坂東眞砂子の随筆と家畜としての猫
別に子猫を殺そうが食べようが構わないが野良猫にして発情期に人間の泣き叫ぶような大声を出されるのは堪らないというのが個人的見解である。かつて住んでいた都区内某所は低層階だったため朝からうるさくて仕方なく閉口した。
だから坂東氏の行為には何の反発も持たない。本当に殺していればの話だが。というのもこのストーリーテラーが事実を述べているか読み手の肺腑をつくための「芸」なのかわからないから。最後の「殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」の次に「実は殺してなかったりして」とオチを入れるのを止めただけかも。物書きの芸を楽しんだり疑ったりする余裕が現代の日本人には減ったのかね。大南北に騙されるとわかっていながら楽しんだ江戸っ子よりも知的に退廃したのだろう。
仮にエッセー通りだったとする。するとキモは「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」という点と読んだ。猫に限っていえば、そもそもは家畜だったのである。
我が実家はかつて猫を飼っていた。だが「愛玩動物として」ではない。天井裏とおぼしき産所からネズミが出て困ったからである。ネズミ取りに引っかけてはバケツに水を入れて装置ごと水没させて溺死させていた。それを残酷だとは思わなかったし今になっても変わらない。残酷だと言われたこともない。
それでもネズミは次々と現れる。やつらは病気を運んでくるのが最大のやっかいだ。そこで猫の登場である。小学校次に飼っていた我が猫の実力は抜群でネズミだけで生命を保っていた。この将軍に論功行賞として刺身などを与えたは当然である。単になぶり殺しにするだけで食べない場合もある。どうやら種類によっては臭気があるらしい。でも殺しはしてくれる。
したがって何の血統書もなくともネズミ取りの名手として子猫は近所に引き取られていった。なかには野良猫との間にできた子もいたろうが(将軍はもてたから)近隣の農家でモグラを叩きのめしたりと活躍していた。例の発情期の大騒ぎも軍功ゆえに何らの不快感もなく将軍の勝ちどきにすら聞こえた。別に荷駄を引く猫だっていたのである。
こうした家畜としての猫の歴史は6世紀までさかのぼる。
したがってネズミやモグラ、害虫を駆逐する将軍としての猫の役割がないならば飼うべきではない。「愛玩動物」などもってのほか・・・というより下らない。ペットロスという言葉を聞くに至っては言葉も出ない。そんなことで空の巣になる精神構造の持ち主は死ぬがいい・・・と思わず坂東さんの「芸」を下手くそに真似した断定をしそうになった。
別に猫を嫌いではない。むしろ大好きだ。我が将軍のしぐさは一日中見ていて飽きなかった。でもそれは将軍に役割があったからである。その役割に私への癒し(イヤな言葉!)を求めようなど露とも願わない。
捨て猫を見つけた自分に猫への役割が与えられなければ迷わず行政に依頼して殺処分してもらうしかない。放置すれば明らかに害獣になるから。残酷だって? じょあネズミ取りにかかったネズミの処分は残酷だったと非難できる根拠をも示していただきたい。だって命は等価でしょう? 殺生すべてがいけないとのロジックは有り得ようが残念ながら宗教的な大慈悲心を抱けるほど悟っていないので悪しからず。
猫は長じると孤独を好む。ネコ科で群れをなすのはライオンぐらいではないか。だから愛玩(かわいがる)と感じているのはヒトの側だけで猫にもし感情があれば放っといてくれとの「哀願」の方である。あなたの家の猫はなついているって? それは餌をくれるから。(編集長)
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- 坂東眞砂子の随筆と家畜としての猫(2006.09.16)
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コメント
あなたは間違ってる。と思う。どうしてそんなにひねくれた文章をここに掲載するのですか?
投稿: www | 2006年9月24日 (日) 10時11分
あなたがネズミを猫に殺させたり、水を張ったバケツの中に放り込んで溺死させたり、その事を本当に微塵も残酷だと思わないと思うなら、あなたはもう人間ではない、ネズミでもない、何か他の新種の生き物なんだと思えてしかたがありません。
私はあなたのようにはなりたくありません。
生まれてから18年間、学校に通ったり、色々な人間に出会って、感情を覚えて、他の生き物よりは何倍かの知能を手に入れて、
殺す、殺される、私はそれは自然の原理であって、仕方のない事だと思います。でも他の生き物よりは優れた知能と複雑な感情を持っている人として、ネズミや猫に限らず、対価の命をを絶ったという行為に対して、ほんの少しでも、何か感じるべきだと思います。まるであなたの言っている事は命の存在を知らない子供のようで、また、人間でない生き物の生き方であると、思います。
投稿: www | 2006年9月24日 (日) 11時40分
坂東氏に対して私は批判的である(去勢は不可、間引きは可という感覚が理解できない)という事をあらかじめお断りした上で書きますが、WWWさん、あなたは害獣としてのネズミの被害に遭った事はおありでしょうか。害獣による精神的、物理的な被害を被った経験があった上でそういう事を仰っているのであれば、随分な慈悲の心をお持ちなのだと感心はさせられますが、それが一般的な考え方だとは思わない方がよろしいかと存じます。また、その基準でもって他人を「人間とは思えない」と判断する態度は、傲慢としか言い様がありません。正直言って実に不快です。防疫の重要性は勿論ですが、世の中にはネズミによって在庫に被害を被る商店主もいれば、ノイローゼ状態になる主婦だっているんです(これは身内にいたんですが)。
投稿: ヌカ次 | 2006年9月24日 (日) 19時29分
自分の考え方は一般的か、編集長さんとヌカ次さんの意見が一般的か、それは私には分かりません。
私の実家は田舎にあって、良くネズミやアリやゴキブリや、他にも沢山の生き物達が家にも出現いたしました。家の風呂場なんかはもうアリの巣の穴がたくさん作られています。
そんな時はスプレーを巻いたり、お風呂場に出た時は水でアリ達を排水溝の中へ流したり、ネズミが出た時(たまにですが)は家族でいろいろな策を練って、ネズミ取りは使いませんでしたが、追いかけ回して叩いて殺したりしていました。
確かに私も自分の鞄にアリがたかっていたり(それも数分玄関に置いていただけで)、ネズミが天井を駆ける音を聞くとすごく嫌だし、気持ち悪いなあと思います。
わたしは、編集長さんがおっしゃっていたネズミを防衛と自分が感じる生理的不快の理由から殺す、という行為は、まさに私が日常生活のなかでやっている事であります。
私はその行為は間違っているとは、思いません。それは、私がネズミよりも体が大きく、沢山の殺す術(駆除業者、ネズミ取り、猫など色々)を持っていて、まさにそのネズミの運命は私が決めれるからであり、更にそれは弱肉強食の原理であります。
しかし、そこに何も思わない、のはやはり人間の感情ではないと思ってしまうのです。私も毎回、自分は残酷だなあ、とかそんなセンチメンタルな気分になる時間は無く、自分の目の前に出没したネズミやら、ゴキブリなどを退治しようと、必死になっています。でも私は今自分が、その生き物が自分に利益をもたらさないから(理由は様々でしょうが)、対価の命を絶ったという事を自覚するべきだ、と思っています。そこの思う、思わないの違いは結構大きいのではないでしょうか?
だから、私は反対に編集長さんの『自分は残酷だと全く思わない、』などと開き直ったような意見を聞くと傲慢だなあと感じてしまうのです。
投稿: www | 2006年9月25日 (月) 02時50分