『吉原 泡の園』 第4回 投げ捨て寺
「生れては苦界 死して浄閑寺」
通称投げ捨て寺の新吉原慰霊塔に刻まれている言葉である。これは、江戸時代から昭和33年の売春禁止法が成立するまでの間に吉原で身よりなく死んでいった不幸な遊女や娼婦の生涯を詠った詩である。
そもそもこの浄閑寺とは1665年江戸時代に始まった。明暦の大火(1657)後、日本橋から現在の千束に吉原が移り、それから間もなくのことだった。新しく千束に移った吉原を新吉原と呼び、以前の日本橋を旧吉原と呼んだ。
新吉原で働く遊女は、栄養面や病気などから早死にするものが多かったそうだ。20代で死ぬものもかなりいたらしい。
江戸時代、身売りに来た女性は戸籍も抹消され、病気になっても看病を受けることもなく、身分も分からず死ぬ。死体は犬、猫のように捨てられた。その受け入れ所として、浄閑寺に捨てていく者が増え、正門前にそっと死体を捨てていく、また、1855年の案性の大地震で亡くなった遊女400人が葬られたことなどから、投げ捨て寺と呼ばれるようになったのだった。
死体の数は新吉原の廃止、つまり昭和33年売春禁止法成立まで実に2万5千にのぼるのだそうだ。とても信じられない。
現在、それら不幸にも死んでいった遊女達の為に、新吉原総霊搭がたてられ、線香が絶えることがない。
新吉原総霊搭にはいくつも風通しのような穴があり、覗いてみるといくつもの骨壷が見えるのである。
僕がここを訪れたとき、昼間なのに薄暗く、卒塔婆がやけに多い墓場だなと思った。カメラでバシバシ写真を撮った。墓と墓に挟まれて、古い井戸の跡もある。これは本庄兄弟の井戸と呼ばれるものだ。親の仇である平井権八(歌舞伎で有名な白井権八のモデル)を追った兄が返り討ちにあい、兄の首を洗っていた弟も、襲われて命を落とす。仇討ちに失敗して悲惨な兄弟の最後の地が、この井戸だったのである。兄弟を供養する首塚もある。
写真を撮った後で知ったことだが、ここは必ずと言っていいほど、心霊写真が撮れるという噂があるらしく、某出版社からは心霊写真が出されたという噂もある。(これに関しては関係者は全く知らないというので、噂だけだと思う。吉原近辺ブログの管理人は見た事があると言っているが)
何も知らなかった僕は、墓場の中を縦横無尽に歩き回り、写真を撮りまくった。たまにニコニコしながら、すげーよなどと独り言もいっていた。(まったく罰があたる)。
この寺を菩提寺とする有名人としては、アラーキーこと荒木経惟氏があげられるし、永井荷風もいる。落語家三遊亭歌笑。侠客需髪長五郎。新比翼塚の記念碑があり、江戸、明治の歴史を語るにはなくてはならない寺となる。永井荷風は、作品の中でも寺やこの界隈の出来事を書き、その取材の為に頻繁にこの寺を訪れたそうだ。僕のように、縦横無尽に墓の間を歩き回ったのだろうか。
1人墓場の中で思いふけった。吉原の歴史とは無残な遊女の死の歴史でもあるのだと。さらに言えば、新吉原弁天池跡というものが、吉原の中にある。大正12年、関東大震災で池に逃げてきた遊女490人が溺死した。そのために大正15年に造立されたのが吉原観音である。昭和34年、吉原電話局建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名を留めるのみとなった。こうした多くの死があったことを、忘れないためにも、ぜひ、吉原の歴史と伝統は残してもらいたいものだ。
ここ投げ捨て寺は、吉原の暗部なのだ。
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