岩の坂・もらい子殺し事件の現場を歩く
旧中山道は日本橋を起点とし、武蔵、上野、信濃を経てはるか京都に通じた。旧中山道で最も江戸に近い宿場町である板橋宿が廃れた後、岩の坂と呼ばれたスラムが明治の中ごろから昭和の初期ごろまで板橋に存在した。日本橋から10.6キロの距離である。
突然に宿場町が廃れたのにはもちろん理由があった。明治16年に開通した中山道付近を通る鉄道が板橋宿近くには通らずに王子・赤羽方面に通ったことで、宿町は火の消えたように静かになってしまったという。それに翌年17年の板橋の大火事で宿場としての機能はほとんど失われてしまった。その苦境に面し、旅籠業者が貸し座敷に転業し、トンネルのような長屋ができはじめた。
もともと江戸時代から、嫁入りの行列がその前を通ると必ず不幸が訪れると恐れられた縁切榎(えんきりえのき)などの存在もあり岩の坂は疎んじられる要素もあったが、悪評が決定的になったのはかの“もらい子殺し事件”が発覚し、地域の生活ぶりが伝えられてからだった。
もらい子殺し事件とはどのようなものだったのか。
昭和5年(1930)4月、岩の坂に住む小川きく(当時35)が、もらい子である生後一ヵ月の菊次郎を誤って乳房で窒息死させたとして近くにある永井医院にやって来た。が、その菊次郎の死因に疑いを持った医師が板橋署に届け出た。
菊次郎はもともと別の女性が出産した子だったが、その女性の夫が失職している身分でもあり、「大事に世話するから子をひきとる」とのある女性からの誘いに応じて子を手放した。当時の新聞によれば引き取り代の18円と「着物をたくさん」も一緒に女性に渡した。
しかし、その女性は岩の坂でも「もらい子周旋人」として名高い福田はつに10円で子どもを引き取らせている。しかも、金の一部で女ばかりでさわぎながら酒を飲んでいた。まるで下請けの原理で子どもが引き取られ、その子は数日のうちにろくに面倒も見られることなく死んだ。
この事実が発覚後、板橋署はなんとこの村の全員検挙を断行。調査ののち、岩の坂一帯に住むもらい子(生き延びたもらい子)が300人~400人にのぼることが分かった。
岩の坂ではもらい子を引き取るかわりに金をもらう、ということがネットワーク化されていた。少なく見積もっても30人のもらい子がなんらかの死因で亡くなっていることが分かったが、それが実際に近い数字であったのかは現在ではわからない。
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