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2006年6月 8日 (木)

『最後の相場師』と村上世彰

福祉に用いる資金はいちおう得ましたが、闘いはやめません。それは金が敵だからです。私はいまでも、いばりかえっている金持ちがきらいです。それは私の父母が金持ちに見下げられて生き、死んでいったからです。私は株式投資をおそらく、死ぬまで続けるでしょう。死ぬまでに全財産すべてを福祉基金にかえておきます。そうすれば、私は自分なりに生きたいがままの人生を送ったことになるのです[津本陽著『最後の相場師』(角川文庫)321ページより引用]

この世界に7年前にきて、どんな言い方をされようとこの株式市場で全うにして生きていこうと思っていた。その私が証券取引法を犯してしまった以上、この世界に私が引き続きいるのはおかしいということで、私はこの世界から身を引きます。(中略)頑張って税金をいっぱい払った人をほめたたえることはあるべきではないですか。(自分が嫌われるのは)儲けたからと。確かにめちゃくちゃ儲けましたよ。しかしそれの何が悪いのですか(6月5日村上世彰会見要旨。文章は主にロイター電に拠る)

上記『最後の相場師』は実在した是川銀蔵(是銀)という相場師をモデルにしたとされる。一方の村上某は日本では少なくとも形の上では本格的な「最初の行動型ファンド」であろう。
『最後の相場師』の主人公である佐久間平蔵は架空の人物でむろん是銀とイコールではない。だが冒頭のようなセリフを吐いてもおかしくない相場師がかつていたとすれば、下の村上会見との落差にあぜんとするばかりだ。

村上某が決定的に間違っているのは「めちゃくちゃ儲け」たの「何が悪いのですか」と問いかけている姿勢自体にある。もちろん商人は「めちゃくちゃ儲け」ていいのだ。私は代々商人の家柄だから儲けを悪いとは微塵も思ってはいない。ただやり方があろうとのことだ。
商業がいやしいとされていた江戸時代に石田梅岩は敢然と商業の正当性と商人の存在意義を説いた。ただ同時に守るべき徳目もあげた。倹約・堪忍・正直などである。その1つでも某にあったかという話なのだ。
某よ。あなたはそんな簡単なこともわからないのか。

あなたがいけないのは「めちゃくちゃ儲け」たからではなく「めちゃくちゃ儲け」るのが目的だったにも関わらず「株主にとっての企業価値の向上」が目的だったと叫び続けたからだ。
もう少していねいに述べよう。徳目も何もなく「めちゃくちゃ儲け」ることだけを目的とした商売さえ私はどうしても悪いとまではしない。ただそうだったら黙ってろということだ。お天道様の当たるところに出てくるな、ベラベラしゃべるな、黙って儲けて「いい生活」とやらを送っていろって。
それを某は「企業価値の向上」なるご立派な徳目を掲げた。『最後の相場師』の「福祉基金」に相当する。最初からそうだとわかっていたから私はあなたのファーストネームさえ書きたくないのだよ。

「頑張って税金をいっぱい払った人をほめたたえることはあるべきではないですか」も似たようなものだ。それはオレだと。こうした評価は自分でするものではない。自分の結婚を「ご成婚」と、妊娠を「懐妊」と唱えるような恥ずかしさだ。
まあそれはいいとして確かに村上ファンドは「税金をいっぱい払った」であろう。だがそれは底値で仕入れて高値で売り抜けた「儲け」の結果だ。某がそうやって「税金をいっぱい払」えたということは高値づかみで大損をした投資家も同時にいると同義である。
そうした投資家を間抜けとするは正しい。だが大損した投資家が本来払えた税金を某が払ったともいえなくもない。むろん両者の額がイコールでないのは承知の上で書いている。単に某の「頑張」りとはそうした程度だと言いたいのだ。
間抜けな投資家は某が信奉する「市場ルール」とやらで退場すればいいとのたまうかも知れぬ。確かにそうだが間抜けな投資家がいなくなると誰も高値づかみはしなくなる。そうすると高値で売り抜けることもまた出来なくなるという「市場ルール」はどう説明するんだ。あなたは間抜けがいたからこそ「税金をいっぱい払」えたのだよ。それのどこをどう解釈すると「ほめたたえること」ができるのだ。
あえて私は某のインサイダー取引は許す。引っかかった方が間抜けと見なしてもいい。でも、だからといって間抜けのお陰で儲けたという事実は揺るがない。

『最後の相場師』の「金が敵」「金持ちがきらい」を眉唾としても同書の主人公のセリフに某は勝てない。なぜならば『最後の相場師』は「闘いはやめません」「死ぬまで続けるでしょう」と断じているから。眉唾な建て前だとしても、そのために「闘いはやめ」ないというならば一つの生き方として評価もできる。
しかし某は「どんな言い方をされようとこの株式市場で全うにして生きていこう」と佐久間平蔵と同じ人生を賭けた決意を自ら語った。ならば「私はこの世界から身を引きます」という結論を導き出してはならない。

理由は2つ。1つは「この世界から身を引」くかどうかはアンタが決めることではなくて「市場ルール」とやらが決めるはずだという点。まだ当事者能力があると思っているのが高慢である。もう1つは「この世界から身を引」くとした時点で、いかなる理由があったとしても某が唱えていた「企業価値の向上」など嘘っぱちだったと満天下に公言したに等しいという点だ。度し難いのはそのことを気づいていない鈍感さである。
羊頭狗肉を羊頭狗肉だったと白状していけないとはいわないが、それは某の羊頭の方を信じていた無邪気な投資家に対する最終的な裏切りである。「オレを信じたお前がバカだった」と客に言い放つのは商道徳の基本中の基本を外している。

なお是銀が晩年住んだ地の最寄りは大阪狭山駅。村上某の出身地の最寄りは恐らく難波。南海電鉄高野線急行で40分。阪神でも阪急でもない。(編集長)

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