバスが来て乗り込む。ベトナムとはいえ、観光バスはよくあるタイプで左ハンドル。全員乗り込み出発。

 メコン川クルーズ出発地点のミトーは、ホーチミン市からバスで約2時間。道中寝てしまっていたので景色はわからなかった。
 ミトーに着き、クルーズの概要を大きなマップで説明される。その後、船に乗り込んだ
 途中、島々に泊まり観光。
 最初は、ライスペーパーを作りをしているところ。ライスペーパーは米でできていて米の汁をクレープ上にひき蒸し焼きにする。このままクリームやフルーツを載せたら小麦粉のクレープ、そば粉のクレープ(ガレット)に続いて新しいクレープができそうだ。どこかが商品化してみないものか。
 続いて、椰子の木や椰子で作ったグッズ屋を見た。そこでとてもユニークなお面を買った(1ドル)。そのお面は部屋に飾ってある。
 そしてそこでランチ。ランチはご飯、揚げ春巻き(チャー・ゾー)、豚肉、スープ。食べたい人は、エレファントイヤーフィッシュという名の魚(10000ドン)を頼むことができる。見た目はグロいがきちんと火は通してあるから安心だ。そこではそれをライスペーパーにはさみ生春巻きにして食べる。たまたま一つもらえたので一口食べてみたが味はわからなかった。
 ご飯を食べ、再び船に乗り、ハチミツ工場へ。そこでハチミツ茶を飲む。かぼすサイズのミカンのようなものを絞って入れるとおいしい。おいしかったのでお代わりをした。
 そのあと、6人乗りの馬車(かっこいいものではない)に乗り移動。1馬力で大人7人を乗せて走る馬。その馬が意外と足が速く驚いた。貴重な体験をしてから、フルーツを食べる。ドラゴンフルーツが甘くておいしかった。
 一通り食べ終わり、船に乗りに行くと、なんと4人乗りのボートが。細い川をそのボートで進む、進む。両側には緑が生い茂り、川の水は茶色いが気持ちよかった。ボートに揺られつつ緑を見ていたら急に「なんかいい原稿が書けそうだ。よし、作家になろう!」という創作意欲がわいてきてしまった。
 ボートを下りたあと最後の観光、ココナッツキャンディー工場へ行く。工場といってもわらぶき屋根で壁はない。にもかかわらずココナッツの甘い匂いでいっぱい。 また船に乗り出発地点に戻り、バスでホーチミン市に戻った。
 夕飯は、ベトナム料理。牛肉のバナナリーフ蒸し、チキンおこわ、らいぎょの粘土焼きの3品。
 牛肉はライスペーパーで包んで食べる。おこわは、釜飯のような感じでおいしかった。らいぎょだが、見た目はグロテスクで気持ち悪いが、味は絶品。少し泥臭いが、塩(岩塩のようなものに唐辛子が入っている)をつけて食べると臭みが減りおいしくなる。二人で一匹だったが、一人一匹ずつにすればよかったと後悔。
 その後、おみやげを買いにスーパーへ。チリソースなどを買い込み、店を出ようとしたところファンシーグッズショップになぜかリ○ックマが。思わず即買い。
 なんだかんだであっという間に終わったベトナム旅行2日目だった。(奥津)

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2007年10月22日 (月)

『私は偽悪者』・ 山崎晃嗣と堀江貴文と/牧野出版代表・佐久間憲一さんに聞く

「もし偽善者という言葉に対して、偽悪者という言葉があるならば、彼こそ真の偽悪者だと思います」
 牧野出版が去年4月に出版した『私は偽悪者』の冒頭に置かれている文言だ。
 文言の主は1950年に『私は偽悪者』(青年書房)を編集した佐藤静子、「彼」であり同書の著者である山崎晃嗣の愛人だった人物だ。つまり、牧野出版が今年出した『私は偽悪者』は、50年以上前に出版された同書の“復刻版”。
 著者の山崎晃嗣は1922年生まれ。東京大学在学中の1948年に高利貸し会社「光クラブ」を設立し、派手な広告、「人より数字を信用せよ」の信念で会社を爆発的に成長させた。しかし、当時の法定利息を上回る金額を貸しだしていたことで逮捕される。保釈は得たが信用を失い、債権者に約束した金を工面できず会社の自室で青酸カリ自殺を遂げた。
 なぜ今になって彼の著作が“復刻”されたのかと疑問に思われるかも知れない。答えは牧野出版が出した同書のオビを見れば一目瞭然だ。
「元祖ホリエモン!? 劇場型人間、山崎晃嗣の問題作復刊。」
 今回の“牧野バージョン”では底本(オリジナル)にプラスして、書の終わりにライブドア元社長・堀江貴文と山崎晃嗣との共通性を検証する項が設けられている。つまり、時代は違えど同じく金が飛び交う舞台で、一瞬ではあるが異常な輝きを放った2人の人物に焦点を合わせた1冊なのである。
 山崎晃嗣の「自伝」的な要素も含む本書のメーンは50年以上も前に姿を消した光クラブの興亡なのだが、読み進める間にもその背後に現代を生きる堀江貴文が見え隠れするような気がしてくるのだ。

 本書に企画段階から携わった牧野出版代表の佐久間憲一さんは、派手な買収劇を打ち、「既存のメディアを殺していく」というハッキリした物言いで世間の耳目を集める堀江貴文を見て、「これは山崎だなぁ」と思ったという。
 構想を練りだしたのは05年の秋頃。もともと光クラブ事件や山崎晃嗣という人物には興味があったが、青年書房刊の『私は偽悪者』を読んでみようと思い、国会図書館に足を運んだ。
「とても面白かったんですよ、実際に読んでみて。ホリエモンと山崎には何とはなしに類似性を感じていて気になってはいたんですけど、読んでいて確信は深まりましたね。後は、読み物として単純に面白かった。これは出すべきだろう、と。確かに法定金利をオーバーしてたことはありますけど、頭脳を駆使して独力で立つ姿勢、『他のいまだ成し得ざりしことをなさん』という信念は良い悪いではなく興味深い人物なんですよ」
 メディアでは「拝金主義者」などの大バッシングを受けた堀江貴文だが、佐久間さんの中には「彼がやっているのは本当に叩かれるべきことなんだろうか?」という思いもあった。
「確かに、粉飾決算という形で一線は越えてしまった。これは叩かれてもしょうがないでしょう。ただ、それ以前に彼がやってきたことは、逮捕以前では“ラインギリギリの創意工夫”でもあったわけです。面白いのは、新聞なり雑誌なりのメディア媒体として出されるものには『堀江許すまじ』といった色合いが濃かったんですけど、個人個人でメディア関係者に話を聞くと、案外彼らも『本当にそこまで叩かれるものなのかな』といった感じなんです。」
 しかし、結果的にほとんどのメディアは堀江を悪者として断罪した。見方によってはただ、バブルのように堀江叩きが盛り上がっていっただけのようにも見える。粉飾決算よりもこっちのほうがずっと恐ろしい、と佐久間さんは言う。

 冒頭で佐藤静子が書いているように、山崎は『偽悪者』なのだろうか。確かに山崎自身が「おれは悪党だ」と言っている下りが本書にもあるが、その真意は今となっては確かめようがない。
 過激な発言と、違法と合法の間で輝きを放った両者だが、こんな存在にどこかあこがれを抱いてしまう人は少なくないだろう。堀江の後に、山崎を彷彿とさせる人物は必ず現れるだろう。
 そのとき、私たちメディアはどのようにして「偽悪者」を受け入れるべきなのか。(宮崎)

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2007年10月21日 (日)

「死化粧師」を観る 第3回/「グリーフワーク」の罠

「私のお葬式に来てくれる? 誰も、来ないから」
それは孤独な女性の、遺族じみた未来の故人の言葉。
 一ヵ月後には柩に横たわっているであろう、癌に蝕まれた体から出た言葉。
 エンバーミングの生前予約を受けた、エンバーマー・間宮心十郎の表情は、さすがに複雑だった。
 死装束デザイナーを演じるIKKOの下手糞な言い回しが、余計に虚無感をあおる。なかなかうまい演出だ。

 生前予約をした女性、白川澄子は仕事人間。プリザーブド・フラワーの職人で、その厳しさ、生真面目さから他人を寄せ付けないで生きてきた。自分が癌で余命いくばくもない事を知り、せめて死ぬときは綺麗に死にたいとエンバーミングを予約した。
 間宮心十郎は沈んだ澄子の心をせめて癒してあげたいと、合コンを企画して楽しい一夜を過ごす。澄子も、心から笑ってくれる。しかし、運命には逆らえず、1ヶ月後にあっけなく澄子は亡くなってしまう。
「あなたを忘れません」
 そういいながら、エンバーミングを施す間宮。
 IKKOデザインの死装束を着せて、ありったけのお化粧で仕上げて、最後に澄子の作ったプリザーブド・フラワーを柩に添えて。

 結局、澄子の予想を裏切ってたくさんの人々が弔問に訪れた。嗚咽する仕事仲間。澄子はひとりではなかったのだ。
 生花のようなのに寿命の長いプリザーブド・フラワーのように、故人は半永久的にいきいきと人の心に住まう。そんなオチだった。

 しかし私の興味は話の大筋を圧倒的に裏切って、国生さゆり演じる女医・宵子の言葉に集中していた。
冒頭に、間宮心十郎がエンバーマーだという事を知り、宵子の口から吐かれた暴言。
「院長は許しても、私は許さない」
 はあ?!!
 院長が許すっていうか、クライアントが望んでいるのでは。
「死んでもなおメスで切り刻まれて、不自然な形にされるなんて」というのが宵子の持論らしいが、お前の意見など誰も聞いてはいない。
 医師が認めるか否かではない。決めるのは遺族だ。

 宵子の自己満足に凝り固まった観念は困ったものだが、葬議界での困った言葉に「グリーフワーク」というものがある。
 直訳するとしたら「癒しの仕事」。
 葬儀屋は葬儀を仕切るだけではなく、遺族を慰める役割がある、いや、そうすべきだという考え方のもとでつくられた言葉だ。
 この言葉を通り一遍に受け取ってしまうと、ただの自己満足に陥ることになりがちだ。
「これをしてあげたい」と思うことは、とても心地よい。人の役に立ちたいと思うことは、とても素晴らしい。でも、葬儀屋のやることはあくまでも「仕事」である。かわいいあの娘のために内緒でブランド物を買ってあげたい、という程度の話と一緒くたにしてはいけない。必ず遺族に沿うて、故人に沿うて、なにをすべきかを常に考えなければならない。ブランド物を買ってあげたいのならば、シンプルに「ブランド物は欲しいか否か」を聞き、うなずいたら買ってあげればよいのだ。まったくそれが欲しくない人にいくらつぎ込んだとて、「いや、気持ちは嬉しいけどさ…」と引かれてしまうこと必須である。
「グリーフワーク」に酔い、朝も夜もなく働いては遺族へのサプライズをせっせとこしらえていた同僚がいた。彼女は湿っぽい司会文を読みあげ、故人が好きだった曲を最後に流し、好きだった食べ物を供物に加え、アルバムからとった写真を会場のいたるところに飾った。

 結果、感動的な式にはなったが、心なしか――そう、私の考えすぎならよいのだが、彼女にお礼を言う遺族の顔が――かなり、疲れていた。
 故人の好きだった曲はバリバリのヒップホップだったし、好きだった食べ物はキットカットだったし、事情を知らない弔問客にはきっと違和感ばかりが残ったに違いない。
 とどめに気の毒だが、スタッフ一同にはシニカルな笑いが飛び交っていた。

 死はなぜか美化されやすい。葬儀屋はそれに酔いやすい。しかし、死の美しさに惑わされてはいけないのだ。顧客満足を第一に考えて行動しなければ、仕事を見失ってしまう。常に「これは仕事である」事を、自分に言い聞かせて欲しい。
 葬儀屋は卑下するような仕事ではないが、特別素晴らしい仕事でもない。その自覚が欠けている人がいま、多い気がする。葬儀屋が皆、自己満足に浸された「グリーフワーク」をはじめてしまったら、これほどウザいことはないだろう。それをちょっとだけ、心配している。(小松朗子)

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2007年10月20日 (土)

『吉原 泡の園』 第38回/殴られて崩れ落ちる夜

 さて、仕事のは何ヶ月たっても怒られっぱなしの日々の中、さすがにTさんをはじめ、先輩方はそろそろ精神的にも危険な状態になり始めていた。
 Eちゃんなども、
「あいつ怒り過ぎだよ」
 とマネジャーの陰口をこっそり僕に言ってくる始末であった。
 店の方も、マネジャーが存分に悪徳振りを発揮し、女の娘の教育は幹部クラスのマネジャーが託されていたが、研修と称して本番などを強要するなど、その悪徳振りは自民党のように日に日に悪化していくのであった。
 店のホームページにもウイルスが進入し、わけがわからぬほどひどくされた。
 それでもマネジャーの目は覚めない。
 というよりも、これではまだ日本人に対する、あるいは両親にたいする、いや、社会に対する復讐は足らない、と言わんばかりなのだった。
 クタクタになりながら仕事が終わって焼き肉屋に付き合ったある日、金がないのは僕もマネジャーもお互い様だった。だが、マネジャーは見栄を張るのが好きで、どうしても割り勘にしている自分自身が気に入らないらしかったのだ。
 それをつゆしらず、酔った僕は
「さて、けえるか」
 とマネジャーが言った後、
「はいはい」
 と言いながら金をマネジャーに渡したのだが、その渡し方がどうも気に触ったらしく、
「ああ、おお」
 と何だか一瞬顔色が変わったのだった。僕はついお札をつまむように持ち、揺らしながら渡したのだった。
 寮に帰る道すがら、僕とTさんは、
「マネジャーが高級マンションに住めるように、がんばろうな」
 と僕とTさんとで話していた。
 本当はTさんは心にもそのようなことは思っていないはずだった。だが、一緒の部屋にいるのだ。僕は隣りの部屋に行けば開放されるが、Tさんのストレスは半端ではなかったと思う。
 2人してそのようなことを言っているのだから、さぞマネジャーも鼻が高いだろう。と僕も一安心して寮についた。
 マネジャーとTさんが自分達の部屋に入る。僕はそれを見て、
「じゃあ、どうもっす」
と軽く挨拶したその時だった。マネジャーがドアから半分顔を出している。酒で顔が真っ赤だ。
 ドアがゆっくり、スローモーションのように開いたと思ったら、
「おいこらテメー、はきちがえてんじゃねえぞこら」
 まずスネ付近に蹴りが入った。
 一瞬突然の出来事に、理解できないでいた。次に襟首を捕まれ、そのまま僕の部屋に引っ張られていく。
 午前2時過ぎ、ビルの3階には、R店のボーイと、姉妹店のマネジャーの一番弟子でもあるSさんなどがいた。それに姉妹店のやはりイニシャルはRの従業員がいたのだが、
「おおこらーてんめぇ%$34#$#09」
 などと意味不明の言葉を大声で怒鳴り散らすのであった。
「ひ、ひぇぇぇぇー」
 その時は生きた心地がしなかった。ヤクザに監禁されるのは、きっとこんな気分なのだろうな、そうおもいながら、ああ、明日からどうしたらいいんだろう、などと思い、下を向きながら考えていると、
「うっ」
 ボディにパンチが入った。
 そのまま崩れ落ちる僕。床に顔をドカンとぶつけた。その床は普段、ねずみが這いずり回る不衛生的な床だった。人間は、こんな極限状態にも関わらず、そんなねずみが這いずり回っている床に、今僕の顔をこすり付けている。
 床に倒れ、起きあがろうとすると顔めがけてパンチが飛んでくる。それが見えた。
「ひぇえぇー」
と顔をガードすると、一瞬パンチが止まったが、ガードを解除するとまた、パンチをするかのような姿勢をとる。 息と心臓が激しくなる。
 マネジャーは青鬼のようだ。
「テメエはそんなに銭もっとるんかぃ」
 息を切らせながらマネジャーが言う。
「ひぇえぇぇー」
 僕は首をふる。
「俺は、銭を大事にせん奴が1番腹たつんじゃ」
「???」
「へッ」
 それを聞いたとき、ああ、この人はただ単に、僕をいじめたかっただけなのだな、そう確信した。
 金は大事にしていた。義理風呂で大変だと思い、支払いの時、金を出しただけだったのだ。
 あー、明日からどうしたものだろうか。
心臓の鼓動が高鳴る中、布団に潜りこんだ。眠れそうもないが、目をつぶるしかなかった。
 これが吉原の素顔か。この人間関係こそが、偽りのない吉原の人間関係だ。欲望は暴力で解決する。
 涙もでないまま、いつしか眠りについていた。(イッセイ遊児)

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2007年10月19日 (金)

貧困に対抗する「つながり」を求めて――NPO法人「もやい」

「どうして野宿者を支援する活動を続けられたのですか」という質問に、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の稲葉剛代表理事は少し考えてから答えた。
Img_5871_3 「野宿労働者の支援をしている新宿連絡会の設立メンバーに見津毅(みつ たけし)という人がいましてね。わたしはずっと彼と一緒に外国人労働者の支援や路上生活者の支援をしてきたんですが、95年3月に彼がバイク事故でポックリと亡くなってしまったんですよ。それで後釜として、わたしがやらざるを得なくなったというのはありますね。
 見津はカリスマ的なリーダーでした。でも、わたしはワーッと人を引きつけて盛り上げるタイプではありません。だから最初から長いスパンで活動しようと思っていたんです。当初は10年とか。もう過ぎてしまいましたけどね(笑)」

 享年27歳。人権活動家としてあるいはジャーナリストとして、見津さんがどれほどのカリスマだったのかはインターネットでも伺い知ることができる。メジャーになる前のエコーズやブルーハーツのライブを企画し、原宿・歩行者天国での不当逮捕と闘った。亡くなった後には『駆け抜けた日々~人権活動家・見津毅の軌跡~』という映像作品まで作られている。

そのカリスマの後を継いだ25歳の実務家。それが稲葉さんだった。しかし時代は稲葉さんに穏やかな日々を用意しなかった。新宿連絡会が組織して新宿西口の地下道に作りあげた野宿生活者のための「段ボール村」が社会的に注目されたからだ。稲葉さんも連絡会のスポークスマンとして飛び回る日々が続く。
「段ボール村は一種の解放区的な雰囲気はありましたね。アーティストが来たり、段ボールに絵を描いたり、写真展が開かれたり、カメラマンが撮影に訪れたり。
 一方で日々いろんな形で強制排除の圧力がかかっていました。警察やガードマンが嫌がらせに来たり。とにかくそれに抵抗するのに必死で、ココを守りさえすればとも思っていました」

 実際、96年1月には850人もの警察官とガードマンを動員し、動く歩道を建設するためとの理由で200以上の段ボールハウスが撤去された。世論は割れた。仕事もなく路上に寝るしかない人たちへの同情論と、働かざる者食うべからず的な批判論と。そうした中で「村の住民」の団結は強まり、コミュニティーとしての輝きは増していく。
「段ボール村のころの活動は割とロマンチシズムでした。社会から排除されて、路上からも強制的な排除の圧力を受けていた人たちが、自分たちのコミュニティーをつくったというね」

 しかし稲葉さんが「美化しすぎた面があった」と表現した段ボール村は98年2月に忽然と消える。火事が原因だった。東京都インフォメーションセンター裏あたりから出た火は段ボールハウスを一瞬にして焼き尽くした。住民4人が死亡。
 数ヵ月前から東京都の姿勢が対決一辺倒から自立支援に向けて変わってきたこともあり、新宿連絡会は段ボール村の撤去を決め、住民は臨時宿泊施設へと移っていった。
 ここから新宿連絡会は中央公園で炊き出しをしながら、野宿から抜け出す制度的なルートをつくろうと活動を続けてきた。その成果の一端はホームレス自立支援法の成立や自立支援センターの設立にみることができる。そして01年、野宿生活者がアパートに入るときのネックとなる保証人を提供しようと、稲葉さんは友人とともに「もやい」を立ち上げる。これまでに1200人以上の人に保証人提供し、数知れない生活相談を受け付けてきた。

 またインターネットカフェから電子メールを使った相談が03年に初めて届いたことから「ネットカフェ難民」の問題にいち早く警鐘を鳴らし、その活動は一気に全国に知られることとなった。小社の取材当日にも他のメディアが3社訪れるなど、「もやい」は現在もっとも注目されているNPOである。
 そんな稲葉さんに段ボール村などに暮らしていた中高年の野宿生活者とネットカフェ難民に代表される若い貧困者の違いついてたずねると、「大ざっぱな言い方になっちゃいますが」と断りながら「共同性」だと教えてくれた。

「段ボール村などでは、野宿になる前からの知り合いって、けっこう多かったんです。同じ現場で働いたことがあるとか、あるいは手配師だった人がいるとか。貧困の中にも共同性がありました。
 今の若者も日雇いという就労形態自体は一緒ですが、すべて携帯電話で派遣先から連絡がくる。労働者を一本釣りできるから、寄せ場に人を集める必要がないんですね。しかも寝る場所も仕切りの中にあって知り合う機会がありません。もしかしたら隣は同じ境遇の人かもしれないのに」

 こうした共同性を失うと相談ができなくなる。そうなるとヒドイ労働環境でも抜け出す方法や手段が見つからなくなる。経済的な貧困と人間関係の貧困という貧困問題の2つの側面がそろってしまうのだ。アパートの保証人が見つからないのは人間界の貧困の象徴だとの想いから、船と船を結び付ける「舫(もやい)」を名前に団体を立ち上げた稲葉さんにとって孤立化する貧困者の問題は捨て置けない。

 こうした問題を解決する一助としてもやいでは、毎週土曜日に事務所で「サロン・ド・カフェこもれび」という喫茶店を開いている。朝から30~40人が訪れるサロンでは、子どもも近所の老人も路上生活者もメディア関係者も立場に関係なく、好きなように話し込んでいる。
 それは段ボール村の規模からすると小さなコミュニティーかもしれない。しかし「闘争」のためではなく、誰もがのんびりと集える場所としてサロンが機能していることは画期的だ。「カリスマではない」稲葉さんだからこそ作れた場かもしれない。

「もやいでは支援者と当事者の違いがますますなくなっています。元当事者の方がボランティアとして支援者になったり、あるいは支援者が心の病を抱えて当事者的にかかわることもあります。この社会で何らかの生きづらさを抱えている当事者として、みんなかかわっているんですね。
 そういう意味では私も当事者です。生きづらさを抱えている人が集まってつながりを作ろうとしているんだと思います」
 稲葉さんの投げかけた「もやい綱」はしっかりといろんな「船」につながれている。今後、さらに結びつきが広まっていくことだろう。(大畑)

写真説明:サロンで来訪者と話す稲葉さん(写真左)

リンク先:NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい

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2007年10月18日 (木)

亀田一家とマイク・タイソンの微妙な接点

 奇妙な世界戦だった。
 11日に行われた内藤大助対亀田大毅のWBCフライ級王座決定戦である。ご存じの通り亀田側の反則行為が明らかになり、さんざん持ち上げてきたメディアによる吊し上げも発生。ついにはJBCによる処分が下された。まあ、処分が下されたのも当然だろうと思う。ただ、ここでは触れない。

 むしろ気になったのは、亀田陣営がどういった試合展開を思い描いていたかである。両手で顔をがっちりガードするピーカブースタイルで直進。頭を左右に振るウィービング、相手のパンチを殺すヘッドスリップもなし。そのうえベタ足。しかもステップインが遅い。
 これでは近い距離でクリンチして、距離を保ってジャブを打ち続ければ勝ててしまう。パンチを避けることなく、ジャブもなく、ただただ突進してくる相手など老獪なチャンピオンにとって格好の餌食でしかない。
 まして今の採点はポイント・マスト方式であり、1ラウンドごとに点差を付けていく。ステップインすることもなく打たれ続ければ、判定で大差が出ることなど火を見るより明らかだ。また今回の試合では、あえて正面に立った4ラウンド以降の内藤にも大毅は打ち負けてさえいる。

 もし亀田側に戦略らしきものがあったとすれば、ピーカブースタイルでパンチをしのぎ、カウンターのラッキーパンチを待っていたというところか。あるいは内藤の年齢によるスタミナ切れを狙ったか……。
 勝負に絶対はない。にしても試合以前に大勢は決していたといえる。

 そもそも亀田大毅はピーカブースタイルに向いているボクサーなのだろうか。このスタイルで有名なボクサーといえば、米国のヘビー級チャンピンだった2人、フロイド・パターソンとマイク・タイソンである。ともに名トレーナー、カス・ダマトが育てた選手だ。両者ともパンチ力はあったが、ヘビー級にしてはやや体が小さい。だからこそリーチが大きな武器となるアウトボクシングの攻撃をピーカブースタイルで完全に防ぎ、一気に懐に潜り込んでインファイトでラッシュをかける戦法がピッタリだった。

 しかし亀田大毅の身長は168.5センチである。フライ級の選手として低い方ではない。実際、内藤より5.5センチも高い。今回の試合では身長の低い内藤の方がリーチが長かったが、フライ級の試合で完全に劣勢になるほどリーチに苦しむことはなかったはずだ。
 またピーカブースタイルのディフェンスは爆発的なスピードが必要となる。距離を一気に埋める足も必要となるし、ガードを破られないようにするために打ったパンチを引き戻すスピードも重要だ。さらにギリギリでも相手のパンチをかわせる素早いヘッドスリップも欠かせない。実際、全盛期のマイク・タイソンはウォームアップを終えた状態で入場し、1ラウンドの鐘とともに猛烈なスピードで相手に切り込みKOの山を築いてきた。ベタ足の大毅に、このような闘いを期待する方が無理だろう。
 もう1つ、インファイトで決着を付けるならコンビネーションの多様さも重要になってくる。クリンチされる前に一気にラッシュをかけなければならないのに、大振りなフックだけでどうやって倒そうというのか。

 このように書き連ねると、亀田陣営が負けを覚悟していたとしか考えられなくなる。ところが反則まで繰り出したことを考えると、とにかく勝つ気でいたらしい。
 では、どうやってと考えると先には進まない。結局、「根性で」という結論しか浮かばないのだ。

 もともとカス・ダマトが考えたピーカブースタイルは、かなり高度な防御テクニックを必要とする。根性で選ぶような代物ではない。じつは野獣のようなイメージの強いマイク・タイソンでさえ、全盛期はトレーナーの指示通り完璧に打ち込んで勝ったという。ラウンドごとにサインを出され、その通りにコンビネーションブローを放っていたとも報じられている。
 つまり同じピーカブースタイルを取りながら、タイソンは戦術通りに、亀田大毅は戦術すらなく闘っていたことになる。ただし2人には奇妙な接点があった。それは父親への過剰な思い入れである。

 亀田一家が堅い結束で結ばれていることは広く知られている。兄の興毅は「ファイトマネーでオヤジに家を建ててやりたい」と常々語っていたし、大毅も昨年8月のウィド・パエス戦にかんして「親父とお兄ちゃんがセコンドについてくれれば心強い。いつもそうやけど、今回も家族みんなで勝ちにいく」(『デイリースポーツ』06年8月18日)と語っている。離婚して母親が家を出た後、男手一つで自分たちを育てながら、ボクシングまで仕込んでくれた父・史郎を子どもたちは本気で慕っていた。

 この親子関係はタイソンとカス・ダマトにも通じる。ダマトは札付きの非行少年ばかりを収容する施設にいたタイソンを養子として迎える。義理の父であるカス・ダマトについて、タイソンは次のように語ったという。
「カスはオレにとってオヤジ以上の存在だった。誰でもオヤジになることはできるが、しかし、それは血がつながっているというだけの話だろう。カスはオレのバックボーンであり、初めて出会った心の許せる人間だった」
「オレは勝ってただカスの喜ぶ姿を見たかっただけさ」(二宮清純ホームページ『SPOROTS COMMUNICATION』より)

 尊敬すべき父でありトレーナーの存在。それはボクシングの闘い方にも大きな影響を与えた。絶対の存在である父に、子がすべてを任せて身を投じるスタイルだ。
 テレビ番組『ZONE』で取り上げられた14歳の亀田興毅は、インタビュアーから「どうやって調整するの?」とたずねられ、「分からん。おやじに任す」と答えている。続けて発せられた「親父さんに任せておけば安心?」との問いにも、「うん」と当然のようにうなずいた。
 しかし父・史郎はプロボクサーとして活躍したわけでも、トレーナーとして造詣が深かったわけでもない。同じく『ZONE』で彼は「プロにならへんかったからな。だから誰のトレーナーも頼りにせんと、オレの手でやったろうなという気があるからな」と語っている。さらに練習方法についても「全部、頭にパッと浮かんだもの」ともメディアの取材に答えている。

 こうした練習にボクサーが不安を覚えてもおかしくない。というより不安がって当然だろう。しかし不安を父への愛情で押しつぶし、亀田兄弟はリングに上がった。だからこそチャンピオンになったとき、兄・興毅は「親父のボクシングが世界に通用することを証明できて、よかった」と号泣したのである。
 一方のタイソンもダマトの指示を疑うことなく実行した。ただダマトは真のしかも一流のトレーナーだった。タイソンが冷静に指示通り動いている限り、そのボクシングに隙ができることはなかった。ここに亀田兄弟との大きな違いがある。

 だが、他人任せの攻撃スタイルは別々の形で崩壊を迎える。
 タイソンはダマトの死をきっかけとして、ファミリーというべきチームが徐々に崩壊。しまいには王者イベンダー・ホリフィールドの耳を噛みちぎる暴挙に出て、ボクシング人生を終わらせた。
 亀田大毅は父と兄の言われるがままに反則を繰り返し、それでも変わらない形勢に苛立つように相手を投げ、結局1年間のライセンス停止となった。

 もともとボクシングが好きではないとも報道されていた大毅にとって、ボクシングは父への愛情表現だったのかもしれない。一方、父・史郎にとって、ボクシングは社会へのケンカだった。
 働いていた解体の現場で子どもたちに銅線を拾わせて生活しなくちゃいけなかった辛さ。素人の練習方法だと酷評された悔しさ。それをバネに子どもたちを指導していった。
「アホちゃうかと、おかしいと思っていると思う。そやけどコイツラが世界チャンピオンになって見返したったらいいわけや」(『ZONE』)
 今から6年前、そう言って父・史郎は胸を張った。その必死の虚勢が今悲しく聞こえるのは、わたしだけだろうか。(大畑)

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2007年10月17日 (水)

草薙厚子氏著作の奈良医師宅放火殺人事件における「供述調書流出」

『僕はパパを殺すことに決めた』を読んだ時の衝撃は忘れられない。何しろ「供述調書より」と明記されていたから。起訴状じゃなくて供述調書。家裁事案だから起訴状の引用ではないのは当然といえば当然だけれど作成者が署名捺印している供述調書の本物が続くとなれば出所は普通簡単にばれてしまう。
だから当初は調書を取る側が何らかの理由(推察は容易だが名誉棄損の恐れがあるのでこれ以上は書かない)で草薙氏に提供し、氏もその経緯ゆえ自信をもって明示したとばかり思っていた。ゆえに「草薙さんってすごいな」とすら感じ入っていた。だってそうでなければ「供述調書より」とは書き出せないでしょう。

したがって今回の鑑定医逮捕は二度目の驚きだった。「そうじゃなかったんだ」と。ビックリするほどうかつな行為である。供述内容ではなくて「供述調書より」だから。言うまでもなく本物は当局の手元にあり本の記載内容が実物かどうかは簡単に確認できる。調書の作成者とその周辺および家裁で知りうる立場の者はすぐにわかり、うち1人でも秘密漏示の容疑を認めれば終わりである。
それにしても講談社ともあろう大版元が危険性に気づかないどころか堂々と「供述調書より」と打ってしまったのはなぜなのか。社をあげてあえての問題提起に踏み切ったのか。そうだと信じたいけれど今のところ版元もまた危険性に感づいていなかったような風である。あるいは私が冒頭に述べたような勘違いを編集者がしてしまったのか。

秘密漏示は犯罪である。したがってその事実が明々白々な場合、身柄を拘束するかどうかの正当性は別にしても告訴がある以上、当局も何もしないわけにはいくまい。「表現の自由原理主義者」を自称する私なので、こんなことを書くのはつらいが筋を追う限り以上のような結論を導き出さざるを得ない。繰り返す。「供述調書より」は決定的にうかつだった。その上で情報源の秘匿の重要性や知る権利の大切さなどの視点は私ごときより偉い方々があらゆるメディアで存分におっしゃっているから論じない。別のことを書く。

秘密漏示は犯罪である。しかし広義の秘密漏示なくして、もっと踏み込めば文字通りの秘密漏示を含めて、それがなければ「知る権利」は満たせない。要するに法律違反かスレスレのところを縫って行かない限りジャーナリストは事件取材で特ダネを取れない。これを「ジャーナリストは法律違反(または犯罪)の片棒を担いでいる」といわれたらその通りである。そうだと認めるしかない。牢屋と隣り合わせで生きているのだ我々はと新聞記者はじめジャーナリストを名乗る者は認めるしかない。
西山太吉氏の犠牲によって得た最高裁決定は「片棒担ぎ」の汚名?に光を当てるわずかな正当性をもたらしている。しかし「社会観念上是認」されるかどうかは多分に恣意的な判断によって左右され決して絶対ではない。
警察回りがこっそりゴミ箱をあさったり、副署長を囲んでの飲み会でおみやげをもらったり、課長クラスからほのめかしていただいたり、ちらりと供述調書をみせてくれたり……考えてみれば全部「秘密漏示」といえばそうである。刑法で守秘義務を課されている職種の方からの情報提供も大切だ。なかでも医師はさまざまな事案で知りたい情報を持っている。
それをあっちにぶつけたりこっちに当てたりして、いわばカクテルを作るようにして情報源を隠して慎重に表現する。「供述調書より」では産地が明記されたウオツカを振る舞うようで配慮が足りない。それは明確なるもウオツカもカクテルも酒には変わりがない。

員面にせよ検面にせよ供述調書は刑事裁判の場合は起訴以前の書面であるから刑事訴訟法320条の規定により例外を除いて「公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることはできない」。検察側も公判維持に不要な起訴以前の供述を何から何まで使い切ろうとは考えない。まして今回の場合は家裁事案だ。よって事件の根幹にかかわらない供述内容の暴露で精神的苦痛を受けたとする告訴を的はずれとするのは当たらない。それはよくわかる。
しかし裁判だけが真実を明らかにする場でないのも事実。公判維持のような司法の論理では必要ない供述に「知る権利」へ答える内容があるとすれば断じて書くべきだ。草薙氏の著作にそれがないとも言えない。ただし稚拙だった。つけ込まれないようにするのもまたジャーナリストの使命を果たす重要な能力と思い知った。(編集長)

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2007年10月16日 (火)

申し訳ありません

先週末から熱を出し、まだ下がらず寝込んでしまっています。今日は、ベトナム紀行の続きを書く予定でしたが、未だ熱が下がらないのでお休みします。寝ます。おやすみなさい。(奥津)

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2007年10月15日 (月)

ゴキブリと向き合う

 引越しをしてすぐに彼らは私の前に現れた。10月だというのに特大のやつである。
 これまで割と築浅のマンションなりアパートなりに住んできたからそれほど会うこともなく縁遠い存在だった。ところがどうだ、築20年以上の木造に引越した途端にこれだ。
 忌み嫌われるのも頷ける。体形はまあいいとして、色、足の形、触覚の動き、見るものを引きつらせる移動時の速度、何ひとつ愛せる要素がない。
 病原を媒介することもあり不快害虫にあたるので実際に害がある。今、いろいろと対策を考えたりネットで情報を集めたりしているが、だいたいのところをまとめると、「食べ物になるものを残しておかない」「進入経路をなくす」「退治する」というのが主な対策のようだ。
 が、食べ物を絶つことについてはゴキブリはカビや人の毛髪、さらには本まで食べるらしいので事実上不可能。ならば進入経路をふさいで、せめて数を増やさないようにしようと思っている。
「退治する」について調べてみたが、たとえばあぶり出し系でいえばバルサンのような武器があるが、あれは「ただゴキブリが移動するだけ」「卵には効かないので間隔を置いて複数回やる必要あり」などといった記述が多い。
 忌避系でいえばバポナが最強のようだが、有機リンを含むので使い方によっては人体にも危険が及ぶとのこと(あくまで使い方を間違えれば、の話)。
 
 もう見たくないなあ、と思っているが、人とゴキブリの関係については少し興味がある。
 ネット上の意見&相談のページには、新築でゴキブリが出たから引っ越したいと思っている、みたいな話まで登場している。
 たしかに気味悪いが、そこまで人を恐れさせることができるものは他にそうはないのではないか。そもそもゴキブリはいつごろからここまで恐れられる存在になったのか。女の人といえど、何十年か前も同じようにこんな過剰な反応をしていたとは考えられない。
 ゴキブリがここまで忌避されるものになったのはなぜか。いま、妙に気になっている。(宮崎)

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2007年10月14日 (日)

「死化粧師」を観る 第2回/血の涙がでる

 深夜ドラマ「死化粧師」第2回を観ている。
 冒頭、患者がいきなり血を吐いた。吐血って、結構死んじゃうんじゃないかと思うくらい血が出る。
 床の材質にもよるのだが、お掃除が下手だと、血の跡が丸く残ってしまったりするものだ。ドラマでは、日ごろ病院内の清掃員をしているエンバーマー(遺体衛生保全の専門家)、間宮心十郎がその後始末をしていた。
 まあ、清掃員だから始末するのは彼の仕事として当然のことなのだが、それでも、ああ、なるほどな、と、思った。
 エンバーマーと病院清掃員。どちらも、人が目を背けたくなるほど壊れてしまったものを、何もなかったかのように「修正を施す」仕事だ。他人の体液にまみれながら、その場を日常へ引き戻そうとする。

 葬祭ディレクターをしていたころ、ご遺体から血が流れる場面を何度か目撃した。血が出る方は、肝臓が悪いことが多い。腹水が出てくるのだ。
「腹水が溜まる」という言葉は、聞いたことがあるとは思うが、「腹水」なんていわれると、さらさらした水のようなものをイメージしてしまうものではないだろうか。実際は、まったく違う。外見上はただの血だ。ただ、一瞬で吐き気を催すほどに、臭い。腐っている血ほど臭いもんはない。

 布団にお休みになっている遺体から、腹水が逆流してしまうことがある。腐った血は発酵するかのようにプチプチと異音を発しながら喉元にせり上がってくる。そして体中の穴という穴から流れ始めるのだ。
 それはたいてい、顔にかけてある晒が赤く染まっていることで気づく。
 不思議に思ってぱっと晒しをはずすと、目から耳から鼻から口から、血が流れている。発見してしまう家族は気の毒としか言いようがない。きっと、夢に出てくるだろう。
「おかあさん、おばあちゃんが血の涙を流してるよ」なんてホラーな会話が、現実になされてしまう。一度流れ始めてしまった腹水は止めることができない。脱脂綿でふさぐにも限界がある。逆流を抑えればいいのだが、ご遺体を立たせておくわけにもいかない。
 よって「腹水の全出し」が行われる。
 ご遺体をうつぶせに近い状態にしてみぞおちをぐっと押し、腹水を全て吐かせてしまう。その現場はあたかも、屠殺場のように血であふれかえる。私はその現場をはじめて体験したときから、どんなに二日酔いの朝でもトマトジュースを飲むことはできなくなってしまった。
 この仕事をしていると、食べられなくなるものがどんどん増えてくるなあ、と苦笑いしながら、挙句の果てには連鎖反応でトマトのにおいをかいだだけで吐き気を催すようになった自分を嘆いていた。

 ちなみに、ご遺体が血の涙を流していたら、その血には絶対に触ってはいけません。(小松朗子)

「死化粧師」公式サイト↓
http://www.tv-tokyo.co.jp/shigeshoshi/index.html
 絶対に「シゲ笑死」とか言って笑ってるやつがいると思う。

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2007年10月13日 (土)

『吉原 泡の園』 第37回/深夜隊のメンバーたち

 ソープランドには早朝営業がある。それは「日の出から」の営業ということになっている。4時でも3時30分でも、日の出であればいいのだ。
 ただ、実態は深夜2時30分くらいから深夜帯のボーイが来る。
 日勤にしても柄の悪い人間が多いのに、深夜の人間はたまにスーツも着ないで、頭はリーゼントで金髪。そう、まるで映画「ビーバップハイスクール」に出演できそうな従業員メンバーなのである。
 ここならば刑務所出所後すぐにでも働けるだろう。そんな風体である。
 7時頃になると、スキンヘッドの鉄下駄を履き、着物を着た粋なじいさんが店にいたりする。多分R店の深夜帯の責任者なのだろうが、北方謙三のような恰好のいいおじさまだった。
 ピアスをした中年の人や、オールバックの人、日勤の店長と犬猿の仲ではあったが、僕には皆いい人に思えた。
 あー、深夜の時間帯に働けば、マネジャーのいじめにあわないですんだものを、と思ったりもした。
 深夜帯の女の娘は、基本的に料金も安くなるので、言い方は悪いが、業界では一般的に昼間よりは質の落ちる女の娘が働くものとして認識されている。
 事実、日勤の時間帯にR店に面接に来た娘が、もし容姿などに関して日勤帯では無理と判断されれば、深夜帯を相談してみて、それでも稼げるのであれば深夜帯で稼がせるケースもあるのだ。
 ただ、同じ箱(店)を使用しているにもかかわらず、料金は格段に安い。
 ボーイには好き者も少なくない(僕は好き者の部類に入るには甘い)。仕事が終わり、焼肉を食べにいくと、そのまま寮に帰るのではなく、深夜営業の自分の店にかけこむものもいる。
 それに、義理風呂で金がない我らボーイも、実は同じ店の深夜帯ならば、つけがきく場合が多い。好き者Eちゃんは、義理風呂でさんざん時間一杯入って来てマネジャーに叱られ、系列店のボーイからは白い目で見られ、そして深夜帯にまでつけでいく。これこそが真の好き者なのである。
 Eちゃんはコンドームをつけると中々いかないとぼやいていた。
 コンドームをつけないと? コンドームは病気などの予防のためにもつけなければ、そう思われるだろうが、病気で死ぬるくらいの覚悟がなければ、ボーイなどいじめられて1日ともたないのである。
 僕だって性病で死ぬのは嫌だ、でも剛に入ったら剛に従えである。
 ただ、女の娘は月の検診は受ける。もしエイズが発生したら、店どころか吉原が壊滅する。
 ただ、キス一つをとっても、エイズ患者からの唾液で感染するには、バケツ1杯分ほどの唾液が必用とのことだ。これだけ風俗に染まっている僕だが、身近でHIVに感性、もしくはエイズ発病を聞いたことはない。
 ただ、楽観は禁止だが。
 深夜帯の娘が、たまに11時30分に日勤帯の僕達が出勤し、部屋の掃除にとりかかろうとすると、まだ残っていたりする。
 もちろん、時間帯が違うので、特に話しをしたりはしない。
 ただ、北方謙三似のおっさんなどにわがままをいい、グーをこねていると
「あんた中心に店が回っているわけじゃねえんだよ、少し待っててよ」
 などと娘が叱られていたりする。
 娘はいつでもどこでも同じだな、と思いながら1日の作業に取り掛かったものだった。(イッセイ遊児)

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2007年10月12日 (金)

ベトナムへ行った。上

Dsc05431  ベトナムへ行ってきた。行ってきたといっても、編集部内でベトナムが流行っているわけではない。
 滞在期間は3日間。短いながらも充実した旅行だったので、そのレポートを書きたいと思う。
 日本を午後7時前に出発し、午後11時頃到着。現地との時差は2時間。新しい匂いのするタンソニャット空港(ホーチミン市)からタクシーで、約30分。安宿街のあるフォングーラオ通りへ行く。安宿街というと、バンコクのカオサン通りを思い出して微妙な気分だったが、いざ降り立ってみると、比較的キレイになったカオサン通りで、安っぽいいかがわしさがなく不快な気分にはならなかった。
 宿を取っていなかったので、その通りにあるミニホテルへ空室があるか聞くが満室。ガイドブックを頼りにもう一つの候補ホテルへ向かうがわからず、最終的に外観がきれいなところに決まった。ちなみに一泊28USドル。
 部屋は値段の割に清潔で、温かいシャワーも出るし、テレビは衛星放送もはいる(おかげで、MTVも見れた)。冷蔵庫もついている。朝食も付いていたらしいが、滞在中は食べなかったので何が出たかはわからない。
 その日はすぐに休み翌日、市内観光をした。
 ベトナムの道路は車よりバイク。バイクの数が尋常ではない。暴走族も驚くんじゃないかという台数。バイクといっても原付がほとんどで、聞いた話によると、50CC以下なら無免許で大丈夫なのだそうだ。その話にも驚いたが、走っているバイクの中には、3人乗り、4人乗り、大量の荷物を抱えての2人乗りと、これで事故でも起こったら大惨事になるだろうと簡単に想像させる風景がそこにあった。もちろんヘルメットをかぶっている人は少なく、そのかわりに帽子をかぶっている人が大勢。台湾でも似た風景を見たことを思い出した。
 そんな大量のバイクや車(タクシーも含む)が走っている中を横断するのだがこれがやっかいなのだ。横断歩道はあるものの信号はあまり意味をなしていないし、場所によっては白線はあるが信号がないところもある。左右をよく見ながらタイミングを見計らって渡る。そうしたことを繰り返しながら道路を渡って目的地まで歩くのだ。
 この日は、お寺巡り(天后廟(ティンハウビョウ)、関帝廟(カンテイビョウ))と、ツアー申し込み、変身写真撮影をした。
 お寺は、華僑のいる地域にあり、香港や中国でみたお寺と同じで懐かしい匂いがした。一通り見終わり街中を歩いていると、どう見てもバッタもんのドラえもんのぬいぐるみや、海賊版CDなどが売っている店があった。そんなところも中国で、いわゆるチャイナタウンというより中国にいるような錯覚に陥った。世界にはたくさんのチャイナタウンがあるが、街の雰囲気と一体化しているところは少ない。ベトナム株の世界ではベトナムは10年前の中国だといわれているが、雰囲気やインフラなどを見るとあまりかわらない。中国も沿岸部は発展しているが、それでも一歩通りを外れれば道は汚いし埃っぽい。10年前というのは、あくまでも株の世界での話なのだと感じた。
 そのあと、タクシーで変身写真を撮りに行った。ここは日本人が経営している写真館で、アオザイの数が数百種類あるそうだ。値段によって着る着数と、撮る枚数が変わる。私は、3着着て、10枚撮るコースにした。
 アオザイを3着選び、メイクをしてもらう。東南アジアの人が施すメイクは、アイシャドウや頬紅が濃かったり、奇抜な色を塗ったりと少々不安だったが、そのまま日本の街中を歩いても問題ない仕上がりだった。
 メイクが終わり髪の毛のセットをしてもらおうとしたそのとき、急に胃の辺りがムカムカし始め、視界がぼやけてきたので休もうとソファーへ行こうとした瞬間、倒れてしまった。
 どうやら失神してしまったらしく、あごと頭をぶつけたらしい。だんだん意識が戻り始めたと思ったら、鎖骨の辺りが痛い。なんで痛い? と思っていたら、そこのスタッフの女性がベトナムに伝わる民間療法を施していたようで、鎖骨周辺を等間隔につねっていた。十字の形につねるのだが、これが痛い。特に左が痛く、あとで鏡を見たらキスマークのようなあとがたくさんついていた。
その後、背中に薬を塗って背骨脇をこすられたが、これがものすごく気持ちよくびっくりした。もうろうとした意識の中、「お前はプロか!!」と思いながらうっとりとしてしまった。急に倒れてしまってお店に迷惑をかけてしまったが、結果的に珍しい体験ができたので微妙な気分。
 気分がよくなったところで髪のセットをしてもらい、なんとなくキャバクラ嬢っぽくなったところでスタジオへ移動。
 スタジオではベトナム人スタッフのポーズ指導(というよりはされるがままだった)により様々なポーズを決め撮影。通常はしないポーズをやらされ体や足をぷるぷるさせながら「やはり体力をつけなければ」と思う。
 無事撮影も終わり、写真を選んで終了。そこで飲んだパイナップルジュースが絶品だった。
 ホテルへ戻りディナー。デタム通りのカフェで食事。東南アジアで適当に注文すると痛い目に遭うことが多いので、無難に牛肉入りフォーとほうれん草スープを頼んだ。
 フォーはフォーだったが、ほうれん草のスープがヤバかった。ポタージュ状で、コクづけにバターが入っていて本格的。日本のカフェではお目にかかれない代物。いわゆるカフェめしというと、たいていが創作料理で味もまちまち。日本でも微妙なものが出てくる場合もあるのだから、東南アジアだったらもっと危険……にも関わらず、妥協していない。おいしかった。びっくりだ。
 ご飯で苦労することが多いので、こうやって安心して食べられる国は嬉しい限り。1日目はアクシデントあり、感動ありとごちゃごちゃしてしまったが、次回は2日目のメコン川クルーズのレポートをお届けする。(奥津)

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2007年10月11日 (木)

『あの頃』のブログを開設

 『あの頃』(アストラ刊)を出版した小林高子さんのもとには、前にも増して相談者が訪れているという。18歳の時に最愛の彼氏をガンで失い、それから数年のうちに友人2人を亡くした絶望的な経験が、彼女の言葉に力を与えているのだろう。

 最愛の人を事件や事故・病気で亡くした人、鑑別所に行くほど荒れた生活から立ち直ろうとしている人、恋に悩んでいる人などなど。年齢も性別も関係なく、彼女と話をしたいと、さまざまな友人を介して声がかかる。時に怒り、ある時にはただただ慰め、時には一緒に泣く。彼女は驚くほど真剣に他人の悩みに向き合っている。

 じつは初めて会った時から彼女は僕に向かって言った。
「同じような苦しみを抱いている人に言葉を届けたいから本を出版したいんです」と。正直、信じていなかった。それも何ヶ月にわたって。
 キレイ事すぎると感じたからだ。

 しかし数ヶ月にわたる編集作業を一緒に進めているうちに、これは本気だと思わざるを得なかった。まず、彼女に相談しようと電話をかけてくる人の多さがスゴイ。昼から夜までの編集作業中、多いときは4~5本も悩み相談の電話がかかってくるのだ。
「あっ、今、出版社にいるから夜に電話して」などと言って携帯を切る彼女の相手は、妹の友人だったり、実家が営む会社の社員だったり、後輩だったりとバラバラ。

 そんな様子を目撃しているうちに、どんな悩みが持ち込まれ、彼女がどんなアドバイスをしているのかを聞くようになった。そのアドバイスの力強さに、よく驚かされたものだ。ただ誰も彼女の言葉は書き留めておらず、それがもったいなくてブログに残したらどうだろうと勧めたのである。

 その提案が実現し、先日やっとブログが開設された。
 忙しい合間をぬって、小林さんも毎日更新している。よかったら読んでみてください。(大畑)

 ココをクリック→「あの頃 小林高子

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2007年10月10日 (水)

弱者に厳しいアンハッピー・マンデー

今日(10日)は体育の日。1964年の東京五輪開催日をいつにするかを決めた際に「この日は気象統計上雨が降りにくい」と見定めて決めた。「体育の日」は日本初の五輪が行われ、かつ晴れるという二重の意味で10日がふさわしい。
なお以前気象庁を取材した時に10月10日は厳密な意味での「特異日」ではないそうだ。晴れる特異日として著名なのは11月3日の「文化の日」(明治天皇誕生日)や正月三が日明けで、偶然とはとうてい思えないほど好天に恵まれ、明治天皇神格化の一助とさえなったそうだ。10月10日はむしろ9月下旬に台風襲来やそれと刺激し合う秋雨前線の活発化による「雨が降る特異日」があり、ここが一段落する時期として晴れると予測され、うち10日が過去の例からもっとも晴れる確率が高いとわかったようだ。ただそうだとしても10月10日が広義の特異日とみなすのは間違いではない。
だが今年もまた10月10日は祝日ではなかった。ハッピーマンデーのせいである。上記のように10月上旬は晴れやすいので特異日云々から日をずらす妥当性を争う理由はあまりないかもしれないけれどオリンピック開催日と体育の連想は「祝い」には捨ててはならぬ気がする。

そんなことはどうでもいいという人もいよう。しかしハッピーマンデーはいろいろなところで小さな、でも見逃せない問題を生み出している。

例えば大学の授業。当然のことながら月曜日のカリキュラム消化が難しくなるので他の曜日に振り返る。曜日でコマを得ていて複数の大学を掛け持つ非常勤講師は大変だ。ある月の月曜以外のある曜日にA大学の通常のコマとB大学の月曜振り替え授業が重なってしまったりする。
それを防ぐためにあえてハッピーマンデーのいくつかを休みとせず授業を実施し、他の曜日を祝日でも何でもなく「代休」する大学もある。でもそうすると労基法上の割増賃金の問題とか何とか経理上面倒なのだそうだ。

週末に急病を抱えた人も大変である。救命救急や休日当番医の処置は受けられるけれども専門医は三連休でいない。急病に1日の見過ごしはつらい。医師も大変なようで休日なのに入院患者を診にやってきたりする。そして三連休明けの外来はごった返しだ。はっきりとハッピーマンデーは迷惑だと言い切る勤務医もいるのである。

日払い給で何とか生計を立てている低所得層やホームレスの方々に至っては死活問題にさえなる。何人ものホームレスから「あれは止めてほしい」と聞かされた。週末に予定していた仕事がキャンセルとなり(日払いの方には珍しくない)そのまま工事現場も事務所も閉じてしまう三連休に突入すると最悪だ。休みだろうとなかろうと1日は24時間で規則正しく腹が減る。ハッピーマンデーの「食事」は水だけなどという人がたくさんいるわけだ。そして休み明けの仕事は供給超過で高倍率。結局食いはぐれるリスクも高める。

零細企業にもアンハッピー。もともと日曜日すら激しく働かないと倒産するのだから祝日だろうが何だろうが働けばいい。いいのだが働きたくとも働けない場合が長く続く。金曜日午後に補充注文が来る。取次様へは火曜以降でないと出庫できない。たかが1日というなかれ。その1日が売り上げへ深刻な打撃を与えるのが零細の零細たるゆえんである。
印刷会社の3連休はそのまま本の完成を遅らせる要素になる。予定の校了がたった半日延びただけで取次様への見本出し予定が金曜日だったのが火曜日になってしまう。そうならないように印刷屋さんを脅し?たり泣きを入れたりする。担当の営業さんも必死にやりくりしてくれる。そんなこんなはすべて労働強化だ。

足を悪くした結果として最近タクシーを多く使った。よって運転手ともよく話した。その結果どうやらタクシードライバーにとってもハッピーマンデーは懐を直撃するらしいとわかった。

非常勤講師、急患、日払い労働者、ホームレス、零細企業、近年賃金の低下が問題となっているタクシー運転手。共通するのは「弱者」という点だ。しかも9月から10月上旬にかけて3連休が立て続けに3週もあった。ハッピーなのは3連休でびくともしない大企業や公務員。格差社会のひずみはこうしたところにも現れている。(編集長)

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2007年10月 9日 (火)

絶望社会 鎌田慧

 鎌田慧氏が週刊誌で連載したの時の編集者にお会いしたとき、「鎌田さんは現場を見て書く方ですよね」と嬉しそうに語ってくれた。

 事件が起きてからしばらくたってからの取材だったこともあり、現場そのもには何も残っていない。しかもその現場までは山を歩いて登っていかなければならなかった。
 週刊誌の取材時間は限られている。そのうえ山を登っても何もないと分かっている。すでに50歳を超えていた鎌田氏に「現場は何もありませんから取材の必要はないかもしれませんね」と編集者が提案したのもうなづける。しかし、その申し出を言下に退け、彼は黙々と山道を登っていった。その後姿に編集者は感銘を受けたという。

Kamata_2 『絶望社会 痛憤の現場を歩くⅡ』(鎌田慧 著 金曜日 発行)を読んで、フッとそんなことを思い出した。この本でも鎌田氏現場を黙々と歩き続けている。もともと『週刊金曜日』に連載されていた記事であり、注目の事件について誰よりも早く概要を伝えるといった総合週刊誌的な内容ではない。むしろ、これまでメディアで取り上げられてこなかったり、偏った報道に泣かされた弱者を訪ね、真実を拾い上げるという地道な内容である。

 この本を読んで驚いたことの1つは、興味があって比較的熱心に新聞記事を読んできた事件についても、まったく知らなかった事実が指摘されていたことだ。
 例えば立川の自衛隊官舎でビラを配って逮捕された事件については、「警視庁の公安部員が、自衛隊官舎にでかけて『被害届』の作成を代行し、公安刑事が起訴してつくりあげたものだった」と書かれている。それまで何度もビラを投函していたのに、このときだけ逮捕された理由が本書を読んでやっと理解できた。

 公判で判明したため、「鮮度」が命の新聞記事に書かれなかった真実である。しかしこの事実は重い。ビラ配りごときで逮捕し、75日も勾留するのは言論弾圧に違いない。しかし同じ弾圧でも住民が迷惑だと感じたのが発端なのと、とにかく逮捕しようと公安自ら動いたのでは圧力の度合いが違う。
 現場を歩き、こうした事実を誰かが書いていかなければ、権力者の弱い者イジメの実態はきちんと伝わらないだろう。

 しかし日本の社会は、どうしてここまで異端者と弱者をイジメ続けるのだろうか。息子をイジメによって失い、その学校の責任を追及する母親に名誉毀損で損害賠償を請求する学校のクラブの顧問や生徒たち。事故で負傷した人物を酔っ払いと勘違いして死亡させてしまった不手際を隠すため、DNAの違う別人の臓器片を証拠として申請した警察と、それを認めた司法。ラジオ体操をしなかったからと一時金を-100%と査定した上にクビを切った大手電気メーカー。
 
 しかもこの弱い者イジメに加わっている一個人は、必ずしも悪人ではないのだ。組織に逆らえなくて、あるいは自分を身を守るために加害者になっていく。その連鎖がさらなる「異端狩り」を生む。悪循環である。ただこうしたイジメは、いきなり自分の身に降りかかってくる。学校のイジメが次々とターゲットを変えていくのと同じである。

 社員が全部そろうのは夕方でネクタイどころかスーツすら着ない。出版する本は少なくとも体制的じゃない。とてもじゃないが、社会の主流派ではない。弱小出版で目立たないからおとがめもないが、いつ社会からイジメられてもおかしくない。だからこそ社会からイジメられている人の応援はしたいし、そんな姿勢で書かれた本は多くの人に読んでほしい。そう思っている。(大畑)

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2007年10月 8日 (月)

現役警官・女子大生殺人事件の現場を歩く

Kyoudou1 「事件のあと、建物は取り壊されたと思いますよ。だってそんな、気味悪いでしょう。アパートの他の部屋にはまだ人もいたと思うから、すぐに壊されたということではなかった気がするけど。アパートを取り壊した後は荒れ地みたいになってましたよ。猫がたくさん集まって集会場になって」
 主婦は丁寧な言葉遣いで話す。どことなく総理大臣補佐官の中山恭子氏を思わせる口調である。主婦はその事件があった場所を眺めるようにして建つ家に住んでいる。
 事件は1978年の1月10日に起きた。
 午後4時過ぎ、東京都世田谷区経堂駅近くのアパート東荘の家主から、住人が死んでいると通報が入る。警視庁捜査一課と北沢署が調べたところアパート1階で女が下半身裸の状態でベッド脇に俯せになって倒れているのが発見された。首にはナイロンストッキングが巻き付けられていた。被害者は清泉大学に通う22歳の女子大生だった。
 第一発見者は経堂駅前派出所勤務の20歳の巡査。パトロール中に女性の悲鳴を聞いて駆けつけ、大家に110番通報するように頼んだという。北沢署は殺人事件として捜査本部を設置するが、本格的な捜査が行われる前、その日のうちに犯人が判る。
 第一発見者である巡査。大家に通報を頼んだ後に通常の業務に戻っていたこと、ズボンや靴下に大量の血がつき唇にも傷があったこと、決定的だったのはガラスが割れる音を聞いた時間が周辺の住民と食い違っていたことだった。署が巡査を追及したところ、女子大生にはかねてから目をつけていたこと、騒がれたので殺したことを認めて泣き崩れた。女の死因は首絞めによる窒息死だった。

 先ほどの主婦の談。
「犯人が警察の人ってわかる前に、もう『あやしい』ってことになってましたよ。ここら辺じゃ。だって、奥まったところにあるアパートから通りまで、声なんて聞こえやしないでしょ。ほら、ここにアパートがあったの」
 現在、そこはアスファルトが敷かれた駐車場になっている。ほとんど空きはなく、運転手の乗っていない乗用車が整然と並んでいる。なぜかシルバートーンが多い。通りから見て駐車上の最も奥まった場所にアパートはあったという。手前側には他の建物もあったというから、たしかに声が届くには難しいかも知れない。

 巡査は同階の他の部屋の住居者が不在であることを確認し、巡回連絡を装って女子大生の部屋のドアをノックした。巡回連絡とは外勤の警察官が管内の家庭などを訪問して住居名簿の作成や不審者の有無の確認などにあたる業務をいう。
 殺害された女子大生が引っ越して来たときから気になっていたと巡査は述べた。引っ越してきたのは彼女が殺される1年半ほど前だった。鹿児島の高校を卒業後すぐに警察官になった20歳の巡査の歳を考えれば、どちらも経堂の町に長くは住んでいなかったことになる。

Kyoudou2  駅から歩いて3分もかからない場所に、女子大生に部屋を紹介した不動産屋がある。
 紹介した男性はまだ現役で仕事を続けている。30年前の女子大生の事件について聞かせてほしいと申し出ると、ああ、あの事件ねと読んでいた新聞を折り畳んだ。
「1月にあれが起きた。私は釣りが釣りが好きで、その日は釣りに出かけてた。帰ったら奥さんが『わたしは警官があやしいと思う』なんて言ってくる。なんのことか分らなかったね」
 見た感じは初老という言葉がしっくりくる男性だが、しっかりした体格の持ち主である。思い出す時間を長くとらずに当時のことについてテンポよく話す。
「いや、あのアパート、東荘は東(あずま)荘って言うんだけどね、あのアパートはすぐには取り壊してないよ。あれがあった後、リフォームして貸し続けたんだ。状況がああなだけに、北沢署の職員さんと相談して費用を負担してもらって」
 取り壊すどころか住居人たちは誰も部屋を引き払ったりしなかったという。それどころか殺人が起きた部屋で住みたいと申し出る者も現れた。
「3人くらい来たかなあ。そういう事故のあった物件を知らせるようなネットワークみたいなのがあったんだと思うけどね。事件があった部屋だから安くなるだろうなんて言ってきたけどね、冗談じゃないって言ってやったんだ。その頃は4畳半の物件は空きがあればすぐ借り手がつくような状態でね。リフォームもしてあることだし、事件前の値段より高い家賃で出した。それでもすぐに借り手がついたよ。事件があったのが1階。その部屋と真上の2階の部屋で友達同士で入ってたっけな」
 事件のことで印象に残っていることは何か、とたずねると意外な答えが返ってきた。
「当時はやっぱりすごい世間で騒がれた事件だったんだ。あの警官が駅前の派出所に勤務してたってことももう、たくさんの人が知ってる。で、駅を通るロマンスカー(小田急電鉄の特急列車。新宿などから箱根に至る)がちょうど派出所の前あたりでいつも減速していたけど、あの殺人事件があった後はしばらく、減速するたびに、あれがあの派出所だって中の乗客が指さしてたな」
 事件後、東荘は10年ほど貸し出され続けた。建物のオーナーである女性が亡くなり、学生が選ぶ部屋も4畳半からより大きな部屋へとニーズが移ったこともあって東荘は取り壊された。
 勤務中の警察官が殺人を犯すのは警視庁始まって以来の出来事だった。当時の土田国保警視総監に減給が科せられるなど警視庁幹部複数が処分された。

 東荘があった場所、シルバーの乗用車が並ぶ駐車場にしばらく立っていた。頻繁に人が出入りする駐車場でもないらしい。近くにはどこにでもあるようなアパートが建っている。アパートのどの窓からか、アンジェラ・アキの曲が流れている。(宮崎)

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2007年10月 7日 (日)

「死化粧師」を観る 第1回/遺体と向き合う

■「エンバーマー」。聞きなれない言葉だし身近な存在でもないが、たしかにその職業はある。正体についてはよく分からない。
「死んだら全部終い(しまい)なんじゃー」的な男気あふれる(?)生き方をしている者でも、葬祭業関係者には後々お世話になる。本人には関係なくても残された人たちには関係がある。そう考えると、葬祭業も死者に接しながらにして生き続ける人々にはたらきかける職種ともいえる。
 これから毎週日曜は元・葬祭ディレクターの小松朗子さんがドラマ『死化粧師』に関してや葬祭にまつわる事柄について書く。それは私たちが知る日常とはちょっとかけ離れた世界、かもしれない。(編集部)

       *      *      *

 本日より、テレビ東京の深夜枠で「死化粧師」がはじまる、というので見てみることにした。
「死化粧師」は、祥伝社のレディースコミック「フィールヤング」(物悲しい名前だ)で連載されている、三原ミツカズ氏のコミック。比較的太い線に彩られたゴスロリな雰囲気には根強いファンもいる。人間と人形の境界線をあやふやにさせる「DOLL」、死後天使となった子どもが登場する「たましいのふたご」など、生と死にまつわる精神の深いところを抉り取ろうとするのが三原風だ。

「死化粧師」とは一体何ぞや、といぶかる方も多かろうが、エンバーマーである主人公の間宮心十郎そのひとをさしている。エンバーマーとは、遺体修復・衛生保全を行う技術者のこと。血液を抜いて防腐液を入れ、必要とあらばパテで部分修復を施す。現実、日本にはまだあまりいない。技術取得のためには専門の学校で医学に基づいたエンバーミング(遺体衛生保全、と訳される)の理論・実践を学ばなければならないが、アメリカの専売特許のようになっており、日本には数えるほどしかない。しかも知る限りでは片手で余る。

 あ、はじまった。前フリをまだ書き終わってないのに、ドラマが始まってしまった。改めてキャストを見ても…深夜枠だからか、知ってるキャストがまったくいない。国生さゆりくらいだ。
■公式サイト:http://www.tv-tokyo.co.jp/shigeshoshi/

 今回のエンバーミング対象者は、バレリーナの詩織。交通事故で右足を失い、そのままお亡くなりに。数日後にはバレエの舞台に主役で立つことが決まっていて、優しい婚約者もいた若い子なのに。
 途方にくれて泣き喚く婚約者に、葬祭コーディネーターの小林恋路(忍成修吾)がそっと語りかける。
「詩織さんが、また天国で踊れるように、時間を元に戻せる、魔術師がいます」
 それはもちろん、エンバーマーの間宮心十郎(和田正人)のこと。
 ああ、その一言で一体おいくらまんえんの仕事をとるのかしら、と、えげつない事を考えてしまう。

 私も恋路の立場にいたことがあった。2年前まで、葬祭ディレクターをやっていたのだ。もちろん、間宮心十郎のようなエンバーマーはいないから、やれるだけのことは自分でやることになる。
 最初の頃は、遺体に触るのもイヤだった。はじめてお客の家にお邪魔して、布団に休んだ故人を見たときの感覚を今でも覚えている。怖いとは思わなかったが、驚きもしなかったが、なんというか、ショックだった。自分でも、あの感覚は一体なんだったんだろうと思い出すたびに考える。しかし1ヶ月がたち、2ヶ月がたち、仕事に慣れてくると、うっかり故人をまたがないように気をつけなければならないほど神経が麻痺していた。以前は、遠巻きに、近づかないようにと神経を張っていたのに。

 ドラマでは、心十郎がバレリーナに衣装を着せてやっている。
 同僚が、あと数日で結婚式だった故人にウェディングドレスを着せたことはあったようだが、私にそういった華やかな過去はない。
 しかし、服を着せたことなら何度かある。

 警察が変死体の検死を行うとき、そのご遺体は裸にされることがある。
「変死体」とは、なにも特別な遺体の事を指さない。自宅で亡くなった場合はすべて変死扱いとなり、自殺体と考えられた場合でも、一応検死が行われる。

 そんな事情で、たまーに病院ではなく自宅に直接来て欲しいといわれ、おうちに上がってそっと布団をめくると、一糸まとわぬ状態だったりするものだ。
 心無い警察が業務のみを果たし、そして心無い検死担当医師が看護師を伴って来ず、浴衣を着せてあげなかったりすると、こういうことになる。
 まさか、葬儀屋まで心無い仕打ちをするわけにもいかない。
 死後硬直が始まっており、腕を抜く作業が一番厳しいが、汗だくになりながら着せていく。世の中には、背中の開いた浴衣もどきもあったようだが、そんな便利なツールはないため、すべてが力作業。その代わり、着せられたときには達成感がある。遺族に感謝されて満足なのか、目標を達成することが出来て満足なのか、自分でよく分からなくなってきていたりしたものだ。

 果たして、エンバーマーの満足は、どちらから来るものなのだろう。
「エンバーミングが終わった後は、いつも、寒い…」と震えている間宮心十郎には、そういう感覚自体がないのであろうか。
 じゃあ、なんでわざわざエンバーマーになんてなったんだ?(小松朗子)

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2007年10月 6日 (土)

『吉原 泡の園』 第36回/泡の園の中心で、貧困にあえぐ

 地方公務員として将来歩んでいけば何も困ることはないぞ、そう親に仕込まれた時期があった。
 消防署員、役所、郵便局などがまあ地方の一般的な、社会をあまりよく知らない人間がまずはじめに思いつく。今にして思えば、郵便局だって現在民営化して公務員ではなくなった。市民団体や、労働者運動などからすれば、公務員は贅沢しすぎ、という趣も否めない。
 吉原の人間と、公務員、まったく相反する同士である。180度違う世界で僕は生きている。まったく知らない世界を知ることになったのだ。
 吉原ボーイの苦労に、そんな公務員相手がらみのものがある。
 吉原を管轄しているのは台東区である。そして、その台東区役所に僕は出向くことになった。まず、

1 年金問題
2 国民保険問題
3 年末調整など、所得税の問題

などがそうなのだが、まず、1番手っ取り早く必要なのが保険である。
 これがないと、病院にもかかれない、確かに、浅草などには保険など関係ない潜りの医者もいた。実際マネジャーなどはそんな潜りの医者のところに行っていた。が、ヤブ医者である。そんな人にまともに診察を受けても意味がない。それにやはりどこの病院でもかかれる体制を取っておくことが、安心して働けるのである。吉原の人間は、まずそうした事に無頓着なのであった。
 そして、年金も、僕が、
「あーあ。年金はらわないと、まずいな」
 と愚痴をこぼすと、
「何おまえ、年金貰おうとしてるの」
 といって馬鹿にし、笑うのである。だが、年は誰でもとり、また金もない老後も寂しいと思ったのだ。
 役所の人間の所に、やっともらった、いや、もらえた、違う、もぎ取った休みを利用し行く。行くと、年金や国民健康保険が、今少し払えないから、どうにか手続きをとってほしい。払えないので免税などの。を頼む。
「どういったお仕事ですか」
 と女性職員。
「えー(少し間があく)よ、吉原です」
 と恥ずかしそうに僕。
「あ、はい。で、どのような職業の種類になりますか」
 と女性職員。
 僕は、ソープランドです。や特殊浴場です。と言えなかった。いうのも恥ずかしいし、言ったら言ったで、
「なら少しは給料ももらえるでしょう」
 となるからだ。
「義理風呂でもらえません」
 とはどうしても言えない。
 僕はいつも、アリバイ会社の名前を言い、掃除屋をやっていますが、売上が悪く、いつも数万しかもらえません。といってごまかしていたのである。
 区の女性職員は、それで少しは納得してくれていた。
「そうですか、では免除の申請用紙にお書きください」
 当時の僕は身体中から怪しいオーラをだしていたのだろう。
 それも無理はない。指定暴力団Yから脱退してもなお指定を受けていたNの現役会員を会長に持つのだ。怪しいオーラが出ないはずがなかった。
 区役所で楽しそうに談話する同い年くらいのカップルや同性、異性を見ると、何だかいろいろと羨ましかった。
 こんなに苦労している奴なんて、世の中にいるのかな、と、真剣にそこまで苦しんだものだった。それに加えて、自分の借金のほうは、完全に延滞するようになっていたのである。
「いまは辛抱してくれや、幹部になれば、どこよりもうちは銭をだすよってのぉ」
 会長のいつもボーイに言う言葉が思い出される。が、それでは遅いのだ。僕には、今。今すぐに金が要る。でなければ、僕は借金を返せない。マネジャーは、
「そんなもんかえすのが馬鹿や、はは」
 とまるで帰さないで当たり前や、くらいの勢いである。ああ、もうだめだ。借金は返せないだろう。
 それから、東京都弁護士会相談窓口に出向くまで、そう時間はかからなかった。
 上智大学の前にある事務所。30分4、5千円くらいの相談料を払うのである。
 店長はよく事件を起こし、お縄をまいて、警察につれてこられたから知っているといっていた。弁護士と面会し、自分の収入と支出を教え、カード枚数なども詳しく教えた。
 任意整理といい、グレーゾーンの金利を整理する方法などもある。僕もそれで行けると思っていた。
「うん、自己破産しかないね」
 弁護士は、すぐにそういった。当たり前だよ、と言わんばかりである。
「じ、自己破産」
 テレビドラマでよく聞く言葉だ。が、今の日本、これが数万人単位でいるのだ。弁護士に頼み、弁護士が請け負えば、ほぼ免責はおりる。裁判所の手続きに出向くだけである。
 何千万。何億という借金が、一瞬でなしになる魔法である。一生に一度の魔法。お勧めは出来ないのだが。(イッセイ遊児)

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2007年10月 5日 (金)

ミャンマーでのジャーナリスト殺害と自己責任論

 9月27日、ミャンマーでジャーナリストの長井健司さんが亡くなられた。反政府デモを取材しているときに、軍人から至近距離で撃たれたとの報道も流れている。そのとき撮影にしていたビデオだけが軍から返還されていないことも、軍人が彼を狙い撃ちしたという疑惑を深めている。
 こんなことは決して許されない。カメラを構えている人物を銃撃するなどもってのほかだ。相手を殺そうとする意思すらないのだから。

 今回は日本政府の対応も早かった。事件の翌日には外務省が審議官を派遣して抗議することを決めたし、高村外相も「強い措置を視野に入れながら、ミャンマー政府が今度どう対応するのか見守っていきたい」(9月28日『朝日新聞』)と語った。当然の対応だろう。

 ただイラクでの取材者との対応の違いに驚かされもした。新聞検索をかけてみると。長井さんの事件について「自己責任」を追求した記事は1件もない。04年4月にフリージャーナリストの安田純平さんが誘拐されたときは、「自己責任論」のオンパレードだったのにである。
 新聞報道などを読む限り、長井さんはたしかに紛争地の取材に慣れていたようだ。ただ身の危険を感じていなかったかといえば、そんなことはないと思う。現地の状況を追っていけば、ある程度の危険を覚悟して現場に向かったことが分かる。

 9月22日にはアウン・サン・スー・チーさんの自宅前までデモ行進が行われ、経済的困窮の解消だけがデモの要求ではなくなっていた。軍事政権が神経を尖らせているであろうことは、容易に想像できる。同月24日にはデモは10万人規模となり、その翌日には繁華街に兵士が配置され夜間外出禁止令まで出された。そして26日、軍は実力行使にでて死傷者が出たと報道され、長井さんが亡くなったのはその翌日である。

 イラクでの誘拐事件において「自己責任論」の根拠として使われたのが、外務省が出す「危険情報」であった。「十分注意」「渡航の是非検討を」「渡航の延期を」「退避勧告」の4段階のうち、イラクは「退避勧告」、長井さんが殺された時点でのミャンマーのレベルは「渡航の是非検討を」であった。イラクで日本人の誘拐は頻発していた当時、「『退避勧告』が出ているのに現地入りするなんて」という声がちまたにあふれていた。
 しかし、この「危険情報」がさして当てにならないことは、今回の事件が証明したともいえる。なにせ長井さんが殺されてから、外務省は慌てて危険レベルを1つ引き上げたのだから。
 そもそも紛争地の取材が安全なわけがない。個人でルートを見つけて入り込むときはもちろん、イラク戦争で行われた米軍主導のインベッド取材(従軍取材……「in bed 取材」と揶揄されていた)でさえ、かなりの危険性がある。しかも死と生は常に隣合わせである。その境を分けるのは、外務省の「危険情報」などではない。現地コーディネーターの質と取材者の経験だろう。

 例えばどうしても写真に収めたい場所があるとする。その危険度がどれぐらいなのかは、コーディネーターじゃないと分からない。押せるのか、引くしかないのか。軍や政府の指示に従ってばかりいては取材にならないとくれば、その危険の線引きは自分でしなければならない。
 私自身、何度か軍人から銃を突きつけられたことがある。そのとき撃たれなかったのは、突きつけられたときの行動をコーディネーターが教えてくれたからであり、何より銃を突きつけたとしてもいきなりは撃たないであろう場所で取材していたからだ。それでも100%安全だったわけではない。そもそも立ち入り禁止の場所だったのだから。

 あの「自己責任論」を従えたNGOや取材者へのバッシングを改めて考えると、空恐ろしい感じがする。イラクの問題で自己責任を主張した人々は、「長井さんへの事件も自己責任だ」と主張できるだろうか。逆に退避勧告が出てたイラクと状況が違うというのなら、退避勧告が出ていたら自己責任だが、今回は危険レベルが違うから責任を問えない、などと言えるだろうか。
 結局、あの自己責任論の根本にあったのは、外務省が設定する危険度ではなく、日本政府にとって邪魔かどうかということだ。「非戦闘地域」に展開した自衛隊が活動を続けるのに、わざわざ現地に行って捕まる日本人は邪魔だった。

 この「自己責任」という言葉は、最近ワーキングプアなどの問題でもよく使われている。「努力しなかった結果でしょう。自己責任だから仕方ない」というように。これも図式は変わらない。産業界にとってオイシイ低賃金労働者が反乱を起こすのは、権力側にとって都合が悪いのだ。
 その意味でミャンマーの軍事政権なら長井さんの死を「自己責任」と切り捨てるかもしれない。

 最期までカメラを離さなかった長井さんの冥福をお祈りしたい。(大畑)

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2007年10月 4日 (木)

新人理学療法士、走る! 第3回/理学療法士になるにはお金がかかる

 さて、今日は学校生活でのお金の話をします。

 PT(理学療法士)になるには、結構お金がかかる。
 養成校には、3年制の専門学校・短大と、4年制の専門学校・大学があって、初年度に支払う費用は、公立の学校だと20万程度、私立だと150万~300万。私は3年制の私立専門学校を卒業したのだが、純粋に学校へ支払った金額が3年間で420万。私立としてはやや安めの方。高いと500~600万くらいかかる。

 それに加えて、教科書代は1年目20万、2年目15万、3年目5万円くらい。これは他校よりも大幅に高いらしく、年間3万程度のところもある。今見返すと、やたら無駄な本を買わされていて、使える本が本当に少ない。
 それからケーシー(新米医師みたいな半そでの上下)が2着と、白衣とで3万くらい。あとは値段は覚えてないけど、検査道具一式だとか、理学療法士協会やら同窓会やらの会費だとか、国家試験の模擬試験とか、コピー代が月に数千円だとか、ちょこちょこお金がかかる。

 それと大きいのが、実習の滞在費。私は幸いにも一度もなかったのだが、クラスの2/3の人が、1度はマンスリーマンションを借りて実習に臨んだ。
 実習についてはまた改めて書きたいと思うが、ほとんどの学校では、1ヶ月の評価実習と、2ヶ月の臨床実習を2回の計3回、病院や福祉施設での実習を組んでいる。
 クラスの一人ひとりが別々の場所へ派遣されるため、どうしても実習先は全国津々浦々、縁も所縁も無い地での一人暮らしを余儀なくされる。遠方の実習先をあてがわれることを「飛ばされる」と言うのは、どこの学校でも共通らしい。

 10年以上の歴史がある学校だとか、顔の広い先生がいる学校では飛行機に乗らない範囲内で済むが、新設校では南は沖縄から北は北海道まで、文字通りの全国各地に飛ばされる。さらにひどい学校では、自ら実習先を探さねばならないらしい。うちの学校では、南は静岡から、北は福島までだったので、かなり近くで済んでいる方だと思う。

 滞在費に交通費、生活費で15~30万。コレはかなり痛い出費である。

 そこで、たいていはクラス内で保険をかける。かかった費用を全員でワリカンするとか、1年生の内から貯金しておいてそこから配金するとか、実習地が決定する前に決めておくのだ。
 うちのクラスでは「保険をかけたい人だけが全額ワリカン」することになったのだが、クラスの半数しか参加しなかったために1人18万くらい支払うことになって、あまりお得感のない保険になっていた。

 そんなにお金がかかるなら稼がねば!
 ということで、学生といえばバイト。だが、4年制の夜間校を別にすると、PTの養成校に通いながらまともにアルバイトをしている人はほとんどいない。学校の授業は9時から4時半までビッシリだし、課題も出る。しかもうちの学校は辺鄙な場所にあったから、通学時間で目いっぱいという人が多かった。
 クラスメートは約50人だったが、その中でほぼ3年間バイトを続けたのは2~3人。深夜までバイトして、徹夜で課題をこなして授業中寝る、という矛盾した生活を送る人もいた。それでも実習中は絶対にバイトなんてできないし、テスト時期も厳しい。長期の休みを取らずにバイトを続けた人は皆無だ。

 私の僅かばかりの貯金は、入学金+前期授業料を払っただけで底をつき、親からの借金と奨学金で残りの学費を支払ったのだが、クラスには、全ての授業料と生活費を貯金で賄った脱サラ組も何人かいた。中には40代・2児の父なんて人もいて、その経済事情は大いに謎だったのだが、真相を聞くことは叶わなかった。

 これだけ多くのお金がかかる訳だが、PTは決して収入の多い職業ではない。新卒の月給は15万~30万と就職先によってバラバラ。相場は20万前後だと思う。そして、ほとんど昇給しない。

 20分毎に治療に対する報酬額が決められていて、誰が診ても同じ値段。現在はさらに1日毎、1週間毎に、治療を行える時間が決められている。昔は年収1千万というPTもいたらしいが、今はひとり頭が稼げる金額が決まっているのだから、自ずと給料も決まってくる。
 リハビリは稼げない部署になりつつあるらしい。
そんなこともあって、PT業界は「将来、PTは無くなるのでは?」「この業界で一生食ってくのは無理かも」というような、そこはかとない不安感に包まれている。

 お金のため、でなるには割に合わない職業である。(染谷)

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2007年10月 3日 (水)

蜂窩織炎で入院していました

しばらく休載していたのは例の蜂窩織炎が悪化して入院していたからである。全国に5人程度はいるらしき我が拙文の気高き読者におかれましては大変申し訳ありませんでした。
どうやら「闘病記」を書かなくて済みそうな程度に快方に向かっているらしいので、せっかくだからいかなる病気であったのかをご報告したい。
私は医療の専門家ではないので、以下『世界大百科事典』(平凡社)の記載をもとに紹介する。

・組織の密度が粗な部分(皮下組織、筋肉と筋肉の間、頸部など)に起こる急性の化膿性炎症
→私の場合は最初は左足首から始まって左足全般。一時は治ったかと思ったら今度は右足親指付け根と右足首が感染し、入院以外に方法がないまでに至った

・代表的なものに、虫さされの傷から細菌が侵入して起こる皮下蜂巣炎がある
→ということだが私にはかきむしった記憶はない。でも無意識にやっていた可能性もある。原因不明の場合も多くあるらしい。夏場に虫にさされたり小さな傷ができた場合、豪快に掻いたりしないよう老婆心ながらご忠告申し上げる

・局所には境界不鮮明な発赤とはれ、むくみが起こり、熱感と圧痛が著しい
→真っ赤になってはれる。触ると摂氏40度ほどの熱さを感じ、歩けなくなるほど痛い

・炎症は急速に進行し、疼痛は拍動性で、悪寒や震えを伴った高熱が出現する
→あっという間である。右足は少々の痛みを感じて赤みを確認して3日後に病院に行き、抗生物質を処方されたものの効かず、さらに3日後に入院となった。その日から2日ほど40度近い熱が出てさらに2~3日微熱が続く

・さらに進むと、局所は軟化して膿瘍を形成する
→つまり膿むということ。現時点で医師の触診では膿瘍は確認されず自然に吸収されたと推測される

・治療は、局所の安静・冷却・全身的な抗生物質の投与を行い
→「安静」とは寝ているに尽きる。足は心臓より上へ、つまり足に枕を敷く形で下降する血流を小さくする。症状が強く出ている時には、この姿勢から座る形に移行するだけで血液が一挙に足首へなだれ込むような重苦しいうずきを覚える。
ここで尾籠な話となる。小水は当然尿瓶。大きい方は車椅子用の手すりとカーテンがついた洋式便所に出撃する。便座と車椅子を相対し、手すりにつかまって立ち上がり、手を左右反転させながら身をも回転させて便座に座る。車椅子に戻る際には反対の動作を行う。痛みのひどい時には一大事業だった。
「冷却」は熱を帯びている段階では足枕の上に氷枕を置いて足をひたすら冷やす。私の場合、一番痛んでいた右足親指付け根を本来冷やさなければならないが、氷枕を足の上に乗せざるを得ず、痛みの強かった時にはそれ自体が耐えられなかった。軽快して退院後はアイスノン(冷却枕)などで代用できる。赤みが引いても黒ずんだむくみと痛みがしばらく残るが触って熱を帯びていなければ冷却はむしろ血流を悪くするので控えなければならない。また強く痛んでいる際でも決死の覚悟の冷却は凍傷を招く恐れがある。この辺りの判断は入院で専門医の診断を常に仰ぐ必要があったし、退院後も週に1度は経過を見てもらうのが賢明だ。
「全身的な抗生物質の投与」は入院中はひたすら点滴である。朝6時、昼の2時、夜10時ときっちり8時間おきに行われ、一回に要する時間は30分から40分。それ以前と以後はカプセル剤を服用している。
左足の際にはセフゾンという抗生物質(1カプセル100㎎)が処方されて1日3回飲み、数日で回復した。その後数日で右足が痛み出し、今度はフロモックス(1カプセル100㎎)が処方された。だが服用の甲斐なく3日後に入院となる。医師の話によると処方すべき抗生物質を誤ったという話ではないらしい。この当たりに私は正確な答えを持たない。
退院後は再びセフゾンが処方されて12日間飲み続けた。その後も今日に至るまで右足は赤黒く腫れているも何とか若干足を引きずりながら歩ける。ここで医師は抗生物質を切った。つまり処方を止めた。耐性菌が生じたり罹患した場合にやっかいだからという理由である。したがってぶり返す可能性を否定できないのが目下最大の不安である。まだ完治さえしていないから。

なお休載していたのは退院後も基本的に足を心臓より上に位置しながら寝るという形を崩せず、その格好ではノートパソコンでさえ操れなかったからである。体の硬い私は椅子に座って右足を心臓より高く上げて机に投げ出し、つまりすごく威張っている人みたいなポーズを取ってワープロを打つといった仕業ができない。
肝臓の数値は昨日(1日)の段階で正常値より高い。それでも入院中の採血結果よりは良くなっている。ちなみに左足が痛み出した一ヶ月以上前から酒は一滴も飲んでおらず、その時の血液検査は正常値の範囲にあった。わけがわからない。
皮膚病というのは蜂窩織炎に限らずしばしば原因不明で治療や治癒のスピードも医師が様子を見ながら対症療法的に進めるしかないものが多いようだ。しかも急速に重篤となるケースもあるから侮れない。

そういえば私が入院していた病院の建物は古く、病院だから当然病死者も出ているわけで病死者×長い年月=たくさんの病死者という連想から幽霊が出るとのうわさを聞いた。とくに夜中に喫煙室から屋上につながる最上階で現れると。したがって入院時には点滴が終わった夜10時40分すぎにカメラ付き携帯を持って車椅子に乗って現場へ向かい、何とか拝みたいと待ちかまえていたが遂に見られなかったのが残念至極である。
もう一つ。私の入院と安倍晋三前首相のそれはほぼ同時期だった。したがって安倍さんには妙な親近感を持ったのだった……なんてウソ(「ほぼ同時期だった」は本当)。
ただし急な入院で本を持っていけなかったのはつらかった。親族や編集部員にも見舞いに来なくていいと言い渡しておいたら本当に誰も来なかったため(正確にいうと大畑が行き詰まった仕事の書類を抱えて襲いかかる算段をしていたものの襲来予定日が退院日だった)売店であらゆる新聞と雑誌を買って読みまくっていた。高熱と痛みでうなっていても読んでいた。そのため安倍首相政権投げ出しの「真相」は憶測も含めて豊富に仕入れたが何の役にも立ちそうにない。逆にテレビは見るだけで頭がおかしくなるとわかってニュース以外は見なかった。低俗も過ぎると暇つぶしにもならないんだね(編集長)

蜂窩織炎」に関する他の記事↓

「蜂窩織炎」

「差別の原点」

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2007年10月 2日 (火)

二次元に萌える。その3

 先日ようやく『ラストエスコート』を攻略した。ちなみに、このシリーズは追加ディスクとして『ラストエスコート 黒蝶スペシャルナイト』というのもあるので、そちらも一緒に攻略した。
 こっちのディスクでは、クラブの店長を落とすこともできる。本編を持っていれば、登場する男性キャラ(主人公の弟除く)6人を落とすことができるのだ。きゃーッ! 
 二次元とはいえ、イケメンキャラがいっぱい(6人じゃいっぱいじゃない?)! どれがいいかなぁ……と、思いプレイしていたが、やはりホストには萌えられない。 結局のところ永久指名をして、グッドエンディングを迎えるには毎月、毎月ボトルを全種類入れ、さらに
プレゼント攻撃などなど……、とにかく金がかかる。愛と引き替えにNo.1にさせ続けなければならないなんて
萌えるどころか疲れる。
 というわけで結局萌えることができなかったのだが、唯一一人、はまりにはまってしまったキャラがいた。
 その名は、越之雪悟。ちなみに隠しキャラらしい。
 名前がホストっぽいのだが、喫茶店のマスターだ。やっぱりゲームでもかたぎの人間が一番。攻略するにはただただ喫茶店でアルバイトをしていれば簡単に落ちる。 本来ならば萌えに金もシチュエーションもないのだろうが、3次元最高! という頭で2次元に萌えようというのは、無駄なことなのかもしれない。
 そんなことを言ってみたものの、私の携帯の待ち受けは悟の3等身画像になっているので、結局は萌えるどころか本当にはまりにはまってしまったのだった。
 もともとオタク気質があったので、2次元に萌えることは簡単なことかと思っていたが、無理だったということがわかった。
 世のオタク、腐女子の方の圧倒的バイタリティーに感動しつつ、次のゲームでも萌えられるかがんばってみることにした。つづく。(奥津)

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2007年10月 1日 (月)

板橋・管理人両親殺害事件の現場を歩く

Ita1  2005年6月20日午後4時40分ごろ、東京都板橋区成増にあるマンションで爆発が起こった。
 マンションは中堅ゼネコンの社員寮として使われており、爆発が起こった半地下にある部屋にはマンションの住み込みの管理人である夫婦が倒れているのが発見された。2人は病院に運ばれはしたものの間もなく死亡した。
 2人には外傷があった。夫には首などに数箇所の刺し傷、頭部には鈍器で殴られた跡があった。捜査上で、それが8kgの鉄アレイによるものであることが判る。妻には胸などに数十箇所もの刺し傷があった。
 爆発装置としてタイマーつきの電熱器が見つかり、元栓が開けられたまま台所のガスホースは切断されていた。床には灯油も撒かれていた。2人を殺した人物は、タイマーでセットされた時間がきた瞬間に部屋に充満したガスが引火し、殺人の根拠となる傷を消せると考えた。

 夫婦を殺害したのは都立高校に通う当時15歳の彼らのひとり息子だった。3人は03年から成増の社員寮で暮らしていた。少年の父親は96年から給食業務受託会社の派遣社員として働き始め、この社員寮が3軒目だった。
 事件発覚後、行方が分からなくなっていた少年は2日後の22日、群馬県草津の温泉旅館で保護される。
 Tシャツとジーンズにスニーカーの姿で旅館にやって来た少年は台帳に偽名、自宅近くの住所を書き込んでいた。両親を殺し電熱器のタイマーをセット、板橋の家を出てからまっすぐ草津に向かったわけではなく、池袋の映画館で『バットマン・ビギンズ』を観ているが、そのときの心境はどのようなものだったのか。

 警視庁捜査一課に保護・逮捕されたあと少年は両親を殺したことをすんなり認め、取調べによれば父親にバカにされたため殺してやろうと思ったこと、母親が「死にたい」と言っているのを見て殺そうとしたことなどを述べている。

 東武東上線の成増駅はいつ訪れても活気がある。私が通った大学はこの近くにあるので何度も来たことがある。駅の建物の中にスーパーや惣菜屋が並びその客が出入りするので、人の足が途絶えない駅、という印象がある。
 駅から南のほうに15分も歩けば、事件のあった社員寮にたどり着く。寮のすぐ近くに小学校があり、下校の生徒たちが連らなって学校から家に向かう。寮や学校のまわりは取り立てて特徴はないが全体として落ち着いた住宅街で、中流またはそれ以上といった感じの家々が並ぶ。
 当然といえば当然なのだが、静かな住宅街にと溶け込むようにして今もその社員寮はある。会社の名前が記されたプレートが玄関の入り口上にある。
 少年によって爆破された管理人室は道路から向かって左側にある。が、現在は黒い鉄製の柵が取り付けられ、その場所には入っていくことができない。

Ita2  社員寮に隣り合うような位置に旅行代理店があり、店員の男性がタバコを吸っていた。
「もう2年?か。それくらい経つか。ガス爆発の音は聞いたよ。ちょっとした休憩でね、店の外に立ってタバコを吸ってたんだよ、ここで、今みたいに」
 わたしとその40歳くらいの男性が立っている位置から社員寮はだいたい20mくらい。敷地を区切る塀があるので事件の舞台となった部屋は見えないが、寮の上階で干されている洗濯物が見える。
「ものすごい音だったよ。爆発の音なんて初めて聞いたけどね。煙がすごいんだけどどこが燃えてるのかははじめ分からなかった。僕と、ここ(店)のもうひとりが事件の第一発見者といえばそうなんだよ。すぐにテレビやなにやらが飛んできてね、店のトイレをどんどん使ってったね。ヘリなんかが10機くらい飛んでたよ」
 男性は少年に会ったことがある。
「あの夫婦の息子さんは会ったことがあるよ。まあおとなしくて普通の子だったけど」
 まったくの他人ではない身として、今後少年についてなにか考えることがあるか聞いた。男性はタバコをふかしながら、はじめてじっと考え込んだ。
「罪は償うべきだし、償ってほしい、とは思う。更生っていうのか、そういう風に自分を見直したり、そういうことをしっかりしてほしいと思うね」

Itabashi2  同じように現場と隣接する戸建て住宅のある主婦は、事件の数ヶ月前にこの場所に引っ越してきた。爆発が起こったとき、この主婦も家にいた。
「音、というか振動がすごかったです。ただもう、驚きでした。引っ越してきたばかりで周りのことも知る前だったんですけど、あのご夫婦も、男の子も、どちらも、なんていうか、可哀想なことになったっていうか。面識はなかったんですが、お線香はあげさせてもらいました。引越しをしようとは思いませんでしたよ。だって、(家を)買ったばかりだったから」
 女性は、よく考えて言葉を選ぶようにしながら話してくれた。事件のことを頭の中で整理して話しているようにも見えた。
「町内会では、男の子の刑を少なくすることを求めるものか、内容はハッキリ覚えてはいないんですけど、そういう署名の運動なんかも起こってたと思います。こんなことになるなら、もっと地域で支えることがあったんじゃないか、というのがこのあたりの中でも言われたりしてました」
 今でも事件を思い出すことはあるという。どういうときにという具体的なものはないが、脈絡なく思い出すことがあるという。

 06年12月の一審判決では東京地裁が懲役14年を言い渡している。2000年の少年法改正で刑事罰適応年齢が16歳以上から14歳以上に引き下げられており、この裁判でも少年に刑事罰が課されるのか、それとも保護処分に付されるかが注目された。今年9月(先月)、東京高裁で控訴審公判が行なわれ、その場で弁護側は保護処分を求めている。12月に高裁の判断が下される。(宮崎)

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