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2006年9月15日 (金)

「猫殺し」で吊し上げが怖い

 正直、考えがうまくまとまっていない。
 作家の坂東眞砂子さんが生まれたばかりの猫を殺したと日経新聞のコラムに書き、大騒ぎになった一件である。

 問題のコラムは8月18日の夕刊に掲載され、その日のうちに2ちゃんねるにスレッドが立ち始め、ネットで彼女を糾弾するページが乱立、24日には『毎日新聞』などがこの騒動を報道した。そのうえ週刊誌などがかみつき作者自身も反論する事態にまで発展した。

 板東さんは論旨は明確である。彼女は3匹の猫を飼っているが避妊手術をしていない。それは「獣の雌にとっての『生』とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか」との考えているからだ。ただ、その「生」を認めると、当然、猫は無尽蔵に子どもを産む。そりゃ、困ると。
 タヒチ島に住む彼女の自宅の周辺は「草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている」こともあり、彼女は「家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げる」という。
「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」と書かれてもね……。
 私も2匹の猫を飼っている。しかも猫さまさまのベッタベタである。なんせ猫ぽく接したくなると、四つんばいになって猫を追い回し猫の腰(?)に頭をこすりつけたりしているのだ。とてもじゃないが、板東さんの話を受け入れられない。

 いや、言いたいことはわかる。だいたい子猫や子犬を殺すなんて、昔はそれほど珍しい話じゃなかったろうし。
 思い起こせば私が小学校低学年だったころ、放し飼いだった猫が出産。結局もらってくれる人を探すことができず、1匹を残して保健所に連れて行った。あの当時、飼い猫に避妊手術している人はどれぐらいいたのだろうか?
 そんな私が言うのも恥ずかしいが、やっぱり崖から子猫を捨てるのは許せないと思ってしまうのだ。だから彼女のコラムに反感を寄せる人があるのは当然だと思う。当人も「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」と書いているから、覚悟の上の執筆だ。お金をいただいた文章に批判が集まるなら、それは仕方ない。正しい言論のありかたともいえる。

 でも、日経新聞や日本動物愛護協会やフランス大使館への抗議って、どうなんだ? 一部報道では「業務に支障が出る」ほどフランス大使館に問い合わせがきたという。
 ある主張が間違っていると感じた。だからネットで意見を表明した。でも、それじゃあ社会は変わらないので関係各所に抗議した。この展開自体を批判することはできない。かつての市民運動だって同じようなことをしていた。
 言論には言論でとか、感情的にならないで話し合い、といった意見もあろう。でも、感情を呼び起こさない議論などためにある議論でしかない。

 そう、ここまではわかっている。それなのにネットで「まつり」と呼ばれる吊し上げが起こるたびに、すっごく嫌な気持ちになってしまう。それは「まつり」を招いた論調とは一切関係ない。今回の件で、そのことを実感した。「猫を崖に投げ落とすなんて、キー!」と思うくせに、「まつり」の現場に出くわしゲンナリしたから。
 しかも以前ならネット界だけにとどまっていた(といっても住所や氏名がさらされ、実際に家に突っ込んで行くような輩もいたが……)話を、「騒動」という切り口でメディアが大きくしていく傾向にある。たしかに世間で騒がれているのはニュースだが、そもそも報じる価値などあるのか???

 こうした吊し上げでも、まだ企業や政治家なら許せる。このような「騒音」を排除できる力とカネを持っているのだから。でも、今回のように対象が個人だと、理由はどうあれゾッとしてしまう。それが例え猫を殺している直木賞作家でさえもだ。

 この手の吊し上げに恐怖感を感じるのは、自分がマイノリティーだからだと思う。小さな出版社にジーンズで勤務する37歳独身。通常なら住宅ローンや子どもの教育に向き合っている年代なのに、ダラダラと仕事し、とにかく美味しい食事を食べることだけにカネを使い、フィギュアなんぞを写真に撮ってネットに流している(たしか金曜日はフィギュアを毎回掲載する予定だったな……)。
 とてもじゃないが社会のお役に立っているとは思えない。日本の人口が多いから2割抹殺しましょう、てなことになれば真っ先に選ばれるはずだ。だいたいロクでもない人生を送ってきたから、糾弾されるネタも尽きないだろうし……。
 自分は吊し上げられる要素を大量に抱えている。日本全国という規模でみれば、すでにオイラは村八分だ。そんなふうに感じているから「まつり」が気味悪い。企業や政治家なら吊し上げも許せると書いたが、では、どれぐらいの権力者で、どれほどの企業なら納得できるのかはわからない。そこに、きちんとした線引きも理屈もない。とにかく、どこからか生理的に我慢できないのだ。

 以前、スポーツ観戦から民族対立が激化し軽い暴動へと発展した現場にいたことがある。相手の民族に「出て行け」と叫んでいるであろう(いやー、全然わからない言語だったので、たぶんね)輪の中で、自分が黄色人種であり、いきなり周りの白人から吊し上げられる対象でもある、と気づいたとき心底ゾッとしたものだ。似たような恐怖を、ネット界の「吊し上げ」に感じてしまう。

 ネットが力をもつということが、こんなことだったらやりきれない。心からそう思う。
 あー! 『車掌に裁かれるJR 事故続発の原因と背景を現役車掌がえぐる』の宣伝が入らなかった。うーん、マイノリティーの国労組合員としてつるし上げの恐怖と闘っている、この本の著者なら僕の気持ちもわかるはず、ということにしておきますです、ハイ。(大畑)

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コメント

批判内容をじっくり読むと見えてくるけど、今回、坂東氏を批判している人の大半は、ネットの一個人を叩くような人達じゃない。
(中には便乗したような、いつもの連中も見受けられますが)
同じ内容を無名の一個人が書いても、これほど問題にはならなかったと思います。

直木賞作家で公人である坂東氏が、全国紙で、あのような記事を(批判も覚悟の上)書いたことに対する批判です。
内容が坂東氏の自己陶酔的内容で、問題提起にすら見えないことにも問題があった。

問題なのは、炎上すると、全て同じ炎上に捉えてしまうことではないでしょうか?

投稿: 通りすがり | 2006年9月15日 (金) 03時59分

通りすがり 様

コメントありがとうございました。
なるほど、これは考慮すべき点でしょうね。
たしかにネットでの批判に
僕を含めて多くの人が慣れていないせいか、
すべてが「まつり」に見えてしまうという。
そういう意味では
ネットでの意見交換に慣れていく必要が
あるのかもしれません。
もちろん多くが匿名であるという問題は
また別に考える必要はあるでしょうが。

で、改めて自分がいつ何らかの違和感を
感じたのか考えてみました。
「きっこの日記」を読んだときは
しごくまっとうな批判だと感じたわけですし。

僕が最もひっかかっていたのは、
フランス大使館への抗議でした。
法令違反の可能性があるとしても、
リスクのない場所から抗議行動する
そこに引っかりを感じたのだと思います。

ただ、ブログに書いたとおり、
それが政治家相手だったら
嫌だとも思わないのですよ……。
うーん、やはり僕の視点が定まってないですね。
もう少し考えていこうと思います。

投稿: 大畑 | 2006年9月17日 (日) 22時03分

僭越ながら岡目八目ということで。

大畑氏
言ってること:抗議活動には引っかかるものがある
実際:仏大使館に対するものは引っかかり、政治家に
対するものは引っかからない。
真相:抗議活動自体はどうでも良く、単に政治家が
嫌い、仏大使館は好き。

土井たか子
言ってること:核兵器廃絶
実際:アメリカの核兵器は侵略の核兵器、中国の核
兵器は防衛用できれいな核兵器
真相:核兵器自体はどうでも良く、単にアメリカが
嫌い、中国が大好き。

ダブルスタンダードとはこういうところから生ずる
のだなあ、と思う今日この頃です。

投稿: 国家の犬 | 2006年9月19日 (火) 00時31分

国家の犬 さま

コメントをありがとうございます。

真相は
フランス大使館が好きなのではなく、
政治家が嫌いで、
小説家が好きなのだと思います(笑)
大使館はどこもかしこも好きではないので。

権力の有無は
僕の中で関係があるのだと思います。
いずれにしても理論としての整合性に
乏しいのは自覚していますが……。

投稿: 大畑 | 2006年9月19日 (火) 19時05分

小説家!なるほど。仏大使館が好きだなんて変だなあ、
と書いていて自分でも思いました。

ダブスタと非難しているのをネットではよく見かける
のですが、一皮むけば案外一貫した理論があることが
多く(土井たか子はその例です)、逆に一貫した理論
がありながら説明不足や本人の自覚が無いために
ダブスタと判断されることも多々あるように思います
(本エントリに当てはまると考えます)。大畑さんの
場合は権力嫌いという理論があることが分かったので
私は満足です。

投稿: 国家の犬 | 2006年9月20日 (水) 02時32分

猫殺しを批判する人は

死体を出刃で切り開き

火あぶりした 牛の肉は食べませんか?

あなたが飲む薬は

何百万匹のモルモットを殺した実験で完成した

死体の上に完成した薬は飲みませんか?

それを答えてから
批判をして頂きたい

見栄っ張りは社会の屑ですよ

検事・警察官そっくりです

ほら
自分らはは県警裏金を泥棒し 上司の選別・飲み食いに泥棒の県警の事実

検事然り

社会正義と嘘を連発し

調査活動費を泥棒し

ひどい検事は妾の赤子殺害堕胎の費用を

調査活動費盗んで支払った事実

南の島 九州 達磨

投稿: 南の島 九州 達磨 | 2006年9月22日 (金) 00時40分

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