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2006年12月

2006年12月31日 (日)

年末年始につき

【お知らせ】

 どうも、宮崎です。当ブログでは31日から明けて3日まで休みを取らせていただきます。 姿の見えない読者さんに言うのもヘンな感じですが、来年もどうぞよろしくお願い致します!

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2006年12月30日 (土)

吉原泡の底番外編 今の風俗界を眺めて

 東京で三大風俗街といえば新宿・渋谷・池袋。吉原も有名だが趣が少し違う。ソープ街として名高く、店が狭い地域に密集してあるという点が特徴なのに対して、三大風俗街は看板を取りつけられない形での営業スタイル、“ホテル型ヘルス”が主になる。

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 風俗の王道と呼ばれるのがソープランドで、ソープ遊びに必要な料金は安くても2~3万はかかり、高いと10万を超える。無店舗型ヘルスは1万くらいからでも遊べるので、気軽に利用する人も多い。そして、そうした気軽な店が1番広がっているのが池袋なのだ。

 そんな池袋だが、今年6月に施行された都条例により、風俗無料案内所は大打撃を受けた。あの手この手で派手に案内をして客を送っていたのだが、客自体が激減したのだ。メディアが大きく取り上げ、案内所に行くことが犯罪行為であると勘違いする人が増えた。声高々に性風俗激減を謳う石原都知事の効果もあり、「記録7月号」に載っている池袋の案内所は、200612月現在潰れてなくなった。

 都知事のお膝元である歌舞伎町は、風俗店も減り、歩く人は中国人の団体ツアー客が多く、風俗目当ての客は少なくなった。これに平行して、吉原の150軒以上あるソープ店を半分にまで減らそうというのも、都知事の目指しているところなのだ。さらに本番系激安店で活気があった西川口。西川口流という流行語まで生れた場所は、もはや案内所など必要ない街になった。

 潰れた池袋の無料風俗案内所の昼間の責任者は僕だった。あまりにも客が来ないので、椅子に座っているといつのまにか寝てしまう。客が来ないから、クライアント(風俗店)からパソコンに店をアップしてくださいという注文も来ない。紹介している店が少ないから、さらに客も来ない、来てもすぐに帰る。悪循環が続いたのだ。

 存続している案内所も油断禁物だ。未来は険しい。少ない客をどう掴むか、それが風俗サバイバル時代を生きる人達の最大の課題になっている。池袋という大繁華街でも客離れに苦しんでいる。この苦しい時をどう乗り越えるか、風俗の男達はじっと今後のゆくえを見守り耐えるしかない。 

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2006年12月29日 (金)

『恋空』はまったく新しいツールか!?

 ツライ、あまりにもツライ!
 仕事上、読まざるを得ない『恋空』(美嘉 著 スターツ出版)のことである。版元であるスターツ出版のリリースによれば、元々は「ケータイ小説」として1000万人の読者を獲得した作品だという。上・下巻あわせて30万部を刷ると5日間で15万部を売り切り、急遽60万部の重版を決定。その後も刷り増し100万部の大台にのった大ヒット書籍である。

 しかし私にはツラかった。
 書店で買った時から危ないと思っていたのだ。レジで『恋空』を差し出した時、「カバーおかけになりますか」と尋ねた書店員が、私の答えを聞かずにカバーを取り出そうとしたし。「オヤジの読む本じゃないから恥ずかしいでしょ? やっぱり」と言われたような気がした。実際、恥ずかしいから早くカバーをかけてくれと思ったし……。
 正直、書店でエロ本買うより緊張しました。

 で、問題はなぜツライか、である。
 とにかく次々へといろいろなことが起こるのだが、主人公の心境の変化についていけないのだ。なんで、こんなに簡単に好きになり、あっさり事件から立ち直るのか、サッパリわからん。
 しかも小説の文体とは大きく違う。例えば読み始めてしばらくは三人称の小説だと勘違いしていた。「ヒロは美嘉の肩をそっと抱き寄せ、再びほっぺに軽いキスをした」なんて書いてあるから。でも、なんか違和感が???? よく読み返してみると、自分のことを「美嘉」と名前で呼ぶ一人称の小説だった。
 
 こうした小さなトゲが読み進める力を私から奪っていくのである。
 しかし、こんな感想こそオヤジの感性なのであろう。それが証拠に下巻の売れ行きが極端に落ちたという報は聞いていない。つまり狙った読者層の多くは上巻に納得して、下巻の購入にいたったわけだ。
 しかも、この評価の違いは単なるジェネレーションギャップではない。

 この本を読んで思い出したのは、10歳ほど年下の女友達にメールを送ったとき「わかりやすいけれど、なんか胡散臭い」と笑われたことだ。2000年あたりだったと記憶している。
 私はかなりの機械音痴でコンピュータにも弱い。ただ仕事上必要だったため、ウィンドウズ96が発売される前からニフティーサーブの会員となってフォーラムを覗き、メールをやりとりしてきた。おそらく笑われた女性よりメール歴は長いはずだ。ただ、気付かないうちにメールの「常識」が変わっていたのだ。
 小心者の私は彼女にどこがヘンなのかを根掘り葉掘り聞いた。感覚的な話のため要領を得ない部分もあったが、ようは「文章が公的過ぎる」ということだった。
 話がまとまりすぎているのも、完全な口語体じゃないのもアウト。とにかくよそよそしさを感じる要素があれば、メールとしては胡散臭い代物になるのだと、このとき初めてわかった。
 結局、ニフティーで交わしていたメールは手紙の延長線上にあったのだろう。定型の中で要件を伝えるツール。それはオフィシャルな意思伝達手段だった。
 ところがメールはプライベートなツールへと変化した。源流が手紙から電話に変ったと表現すればわかりやすいだろう。発信者の息づかいが聞こえないと、文字が上滑りするのである。
 そもそもインターネットは「プライベートな感性」と相性がいい。多くの人気ブログが個人の生活をさらしていることや、議論がすぐに個人攻撃に発展してしまうことなどは、そうしたネットの性質をよく表している。

 人気ブログが相次いで出版され、さらに携帯で配信されたコンテンツが書籍化されていくなかで、書籍はかつてのメールと同じような変化を迫られているのではないか。これまでの「定型」を打ち壊し、著者の濃厚な息づかいを仲間内だけに伝達するツールへと。
 
 こうした書籍の文学的評価はともかく100万部刷ったという事実は重い。(大畑)

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2006年12月28日 (木)

小社のワーストテン

こういうのを発表する時期である。最初は「十大ニュース」にしようと考えたが「大ニュース」とのニュアンスに相当する話は1つもないので取りやめ。「ベストテン」ならばとも思ったがいいことなど何もなかったから作れず。わずかにワーストならば書けそうだ

ワースト10)小誌執筆者の塩山芳明氏の文庫が売れる
福田和也氏、佐高信氏など激賞の「蔵を持ちながら防災無線と戦うインテリエロ漫画編集者」塩山氏の文庫本が大人気を博す。それが何でワーストかというと版元が小社でないから。ああ。

ワースト9)宮崎太郎が「書けないライター」宣言をした
宮崎はライターである。ライターという英語を翻訳するのは難しい?が「書く人」あたりでよかろう。ある日、彼は「すいません」といった。代わりの記事は私が書いた。この瞬間、宮崎は「書けないライター」という前人未踏の境地に達したのであった。

ワースト8)今年も大畑太郎が単行本を出さなかった
大畑は『ホームレス自らを語る』『新・ホームレス自らを語る』『妻の恋』の3冊を小社から出している。だがいずれも共著だ。なぜ共著までで留まり続けるかわからぬままに06年も終わろうとしている。ライフワークのはずだったコソボ取材の原稿がまだ上がってこない。1行も読んでいない

ワースト7)奥津裕美の『誰も知らない靖国神社』が安倍晋三首相に阻まれた
予定通り小泉前首相は8月15日に参拝してビームはピーク。出版タイミング絶妙。勢いに乗って奥津は青森最大の地方紙『東奥日報』日曜2面の大学教授など文化人が書くコラムに最年少デビューする。後は安倍首相だ。就任以前の言動からして彼ならば前首相を上回る靖国フィーバーを起こすに違いない。もしかして特攻服を着て毎日参拝かも……との期待はみごと裏切られて靖国問題は一挙に沈静化。おかげで札束の嵐になるはずが毎度見慣れた在庫の山。同じ紙でできているのに札束と在庫は何と違うことよ

ワースト6)税務調査が入った
まあ吹けば飛ぶよな会社でも会社だから仕方ない。私の知り合いの話によると、彼は団体旅行をする際に必ず旅行会社に「税務署の方はいらっしゃいませんよね」と聞くそうな。これを見た税務署関係者様。私じゃないですからね。「私の知り合いの話」ですからね。ね!

ワースト5)ホワイトカラー・エグゼンプションを批判する記事が当ブログに書かれた
何か? それは間接的な経営者批判なのか? 確かに「わかりました」と「すいません」以外の発言は禁じているがカネは払っているはずだ。本来ならば「私の場合はただ働きで当然のところを身に余る高給をいただいている身分であるので書きにくいのだが」くらいの前置きがあってしかるべきであろう。署名記事で自分達のブログを荒らしてどうする

ワースト4)印刷屋さんの営業担当が替わった
交替はよくあることであるが、その方とは長いお付き合いだった。その間に2・3回「印刷屋人生最悪の失敗」を小社の刊行物においてなさった。ねらい打ったように小社だけで「最悪」を連発された。最悪とは1回との私の常識は単なる固定観念だったと日本語の奥深さを教えて下さった方だった。合掌……じゃあない。亡くなられてはいない

ワースト3)私の休みは1日もなかった
なのに編集部員は私がしょっちゅう休んでいると勘違いしている。いいか君達。私が社内でひっくり返っているだけでは倒産してしまうから出社していないのだ。君達こそ何をやっているんだ

ワースト2)小社発行物がすべて売れなかった
知らない方に改めてご案内申し上げるが小社は出版社である。したがって単行本も雑誌も出している。雑誌は小誌でジャンルは「総合雑誌」すなわち『改造』『世界』『文藝春秋』と同じである。よりていねいに言えばジャンルだけは同じである。単行本は常に売るつもりでいるが、最近では売れないのを覚悟で出版し続ける気骨ある版元と間違われている

ワースト1)小誌が売れなかった
身もふたもない第一位。前発行者が1979年に創刊以来、短い休刊期間を含めて通算27年間も売れない雑誌というのはすごいのではないか。よく知らないがギネスブックとやらに載せられないのか。載ったらいよいよ最期との気もするが。ギネスの方の『記録』更新に編集部一同燃え上がったりして。(編集長)

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2006年12月27日 (水)

■『記録』1月号発売!

『記録』12月号が発売。今月号のラインナップはこちら。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~astra/link/test0701.html

■今月の特集は、『現役車掌が読む福知山線事故調査報告書』!

 乗客など107人が死亡した兵庫県尼崎市のJR福知山線事故から1年8ヵ月をへて、国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会(事故調)が12月20日に「事故調査報告書」を公表した。その報告書を読み現役車掌が何を感じたのか、斎藤典雄氏に話を聞いた。
 また、特集2では、なぜか日本で毎年行われるサッカー・クラブ世界一決定戦・クラブワールドカップに迫る「まだ続けるべき? サッカー疑惑の祭典」を掲載。
『記録』は来年も走り続けます!

 

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2006年12月26日 (火)

郵政復党組も床次竹二郎に比べれば…

散々騒がせた郵政造反議員の復党問題だが、ふと床次竹二郎を思い出した。くっついたり離れたりといえばこの人、という人は数知れずいる。ことに自民党は公認候補の立っている選挙区に無所属で立候補して当選すると(自民候補は落選)選挙後に「追加公認」されて自民党議員になるなどざらにある。
派閥はどの世界にもあるが派閥の事務所まで会社の内外に抱える人は企業ではまずいない。総裁が派閥を解散するとか解消するととなえると新聞などの記載・呼称は「旧○○派」となる。解消したのだから旧も新もなくなくなったのだと突っ込みを当の総裁さえ文句をつけないのは空念仏と最初からわかっているからだろう。

とはいえ床次は別格だ。1900年に伊藤博文が創設した立憲政友会は40年に解党するまで政権の一翼であり続けた。結成以来の党実力者だった原敬が首相になったのは18年。しかし21年に暗殺されてしまう。すでに大臣経験を積んでいた床次は「原の後」を狙って24年に成立した清浦奎吾内閣と同調して離党、政友本党を作った。自分としては「王手」のつもりだったらしい。
ところが国民は床次と党内対立していた高橋是清ら残留組と、憲政会、立憲国民党が提携した「反清浦」の第二次護憲運動を支持して護憲三派内閣結成となり、床次政友本党は一転して野に追われ権力から遠ざかった。その後も無節操に古巣の政友会と連携して、護憲三派を受け継いだ憲政会政権に対抗しようとするも、さすがに政友会も「政権亡者」床次を警戒して受け入れるには至らなかった。
27年、若槻礼次郎憲政会内閣はライバル政友会の攻勢に手を焼く。そこで床次に「若槻の次は……」とにおわせると、コロッと態度を変えて床次は一挙に「憲本連盟」を実現させる。当時起きていた金融恐慌の処理に行き詰まった若槻は結局政権を投げ出し、さあ次はオレだと腕まくりしたのはいいが、大命はライバル政友会の田中義一に下ってしまった。

それでもあきらめない床次は同年6月に憲政会と合併して立憲民政党を創設した。しかし民政党の若槻および浜口雄幸といった実力者と外交とくに中国政策の意見が合わないとして28年に離党し翌年、ついに政友会に「復党」した。この年に政友会総裁に就任した犬養毅は高齢で今度は大胆にも「木堂の後」を狙ったようだ。
犬養内閣は32年の5.15事件で首相暗殺の形で倒れた。さあ今度こそ! ところがここでも政友会のライバル鈴木喜三郎と暗闘を続ける醜態を演じ、それもあってか西園寺公望は政党政治にあきれて斎藤実海軍大将を首班に推す。
続く岡田啓介内閣も海軍出身者だった。岡田は政党無視はよくないと政友会に入閣を申し込んだが鈴木喜三郎総裁は拒絶する。ところが「遊泳」の天才? 床次は総裁の意を知った上で逓信大臣として入閣。「犬猿の仲が裏切った」というわかりやすすぎる構図で鈴木は床次を除名とした。

「ところが」の多い文章となった。床次自身が「ところが」な人なのだ。1手1手は策士の風情もあるがことごとく外れる。人は生きてこそ、である。何かの例えとしても「亡者」を冠されたらお仕舞いだ。(編集長)

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2006年12月25日 (月)

上野・万年町のスラムがあった地で

Uu  上野駅の浅草口から駅の外に歩き出すと、大きなロータリーに出た。ロータリーに立体式の歩道橋があったのでそれに上った。左の写真はそこから浅草通りを撮ったものだ。ひたすらまっすぐ写真の奥へ伸びている道路を進めば浅草にたどり着く。上のあたりに写っている高架道路は首都高速1号線だ。
 この写真を見せて、これがかつて万年町だった場所だ、と教えてあげたら松原岩五郎は腰を抜かしてしまうだろう。
 1892年(明治25年)、浮浪者に変装した『国民新聞』の記者、松原岩五郎はこの場所にいた。今から110年以上も前、チョー昔である。松原はレポートで当時のこのあたりの風景について「蒸気客車をびっしり連ねたような」長屋・木賃宿の大集落が広がっていたと書いている。松原が変装していた理由は、松原がチキンだったため変装なしではキチン宿に入れなかった、というのはウソで、万年町の木賃宿に潜入し、スラムで暮らす人々の生活を取材するためだった。今ではこのあたりは東上野、または北上野という地名になっているが、当時は万年町という地名であり、四谷鮫ヵ橋、芝新網町と合わせて東京・明治中期の3大スラムと呼ばれていた。
 紀田順一郎の『東京の下層社会』によると、3大スラムが形成された理由について、四谷鮫ヵ橋近くには陸軍士官学校が、芝新網町近くには海軍兵学校があり、そこから出る安定供給の残飯があったからだとしている。しかし、万年町の場合はその2つとは違った。上野が当時「市中随一の繁華街」であったことに加え、上野駅に隣接する交通の拠点という場所の性格から、車夫を主とする労働者や乞食を客とする木賃宿がこのあたり一帯を占めたのだという。東京市社会局の調査によると、その数は360件に上ったという。ものすごい数なのである。

 今、浅草通りや万年町だったあたりをざっと歩いてみても、当時の面影はない、というかあるわけがない。繰り返すけど、明治半ばの話なのだ。
 こぢんまりとしているが、いかにも昔からそこにあるような米屋を見つけた。もと万年町があった場所からほど近い稲荷町にある店だ。店にいた40歳前後くらいに見える男性によると、建物自体は40年くらい前からある店とのこと。
「うーん、万年町にスラム……。聞いたことはないね……。上野駅のまわりに山があって、それを削って川を埋め立てたとか、そういう話は聞いたことがあるけど、スラムとかそういう話は聞いたことがない。山谷、じゃないんでしょ?」
 店の奥にあるふすまが5センチほど開いて、文字通り雪のような白髪のお婆さんがこっちの様子をじっと伺っている。80は超えてるように見受けられたから、ぜひ話を聞きたいところだったが、しばらくしてパタリと障子を閉めてしまった。
 長い間住んでいる米屋の男性でもスラムについては知らない。他に何人かにあたってみるが、特に情報ナシ。しかし、あまりにも昔の話だからそれでも不思議なことではない……と思っていた矢先、こんな話を聞いた。話の主は下谷神社の職員さんである。齢50前後とお見受けした。
「万年町っていう地名だったころのこと、少しは覚えてるよ。100年以上も昔、スラムだったかどうかとか、詳しいことは分からない。でも、30年前か40年ほど前、そういう雰囲気は少しあったよ」。
 これには驚いた。本で読んだだけの私の認識では、万年町のスラムは1923年(大正12)の関東大震災、そして直後の不良住宅改良政策の一連の流れで消滅したものだとされてたからだ。それが、わずか30~40年前にも“そういう雰囲気”が残っていたのだという。
“そういう雰囲気”とはどんな雰囲気なのか? 戦後しばらく経って後も、そこには“そういう雰囲気”が残っていたのか? (次回に続く)(宮崎)

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2006年12月24日 (日)

香港雑記

香港に来てから常々感じること。「金はころがせ」。あまりいい言葉ではないが、資産を億単位で増やしたい場合はやはり転がさなければ不可能なんだということを、香港で感じた。お金にどん欲であることがさらなる金を生み出し、金のあるところにさらにお金が集まる。とてもわかりやすい例をここ香港で身近に感じることができる。一旗揚げたい!と思っている方がいたら、この大きなビジネスチャンスが転がっている(裏を返せば失敗したら一文無しでもある)香港はとてもおもしろいところなのではないかな・・・と思った今日この頃。(奥津裕美)

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2006年12月23日 (土)

『吉原 泡の園』 連載第7回 ボーイたちとの付き合いの始まり

 その当時、僕は分厚い財布を持っていた。ネクタイにYシャツ、それにズボンだと、財布をお尻のポケットに入れると目立つし、邪魔になる。店長はそんな僕の財布を見て、
「100万くらい入っているのか」
 などと聞いてきた。
「いいえ、まさか」
 などと僕がいうと、
「なら財布は持ってくるな」
 となった。ボーイはとにかく動くのが仕事だから、落としたり、邪魔になるからだそうだ。
 また、初日に分かった事だが、下っ端ボーイは、基本的に服、および靴下は黒。だそうだ。理由は簡単明快。
 幹部よりも目立つ格好、かっこいい持ち物はタブーだからだ。つまり、幼執なところがあるのだ。
 僕は財布のほかに、少し派手なめがねと、坊主頭を指摘された。
 極めつけは店長の、
「いいか、ソープランドで働けば、もしかしたら万にひとつでもおいしい思いができるかも、などとは思うなよ。花魁は商品だ。つまり、従業員が商品に手を出すとは、いけねえわな」
 などと説明だった。
 0時、一応店の看板を消し、1日の表向きの営業は終わる。
 0時になるが、何をやっていいか分からない僕は、いわれるまま動き、そしてどうにか店は閉店できた。
 0時すぎると、ボーイは上がりのお客さん待ちと、おんなの子が帰るのを待つ。まずはそれからなのだが、待っている間。マネジャーは表で誰かと電話しているし、Eさんなどは第一待合室でテレビを見ていたりする。
 店長は、僕に食費の2000円を渡し、自宅マンションに帰った。
 食費の2000円は確かにもらえる約束であった。が、もらえたことに先輩方が驚いていた。
 Tさん、Eちゃんさん、Eさん、やさしく手伝ってやれなくてごめん、といってくれた先輩。が、あがりまちのためテレビをみていた。僕も初日ながら、混ぜていただいた。
「どうイッセイ」
などと、初日の感想を聞いてくる人、同じ寮部屋になれなかったな、などと言ってくる人、むっつりしている人、いろんなタイプがボーイにもいるんだなあ、と感じていた。
 僕は英語に興味を抱いていること、そのために、英会話教室との契約をしたことをEさんに話した。するといとも簡単にあっさりと。
「あっそれ無理、そんな時間ないよ、覚えてもらうこともいっぱいあるし」
 僕の英会話教室はそこで潰えた。
 それにしてもEさんはタフな人だな、僕はそう思っていた。自分がEさんの立場で、あんなに怒鳴られたら、気が狂うだろうに。
 が、Eさんがボソッと言った。
「客の前で怒鳴ったらだめなんだ。俺も、本気で熱くなったら、もうこの店こないよ」
聞けば、Eさん、元ヤクザで、近くのマンションから通っているらしい。しかも、奥さんもいれば、一人娘の中学生もいるらしい。
 Rグループのナンバー2の人物が、ボーイとしての経験年数の長さに惚れて、スカウトされて、今のR店にきたのだという。
 客のあがり、部屋の掃除、女の子の対応など、初日で何も知らない僕は、ただ先輩の動きをみていた。
 一通り終わり、僕達ボーイとマネジャーだけが店に残っていた。
「ご苦労さんな、明日もよろしくな、んでな、今日から入ったイッセイだ、おめえ、何か言え」
と最後の立ったままの反省会のようなもので話をふられた。
「今日から働くイッセイです。先輩方の足を引っ張らぬよう、一生懸命がんばりますのでよろしくお願いします」
 僕がそう言うと、マネジャーが震えるくらい喜んでくれた。
「オッメーいいとこあんじゃん」
そして
「いいか、みんな。こいつはまだ仕事はできねえが、いいとこあっからよ」
 意外な言葉に感動して僕が驚いたのだった。こうして食費2000円をいただき、その後近くの焼肉屋で、初日と言うこともあり、マネジャーがおごってくれた。僕とTさんと3人の宴。が、Tさんの顔色が悪い。
 それにマネジャーもTさんにはなんだか冷たく感じた。知らぬが仏。この世界にいると、諺の真の意味を理解することが、往々にしてあるのであった。(イッセイ遊児)

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2006年12月22日 (金)

イブのフレンチとイタリアンなど絶対行くな!

 今年もクリスマスが迫ってきた。
 じつはレストランで食事するのが唯一の趣味なのだが、この時期のイタリア料理とフランス料理のディナーだけは絶対に食べない。浮き輪のようにぶら下がる腹の肉を揺らし、とにかく長い“食べ物ウンチク”が食べてる間中しゃべり続けるから、この時期わざわざ一緒に食事してくれる女性がいないのも道理ではある。そのこと自体は非常に悔しい! 
 しかし、そんな個人的な事情を別にしてもクリスマスシーズンのディナーは行きたくない。

 まず値段が倍近くに跳ね上がる。クリスマス特別メニューとかいうやつだ。通常5000円前後に設定されている前菜とメインが選べるプリフィックスコースがなくなり、選択肢のない1万円程度のコースしかなくなる。そのうえひどいレストランになると、2回、3回と客を入れ替えるんですぜ! 5時半~11時半の間に。いくらメニューが固定で、作るのもサーブするのも早くなるとはいえ、通常の倍の値段で席にいる時間が半分って許せなくないか!?
 カップルで行って、1万円のコースを食べたとしよう。コース2人分で2万円。とりあえず乾杯だからとシャンパンが1500円×2。「せっかくのクリスマスの記憶がなくなるのも困るもんね」とか食事相手を牽制してハーフボトルのワインを頼んで5000円。それにサービスが10%。これに消費税が加わって、合計3万2340円! ボリ過ぎだろ。

 で、なんでこんな状況になってしまったのかを考えてみた。

 クリスマスの過ごし方の変化を敏感に捉えたのは松任谷由実。1980年12月、彼女は「恋人がサンタクロース」を発表する。このあたりからクリスマスは家族や会社の仲間と過ごすのではなく、恋人と過ごすものだという認識が広がっていくのだ。
 83年の『anan』の林真理子のエッセイには「もう十何年来一人でイヴを過ごしているんだから、ずっとそうョ。イヴの日にプレゼントもらったことないし、男と二人っきりで過ごしたことなんて、一度もないもの」と書いている。当時、若者に最も人気があるエッセイストだった彼女が、ここまでイブに恋人と過ごすことこだわっていたのだから、クリスマスと恋人が83年の段階で密接に結びついていたことは間違いないだろう。
 さらに83年12月の『anan』は「クリスマスの朝はルームサービスで」という特集を組んでいる。つまり83年の段階でクリスマスは恋人とホテルに泊まるのが、一部で流行り始めていたわけだ。キィー!

 こうした流れを引き継ぎ、86年11月から始まったバブル経済がクリスマスの「商品価値」を押し上げていく。クリスマスにかこつければ、高額商品がどんどん売れていくのだから。88年のクリスマスには三越本店のティファニーに彼女へのプレゼントを買う列が確認されている。その年の同ブランドの売り上げはなんと40億円。90年に入ると、イタ飯(イタリア料理)・ティファニー・高級ホテルをワンセットにして彼女に差し出すのが当たり前になっていく。
 80年代後半からのイタ飯ブームがクリスマスとうまく結びついたわけだ。実際、90年12月5日号の『nonno』の「欲しいプレゼント」を女の子にたずねたアンケートによれば、「イタリア料理のディナー」が第8位にランクされている。
 しかも、このバブル期のクリスマスにカップルを取り込んだのはイタリア料理だけではなかった。ホテルにあるフランス料理店もクリスマスディナーを企画し、宿泊するカップルを客として取り込んでいったのである。
 しかもフランス料理と下心はじつに相性がいいんだ、これが。
 晩餐館などで供されることが多いことからもわかる通り、もともとフランス料理はゴージャスだ。じつは日本のフランス料理の多くは、こうしたゴージャス感だけを提供してきた。日本のワインでは甘すぎて料理酒に向かないが、本場のワインだと高すぎて使えない。ソースに絶対に必要なエシャロットが手に入らない。そんな状況でも戦後数十年にわたり、多くのホテルが冠婚葬祭用にフランス料理を提供してきたのだから。おかげで美味しいフランス料理を食べたことないという人も少なくない。

 味はともかく、場を整える。あらゆる思惑が入り乱れるなか整然と食事を進行させる。こうした機能を日本のフランス料理店は持っていたのである。ホテルなだれ込むことしか頭にないカップルに、これほど適した食事はあるまい。
 クリスマスのスペシャルメニューを作ることで、客が料理を選ぶ手間もなくなり、特別の料理だと勘違いさせることができるようになった。ホテルへの「助走」として扱いやすさを望む客と、大量に客をさばいて儲けたい店との思惑がここで一致する。

 行けるか~! こんな時期のレストランに!!

 ちなみに12月24日にどうしてもイタリアンやフレンチが食べたいなら、ランチをお薦めする。通常の料金で、しかもいつも以上にゆっくりと食べられることが多い。戦の始まるのは夜に備え、肩の力を抜いたレストランの雰囲気がけっこう心地よかったりする。(大畑)

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2006年12月20日 (水)

キックボクサー武田に憧れると貧乏に???

Syasin ●ラストサムライ―片目のチャンピオン武田幸三―(角川書店)

 ムエタイ世界王者に日本人がなるのは容易なことではない。立ち技世界最強ともいわれ、日本人では過去3人しか王者についていないのだから。その元日本人チャンピオンが片目で王者を奪取したのを告白となれば、詳細が知りたくなるのも当然。つまり「片目のチャンピオン武田幸三」という副題にまんまとつられてしまったわけだ。

 で、この武田選手の人生が絵に描いたような格闘家である。幼少の時代から貧困に苦しみ、高校・大学で所属したラグビー部では筋を通す性格から先輩にいじめられ、それに耐え続けたもののK-1を見て格闘家で身を立てるべくキックボクシングのジムに入門。リング外では紳士で、自身が出場する試合の彼から買ってくれた人には必ず手紙なんてエピソードも紹介されている。
 そういう意味では、壮絶な人生だが予想外を裏切らない展開でもある。正直、これには著者も困ったかもしれない。沢木耕太郎が描いたカシアス内藤ではないが、格闘家を描くならちょっと怠け者ぐらいの方が面白い。ストイックな競技をストイックに追いつめている人生は読んでいると息苦しくなってしまうから。
 それでも最後まで読んでしまうのは、その尋常ではない不器用な生き様に憧れるからだろう。小器用に生ききちまったが、俺だって本当は不器用で真摯な生き様を見せたいんだぜー!、てな気持ちが読んでいるとムクムクとわき上がってくる。体育会系が嫌いな文学部出身者なのに……。

 愚直に前に突き進む攻撃の効率の悪さは理解してはいる。「前へ」を合い言葉にフォワードでの突進を試みる明大ラグビー部の衰退を見ても、日露戦争における203高地の闘いを思い出しても。それなのに、それなのに、である。きっと武田選手の試合がテレビ放映されたら応援してしまうんだろうなー。

 ちなみにこの本の後に読んだ『斎藤一人の絶対成功する千回の法則 』(講談社)には、スポーツは別にして「努力すればするほど失敗する」と書かれていた。やっぱり金持ちになりたいなら愚直に努力するのはダメなんでしょうな。

 努力嫌いなのに愚直に努力する人が好きという私では、そう簡単に金持ちになれないだろうと、この2冊を読んで思ったのでした。(大畑)

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2006年12月19日 (火)

防衛省昇格と防衛施設庁の「特権意識」

防衛庁の省昇格に暗い影を投げかけたのが防衛施設庁の不祥事だった。06年1月、防衛施設庁舎新設空調工事などを巡る競売入札妨害(談合)容疑で同庁ナンバースリーだった生沢守元技術審議官ら3人を東京地検特捜部が逮捕した。退職後のOBが天下った企業に便宜をはかった「官製談合」とみられ、7月に東京地裁は生沢被告に懲役1年6月の実刑判決を言い渡した。
この過程で額賀福志郎防衛庁長官は逮捕後に施設庁解体を明言、07年度には実行されて防衛省に吸収される見込みだ。

この防衛施設庁とは不思議な役所である。「防衛庁に置かれる機関」とあるが防衛庁自体が外局なので事実上「外局の外局」である。在日米軍や自衛隊の施設用地を調達したり、そこに建物を造ったり、その管理をしたり騒音などの周辺対策も担う。
役割から想像して何で今まで防衛庁と一緒になっていなかったのか「外局の外局」という不自然な形にしてまで独立を保ったのはなぜか不思議である。どうやらその理由は形式こそ防衛庁の外局的存在だが、歴史的には施設庁の方が先輩との経緯が大きいようだ。

施設庁の前身は1947年の特別調達庁(後に調達庁)設立にさかのぼる。当時は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の求める資材などの調達を任務とし、旧日本軍施設などで似た任務に当たっていた運輸省や大蔵省(当時)の職員などが加わった。サンフランシスコ講和条約が発効した52年に保安隊が発足してからは、その施設に関して現在と同じような役割をも果たすようになった。
54年の自衛隊創設にともなって新設された防衛庁は今の施設庁が果たす任務を担う部局として建設本部を置いたが、自衛隊とはそもそも保安隊の後身だから調達庁の役割と思い切り重なる。ならばここで合併すればよかったが、防衛庁は逆に建設本部を切り離して調達庁に譲り、62年の防衛施設庁誕生となる。

施設庁解体に言及した額賀防衛庁長官は06年2月1日の参議院予算委員会での質疑で「今の施設庁というのは、占領軍時代のそもそも特別調達庁として発足をいたしました。したがって、米軍の仕事を直接的に引き受けたものですから、その施設庁の前身の皆さん方はある意味では特権意識を持ち、あるいは人事交流でも非常に排他的であって本庁との交流がなかった。そういう中にやっぱりこういう不正を生み出す温床があった」との見解を示した。
したがって防衛省への施設庁統合は「不正を生み出す」「特権意識」をつぶす効果があると評価できる一方で、そうした組織を何となく統合してしまっては新省内で次第に息を吹き返しかねないと「焼け太り」を批判する声もある。
いずれにせよ21世紀となっても終戦直後の権力者だったGHQのお仕事を担ったという約60年前の出来事と、54年の防衛庁より47年創設の施設庁の方が先輩だという「特権意識」として脈々と受け継がれていたのは驚くべき現象である。それが「不正を生み出す温床」だったとしたらなおさらだ。(編集長)

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2006年12月18日 (月)

全体像に迫る。ミニコミとは何か? (後編)

 さて、ミニコミ誌の起源についてだが、何かの媒体で「ミニコミは運動の中から生まれた」というふうに書かれてあるのを目にした人もいるかもしれない。
『ミニコミ総目録』で記述されている内容に従えば、それは60年7月に創刊された『声なき声のたより』であるようだ。
 60年の6月、当時の総理・岸信介は、日米安保反対を叫び国会議事堂を囲む大勢の市民に対し「運動に屈すれば日本の民主政治は守れない。私は国民の“声なき声”に耳を傾ける」と発言。『声なき声のたより』発行の中心となった小林トミという女性は、「ここで声を上げなければ、私も安保を支持する“声”として見なされてしまう」と思い、デモを決行した。デモ全体としては、第16次安保阻止国民議会の統一行動の日にはなんと17万人が参加している。
 しかし、この規模のデモにおいても、政党や労組が組織となって運動する形態が多く、個人の意志としてのデモは一般的ではなかった。つまり、どこにも属することなく自由に参加できる、という空気ではなかった。
 それでも小林と友人は「誰デモ入れる声なき声の会」という独自の横断幕を作り、自由に参加できるデモを掲げた。小林のデモの輪は広がり、300人以上にまで達した。『声なき声のたより』は、そんな中、仲間を結びつけるネットワークのツールとして誕生した。もともと同じ場所から集まった者同士というわけではなかったから、意志を結びつけるメディアを作ることが必要とされたのだ。
 茨城県土浦市で生まれ、千葉県浦安市で育った小林トミは東京芸大を卒業し、「声なき声の会」を作った当時はアトリエで絵を教える画家だった。『声なき声のたより』の表紙の絵は最後まで小林が描いたものだった。後年には児童文学も手がけていたが、2003年に亡くなっている。
 どんどん前に立って統率するタイプだったのかな、と思ったがそうではないようで、初めて横断幕を掲げて友人と歩いたときはとにかく恥ずかしかった、と「声なき声のたより」の創刊号で自らの行動について振り返っている。「声なき声のたより」はミニコミの原型として小林が亡くなるまで、98号を数えた。

『ミニコミ総目録』データによると、最もミニコミが多く創刊それたのは88年ということだ。84年あたりまでは年間100点前後で推移していたのだが、86年からいきなり200点近くに跳ね上がる。なぜ創刊数が急増したのだろうか? 目録の記述によると、86年2月に起こったチェルノブイリ原発事故が、直接的にも間接的にも、ミニコミの創刊ラッシュにつながったのだという。
 前代未聞の原発大事故に人々は驚愕し、原発はもちろん、原発から結びつくような健康・環境問題・食といった内容がクローズアップされた。遠く海の向こうで起こった大惨事が、日本人の問題意識を刺激したということだろう。

 さて、先週にはミニコミを手に入れることのできる書店をいくつか挙げたが、さすがにそれらの書店もバックナンバーまでは置いていない。今はもう発行されていないものやバックナンバーを手に入れようとするなら、求める先は埼玉大学の共生社会研究センターしかないのではないか。
 丸山尚氏を中心に少人数体制で1976年から存続してきた住民図書館が財政難という決定的な理由で閉館を余儀なくされた。その後、01年に住民図書館の役割を引き継いだのは国立大学だった。当時、よりによって国立大学に引き継がせるのかという議論も少なからずあったというが、今ではミニコミ誌の収集・保存機関として定着している。
 以前、南与野の埼玉大学キャンパスにある共生社会研究センターに取材に訪れたとき、なんと21万点ものミニコミ誌が収められていると聞いて驚いた。蔵書は誰でも閲覧可能である。職員さんの話によると、以前よりは社会運動、といった観点からのミニコミは数を減らしたようだが、その代わりに健康や福祉、表現や趣味といったジャンルのものが増えたという。
 もともと「マスコミ」(大量の情報伝達)から派生した(もじられた?)言葉として誕生した「ミニコミ」だが、今でもマスコミほどの影響力はどう見てもないし、この先どうなるのか、といえばそんなことは私にも分からない。
 だが、「そこには少数者の声があるのだ!」と訳もなく盲信しているわけでもないが、従来の大メディアでははなかなか語られることのない意見や考え、アンダーグラウンドな表現をストレートに体現するこのミニコミ誌というメディアは、貴重でありなかなかに深いものがあるのだ。「全体像に迫る!」というエラそうなタイトルの割には駆け足でダーーーっと来てしまったが、またそのうちこれについては書くかもしれません。チャオ!!(宮崎)

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2006年12月17日 (日)

日曜ミニコミ誌! 広告から読み取れ!/『なまえのない新聞』

 今回は『なまえのない新聞』。「新聞」とあるが、時事のニュースを追いかけるわけではなく、主に環境、健康、民族文化、食生活などに関する内容が多い。「有機的な生活」といったイメージだろうか。
 かと思えば、最新号である11月号にはいきなり「心霊について」なる記事が収められていたりする。
 通巻139号まで積み上げられてきた『なまえのない新聞』だが、いっこうに核となる編集方針が見えてこない。ひとつの印刷物を作り上げるという行為はブログを書くという行為よりもはるかに手間がかかるものなのだが、そこまでして『なまえのない新聞』の発行を続ける動機についてまず聞いてみたかったのだが、編集部はどうやら留守の模様。
 もうひとつ気になる点がある。普通、ミニコミの広告といえば、同じような内容を扱っているミニコミ同士で「交換広告」を掲載しあう形態が多いのだが、『なまえのない新聞』の場合は商用広告、しかも一風変わった広告が多い。
 たとえば、こんな広告。
「太陽光発電をやってみませんか!」
 と誘いかけてくる広告の主は埼玉県の「エルガ」という会社。これは珍しい。これも『なまえのない新聞』の環境問題に関しての姿勢ありきで掲載できる広告なのだろうが、どんな経緯で「エルガ」の広告を掲載するようになったのか、そういう過程を聞いてみるのはけっこう面白いものなのだ。(今回はできなかったけど)
 太陽光発電の隣にある広告は、こうだ。
「印刷のことならおばちゃんにおまかせ!!」
 いきなり「おばちゃんにおまかせ!!」と突っ込んでくるメンタリティもなにかすごいものがあるが、この「あらばき協動印刷」のスゴいところは、なんといっても印刷に「大豆インク」を使っている点だろう。いったい大豆インクってなんだ。これについてはしっかり説明がされている。イラストの「おばちゃん」が言う。
「大豆インクって言うのはネ、石油のかわりに大豆油を主成分にしてつくったインクのことなの。地球にも人にもやさしいってこと。それにネ、仕上がりが何となくなんだけどやさしい感じがするんだよネ。」
 うーん、仕上がりが「何となくなんだけどやさしい」ときたか。広告なんだから「やさしい仕上がり」と書けばいいのに、なんて正直な広告なんだろうとちょっと感心してしまう。
 ほかにも、理容師が開発した石鹸、ヨガセラピー、『パパイヤうぽー』というナゾのCD(地球にやさしい音楽らしい)と、広告に関しては収集がつかない感があるほどだ。
『なまえのない新聞』のことが書いてないじゃないか、と言われそうだが、それはちょっと違う。先のいずれの広告も、『なまえのない新聞』のコンセプトなしには掲載されることもなかったものである、つまり、広告が媒体の性格をかなりダイレクトに反映しているのだ。
『記録』の広告にトヨタの広告が載る可能性が限りなくゼロに近い(ていうか、頼んでも出してくれない?)。掲載広告の視点から読み取れる媒体の性格、というのは案外面白い着眼点なのである。(宮崎)

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2006年12月16日 (土)

『吉原 泡の園』 連載第6回 赤鬼、吠える。

 初日ということもあったのか、時間が経つのが早く感じられた。22時を過ぎると目標額を稼いだコなどは、帰りたいと言ってくる。
 帰りたがっているコに、帰る許可がおりると、マネジャーが僕に向かって。
「お供1台」
と言う。
また僕は
「??」
になる。
「なんのこっちや~?」
 僕がグダグダしていると、面倒臭くなったのか、マネジャー自身がフロントから出てきて、タクシーを止めた。
 はじめ“お供”とは聞こえず、“おおとも”と聞こえた僕は、マネジャーに。
「おおともって、タクシーのことなんですね」
と聞いてしまった。すると。
「フンッ」
 睨まれながら無視された。

 店の前で停車したタクシーに女のコが乗りこむ。それを先輩ボーイEさんが見送っていた。その時マネジャーが止めておけとEさんに言った。ところがEさん、聞こえなかったのかドアをしめ。
「ご苦労様」
 と微笑んでいるではないか。タクシーは黒煙を撒き散らして去っていく。ここで怒り爆発したのがマネジャー。真っ赤な顔をして、つりあがった一重まぶたは、まさに犯罪者。いや、赤鬼である。
「E!! てめえ俺の言うことがきけねえのかー」
 空気が張りつめ、時間が止まった。怒鳴り声は、数軒先の店にまで聞こえる。怒られているEさんは完全に金縛り状態。怖すぎて、僕には凝視できない。
「てめぇ、俺の言うことがきけねえなら、帰れ!!何がきにくわねえんじゃ」
 フロントの木製の机をバンバンたたいて、大声でわめき散らしている。待合室にいる客などは、恐がって帰り出す人もいる。
「なんだか、雰囲気よくないから帰るわ」
 そんな客は、真っ青な顔をしてR店を出て、違う店に逃げるように入っていく。
 とんでもない店に入ってしまったと分かった。しばらくしてほとぼりが冷めた頃、Eさんが僕のところにきて、耳もとで囁く。
「苦労せず、威張るだけで偉くなったから、あのマネジャーはだめなんだよ。客がいないところで怒られるならいい。でも、客の前で怒鳴っちゃダメだよ」
 僕も同感だった。あれじゃ客はこない。来ても逃げるだけだ。こんな高級店はない。高級という字が聞いて呆れる。嫌な空気のままだが、それでも店はまだ営業時間である。そのころ店長は、客のいない第2待合室で、呑気に革張りのソファに寝転がり、テレビを見てながら弁当を食べている。時々笑い声も聞こえる。
 僕は飲まず食わずで、12時間近く働いていた。そのため、カルキ臭くて飲めたものではない水道水を飲んで凌いだ。その脇には、炭酸水、オレンジジュースが注げる立派な機械があった。
「惨めだな……」
 ソープに来る客は大威張りする人が多い。それに対応するため、裏方は火の車だ。
「客引けー!」
 温もりのない街角に、マネージャーの怒鳴り声が響き渡った。(イッセイ遊児)

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2006年12月15日 (金)

ゲーム機麻雀――クリマス商戦死闘編――

南2局

Xbox             2000
PS3(俺)        13000
ニンテンドーDS    46000
Wii             39000

 積もったニンテンドーDSが、また長考に入る。ホントに切るのが遅い。だから頭の悪い奴と打つのは嫌なんだ。人差し指で雀卓をトントンと叩いてやった。
「リーチ」
 途端にDSが叫んだ。捨て牌を見ると、字牌を切り終わった後に一萬、それから3巡置いて六萬。いわゆる間4軒だ。そのうえ切り出したリーチ表示牌が三萬。モロソバ、即リーの二、五萬待ちしかないだろ、コレ。CPUの劣る奴に何言っても仕方ないが、あまりにも頭が悪すぎる。こんなミエミエの手でどうしてリーチなんだ……。
 そのときいきなり卓に牌が叩きつけられた。
「9筒通るかー!」
「おい、Wii! その大げさな動作はやめろ。ゲーム機ならゲーム機らしく、指先動かしてりゃいいだろ。なんで積もったり、捨てたりするたびに腕振り回すんだよ。それに8筒が壁になってるだろうが」
 ぶち切れたオレがWiiを怒鳴りつけた。
「怖い怖い。スタートダッシュに失敗したからって、そんなにカリカリしないでくださいよ」
 色白のWiiがニタニタ笑いながら俺を見る。
「バカ野郎、俺だって東1局は小三元をテンパってたんだ。それを、おまえがショボイ手で流すから」
「あー、東1局のテンパイって転売組の大騒ぎのこと。初出荷が10万台にも届かなくて出没した」
 Wiiの薄笑いは止まらない。それを制止したのは弟のDSだった。
「兄さん、生産が追いつかないことは仕方ないよ。ままあることだもん」
「バカだなー、爆発的な人気で生産が間に合わなくなったお前とPS3さんは状況が違うんだよ」
 この不毛な会話を遮ったのはXbox360だった。
「どうでもいいけど、PS3さん切ってくれないかな。おしゃべりは、もういいだろ」
 打ち始めたときから元気のないXboxは静かに言い放ち、また視線を自分の牌に戻した。
「ごめんな」と言って9筒を捨てる。

 いくらソフトが多くたって、洋ゲーじゃ売れないのは道理だ。そのうえ360になって本体を小さくしたのに、ACアダプターの大きさじゃ。しょせん米国のデカイ家に置くゲーム機でしかない。日本の「ウサギ小屋」に誰が置きたいっていうんだ。まあ、切るのが早いのは嬉しいけど。
「一発ツモ。2000と1000ね」
 DSが大声をあげた。二萬を積もったらしい。
「一発だからチップも付けてね」
 開いた牌はタンヤオへの手変わりを望めるものだった。タンヤオと三色を視野に入れつつ待てばいいのに……。
 次世代ゲーム機ならCPUにモノをいわせて早く打ち、自分の河に迷彩を施し、画像がきれいな手を狙う、コレだろ。それが上がればいいみたいな、頭の悪い手を連発してコイツは上がってく。ゲームの風上にもおけねぇー。
 同じ思いを抱いているであろうXboxをチラリとみると、青ざめた顔をして自分の牌を全自動卓中央の穴に押し込んでいた。発に2索、3索など、7~8枚が見えた。きっと迷彩をほどこしながら、一発逆転の役満でも狙っていたのだろう。緑一色あたりか。
「ブルードラゴンが当たれば絶対逆転だ。ブルードラゴンで」
 血走った眼Xboxがブツブツとつぶやいている
 そのつぶやきを性格の悪いWiiが聞き流すはずもなかった。
「Xboxさん、鳥山明のデザインと植松伸夫の音楽のゲームなんでしょ、ブルードラゴンって。ウチも鳥山さんのゲーム発売すんですよ。弟のですけどね」
「ごめんなさいね、PS3さん。僕らのところにドラクエが戻って来るって聞いて嬉しくて。何でも一番売れてるハードで出すって、スクウェアさんが言ってるから」
 ニコニコと笑いながらDSが俺に話を向けた。不遇をかこっている弟のプレーステーションポータブル(PSP)のことが脳裏に浮かぶ。DSのママゴトみたいなソフトに負けた弟。「英語漬け」「どうぶつの森」の何がゲームらしいっていうんだ。
 とりあえずDSとWiiを無視してサイコロを振り、山を割った。
「あーあ、怒っちゃった」という声とともに、Wiiが牌を頭の上まで摘み上げる。
 ボテッ!
 手から滑った牌がWiiの山を崩した。
「てめぇー! 何度も言ってるだろ。手を振りあげんななよ、ゲーム機なんだから。そんなだから牌を落とすんだろうが。だいたい危ないだろ」
「仕方ないよ。手に汗をかいてくると、コントローラーがすっぽ抜けるのは。ストラップを手首に巻くようにはしてるんだけどね」
 シレッと開き直りやがった。ネットのYouTubeにコントローラーが手からぶっ飛び、部屋を壊している映像が流れまくっているのに。まるで自分に関係ないといわんばかりだ。

 しかし任天堂の連中に構っているわけにはいかない。南場の親だけに、ここで反撃ののろしを上げないと苦しい。まして俺は借金を背負っての勝負だ。自社開発の半導体でつくった負債が重い。ただし、俺のCPUなら任天堂たちより、数倍美しく、デカイ手をつくることができる。スーパーコンピュータなみの演算処理ができるんだから。たまたま今は負けてるが、長期戦に持ち込めば任天堂兄弟なんかに負けねぇー。
「徹マンに持ち込んで勝とうとか思ってるでしょ、PS3さん。長期でソフトを売って、ハードの負債を取り換えそうって。
 でも、ソニー家電にも半導体をのっけてくれなくて、頼みの久多良木健社長が会長に退いたんでしょ。ゲーム開発のメインをハードからソフトに移すとなるときついんじゃない。PS3さんが1日で1割の利子が付くカラス金で麻雀打ってるって、みんな言ってたよ」
 Wiiがまた俺の痛いところをついてくる。
「PS3さん、二言目には僕たちの頭が悪いとか言うけど、いつも手は広く取ってるよ、僕たち。別にきれいな手だけにこだわらないからね。発売時のソフトの種類なんて僕が16本、PSさん6本でしょ。というわけで、リーチね」
 ムダヅモがなかったのだろう。字牌を切った後、最初の中張牌 (チュウチャンパイ)5索でリーチ。
 どうせクソ手に違いない。あいつが売れているのは、コントローラーそのものを動かす楽しみだけなんだから。俺も含めて全員が安牌を切った。
「ツモ。リー即ツモで、おー裏が2枚のったよ。マンガンだな」
 また裏ドラだ。今日のりまくっている。
「へへへ、僕が上がると必ず裏がのるんだよね。まあ、僕1台に対するソフトの数は1.6~1.8本だからね。本体を買うと、必ずソフトも買ってくれるってことさ。それに引き替え、PS3さんは0.8~0.9本なんでしょ。大変だよね」

 俺はWiiをにらみ付けた。ただ言葉は出なかった。南場の親で上がれないとなれば、今回の負けは決定したも同然。
 自然と深いため息がでる。右横のXboxは「ブルードラゴンが来れば、ブルードラゴンが」とつぶやき続けていた。(大畑)

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2006年12月14日 (木)

お詫び

すいません。昨夜は帰宅後に一気に書いてアップする予定でした。レバノンのことなど用意していたのですが帰宅後にわかに体調がおかしくなり一種の人事不省になって気がつくとベッドで先ほど(午後3時半ごろ)まで寝ていたというか倒れたというか

よく(でもないが)飲み過ぎて記憶が飛んで翌日女性の家のベッドで……でなくても単なる自宅のベッドで目覚めるじゃないですか。あれの体調不良バージョンです。

で家族に尋ねると実は今日未明には私は冷たくなっており、もうすぐ通夜だそうです。となると「そこつ長屋」なのですが幸か不幸か同居する家族がいないので死んでいるかどうか確認する手段がなく皆様にお詫びの原稿を書いてから調べてみるつもりです。

原因は持病とさえいえる不眠症を逆手にとって何日もほぼ不眠で原稿を書いていた反動でしょう。病気は逆手に取るものじゃないって? ごもっとも。自重します(編集長)

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2006年12月13日 (水)

まったくもって人ゴトではない事態。ホワイトカラー・エグゼンプション

Ka  去年、経団連によって提言がされたホワイトカラー・エグゼンプションが、近い将来には現実となりそうな気配だ。労働時間規制適用免除制度、という長い日本語に置き換えられるこの制度下では、労働基準法に基づく8時間の労働時間の枠が取り払われ、仕事の成果をもとに賃金が払われるという。つまり、ある仕事が達成されるまで12時間が費やされたとしても、法定の労働時間規制という考えが適応されないため、「残業代」はまったく発生しない。20時間でも30時間でも発生しない。現在、同案については厚生労働省が素案をまとめている段階。
 民間シンクタンク・労働運動総合研究所によると、同案が素案の内容で成立すれば、年収400万円以上の会社員がなんと年間114万円の残業代を受け取れなくなる可能性があるという。素案では一定以上の年収の会社員が対象になる、としているが、仮にそれを年収400万円に設定した場合、対象となるのは全国で1000万人だという。
 114万もの残業代を受け取れなくなるだけでも「冗談だろ!」と叫びたくなる内容なのだろうが(私は400万円以下なので、関係ないっちゃないんだが)、それよりも深刻なのが労働時間の問題であることは明らかだろう。
 厚生労働省の言うところでは「自由度の高い働き方」だそうだが、「これって、単なるサービス残業の合法化じゃ……?」と思うのは私だけだろうか? 同案を形作る位置にある厚労省、労働政策審議会の分科会では、すでに使用者と労働者の各委員が対立しているという。もともとの提言が経団連であることを考えると、モロに「財界vs労働者」という構図が浮かび上がってくるのだ。共謀罪や道路特定財源の行く末に関心がなくても、こればかりはダイレクトに生活を直撃する問題だ。同法がいよいよ審議の俎上に上がったとき、年収400万以上の彼らは(あくまで他人事、ということではないが)果たして声をあげるのだろうか?

 さて、ヘタをすると労働時間の上限なし、というウソのような状況がウソとも言い切れなくなりつつある現在だが、そんな労働過多日本に警鐘を鳴らし続ける人も、もちろんいる。今回紹介するのは、90年に『過労死と企業の責任』(旬報社)、98年に『過労自殺』(岩波新書)を執筆した川人博氏の『過労自殺と企業の責任』(旬報社)。本書では、長時間労働のみに焦点が当てられているわけではないが、それを主な原因とするうつ病、過労死に至らしめられた人たちに関する記録が収められている。それらのケースで争われた司法判断の紹介・検証や命を絶つ選択をした人が接していた労働実態をもとに、企業が労働者に対してとるべき態度についての提言がなされている。
 いよいよ、ほとんどの人にとって「人ゴト」ではない法案が、国会に登場するのである。(宮崎)

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2006年12月12日 (火)

編集者から筆者に転じてみると

ここ2・3年もっぱら編集者をやっていたが某版元からオファーが来て筆者になった。雑誌の連載ではなく単行本の書き下ろしである。魅力的な企画だったので乗ってみたのだ。筆者になった以上は書かなければならない。当たり前だ。元来の出身が記者なのでどうってこともなかろうと甘く考えていたようだ。実際には編集者とは180度違う感覚に少々とまどっている。

編集者も筆者も詰まるところは締め切りだ。「締め切り」。おそらくこれがなかったら漱石はいまだに猫を書き終えていないだろう。名作駄作を問わず世に書物が送り出せるのは締め切りのおかげである。
と同時に最大のやっかいでもある。編集者としての締め切りは城攻めに似る。何しろ筆者の大半は締め切りを守らない。新人さんは出版の行程がわからないから遅れる。何冊も出している方は出版の行程がわかるから遅れる。つまり版元が設定した締め切りは余裕を含んでいるので、つまり編集者が徹夜に徹夜を重ねて命を削って校了と同時に死んでしまう限界、要するに本当の締め切りがいつかを知っているので、そのXデーから、せめて死なないよう2日ばかり早く出稿する。
締め切りを守らない筆者はうわさにならない。当たり前だからだ。締め切りを守る筆者はうわさになる。漫画家の横山まさみち氏や作家の吉村昭氏が有名だ。どちらも故人だが亡くなった際の評伝では代表作と並んで「締め切りを守る人だった」が「功績」として加えられる。さほどに偉大で稀少である。

城攻めには多種多様な戦法を用いる。何とか締め切りを守らせるべく、その日までに落城させなければならない。探りの電話を入れる、押しかける、缶詰にするとソフトな手法から拉致監禁まがいまでさまざまだ。というのも編集者は締め切りが迫ると「彼(彼女)はもしかしたら本気で落としてくるのではないか」との不安がよぎるからだ。両者とも落としていい理由は1つもないのにせめぎ合う当たりなかなかに滋味。
その点、私は版元の経営者であるから自分のところから出版するならば融通無碍である。だが今度は他社からである。久々に城を守る側になったわけだ。

編集者の呼吸は知っているわけだから筆者に徹する場合は編集者の催促が督促になり哀願に変わり憤怒の相に達するまで放っておけばいいとわかっている。でも普段は城攻めに四苦八苦している側なので城主となっても攻め手の気持ちをつい察してしまう。
今回は進行管理も校閲も印刷屋さんの見積もりもデザイナーやカメラマンの手配もしなくていい。ただ書いて放り込めばいいだけだとわかっている。わかっているが気にかかる。気にかかるが案の定、筆はなかなか進まない。ブログの文章はスラスラ書けるのだが……。

ところで。実は当ブログのアクセス数が土日になると急減する。アクセス数自体は気にならないが急減は気になる。これは土日を私が書いている頃からずっと続いている傾向だ。
ということは当ブログは土日には読みたくない何かがあるのか。それとも大半の気高き読者は会社でアクセスなさっているのか。それともブログのアクセスとは当欄に限らず土日は減るのが一般的傾向なのか。久々に筆者の側に戻ったら急に気になり出した。教えて下さい原因を!(編集長)

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2006年12月11日 (月)

全体像に迫る。ミニコミとは何か??

 毎週日曜日にアップしている『日曜ミニコミ誌!』を見た知り合いが私にたずねてきた。
「ミニコミってどこで売ってんの?」
 素朴だが重要な部分である。置いてある場所が分からなければ、手に取ることもできないのだ。一般的な商業出版と違い、出版コードを持たないミニコミ発行者は、トーハン、日販などといった会社を通じての配本システムを持っていない。なので、印刷所で刷ってもらったものを書店に郵送、または自らの手で運ばなければならない。しかし、街のいたるところにあるような「普通の」書店ではミニコミはほとんど扱われていない。
 東京都内でミニコミを多く扱っている店となると、かなり限られてくる。新宿の模索舎、神保町の書肆アクセス、中野のタコシェ、高円寺の高円寺文庫センター、池袋のリブロ、町田のBOOKS ART SPACEなどが挙げられるが、まさに知る人ぞ知るという書店ばかりである。しかし、これらの店はたいていいつも客でにぎわっている。書店としての希少価値ということだろう。
 これらの書店に行けば多くのミニコミを発見できるが、それでもミニコミ発行者がミニコミ受け入れOKの書店を知らない場合も多く、全体の発行部数が多いミニコミでも置いてあるor置いてないはマチマチである。

 次に知り合いから投げかけられた素朴かつ重要な疑問は、「ミニコミってなんなの?」である。「そもそも論」である。しかし、深い疑問でもある。それは無責任だろ!と思われるかもしれないが、私にも正確に答えられる自身がハッキリ言って、ない。「エッセイとは何か?」みたいな質問を受けたのと同じ感覚で、何となくは分かるが、何となく以外の部分はちょっとボンヤリしてしまっているのだ。
 そんな私が助けを求めたのが『ミニコミ総目録』だ。同書は92年に平凡社から出版されている(トヨタ財団からの助成を受けて作成!)。92年の時点で発行が持続されていた4700点のミニコミがテーマ別に紹介されているという、総目録として名前負けしない内容である。
 同書の冒頭では、ミニコミの起源、92年時点での状況、将来性、といったことについて一通り論じられている。ここで肝心な部分は、丸山尚氏が書く「ミニコミとは何か」についてだ。
 丸山尚氏は日本中のミニコミを収集・公開し、市民側のメディアの集積地点となるべく発足した住民図書館の館長を務めた人物だから、彼の言う「ミニコミとは何か」は聞くべきところがあるだろう、と私は考えたのだった。
 しかしなんと、彼でさえもミニコミの定義については簡単には説明しずらいことだ、とまず言っている。そして、こう続けている。

丸山:「ミニコミは、市民のメディアである、という点については、一致する人が多い。しかし、それ以下はバラバラだ。そして、それでよいと思う。」(中略)「ミニコミは、自由でいいのだ。その自由闊達さこそが、ミニコミのミニコミたる所以だ。」

 ものすごい説明だ。サジを投げたと取られてもおかしくないのではないかと内心ハラハラしてしまう。しかし、説明は終わらなかった。

丸山:「全国のミニコミの収集・公開・保存につとめた住民図書館の基本的立場でいうと、
①意見や主張を持っている市民が、自由にそれを伝達し、交換し合うメディア。
②自主性に依拠し、購読料や広告料で収入を得ることは当然ながら、それによって利益を追求するものではない。
③発行部数や発行頻度の多さよりも、その形状、内容において、個性や独自性や多様性を重視するメディアである。
④市民のメディアという特質において、権力や資本におもねることなく、少数者の立場から言論・表現・伝達活動を行うメディアである。
⑤マスコミの裏側に立つという意識を持ち、異常性を追求するものではなく、日常の生活の中から社会的課題に取り組む。
 などが挙げられるだろうか」。

「自由でいいのだ」などと磊落に言い放ったわりにはいろいろ但し書きがついた気がするが、とりあえず全体像は以前よりは(おそろしく)ハッキリしてきた。
 知人にたずねられたのもいいきっかけかも、とさらにミニコミの全容に迫っていくのだが、続きはまた次週。(宮崎)

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2006年12月10日 (日)

日曜ミニコミ誌! モツ煮を検証し、味わう。/『モツ煮狂い』

Motu  いよいよ寒くなってきた。朝、布団から出るのがツラい。よし、寒い季節には鍋だ、とのスーパー安直な思考から、久々に大学からの友人を集め板橋の我が家で寄せ鍋をした。
 久しぶりに会っても全然久しぶりじゃない感覚、という感じではなかったが、全員で同じ鍋を囲み、「もっと春菊入れたら」とか「オタマとって」とか「そろそろカキいく?」みたいなことを申し合わせつつ箸を進める状態は、どことなく共同作業に近いものがあり会話も徐々に熱を帯びていくのだった。
 同じ席でも1人で1人で別々の料理を食べるのとは違う感覚が鍋にはあるが、それは鍋だけに言えることでもない。居酒屋でいうモツも、それにあたるだろう。
 今回のミニコミは神保町・書肆アクセスで見つけた『モツ煮狂い』である。「東京『都市郊外』のフォークロアという意味深長なサブタイトルにもなにか引きつけられるものがあったが、ストレートすぎるタイトルのほうにやられました。奇しくも「今度はモツ煮でいく?」みたいな話も出ていたし。
 さて、『モツ煮狂い』だが、このミニコミを単なる「ちょっとグルメっぽい内容」だと勘違いしてもらっては困る(誰が困るのかはよく分からないが)。
 このミニコミの制作者であるクドウヒロミ氏(ホリエモンと同じ年で専門学校教員との自己紹介)が書いた、本書の導入にあたる「モツ煮の歴史と荷風が見た東京」にある1文が、このミニコミの性格を端的に表しているように思える。
「私は美食家でも食通でもなく、酒のうんちくを語りたいわけではありません。やきとんやモツ煮の旨い飲み屋というのは、これまで江戸からの下町情緒を残した生活感と雰囲気に結びつけられて語られることが多かったわけですが、私はむしろ『最暗黒の東京』でつかまえられた近代都市の周辺部の風景、都市論や郊外論との接続で理解したいのです。」(中略)「今日、ハイモダニティ下の東京に浮遊する人々が、荷風と同じ陰影に引き寄せられており、彼らのシンボリックな存在がモツなのだといえます。この陰影が、ちゃんと後世に伝えられていくのか、それともテーマパーク的に消費されて終わるのか。そのあたりもきちんと見届けなければと思っています」。
 引用が長くなってしまったが、つまり、著者は過去と現在の東京、それぞれのおいてのモツ煮の位置づけを検証しながら両者の存在を浮かび上がらせようとしている、という社会学的な試みをしようとしているのではないか。しかし、それとは別にモツ煮へのストレートな愛情も感じさせられる文も他に見られる。

 いろいろ書いてきたが、まあやはりメインはモツ煮屋の紹介である。「串煮込み伝統スタイル」「歴史的名店」「モツ煮バラエティ」、それぞれの章では写真付きで多くの店のウマそうなモツ煮が紹介されている。各店、駅からの道順まで詳細に説明されているのはサービス精神からだろうか。味や値段についての印象について、各店くわしく書いてあって、なかなか読み物としても面白い。
 これは東十条の「新潟屋」についての紹介。
「はじめて東十条駅に降りた人は、ここが京成立石に次ぐもつ焼きの宝庫だとは、とても思わないでしょう。かつて工場労働者が多く住んでいたこともあるのか、十条~赤羽~東十条の城北トライアングルには、味も雰囲気も最高の飲み屋が目移りするほど集中し、その日の一軒を選び出すのも一苦労です。」
 何をもって雰囲気が最高というのかは個人的趣味の領域だとは思うが、それにしてもこんな情感ある文章を久しぶりに読んだ気もするので、ふと、行ってみようかな、と思ったのだった。(宮崎)

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2006年12月 9日 (土)

『吉原 泡の園』第5回 「どういう了見してるんじゃい!」

■服と靴を用意され、とうとう客の呼び込みのために店の外に出されたイッセイ。……といってもソープの呼び込みなど経験したこともない上、背後には鬼のマネージャーが後ろに控えている。ピンチは続く。

   *   *   *

 向かいにある店の40代のボーイさんの呼び込みを見ていた。
「どうですか~お客様~」
 目の前を走りさる車の運転手に向かい、怒鳴り、体を大きく使ってジェスチャーしている。
 隣の店のボーイは、早口で聞き取れないが、通行人に何かを説明していた。
「こ、これが呼び込み!」
 僕はあっけにとられて何も出来ない。それでも、見よう見真似で声をかけてみた。
始めて声をかけた人は、いきなり不機嫌になった。
「アッ!?俺は今仕事中なの」
 そう軽くあしらわれる。どこかのソープ店のボーイに声をかけてしまったのだ。
 何時間も客引きをやっていると腹も減り、のどもからから、タバコも吸いたい。すると、自動ドアが開いた。自動ドアの上にスイッチがあり、それを押すと開いたままになる。
「間もなく!」
 マネージャーがそう怒鳴った。
「???」
 僕の頭の中が?でいっぱいになる。何を怒鳴っているんだか、それにしても何だろう。これから、一体何がはじまるのだろう。
 何も分からなかったので、悠長に構えていた。間もなくとは、実は僕に対して発していたのだ。数時間前に仕事をはじめたばかりの僕に、何かをやらせようとしているのは確かだ。でも、何も教わっていないし分からない。
「はい到着!」
 僕に向かって怒鳴っている。
 すると、その声とほぼ同時に、ナンバー7○7のクラウンが店の前、つまり僕の前に滑り込んでくる。
「あっぶないな~ぶつかったらどうするのさー」
 そう思っていると。
「お前どういう了見してるんじゃい~!」
 マネージャーが騒ぎ始めた。
「ヘッ、僕?」
 どうすりゃいいのさと、右往左往していると。
「客が車に乗ってんじゃ、ドア開けろボケ!」
 そう怒鳴っている。
 慌ててクラウンの後ろのドアを開けると、年配の客が降りてきた。客は、そそくさと店に入っていき、マネージャーのいるフロントで入浴料を払っている。
 ソープランドは、法律上サウナ付きの個室風呂である。そのため入浴するのが名目で、はじめに入浴料を払う。
 何が何だか分からないまま、ただ怒鳴られ続け、ボケ、カスといわれ、ソープボーイのデビューを飾った。これが悪徳高級ソープの洗礼なのだった。(イッセイ遊児)

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2006年12月 8日 (金)

安倍晋三、梨花とC.C.ガールズに負ける!

 安倍内閣が発足から2ヵ月を超えた。『朝日新聞』の世論調査では支持率が53%に下がったそうだ。10月に63%だったというから大激減である。ちなみに「Yahoo!みんなの政治」で実施されたネット投票では、不支持が84%を超えたというから尋常ではない。
 支持率急落の理由はいろいろあろう。復党問題も響いただろうし、新内閣に対してご祝儀気分だった国民が落ち着いたこともあるだろう。しかし、もっと深刻な要因の1つは各大臣の地味さではないか! この持論を説明すべく、グーグルのヒット件数を使って各大臣の影の薄さを解説していきたい。

 まず大臣の中で最もヒット件数が多かったのは、内閣総理大臣の安倍晋三。その数214万件。さすがに人気だけで総理まで登り詰めた人である。まずは首相の面目躍如といったところか。
 しかし政治家という枠組を外せば、じつはこの数字大したことはない。バラエティーに出演し、いまやモデルというより芸人となった梨花、586万件の半分以下。1990年に結成し、軽いお色気ラインで売ったC.C.ガールズの227万件にも及ばず。
 う~ん、こうした数字を見ると、芸能人を選挙に担ぎ出したくなる党本部の気持ちもわかる。総理大臣まで登り詰めて、知名度は梨花の半分ですってさ。

 閣僚第2位のヒット件数を誇ったのが外務大臣・麻生太郎、138万件。まさか漫画をはじめオタク文化に強いのが評価されたわけでもあるまいが、3位以下を100万以上引き離すぶっちぎりの2位となった。ちなみに冠番組を持ち、一部週刊誌から叩かれまくっている細木数子の135万件を上回っているのは立派というべきかもしれない。
 さあ、どんどんいこう。
 第3位は文部科学大臣・伊吹文明、26万2000件だ。かつてマッチのものまねなどで人気を博し、いまは専門家からほとんど評価されない日本画家となった片岡鶴太郎26万6000件より、やや低い評価。とはいえ伊吹文明と聞いても、どんな仕事をしてきたのか、いまいちピンとこない人も多いだけに、ある意味大健闘といえる。だだし「伊吹文明 自殺」で13万9000件だった。頻発している学生の自殺に加え、自殺予告の手紙が大臣宛に来たのがヒット件数を押し上げた大きな要因のようだ。政治家としての人気に結びついたかはわからんが……。
 第4位は内閣官房長官・塩崎恭久の19万4000件。テレビ出演も多い「イケメン」官房長官の割りには控えめ数字となった。このヒット件数、芸能人でいうと国生さゆりの19万7000件と同レベル。当たり前だが、記者会見を開き、毎日のようにテレビ出られるランクではない。週刊誌によれば塩崎官房長官は怒りっぽい人らしいから、「元おニャン子クラブ」に負けてると聞いたら怒鳴りまくりそうだ。怖い怖い。

 第5位は、内閣府特命担当大臣の高市早苗で18万3000件。初入閣の一人だが大臣になって目立った仕事をしていないので、これまでの人気の積み上げがヒット数に反映したものと思われる。この数字は2001年8月に大麻とLSD所持で逮捕されたいしだ壱成の18万5000件とほぼ一緒。俳優としては、何となく終わった感のある人だが……。
 ちなみに前の沖縄北方担当相で高市早苗に大臣の引き継ぎをした小池百合子・内閣総理大臣補佐官は、33万9000ヒットで高市に圧勝。田代まさし33万7000件に並ぶ数字はさすがに人気政治家である。

 6位は防衛庁長官・久間章生の14万5000件、7位は財務大臣・尾身幸次の12万8000件。財務大臣といえば国家の要ともいえる役職だが、尾身幸次イマイチ印象が弱い。すでにテレビで見かけることもなくなった鈴木蘭蘭12万7000件、テレビでは見るには見るがネットで調べたいとは思わない菅井きん12万5000件とほぼ同じ件数。こりゃ、ヤバイでしょ。
 8位は農林水産大臣・松岡利勝の9万2200件、9位は内閣府特命担当大臣・大田弘子9万1000件、10位は総務大臣・菅義偉9万5900、11位は内閣府特命担当大臣・山本有二の8万4000。で、12位が経済産業大臣・甘利明の8万2000。このランクになると、なかなかピッタリする芸能人も見つかりにくいが、昼の番組の司会者を勤める大和田獏が8万3200件である。芸歴も長いし、それなりの位置にいるけれども騒がれることなし。そんなポジションの芸能人と一緒だと考えるとわかりやすいか。
 13位は法務大臣・長勢甚遠の7万5900件、14位が環境大臣・若林正俊5万4100件、15位が内閣府特命担当大臣・佐田玄一郎5万200件。16位には内閣府特命担当大臣で国家公安委員会委員長も兼ねる溝手顕正が3万9200件で滑り込んだ。

 そしてテレビ露出の割りに件数が伸び悩んだのが、国土交通大臣・冬柴鐵三、3万6600件。この数字は夏の怪談話でしか活躍を見ることのない、つまみ枝豆の3万7100件とほぼ同じ。学会の組織票もグーグルヒットまでは手を回していないようだ。まあ、動員しても仕方ないが……。
 そして見事に最小件数だったのが、厚生労働大臣・柳澤伯夫、2万4700件である。『アジア・ウィーク』誌で「アジアのパワフルな政治家」第8位に選ばれ、『ビジネス・ウィーク』誌では「アジアの星」に選出された政治家が「一発屋」として名高い『メモリーグラス』の堀江淳3万700件に完敗。後藤田正純議員の嫁である水野真紀24万7000件のちょうど10分の1のヒット数というからひどい。仕事ぶりはともかく、あの仏頂面が人気を下げているのか……。ただし党内でも有数の増税論者であることから、今後、国民の大反発からヒット件数が一気に跳ね上がる可能性はある。
 
 さて、ついでといってはなんだが、都合の悪い記事をグーグルに請求して削除する、いわゆる「グーグル八分」についても、内閣に副官房長官や総理大臣補佐官まで加えて調べてみた。「○○議員 疑惑 醜聞」と、○○に各代議士の名前を入れて検索を掛けてみると、安倍晋三が4件削除、麻生太郎2件削除、松岡利勝3件削除、小池百合子が2件削除、中山恭子が5件削除(検索から「議員」を除く)、山谷えり子が3件削除、世耕弘成が3件削除となった。
 削除があった人には、金や収賄などで思いつくままにマイナスイメージと名前を組み合わせて調べてみたが、「世耕弘成議員 勝共連合」で1件の削除が確認されただけである。そのため、どのような記事なのかはわからない。本人のことをメインに書いた記事ではないかもしれない。もちろん誰が削除したのかもわからない。敵陣営の策略かもしれない。ただ、ちょっと気になる情報ではある。(大畑)
※今回は敬称略です

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2006年12月 7日 (木)

【謹告】更新できなかった理由

別にさぼっていたわけではありません。12月5日(火)10時から今日の午後3時までメンテナンスとやらで延々と更新できなかったのだ。

使用しているココログによるとずっとレスポンス問題とやらを抱えていて、これで過去にも大メンテナンスを食らったが今回新たに「データベース分散化」などに取り組んだそうだ。
ところがココログによると「レスポンスが悪化するという現象が発生」して「原因の特定ができず」「メンテナンス前の状態に戻」してのサービス再開だという。つまり何もやらなかったも同然だ。もし改善が回避できない程に深刻だったらメンテをする理由はわかるが「メンテナンス前の状態に戻」したら再び次の大メンテが来る。
といって「メンテナンス前の状態」のままでよかったら、そもそも何のためのメンテかわからん。
情報通信産業のサービスで常に思うのだが定期の有料使用者に対して金銭的な説明をしないのは業界の習いなのか。だとしたら素晴らしい習慣をユーザーに植えつけたのか実に失礼なのかどちらかだ。

というわけで小誌に「書けないライター」がいるから更新できなかったわけではないとわかっていただきました。ただし、だからといって小誌に「書けないライター」がいない証明とはならないということも事実です。(編集長)

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2006年12月 5日 (火)

U2の来日コンサート

4日、さいたまスーパーアリーナにおけるU2のコンサートに行ってきた。私がU2のライブをじかに見るのは初めて。

ダフ屋が大繁殖していたから人気は上々らしい。だが昨今は取り締まりが厳しいせいか以前のように堂々と売買していない。ところが当日券も売っている。奇妙なので聞いてみると全席売り切れだが今席を作っているとか何とか。そういうことを勝手にすると消防庁から怒られるのではないかと心配しつつ会場へ。

アリーナ席は埼京線の超満員がそのまま引っ越してきた如きすし詰め状態。少しでも身軽になりたい人用に袋に荷物や上着を入れて預かるサービスをしていたがゴミ袋にしか見えない袋代が1枚500円は暴利である。

コンサートは可もなく不可もなし。DVDやCDで想像していたコンサートイメージとほとんど変わらなかった。手抜きはなくBonoはややお疲れ風で独白部分のセリフ(もちろん英語)を忘れていたようだが(聞き取れなかったので)歌詞はさすがに大丈夫。曲数もたっぷりだった。埼京線席の人も満足であったろう。
ただしNew Year's DayとOriginal of the Speciesを歌わなかったのが意外。前者は古くからの、後者は最近のファンにとっては少々不満であろう。代わりというのもおかしいけれどもVertigoを2度もやった。
Bonoだけに政治的なメッセージ色が色濃くにじむのはやむを得ないのかもしれない。世界人権宣言をスクリーン上で読まされた。日本語だった。ただ埼京線席の方々にメッセージが伝わったとは到底感じられない。乗れればいい風だったから。

TOKIOを連発していたのも変といえば変だ。だってここは埼玉。右も左もすべて埼玉。前も後ろも全部埼玉のさいたまスーパーアリーナ様だ。知事は石原様ではなく土屋様だ……じゃなくて上田様だ。マライアも当地でコンサートをした時にTOKYOと叫んでいたが彼女の場合は武道館からの移動だから分からなかったのかも。でもU2の日本公演は「全部埼玉」だったので間違える余地はない。しかも私が聞いたのは最終日だ。考えられるのは
1)Bonoが当地をTOKIOと勘違いして回りも恐れ多くて訂正を求められなかった
2)Bonoは埼玉と知っていたがSAITAMA!といいたくなかった
3)Bonoが当地をTOKIOと勘違いして回りもむしろ喜んだ
4)最初はBonoもSAITAMAと紹介していたが回りがTOKIOにしてくれと頼んで修正した
など。ふふん。

公演後の感想。とにかくBonoだった。ごく控え目に述べても観客は99%Bonoだけを見ていたはずだ。Bonoがメンバーチェンジをしない(許さない?)わけだ。

と冷淡な書きようになったが理由は疲れたから。アップしたらすぐ寝るつもり。ということは相当パワーのあるコンサートだったという証左か。年を取ると疲れはその場ではなく後で段々とわかると書いたのは貝原益軒だった……っけ。忘れた。きっと勘違い。ゴメン。寝る。(編集長)

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2006年12月 4日 (月)

タイの9月クーデターを振り返る

そろそろ06年を振り返る時期になった。タイから帰国して間もない知り合いに「今年一番のニュースは何だ」と聞いたら「やっぱりタイのクーデターでしょう」と返答。なのでタイの今年を振り返る必要があるといきなり切羽詰まった。そういえば丹念に追ってなかったなあ。考えてみればクーデターが起きたんだからもっと気になっていてよかったはずなのに。

昨年からくすぶっていたタイのタクシン首相の長男など親族が通信会社株を2000億円以上の売却して利益を得たにもかかわらず税を逃れたとして反対勢力が首相辞任を要求する大集会を開くなど不穏な動きの機転をを制する形でタクシン首相が05年2月に与党タイ愛国党を率いて大勝利したばかりの下院(定数500人)を解散したのが2月。総選挙は4月上旬に行われたが野党有力3党が異例のボイコットをする姿勢を固めた。しかし当初タイ国民はボイコット戦術に極めて否定的で首相は選挙参加を呼びかけるなど余裕だった。
結果は与党が得票率57%を獲得して首相は続投を表明したが直後に退任すると覆した。プミポン国王(ラーマ9世)と会談した後の退任の弁だったので暗に国王の意向が働いたとみられる。
ところがこれで一件落着とはいかなかった。国王がさらに与党だけが占める国会のあり方を「民主主義ではない」と批判して裁判所を巻き込んで選挙のやり直しをするとかしないとかの大騒ぎとなった。それでも一応11月再選挙の運びとなったが、野党ボイコット選挙の結果、5月にも開かれるはずだった議会での首相指名を受けないという形での退任を想定していたタクシン首相は結果として議会自体が開催されないのを奇貨に居座る風となった。

そしてついに国軍によるクーデターが9月19日に起きた。憲法は停止され、内閣も国会も効力を失った。代わりに軍を中心とした「民主改革評議会」が全権を握ると主導したソンティ陸軍司令官が発表した。
22日には国王がソンティ司令官を「民主改革評議会」議長と正式に承認。10月1日には軍の最高司令官だった経歴を持つスラリット枢密院議員を首相に任命して「民政移管」をした。
首都バンコクでの世論調査で84%が「クーデターを支持する」と回答したとの報道があったようにクーデターは無血なのはもちろん笑顔でさえあった。国連総会出席のために渡米していたタクシン首相は留守を襲われた形にはなったが、それゆえに生命に危険は及ばなかった。
一見すると平和な政権交代にさえ映るが「民主的なクーデター」などあるはずもなく多くが支持したクーデター後の政権には批判の声もあがっている。

タクシン首相は警察官僚から携帯電話やコンピュータなどを扱うIT(情報通信)産業で成功したビジネスマンだった。01年に政権につくと経済の近代化を推し進め発展をなしとげ、トップダウンのスタイルは「タイのCEO(最高経営責任者)」と称された。
その一方で予算を貧しい地方に重点的に配分するなど社会民主主義的な政策も取った。反対派からはばらまき批判を浴びたが地方は強く首相を支持した。
トップダウン型ゆえに「将来的に王制を廃止して自らが大統領になる野望を抱いているといううわさ」がたったのかもしれない(06年9月20日毎日新聞東京夕刊)。だが根本的に誤ったのは親族の不透明な株取引である。IT長者という今日風の出自でありながら古風なネポティズム(身びいき主義)に陥って国民の反感を買ったのは皮肉であった。

一方で古風の極みである王政がネポティズムにはまった権力を、これまた古風なクーデターという手法を取って追い払った軍を権威付け、その目的が「民主改革」だというのも実に皮肉である。これをタイ式の知恵と呼ぶか限界とみなすか意見が分かれるところであるが、改めて国王の政治力を証明した出来事だった。

プミポン国王はこの年6月、即位60周年。6月からは世界中の王族や日本の天皇皇后両陛下も臨席した交流会が開かれた。クーデターの最中に市民や兵士にまで見られたTシャツやリボンの黄色は国王のシンボルカラーである。
プミポン国王の「凄さ」を内外に示した有名な事件は1992年のスチンダ陸軍最高司令官の首相就任に対する騒乱である。前年にスントーン最高司令官らが軍事クーデターを決行して民政のチャチャイ政権を転覆させておりスチンダ首相の就任は民主化を求める市民の大規模なデモに発展し軍と衝突した。軍はデモ隊に発砲して44人が死亡。
国王は双方の代表格を招いて和解を促した。王の前にひざまずいた軍と政治家は謹んで承り騒乱は一気に沈静化、4カ月後に総選挙が無事に行われて文民政府が誕生した。この場面は世界中のテレビで報じられたが、今回の一連の混乱の過程でも2度ほどタイのテレビ局が放送した。
だから06年のクーデターも国王が事実上容認していたとの観測が強い。強権に走る文民政治家を民主的でないとたしなめる国王と、その意をくんでクーデターで民主化の歯車を回そうとする国軍。やはりどこか変わっている。

確かに無血ではあった。用意も周到であったろう。ただ何か手順が一つでも違えばクーデターは流血の惨事を招く危険な手法であるのは疑いない。「さすがタイ式」と無邪気にたたえるのは安易であろう。(編集長)

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2006年12月 2日 (土)

『吉原 泡の園』連載第4回「呼び込みしてみろ!」

 吉原に着き引っ越し作業をしていた僕は、ただ重労働をしたからだけでなく、緊張から相当汗をかいていた。
 レンタカーを返し、店に戻ると、店長が待っていた。見た目からして鬼のようなマネジャーでさえも言い返せない人。凄い人がいるもんだ。そう感心してしまう。この店長だけは怒らせてはいけない。そう思っていると、店長が僕を呼んだ。
「何だおめえ汗かいて汚ねえな、風呂入ってこい」
 ソープは風呂屋である。店長が、マネージャーに空いている部屋を聞き、僕は一人その部屋に入った。
 薄暗く、静かなソープランドの一室で、僕は一人裸になり、シャワーで汗を流している。何してんだ僕……。
 ふと寂しくなった。あったかい家庭料理や、家族の団欒、そんなものがふと恋しくなった。
 シャワーの壁に打ちつけられた鏡を見ると、そこには僕が映っている。
「これが自分かよ」
 寂しそうな男が一人いる。
 これから僕は一体どうなってしまうのか、不安だけの男が、鏡の中から僕に助けを求めているようだ。
 フッと我に返る。体を拭き、1階ロビーに戻る。ほかの先輩ボーイ達が、一言も無駄話をせず、背筋をピンと伸ばし、きっちりとスーツを着て、髪もきめて立っている。
 僕はといえば、薄汚れたTシャツに、ヨレヨレのズボン。
「おまえスーツはねえのか」
 店長が聞いてきた。
「は、はい」
 店長が重そうに腰をあげた。
「行くぞ」
 店長の乗用車に乗るよう促された。
 ただ余計なことをいうまいと、黙って助手席に乗る。すごい乱暴な運転をする人で、心臓がバクバクした。
 
 しばらくすると、洋服のA山で車は止まった。スーツを買うんですね~。どんなのにしようかしら~。などと思ってみたものの。
「早くこい」
 とせかされ、店の中に。
「お前、ウエストはいくつよ」
「100です」
 ウエスト100というのが、店長には少しおかしかったのか白い歯が見えた。店員がウエスト100のスーツを持ってくる。
「裾つめるぞ」
 裾をつめ、靴下も購入。
 店長に買ってもらえるのか、それとも、店に借金して買ったのか
 などと考えると、なんだか一生借金まみれにされ、もうシャバでの自由な生活が出来なくなるのではなかろうかと、少し不安になったのだった。
 店に戻るために車に乗り込む。 だんだん周りの建物がボロくなってきたなあと感じると、吉原に近づいている印だ。スーツはシングルで3つボタン。ネクタイはもっていない。寮に荷物を入れる際、ネクタイなどが散乱していたのを見ていたので、それを借りようと考えていた。
 車が吉原に入る頃、ガラス戸の古い建物の軒下で車は止まった。
「おまえ足のサイズは?」
「26.5くらいです」
 そこは靴屋で、2000円程度の革靴を渡された。
「はいてみろ」
 いわれるまま履くと、丁度良い。
 靴も買い、また車に乗り店に戻る。買ったスーツを着てこいといわれ、一度寮に戻った。髪の毛は坊主だったが、それ以外は一応格好がついた。
 店に戻ると、マネージャーがギロッと僕を見た。
「イッセイ!てめえ外だ。外に立ってろ」
 早速仕事を言い渡された。乱暴な物言いをするものの、外にたっているだけで、楽だな~とウキウキしながら外に出た。
 他店の呼び込みのボーイも、暇そうに缶ジュースを飲んだり、隣同士のボーイで笑いながら話している。タバコをふかす者もいる。さすがに僕にはまだそこまでの余裕はないが、まあこんなもんしょ~。軽い軽い~と意気揚々と構えて立っていた。
 店長が表に出てきてくれた。普段、外の呼び込みは、自動ドアがしまっているので、外に出たらタバコを吸い、人と話したりと、ある程度自由になれるものなのだが、このR店は違った。いかなる時も、マネージャーの監視は休むことがない。
「ほら、声かけて客を呼び込むんだぞ、ただし、足立ナンバーの車で、電話のアンテナのある車には、声をかけるなよ」
 店長がやさしくアドバイスをしてくれたのだった。
「そんな車は覆面パトカーだからな。もしパクられたら、店に迷惑をかけるなよ、責任は全部イッセイがかぶれよ」
 そういうと、店長は店に戻っていった。
 鬼~。悪夢だ!
 呼び込めといわれても、そして警察に声をかけるなと言われても、吉原での仕事初日なのだ。いきなり言われてハイそうですか、と出来るわけがない。
 それにしても呼び込みとは、どうやって?(イッセイ遊児)

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日曜ミニコミ誌! 「雅子」って呼び捨てかよ!?/『DANCE!』

Dance 『DANCE!』。キャッチーな名前だが、内容は反天皇制運動連絡会。気合いが入ってるのである。
 手元にある29号の「主張」は「右翼と権力の暴力を許さず、原則的な闘いを維持しよう!」。記事では、連絡会の実行委員会が参加する集会が右翼系の街宣車「抗議行動」に取り囲まれたことや、4月30日に渋谷で行われた「自由と共存のメーデー06」のサウンドデモが道交法違反で逮捕されたことを取り上げ、「社会の息の詰まるような状況、異を唱えるものへの強権的な弾圧」に抗うべく集会を広げようと訴える。どうやらこれが「原則的な闘い」のようである。
『DANCE!』では反天皇制を訴える記事以外にも共謀罪や表現の自由などに関する記事もあり、全体的な印象としては「対、弾圧」に近いかもしれない。
 終わりのほうにある「野次ウマ日誌」では同誌の性格がそのまま反映されてるような日誌(?)なのだが、ここでは「3月31日 処分◆東京都教育委員会が、三月に行われた都立高校や養護学校、小中学校の卒業式で、起立しなかったなどとして教職員三十三人を懲戒処分に。」という内容と同列に「雅子、愛子◆雅子が東京都渋谷区の代々木ポニー公園を訪れて愛子に乗馬を体験させる。」という内容も。うーん、ここまで来るとすごいな。「雅子、愛子」と来たか。ポニーに乗せるくらいいいのでは、と思うのだが連絡会のとってはそれも取り上げるに足るべき出来事であるらしい。あ、だから野次ウマなのかな?
 一番最後のページには「辺野古移転案反対!」「立川反戦ビラ裁判」「まかり通る『愛国』フンサイ! 6・3意思表示の会」などのイベント情報が記載されている。 このところイデオロギーに絡んだミニコミを取り上げてなかったのだが、模索舎あたりに行けばこの方向性のミニコミは見ることができる。そして、その多くは『DANCE!』のように実際に集会を行ったりしている団体が発行している。
 いわばミニコミがネットワークとしてまだ機能しているのだ。(宮崎)

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2006年12月 1日 (金)

池内ひろ美氏の「期間工」差別を嗤う

 ネット上ではやや旧聞に属するが、池内ひろ美氏のブログが炎上した件を取り上げたい。
 問題のブログの内容は、こんな内容である。

「30代後半~40代半ばの女3人」、会社経営者・医者・池内氏というメンバーで飲んでいたら、30歳前後の男性から「お姉さんたちは何をしているんですか」と声を掛けられた、と。彼らはトヨタで期間工をしており、適当に話を合わせて大人の対応をしている彼女たちに甘え、仕事のグチを言いまくったうえに「会社とか経営してんだったら、俺のことも雇ってくださいよ~」と女性経営者に語ったという。
 この発言に腹が立ち店を変えて飲み直した席で、件の女性経営者は「向上心がなくて勉強もせず、平日の早い時間から連日飲んでいる男の子なんて、うちでは絶対に雇わない」と発言したという。
 池内氏もこの発言に対して「彼らに年間300万円以上も払っているトヨタは偉い」と書き、「金を儲けることだけを求める彼らに仕事を与え、なかなか仕事を継続することのできない彼らに期間を区切ってでも採用する企業は立派である。真面目に働き企業の求める基準を満たす期間工については、正社員への登用も行なっている。その意味でトヨタは社会的責任を果たしている」と断じた。

 この記事に対して「期間工をバカにした職業差別だ」と抗議が殺到。池内氏も一時的に記事を削除したが、「今回の記事で、池内が期間工を職業差別をしたと言われているようだが、私は、出会った男の子を批判しただけで、その男性が期間工と自称したために期間工全員を差別したわけでも、期間工は向上心のない頭の悪い人間と言っているわけではありません」などという反論とともに記事を再掲した。

 なるほど気持ちよく飲んでいたところにウザイ連中が割り込んできて、腹も立ったのだろう。せっかく大人の対応をしていたのに調子にノリやがって、と言いたい気持ちもわからなくはない。ただ「出会った男の子を批判しただけ」で「期間工全員を差別したわけ」ではない、というのは残念ながらウソだ。それは再掲された文章から「彼らは『トヨタ』を漢字で書くことができるのだろうか」という文章をカットしたことからもわかる。完全に期間工だからバカにしていたのだ。
 まあ、ネットでの「炎上」はお祭り騒ぎでもある。職業への差別意識を持った人だって批判に参加していただろうから、「炎上」そのものに興味はない。問題はこうした職業差別の根が意外なほど深いことだ。

 バブルの崩壊とともに訪れた日本経済の激変に最初に飲み込まれたのは日雇い労働者だった。1990年代後半から仕事にあぶれだした彼らはホームレスとなり、新宿の地下通路などで暮らすようになる。
 それまでの日本社会では日雇い労働者など、経済的弱者の姿は巧妙に隠されてきた。ほとんどの人は終身雇用制の会社員として、あるいは自営業者として過ごし、そのレールを外れた不安定雇用の弱者は山谷など都市の周縁にある特定地域が囲いこんできたからである。そうした周縁に収まりきれなくなった人々が「一般人」の前に姿を現す。つまり見えないようになっていた経済的弱者の存在を認識したのが90年代後半だったといえる。
 この時期私はホームレスの取材を続けていたが、簡易宿泊所(不快用語だが彼らは「ドヤ」と言っていた)などに住めなくなり、アオカン(野宿)をするようになった彼らの人生は、いわゆるサラリーマンの人生とまったく別物だと感じたものだ。
 その後、ホームレス問題はさらに広がっていく。一般企業の正社員でもホームレスとなる時代が到来したと本気で感じたのは2000年ぐらいだったと記憶する。ただ当時は終身雇用制に変わる制度が現れ、労働者の流動化とともに何らかのセーフティーネットが張られるのだろうとも漠然と思っていた。
 しかし07年現在、状況は一向に好転する気配をみせない。それどころか悪化している。『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書)で城繁幸氏が書いている通り、終身雇用制は年功序列と結びつき若いうちの滅私奉公を評価し、若干の強弱を付けて給料を支払ってきた。ただしこの方式は経済のパイが増えないことには維持できない。当然だろう。業績が伸びなければ、適当に割り振るポストが足りなくなる。結局、滅私奉公はカラ手形に終わり、ポストにありつけない人々はリストラされるか低賃金で我慢するしかない。かつて驚きをもって迎えられた「年収300万円」という生活も当たり前に起こる世界となったのだ。
 しかし年収300万円というのは正社員の話である。企業が新規採用を絞った結果として生まれたフリーターや契約社員の中には年収200万円という人も少なくない。事実、厚生労働省「国民生活基礎調査/2003 年」によれば、年収200万円以下の世帯は、およそ5世帯に1世帯(18.1%)となっている。

 経済の安全弁としていつでも首を切れる契約社員や期間工の存在は企業としてはおいしい。そうした企業側の「要望」に応えるごとく労基法の改正も行われた。現在ではフリーターや契約社員あるいは期間工から始めるしかない新卒が当たり前に存在する。
 つまり90年代後半に突然目の前に現れた「経済的弱者」が普通に隣にいる。それが現在の日本の状況といえる。
 ただし正社員になるのが当たり前だった30代後半以降の人々にとって、「不安定雇用」に「甘えている」人々など軽蔑の対象でしかない。

 池内氏は「トヨタは社会的責任を果たしている」というが、現場では「トヨタ方式」で自殺している労働者も多く、機械に挟まれて死亡する事故なども発生している。系列部品メーカーで生産ラインでは年間20件を超える死亡事故まで起きているのだ。
 徹底したコスト削減によって追いつめられた労働者は「向上心を持つ」気力すら奪われてしまいかねない。小誌で連載している鎌田慧氏も『自動車絶望工場』(講談社)での取材はつらかった、と私に話してくれたことがある。「仕事を終えてメモを取るのが大変だった」と。
 新聞記者としての仕事をこなした後で、自分の追いたいテーマを取材していた人物に、そう言わしめた仕事がトヨタにはある。ましてトヨタの仕事は日々「カイゼン」され、日に日に労働強化が進む。
 人生相談に応じている文化人であるなら、このような労働が存在することも念頭に置くべきだろう。

 まともに働けば正社員という時代はとうに過ぎた。ここまで日本の経済状態が変化してしまった以上、誰もが経済的弱者として生きる可能性がある。もちろん私も例外ではない。たとえ60歳まで会社で勤め上あげても、年金制度と退職金制度が崩壊した状況で、どうやって20年間生きていくのか?

 長くなったが、最後にホームレスの人たちを取材していたときの印象深い言葉について書いておきたい。それは「オレはあいつらとは違う」である。
『ホームレス/現代社会/福祉国家』(明石書店)で岩田正美氏も指摘しているが、ホームレスの人々はよくこの言葉を口にする。「エサ(食事)をゴミ箱から取ってないから」「お金を恵んでもらってないから」「たまに働いているから」という言葉の後に「だからオレはあいつらとは違う」と続く。
「働かざる者食うべからず」と考える日本人にとって、働けないのは罪悪となる。だから落ちるところまで落ちてないぞ、と彼らは主張するのだ。
 しかし本当は周りのホームレスも、いつ潰れるかわからない弱小出版社に所属して取材している自分も彼自身とさして変わりはない。
 じつは経済的弱者であることを恥じる必要などないし、蔑むほどの「安全地帯」に、ほとんどの日本人は住んでいない。(大畑)

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