郵政復党組も床次竹二郎に比べれば…
散々騒がせた郵政造反議員の復党問題だが、ふと床次竹二郎を思い出した。くっついたり離れたりといえばこの人、という人は数知れずいる。ことに自民党は公認候補の立っている選挙区に無所属で立候補して当選すると(自民候補は落選)選挙後に「追加公認」されて自民党議員になるなどざらにある。
派閥はどの世界にもあるが派閥の事務所まで会社の内外に抱える人は企業ではまずいない。総裁が派閥を解散するとか解消するととなえると新聞などの記載・呼称は「旧○○派」となる。解消したのだから旧も新もなくなくなったのだと突っ込みを当の総裁さえ文句をつけないのは空念仏と最初からわかっているからだろう。
とはいえ床次は別格だ。1900年に伊藤博文が創設した立憲政友会は40年に解党するまで政権の一翼であり続けた。結成以来の党実力者だった原敬が首相になったのは18年。しかし21年に暗殺されてしまう。すでに大臣経験を積んでいた床次は「原の後」を狙って24年に成立した清浦奎吾内閣と同調して離党、政友本党を作った。自分としては「王手」のつもりだったらしい。
ところが国民は床次と党内対立していた高橋是清ら残留組と、憲政会、立憲国民党が提携した「反清浦」の第二次護憲運動を支持して護憲三派内閣結成となり、床次政友本党は一転して野に追われ権力から遠ざかった。その後も無節操に古巣の政友会と連携して、護憲三派を受け継いだ憲政会政権に対抗しようとするも、さすがに政友会も「政権亡者」床次を警戒して受け入れるには至らなかった。
27年、若槻礼次郎憲政会内閣はライバル政友会の攻勢に手を焼く。そこで床次に「若槻の次は……」とにおわせると、コロッと態度を変えて床次は一挙に「憲本連盟」を実現させる。当時起きていた金融恐慌の処理に行き詰まった若槻は結局政権を投げ出し、さあ次はオレだと腕まくりしたのはいいが、大命はライバル政友会の田中義一に下ってしまった。
それでもあきらめない床次は同年6月に憲政会と合併して立憲民政党を創設した。しかし民政党の若槻および浜口雄幸といった実力者と外交とくに中国政策の意見が合わないとして28年に離党し翌年、ついに政友会に「復党」した。この年に政友会総裁に就任した犬養毅は高齢で今度は大胆にも「木堂の後」を狙ったようだ。
犬養内閣は32年の5.15事件で首相暗殺の形で倒れた。さあ今度こそ! ところがここでも政友会のライバル鈴木喜三郎と暗闘を続ける醜態を演じ、それもあってか西園寺公望は政党政治にあきれて斎藤実海軍大将を首班に推す。
続く岡田啓介内閣も海軍出身者だった。岡田は政党無視はよくないと政友会に入閣を申し込んだが鈴木喜三郎総裁は拒絶する。ところが「遊泳」の天才? 床次は総裁の意を知った上で逓信大臣として入閣。「犬猿の仲が裏切った」というわかりやすすぎる構図で鈴木は床次を除名とした。
「ところが」の多い文章となった。床次自身が「ところが」な人なのだ。1手1手は策士の風情もあるがことごとく外れる。人は生きてこそ、である。何かの例えとしても「亡者」を冠されたらお仕舞いだ。(編集長)
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