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2007年7月30日 (月)

実在した貧民窟・四ッ谷鮫河橋を歩く

Sa  明治期の東京には貧民窟が存在した。芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、板橋岩の坂、四谷鮫河橋などが特に大規模なものだったが、小さいものまで合わせると東京全体で70にも及んだそうだ。
 今回は四谷鮫河橋付近、わずか約100平方メートル足らずの一帯に1370戸、5000人がひしめき合って暮らした場所に行った。

 鮫河橋は「さめがはし」と言う。今、地図を開いても鮫河橋は表記されていない。橋はすでに取り壊されてしまっている。鮫河橋の名の由来についてはいくつか説がある。江戸時代に日比谷あたりまでが海から続く入り江だったころ(これは事実)、四谷のこの橋にまで鮫が上ってきたことがある、というのがまずひとつ。同じく有力なのは、橋が跨いでいたのは水量が少ない川で、雨が降って増水したときにだけ使われる橋という意味で“雨が橋”と呼ばれていたのがいつの間にか“鮫が橋”になったというもの。いずれにしても定かではないという。あるいはその両方からきているのかも知れない。

 時代を問わず、ある場所での貧民窟の形成にはそこで食料を得ることができるという明確な理由がある。明治初期の鮫河橋の場合は食料の供給源として陸軍の士官学校があり、そこに隣接するようにして出来上がっている。陸軍の残飯を“残飯屋”が買い取り、それにマージンを乗せて住民に売りさばいていく。
 数少ない鮫河橋スラムに関する記述が収められた『四谷散歩』(安本直弘/みくに書房)によると、貧民窟があったのは鮫河橋坂を下った低い場所であり湿地でもあった。細民たちはそんな場所でバラックを建てて生活した。1370戸ものバラックである。
 何を糧にして暮らしていたのだろうか。『四谷散歩』によると人力車夫、土工、主婦はマッチの箱作り、たばこの紙巻きなどの内職に携わっていたという。

 四ッ谷駅を出てまっすぐ南に歩く。
 5分足らずで迎賓館を含む赤坂御所の広大な土地に至る。鮫河橋坂は赤坂御所の西側に沿うようにして走る坂で、現在新宿区と港区を分かつ境界線でもある。
 四ッ谷駅から向かうと鮫河橋坂を下ることになる。下りきった場所が貧民窟が存在していた地点である。
 ただ、それを匂わせるものは全く存在していない。おそらくバラック群があったと思われる場所には現在みなみもと町公園という公園がある。公園を道路一本はさんだ場所、最も低い場所に鮫河橋門という古びた門があるが、そこに地図上では皇宮警察という表記がされていて2人の警備員がいた。門は迎賓館に通じているようである。
 貧民窟があったことについて何か知っているかたずねようとすると、「ちょっと、その線から入って来ないで! なに、何の用?」と無意味に高圧的。それでも少しは取り合ってくれた。
「ここは鮫河橋門だけど、スラムがあったっていうのは聞いたことがないね。昔、小さな河があったっていうのは聞いたけど、それも今はもうないし……」
 警備員はこの辺りのことについてはそれほど知らないように思われた。
 いつごろにアスファルトで覆われたのかは分からないが、現在、鮫河橋の下を通っていた河は完全になくなったのではなく暗渠になっているという。そしてその小さな河にかかっていた橋もない。もともと5m足らずの板橋だった。
Sa2  貧民窟があったと思われるみなみもと町公園は半分がグラウンド、半分がベンチや遊具やモニュメントなどがありゆったりとしている。全体的にスペースにゆとりがあってこざっぱりとした公園で、木々も多く涼むのには丁度いい感じがする。
 赤坂御所と鮫河橋坂あたりは木が多く、セミの鳴き声がすごい。近くの会社にあるOLや会社員がぽつぽつ弁当を食べに来たりタバコをふかしにやって来たりする。だが、どの人にたずねてもスラムがあったことは知らない。
「10年ほどここで働いてますけど、そういう話は聞いたことないですねぇ」
 と30台くらいの会社員がじっくり考えたあと丁寧に答えてくれた。

 明治初期に貧民窟があったことは分かっている。さらにそれより前、江戸時代から「夜鷹の巣」としても有名だった場所である。ここでいう夜鷹とは私娼のことだ。通りかかる人たちに声をかけ、木材で作った粗末な仮小屋でことに及ぶ。鮫河橋あたりにいた私娼のスタイルはむしろを抱えた女だったそうだ。
 低い湿地に5000人以上の細民が暮らしていたが、どのようにして彼らがこの土地から消えていったのかは分かっていない。岩の坂や上野万年町は関東大震災でバラックが壊滅状態になったことがスラム街離散に繋がっているが、この貧民窟についていくつかの資料を残している新宿歴史博物館の資料でも、貧民靴の末期から離散の様子は分からない。
 鮫河橋付近にあった貧民窟の大きな特徴は、士官学校があったことともうひとつ、隣接するように赤坂御所があったという点だ。その場所に、江戸時期には徳川家の藩邸があり、明治期には徳川家から皇室に献上された。
 現在、赤坂御所には秋篠宮邸、三笠宮崇仁邸、寬仁親王邸があるが、明治期においても皇族の土地の目と鼻の先に貧民がたむろしているのは「きまりが悪かった」のではないかと想像する。

 ひとりの老人が通り過ぎた。貧民窟のことについてたずねると、
「いや、分からないね、分からない……。この近くに住んでるんだけども……」
 と照れた笑みを浮かべてそそくさと行ってしまった。しばらくベンチに座っていると、さっきの老人が遠くで蛇口をひねり、水浴びしているのが目に入った。クソがつくほど暑いとはいえ、シャツを脱いで上半身全部を水に浸した。もしかして公園に住んでる人なのではないか。水浴びした後に移動した先に荷物があるのでそう確信した。
 小学生がひとりで公園に遊びに来てグローブを取り出し、ひとりで壁打ちをしはじめた。ポコン、ポコン、という軟球の間の抜けた音が聞こえてくる。老人は公園の奥の影が濃いほうに移動していった。

 鮫河橋坂には皇宮警察とは別に交番があり、交番の脇に鮫河橋の「江戸名所図絵」が掲示されてあるが、もちろんここに貧民窟が存在したことについては触れられていない。
 鮫河橋スラムがどのような経緯で消えていったのかは分からないが、とりあえず公園には現代の貧民が住み着いている。(宮崎)

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コメント

ちょいと気になったのでコメントします。
僕は生まれてから高校を卒業するまで若葉3丁目に住んでいました。
あからさまに差別ってほどではないですけど、上(若葉1丁目)の人間にはよく思われていない地域だったと思います。
今はどうか知りませんが、ガラの悪い住人が少なからずいたのは事実です。
それがスラムだったことと関係しているのかはわかりませんが。
ジメジメとして陰気な町ってとこでしょうか。
一歩裏道に入るとよくわかると思います。

投稿: とおりすがり | 2008年5月22日 (木) 10時57分

今頃、明治の貧民窟の事とか、生きてる
人に聞いてもわかるわけないですって!
今が昭和ひとケタでもムリだと思う、当
時はまだ短命の時代だから古老も非常に
少なかったでしょうし。
(60歳の誕生日を迎える人が何割いたか?)
でも、なかなか面白いブログです。
又、何か書いて下さいね。

投稿: Tess | 2012年6月20日 (水) 16時45分

あの辺だと
東京大空襲で焼けこげちゃったんじゃないんですか?

多分そうですよ。

投稿: ばしくし | 2012年8月27日 (月) 21時48分

面白く拝読しました。
「明治の……」とはいっても、自分のように代々東京住まいの人間にとっては、やはりなんとなく耳にしたことがあります。
下谷万年町も然り、やはり戦後になっても「なんとなく胡散臭い場所」のイメージが強いですよね。
自分の場合、鮫河橋というより、「権田原」といったほうが「怪しい土地」ってイメージできます。道路に囲まれた三角形の茂みは、ちょっと前まで私娼・男娼がたむろするんで有名でした。きっと、鮫河橋の残り香だったのかもしれません。

投稿: 通りかがりですが | 2013年5月22日 (水) 11時47分

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