ルポ・普天間飛行場周辺の住民に基地について聞く
その内容のひとつに、去年大々的に取沙汰された宜野湾市にある普天間飛行場の移設がある。合意では飛行場を2014年までに、名護市の辺野古沖に移設することが目標として定められている。
基地と近隣住宅地との距離があまりにも近いことから「世界一危険な基地」とも言われるこの飛行場をめぐっては、これまでにも基地の移転がなされるかと思いきや実現しなかった経緯がある。
95年には米兵による少女暴行事件をきっかけとして大規模な基地返還運動が起こった。それがきっかけで発足した日米特別行動委員会(SACO)の最終報告では5~7年のうちに基地は返還されると決定されながらも、事実上、実行されないまま破綻してしまった。04年に米軍のヘリが沖縄国際大学に墜落し、さらに事後の米軍による地元警察締め出し問題もからんで大きなニュースとなったのもこの普天間飛行場のヘリである。
去年、官房長官を務めていた頃の安倍首相は、飛行場の移転について「地元との合意が得られればいいが、日米政府間で協議していることでもあり、協議が合えばそれが最終合意になる」と述べている。
このコメントからも、政府の立場としては地元である沖縄の意向を視野に入れずに決定されることは十分にありうるとの意思は示されていた。06年の決定を覆すような大きな決定はないかぎりは基地は辺野古に移されることとなる。
ただ、地元・沖縄の「頭ごなし」の決定に基地負担の軽減を願う沖縄が黙っているはずもなく、前稲嶺知事は05年から計画として持ち上がっている「辺野古沖V字形滑走路案」をめぐって政府には「容認せず」の姿勢をとってきた。
アメリカと日本政府、そして地元沖縄の思惑が錯綜する基地移転問題について、では直近の当事者といえる基地周辺の住民はどのような意見を持っているのだろうか?
あれこれ調べるより直接聞け、である。先月(3月)、普天間飛行場周辺の住民に話を聞いてみようではないかと基地に向かった。
那覇市のバスターミナルから30~40分、宜野湾市の長田というバス停で降りる。ヘリが墜落した沖縄国際大学が間近にあるが、当然、現場には墜落後の形跡はまったく残っていなかった。バス停から歩いて住宅街を10分も歩けば普天間飛行場にたどり着く。バス停から基地の敷地を示す金網まではコンビニなどもなく眠ったように静かだが、ときおり飛行機の発着する独特の金属音のような音が空を裂いて聞こえてくる。3月とはいえやはり沖縄で、半ズボンにサンダルの子どもが見受けられた。
基地の金網までたどり着くと、そこが米軍基地であることを示すプレートが備え付けられてあった。
「US MARINE CORPS FACILITY 米軍海兵隊施設 無断で立入ることはできません 違反者は日本の法律に従って罰せられる」
日本語の最後の部分の語調が「罰せられます」ではなく「罰せられる」であるあたりに、なにかただならぬものを感じてしまった。スキあらば金網の中に入ってウロウロしてみようと思ったが、罰せられるのはイヤなので計画は中止となった。
たしかに、基地と民間住居とのスペースはあって無きがごとしである。写真のように金網のすぐそばで遊ぶ子どもがいた。キィィィン、という飛行機発着の音が聞こえてきても平然として動じる様子もない。基地には2800mの滑走路があり、5平方キロメートルと広大な敷地を有している。これは宜野湾市の面積の4分の1にあたる。
金網のすぐ近くに訓練場があるわけではなく、視界の手前には倉庫のような建物が並んでいた。高い場所から基地を見ると、滑走路といくつかの建物の向こうに海が見えた。■後編につづく■(宮崎)
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