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2006年8月 8日 (火)

小泉首相の「靖国参拝」批判の朝日社説をネチネチ批判

「嘆かわしい首相の論法」と題した朝日新聞06年8月4日の社説。「3日付で配信された小泉内閣メールマガジン」での首相の靖国神社参拝に関わる記載を「なんともお粗末」「ずさんな論法」と切り捨てたが、その社説自体の「論法」が「なんともお粗末」で「ずさんな論法」だから困る。
まず私の立ち位置であるが小泉純一郎首相が折に触れて発言してきた靖国参拝の理由(のようなもの)が「なんともお粗末」であるのは同感も同感である。ただし迎え撃つ側が以下のような「なんともお粗末」な「論法」では話にならない。よって難癖をつける。なお引用個所はすべてカギカッコで示す。出典はすべて朝日新聞06年8月4日付朝刊社説である。

「メールマガジンで」小泉首相すなわち「私の靖国参拝を」「批判するマスコミや有識者、一部の国」に対して首相は「戦没者に対して、敬意と感謝の気持ちを表すのはよいことなのか、悪いことなのか」と問いかける。それに対して社説は「悪いなどとは言っていない」「あたかも戦没者の追悼そのものに反対するかのようにすり替えるのはやめてもらいたい」と反論する。
じゃあ「戦没者の追悼そのもの」への「追悼」は「よいことなのか」。よいとハッキリ書きなさいよ。
小泉首相の直らないバカは靖国が英霊すなわち戦死者を顕彰しているのを広く「戦没者」に「すり替える」点にある。空襲で死んだ日本の民草などは原則として含まれていない。ところが社説は後半を読めばわかるが靖国を「戦没者+A級戦犯」ととらえ「A級戦犯」の方に気を取られすぎるせいか首相の「戦没者に対して」とのレトリック自体は許容してしまっているような書き方だ。
「戦没者」の一部に過ぎない戦死者を「戦没者」に「すり替える」な。おいらの親戚は空襲で死んだ「戦没者」なのに靖国には祀られていない。なのに首相は靖国で「戦没者に対して、敬意と感謝の気持ちを表す」という。すると何か? おいらの親戚は「敬意と感謝の気持ちを表す」価値がないってことかと噛みつきなさい。

参拝批判者の「意見を突き詰めていくと、中国が反対しているから靖国参拝はやめた方がいい、中国の嫌がることはしない方がいいということになる」 という点を「はなはだしい曲解」と断じて「日本がかつて侵略し、植民地支配した中国や韓国がA級戦犯を合祀した靖国神社への首相の参拝に反発している。その思いにどう応えるかは、靖国問題を考えるうえで欠かすことのできない視点だ。ただ、それは私たちが参拝に反対する理由のひとつに過ぎない」とするのも考え込んでしまう。
つまり「ひとつ」ではあるわけだ。ということはひとつしかない可能性もある。後続の論述でいくつも示したとの反論はできる社説だが、この「ひとつ」がどの程度のウエートを「私たち」(=朝日新聞)が占めると考えているのかわからない。
また「どう応えるかは」「欠かすことのできない視点」ならばどう応えるべきか明記してほしい。

続く「無理やり中国に限定し」もちょっと。「中国や韓国が」を「中国に限定し」たのは首相お得意の健忘症であろう。「無理やり」「あおる」などの書き方をすると首相があたかも深謀遠慮を働かせる策士のようになる。つまりほめちゃったのだ。
思わず韓国を忘れるような者では外交は担えない。韓国ってどこにあるか知ってますか首相と揶揄するぐらいでないと。小泉首相などからかうのがちょうどいい程度のオツムしかないのにね。

さて戦犯合祀問題だ。「その半面、首相が語ろうとしないことがある。あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀る神社に、首相が参拝することの意味である」には重大な2つの事実を混同している。

「多くの日本国民を死なせ」た「指導者」
「アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者」

前者には私も強い憤りを抱いている。その1点で首相の靖国参拝は不当だと信じてもいる。だが後者はどうか。少なくともこの社説では前段の「理由のひとつに過ぎない」に含まれる。だから「その半面」ではない。
またおいらの爺さんを戦死させた「指導者」と中国人をおいらの爺さんに殺すようし向けた「指導者」とでは違う。これは人ごとではなく私の爺さんは両方であった。
「あの戦争」もあいまいだ。確かに「あの戦争」ないしは先の大戦とされている戦争をどこからどこまでとするかは難しい。ただ大新聞の社説であるから明記する義務がある。1937年からの日中戦争からとかね。すると例えば広田弘毅はどうなんだとの議論ができる。そこを明示しないのは恣意的だと読まれる危険が大ありだ。
行かえて「戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが、戦後日本の再出発の原点だ」の「戦争」もまた同じ理由であいまいとなる。好意的に読めばこの「戦争」は「あの戦争」にかかる。だが「あの戦争」の定義がハッキリしていないから続く論説もぼやける。悪く取れば改行後に「あの戦争」を「戦争」一般にすり替えたとも読める。

「昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、それが原因で参拝をやめたという側近の記録が明らかになった。国民統合の象徴として、自らの行動の重みを考えてのことだったのだろう。もとより中国などが反発する前の決断だった。国政の最高責任者である首相には、さらに慎重な判断が求められる」は明らかに筆がすべっている。
「昭和天皇」の「不快感」が事実だと仮定しても、それがあるから「さらに慎重な判断」を「求め」てしまったら政治家の行動は「国民統合の象徴」の思いに左右されねばならないとなる。

読んでいるとヒシヒシと伝わるのは筆者(ないしは執筆陣)が靖国に足を運んでいないという事実。皆様は年齢から推すに、まずは現場だ! と私の世代に教えた先輩でしょう? 小社近刊『誰も知らない靖国神社』でも痛烈に示したが現場でしかわからない姿を知らない人でないとこうした文章は書けない。もちろん文章そのものは上手だ。こうした文章書きを悪達者と呼ぶ。

朝日人よ。現場を踏めよ。築地の論説委員室の居心地はそんなにいいのですか? こんな文章では小泉内閣に4割の支持をいまだ与えて「ラストサムライ」安倍晋三首相を冀う惰民には響かず、惰民を扇動する「コイズミという時代」の首謀者に切り返しの余地を残すだけ。これしか書けないんだったら退社して草でもむしっていたらどうですか?(編集長)

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