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2006年12月25日 (月)

上野・万年町のスラムがあった地で

Uu  上野駅の浅草口から駅の外に歩き出すと、大きなロータリーに出た。ロータリーに立体式の歩道橋があったのでそれに上った。左の写真はそこから浅草通りを撮ったものだ。ひたすらまっすぐ写真の奥へ伸びている道路を進めば浅草にたどり着く。上のあたりに写っている高架道路は首都高速1号線だ。
 この写真を見せて、これがかつて万年町だった場所だ、と教えてあげたら松原岩五郎は腰を抜かしてしまうだろう。
 1892年(明治25年)、浮浪者に変装した『国民新聞』の記者、松原岩五郎はこの場所にいた。今から110年以上も前、チョー昔である。松原はレポートで当時のこのあたりの風景について「蒸気客車をびっしり連ねたような」長屋・木賃宿の大集落が広がっていたと書いている。松原が変装していた理由は、松原がチキンだったため変装なしではキチン宿に入れなかった、というのはウソで、万年町の木賃宿に潜入し、スラムで暮らす人々の生活を取材するためだった。今ではこのあたりは東上野、または北上野という地名になっているが、当時は万年町という地名であり、四谷鮫ヵ橋、芝新網町と合わせて東京・明治中期の3大スラムと呼ばれていた。
 紀田順一郎の『東京の下層社会』によると、3大スラムが形成された理由について、四谷鮫ヵ橋近くには陸軍士官学校が、芝新網町近くには海軍兵学校があり、そこから出る安定供給の残飯があったからだとしている。しかし、万年町の場合はその2つとは違った。上野が当時「市中随一の繁華街」であったことに加え、上野駅に隣接する交通の拠点という場所の性格から、車夫を主とする労働者や乞食を客とする木賃宿がこのあたり一帯を占めたのだという。東京市社会局の調査によると、その数は360件に上ったという。ものすごい数なのである。

 今、浅草通りや万年町だったあたりをざっと歩いてみても、当時の面影はない、というかあるわけがない。繰り返すけど、明治半ばの話なのだ。
 こぢんまりとしているが、いかにも昔からそこにあるような米屋を見つけた。もと万年町があった場所からほど近い稲荷町にある店だ。店にいた40歳前後くらいに見える男性によると、建物自体は40年くらい前からある店とのこと。
「うーん、万年町にスラム……。聞いたことはないね……。上野駅のまわりに山があって、それを削って川を埋め立てたとか、そういう話は聞いたことがあるけど、スラムとかそういう話は聞いたことがない。山谷、じゃないんでしょ?」
 店の奥にあるふすまが5センチほど開いて、文字通り雪のような白髪のお婆さんがこっちの様子をじっと伺っている。80は超えてるように見受けられたから、ぜひ話を聞きたいところだったが、しばらくしてパタリと障子を閉めてしまった。
 長い間住んでいる米屋の男性でもスラムについては知らない。他に何人かにあたってみるが、特に情報ナシ。しかし、あまりにも昔の話だからそれでも不思議なことではない……と思っていた矢先、こんな話を聞いた。話の主は下谷神社の職員さんである。齢50前後とお見受けした。
「万年町っていう地名だったころのこと、少しは覚えてるよ。100年以上も昔、スラムだったかどうかとか、詳しいことは分からない。でも、30年前か40年ほど前、そういう雰囲気は少しあったよ」。
 これには驚いた。本で読んだだけの私の認識では、万年町のスラムは1923年(大正12)の関東大震災、そして直後の不良住宅改良政策の一連の流れで消滅したものだとされてたからだ。それが、わずか30~40年前にも“そういう雰囲気”が残っていたのだという。
“そういう雰囲気”とはどんな雰囲気なのか? 戦後しばらく経って後も、そこには“そういう雰囲気”が残っていたのか? (次回に続く)(宮崎)

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