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2007年7月18日 (水)

記号としての肩書きと何様でもない者の真実と

例えば「日本にも政権交代が必要だ」というタイトルで私のような民草が論じても高名な大学教授が書いても内容はさして変わるまい。出版をやっていてつくづく感じるのは内容ではなく著者の経歴で部数がしばしば変わるという現実だ。
芸能人の出産・育児となると講演の依頼が来るが民草は演者に呼ばれない。では前者にわざわざお金を払って聞くほどの価値があるかというとたいてい違う。あるとすれば芸能人の講演を聞いたという満足感だ。満足とは満ち足りるを意味する。では聴衆の心をどう満たしたかというと何も見当たらない。
それでも旬の芸能人ならば興味を満たす理由は忖度できる。不可解なのは一発屋のまま懐メロ歌手へたどり着いて久しい者や今やVシネマにチョイ役という俳優でもありがたがられる点だ。
もっとも芸能人はまだ実力の世界だから責める気はない。皆が皆必死なのであろう。問題なのは肩書きや過去の栄光(露出)をかさに高説を垂れる側にいる人々である。大学教授、医師、政府の要職にある(あった)、法曹といった「ありがたい」社会的地位をありがたく思わせる側とありがたがる側。キルケゴールの言葉を借りれば「ひとは人生を享受すべきであると教えながら、そのための条件は個人の外部で見つけようとする人生観」の持ち主が威張るの図である。

大学教授はマックス・ウェーバーによれば、その職に「なるためには、ただ僥倖を待つしかない」そうだ。そう『職業としての学問』で告白した動機をウェーバーは自らそうだったからとする。僥倖すなわち「まぐれ当たり」で得られる肩書きへひれ伏すのは本来愚かしいのである。
それでもなお「僥倖」へエントリーできるレベル自体が民草より上という反論もあろう。そうかもしれないけれど、だからといって僥倖が支配しているとの事実は曲げられない。いわゆる社会的地位があり、それゆえのご託宣と民草の思索で前者が必ずしも上位にないのはネット社会で明らかになりつつある。

ある時点で永久有効の地位を得て漫然と暮らしていても、その地位があれば信じる一定数がいる以上は出版社が地位を記号として使用し文章は限りなくゴーストという例はごまんとある。「あの先生すごいね。本業の激務を縫って年に何冊も書くなんて」と他愛なくだまされてはいけない。その疑問へ素直になるべきだ。書けるはずがないという疑問に。新聞の論壇は肩書きを確認してから読んではいけない。予断が生じるからだ。
ストレートな記号でなく過程を「外部」で披露して地位に似たものを創造するパターンもある。例えばヤンキー先生というのがいる。ヤンキーだったのに先生へ転身した。立派だと思う。だが「ヤンキーじゃなかった先生」より立派な理由はない。「元極妻の弁護士」も「元極妻じゃなかった女性弁護士」より偉大ではない。
やや中島義道的な見方をすればヤンキー先生とヤンキーじゃなかった先生は結局同じ。むしろヤンキーを続けて85歳まで生き抜いて老衰で死んだとの人生の方がよほどすごいはずである。
月刊『記録』および私個人はそうした「無名」の声こそ尊いと信じている。僥倖で地位をつかんで久しくスタッフのスピーチライターが書いた可もなく不可もない論説よりホームレスのホラ話の方がよほど残しておく価値があるはずだ。

前出のキルケゴールは自ら「大地震」と名づけた私生活の不幸を抱えたまま30になる頃から次々と著作を発表し、当時の論壇を席巻した。その多くは罵詈雑言であった。今度小社から発売する小林高子著『あの頃』の内容もまた高校中退に始まって彼の死やレイプ事件など身に起きたレベルとしては「大地震」である。彼女はある日突然それらをまとめて世に問いたいと意を決した。
シンナーでふらついたり気ままな恋愛に走ったりと到底ほめられた内容でない事実も満載である。しかもその大半がニュースではない。普通の少女から大人になる過程で誰にでもとはいわぬまでも起きておかしくない出来事ばかりである。文章も稚拙であるかもしれない。
しかし私は出そうと思った。小林高子当人が赤裸々に反発覚悟でさらけ出す覚悟があったというのも大きいが、より引きつけられたのは彼女が現在「何様」でもないという点である。「こんなお痛もしたけれど今は弁護士」といったカタルシスがない。ないをもってよしとしたのだ。
社会的地位を得た者の回想はわざとらしい。「お痛」でさえ今日の成功への何かへつながる。本当はそうではなかったのに成功という立ち位置から過去を再構成してしまうのだ。その点で「何様」でもない人の回想はリアルである。しかも実名・顔出しでいいという。何でもないアンタがしょうもない昔話を出版して何の意味があるのかとの批判が聞こえてきそうだ。そこが私の決断をうながした。「何の意味があるのか」を知りたいという好奇心が勝ったのだ。

『あの頃』には「そして弁護士になった」といった水戸黄門の印籠は出てこない。水戸黄門すら現れない。でも大半の人の人生に印籠はないのではないか。もがいてもがいてもがいているの連続。そこから得た教訓も次の大波には通用せずまたもがく。水戸黄門かと信じた人物がニセ黄門だったり、自身も黄門様に助けてもらえるいたいけな少女でもなく、むしろ半分は黄門様から罰せられるような小悪党の部分を秘する。そんな生き方を隠し立てせず公にしてほしい。小林高子の作品へ願ったことである。
6・3・3・4制を曲がりなりにも通り抜け、就職らしきを果たし、結婚・出産・育児も経験する。そんな人生もむろんすばらしい。少なくとも肩書き屋よりは美しい。でもそうした時計の論理にしたがえなかった生き方は醜いだろうか。すべては気高き読者の判断を待つしかない(編集長)

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