光クラブがあった場所をたずねたのだけど
光クラブ創業者、山崎晃嗣が会社を中野区鍋屋横町から銀座に移したのは1948年(昭和24年1月)。前年10月に設立したばかりの会社が破竹の勢いで成長を遂げて“商売人の檜舞台”である銀座に進出したわけだが、その年のうちにこの銀座の事務所で山崎は命を絶つことになる。
「他のいまだ成り得ざりしことをなさん」と聞けば立派に聞こえる。が、法定利息を大幅に上回る金利で金貸しを続け、その違法性が疑われ拘留される。釈放後、債権者の怒濤の取り付けにあい、一部金の返済でも不可能とふんだ山崎は青酸カリを飲んだ。
2階の社長室。机の上には遺書と自分の写真があった。
「他のいまだ成り得ざりしことをなさん」と聞けば立派に聞こえる。が、法定利息を大幅に上回る金利で金貸しを続け、その違法性が疑われ拘留される。釈放後、債権者の怒濤の取り付けにあい、一部金の返済でも不可能とふんだ山崎は青酸カリを飲んだ。
2階の社長室。机の上には遺書と自分の写真があった。
1948年の時点で光クラブがあった住所は中央区銀座2-3。このあたりは昭和43年10月1日に住居表示法が適応され、現在の住所では銀座2-8がそこにあたる。
現地に行くと、その区画にはピカピカのビルが建っていた。中にはブランドショップやスポーツ用品店が入っている。区画をぐるりと一周してみるが、どの建物も新しいものばかりだ。中で働いてる人もライトを浴びて輝いている。こんな現代的なガラス張りの建物の従業員が山崎晃嗣について知っているとはまず思えないが、聞いてみるまでそれは分からない。なんといってもそこは山崎が命を絶った“現場”なのだ。
イラッシャイマセを言われるまでは店員の顔は輝いていたが、奇しくも、というか光クラブの名前を出してからは輝かなくなった。たしかに、どこか名前が宗教っぽいもんな。店員にとっては聞いたこともない名前だったのだ。
スポーツ用品店でも聞いてみるが、やはり「知らない」とのこと。営業スマイルが曇っただけだった。
このまま記事をアップするのが憚られるほど、光クラブについては何も見つけることができなかった。「寿産院」事件に関してもそうだが、今回も収穫がゼロだったためさすがにアセる。たしかに、社長が自殺した会社など華やかすぎるこの銀座においてはミスマッチで、すぐに痕跡も消去されるのは分かるのだが。(宮崎)
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コメント
私は過去に起きた事件などの現場に興味を持っている者です。検索サイトで「光クラブ」を検索しても思うようにズバリ中野区鍋屋横町、銀座の「光クラブ」の場所を明確に表しているサイトにめぐり合うことはできませんでしたが、こちらで始めて「銀座の光クラブ」の現場所が明確となりました。こらからも時々アクセスさせてもらいます。
投稿: ken | 2006年10月25日 (水) 09時13分