岩の坂・実在した貧民窟の現在
1933年に起きたこの凄惨な出来事の舞台「岩の坂」が実は私の家から歩いて15分ほどの場所にあると知り、さっそく訪れてみた。
といっても、もらい子殺し事件の後70年以上が経過しているわけだから、当時の面影なんてものには期待できないだろう……。そんなことを考えているうちに目的地にたどり着いた。「岩の坂」という地名は今では使われておらず、「本町」というとてもありきたりな名前になっていた。

「坂」はかなり緩やかで、歩いて全く負担にならない程度だ。そして、貧民窟としての面影はまったくない。
岩の坂で生まれ育った小板橋二郎の『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』には、スラムだったこの地の様子が実に詳細に記されている。1938年生まれ、つまり「もらい子殺し」の事件の5年後に著者は生まれた。
「私には、異母兄弟をふくめて五人の兄姉がいる。そのうちのだれもが、いまだに自分の出自が岩の坂にあることを口外したがらない。むろん「岩の坂」生まれが決して名誉あるものではないからだ」。
本書で紹介されている『どん底の人達』(草間八十雄・玄林社)の記述にはこうある。
「……此の岩の坂で特殊なものは乞食の群れである。タワシ、マッチなどを携え行商人を装って実は物貰いに歩く「狩り出」の輩が軒を並べ又ヨナゲ、バタヤ、ホリヤ等の拾い屋も多い」。そして、著者自身の幼少の記憶という点では、知的障害である少年が「(食べるための)赤犬を取って来い」と同じ場所に住む貧民に命令される場面から本書は始まっている。
もともと江戸時代には宿場町として栄えた岩の坂界隈だったが、明治17年ごろに上野から高崎に鉄道が通り、それが栄えていた宿場町ではなく赤羽の方を通ったあたりから、岩の坂は「火の消えたように寂しく」なってしまった。本書で紹介されている『板橋区史』では、1936年の時点で長屋が82棟、その他に木賃宿が多数あり、「不潔極まる、通風はおろか光線も入らぬような部屋」で人々が生活していたという。
今、この岩の坂を歩いても、貧民窟を連想させるものなど何もない。小さな喫茶店があり、米屋があり、酒屋がある。しかし、岩の坂から30mほど離れた場所にある焼き鳥屋の主人ははしっかりと「岩の坂」だったころの様子を覚えていた。主人は70歳。30年代生まれである。
「年寄りは今でも岩の坂って言うよ。わたしが小さい頃はね、まだまだ宿は残ってた。中には、100畳ほどの広さがある部屋がある宿があってね、そこに雑魚寝みたいにしてものすごくたくさんの人が寝泊りしてた。いちおう宿場みたいな感じでもあったから、有名なおヨネさんっていう人がいてね、手の指に竹を挟んでペチペチ鳴らして歩いてるの。それでどうってわけじゃないんだけど、それを芸にしてお金もらったりして、巣鴨あたりまで稼ぎに行ったりもしてたんだよ」
治安、という意味ではやはりひどかったらしい。体が不自由な人、ひどい病気持ちの人が大勢いた、盗みもひったくりも当たり前だった。もちろん「もらい子殺し」も知っていたが、主人は笑ったままであまり喋りたがらなかった。
そして、有象無象が蠢くような貧民窟は全部戦争で燃えてしまったのだ、と言った。
印象に残ったのは主人と隣で聞いていたご婦人が、なんだか楽しい思い出話をするように話したことだ。 どんな思い出を見ていたのか分からないが、半世紀以上も前の同じ場所、主人が思い出していた光景を、私は見ることができない。(宮崎)
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