朝霞市の米軍基地「キャンプ・ドレイク」跡が公務員宿舎になる(上)
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朝霞市にあるキャンプ・ドレイク跡地に国家公務員宿舎が建設されることが国、県、市の3者の間で大筋で決定した。
06年には市民から選んだ100人のメンバーによる基地跡地利用計画市民懇談会が発足し、「自然を体験するための場所として活用」「防災の場合の避難地」などの意見が出た。また以前から市民を集めてのシンポジウムが開かれるなどあったが、それらの意見よりも朝霞市は最終的に国が提案した国家公務員宿舎移設案を選んだ形となる。国としては財政的な負担軽減のため23区内にある宿舎を郊外に移設したい方針であるという。朝霞市ははじめ公務員宿舎が近隣住宅に近すぎることなどから公務員宿舎移設に反対していたが、当初の超高層ビル構想が縮小されたこと、公園用地取得の財政負担が軽減できることなどを考慮し富岡市長曰いわく「苦渋の決断」の末、受け入れを決めたとみられる。
計画通りであれば来年にも工事がはじまる見通しである。
もともと米軍基地となる前のこの場所は、皇族・朝香宮鳩彦が名誉総裁を務めた「東京ゴルフクラブ」のゴルフ場閉鎖にあたり、1941年に市ヶ谷から陸軍予科士官学校が移設、また赤羽から陸軍被服廠が移設された土地だった。(「朝霞」はこの「朝香宮」にちなんでつけられた)
1945年、敗戦直後の9月には日本軍に変わって米国第八軍第一騎兵師団の司令部、米陸軍第43師団が移駐、キャンプ・ドレイクと命名された。当然米兵たちが街に出ることもあったのでキャバレーなどができ朝霞の街の印象も変わった。1953年には在日米兵向けのラジオ放送、FEN(Far East Network/米軍極東放送)放送局がNHK第二放送から移設され、20年以上この場所を中心としてFENが運営された。
ベトナム戦争時には野戦病院として膨大な数の傷病兵を受け入れ、多くが同キャンプ内の死体処理場へ運ばれていった。
現在は国の所有地となっているキャンプ・ドレイク跡は朝霞駅から歩いて5分の距離にある朝霞市役所に隣り合うようにして残っている。といっても、何十年も放っておかれたのが一目でわかるほど野生的に生い茂った木々に阻まれて、中の様子はまったく分からない。
広さは全体で16ヘクタール。広大である。それでも、米軍が撤退したあと少しずつ市が跡地を買い取ってきたという経緯があるから、米軍基地時代はさらに広かったということになる。
それにしても、鉄柵に囲まれた基地跡地はなんともオドロオドロしい。日が沈んでからは絶対に入りたくない。廃墟マニアのウェブサイトに登場することもあるこの跡地だが、その写真も外観だけにとどまっている。
朝霞市役所の職員によると、鉄柵の中には今でも米軍司令部があった建物の残骸があるという。
基地跡にすぐ隣接する中学校の生徒ならば、侵入して探検してみたというタダシイ少年がいるのではないかと考えた。できるだけヤンチャそうな男子生徒2人を捕まえて、跡地に入ったことがあるかと問うてみると、
「……いや、ないっす、スイマセン。だって、立ち入り禁止なんで」
という野心溢れない返事が返ってきた。中になにがあるのか、そういう話題もほとんど上らないのだという。もっとワイルドに生きろよ!(■明日につづく)【参考資料:『朝霞、そこは基地の街だった。(中條克俊)』】
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